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日本の文化レベルは低いので私の暮らしも高くはない。生物は取り巻く環境に適応しなければ死ぬ。それだけのことだ。自分があわせなければ。それ以外に生きていけない。勿論自由ではない。自由であろうとする意識があるだけだ。そう考えることさえできなかった歴史がある。閉じ込められた社会はある。そして誰にも「ヘイフリックの限界」がある。 ・へ2・・・最近、テーマから大分離れている。これも蒙昧だろう。危なくなった会社で、自転車操業と言うが、商売も痒い所に手が届かなくなり、ストレスが講じて破綻する。ひとに油断があると。この世界からはじかれかねない。 ・そんなことはどうでもいい。はじかれるのは容赦はないだけだ。自分で決めることではない。社会のルールが決めることだ。用済みになれば要らない訳だがや優秀である理由はどこにもない。社会的ステータスは極端に悪くなる。囲いの中には入れなくなる。差別されても文句を言えなくなる。並ぶ列が違いもする。個人的には体調が悪くなり、運動能力が劣化している。なるほど遣わない脳は呆けてもくる。なべて人間の認識は「準拠枠」でしかない。「 ・へ2・・・自分の知っている世界でないと生きていけないが、実際の世界は、無限大ではないが地球サイズだ。どうやら少し、自分だけのサイトでものを見過ぎている。自己流は自滅への序曲になるだろう。>スケールのベースとなった二点の記念碑。
2009.09.30
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今起きて来て、何を書こうかと昨日の写真を見ていてふと連想したことがあります。上の写真は近所の鹿児島本線の上り線ですが、18歳のころここを寝台列車みずほで東京へ向けて往ったことがありました。昨夜漱石「坑夫」を読了して、感想を書こうか、思ってもいました。漱石はこの作品で何を書こうとしていたのだろうか。19歳の少年のカルチャーショックだろうか、銅山の貧困の姿だろうか。日本の貧しさだろうか、偏見だろうか。疑問はいくつもある。酷評されたとあります。当時のインテリから受け入れられなかったからでしょう。深刻な事実が書かれてもいる。私の発想は自分との接点でもありました。 ・ひとは、20頃までに何を社会に対して覚醒するかではないだろうか。自分がどんな社会で生きていかなければならないか。それを自分の体験で知ることでもある。「三四郎」のように「お上りさん」で生きるのか。天国を見るか地獄を見るかでも違ってくる。自分の見るもので刷り込まれもする。激しいカルチャーショックが何であるか?でも違う。私は、ひとりで旅立ちましたが、それは大きい目で見ると「集団就職」の一例でもありました。高校を卒業して熊本から横浜へ就職していったからです。 ・へ2・・・人並みのカルチャーショックを受けましたが、小説で読んでいた地獄のようなものではなかったし、話で聴いていた「タコ部屋」のようなものでもなかった。然し、若さの鋭さで感じる世間の偏見をどこかで感じてもいた。これはこれから自分が生きていく社会ではないと思った。「坑夫」とまでは思わなかったが、少年が感じたようなショックを覚えた記憶はある。そして彼とは逆ですが、都会から帰って出直しました。鹿児島本線の同じ場所に立って、何かの因縁を感じます。同じ線路の上で40年以上前不安いっぱいで未来を想像していましたから。
2009.09.30
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梶井の「ある心の風景」の中でその鈴の音は、「・・・美しい枯れた音がした。人びとのなかでは聞こえなくなり、夜更けの道で鳴り出すそれは、彼の心の象徴のように思へた。・・・病気に汚れた彼の血を、洗ひ清めてくれるのだ。」そして「俺はだんだん癒されてゆくぞ」。詩的なその表現の中にあるのは日本的な文学を想起させずにはおかない。 コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深夜の空気を清らかに震はせた。 ・これは、性病と肺病という絶望を抱えた若者が抱く束の間の安らぎを詩的に表現したものだろう。鈴の音に彼の心象風景を描いている。これは<レモン>と心象風景としてはパラレルなものでもある。「檸檬」では、爆発させたが、ここでは調和を図っている。 ・へ2・・・この小説の「鈴の音」を読んだとき、私は、歩く時にポケットに入れている鈴のことを連想した。これは、日光に行った時に子供のお土産に買って帰ったものだが、子供が使わなかったらしく、そのまま家に置いてあったのだ。ウォーキングのため暗いうちに家を出るので家の鍵を持って歩いている。その鈴の音を聴きながらリズムを取って歩いてもいる。梶井の小説に出てくるものは鈴とは違うが、人気のないところでよく響く。
2009.09.30
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9月度の起床時間と歩数集計と経過日数と累計歩数。数値だけは達成できたが、内容は良くない。改善の余地が大いにある。効率のよい運動にしなければならない。 年月日 起床 歩数2009/9/1 火 3;50 21,7442009/9/2 水 2;05 21,8002009/9/3 木 1;50 20,8772009/9/4 金 2;50 22,0672009/9/5 土 3;10 22,6932009/9/6 日 3;15 21,8512009/9/7 月 2;10 21,8872009/9/8 火 1;50 23,6082009/9/9 水 2;10 21,5272009/9/10 木 2;30 21,2092009/9/11 金 5;05 21,8022009/9/12 土 3;30 20,8512009/9/13 日 5;10 21,8742009/9/14 月 4;10 40,8172009/9/15 火 2;05 23,6562009/9/16 水 3;10 22,4492009/9/17 木 2;20 23,0372009/9/18 金 3;10 21,5632009/9/19 土 3;00 21,0112009/9/20 日 2;50 22,0262009/9/21 月 3;40 20,8912009/9/22 火 4;45 20,1352009/9/23 水 3;10 25,1312009/9/24 木 3;50 21,2002009/9/25 金 3;45 25,0752009/9/26 土 4;10 22,4222009/9/27 日 2;50 20,3762009/9/28 月 4;05 22,5872009/9/29 火 2;10 25,0422009/9/30 水 3;10 21,439 合計 682,647年月 全歩数 日数2008年4月 258,124 152008年5月 461,505 312008年6月 454,828 302008年7月 492,053 312008年8月 479,175 312008年9月 607,612 302008年10月 635,399 312008年11月 562,374 302008年12月 629,723 312009年1月 628,603 312009年2月 587,391 282009年3月 700,366 312009年4月 686,126 302009年5月 704,517 312009年6月 610,392 302009年7月 646,126 312009年8月 655,742 312009年9月 682,647 30累計 10,482,703歩(533日)
2009.09.30
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敦煌の洞窟から発見された中から 孟 姜 女 杞 梁 妻 一 去 燕 山 更 不 帰 造 得 寒 衣 無 人 送 不 免 自 家 送 征 衣 杞梁は春秋時代の斉の人。その妻が戦死した夫を思ってなくと、そのこころに感じれ城が崩れたという言い伝えがある。長城築城のために何万、何十万もの若者が犠牲になっただろうし、その妻たちもいた。無数の孟姜女がいたのだろう。山海関の孟姜女伝説もある。 築城の人夫として駆り出された男の妻が夫の身を案じて冬着をととのえてはるばる工事現場まで夫を尋ねたが、夫は過酷な労役のため既に死んでいた。それを知った妻は、悲しみのあまりに長城のもとで泣き崩れた。すると、にわかに雷鳴がとどろき、長城の壁が崩落し、そこから夫の遺骸が現れた。妻はその遺骸を抱いて海に身を投げて死んだ。 ・あるいは誇張があるかも知れないが、真実だろう。時代の冷酷な悲惨があり、人々には赤い血が流れ優しさと暖かい夫婦愛がある。 ・へ2・・・それこそ濃密な人間の触れ合いがあった。自然はあくまでも厳しく、圧政は過酷であればある程、人間は気高く、どこまでも崇高に成り得た。
2009.09.30
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断固として遣ろうとするなと言われる。強く遣ろうとするからストレスになる。ストレスは万病の源だ。然し、適度のストレスも進化のためには必要。最近、何かを強く思うことが少なくなっている。でも一言では言えない難しさもある。広く浅くが生きる上で利口なのかはよくわからない。全てに当てはまる訳ではない。どうやら、何も思おうとしないのではないか。だからのほほんと生きている。若いうちはまだ時間があるが、老人には時間がないというのはうそ。心身共に「健康寿命」か?これまで役に立たないと思っていた近世の文学や、四書が面白いと思うのは、いくつも空地がある。自分なりの。どうやら、研究しても価値がないと放置されていたのではないか。西欧流を真似しても所詮仮想でしかない。故郷が消去されかけている。消去してきたのは自分たちだ。消してしまえば綺麗になるが、自分たちの存在もなくなる。それは漠然としているが、何かを強く思うことが、いま必要ではないだろうか。何かを強く思い描いてそれに向かう。それが何であるか。 自分を見出すのには時間がかかるものだ。そして、何があろうと私も自分らしく生きている考えである。 「シキの人間が南京虫になっても、・・・・」(漱石「坑夫」より)>欅の葉が散り始め落葉が雨で濡れています。
2009.09.30
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ヒト脳が、宇宙と比較できるくらい広大な未知の世界だと知って思うことは、自分自身が世界を小さく見ている。そういえば、子どもの頃、遠くに見える山の向こう側は外国だと考えていた。それから、徐々に自分の世界は拡がったが、まだそれこそ「井底の蛙」だろう。生半可に知ったくらいのことで、社会が分かった気がしたりしたが、所詮針の穴からでしかない。自分の二つの目は、見ていても本当に真実を理解していない。漱石にしろ、これまで一般論で、また少し読んだくらいでもう文化の遺物ではないかと断じたりしたが、今、よく読んでみると含蓄があり学ぶべきことはまだ多くある。所詮、自分の知識など蒙昧でしかなく、「本の蟲」どころか「垢」だろう。 「汝らこころを上げよ!!」。これまで、まじめに真理を求める先人は迫害されたのだ。過酷な運命を生きてもいる。そうしなければならなかった。安易に得られる情報など大したことはない。ヒトの進化は、デッドロックを乗越えてきた。平坦な人生など取るに足りない。
2009.09.30
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朝から小雨だ。暗いので電気をつけている。3匹の子猫がいた筈だが、昨日から1匹しか見ていない。妻が出掛ける時皿に餌を入れて、私の座っている場所の硝子戸のすぐ近く置いてある。先ほどそれを見たが食べていなかった。小雨の中を100円ショップに、ボールペンを買いに行っていた。未だ「坑夫」を読んでいる。鈍い。大活字にも拘らず、さらにルーペも買って来た。できれば今日中に読了したい。明日は図書館に借りた本の返却もあるので。 ・雨の中で蝶が飛んでいた。時間がないのかも知れない。遊ぶ暇はないかも。昼飯を食べていつも暑いこともあり暫くして昼寝していたが、それでは血糖が高くなる。寧ろ動いていなければならないのに、寝ていたのはルールに反する。昼間も涼しくなり、充分昼からでも歩ける季節になっている。日中いつでも歩けるようになった。本も読みたいが、身体のためには運動もしなければならない。 ・へ2・・・明日からもう10月になる。あと3ヶ月で2009年も終わる。10年宅にいた白猫が4月に死んだが、2ヵ月前にさび猫が来た。ホルスタインの子猫が可哀想だと言ったら、飼って遣ろうかという顔をしていた。その気で餌をやっているのかも知れない。それを訊くとやぶへびになるので訊いていない。雨は夕方には上がるようだ。>宅の近くで。
2009.09.30
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見る者の関心が視る相手に向けられて、それが動く。動くものは卑しいという。働かない人が貴族で、働く人たちは身分が低い時代があり、その貴族趣味が日本の文学にも影響していると思う。言葉や文字は雅の文化があった。文学も上流社会のものである。女や子供は浮世絵やかるたを見るくらいの知識であった。説話や噺家の滑稽くらいでしか知らない庶民たちでもあった。文字も中国から伝来し、支配階級の中で発達したに過ぎない。 ・貴族は視たいものしか見ないから、庶民の生活などどうでもよかっただろうし、源氏のような人もいたかも知れない。大奥もいわば仕組まれた鳥かごのようなものだ。今なら「コウノトリ」の飼育のようなものだ。日本人の思考というものは、あまり進歩がない。 ・へ2・・・直ぐにお里の知れるような文学を善しとする。ぐうたらな作家を叱らない。甘やかしもしないだけだろう。すぐに干してしまう。タレントたちも一時の慰みものでしかない。使い捨てたがる。自分の人生も一緒に捨てていることを忘れている。
2009.09.30
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・或る意味で古い社会の中で、新しい生命が生まれているわけで、いつか衣を替えるように新しい生き方をしなければならないだろう。伝統として継承するものだけではこれからの、新たな事態に対応できなくなるときが必ず来るだろう。伝統ばかりにしがみ付いていたら生き残れないことにもなる。そこに自立した考えがないと、選択肢を誤ることにもなる。 ・へ2・・・私たちの時代が、全世界を敵に回して敗戦したという混乱期の中から出発しなければならなかったのであり、公正な世界観や、歴史観が正しく教育されたわけではなかったし、身につけるべき道徳についても日本人としての確立したものがないまま来たのも事実だろう。そのために「自由」と一緒に頼りなさと曖昧な思想を持っているものが多いのではないか。よき指導者が周囲にいないまま来てしまったのではないかという心の喪失感が確かにあるだろう。政治家や官僚、学者や芸術家が、確たるモラルもなしに仕事をしてきたのではないだろうか。そこに将来に対する危うさを感じてもいる。 ・しかし、少なくとも私たちは周囲にあるものから道具を探さねばならない。そうしかできないからでもある。それでも有難いことに、いまや多くの情報収集が手に入るようになった。道具はいくつもあるだろう。問題はその道具が使えるかどうかを確かめねばならない。意図的に流されるものがあるからだ。自立した信念を身につけて用心深くことをなすべきだ。 ・誰も障害のないものはいないだろう。ハードルは次々に出てくるものだ。それに耐えねばなるまい。おそらくある意味で直前の死に逝くものには苦悩や苦痛はないのだろう。あちこち故障があるから人間の証明だと思えば、少しは気が楽になってくる。
2009.09.30
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講座で、酸性雨に注意すべき点の話があり、降り始めで、粒の小さい雨ほどリスクが高いということだったが、その両方に合致するような雨の中を歩いてきた。逃れようもないとはいえないがつい、無視して歩いてしまう。排ガスの多い街の中を歩くことといい、意外と健康には悪い選択をしている可能性もある。莫迦なことをしてしまう。無知だからでもあるのだろう。それだけリスクが高いので、行政は知らないふりをしているし、研究者も発言しようとしない。僅かに、知識を披歴するにとどめている。 ・進歩的な科学者が、業界から攻撃されて潰された例はいくらもある。大企業に不利益なデータを作らせない。有害な化学物質がそうして世界中にばら撒かれた。戦争では人体に有害な化学兵器が使われている。戦争屋たちが暗躍して、兵器を売っている。それを平和、平和といいながら、国家が裏で買い込んでいる。 ・へ2・・・酸性雨に濡れて歩かねばならない。多くの微生物たちが死滅しているだろう。やがて人間にもその時が来る。気付いた時は体中が汚染されていることだろう。或いは子孫の身体を蝕んでいることだろう。たとえば「血の雨」でも降らなければ解からないだろうか。
2009.09.30
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人生は、経済だけに左右されるのではないし大金を手にすることしか考えないのが精緻な頭脳といわない。人間は、もっと政治的動物だろう。このストレス社会の現状で追い詰められた人間の不安や苦難はどこから来ているのだろうか。おそらく世界で起こっていることは、鎖のようにひとつに繋がる病根があるはずだ。歴史の史実が整合しないのは、させない勢力が強いからだ。然しそれでもいつか将来に対する明るい希望を持つことができる。それは、歪めているものを見出し、ただ現在のように無思慮にサーチライトをあてるのではなく、太陽のような「やわらかな光」をあてる必要がある。自然光でみることによって、影になっている部分をも見ることもできるようになるからだ。何よりも雄弁なのは、真実だ。世界で起きている事実を冷静にみていけば、何が間違っているか、分かる。人間の頭脳はそれくらい理解できる「精緻さ」は持っている。
2009.09.29
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面白いもので部屋の蛍光灯のランプが切れたら、スタンドも可笑しくなり、それも昨日買い換えたら、途端に部屋が明るく感じる。僅かの差なのだろうが。ひとは僅かの違いを気にしてしまう。頭まですっきりした気になる。これまで薄暗いところで漱石を読んでいたのだろうか。「坑夫」は、19歳の主人公の少年が、銅山の炭坑夫になろうとして文化ショックを受ける物語だ。漱石の視点が好きではないが、勿論同じではないが同じような経験を19歳の頃したことがあり、その時のことを思い出している。 ・完璧な優しい社会であれば、ひとは努力をしなくなるかも知れない。安心、安全な人生が約束されていて満足するだろうか。悪いところは質していかねばならない。だが無闇矢鱈に急ぐべきではない。ひとには個性がある。人間性を無視してはならない。楽をして生きれるようでは進歩もない。甘い汁を何時までも飲んでいてはならない。朝日が昇り、夕方には日が沈んでしまう。その時間をどう使うか、は自分の問題でもある。 ・へ2・・・ひとはコストを払っている。時間という不可逆の存在は誰にもある。「坑夫」の中で、南京虫に刺されて、それにも慣れていく少年がいる。それを辛いと考えるかどうかだ。貧しさを体験することは貴重でもある。結婚がそんなに大変なことか、そんなに勇気のいることかと息子にいう父親が、漱石の小説の中で出てきたことがある。結婚することに勇気がいるのではない。それを勇気とは言わない。今の人に、それが判るだろうか。
2009.09.29
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時を止めることはできない。時代は、私たちを超えて進むだろう。私たちは自分の保身だけを考えているが、世界は違うだろう。私欲を捨てなければ、得られるものは手垢のついた野望でしかない。慾望をを棄てて得られるものを求めるべきだ。>ゴールデンシャワー
2009.09.29
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遺伝子に関係する病気でも、発症するのとしないケースがある。遺伝子をもって生まれたから、必ず発症するとは限らない。ナルコレプシーの遺伝子をもった全員が発症する訳ではなく、発症しても完治もあるし、完治に到らなくとも生活上に殆ど支障のない状態に戻ることもある。双子のケースで遺伝的な素因があるのに、片方はストレスが少なく発病しなかったのに、他方は過度のストレスに晒されたために発病した。睡眠不足やストレスの持続などの環境因子が発症を促進する。素因があっても発症を予防できる可能性があるということに外ならない。それは、遺伝的素因と環境因子で病気は発病するのであり、正しい知識さえあればうまくいけば予防できるだろう。必ずしも私たちの社会が、すべての個人の生命を尊重している社会ではない。勿論、複雑で且つ多くの難題を抱えながら生き延びてきた生物種でもあるヒトであるが、無駄な血も流してきてもいる。全方位で生きてきたとすれば、遺伝子研究は、種としてのヒトの生命の可能性を暗示している。
2009.09.29
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・誰もみな、少し違うだけの人生を生きている。同じ人はいないだけだ。歩くのは危険が伴うがそんなことは構っておれない。ひとは外に出て歩くことで自分の運命を切り拓いても来た。人生にリスクはつきものだといえる。これではだめだと思えばやり直すだけだ。それが失敗でも仕方がない。何度かそういう経験をしたから慎重になった。そしたら考え過ぎて行き詰まりもした。そして数年前、また方向転換した。何も利口である必要はないのだ。少数点以下が何位であろうと、それが何だろうか? ・誰も、私の評価をするつもりはないのだ。自分の自身の評価が何であろうと無関係なのだ。誰も私に聖人になれと期待してもいないし、命令もしていない。思い込んでいるのは自分自身でしかない。私はこどものころ、自分で言うのも可笑しいくらい内気だった。それはいまなら原因がわかる。環境と素質がそうさせたのだろう。しかしそれが自分では大いなる悩みであったし、内気を克服することが大きな課題だった。それは自分の個性であってどうしようもないことだと気づいたら楽になった。 ・自分が普通の人間だと気づくまでにハードルがいくつかあるのだろう。それを一生超えられないひとがいる。引っ返して来れば何でもない。跳びこえるまでやり直せばいいのだ。静かな雨が降っていて部屋にいて気がつかなかったが、少し濡れながら歩いてきた。ひとは歩いて脳を解放したのではないか。くよくよ考えてもいい考えは浮かばないのではないか。自分を縛りあげるようなことばかりしている。自己卑下していては、明日は来ないだろう。 ・へ2・・・余計なことを考えるから不幸になるのではないか。自分以外のことを心配していればいいのだ。自分のことは何とかなる。ちゃんと守ってくれる自分の脳がある。目がさめれば一瞬にして、数十万か、数百万の情報を処理してくれる。
2009.09.29
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・「さよならだけが人生だ」の鱒二と太宰の違いは庶民の側に立つかどうかだろう。太宰の自分への拘りは漠然とした未来への不安である。滅びていく側に自分を措くからだ。繰り返される恥ずべき半生を告白して自縛する。第二次世界大戦の背景として軍国主義が文学をも自由を弾圧した。そのなかで作家たちは酸欠状態を呈していくが、太宰は非日常の中で元気である。 ・へ2・・・太宰は戦争の中でむしろ作品への意欲が高まった言われる。戦争の受け止め方が、いわば滅びのこころに通じていたのだろう。「女性語り」という手法で時代の圧力を外そうとした。戦争反対が、妙に姑息な「女性語り」になったまでだ。当時のインテリの弱さは、精神力の脆弱さでもある。暴力の前で無力でしかない。 ・時代の閉塞はねじれた文学を増殖し続けた。哲学なき、あるいは宗教なき、文学が夢を失ったのだろう。吝嗇な経済が文学者の心を貶めた。その証拠に世を動かす胎動はなかった。 ・へ2・・・それこそ、短小軽薄にすぎるだろう。漱石の「即天去私」も曖昧でしかない。そして、世の中では、未来を約束してくれる宗教というものが必要なわけが転がってもいる。小説では人間の一部しか表現はできない。すべては終わらない物語であり、すべてはショートしてしまうからだ。
2009.09.29
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前回の梶井に比べると漱石の作品の量は相当多い。結構長い作品があるので、時間がかかっているが、大活字で読んでいるので、随分読み易くはある。半分義務で読んでいる所があるが、やはり読ませるように漱石は書いていると思う。当時は流行作家でもあった。言葉錬れてもいる。これは数理に明るい人の作品でもある。計算し尽くされている。然もくだらない。くだらないことを綿々と書いて平気だ。小説とはこういうものだというのだろう。 ・漱石が何故「坑夫」のことを書かねばならない理由はない。書いても誰も文句を言わない社会だから書いてもいる。もっと書くべき人間はいたのだろうが、漱石はあちこち食い荒らしたようなことを多く書いている。「吾輩は猫である」「明暗」「こころ」も遊びの世界だろう。それでも読者は恐れ入って読んでいた。 ・へ2・・・何が何やらわかない世の中だ。あらねばならない世の中でもない。為るようになる世の中でしかない。漱石の小説もよく読めば違うところに往きあうような気がする。これから夜長のシーズンになり、読書の秋にしたい。
2009.09.29
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6月25日今朝の日本時間2時過ぎバンコクを立ち、福岡空港に8時前にタッチダウンして先程自宅に帰りました。現地に着いて解ったのですが、福岡市内からツアーに参加した中年の夫妻と私たち夫婦の4人だけのツアーになり、現地ガイドの女性がずっと同行してくれたので、プライベートガイドのようになりました。恐らく政策ツアーになったようです。行きがけは雨天で、雨にぬれましたが、雨期のバンコクで、殆んどツアーの期間中雨にも合わずにすみましたので運が良かった。 ・写真は800枚以上撮りましたので、これからアップするのに迷うことになりそう。同行したご夫妻は、学生時代に東京で知り合い、熱愛の末国際結婚されたそうで、陽気な二人でした。ご本人たちに了解を取りましたので、近く写真も紹介しようと思います。盛り沢山に、ネタを仕入れてきました。楽しいツアーになったのもお二人のお蔭だと感謝しています。 ・へ2・・・未だ帰宅したばかり、これから整理しながらブログで書いて行くつもりです。どうにか福岡は雨が多かったこともあり、庭の野菜たちも元気そうで安心しました。5日間ツアーでしたが、タイの古式マッサージとか、象に乗ったりとして、リラックスできたので、殆んど疲れはないようです。今体重を計測したら、52.6kgでしたので、どうにかリバウンドもしなかったようです。一休みしてまた庭の手入れでもします。 >「暁の寺」(ワット・アルン)メコンを渡って見物しました。これまでタイに対して自分の無知をある程度解っていたので、どうだろうか、と思っていたが、観光ルートを周っていて、少し、やはり一つのタイの存在感を感じていた。日本とはまた違う考えを持つ「上座部仏教」とは、近代化の中で果たしてきた軌跡があったに違いない。殊にホテルで、テレビの番組を垣間見て、この国の混沌を感じた。ここでも生き残りをかけた鋭い闘いがあるのだろう。 ・いつもは10人以上の催行のツアーの筈が、たった4人に一人のガイドというツアーを経験することになった。こんなことは私たちは初めてである。日本の観光客が減少していることは、地元の観光関係者には深刻でもあるようだ。ガイドも仕事がないとこぼしていた。生活がかかっているのは、どこも同じだ。バンコク空港に着いて、何度も見た空港内の様子だったので、ガイドに訊いてみたら、数年前にできたばかりのロビー、やはりその閉鎖の現場だと言っていた。そして、短い間ではあったが、期待以上のものがあって満足もしている。 ・へ2・・・一日のトータル歩数は、 ・21日・・・ 6,017歩 ・22日・・・10,867歩 ・23日・・・13,122歩 ・24日・・・21,321歩 物見遊山に徹した旅であったが、感じるものもあったと思う。其れがどの程度のものであったか、それを伝えられるだろうか?ひと眠りしたので、これらから少し動いてきたいと思う。やはり体がやや重たいようだから、無理をしないでウオーキングも元に戻すつもりでいる。体重の移動もないので少しは安心した。感想は時間をかけて取り組みたいと思う。 東洋のベニスと謳われるバンコクの面影を残すダムヌァンサドゥアク水上マーケットは、欧州からのバカンスの人たちが多かったようだ。こういう場所が好きなのではないだろうか。私は、マーケットまでのボートでクリークを走るのが爽快で楽しかった。かなりのスピードで殆んど流れのない掘割のようなところを走り、周囲の熱帯の風景に見惚れた。シャッターを切りつづけていたら時の経つのを忘れたようだった。妻から嗤われてしまった。 ・まだ、その写真をゆっくりとは見ていないので、少し落ち着いてから見てみるつもりだ。バナナをはじめ自然の恵みが溢れていた。マーケットでは新鮮なヤシの実を飲んだが、1個20バーツだった。冷えていたので、とても美味しいと思った。古い家屋が沢山見られたが、昔のままの生活が営まれているようだった。どんな暮らしなのだろうと、思ったが、やはり想像することができない。 」 ・へ2・・・玉石が入り混じっている混沌があるが、どちらがどのように後世に残っていくのだろうか。それは現代の人たちがどのような世界観を持っているかで変わっても来る。君主国が、上座部仏教によって維持され、保護されてきたことは否めないに違いない、それがこの国の国民にどうのような影響を与えているのだろうか。トラックに乗った赤色のシャツを着た数人の若者たちの姿を見た。現地ガイドは何も言わなかったが、ガイドの仕事の中には、外国人に自国の国民の心情をできるだけ率直に伝えることでもあるのではないだろうか、とふと思った。ガイドは余り触れたくなかったのかも知れない。
2009.09.29
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雨が降り子猫の姿がなかったが、今朝方、子猫の鳴き声が薄暗がりの中隣の庭から聴こえてきていた。ブッシュになっている辺り。台所のステップのところに餌を置いて、早朝ウオーキングに出かけて、帰ってきたら餌を食べていた。今は天気も上がっている。どうやらウシ色の子猫(ホルスタイン牛のような猫)1匹しかいないので、あとのホルスタイン子猫と黒の子猫は、どうしたのだろうか.近くに親猫がいるのは見ている。違う場所にいるのかも知れない。また、今餌を置いて様子を見ることにしているところだ。 ・それほど寒くはないが雨だったし、濡れていたのではないだろうか。野良ネコでもあり、子猫は弱い存在でしかない。何かあれば死んでしまうに違いない。すぐいなくなってしまうという話だ。誰から飼われているのであればよいが。僅かのチャンスがあるかないかで違いもする。宅に来た猫は皆自分で近寄ってきた猫たちだが、今餌を食べに来るの猫は、逃げ回ってばかりいる。数か月餌を妻がやっているが、近づいてこない。 ・へ2・・・ひとに懐かない猫もいる。余程いじめられたのではないだろうか。三匹の子猫のじゃれあうのを見たが、とても微笑ましい気がする。自然と笑いがこみあげてくるようだ。猫好きとか嫌いとかではない。それは人間が赤ん坊に対して持つ遺伝子からくる自然の感情だろう。サビ猫とホルスタイン猫と、黒猫と元気で育ってほしい。
2009.09.29
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大進化と小進化。自然淘汰と適応進化。生存し繁殖することで遺伝子を次世代に 伝えること。自然淘汰に目的はなく、進化は価値とは無関係。身につけたものを失う退化も 進化であること。恐竜の絶滅も進化の過程である。 遺伝子・蛋白質・酵素・神経・ホルモン・脳内物質から行動が機序であり、人間は多細胞の生物 であること。ある機能を果たすための行動のセットであり、戦略の「進化」を示す。 ダーウィンの観察によれば、雄間競争と雌による配偶者決定であり、大きな体などが雄に選択され 雌はシンメトリーや鳴き声など選択の基準。 社会的存在のまえにひとは生物。
2009.09.28
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このセッションの目的は、クランケとしてどのような感情が生じ、生活にどのような影響を及ぼすかを認識 しながら、ことばとしてどう表現するかだ。病気とともにあるとは何か。その気持ちをことばとして表現する ことができるだろうか。個人としての心理的適応と家族とのかかわりや、社会的環境とはそもどこまで個 人的支援をしているのか。自己紹介しながら、自分の感情を認め、人生を肯定できるようになるだろう か。最後に「インテグレーション」しうるだろうか。どうやら、抽象的なコンセプトが支配している日本では、 患者としての視点は脆弱である。医師たちが、因習的な優越を喜捨するだけでは足りない。病人が 病因と向き合い、自分の感情と環境を認識して、化学的反応としての機序を理解することでもある。 それは、正しいメディカル・ステージを知り且つ生きることを学ぶことであり、自分の人生を肯定すること だと思う。そして、自分らしく死ぬことができるだろうか。願わくば、自分の脳がとどく未来への憧れである。 21世紀を僅かに過ぎたいま、世界は混迷し、「無知と貧困」が罷り通り、個人の人間の尊厳は守ら れてはいない。権利は、どこまでも低く、義務だけが先行している中で、環境は悪化の兆しさえ見せ ている。弱いものがただ切り捨てられるだけでは、社会は偏頗となり、個人としての病人はあらゆる 面で疲弊するだろう。そこにあらゆる未来はない。
2009.09.28
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種の絶滅の急激さとは、環境の急激さに必ずしも比例せず、緩慢な環境変化が進行し、ある臨界点 を超えた瞬間に一気に絶滅するのだという。たとえば、水生の生物は、じりじりと死んで行くのではなく、 ある許容範囲を超えると一気に絶滅するパターンをとるのだ。それまでは、元気に泳いでいるのだとい う。他の種は平気だったりする。たった1℃~2℃の境界線でしかないという。或いはその差はコンマ以 下もある。徐々に進む環境の変化に対して生物は、寧ろ鈍感でさえある。危険なものから逃れようと する余り、その時期を見失うのかも知れない。自分に口実を与えて何時までズルズルと日々を過ごして しまっている自分がいないだろうか。やがて、自分だけの「ヘイフリックの限界」がある。 身体を張ってひとは、生きているだろうが、上を向いたり、下を向いたりして前を見損なうらしい。 今の自分に気づかないまま時は流れて、秋は深まるのだ。
2009.09.28
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漱石が、何に関心があったか、の結論が作品なのだろう。してみると、彼の関心は偉人でも、創造的な人間でもなかったことになる。自分の器にあったサイズで作品を書いたのだしか言いようがなくなる。それこそ些細な人間のありようを書いている。どこにでもいる人間のことでもある。時代背景がないわけではない。苦悩したから、神経衰弱にもなった。自分のエリアでものを書いただろう。先人たちのいた場所は広々としたスペースではなかったともいえる。ひがみと偏見と固定観念を払拭していた訳ではない。世の中にばらまいたものは夢ばかりではなかった。 ・世間知らずの19歳の家出をした少年の物語「坑夫」を読み出している。作家のミステリー仕立ての作品を、彼の死んだときから逆に読んでいる。どうして「明暗」「こころ」なのだろうか、作家の偏執が見えてくるだろうか。彼の到った境地は、作品の中にもある。日本仏教の他力本願が齎しているものは小さくはない。人間を小さくしてもいる。それこそ国家や文化が人間を小さいサイズに押し込めようとしたのではないだろうか、とさえ思えてくる。 ・へ2・・・変な政治が、変な人間を作り上げている。それが自民党の議員ではないだろうか。まだ続けるつもりらしい。同じ袋を使って、創り上げていくつもりらしい。やり直せば再建できるという発想が姑息だ。彼らの想像力とはその辺でしかない。他力本願で政治をするつもりでいる。世襲主義などということしか考えないような人間にできることは小さい。スケールの小さいことしか考えていない証拠だ。民主党も屋台骨を残して、社会改造もない。
2009.09.28
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正常な体細胞は分裂寿命をもつことを発見したのがヘイフリックだ。これを「ヘイフリックモデル」または「インビトロ細胞老化モデル」という。ヒト胎児の肺の線維芽細胞の分裂および分裂停止に至る過程は四つの相に分かれる。・相1は、培養環境への適応期・相2は、対数増殖期・相3は、増殖低下期・相4は、増殖停止・死滅期この発見で、がん細胞と正常細胞と老化細胞の関係が明らかにされたことが特記される。何故、学ぶのだろうか。それは私と私以外の境界を知ることでもあるだろう。環境への適応期から、細胞を膨張させて行きやがて緩やかに低下して遂に停止する。そのプロセスをたどりながら喜怒哀楽を味わうのであろう。どれだけ衒おうとそうでなかろうと人生はそれだけでしかない。何も自己卑下することなどないと思う。あるがままの人生を愉しめばよいのではなかろうか。さて、多くの出来事が起こり、人々は混乱しつづけている。なにが真実なのだろうか。すべてが明白ではないし、虚偽もあるだろう。殆ど私たちが、これまで経験したことのない情報社会がダイナミックに眼前に展開しているだろう。私たちは、非力を懼れず、この現実を「よく視たい」と考えている。
2009.09.28
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昼間少し晴れたがまた雨が降り出して、子猫の声がしなくなった。どこかへ行ったのだろう。朝の餌を食べていたが、子猫たちだろうか。いま妻が帰って来て、餌を皿に入れて、そのに出しているが、どうやらネコの姿はないようだ。野良ネコの暮らしも厳しい。病気もあるし、生き延びる可能性は高くはない。餌を置いている場所が、私のいるすぐそばにあるので、時々覗いているが、近づいてくる様子がない。 ・もう外は暗くなっている。18時頃には日の入りになっている。予報では、夜は晴れるとのことだったので、今夜のウオーキングは、少し遅めに家を出ようと思っている。雨だったし、漱石の「坑夫」を読んでいた。随分読むスピードが遅くなっている。講義までには間があるのでゆっくり読むつもりだ。それにしても導入部がモタモタしたものに感じる。作家の見識は高いが、ストーリー性はどうなのだろうか。 ・へ2・・・漱石や鴎外の作品を読んで、日本の近代文学は始まったと言って過言ではない。然し、その作家の形質の世界観が、どうかということになると、必ずしも弟子たちを導いた先はどうなのだろうか?人間のこころを描こうとしたが、その視点がどうなのだろうか。日本文学の不幸もそこにあるかも知れない。先人の功績があるとしても、引き継ぐものが育っていないのではないだろうか。それは教育だろうか。未だ雨が降っているので、雨の中を傘をさして少しだけ歩くことになりそうだ。
2009.09.28
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2009-6 タイツアー より<1日目>福岡空港発~バンコク着 11;45~15;05 宿泊:トントラホテル <2日目>バンコク観光 ・ワット・アルン ・王宮 ・エメラルド寺院 ・黄金の涅槃像 ・タイ式マッサージ ・「タイスキ食べ放題」 <3日目> アユタヤ観光 ・ワットプラマハタート ・ワットプラシーサンペット ・ワットヤイチャイモンコン ・バンパイン離宮 ・タイ古典舞踏ショー <4日目>バンコク観光 ・タムヌァンサドゥア水上マーケット ・民族舞踏と伝統結婚式など ・象ノリ体験・ビレッジショー <5日目> 帰国 バンコク発~福岡空港 0;50~8;006月20日福岡を昼前に立つので、今頃は、BABGKOK の空気を吸っている。どんな大地なのだろうか。何故「黄金のワット」なのだろうか。輪廻転生を切断できないだろうか。悟りを得られない人がいなければならないだろうか。行ってみないと分からないことがあるに違いない。ひとは最期まで辿りつかないままでいられるのだろうか。分からないことが分からないままでいられるのだろうか。産まれたことを悔やまないでいられる世の中にできずにいる。 ・明日の一日はどんな軌跡を行くのだろうか。期待と不安があるが、なるようになる。このままであろうとなかろうと、人は自分の人生を生きるしかない。ありのままであろうとすることだろう。それを懼れてはならない。なるようになるからだ。また、逢える人にはこのブログで逢えるだろう。そろそろ今日にお別れをする。尻切れトンボのように。 ・へ2・・・親の敵のように写真を撮ってくるつもりです。Last updated Jun 20, 2009 10:21:14 PM6月21日ブログBANGKOK へ いつものように目が覚めたのは、やはり習慣になってしまっている。まあ、無理をして眠るのも意味がないので、起きてきた。然もブログはメンテ中だ。これから、殆どやっていなかった旅の最終チェックでもしながら、朝食の準備でもするつもりでいる。病気もちなので、航空機の利用には気を使わなければならない。事前に話を通してはいるが、未だに旅行社の対応はよくない。もう何度も利用している会社で、そろそろ覚えてもらっていいと思うが、なかなかだ。 ・福岡空港までのアクセスは、東区の自宅からは近いので便利である。車で行けば10分位で着くだろうが、大抵電車と地下鉄を利用する。それでも30分少しで着く。福岡空港は便利で有名だが、もしものことがあったらどうするのだろうと思わないでもない。何か無いと考えないというのが、行政のよくある姿勢であろうか。タッチダウンまでの福岡市内の上空を通るルートが、志賀島、海の中道方面の玄界灘から進入して、博多湾を横断していくのだが、丁度自宅の近くを通るので、楽しみにしている。これまでしみじみとみたことは数回しかないが。それでも、毎日、散歩の途中で、北から南に向かって滑空していく旅客機を眺めている。 ・へ2・・・航空機が、福岡空港をテイクオフして、どういうルートを通って目的地に向かうのかイメージするのも、最近はグーグルアースで見ていることが多いので、現実的になってきたようだ。去年の「漓江下り」をした時は、その前に何度もグーグルアースで見ていたので、違う楽しみ方をした。処で、昨日のウオーキングをしていた二人の女性のことを書いたかというと、言わなければ分からないが、あるイメージが浮かんだからだった。それは、亡くなった母が、私の話を友人に話して聴かせているように思えたのだった。ふと、そんな気がしてはっとした。相手の顔も見えない夜の帳の中で、二人の女性がわが子の話をしていた。いつか私も友人と彼の生まれたばかりの赤ん坊を見ていて、「俺たちもこうして生まれたとき親から見守られていたのだろう」と話したことがあるが、いくつかの思いが重なっていると思えた。見ているが見られてもいるという感性がそうさせるのだろうか。さて、今日は、昼からツアーの世界である。
2009.09.28
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その軽さを感じて生きているが、振り返ることのできない現実がある。こころの寒さを感じているだけでは、何もできはしない。苛立ちだけでは、一歩だって進みはしない。ひとびとの悲鳴が聞こえる。苦しみを生みだしている悪臭はどこから来るのだろうか。我慢して食べている。日々の単調な旋律は脳細胞を狂わせてしまう。いつまでも繰り返している。ドアーを開くフレーズは、いつも同じ。捩じれてしまったコンセプトで世界を語ること?世界で争い続けている人たちの中に入って行き、「もうやめろ!」と説得出来る力などどこにもない。腹を空に向けて足をバタバタしているだけだ。日本人の感性は、どこに行ったのだろうか。底の浅いことばで、喜怒哀楽を表現することができはしない。まあ、そのうち腹を切り裂いて出てくる未来の子供たちがいる。それを私たちは見ることができるかは知らないが、いつかそう日が来るだろう。そう願うばかりだ。
2009.09.28
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ルイス・フロイスの「日本史」。当時公家や僧侶がしきりと書いていた日記の習慣があったにも拘わらず、その日記等は個人的なものばかりで歴史的価値はない。 フロイスの「日本史」は、木戸氏は単なる二等資料だというが、歴史学的には一次史料としての価値が充分ある。つまり、文書として事件の発生に付随した記録・資料の価値を理解していたかどうかなのだろう。当時の文化人には、権力者の悪口は残しても、日記を残すことが、一次史料になるという観念がなかった。遺構だけでなく、遺文も重要な史料であり、たとえ日記でも生の資料であれば充分一次史料になりえる。文化の蓄積とはそういうものではないだろうか。フロイスの残したものが日本人の歴史の役立つとは不思議なことである。西欧人と日本人の文化の差だろうか。歴史は消えるものではない。悪いものを除去しようという考えは間違いだ。何でも「水に流す」というのでは、いつまでも不正が見抜けなくなってしまう。同じ過ちを繰り返すことに繋がる。日本人が、これから世界で生きていくためには、悪いことをすれば、「水に流す」ことはできないし、責任を取らされるということを肝に銘じなければならない。たとえ「日記」であっても、それは個人のものでありながら、然も一次史料に耐えるものを残すべきではないだろうか。それが社会性をも具有しているものであるべきだ。
2009.09.28
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よく考えると、人間はそれこそ一寸したことで死んでいる。周囲の小さな石もそれが高いところから落ちてくれば致命傷にもなる。自転車から落ちても、ベットから落ちても、死ぬことがある。毎日使っている階段や、風呂場でだってはずみで怪我をすることがあるし、それですまないこともある。それから、最近では、何十年も真面目に仕事をしていた公務員が、一回の酒酔い運転でや交通事故で懲戒解雇になったりする。人は、たった一度の出来心で一生を棒に振るかもしれない。 病気も、老化も外部からみれば長い時間をかけて進行しているが、本人はそれに気づこうとしないかも知れない。人間は、先祖の形質を遺伝子で受け継いでいるが、いくつかの変異を起こす細胞も受け継いでいるが、反面それを修復する免疫も持っている。しかし修復できないときがある。それがアポト-シスや病気の原因にもなる。生命の営みの中から発生する。 例えば、戦争でさえ、外部から見れば突然起きるように見えるが、実は多くのプロセスを経由している。第二次世界大戦も、多くのそれまでのプロセスがあった。 それは、経済であり、政治的情勢であり。大衆の意識でもあっただろう。だから、よく国際社会の状況を観察すれば、この世界の健康状態が解かるのかも知れない。それの処方箋を提示できないのは、学者たちの怠慢だと思う。原因は、客観的で、冷静な目を持っていないからだ。 忍び寄る危険を知らないで生きている。ひとはたった一度のダメージで死ぬかも知れない。どれだけ用心深く生きていても、最期のたった一度の失敗で命を失くすだろう。不運は、ひとに纏いつくものだからだ。病院の検査を何百回受診しても最後の一回で不治の病が発見されるかも知れない。ふとした気持ちの弛みが、或いは驕りが最後の引き金を引いて、決定的なダメージになるかも知れない。 どうも、そんなことばかり考えていたら、厭になってしまった。目を違うところに向ければ良いだけだけれど・・・。
2009.09.28
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視床下部は小さな神経核の集積でそれぞれが身体の衝動や欲求をコントロールしている。間脳の一部で脳と身体の橋渡しである。重量は脳全体の 300分の1 しかない。単純な飢餓感が生まれ、みたされるのは視床下部だ。 ホルモン、ニューロンペプチド、神経伝達物質の複雑な働きで、視床下部には身体の状態がリアルタイム。体内のブドウ糖、ミネラル、脂肪のレベルが低下すると、血液や胃、腸、脂肪細胞からその情報が視床下部に送られる。その情報が皮質に伝わり脳の各部分を呼び起こして空腹感を起こし、一連の食べるという行動になる。こうして食べ物が体内に入ると、身体は満足したことを視床下部に伝え、そこから皮質にメッセージが送られ、食事止めるという意識が生まれる。 アメリカ人の3人に1人、西欧で4人に1人が肥満であるという。(但し、データが古い)毎年大勢の人が肥満の合併症で早死にしている。世界的な規模で過食症や拒食症が拡がっているのは、そう簡単な仕組みだけではない要素があるのだろう。視床下部それ自体が、摂食障害を引き起こすことある。 食欲のコントロール中枢にある視床下部の「外部核」と「腹内側核」のどちらかが損傷を受けると前者は食べなくなり、後者はいつまでも食べつづける。但しこの二重構造は単純ではない。だから身体は飢えていても、空腹感を覚えなくもなる。 視床下部は大脳辺縁系の奥深くにあるため、外部からの損傷はめったにない。機能不全を起こす最大の原因は、メッセージをやり取りする神経伝達物質だ。実際に食欲不振の人はセロトニンのレベルが異常に高く、食欲亢進の人は低くなる。 忘れてならないのは、文化的側面。痩せたいという文化だ。食欲不振の人は自分に厳しく、がまん強く内省的な傾向があるのに対し、食欲亢進の人は外交的で気が散りやすく、衝動的である。そのため心理的治療も行なわれる。
2009.09.28
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何時も同じ場所に行くと、赤信号に変わる。早く交差点を渡ろうと思い急ぎ足に歩くところで不思議と前の信号が赤に変わるのが続いていた。それまで、余り考えていなかったが、それが続いていたので何故だろうと思っていたが、それ以上考えずにいた。何故か、がそこで止まったままになり、えっと思い。後ろを振り返って直ぐに解った。そんなものだ。思考が停止しているか分からない。何のことはなかった。 ・いつも同じ方向からウオーキングをしている。和白交差点を渡るのは道路の狭い方から歩いて行く。だから、大抵青信号になるまで待たされるので、青になったらすぐに横断場所を歩き出す。100mも離れていない信号は、和白交差点の信号とコンピュータと連動している。だから、大体同じ歩調で歩く、私の時間は一定していて、ある場所まで来ると人の渡る赤信号は点滅し始める。先ず早く渡りたいという心理が働いていた。それが赤になると面倒だになり、何故赤になるのか、という疑念が大きくなり、そればかり考えて思考が停止したのだろう。下らないことを考えていた。 ・へ2・・・人間の迷いなどというのは大したものではないことが多いのではないだろうか。漱石の小説も、その事を云っている作品が多い。相手に自分の気持ちを伝えるだけのことができないで苦悩している。それが文豪という作家が書くから文学作品になってしまうだけだ。一枚のテーブルの上に、要点を並べてみて、上から見れば大抵詰まらない。
2009.09.28
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雨のようですが、やっぱり歩いてきます。最近数値が良くない。努力のしどころがある。チャンスを逃すと遠回りをしなければならなくなるし、取り返しの利かないこともある。行けば何とかなる。ならなければ中止してもよいし、手は必ずある。こころが萎れていなければいいだけだ。雨は槍にはならない。食後に運動することが必要だ。じっとしていては始まらないこともある。靴は無理のようだから、草履でも履いて行くことします。 ・近くで子猫たちの声がしますが、雨で困っているのではないだろうか。雨くらいで困るものもいる。それを思えば、傘をさして歩くくらいなんでもない。では、そろそろ。
2009.09.28
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今年と去年の9月を比較してみると、やはり去年の方が活動していた。これはよくない。意欲がなくなりつつあるかも。 年月日 起床 歩数 備考2009/9/1 火 3;50 21,744 2009/9/2 水 2;05 21,800 2009/9/3 木 1;50 20,877 2009/9/4 金 2;50 22,067 2009/9/5 土 3;10 22,693 香椎花火2009/9/6 日 3;15 21,851 2009/9/7 月 2;10 21,887 2009/9/8 火 1;50 23,608 2009/9/9 水 2;10 21,527 2009/9/10 木 2;30 21,209 2009/9/11 金 5;05 21,802 漱石「三四郎」2009/9/12 土 3;30 20,851 女子大講座2009/9/13 日 5;10 21,874 2009/9/14 月 4;10 40,817 筥崎宮徒歩2009/9/15 火 2;05 23,656 2009/9/16 水 3;10 22,449 2009/9/17 木 2;20 23,037 図書館2009/9/18 金 3;10 21,563 2009/9/19 土 3;00 21,011 2009/9/20 日 2;50 22,026 2009/9/21 月 3;40 20,891 老人の日2009/9/22 火 4;45 20,135 雨2009/9/23 水 3;10 25,131 2009/9/24 木 3;50 21,200 診察九大6.2%2009/9/25 金 3;45 25,075 漱石講座2009/9/26 土 4;10 22,422 2009/9/27 日 2;50 20376 2009/9/28 月 4;05 2009/9/29 火 2009/9/30 水 613,579 年月日 起床 歩数 備考2008/9/1 月 4:10 16,272 検診A1c5.8↓2008/9/2 火 5:30 15,155 夜雨2008/9/3 水 1:20 20,512 4回歩く2008/9/4 木 2;00 20,150 立花山ハイク2008/9/5 金 3;00 16,076 香椎2008/9/6 土 3;00 16,312 夕歩行後補食2008/9/7 日 1;10 20,237 4回歩く2008/9/8 月 2;20 16,500 2008/9/9 火 2;00 18,768 図書館2008/9/10 水 2;10 32,371 三苫ハイキング2008/9/11 木 2;40 20,782 2008/9/12 金 2;40 14,150 女子大「梶井講座」2008/9/13 土 2;20 17,185 女子大2008/9/14 日 3;20 40,479 筥崎宮28km2008/9/15 月 2;00 17,000 2008/9/16 火 1;50 25,441 図書館徒歩2008/9/17 水 2;20 17,100 午後雨2008/9/18 木 2;10 27,691 .筥崎宮2008/9/19 金 4;00 17,448 2008/9/20 土 2;40 22,567 香椎駅まで徒歩2008/9/21 日 1;40 20,314 2008/9/22 月 1;00 22,011 2008/9/23 火 2;10 32,089 トリヤス徒歩2008/9/24 水 3;50 17,370 立花山登山2008/9/25 18132 2;40 18,132 2008/9/26 金 1;00 14,083 女子大「梶井講座」2008/9/27 土 4;05 20,726 海の中道2008/9/28 日 5;10 40,131 志賀島一周2008/9/29 月 3;00 13,321 雨2008/9/30 火 1;30 13,511 一日雨 607,612
2009.09.27
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雨になっている。少し暖かいと感じていた。今朝のウオーキングは定刻の出発は無理だろう。ゆっくり時間がある。こうしてブログを書いていると、他所を覗けるが自分も見られている。多分違うイメージで誤解もされるだろう。タイトルも変だし、書いていることも正直ばかりではない。人間が少し捩れているのは社会にも原因があるだろう。勿論自分のこれまでも軌跡もある。ことは突然のように起きるように見えるが、前兆がある。それを全部知ろうとは思わない。知り過ぎて碌なことはない。 ・好い加減ということは良くも悪くもある。世の中は思いがけないことばかり起きているように見えるが、それは時々まともなるに過ぎないかも知れない。自分のことも同じだろう。あちこち痛くなったりして、自分のからだの変化に気付くが毎日身体は変化し衰えてもいる。脳も委縮して、記憶力が減退もしている。昨日自分と違う。そして突然来る大変化もある。自分が持っていると思っているものの大半が虚構になっているのではないだろうか。只イメージに縋っているのだろうか。 ・へ2・・・今の自分の現実に向き合うことができないでいるかも知れない。知り過ぎて嫌になり、自滅していく人もいる。もともと人間の一生とは、生まれて、成長し、生殖して、移動して、死ぬのが運命でしかない。それをそれぞれの生れながらの遺伝子と時代の環境に作用されているに過ぎない。自分を知っても知らなくても一生は何のこともない。何れは上の写真のように廃船の如く・・・。
2009.09.27
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月が見えなくなり、雲が空を覆ってきて、小雨が降ってきた。何の準備もしていなかったが、今夜から天気が崩れるとの予報だった。大して強い雨ではないので、濡れながら歩いた。昼間は暑いので、夜にウオーキングしている人も多い。ことに土日に歩いている人が増えるようだ。相手の顔が良く見えないが、若い人も多くなっている。突然挨拶されたりする。勿論「こんにちわ」くらいだが、気持ちが良い。 ・もう1年以上になるので、いつも同じ場所で会う人とか、夫婦でジョギングしている人とか、最近見なくなった人とか、色々だ。例のホームレスの人もいる。一人一人環境が違っているが、同じ道をウオーキングしたり、犬の散歩だったり、ジョギングだったり。うきうきしているひともいるだろうが、泣きたいような気分で歩いている人もいるのだろう。これまでは暢気でも明日のことは分からない。今日は雨で、月の星も見えなかった。 ・へ2・・・高い空をゆうゆうと飛んでいる鳥を見つけた。そこから人間の浅ましさが見えるだろうか。狭い世界で齷齪して姑息な生き方しかできないでいる自分がいる。
2009.09.27
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昼間は残暑が残っているが、木蔭は涼しくなった。木々も色づき始めている。紅葉も好いがどこかさびしさもある。厳しい寒さがやってくることへの予感だろうか。ことしはとうとう海に泳ぎに行かなかった。どうもその気にならなかった。どうも気が向かなかったのは、別に理由がある訳ではない。多くのことに関心がなくなりつつあるのではないだろうか。そういうつもりはないが、あれもこれもが面倒になっていくようだ。何もしたくなることがあるのだろうか。そうなればお終いなのだろう。 ・目が見えなくなれば、視覚からの刺激がなくなって、脳も活動を止める。見えるということは関心を持つことであり。目を向けるということから始まってもいる。本も目が悪くなって読むスピードが落ちてしまった。脳への情報が落ちているのだろう。視るということは脳への刺激になり、考えることでもある。じっとしていないことが大事ではないか。外に出ることではないだろうか。 ・へ2・・・家の中や、限られたスペースで同じことをしているのは刺激がなくなってしまう。新しいことにチャレンジすることでもある。自分を怠けさせないようにしなければならない。考えてみると、熱意がなくなれば同じことをしていても同じ結果は出ないということだと思う。そんなわけで、いつも見ている「天地人」のテレビを見ないでウオーキングしてきます。
2009.09.27
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作品>詩(習作)、 小さき良心(習作) 不幸(習作)・習作は、本格的な小説が書かれる前の作品。・転居。移動する意味。・京都に住んだ。・経歴。「檸檬」に繋がるものがある。・「日記」が重要。「創作メモ」が含まれている。・詩作もしている。・檸檬の発想が詩の中にある。詩の原形がある。モチーフがおなじ。・大正の習作としてみる。・「鴎外は莫迦だ」と梶井の評価。漱石は訳語だ。谷崎が好きだった・・梶井の見方。・実篤に対する関心がある。賀川豊彦。・作品は、身近なものを題材にしている。・先行作家に対する見方。関心について。・「理性ではなく、感覚が大切だ」・・梶井の考え。感覚的。横光よりも新感覚主義である。・梶井に対する評価は、当時は高い。・文章が詩であること。詩的な文章。・レンブラントの「光と影」のモチーフがある。・「檸檬」は、梶井のそれまでの作品の中に何度も出てくる。そして「檸檬」の作品でまとめた一つの作品になる。 「詩」(習作)、 ・「檸檬」の原形ある。・画集の上にレモンをおく。レモン爆弾ではない。ポーの作品。「告白と隠蔽」・相反する考えがある。人間の中に同居する。パーバース。・谷崎的・・梶井に近い。・漱石の心理分析を好まない。但し「草枕」はいい。・企みは、檸檬をのせて帰ってくるだけのこと。比喩。・リフレンになっている。「秋の木の下」・肺病は悩みではないという。それを気分を顕している。こころの自由。・「檸檬」がわかる若い読者は却って怖い存在でもある。レモンが、爆弾にある。心理として暴力・危険を好んでいる。・調和の上に破壊がある。自らの手で破壊する。・・・梶井の心理。テロ的心理。 「小さき良心」(習作)・白樺派の発想がある。・設定が曖昧。結末がない。何事かを明確にするつもりはない。「気分」を書く。・具体的には書かない。・・・書きたいのは気分のほうにある。・二つの作品?書き直した?前後がつながらない。別稿?・リフレイン。あるいているが繰り返される。・・・怖れている。・中野重治「街あるき」街を歩くのがモチーフ。・興奮や、怖れや、苦悶が出ていない。と梶井は書いている。それが書かれていない。・自分を他人のように見ている。ドッペルゲンゲル。相手の側からみる。・(谷崎「二人の芸術家の話」のちに「金と銀」に改題した、の関連。・佐藤春夫の存在。・志賀「剃刀」が念頭にあった。感覚の鋭敏さ。の影響がある。・巡査を気にする。巡査の目。「交尾」につながる。・外側から自分を見る目。・何のために書いたのかという疑問がある。潜在するもの。・追い込まれた人間の心理を書きたかった。気分を書きたいという願望。・「・・・さえあれば、」・結末の付け方は、他にはない。作品にしていない。分かり難いものがおおい。 「不幸」(習作)・二稿と三稿は、全く違う。描写の違い。同じモチーフを違う書き方をしていない。・母への関心。何故か?母のことばで「夢うつつでやっている」。言い当てており、核心をついている。自分の感性の源は母親であると感じていた。・一稿はもともとない。・人間をどう描くか。というテーマがある。苦悶を書きたかった。・何度も同じところに戻ってくる。敢えて戻る。それは従来の小説では回避されること。2008-11-17ブログ引用
2009.09.27
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いつもは自分に拘り続けている。思えばこちら側の自分でしかない。日常という柵は、所詮自分を狭めるだけではないか。学識の域に達するには生半可の努力では出来ない。飛行士が宇宙にある時の体験は誰もが味わうことのできるものではない。ひとはこちら側の自分を捨てねば見えないものがある。宇宙にある時ひとは生命を賭していなければならない。その緊張感が、何かを生むのではないか。或いはその可能性があるのではないか。ひとは束の間の時間を生かすことが難しい、こちら側の自分を解放する時間をもたなければならないだろう。ひとは、姑息な自分を捨てねばならないときがある。その瞬間を活かし得るかだ。
2009.09.27
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・多神教は人類の原始の時代の盲信に過ぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であると通説のごとく言われている。しかしもともと多神教は森の中でさまざまな生き方をしてきた中から人間の力が及ばなかったものに対する素朴な畏敬の念から発したのであり、その畏敬が消えた時には消滅していっただけのことだ。むしろ人類の平和共存を図るためにも一神教の存在がその考えに固執すれば危険な存在にもなりうることをナチズムは証明したのだ。 ・へ2・・・ナチズムはゲルマン人優位の世界実現を目指していた。むしろ一神教は、森を破壊し荒野としても目的のためには手段を選ばないエゴイズムの思想ではないだろうか。神の意志に仮託する甚だ好戦的で容赦しない危険な存在でもある。それは教会が冒してきた歴史が示しているではないか。その根底になるのは人類の真の共存思想ではない。それは今日の世界を見ればわかることだ。地球環境の破壊は、一神教が大半やったことではない。 ・一神教による世界支配は危険な選択肢になるだろう。そういう意味では世界四大宗教の存在理由があるのだろう。しかし今日そのことが世界の火種にもなっていることを忘れてはいられない。そういう意味では、この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の平和は不可避なのではないだろうか。いつまでも、天動説ではあるまい。寧ろコペルニクス的な発想の転回が必要だろう。 ・へ2・・・ネズミのように動き回るだけでは叡智は出てこないだろう。それは世間の裏側ものぞくことはできても、人間の裏側でしかないからだ。それは、人類の乗っている馬のことでしかない。いまやヒトのすがたとは、「馬に乗ったこどもでありミミズの脳」でしかない。
2009.09.27
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ウオーキングをした後、一休みして二階から下りてきたら、私のデジカメで撮った(上の写真)と言って妻から渡された。子猫たちはどこにいるのか知らないが、餌を食べには出てきているようだ。宅のさび猫が興奮している。未知との遭遇というやつだろう。3匹の子猫は、白色と黒色の柄2匹と黒猫のようだ。黒の子猫が大きい。母猫が白と黒柄の猫で、父親らしい黒猫もいる。まだ警戒していて、中々出てこないようだ。時々子猫の鳴き声は聴こえたりしている。母猫が警戒心の強い猫だけに、人に慣れていない野良猫のようだ。 ・こちらもあまりこういうケースに慣れていないので戸惑っているが、餌だけは与えている。何しろ、人間のものよりも猫の餌の方が多いくらいストックがある。私に写真を撮れ撮れといっていたが、とうとう我慢できずに妻が自分で写真を撮ったようだ。網戸があるので、良くないが。さび猫の後ろ姿が真剣だ。 ・へ2・・・人間とネコ族との付き合いは、果してどのような関係なのだろうか。これからがどうなるかわからないが、どうやら今朝は餌にありついたようだ。
2009.09.27
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昨夜いつものように、散歩をして来た。月が南の空にかかり、定期便のジェットが福岡空港へ着陸態勢を取りながら志賀島上空を横切っていた。ここ数日晴天が続き毎夜同じシーンを観ている。まるでこともなく時は刻まれて行くようだ。21世紀を迎え激動の時代に当惑しながら日々を様々な思いの中で生きている。ハワイで夜ホテルのベランダで静かな時間が流れていたが、日本では、感じたことのない穏やかさを感じたものだ。これはなんだろうか。 忙し過ぎる時間に安らぐ間もなく、こころを押し潰されながら人びとは暮らし耐えている。 思えば卒業後受験のために数年田舎で父母と暮らしたことがあるが、その時の時間は社会人としては空白の時間だったが、何とも喩えようのない豊かな時間だった気がしている。父母と穏やかな日々を過ごしてもいたのだ。今其れとは違うが、妻子と静かな日々を過ごしてもいる。誰にもとらわれず好きなことをしている自分がいる。 もうウオーキングの夜の道では虫の音がするようになった。
2009.09.27
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これまで自分を形成したものを捨てることは容易ではない。そこで安穏としていられるものから出ることは軋轢がある。たとえ時代が変わっても自分はそこにいたいという願望は捨て難くある。誰も同じだ。併しそうはいかない。保守は革新にその地位を譲らねばならない。そしてやがて革新も保守に変質する。いつまでも同じ場所におれない。国家権力に属していたものもいつかはそこから追われるのだ。 ・盤石で安泰であったものが崩れる時が来る。個人として自立できていないものは、その反撃に戸惑うことだろう。いつまでも現役ではない。ハイデルベルク城から、ゲーテもマリアンネも景観に感動した時があったが、今や、それは一瞬の夢の如くである。私たちはゲーテやマリアンネではない。それは穏やかな景観でしかない。 ・へ2・・・権威を誇るものから、新しい息吹は吹くことはないだろう。寧ろ、蔑まされたひとたちから新しい風が起こりそれが、やがて暴風雨になる。すべてを吹き飛ばして、新しい時代が来る。それはハードではなく、ソフトで起きる。中身が変わってしまうのだ。そして新しい人たちが新しい住人になる。
2009.09.27
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「世界から見た日本」の副題で、「外国人教員が感じた日本」という講座があったことがある。さいきん外国人講師の話を聴く機会が増えているようだ。好いことである。日本人の癖を知っている外国人の講演は貴重でもある。世界のことを知らない日本では先行きが危うくなる。 ・未だ、国際交流の内容がそれほどではないにしても、それをつづけることによってそれが、ステップになるだろう。お互いに慣れて行くことが大切なのではないだろうか。本音をいくらかでも知る機会が重要だ。日本から見た世界ではない。世界の中の日本であることを肝に銘じねばならない。日本で威張っている奴は阿呆である。 ・へ2・・・国内でできることをしたからと云って何が威張れるだろうか。自己満足では世界の潮流に乗ることはできない。自惚れが、戦前の為体になった。堕落はそこから始まるのだ。日本に対する非難は甘んじて受けてやればいい。そこから何ができるかだろう。貧しさの中から這い上がった力は本物であっただろうか。それを証明するのはこれからだろう。
2009.09.26
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南の空に三日月が肥ってきた。今年も仲秋の名月が見られるだろうか。隣に木星が明るい。ここ数日木星を友にして歩いている。暗いと足元が判らなくなり、明るいと星が見えなくなる。途中の工事中の道路は歩き難くもある。爆音のようなバイクが横を通り抜けたりもする。これでも旧国道3号線である。日本の道路事情も地方へ行けば昔のままだ。それにしてもペーパーテストといういまだに陳腐な教育のおかげで、大量生産のインテリがオートメーションのコンベアで安普請されている。 ・そんなもので人間の才能など伸ばせるはずがない。そんなことは分かっているが、当面それしかないと、匙を投げてしまっている、努力して改善しようともしない。何のために高校や大学があるのか。手間をかけたくなくて教育などできる筈はない。本気にならない人ばかりでまともな社会にはならない。三日月だって、やがて満月になるのに。 ・へ2・・・やろうとしなければ何時まで経っても、教育は善くならず、日本も善くならない。段々追い込まれて行ってしまう。いつまでも三日月のままでしかない人間ばかりが増えてしまう。月と違って、人間はこのまま黙っていてはお終いだ。
2009.09.26
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日々 同じような一日の繰り返しだが、四季の移ろいがあり、体の変化も少しづつ時を刻んでもいる。同じ細胞を使っている私の脳と体がある。揺れやすい心がある。其の拠って立つところの精魂は幼児体験から来るのだろう。敗戦という屈辱の中で育ったという屈折した心情がある。私の心奥には中国の青島で生まれたばかりで両親と引揚げてきたという生い立ちと、戦後の混乱の中で、見てきた記憶が残っている。その抜き難い思いの中に、ふと、セピアの匂いが漂うスペースがあるのだろう。 ・少し冷えている。まだこの前までの体の火照りが体のどこかに残っていて、その違いを感じてしまう。毎日が日曜日を続けている。まさか、こういう風な暮らし方をするとは。戸惑いがないわけでもないが、反面こんなものかもしれないという気持ちもある。流されるより、流れに逆らうのも悪くはない。他人はどうであろうと自分の思うことをしていたい。たとえそれで何かを失うとして、それが、自分で何かをしようとしていたことの一端ではあるのではなかろうかという思いがする。 ・へ2・・・随分、仕入れたものが増えている。そろそろ整理をしなければならないが、まだ続けていたい思いもある。人間は捨てられない思いを続けて生きているのではないだろうか。それでいいのかも知れない。気持を書こうとした梶井基次郎の思いは切ない。誰も彼の気持ちを理解できないからだ。もしできるとすればそれは尋常ではない。どれだけ心情は理解できるとしても、妄想は空想でしかない。自分なりの日々を続けていることは、肉体は継続していても心は移ろい続けている。昨日と今日は違うことを考えてもいる。そして、戻ったりもする。ただ生物としての自分の体は昨日までの過去を引き摺り続けている。肉体とこころの交錯の中で日々が過ぎていく。さて、少し寒い朝は出直しの始まりだ。
2009.09.26
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ウォーキングをして、帰宅してシャワーして、一息付いたらもう21時になっていた。19時のニュースを一寸見て、それから出掛けると、大体これくらいの時間帯になる。これから夜長になり、寒くもなる。明日で福岡は1分間だけ夜の時間が昼間より長くなる。それからどんどん夜が長くなる。出掛ける時間も朝が遅くなり、夜が早くなっていくだろう。半年近く寒さとの闘いにもなる。ホームレスの老人がまだ同じ場所にいるが、寝袋で寝ていた。夜は寒くなるだろうからどうするのだろうか。一度福祉の人か話をしていたが、動く気配はない。そのすぐ近くに長崎ちゃんぽんの店がある。朝晩のウオーキングで、その横を通っている。 ・以前はよく食べに行ったものだ。カロリーも気にしないで食べていた。いつも歩いている道路沿いに飲食店が並んでいる。誰かがいつも食事をしている。商売にしているのだから当然でもあるが、同じ場所で、違う生き方をしている人たちがいると思うと不思議でもある。 ・へ2・・・シャワーをする前に毎日体重を量っているが、53kgあったので、ショックだ。1kg増えている。どうも腹が出ていると思った。さて、何が問題だろうか。一日2万歩は歩いているが、やはり摂取カロリーに問題がありそうだ。少し、油断していたようだ。
2009.09.26
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「漓江」は日本でいえば「山紫水明」だろう。中国人の美意識というものを見てみたいと思ったが、残念ながら、大雨で増水し、川が濁っていた。中国では「山青水秀」という世界が見られなかったのは残念であった。ところで日本の山紫水明も少なくなってきた。それも段々とそのエリアが狭くなってもいる。今回漓江の川下りをしたが、60キロの間の風景を堪能したが、殆んど自然のままの景観が楽しめた。流石に雄大であり、空気が澄んで美味かった。 ・看板も広告もない。電柱も少ししかない。それこそ、障害物がないというのは気持ちがいいものだ。その爽快さを、私たちは諦めてしまっているような気がする。もう、そういう景観は望めないと思っている。だから、外国に行くと羨ましい風景がいくつもあるのだろう。日本にもいいところはいくつもあるだろうが、景観の保護という意味では遅れている。国土は国民みんなのものだという意識が少ないのではないだろうか。子孫に土地や建物を残そうというのは、そろそろ考え直すべきではないだろうか。子供が自分たち夫婦のものではないように、所有権の絶対も、再考すべきだろう。 ・へ2・・・「山紫水明」も皆で保護しないと、日本から消えていくのではないだろうか。破壊された自然は元には戻らないものが多いだろう。大自然をいつでも見ることのできる中国人は、その景観の美しさに感動することができる。観なければ分からない感動もあるということでもある。折角出かけても、必ずしも最高の時に出会えるかは時の運でしかない。感動を知るには、その瞬間でなければ分からないものもあるだろう。
2009.09.26
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福岡市の東のはずれに住んでいる。近くに和白干潟や立花山の間にあり、自然には恵まれている方だろう。気晴らしに、草履で出かけられる場所に被写体が沢山あるのは嬉しい。先程も夕食前に用事で出かけたついでに周辺を歩いたが、彼岸花の園があり、そこに黒い蝶が戯れていた。その気さえあれば、どれだけでも好い被写体はあるのだろうが、中々見つけられないでいる。どうも心の感受性が貧弱なのだろう。教養がない。 ・漱石の「坑夫」を読み始めたが、何でも小説にしてしまうのは何故だろうかとふと思ってしまった。文豪だから人間として特別の感情を持っている訳ではないのだろうが、どうも好い加減な処があるのではないだろうか。つまりどうでもよいことを書こうとしてはいないだろうか。漱石とすれば、ある人物を通して、自分の思想を表現したいということはわかるが、どうも平民を軽く見ている。田舎を莫迦にしてもいる。 「・・・人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏っているもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましてものがだいぶある。」(「坑夫」より) ・流石に鋭い視点だと感心する。作品の中にちりばめられた漱石の考えには驚嘆もするが、どうも漱石持っている才能の土俵が違うのではないかという思いがしてならない。彼岸花に戯れる蝶ではないだろう。勘違いばかりしているかも知れないが。
2009.09.26
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老化を遅らせ、健康に過ごすことがこれからの知恵なのだろう。然し「飢餓からの脱却」がまだ世界の課題でもある。社会環境が未整備であり、個人の健康にしても一部だけの健康が問題にされるが、肉体的だけではなく、精神的、そして社会的にも良好な状態であってはじめて健全なのだ。健康というコンセプトを一面からだけから見ている。抽象的にとらえ過ぎてもいる。 ・利益を優先した社会が齎してきたものは複合汚染であり、環境汚染だ。ひとの健康はそれらの問題を払拭していかなければ得られない問題でもある。美食ではなく健康食でなければならない。肉体だけでなく、精神的、社会的にも良好な環境を目指すべきだろう。健康食品の講座がスポンサー付きではおかしい。 ・へ2・・・何を食べるか、どのように食べたらよいか、知らないことが多過ぎるようだ。それは、社会が健全な食生活について、正しい見識を持とうとしないからでもある。そのガイドラインの作成を、それを阻んでいる圧力団体がある。健康のためにはメンタル面では、適当な運動、過度のストレスを避ける(気分転換を図る)、生き甲斐のある楽しみを持つ、社会とのかかわりを続けること。愉しく食べることもある。健康長寿への道は、常識の世界でもある。
2009.09.26
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