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今朝は少し遅く起きてきたが、どうも昨夜切れのない時間を過ごしたから。いつものように、お茶を沸かして、仏前にお茶を上げて愛用のスタバのタンブラーにお茶を入れて、定位置についた。さて、CDでも思い、曲を選定していて、民謡があるのを見つけて、聴くことにしたら「九州の民謡」シリーズで、「牛深ハイヤ」が流れてきた。民謡は、熊本では「五木の子守唄」「おてもやん」などの名曲があるが、「牛深ハイヤ」という民謡を聴いたのは、これまでよく知らなかった。初めて聴いた時、グッときた。一度で好きになってしまった。 ・これまでも、幾度となく民謡は聴いているが、あまり関心もなかったが、曲よりことばからくるイメージがある。残っているものはあまり楽しいものではない。寧ろ切ないのではないだろうか。勿論、世を皮肉っているものもあるが、遺すだけの理由もあるのだろう。若いころはその辺がどうも素直に聞けないところがあった気がする。そんなものより、もっと耳触りの好い現代音楽が溢れてもいた。日本人はリズムではなくことばで聴いてしまう傾向があるので、民謡はそれこそ、ことばの意味が重い。唄うのが難しくもある。 ・へ2・・・亡き義祖母の唄っていた「おてもんやん」「五木の子守唄」が、長期記憶に残っていて、その歌を聴くと蘇ってくる。もう50年以上も前の話である。哀愁のあるその歌詞は、聴くと胸が詰まる。民謡はそういう庶民の苦しみの歴史の流れを感じさせる。とても笑って聴いておれない。愉しんでおれない気さえする。そんな民謡の中で「牛深ハイヤ」のような、曲もあるのことを知って驚いた。楽しいからだ。「さあさあヨイヨイ・・・」で始まる。今朝は、この曲でスタートしたい。
2009.05.31
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会田雄次著「アーロン収容所」で、イギリスの女性将校が、「東洋人は、人間ではないから裸を見せても恥かしくない」というフレーズがある。これに対して、イギリスの貴族と結婚しているマークス寿子は、「会田が、イギリスの階級というものを理解していないからだ・・・もっと上の将校ならば、描かれたようなことは絶対に無い・・・」と奇妙な弁解をしている。日本人のイギリス観というのは、多いのかどうかは知らないが、やはり民族間の相違は大きいだろう。アングロサクソンは、モンゴロイドとはかなり違う系譜だろう。然も、イギリス人は、奇人が多いだけではなく、奇人を好む性癖がある。その極端な奇人が集まっているのがケンブリッジらしい。それは、「孤高」のイメージであり、その「偉さ」の故でも在る。国が衰えて行くときの、坂道を滑り降りる爽快感であり、「滅びの快楽」を貪るような、「みんなで滅べは怖くない・・・」という雰囲気なのだろうか。レイランドをフォードに身売りする時、この国では「アメリカ人がカネを持ってくるから、米語の下品なボキャブラリーを増やしておかなくっちゃ」という類のジョークが飛んだそうだ。「われわれは、現代のアテネになるんだ」「アテネになって、ローマ(米国)に智慧を授けて、食っていけばよいのだ」と。「バラの代わりに庭にトマトを植えれば良い」という精神がある。イギリスは、ドイツのように分かりやすい国ではない。普遍的なプレゼンテーションをしてくれるわけではないから、主体的な自分なりの問題意識をもたないと、いつまでもこの国の実態が見えてこないだろう。イギリスを食べ物や、ガーデニングといった都合の良い楽しいところだけで受け止めるとしたら奇異なことだ。「精神的に平等に開かれている」意味なのだと言う。マークスのことば、「西欧に学べば学ぶほど日本人としてのアイデンティティが強くなるし、日本のものを誇りを持つようになる。日本の国内において日本だけをみていたら、絶対にアイデンティティだの、愛国心だのは育ちませんよ」吉田茂のことば、「日本の指導者たちは、みんな幼稚で、単にどちらが正しいか、正邪の問題ばかりを言う。それをあまりに真正面から議論するから、もう政治ではなくなり、殺し合うかどうかしかなくなってしまう」私が、面白いと思うのは、意外と悪書の中にこそよく真実が見えるということだ。悪でもない政治家は、現にまともな政治家ではないと言うことか。或いは、他人から学んだものは自分の脳で消化しなければモノにならないということか。それこそ、日本人が、一番苦手としている<客観的観察の問題>でもある。
2009.05.31
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RHYTHMS OF LIFE で、ラッセル・G・フォスターは、時間の意味を説く。「伝道の書」では、捜すに時があり、失うに時がある。守るに時があり、棄てるに時がある。裂くに時があり、縫うに時がある。眠るに時があり、語るに時がある。愛するに時があり、憎むに時がある。戦うに時があり、和するに時がある。体内時計があるお陰で、生物は、時間を瞬間として最適に利用できるのだ。時間を知ることで、私たちの祖先も農耕を始めることができた。農耕には季節を予期できる必要がある。鳥は生まれつき体内に備えた光周期信号によって季節を自動的に知ることができる。だから、ひとは鳥から学んだ。鳥は時間について学習する必要がない。鳥は、聖アウグスティヌスのように「過去が過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来しないものであるならば、存在するのものは現在だけである。では現在とはどの程度持続するのか?」という問いに頭を悩ませることはない。現在の私たちは、寸暇を惜しんで過ごしているが、己の内を深く見つめて、時間に対して愚かにならず、賢くなる方向に進んでいるかを見極めなければならないだろう、と指摘している。
2009.05.31
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2009-5月度のデータ。お見苦しいかも知れませんがご容赦を。テストです。体重 アクセス 累 計 ランク 年月日 起床 歩数 年月 全歩数53.2 589 444,460 38 2009/5/1 金 3;10 22,737 2008年4月 258,12452.8 849 445,309 22 2009/5/2 土 2;50 21,605 2008年5月 461,505 256 445,565 - 2009/5/3 日 3;30 33,705 2008年6月 454,828 602 446,167 33 2009/5/4 月 3;30 20,155 2008年7月 492,053 574 446,741 37 2009/5/5 火 3;05 22,692 2008年8月 479,17552.6 659 447,406 33 2009/5/6 水 2;30 22,350 2008年9月 607,612 553 447,959 37 2009/5/7 木 2;50 20,918 2008年10月 635,399 498 448,457 46 2009/5/8 金 4;30 21,621 2008年11月 562,37453.2 526 448,983 44 2009/5/9 土 4;20 21,111 2008年12月 629,723 673 449,656 33 2009/5/10 日 2;50 21,931 2009年1月 628,603 723 450,379 25 2009/5/11 月 2;10 21,728 2009年2月 587,391 670 451,049 33 2009/5/12 火 1;50 24,639 2009年3月 700,366 643 451,692 33 2009/5/13 水 1;20 21,183 2009年4月 704,51752.6 695 452,387 32 2009/5/14 木 2;30 22,303 2009年5月 680,126 696 453,083 38 2009/5/15 金 3;30 21,265 (総合計)7,881,79652.8 954 454,037 25 2009/5/16 土 2;08 20,842 458 454,495 48 2009/5/17 日 3;50 20,711 590 455,085 43 2009/5/18 月 3;30 21,875 615 455,700 42 2009/5/19 火 4;00 23,561 509 456,209 46 2009/5/20 水 4;50 32,901 754 456,963 31 2009/5/21 木 3;05 20,579 835 457,798 24 2009/5/22 金 1;20 22,471 746 458,544 30 2009/5/23 土 3;10 21,680 690 459,234 33 2009/5/24 日 4;10 23,577 796 460,030 28 2009/5/25 月 2;30 22,430 765 460,795 27 2009/5/26 火 2;50 22,510 710 461,505 31 2009/5/27 水 2;30 12,471 787 462,292 29 2009/5/28 木 2;20 12,188 52.8 541 462,833 50 2009/5/29 金 4;10 16,093 759 463,592 28 2009/5/30 土 3;00 23,744 2009/5/31 日 2;10 22,550 (合計)680,126 )
2009.05.31
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どんな苦しい日だとしても一日は、24時間でしかない。刻々と時間は先に進んでいく、そして一日は終わり、明日を迎える。「何もないのが一番だ」と、よく祖母がいっていた。それは「日々是好日」でもあるのだろう。特別いいことがある訳でもなく、大して悪いこともなかったという思いが尊い。思い上がった人間は、他人に不満を持ちがちだ。他人より先に行かないと気が済まない。他人より価値のあるもの、優れたものでないと気が済まない人がいる。そういう人は、他人を踏みつけることを平気でする。 ・人の品格は、社会的地位によっては証明されない。品格のない人間が、虚飾の姿をしたがるのは愚劣でもある。自分にとって「好日」とは何だろうか。それは、自分に相応しくあったということではないだろうか。自分がやれることをやれたということで満足する。できなかったと反省もする。奢らないで生きていくことではないだろうか。直向きだったか。 ・へ2・・・あと何年こうして早足で歩けるだろうか、考えた。いつまできるかなどわかるはずもない。私のもって生まれた遺伝子が決めることだろう。私は、始めたことをできるだけ続けようとするだけだ。母方のお祖父さんは99歳で亡くなったが、畑で転んで怪我をして、あっという間に亡くなった。気落ちしたのと歩けなくなったからだ。もし怪我をしなければ百歳はゆうゆうと越したに違いない。貧しくとも、「日々是好日」と、自分らしく生きていることができれば不満はない。其れは飽くまでも個人のことでしかないが。
2009.05.31
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網戸の張り替えをしておりました。前回は私が単身赴任をしていた時に、妻が独りでしたそうで、以前から頼まれていたのですが、到頭遣らされる破目に。今日は気温が上がって夏日になっているようです。ツアーの申込書を書いたり、バタバタで疲れました。家族がいると、日課のタイミングが狂いがちです。下の娘はハウステンボスに行っており、もう一人も遊びに出かけていない。役に立たない娘たちです。 ・破れていた網戸が綺麗になりました。これで安心して窓を開けられとは妻の弁ですが、私は別に虫など何ということはない。昔ほど蚊もいない。そういえばこの前は二人で、襖の張り替えをしたが、皺ばかり作ってしまった。二人ともあまり器用な方ではないので、失敗ばかりしている。処で、旅行先が、外務省の渡航情報があるところであり、リーフレットが付いている。4段階の「十分注意してください」の地域はについては、ツアーを実施ておりますだそうだ。理解して参加して下さい、とは? ・へ2・・・上の写真の万里の長城の時は、余り歩くことができなかったが、惜しいことをした。二人で元気なうちにツアーに行っておこうというのが申し合わせである。新しい発見があるかどうか。そういえば、この前は掏られたので・・・。日照時間が少なく、ゴーヤたちも元気がなかったが、この晴天で元気を取り戻しただろう。静かな午後である。
2009.05.31
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ニーチェやボードレールのような偉大な著述家たちが、悲観論的で憂鬱な精神と結びついてポストモダニズムが「時代の兆し」を表白している。悲観論はもう遺物だろうか。悲壮ではあるが賢明なる人びとが、穏やかなアイロニーで組成された懐疑論的で精神性を有しながら存在しているだろうか。個人の感情に基づいた実在を認知しているが、連帯は他人と共感しあうものであるが、いまや「感情移入」に変容されてしまっている。自己の情動は、その生の容をもつだろう。幸福は、擬似コミュニケーションの世界のもとでの一種の孤立した系になってしまった。(吉田謙二より)それこそ、世に溢れるサクセスストーリーを腹一杯に呑み込んでも空しいことでしかない。その暇があるなら、生物学でも読んでいた方がましだろう。短い時間で得られるものは唯それだけでしかない。だから、何ももたずに明日に向かうべきだろう。(C.A.van ベールセン著 吉田謙二訳「ポストモダニズムを超えて」)
2009.05.31
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教育の領域と経済の領域は、相関関係にあり階級制度や社会的序列の編成に広く影響を及ぼしている。近代から上流階級、中流階級、労働者階級という区分が存在した。しかしこのシステムは構造的には他の近代資本主義社会と類似しているが際立った相違もある。社会の広範な人々は、少なくとも表面的には自分を中産階級だと考える傾向が強いことだ。それは政治的な階級意識を弱くし、地位の非一貫性を助長している。 教育制度と職業制度が密接に関係しているのはヨーロッパよりアメリカに近い。上流階級は主として子どもへの教育投資によって再生産しようとしている。日本では階級が教育的達成の重要な決定要因である。世代間の職業的継承である伝統的な帰属が機能しなくなってもいる。文化的資源の確保は、ほぼ全面的に教育を通じて継承されている。 日本的傾向は主として欧米との比較によって顕著になりつつあるだろう。それは明らかに客観的な指摘なってきている。ことに頂点にある大学と頂点にあるエリートとの関係密接であることはイギリスと類似しているが、イギリスではそうした学生は上流社会の出身者に占められている。日本では最近の現象であるが、頂点以外の経営者が増えてもいる。すなわち地位の非一貫性の傾向が強化されてきている。 欧米との相違は必ずしも単純な傾向ではない。日本特有の教育の序列構造、とくに平等主義や能力主義との特異な組み合わせと密接に結びついている。教育制度に明らかな階級性があるにかかわらず、学力による選抜が行われており、均質で水平的な社会階層がつくり出されることがなかったのである。社会を横断したピラミッド的に組織された複合的な垂直的組み合わせを生んでいる。 いまや日本は、66億人の世界の中の1.2億人のシンプルモデルではない。(・・・昔からそうだが)。特徴的な傾向はまだあるにしても、日本も多様で複雑化したアジアの一国としての国民でしかないだろう。今後は未曾有の高齢化社会が実現するうえで、あらゆる常識は通用しなくなるだろう。それを踏まえなければ議論の価値はなくなるだろう。
2009.05.31
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今年も田植えが始まったと思ったら、去年観察していた田圃の田植えがもう済んでいた。田植え機でやるのでおそらく数時間もかからないのではないだろうか。その現場を見るまでもなく、あれもう終わったのか、という感じだ。この稲がまた青々と茂り出す頃、またあの脳天を焼く猛暑が来る。福岡市の降水量は少ないようだ。市内に大きな河川がないので、すぐに渇水になる。海水の淡水化計画が進められ、海の中道には大型の淡水化センターもできている。隣接した地方都市から、それこそ毎年他県の河川の水も分けてもらっている。 ・田植えが始まると、何となく、ほっとするというか、また田圃に緑が戻ってくるという感慨があるのは私だけではあるまい。トンボやバッタやカエルや虫たちが見れないというのは何となく、寂しい気持にもなる。日本人は稲作を中心にして生きてきた農耕民族である。その民族が、自分で食べる食糧を作らなくなったというのはどういう神経だろうか。そも狂ってしまったのではないか。先進諸国で最低の自給率であるという。 ・へ2・・・それこそ、ご先祖様に申し訳ないのではないだろうか。口では伝統の河野という癖に肝心のことを忘れている。プライドを無くしているのではないだろうか。百姓を莫迦にし出して、日本は堕落したのではないか。一粒のコメも無駄にしてはならない云われた。残さず食べろとも言われた。餅は歳の数を食べろと言われて、餅を喉の奥に押し込みながら食べもした。
2009.05.31
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突然死の原因の多くは、急性心臓疾患、脳卒中、急性呼吸不全、急性肝不全など。予兆も頭痛、眼痛、めまい、耳鳴り、首の痛みや凝り、肩こり、などが、1か月くらい前から起きていた人がいわれている。いくつか、専門家が有効とされるものがある。その中で、 ・定期健診を必ず受ける。 ・一定の睡眠時間と運動不足にならない、三食を規則正しく食べる。 ・食事は、タンパク質、脂肪、炭水化物をバランスよく食べる。 ・心も体もギリギリまで使わない。 ・ストレスをためこまない。 ・ゆったりと過ごす。 ・肥満を解消する。 ・酒・たばこをやめる。 ・他にもあるのだが、これだけ守れば、相当突然死を防げるのではないだろうか。 ・へ2・・・哺乳動物の限界寿命は、体重とカロリーの消費量で決まると考えられている。一般には、その動物の性的成熟までの期間の6倍を目安に考えられてもいるようだ。生物学的には人間の成熟とは約20年とみられているので、人間の限界寿命は120年ということになる。医学界では、目標年齢とされている。ヘイフリックの限界もこれを裏付けるものともいえる。
2009.05.31
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報酬系でドーパミンが大量に分泌されると快感を惹起する。だが神経伝達物質が流れている間しか続かない。それは、強い恐怖や、怒り、悲しみが入らない時だ。これらが入ると、快感があっても忽ち減少する。「躁病」は活発になり過ぎだし、「鬱病」は停滞する。「鬱病」は、かっては、生きのこりに必要な価値があっただろう。エネルギーの節約と過剰な対立とリスクを回避さ せた。そして、現代では、不要であればいつか消滅するだろう。加齢などで、ドーパミンの 分泌が少なくなれば幸福感も薄らいでくる。然し、感覚的、性的な興奮だけではない、愛 するものをみつけても「脳内ドーパミン」は分泌するのだ。「幸福感」は、左脳の活動が深く 関係していると言われる。「感情」も化学物質が関与しているとすれば、その条件をつくる のは、私たちであり、私たちの知恵や努力でコントロールは可能だ。
2009.05.30
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ひとは偶然の成行きに支配されている。私たちは、誰も明日を予想できない。どんなに優れた専門医も、必然的なメディカル・ステージを指摘できない。あらゆる可能性が否定できないからだ。そして、突然変異もあるだろう。勿論それに立ち会うことは奇跡に近いだろうが。それにしても、「偶然の海」に溺れそうだ。誰も、自分がどうなるかが判らないままとしたら、死もまたそうなのだろうか。あれもこれもと検査をされているが、ひとつの検査ですべてが解かるほど、医学は進化していないのだ。そして今日の検査の結果も数ヶ月もしたら役に立たなくなるとしたら、果てしなく検査しなければ解からないということになる。そしてそれはひとつやふたつではない。おそらく無数にあり、増え続けるだろう。偶然は、ヒトを生み出したし、未来に夢をもてるのも偶然があるからだろう。いつも飢えと、病と、権力闘争等などにと、死の恐怖に怯えながら、歴史を刻んできたが、いま科学の前で「無知」という圧倒的な相手に立ち竦んでいる。どのような偶然にめぐりあうのであろうか。
2009.05.30
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何故か? 錯覚した方が都合が良いから・・・。脳は、空間を都合の好いように歪ませる。 「脳はなぜ「心」を作ったのか」前野隆司著で、「意識するこころの作用は、意識下の脳内 活動よりもあとに生じる。」というリベットの実験結果を紹介している。オーグメンテッドリア リティーというらしい。私たちの五感は、それを感じる時、五感で感じているのではなく、脳 の「知」の働きが、あたかも感覚器のある場所で感じたかのようにみせているに過ぎない という。ひとは錯覚でものを感じているのだ。そういえば、何故結婚したのかと言えば、そ れはお互いだろうが、錯覚だ。
2009.05.30
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誰が一番個人として幸福か? 余計な話だが、忙しいと他人どころの話ではなく、自分の眼前の仕事に追われてしまう、自分がいま幸福かどうかなど考えている暇さえない気さえする。それで仕方がないと思ってもいた。どうせどこかで働くのでなければ食っていけないことは分かっているのだから、どこで働いても同じだという気持ちがあった。どこにでも嫌な奴はいるし、資本家や、プチブルはいる。お山の大正や、裸の王様や、空威張りや、虎の威を借る狐とか、番頭さんとか、丁稚とか、金魚のフンとかなどなど。そして、自分も時には得体の知れないカメレオンにもなる。運不運もある。やはり、素直に生きることなどできなしない世の中だと。 ・どうやらストレス社会のストレスをまともに受けてもいたらしい。それで生活習慣病になってしまった。先ず運動をしなくなったし、過食にもなった。あと諸々は、それこそ行基の本を読むと随分と自分の暮らしと当てはまることが書いてある。大学で学ぶことは些細なことだが、人の考えには「主観と客観がある」ということを知ったのは、どこで何を、ではなく、その間の過程で知ったのだろう。それが、常に頭のどこかにあった気がする。自分はこう思うが、それが主観だろうか、客観だろうか、と。 ・へ2・・・同じ大学で、何時も同じ人の話を聴くのではなく、他所の大学の人の話を聴かなければならないと思ったのは、学生の時、他所の大学の公開講座を聴いたからだろう。その前にカルチャー・ショックを経験していたこともあるし、挫折もあったのが幸いしたかも知れない。個人的には失恋もして措きたかったが、残念ながら、そのチャンスがなかったのは悔いが残る。何やかやと考えると、はたして誰が一番、現代社会で自己完成のために生きて幸福でいられるだろうかと、考えている。結論は未だ出ていない。
2009.05.30
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明治半ばの作家の状況を「表現苦時代」と呼び、「欧土のノベルを凌駕」せしめんと坪内逍遥は書いたが、女性にとっては、その創作以上に社会的な軋轢と闘わねばならなかった。平田由美「女性表現の明治史」の副題は、一葉以前とある。その中で、「某老博士の女子教育論」を掲載している。「文学は人の思想を高尚優美ならしめ其の品格を卓越ならしむるの効能ありと雖も、思想を高尚にし心情を優美ならしむるのみを以て女子教育の目的と見做すは大いなる誤謬なり。女子の本分は善良なる家庭の王となり聡明なる子女の母となるにあり、・・・要するに女子をして文学を学ばしめたる結果は、生意気となり・・・家政嫌ひとなり、甚だしき良人嫌ひとなり結婚嫌ひとなり終には痩意地を張て独立の世渡りを為すが如きことあるに至るべきなり。(読売「婦人と文学」1891・6・9)これが、当時の女性小説家に対する批判者の一般的な認識である。女性が書く小説というものが、このような状況の中で樋口一葉が小説を書いたということであろう。勿論、社会的環境は、改善されたことは言うまでも無いが、まだ、少なくとも meme としては、無意識の底にはあるだろう。その亡霊がじめじめした夏の夜には、時として出てくる気がする。日本人よりも幅広い高い見識で、文学書や評論を解釈する「外からの眼」をもつ人たちがいることだ。外国人による日本の研究も侮れる時代ではなくなりつつあるだろう。それだけシビアでもあるだろう。内からだけでなく、外からもみられて、評価をされる時代だ。
2009.05.30
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・ふつう生物は、主観的昼夜を環境の昼夜に同調させている。・人間の場合は、環境とのあいだに社会的時間割りと意志が働く。・研究の趨勢は、根底にある生物時計の実体解明に向かう。・生活リズムの基本的性質が、多くの生物のあいだで共通し、比較ができること。・昼夜の時間的枠組みが、物の考え方に大きな影響を与えていること。・食事・性・物音・時間的夜と空間的夜の関係。・眠りは、決まった場所で取る習性があり、安全な場所であること。・用心棒としての家畜の存在。蚊と野獣への守り。・火の存在。・からだの中にも夜と昼の自転があること。 (千葉「からだの中の夜と昼」より) 日本の経済は暗転し始めている。どんな事態になるだろうか。こころは穏やかではいられない。然し、なるようになるだろう。冷静さを失わないことだ。何でも起こりうる時代だ。それさえ覚悟していればよい。大きな津波が来るだろう。其れに呑み込まれないようにすることはできるだろうか?それは来てみなければわからない。私たちは、謂わば喫水線のところで暮らしている。政府が国民に負担を重くすれば沈んでしまう。どんな防波堤も役には立たない。さて、僅かな時間の微睡の中にいる。さて、いつ眠るか。今夜は気持ちよく眠れそう。
2009.05.30
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どうやら今日は、何時もの日常に戻り、23,744歩。3日間連続の未達を解消できた。三日我慢したので。血圧を測ったら91;58 脈拍 108。 いつものコースで、前を若い女性がウオーキングをしていたので、後ろから付いて行ったら、これが意外と強敵だった。然も、ずっと同じコースを歩いたので、こちらが息が上がりかけた。それでも、こうしていつもの調子で歩くることに喜びを感じもした。月が夜空で笑っていた。ケタケタ! ・若い夫婦がこうして歩いているとすれば、どんなにか愉快だろうか。身体を鍛えることはこころも健やかになることができるだろうか。それは人次第なのだろうか。女性のマラソンランナーが強いのには理由がある。我慢強いからだろう。母性を持つことはそれだけ守られてもいる。 ・へ2・・・愉しいウオーキングだった。これから風呂に入り、眠くなるまで、タイ王国の記事でも読みながら、適当にブログをやるつもりです。上の写真は庭の紫陽花が咲き出した。去年は、殆んど咲きませんでしたが、今年はどうも元気が良いようです。
2009.05.30
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自分には甘い認識しかない。それは可笑しいくらいだ。生物は他人を責めて生きているようだ。 いつも被害に遭うのは周囲のものらしい。謂わば毒を吐いて周囲を殺して生きているのかも知れない。 そうして巨大化したものが生き残るのだろうか。平和とか理性とか言うけれど、どうもそういう観念的な ものでは把握できないものがある。中年女の毒舌に辟易するのも、周囲を腐らせる戦略ミームだろう。 他人より綺麗になろうと化粧する女性も、利己的な遺伝子の為せること業か。若者も、中年も、そして 老人も自分に甘くなり、男も女も同じとすれば、いつか有限の限界に突き当たる。 いずれにしても、自分に甘い認識は、容易には止まらない。やがて自滅の籤を引くことになる。その呪縛から逃れる術があるだろうか。険しい隘路を行かねばならない。
2009.05.30
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殆んど名前ばかりしか知らない国のことを、これから・・・。仏教国で、立憲君主国で、最近紛争が起きて空港が閉鎖されたとか。Wikipedia の「タイ王国」をプリントアウトして、読んでいるところだ。ツアーのスケジュールを見ながら、何を見たいのか等。国土は日本よりも広い。人口も68百万人。宗教は95%仏教。言語はタイ語。タイ族75%、華人14%。中国系は劇的な同化を果たしたとある。主な財閥が王族系を除いて華人族。 ・華僑の影響力は強い。インド系はマイノリティで、政治的な発言力は非常に少ないとある。今回はあまりウロウロしないで、バンコク周辺を回るようだ。気候的には暑そう。高い教育水準がある。1995年の識字率が95%を超えている。日本とシンガポールと並んで世界的にも高い水準である。シンガポールもそうだし、日本もそのうち・・・。 ・へ2・・・それは正直分からない。そうなる可能性がないわけではない。10年後どうなっているのか解ったものではない。もう1年間のスパンで世界が動いてはいない。一日も24時間ではない。会期も、決算もそのうち段々短くなるだろう。形式にこだわっていると、世界の潮目を見失うに違いない。目を皿にして、世界を見なければならないだろう。どこから変わるのだろうか。「101匹目猿」がいるに違いない。 >そろそろ田植えのシーズンだ。
2009.05.30
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私たちは、人類の悲劇を求めてはいない。必要なものは活路であろう。唯、必ずしも容易ではない。マイナススパイラルはいくつもあるし、壊さねばならないものもあるだろう。そして、それは短絡的な思考では届かない。あらゆるところからの重圧に耐えられる人間はそうはいないだろう。やはり、何かを為すヒトは、ブレイブ・ハートを持つものだろうか。多くの人びとは、この社会は得体の知れない世界であり、必ずしも活路があるだろうかと疑念をもっている。いくつもの選択肢の中に悲劇は隠されている。そして、一寸先は闇だという。それであれば、悲劇の可能性は、必ずあるだろう。未来は、小説ではない。現実という修羅場を越えねばならない。いま私たちの前に聳えるのは、ヒマラヤ山脈よりも高い障害物だ。環境破壊、人口問題、食糧問題など山積する問題は多いのだ。もう目先のこととして取り組まないと、地球、そして人類は、疲弊し枯渇するだろう。扨て、現代に於いて、国民に国家は何を望んでいるのだろうか。沈黙だろうか、服従だろうか。権力者たちが果してきた数々の政治的行為は、未来を目指していると言えるだろうか。いまや、 神風の吹く時代ではない。日本には既に権威はない。大学は通俗化してしまった。何の力もない。 企業のための生産工場でしかない。ステレオタイプの卒業生をどれだけ排出しても何になろうか。 ヒマラヤを越えるインド雁がいなければならない。易々と現代の前に立ちはだかったヒマラヤを越えなければならない。
2009.05.30
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モードの切り換えが悪くなったのは加齢ばかりではない。心の在り方の問題でもあるだろう。初めからリスクのない闘いなど多寡が知れている。何もしないで死んだ方が利口なのかも知れない。ブラブラして幸福だと思うような人間は役に立たないだけで死ぬだろう。案外人間は見損なうものだ。役に立たないと思われるものがそうでなかったことは枚挙に暇がないくらいあるからだ。 自分が利口だと思っている奴ほど何も分かっていないかもしれない。こうしてブログしているがこれは日本語ではない。所謂「もどき」でしかない。土台「変換」がまともではないし、漢字が正確に書けない。元々正しい日本語を書けるようにはできていないから、もしそれをやろうとするなら、時間ばかりかかってしまうだろう。それでもそうすることが価値がないのではない。無駄だと思うだけのことだ。何故かと言えば、その文章を読む人が理解してくれるかわからないし、私は教師でもないからだ。 あるものを使うしかない。だが本当はそれではいけない。日本語は消えることになるからだ。心を伝えるのに外国語ではできないものがある。それは日本人が拠って立つ暮らしの中で暮らしている中から生まれてくる心情でもあるからだろう。しかしそれも通用しなくなっているだろう。アルプスのハイジが、山小屋の藁のなかで眠るという悦びを、もう私たちのような年代でさえ想像できるだけだからだ。藁の匂いを嗅いでもいないものが、藁の中で眠るという意味を理解できるだろうか。それが分からなければ「ハイジの精神」も理解できないだろう。 ひとは何になろうとしているだろうか。少なくとも好くなってはいない。時代の針はより多くモンスターに振れているだろう。平気で仲間も殺しかねない。親や子を殺す時代だ。どれだけ科学が進化しても人間自体が進化するわけではない。殆ど数万年前から同じだ。おそらく生物学的には退化も進化と言うだろう。 >警戒心の強い野良黒猫。黒色という特徴は最早有利な時代ではない。
2009.05.30
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「地産地消」という言葉を聴いたのも女子大の講演会の時が最初だったと思う。それから、その言葉があちこちで使われていることも知った。自分が病気をして、学んだこともあるが、公開講座で学んだことが、日常の生活の中に入り込んでいるものもかなりあることに驚く。自分ではわかっているようでも、何も分かっていなかった気さえする。環境に適応するということの意味が殆んど理解していなかったのではないだろうか、と。 ・行商のおばさんが来て、生産直売の野菜を買った。夏ミカンも土が換われば味も違うらしい。タマネギは、風に当てなさいだそうだ。料理の方法とか、色々教えてくれる。そういえば昔の八百屋屋さんでは、美味しい食べ方をよく教えてくれていたものだ。そういうコミュニケーションが売り手と買い手の間にあったものだ。福岡市も相当田舎だが、田舎の良さが薄れている。 ・へ2・・・公開講座にしろ、こうした地元の果物や野菜にしろ、本当にあるべき姿だろうか、と疑問に思う。未だ学ぶ必要のある人が世の中には沢山いるのではないだろうか、新鮮な野菜を食べた方が良い市民はいないだろうか。ちぐはぐなことがまだ世間にはあるのではないだろうか、と思う。老いぼれが長生きしても意味がないかも知れないが、暮らしの中に爽やかな風を感じている。 >今朝の小母さんの野菜。夏ミカンとキャベツはサービス。
2009.05.30
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やっと朝食を済ませまして、これからいつもの散歩をしてきたマス。歩けるというのは歩けなくなって分かるのですが、足が痛いのも、何と不自由であることか。さっさと歩けるということも思えば大変な人もいるわけで。簡単に自分でできることができなくもなる。歩ける時に歩けるということが如何に恵まれているかと思い知った気がします。少しで、歩きたいという気持にもなる。 ・福岡の気温は17℃。快適な環境である。遣りたくても時間とか、場所とか、その他諸々の事情がある人ばかりでしょうね。それでも、そうして遣っている人間もいるのだから悪いが・・・。ほんの少しの間でしかないのでしょう。10年続くとは思えない。自分でもそうは思っています。5年かな?束の間の戯言でしかない。洒落でもある。 ・へ2・・・行商のおばさんが。土曜日は午前10時には来られる。ご主人を今年亡くされたばかりで70歳を越えておられるが、元気で軽トラを運転して仕事に励んでいます。立派な仕事です。地産地消で、好い野菜や果物を生産して、販売されている。ひとは様々な場所で自分の務めを果たしていると思います。自分のできることを精一杯生きるしかない。自分の苦しみは自分で引き受けるしかない。他人の力にはなれません。できると思うほど不遜でしかない。さあ、これから、自分だけのステージの、ショータイムです。
2009.05.30
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どうも政治家が脇が甘いだけではなく、国民が殆んどそうなのではないだろうか。公務員もそうだし、老舗の若社長の謝罪会見のささやき女将といい、何とも笑止な事件が多いことだろうか。誰が見ても、遣れそうにないことを、裸の王様のように滑稽なことをしでかしている。政治家たちは、どこまで現場を知っているのだろうか。自衛隊の実態を知り抜いているだろうか。経済の最先端でなにがあっているのか、医学の現場や、最先端の分子生物学をどこまで理解しているのだろうか、それで、日本の未来を担う社会システムが構築できるのだろうか。 ・政党間の争いや、自分たちの政治生命をかけた闘いしか知らないのではないだろうか。次元の低いことで国費を浪費してはいないか。今されていることは、必ずその反動が返ってくる。タダでは済まないことを、国民は理解しているのだろうか。少し頭を冷やせばいい。笛に踊らされて、水の中へ導かれていったお伽噺のネズミでは困る。2009年度補正予算は29日、参院本会議で野党の反対多数で否決された後、憲法の衆院優越規定に基づいて成立した。補正予算の一般会計総額は過去最大の13兆9256億円。政府・与党は6月3日までの通常国会の会期について、補正予算関連法案などの成立を確実に ...(Google ニュースより) ・へ2・・・世界から動かされることはあっても、これから日本が世界を動かしたことはあるだろうか。受け身だけでは必ず、世界の隅に追いやられてしまうだろう。これからはまさしくビジョンのない論理は通用しない。他人の眼ばかり気にせず、自分に何ができるのか、この10年くらいは、必死になって、それを考えるべきではないだろうか。
2009.05.29
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この世の中で信じられるものは、先ず、24時間たてば朝が来ることだろう。始まりは137億年前のビッグバンに始まり、約47億年前の地球誕生から、恐らく、種としてのヒトが絶滅するまでは間違いなく、続いている真実だろう。勿論私たちが生きるために必要な最低限のことが間違いなく構成要件としてあらねばならない。それは、その措かれた環境次第でもある。突然の不幸もある。戦争もあっただろう。今、打ち萎れているだろうか。下手な足掻きをしているのかも知れない。まあ、それはいい。拠って立つ存在理由の問題であるのだろう。 ・何もせず、寝てもいいし、起きて眠くなるまで起きていても、特に差し障りはない。無駄な時間は無限にあるわけではないが、テストをするくらいのことは出来るだろう。ゲームだろうか。或いは笑止、かも知れない。それは、世界観の違いなのだろう。要するにひとは小さくなって行くということなのかも知れない。或いは意図的にそうなるか、ならないかのちがいであるのだろうか。それは分からないし、分かりたくもない。 ・へ2・・・その時のことをブログに書いているから、2005 まで遡った日記をみることが何時もできるので、便利に使っている。去年の今頃何をしていたかが分かる。進化していないことがよくわかるし、下らないことも承知である。他人にどう思われようとも自分の裏表を承知しているから、分かる心境もある。いつどこへ行ったか、写真もあるので、それだけ鮮明になる。去年は桂林だった。今年はタイに行く予定だ。特に理由はないが、写真くらいは撮ってきたい。
2009.05.29
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まだちょっと外は暗いのでにわには出ていないが、目当ての胡瓜は、随分と大きくなっていることだろう。今朝のサンドイッチの食材にするつもりだ。外に出てもとがめる人もいないが、そこは自分で遠慮している。山の中ではないから。誰が、見ているか分からない。そんなにご近所の目を気にしている訳でもないが、それは、これまで生きてきた中で、そういうことが身についているからだろう。もし、もう少し若ければそんなことを気にしはしない。人間は都合よくできていると思う。気分の気付くことしか考えないからだ。若いころは他人を傷付けていても平気だ。分からないからだ。 ・だから、大きな成果も上げるが、大きな怪我もする。若者に冒険心がなければ価値がないかも知れない。段々とパワーがなくなり、脳が委縮してしまう。それは花の命のようでもある。ヘイフリックの限界は、そのことを教えている。人にも物にもすべて有限の中にあるということだ。問われるのはその容を示せるかでもある。 ・へ2・・・今回の「文学と女性」というテーマの根底にあるものをどれだけ理解できただろうか。女子大の講師たちの言いたいことをどれだけ受容できたのだろうか。送り手と受け手の問題がないわけではないが。自分の持っている経験や知識の中で、自分なりに考えたことは事実であり、無駄ではなかったし、それを無にしてはならない。それは女性を見下したという歴史の痕跡を消してはならないことでもある。それは、いまだに国際社会の中で、数々の弊害を生んでいるという事実によって証明されている。
2009.05.29
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NHKで数年前「山椒魚の生態」を遣っていた。井伏鱒二の小説を読んだことがあるが大半忘れた。生態は実に面白い。そして、人生を見るような思いがした。狭い部屋でよく生きれるものだと思っていたが、繁殖の為に精力的な旅をするとは知らなかった。体型が実に滑稽だし、醜いけど水の中を歩く姿は、生気が溢れているようだった。人間よりもはるかに遠い過去から生きている。小さい目でどのようにこの世界が見えているのだろうか。そして僅かな場所でしか生息できないとしたら、いつか絶滅するだろう。ヒトは今も多くの種を殺しており、いつかヒトと言う種もその為に報復の憂き目に遭うのではないか。そんな気がする。グロテスクで、狭い世界で生きている山椒魚の生態に、何かほっとしたものを見た気がした。
2009.05.29
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ルソーの言葉 「社会の基礎を検討した哲学者たちはみな自然状態にまでさかのぼる必要を感じた。しかしだれひとりとして、そこに到達した者はいなかった」(『人間不平等起源論』)「虚栄心を生む者は理性であり、それを強めるのは反省である。-人間が苦しんでいる人を見て、「おまえは滅びてしまえ、私は安全だ」と密かに教えるのは学問である」「ある土地に囲いをして、「これは俺のものだ」と宣言することを思いつき、それを信じるおめでたい者たちを見つけた最初の人間が政治社会の真の創立者であった」「各構成員の身体と財産を共同の力すべてによって保護する結合の一形式を見出すこと、それにより各人が全員と結びつきながら自分自身にしか服従せず、以前と同じく自由であること、これこそ根本問題であり、社会契約がそれを解決する」(『社会契約論』)「人民が十分に情報を持って審議するとき、市民が相互の意志を伝達しなければ、わずかの相違が多く集まってつねに一般意志が生まれる」「民主制という言葉の意味を厳密に解釈すれば、真の民主制はこれまで存在しなかったし、これからも決して存在しないだろう。多数者が統治して少数者が統治されるということは自然の秩序に反する」「統治者が市民に向かって「おまえの死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならない。
2009.05.29
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ここ三日間一日2万歩が達成できていない。三日間連続というのは初めてだ。仕方がない。5月の今日までの日別の歩数は下記の通り。何とか合計633,832歩なので、月度では平均歩数では達成しているが、先月は70万歩だからやはり3日間の未達は厳しい。それにしても何があるか分からない。それを思い知った感じでもある。 ・今回テーマの「文学と女性」の春季講座の6コマ講義の根底には、ジェンダーの問題を抱えている。世界史を見るまでもなく、どこの国にも男社会の影がある。そして何れの国家でも女性たちが多くの犠牲を強いられながら闘っている。まだそのプロセスでしかない。女性は飾り物でしかない。少なくともまだその意識が現実社会の中で払拭されてはいない。日本の「待つ女」であり、「白雪姫」でもある。創られた童話で、刷り込まれた価値観がまだある。 ・へ2・・・目覚めた女性たちがいるが、それはまだ声なき声に過ぎないのではないだろうか。周囲を見渡せばそれがよくわかる。分かろうとしないだけだろう。これまで、私のこのブログの経過とともに女子大の講義を聴いてきたが、その記録を見て思うことはある。私も含めて、人間の意識は得てして頑迷なのだろう。 歩数22,73721,60533,70520,15522,69222,35020,91821,62121,11121,93121,72824,63921,18322,30321,26520,84220,71121,87523,56132,90120,57922,47121,68023,57722,43022,51012,47112,18816,09300633,832
2009.05.29
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新規性や先見性とは、人間の努力で容易に得られるものではない。固定観念を超えねば得られない。医師は最早エリートではない。あと50年もすれば、医師はミスのないロボットに職場を追われる。先見性のない者に覇権を委ねるべきではない。先見のない選択のミスは世界の破滅になりかねない。明日何をすべきか判らないで、何ができるだろうか。愈々これから洞察力と先見性が必要だ。そのためには精確なデータを収集しなければならない。そのことを理解するものたちを教育しなければ、この社会は間違ったデータのために、何れ崩壊するだろう。人類は、破滅との闘いをはじめてしまった。このままどこまでニッチを続けられるだろうか。過酷な生き残りの闘いは、相手が「エントロピー増大」との、それである勝ち目はない。
2009.05.29
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今回の春季講座を受講する前に、左足を痛めて、波乱の幕開けだったが、どうやら6コマを無事終了した。前半(「白雪姫のポストモダン」)は、おとぎ話から猥雑なポストモダンのテクストへの流れの講義があり、同作品の内容の解説。アメリカでも難解だといわれている作品のようだ。白雪姫のパロデイ的作品として描かれている。アメリカで「枯渇の文学」と呼ばれた時代背景があり、新しい物語ができないといわれたなかで、古い物語に目を向けたものだ。当時のアメリカの政治的背景がある。60年代の父権喪失がある。 雪白姫の悲哀と不満。「馬みたいに乗られっぱなしはもううんざり!」 housewife をもじった horsewife になっている。然も自立する新しいヒロインではない雪白姫である。神話に呪縛されたまま話は進行する。 雪白姫は天空に昇る 英雄たちは新たな主義を求めて出立する やれやれ ドナルド・バーセルミ「雪白姫」柳瀬尚紀訳) ・後半は、シルビア・プラス「ベル・ジャー」。50年代アメリカのマカーシー旋風の嵐が吹き荒れていた。「ライ麦畑で捕まって」の女性版ということができる作品。bell Jar とは(釣り鐘状のガラス器)のことで、当時も女性に対する重くのしかかる抑圧的な状況を象徴している。前回のイギリスのジェイン・オースティンも、作品は匿名で出版された。それだけ女性は飾りものでしかなかった。アメリカの女性差別もある。シルビア・プラスも自殺している。自伝ではないが、ヒロインのエスターは精神病院に入れられおり、当時精神病院でされていた電気ショックを怖がっているのが印象的だ。彼女の経歴と重なっている。果たしてエスターはラストで回復したのだろうか。講師は疑問だと言われていた。解釈が分かれている。 ・へ2・・・プラスが評価されたのは80年代になってからだ。ベル・ジャーは幻想ではなかったということであろうか。美しい英語で書かれていると講師は言っていた。女性詩人でもある。外は寒くなった。今日も少し無理をしないで部屋で休養していたいと思っている。何枚目かのこの講座の修了証を貰った。
2009.05.29
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この狂気の時代に正気であることは容易ではない。何が狂気であるのかを確りと認識する必要があるからだ。個人ではどうすることの出来ないことがある。そういう空気が漂ってもいる。人々は諦観しているだろうか。そうかも知れない。この病に冒された者は流れを拒否できない。多くの理性が水没してしまう。 ・夜明け前と、日没前に散歩している。公園から見える朝日と夕陽がある。和白周辺はそれほど工場もないせいか比較的朝晩の空気は澄んでいる。車の多い日中とは違い、晴れた空は綺麗だ。何かほっとするものがある。 ・へ2・・・小さな喜びかも知れないが、こころをときめかす風景がある。>海の中道
2009.05.29
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日本の社会から生み出された環境の産物が私たち一人一人の人格形成もしている。だから私のその端くれであるのだろう。欠片かも知れしないが。今朝は庭の胡瓜の4本目を収穫して、朝食のサンドイッチの間に挟んで食べた。どうやら明日の分も胡瓜が大きくなっているのがある。どれくらい採れるか、カウントしたいと思っている。記録に残すという習慣を続けたいと思う。物事を客観的に視るという生活観が必要ではないだろうか、と思うからだ。今日は、元旦から何日目だろうか。何週目だろうか。ドイツで購入した日記には毎日ちゃんと書いてあった。あれをみてドイツ人が、日頃からそういう生き方を日常的にしているのだろうと思ったものだ。アバウトに生きているのではない。 ・漠然と物事を見てしまっている。そのうち神風が吹くだろうか。吹きはしない。偶然を当てにしても中てにはならないだろう。童話の世界をいつまでも追っているのは子供のころだけで充分である。日々モードを切り替え、時には一日に何度も切り替えて暮らして行かなければならない。こうして、時々何をしたか、時々のモードを書いているが、それは、自己管理票を別途作成しているので、それと見比べる為だ。謂わば裏資料になる。 ・へ2・・・今日は最終日の講座がある。外は雨になりそうだし春の嵐も吹いているので、大学には車で行こうかと思っている。2コマがある。「白雪姫のポストモダン」「50年代冷戦期における女性の自己確立」ーシルビア・プラスの小説「ベル・ジャー」主人公エスターの場合ー。左足の痛みはとれてきたので何とか歩けるようになったので、安心した。歩けないと困る。それこそ一からなり直しをしなければならなくなる。然し、それもいつかは歩けなくこともあるのだろう。毎日試練であり、刻々事態は変化もする。後悔しないようにしなければならない。講義は面白い。講師が換われば、一瞬にして別世界の話が展開もする。
2009.05.29
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アメリカが超大国になったのは、情報をより多く集め吸収したからだろう。色んな人種が集まり知識を得たからでもある。偏った情報では先見を得ることは難しい。中国の歴史をそのことを教えてもいる。喩え栄えた時代があったとしても、いつかは衰退もする。時代の本流は様々な変動を経過するからである。敵が味方になり、味方が敵にもなって淘汰を繰り返している。かっての欧州がそうであり、やがてUSAも同じ運命を経過するだろう。 ・私たちがいま目にしている光景も時の流れによって変化していくだろう。10年もたてば見違えるようになるに違いない。束の間の時を垣間見ているだけなのかも知れない。これからも多くの情報を集めることができ、人の集まる場所が、より力を得ることになるだろう。偶然の重なりが、新たな都市を形成するに違いない。そこは何処になるのだろうか。 ・へ2・・・大学にひとを導く求心力が無くなりつつあることは、大学の価値を低下させているだろう。或いは存在理由がなくなるのではないだろうか。そういう予感がする。もう既に死に体になろうとしている。それは教授たちに次代を担う価値がなくなりつつあるからでもあるだろう。先見性をなくしたものに誰が、意味を見出すだろうか。問われているのは、存在理由だろう。春の嵐になっている。曇りの予報だが少し小雨も降りそうだ。今朝は、どうにか、7,000歩歩くことができたので、ホッとしているところだ。
2009.05.29
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目の前の風景を理解しなければ、どんなに豪華な世界一周の旅をしていても愉しいとは思わないだろう。船で世界を周る船の中での生活はどうだろうか、と考えると少し気が引ける。まあ、できない話ではあるが。自分の脳が、日々の新しい出来事を受け入れるだけの準備が出来ていないのではないだろうか。ぼやっと自分らしく過ごすのであれば自宅でのんびり他人の行く世界の旅のビデオでも見ていた方がマシのような気がする。他人は様々でその世界観も、人生観も違うのであり、とやかく言うことでもないが、私にも自分の思いを捨てられない。 ・余計な贅沢なものがあればつい、その方に目が行くのが世の常ではある。あるからしたくなるのであってなければないでも困らないものは沢山ある。無駄を全部なくしたら、どうも生きて行くだけの意味がないかも知れない。そういうことにならないように、必死に自分の存在を確認しようとしている。それでもまだまだ発見したとは言えないし、自分の脳や体を日照りの砂漠の中に置き去りにしてしまいそうでもある。オアシスとは行かなくとも、せめて緑の中で暮らしたいと思っている。 ・へ2・・・この社会は、まだ男社会であり、働く者の社会でもある。そうでない人たちは差別を受けてもいる。それを我慢している。自分だけならまだしも社会全体がそうだから仕方がないと思っているが、思っていない人も当然いる。皆が納得のできる社会には簡単にはならない。「無知と貧困」がある。理想の社会はつねにこのふたつのデッドロックの前で行き詰っている。一言では言えない世界の現状がある。個人としてどうあるべきで、どう生きていくべきであろうか。それは自分だけの問題ではない。これからみんなが真剣に取り組まなければ、取り返しのつかないことになりかねないことだけは言えるだろう。
2009.05.28
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学問と真理とをたずねることに熱心だった知的大衆にとって哲学は、西欧哲学移植後どのくらいまで共感的理解していただろうか。日本への哲学の紹介は「ヒロゾホ(哲学)ということばの意味は、人間というものは、新しいことを見て驚嘆し、そしてその訳を知りたいと思うものである。たとえば日蝕、月蝕を見ると、その訳を知りたいと切におもう。そういうところから、ヒロゾハル(哲学をする)ということはおこったのである。これでみると、ヒロゾホということは、根元を知ることなのである」という。明治以前の西欧文化は、ポルトガル・イスパニア人は、先ずキリスト教、天文、航海、語学の知識を。オランダ人は、医学、測量、冶金、物理、化学などの知識を教えたが、そのもとになる学問である哲学を伝えていない。哲学の研究を始めたのは、日本人が西欧に出むいて研究してから後である。従って、明治以後だ。ギリシャ語で「フィロ」は、愛すること。「ソフォス」は、賢または知である。フィロソフィーとは、つまり「知を愛する」ことである。ピタゴラスに始まり、プラトンによって確立された。それは、本能的な欲求が「知る」ことへの要求と言われる。それでは、儒教や仏教に、フィロス「愛」なるものが、知識と結びついていただろうか。論語では、知的な「愛」とは、「親しむ」「惜しむ」といった意味に通じるであろうか。三浦梅園は「愛は令徳なり。而して小人の愛や愛に溺る」(玄語)仏教では、「愛」は「愛楽」に通じるが、寧ろ愛着、愛染に近い。それは迷いであり、迷妄であって、修行によって取り除かれて慈悲に至るべきものであろう。従って、東洋では「知を愛する」という想念はないといえるだろう。それは、「知ること」を愛するという思想の実践とか、学問の中でうたわれることはなかったのだ。東洋と西欧の思想文化の大きな開きがあるのであって、単なる訳語上の小さな問題とみるべきではない。私たちが、西欧思想移植前の日本哲学を調べてみると、それは殆どすべて儒教の教養のもとであった人びとにおいて発展したのである。今や、日本人をして本能的な欲求として「知る」ことへの要求とすることができるだろうか。
2009.05.28
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成功の下(もと)には、久しく処(お)るべからず。日本語は、読むのも、書くのも、解釈し・理解するのも難しい。まして外国語も。人間社会も、宇宙も遥かに厖大である。日本語は、もともと議論するためではないだろう。伝えるため、命令するために始まったかも知れない。だから、一寸したことで、安心しようとする。小さなことで成功してそれでいいではないかと考える。大陸の人は、まだ先があると考える。もっとこれではすまないと思うのかも知れない。おかれた環境で周囲をどうみるかでひとの思考も変化してくる。日本語が難しいから、外国語を学ばない人間は、近所のおじさん、おばさんで一生を終わることになる。それでいいという人間もいていいが、事変があればまっさきに犠牲になる人たちだ。個人ひとりひとりが集って社会があるとすれば、多くの人たちが、社会的な動物としての人間を自覚して生きていくべきだろう。種としてのヒトは、多くの形質をとりいれて進化したが、まだ愛するものを守れないでいる。それは、成功者が、「成功の下には、久しく処るべからず」の精神がなく、その「獲物」をいつまでも貪っているからではないか。自分の使い慣れた「ことば」で為そうするものは、道程の欠片でもないのだ。
2009.05.28
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物言えば唇寒し、というのが日本にはある。まして大学というところは・・・。権威主義がどうのというがどこまで進化しただろうか。相変わらず、どこを向いて話しているのか分からない先生たちが多いようだ。それこそガラス張りにしてしまえば困るところもある。オープンにしたくてもできない。「ああしろ、こうしろ」と、いわれて、人のよい先生たちは右往左往しているのではないか。遣りたいことが自由にできるほど予算もないだろうし、時間もないのではないだろうか。 ・土台一部ばかり聴いてもどうもしっくり頭には入らないなあー、と愚痴ばかり。せめて、頭の整理ができくらいまでは話を聞きたいところだが、中途半端な講演会が多い。本来専門用語が理解できないと、多くの学問が、総体が理解できないようにできている。東北弁や鹿児島弁で喋られているようにしか、素人にはわかないようにできている。市民に理解できるようにはできていないのだ。 ・へ2・・・分かる人だけ分かれば良いというのだろう。それではシステムは変わらない。モチはモチ屋に任せたら埒が明かない。いつまでも悪弊を繰り返すだろう。そんなこんなを考えていたら、夜が明けそうである。ちょこちょこしか話が聴けないのも消化不良を起こしてしまうが、話している先生たちもさぞや胸やけがしていることだろう。まだ、無理をしないで散歩程度でウオーキングを切り上げてきた。
2009.05.28
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時計の針が止まった時がお終いでしかない。生きていることは走り続けることでもあるだろう。休もうとするものではない。過去を打ち捨ててきたではないか。過去は事実でしかない。為したことは消えないだけだ。傷痕がどうであろうと今の目が澄んでいるかだろう。 言葉を失いつつあるのだろう。段々と話す言葉もなくなるのではないか。会話のない人間関係が広がり、黙っていても電車に乗れるし、誰とも喋らなくても仕事が出来るかも知れない時代だ。ネットで何でも用事が済んでしまうようになるだろう。歩くことも、動くこともしなくてよくなったら人間はどんな姿をしてくるのだろうか。 自然も要らなくなるだろうか。空想は妄想にもなる。バベルの塔ではないが、いつかとんでもないことになるのかも知れない。海にもひとで溢れるようになるのだろう。もうすぐ6月だ。夏も近い。6月ハワイに行ったら、もう夏休みのシーズンでアメリカ本土から引切り無しにハワイにジェットが飛んできていた。ホテルは満員だった。もう、今年も半年過ぎたと思うと月日の早さにショックだ。大きな忘れものを沢山しているような気分がする。
2009.05.28
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ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」が、語り口とキャラクタ―とのバランスのとれた代表作。腎臓病のため42歳で亡くなった。(1775~1817)。小説家としていまなお広い支持を受けている。分かりやすく身近なストーリーで、ヒロインの恋愛とハッピーエンド゙で終わる作品が殆んど。通俗的だと見られがちだが、奥の深い作家でもある。イギリス人らしいアイロニ―の利いた文章が特徴だとの講師の話だった。同作品は、「プライドと偏見」(2005)という映画にもなっているが、寧ろ傑作として、BBCドラマ1995年「高慢と偏見」の人気が高いそうだ。この作品は映画になっているものが数多くあり「ブリジット・ジョーンズの日記」(2001)もこの作品が下敷きになっている。それでも原作の語り口の巧妙さは伝わらない。漱石もオースティンを「写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」(「文学論」)絶賛した。 ・「限嗣相続」という制度が当時のイギリスになったらしい。それだけ女性は抑圧されていた。英語では entail という。当時女性は飾り物という風潮の中で、作品のヒロインである「エリザベス」の当時としては珍しい型破りで、自分の考えを持った自立心の強いキャラクターが読者に注目されたようだ。オースティンの文章を理解するというのは、平易な文章であるが奥が深く難しい。作家の本意を読み取るのは容易ではない。文化の背景を知らなければ作家の深さは分からないと解説された。 ・へ2・・・2コマ目は、「アーサー王物語の女性」を19世紀の作家たちがどのように描いているかの講義だった。アルフレッド・テニソン「シャロットの乙女」とレティティア・ランドン「テインタージェルの伝説」における「エレイン」の人物像を、男性作家と女性作家がどのように創作しているかの比較についての話だった。他に、二ミュエ、グイネヴィアの二人の女性が紹介された。いつも講義よりも一杯資料を貰い、図書館で読んでみてくださいと宿題を山のように戴いている。
2009.05.28
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どうにか足の痛みもなくなってきたので、ほっとしている。午後の講座は、昨日に続いての2日目で、「今日のジェイン・オースティン」と「アーサー王物語の女性と19世紀ヴイクトリア時代」ーニミュエ、グイネヴィア、エレインと女性の役割ーの2コマ。行く前に、Wikipediaで人物のプリントアウトをしたところだ。事前に調べて行くのと、ぶっつけ本番とでは頭にはいるのが相当違う。そんなに良い頭脳ではないから、予備知識がないと、すんなり脳内空地には這入らない。学生時代にそのことを卒業する前に痛感したものだ。 ・準備をしないと、半分の成果もない。それをこれまで何度も痛感したが、つい忘れてしまう。寧ろ話せばよいのだろうという大学の態度も気に入らないことはある。どうせ解らないのだから、同じだろうという考えだ。そうではない。翻訳する方に責任が大半ある。説明が下手だから分からないことも多いからだ。優れた学者が優れた表現者とは限らない。 ・へ2・・・さて、それでも時間が足りないが、テストがないから好いが、学生なら確実に落第点だろう。私は現実離れが好きだ。遠いところの話ほど面白い。自分と違う世界の話が好きである。
2009.05.28
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「エッジワース・カイパーベルト」や「セドナ」などの小惑星が見つかり出している。「太陽系第10惑星」たちだ。これからも「すばる」は、あらたな発見をするだろう。所謂、未解決の問題に対する課題は、いつかは解析される。寧ろ課題とさえされないまま埋もれている課題こそ重要だろう。まるで赤ん坊が、周囲の環境を学んでいるように科学の進歩は進むのだろうか。せめて、科学の進化を阻害しないことくらいしか、私たちにはすることがない。そして、科学の子供たちをより多く育てることだ。彼らをのびのびと育てることがひいては、未解決の課題をよりひろくテーブルに載せることになるだろう。「メーザー」は、太陽の最期を証明するだろう。ひとに「ヘイフリックの限界」があるように太陽もあと数十億年を経過して、最期のときをむかえる。大規模なガスの放出がされる時にメーザーが出る。やがて塵におおわれる。「有限の限界」と言う宿命を背負いながら、細胞もヒトも地球も太陽も、そして宇宙さえ存在しているのではなかろうか。まっしぐらに腐りかけた私の脳でさえ、未だ知りたいことが、うれしいことに幾つもあるし、そして、日々新たなテーマが生まれ続ける。「ヘイフリックの限界」まで・・・・。
2009.05.28
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ウォーキングが目的ではない。歩けるのは解っているし、歩ければ良いのでもない。歩くことによる運動効果が必要だからだ。まだ時々痛みはあるが、左足を引き摺りながら歩いてみた。右足に負担がかかるが、歩けないほどの痛みではなくなった。段差があるとチカりとする。用心して歩けば行けると思ったので、何時ものコースを、他人さまがいない間にと思い歩いてきた。全部は無理だと思い何時もの半分にした。面白いのは、それでも歩数が5,000歩になっていた。どうやら、スタスタと歩けない分、歩数だけはカウントしたようだ。 ・そして汗も掻いていた。運動効果はあったのだろう。食後の運動が目的なのだから、その一部はできたことになる。ただ歩くのではなく、何を目的にして歩くかだ。他人には価値がなくても自分にあれば充分である。強風だった。ふと田圃を見たら水が入っている。もうすぐ田植えが始まる。そういえばカエルがいるかも知れないと、田圃を覗いてみたが見えなかった。稲刈りの後、たまごがあちこちにあったのを思い出した。狭い田圃でも、ここを自分の世界にして生きている生物もいる。 ・へ2・・・無理をするつもりはないので、痛ければ止めるつもりでいたが、何とか歩けた。どうやら、何とかなりそうである。さて、女子大に何で行こうか迷っているところだ。どうにかツアーには行けそうで安心した。
2009.05.28
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「天は二物を与えず」とはよく言ったものだ。男は女ではない。麻生太郎首相は彼以外のものではない。教授は、学生でも市民でもない。そのどちらでもあるのではない。Aは非Aに非ずが公理である。それこそ、二物といえるかどうか。もっと多面的であるが、つきつめて行けば二物でもある。世の中のことが自分で解っているのは、小さな針の穴からのぞいているほんの僅かな事実だけだろう。あとは想像力だろうか。文学の魅力の分からないものには分からないとよく、文学部の教授が言われる。それも、彼が世の中のことを全部わかっていっているのではない。彼の知る準拠枠でしかない。自分でい視ているが、視られてもいる。それは決して甘いものではない。 ・美しいものがただ美しいのではない。美しくあろうとするからであり、それを愛でるものがいなければならない。化粧するのはそれで何かが得られるからだろう。自分の楽しみだけで化粧をするのはそれは意味がない。勿論意味のないことをするひとがいる。それはこどもだろう。そうした遊びの中から何かを学ぶためだ。それをいつまでも続ける人間は阿呆であろう。いつまでも美しくありたいなどということ自体が不遜でしかない。 ・へ2・・・二物を得ようとするのは不可能だ。自分は他のものではない。自分であって他人ではない。今朝は今朝以外のものではない。昨日と違うし明日とも違う。今日が途中で切断すれば明日もない。それだけのことだ。天とは何ぞや、非天以外のものだ。莫迦話ばかりしていても埒はあかない。少し外が白み始めた。小鳥の声がする。いつもの朝だが、取り敢えず、何時もの日課を始めよう。できるかできないか、やれるところまでやるだけだ。今日の講義は、ジェイン・オースティンと変更になった19世紀のヴイクトリア時代の話がある。勿論歩いていけなければ這ってでも行くつもりである。
2009.05.27
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数年前の写真を載せているが、腹の脂肪肝が映っている。それを去年4月からの入院で、体質改善を始めて、やっと10kg減量したと、これまでも書いている。現在はウオーキングの成果もあって解消している。其れが、昨日のアクシデントで、危機に瀕している。運動しなければ元の木阿弥の可能性もある。まだ歩くとチカチカする。只今、軽く歩く練習をしているところだ。自分では大したことではないように思っているが・・・。運動することは今の私にとっては最優先の最大の関心事でもある。 ・やはりジョギングをしなくて良かったのではないだろうか。ウオーキングに比べて数倍も足に負担が掛かるジョギングをしていたら、屹度こんなことがすぐに来たのではないだろうか。体重が減ったから、歩き易くなり、毎日歩くことができたのだろう。そうも簡単には脚の筋肉も鍛えることが難しいようだ。少なくとも今の私には。時間をかけて遣るしかない。一つ間違えば、歩けなくなるかも知れない。そしたら、直行便になってしまうだろう。まだ色々へめぐって人生を楽しみたいものだ。 ・へ2・・・或る意味ノー天気なのだろう。これも親譲りであろう。こうして勝手な事を云っているのは出来る間でしかないということだ。遣りたくても遣れない人ばかりではないだろうか。どれだけ偉そうにしていてもお里は知れている。そのことを肝に銘じながら、暮さねばならない。天は自ら助くる者を助くだろう。それと己を晒さないものは自己卑下でしかない。
2009.05.27
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昨日の講座の頭の整理が充分ではないが、漢詩から和歌の表現への流用には、発想の相当の模倣が為されており、それを拒否するには日本の文化の貧弱さがあったのだろうことが推量される。然も男尊女卑という文化レベルの低さが、男が女性像の理想を「待つ女」という偶像を創り上げ、それを当時の女性たちは、日常の暮らしの中の教育によって洗脳されていったのだ。文学の素養さえなかった女性たちに代わって狡猾な男たちが女性の真似を詩歌の中で表現しようとさえした。源氏物語もその体制の下に咲いた仇花ではないのだろうか。 ・表の文学としての「文選」と、裏の文学の「玉台新詠」が編集され裏の文学では、女性の心情を男が女心を詠うという梁の時代の作品が多数作られているそうだ。その伝承を日本にも持ち込んだようだ。日本の貴族社会でそれが文学として男性優先の文化を形成していったのだろう。それは人びとの観念として、男尊女卑という思想の基盤をも確立した。古代の文学の「待つ女」の理想像は、男たちの創作に過ぎない。 ・へ2・・・バラ園の華麗な薔薇たちも、男の手によって作られているだろう。薔薇の根元を見れば、荒々しい剪定の姿でもある。創られた花だということを強く感じた。人間の形質も或いは環境によってそれほどでも変化していくに違いない。人間も簡単ではないが、長い年月をかけて創られてもきたのだ。それがミームでもある。細胞だけの遺伝ではない。人の心も創られてもいる。それは善や悪の世界のような単純なものではない。種としてのヒトの拠って立つ由来のものでもある。さて、私の人生の駒はどちらに向いて今日歩きだすだろうか?
2009.05.27
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この世界で、敵と味方があり、その闘いを止められない。思えば、私たちの個体は、己と己以外という境界だ、ひとつのヒトという「嚢」を造ってもいる。人間は、悪魔ではないが、時として悪魔も及ばないことをしでかす。そも悪魔もひとがつくった物でしかない。愛憎は宿命だという人もいる。併し、その「愛情」も「憎悪」も両極にあるのではない。謂わば「隣り合わせ」だろう。人間は、自分で造った恐怖に怯えて大きな過ちを犯しさえする。戦争状態の兵士たちが繰り返す虐殺はそのことを物語るだろう。その恐怖から逃れようとして銃を乱射し、自暴自棄になって人間の尊厳に泥足で踏み込むのだ。「神」や「悪魔」がいなければ、生きていけなかった世界を、私たちは歴史を学んで知っている。そして、そこから、雄々しく立ち上がり現在、21世紀を迎えた67億人の人間がいる。一部の人間でしか、この高度な社会を謳歌することはできていない現実がある。それを無視していいはずはないし、知らないで済まされない。だが、私たちはいま何をしているのだろうか。自分たちの祖先が造った社会的動物である世界をコントロールすることさえできないでいる。もう右脳は、この環境や状況を知って、何をしなければならないか理解しているが、左脳に「置き換えること」ができないのだろうか。それを翻訳してみせる人間を待っているが、「奇跡」とも呼ぶべきそのときはくるであろうか。
2009.05.27
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「源氏物語」葉、或る意味底なし沼のようなものなのだろうか。それとも一端入ったら出て来れない原生林のような気さえする。どうも足が遠のいてしまう。ほんの一握りの上流貴族の物語でしかないフィクションでもある。高い評価もあれば、マイナーなものでしかないという見解もある。ただ庶民の暮らしとはかけ離れた世界であったことは事実だろう。それを研究している人たちが、意味がないというのではない。問題は何をテーマにして県教がされているか明確にされているかだろう。ことばの海に呑み込まれてはいないか。 文章は経国の大義にして不朽の慶事なり ・文学が政治と不可分だと考えられていた男性社会が長く存在し、女性が人間扱いされていなかった時代の文学が何の意味があるかという価値観の世界がある。男性社会が、男性が女性の立場で詩歌を創作したのだという事実に目をそらせるべきではない。女性の心情というものが、安易に扱われてもいたのだろう。 ・へ2・・・「待つ女」などという言葉がねつ造されて、それに洗脳されてしまった女性たちの子孫がいるのではないだろうか。女性が美しくあらねばならない理由などないのだ。固定観念でものを考えているようでは、先はないと思う。明日歩けるだろうか。そんなことは明日に聴くしかない。そろそろ眠くなってきたが、まだ一日が終わった気がしない。
2009.05.27
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寺子屋は近世になって生まれた初等教育である。近世は、謂わば寺小屋時代といえる。状況は違うが学ぶ姿勢は変わらない。今まで、「KEIO-OCW」 の政治学講義一覧を観ていた。メモより・「権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼は、自ら権威であろうと願い他のものを服従させようと願う」 SM的権威主義。・宗教改革は、「人間に対する教会の支配を排除したのではなく、寧ろ従来のものと別の形態による支配に代えただけだ。」 ( ウェーバー )・戦争で人殺しを楽しむ者と、われわれとの道徳心に大きな開きがあるという考えは「正常」という概念を支える幻想に過ぎない。虐待された子どもは、虐待する親になる。残虐行為を減らすためには、暴力に埋もれた叫び声に耳を傾けることのできるようにならねばならない。戦争という盲目的な儀礼から抜け出す唯一の方法は、怒りの代わりに悲しみを学ぶことである。 (サム・キーンより)・「他者の悲しみにやさしい文化を創らねば、平和はない。」(野田正彰より)・「ある人は、他の人々が彼に対し臣民たる態度をとるがゆえに王である。ところが彼らは彼が王であるがゆえに自分たちは臣民であると信じている。」(資本論より)・「紛争こそは、政治の本質である。政治に従事する人びとは、皆一律の闘争に従事している。弾丸の戦いでない場合にも投票の戦いに、軍隊の戦いでない場合にも修辞の戦いに、戦略の戦いでない場合にも説得の戦いに従事しているのだ。」(丸山真男「政治の世界」)
2009.05.27
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「現代シンガポールにおける「中間階層」の研究」(財)アジア女性交流・研究フォーラム専門委員会の5リポートを編集したものだ。ASEAN諸国の「中間階層」についての調査プロジェクト研究だ。ASEANでの「ミドルクラス」の役割の重要性を位置づけようとするものらしい。「学歴社会」といわれるシンガポールは、学歴と仕事の種類、収入との相関関係が極めて強い。日本よりも寧ろ厳しくもあり、ドラステックでさえある。Oレベル(高校入試)、Aレベル(大学入試)試験の結果で、その後の人生に進路が決まる。就労の約70%が永続雇用で、収入の安定が見られる。政府の発表では83%が「中間階層」で、フラット所有者でもある。隣接する周辺国家がイスラム国家であり、多民族国家のため複雑で、必ずしも国家は一枚岩ではない。国語(マレー語)1990代には、東南アジアで最も成功した国の一つと言われた。これは、1965年にマレーシアから分離独立して、リー・クワン・ユー政府が長期政権を継続したことによる。人民行動党を主体とした実力社会のエリートたちが支配しており、宗教的にも多くの問題を抱えている。政府は、国民に、勤勉と自立を訴え、積極的な経済活動と達成への個人的な努力に大きく利する政策を取っている。自国メディアを統制し、他国からの影響の排除に懸命だ。むしろ禁欲的ですらある。問題は、個人に対する社会保障の仕組みを殆どもたないことだろう。誰でも「自助努力」で生きることを望んでいるが、それは理想でしかない。現実は、社会保障によって、補完されるのではないだろうか。リポートを読んでいて、不満はあるが、他国を知ることが自国との比較において生かされるものがあるのではないかという思った。それでもまだ要点を搾る必要があるだろう。
2009.05.27
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