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上杉憲顕=のりあきは南北朝時代の武将で、建武政権崩壊後、足利尊氏・直義に従って各地を転戦しました。 ”上杉憲顕-中世武士選書13”(2012年11月 戎光祥出版刊 久保田 順一著)を読みました。 足利直義の忠臣として南北朝の動乱を生き抜き、足利基氏の近臣として初期鎌倉府を牽引して、関東管領上杉氏の礎を築いた名将・上杉憲顕の生涯を紹介しています。 1336年に上野国守護となり、暦応年間以後、高師冬とともに鎌倉府の足利義詮、基氏を補佐し、越後国守護も兼ねました。 観応の擾乱で直義方として尊氏方の高師冬を鎌倉から追い、甲斐に滅ぼしました。 その後、直義は尊氏に殺害され、憲顕も両国守護職を没収されました。 1362年に基氏によって再び両国守護となり、翌年に関東管領に任じられました。 久保田順一さんは1947年前橋市生まれ、1970年東北大学文学部史学科国史専攻卒業、群馬県立高校教諭を務めました。 退職後、現在、群馬県地域文化研究協議会副会長、榛名町誌編纂委員会専門委員を歴任しました。 これまで上野の中世在地社会の研究を行ってきましたが、その中で上杉氏について触れることはしばしばあったものの、まとまった形で論じることはなかったそうです。 様々な史料に当たって検討する中で、いくつかの新たな発見や再確認もあり、それらを論述しながら改めて南北朝の内乱を考えるという有意義な時を過ごせたといいます。 上杉氏は勧修寺流藤原氏の一族で、上杉重房が宗尊親王に供奉して関東に下り、有力御家人足利氏と結びつき、その家政機関の一員となりました。 一族の女性が足利氏当主の家時・高氏の母となったことなどから頭角を現しました。 重房の孫の憲房は尊氏に謀反を勧め、鎌倉幕府滅亡に功をあげました。 憲顕は1306年に憲房の子として誕生し、鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において、関東では足利尊氏の弟・直義が、後醍醐天皇の皇子・成良親王を報じて鎌倉将軍府を成立させました。 1334年1月に成良の護衛として関東廂番が置かれ、六番39名のうち二番番衆の一人として名前が見られます。 1335年に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属しました。 1336年1月に憲房は尊氏を京都から西へ逃がすため、京都四条河原で南朝方の北畠顕家・新田義貞と戦って戦死しました。 弟・憲藤も1338年に摂津国で顕家と戦って戦死したため、憲顕が父の跡を継ぐところとなりました。 同年に尊氏の命により、戦死した斯波家長の後任として、足利義詮が首長の鎌倉府の執事に任じられました。 しかし、その年のうちに突如高師冬への交替を命じられて上洛、2年後に復帰したものの、師冬と2人制を取る事になりました。 同僚である師冬が常陸国の南朝勢と戦ったのに対し、1341年に守護国となった越後国には、憲顕配下で守護代の長尾景忠が入国し、その平定に尽力しました。 1349年観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から京都に呼ばれ、義詮に代わって足利基氏が鎌倉公方となり、京都から鎌倉に下向しました。 憲顕は師冬と共に基氏を補佐しましたが、直義方の上杉重能が高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗するところとなり、子・能憲と共に尊氏に敵対しました。 1351年に鎌倉を出て上野に入り、常陸で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として基氏を奪取しました。 次いで甲斐国に落ちた師冬を諏訪氏に攻めさせ、自害に追い込みました。 さらに直義を鎌倉に招こうとしたため尊氏の怒りを買い、上野・越後守護職を剥奪されました。 1352年に直義が死去して観応の擾乱は終結しましたが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃国に追放されました。 しかし、尊氏が没し2代将軍となった義詮と鎌倉公方となった基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した憲顕を、密かに越後守護に再任しました。 1362年に関東管領・畠山国清を罷免し、これに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐し、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとしました。 この動きを知った上野・越後守護代で宇都宮氏綱の重臣・芳賀禅可は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとしましたが、武蔵苦林野で基氏の軍勢に敗退しました。 これに口実を得た基氏軍は討伐軍を宇都宮城に差し向けましたが、途中の小山で小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止されました。 こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって、代々の東国武家の畠山国清と宇都宮氏綱が務めていた、関東管領職と越後・上野守護職は公式に剥奪されました。 新興勢力の憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなりました。 1367年に基氏が死去し、翌年、憲顕が上洛した隙に蜂起した河越直重らの武蔵平一揆の乱に対して政治工作で対抗しました。 関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房が幼少の足利氏満を擁して、河越に出陣し鎮圧するのを助けました。 これにより、武蔵など鎌倉公方の直轄領をも、上杉氏が代々守護職を世襲することとなりました。 引き続き新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力の鎮圧に後陣で当たりましたが、老齢のために足利の陣中にて死去しました。 墓所は高幡不動尊の境内に置かれ、上杉堂、上杉憲顕の墳などと称されています。 憲顕は足利氏に従って東奔西走し、南北朝の動乱を生き抜いて上杉氏発展の基盤を造りました。 最後は幼主を盛り立てて権力を握り、成功裏に終わった人生のようにみえますが、動乱の中でその人生は失意と嵯鉄に満ちたものでした。 1336年1月の京都合戦での敗北、1337年12月の北畠顕家との富根河合戦での敗北、1352年の薩壕山合戦での敗北、父憲房や兄憲藤らの討ち死に、主と仰ぐ直義の死などなど。 多くの悲痛な体験がありました。 成功ばかりではなく、多くの失敗から立ち直って築いた人生であり、憲顕の生き方は今の我々にも通じる所があるのではないかといいます。第1部 上杉一族の鎌倉進出 第一章 勧修寺流藤原氏/第二章 上杉氏の成立第2部 関東掌握への道 第一章 鎌倉幕府の滅亡と憲顕/第二章 越後・上野の支配/第三章 観応の擾乱と憲顕第3部 没落から、再び栄光の座へ 第一章 薩堆山合戦と憲顕の失脚/第二章 雌伏の時代/第三章 再び関東管領に/第四章 憲顕の妻子とその後の山内上杉氏参考文献/上杉憲顕関係年表/あとがき
2018.06.30
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“東北のハワイ"をコンセプトにするスパリゾートハワイアンズは、常磐興産株式会社が経営する大型温水プール・温泉・ホテル・ゴルフ場からなる大型レジャー施設です。 温泉を利用した5つのテーマパークがあり、スプリングタウンは水着を着用して楽しめ、打たせ湯、オンドル、ミストサウナ、ボディシャワーなどで構成されています。 ”「東北のハワイ」はなぜV字回復したのか-スパリゾートハワイアンズの奇跡”(2018年3月 集英社刊 清水 一利著)を読みました。 東日本大震災の影響で利用客が2011年度は38万人に激減したものの、翌年度140万人2013年度150万人とV字回復しました。 その福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの秘密を、解き明かそうとしています。 温泉浴場パレスは裸で入浴する大浴場で、960平米の大浴場で12種24浴槽の温泉施設です。 スプリングプラザは幅20米、高さ3米の滝が印象的な広場です。 江戸情話・与市は浴場面積1,000平米、江戸時代の雰囲気がある世界最大の大露天風呂で、ギネス・ワールド・レコーズに認定されました。 宿泊施設は、ホテルハワイアンズ、モノリスタワー、ウイルポート、クレスト館です。 ゴルフ場はスパリゾートハワイアンズゴルフコースで、3コース・27ホールです。 清水一利さんは1955年生まれのフリーライターで、PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰しています。 2011年3月11日、新聞社の企画でスパリゾートハワイアンズを取材中に東日本大震災に遭遇し、スタッフや利用客らとともに数日間の被災生活を強いられた経験があります。 スパリソートハワイアンズは、東京から約200キロ離れた福島県いわき市にあり、前身は、まだテーマパークという概念がなかった1966年にハワイをテーマに誕生しました、 その名も懐かしい常磐ハワイアンセンターです。 もともといわき市には大きな探鉱がありましたが、1950年代後半に炭鉱産業の斜陽化が表面化しました。 そして、1964年に常磐湯本温泉観光株式会社設立、1965年に常磐音楽舞踊学院設立、1966年に常磐ハワイアンセンターがオープンしました。 高度経済成長を遂げる日本に於いて、1964年に海外旅行が自由化されたものの、庶民には高嶺の花という時代に、東京方面から多くの観光客を集めました。 大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として、年間120万人強の入場者を集たのです。 年間入場人員は1968年には140万人を突破し、1970年には155万3千人となりピークに達しました。 しかし以降は、入場人員は日本の経済状況に合わせて減小し、1975年には年間110万人にまで落ち込みました。 1976年はやや入場人員が増加したものの、1977年以降は年間100万人から多くても年間110万人程度で横ばい状態が続きました。 1984年に初めて営業赤字を計上しましたが、1988年に常磐自動車道がいわき中央ICまで全線開通し、首都圏から一気に来場者が増え、年間140万人超まで増加しました。 これを機に総事業費50億円をかけてリニューアルを始め、1990年のオープン25周年を機にスパリゾートハワイアンズに改名して、スプリングパークをオープンしました。 同年および翌1991年は年間140万人超の入場人員がありましたが、バブル崩壊で1992年には年間120万人台にまで減少しました。 1994年には年間110万人前後となり再び営業赤字を計上しましたが、1997年に日本一の大露天風呂をオープンして年間120万人を回復しました。 これまでの、ハワイ、南国というコンセプトに加え、屋内プールや温泉を備えた施設が美白を求める女性の需要に合致しました。 さらに、東京や仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなど、集客努力が功を奏したものと考えられています。 2000年にアクアマリンふくしまが開館して人気施設となり、いわき市内で回遊性が生まれました。 2005年には、常磐ハワイアンセンター時代の1970年以来の年間利用者数150万人を達成しました。 2006年には映画”フラガール”が全国公開され、翌2007年には過去最高の年間161万人の入場を記録しました。 そしてあの東日本大震災が起きた2011年3月11日に、著者はある新聞社の仕事で生まれて初めてハワイアンズを訪れていました、ということです。 東京に帰れなくなった被災者の一人だったのでした。 あの日を境に、東北の状況は至るところで大きく変わりました。 それは、スパリソートハワイアンズももちろん例外ではありませんでした。 入場者数、当期利益とも激減して、会社始まって以来の危機といってもいい事態に陥りました。 当時、このままでは施設も会社も存続できないかもしれないという不安にとらわれましたが、ハワイアンズは不死鳥のように蘇ったのです。 映画でも有名なフラガールは、スパリゾートハワイアンズ・ダンシングチームです。 ウォーターパーク内常設会場ビーチシアターにおいて、ほぼ毎日、公演が昼夜1回ずつ行われています。 このフラガールによる全国きずなキャラバンは、震災の1か月半後かいわき市内の避難所からスタートしました。 かつてまだ風当たりが強かった50年前、初代のフラガールたちは、崩れゆく炭鉱社会と家族の生活を、自分たちの手で何とかしなくてはいけないと頑張ったのです。 同じように、平成のフラガールたちも、未曽有の大地震と原発事故で危機に直面した故郷を目の当たりにして、今こそ自分たちか立ち上がらなくてはならないと思ったのでしょう。 全国きずなキャラバンの成功を受け、震災後もフラガールは地元いわきや福島のみならず、東北復興のシンボルとして全国区の人気を集めました。 開業以来、50年を超えた今もなお、同施設は各種の温泉や温水プール、フラガールのショーなどが楽しめる人気のリゾート施設です。 ハワイアンセンターがオープンし、初年度から予想を上回る大成功をおさめるとすぐ、全国には類似の施設がいくつもできました。 しかし、それらはすべて2、3年のうちに経営が行き詰まり、まもなく消えていきました。 そんな中、ハワイアンズだけが今日まで変わらず生き延びることができたのは、いったいなぜなのでしょうか。 この施設の何が人々をこれほどまでに惹きつけ今も人気になっているのでしょうか、そして、常磐興産は、その人気を維持するためにどんな努力をしてきたのでしょうか。 幾多の危機や試練を乗り越えることができたのには、二つの大きな要因があります。 一つは、常磐炭礦時代の一山一家の精神が社員の中に息づき、探鉱代を超えて辛苦に打ち克つ力になっていたことです。 ハワイアンズに関わってきた人間たちが、誰一人ぶれることなく一山一家の考えを貫いてきました。 もう一つ、絶対に忘れてはいけないのは、会社を率いるトップの決断力です。 経営が安定している企業、危機に見舞われても立ち直ることのできる企業は例外なく、強い統率力で社員を引っ張るトップの存在があります。第1章 3・11からのV字回復/第2章 創業者の経営哲学/第3章 追い風と逆風/第4章 東北復興の未来戦略/第5章 「生き延びる企業」とは?/終章 「進化した一山一家」を目指して
2018.06.23
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調味料は、料理の素材を引き立て、味付けの決め手となり、古くから用いられてきました。 世界で最も広く使われている調味料は、塩、酢、砂糖です。 ”醤油・味噌・酢はすごい-三大発酵調味料と日本人”(2016年11月 中央公論新刊 小泉 武夫著)を読みました。 日本の代表的な発酵調味料、醤油・味噌・酢の生成過程、興味深い歴史と文化、驚くべき機能などを詳しく紹介しています。 東アジア、とくに日本では、みそ、しょうゆといった、ダイズ原料の発酵調味料がきわめて広範囲に利用されています。 ダイズの原産地が東アジアであったからです。 しかし、ヨーロッパではダイズの栽培利用が行われていなかったため、そうしたものはありませんでした。 小泉武夫さんは1943年福島県生まれ、実家は小野町の酒造家で、田村高等学校、東京農業大学農学部醸造学科を卒業後、東京農業大学より農学博士号を取得しました。 1982年に東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授、1994年に財団法人日本発酵機構余呉研究所所長に就任しました。 2009年に東京農業大学を定年退職、同大学名誉教授、この間、鹿児島大学客員教授、別府大学客員教授を歴任しました。 現在、広島大学、鹿児島大学、琉球大学、石川県立大学等の客員教授を務めています。 専門は、発酵学、食品文化論、醸造学です。 発酵調味料の醤油・味噌・酢は、日本の食卓に欠かせないばかりか、海外での需要も年々高まっています。 日本人は昔から、美味な食べものや美味しい料理、体にとって大切な食べものなどを、知恵と工夫によって編み出してきました。 その中には、目にも見ることのできない微細な生きもの、微生物を使って造り出したいくつかの発酵食品もあります。 中でも、味付けの基本となる発酵調味料の醤油、味噌、酢を、すでに奈良時代から食卓へ登場させていました。 これは、地球上の多くの民族の中でも、特筆すべきことであると言えましょう。 もしも日本にこの素晴らしい調味料が生まれていなかったら、日本人の食文化はとてもみすぼらしいものになっていたでしょう。 この三つの発酵調味料には関連性があって、醸造学的視野から造り方を見たり、発酵学的視野から発酵徽生物を見ると、互いに共通した幾本かの線によって結ばれています。 それは、日本人の大昔からの稲作あるいは米食の文化と密接につながっているのです。 昔から日本人は水田で稲を育て、その田圃を囲む畔に大豆を植えて同時期に収穫してきました。 これを食事学的に考えてみると、水田は飯であり畔は醤油あるいは味噌汁であって、ここに日本人の食の原風景が読めます。 日本には特有の気候風土があるため、我が国の国菌である麹菌が、地球上最も旺盛かつ強健に分布棲息しています。 この菌が米や大豆、麦に繁殖して麹をつくり、醤油、味噌、米酢が得られるのです。 初見は奈良時代の播磨国風土記にあり、神様に捧げた蒸米にカビが生え、それをカビタチと言いました。 さらに、カムタチ、カムチ、カウジ、コウジに語源変化して、今日の麹に至っています。 醤油、味噌、米酢を造るのには、共通した麹菌の応用が大昔から続けられてきました。 この三大調味料はまた、日本人の食生活においても共通した役創を担ってきました。 それはまず、味噌と醤油の美味しさと、酢の酸っぱさといった味の演出です。 味噌汁がなければ一汁三菜を基本とする和食は成り立たず、醤油がなければ日本食文化ならではの魚介の刺身も食べられず、酢がなければ酢知えや酢〆はできないし鮨もできません。 これらの三つの調味料をさらに調理学的視野から見てみると、そこには食の保存という共通のキーワードか宿っています。 まだ冷蔵庫などなかった時代には、味噌漬けや醤油あるいは溜漬け、酢漬けにしておくことにより、食べものは腐敗から逃れることかでき、美味しく永く貯蔵することができました。 さらにこれら三種の発酵調味料は、生臭みを消すのには魔法のような力を持ち、とりわけ地球上最も大量に魚を食べる日本人にとって、最も理想的調味料なのです。 また、醤油、味噌、酢は日本人の食事の基本である粒食と実によく調和しています。 おむすびに味噌あるいは醤油を塗ってそのままでも、それを焼いても粒の飯と実によく合って美味しいです。 さらに日本人のみの食法である握り鮨では、飯粒に酢を加え、それを握った酢と飯の相性は、生の魚介まで巻き込んで絶妙の美味しさになります。 また、この三つの発酵調味料は、いずれも神格化され祀られているという点も誠に日本的です。 日本の各地には、味噌神社や味噌天神があったり、醤油や酢を祀る神社があります。 発酵調味料は、日本の各地においては地域性の違いによって醸され方や風味の強弱、好み、さらには使い方などに差異かあり、それが地域の食文化として残ってきました。 これらのことは、日本人がいかにこれらの調味料を大切にしてきたかを物語ります。 このように、醤油、味噌、酢は、日本人にとって切っても切れない重要な嗜好品です。 また、味噌や酢には健康を維持し、老化を防ぐ保健的機能性がしっかりと宿っています。 近年の科学的知見をふまえ、血圧上昇や肥満の抑制、発ガン予防などの驚くべき効能も紹介されています。 発酵調味料の歴史や周辺の食文化、さらには現状と今後を理解することは、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された今こそ時宜を得たものです。 発酵興味料が日本に誕生していなかったら、今日のこの民族の繊細で大胆、粋にして大らかな味覚の生理的感覚は育っていなかったでしょう。 日本料理の何もかも、醤油、味噌、酢がなかったら何も語れません。 まさに天下無敵の調味料なのです。第1章 醤油の話-塩のこと/醤油の歴史/醤油ができるまで/日本の魚醤/日本人の醤油観/醤油の現状とこれから 第2章 味噌の話-味噌の歴史/味噌の造り方と種類/味噌の成分/豆味噌のこと/郷土にみる味噌の名産地/味噌の料理と調理特性/味噌の神技、諺と民話/味噌の保健的機能/味噌の現状とこれから 第3章 酢の話-「酢」とは/日本の酢の歴史/酢の造り方と種類/酢と日本人の料理/酢と鮨/酢の保健的機能/酢の現状とこれから
2018.06.16
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プラネタリウムや星・宇宙を仕事のパートナーにするようになって、まもなく20年になるといいます。 ”人はなぜ星を見上げるのか 星と人をつなぐ仕事”2016年8月 新日本出版社刊 髙橋 真理子著)を読みました。 つなぐ、つくる、つたえるをキーワードに、星を介して様々な分野と人をつないでいる宙先案内人による20年間の仕事の記録です。 高校生のときに出逢ったぞオーロラを追いかけ、大学卒業後の大学院では5年間研究生活を送っていました。 取り組むテーマを見出せずに行き詰まったとき、人生に最も大きな影響を与えた一人で、オーロラやアラスカに駆り立てた写真家の星野道夫さんの突然の訃報に接しました。 星野道夫さんは1952年千葉県生まれ、慶應義塾高校を経て慶應義塾大学経済学部卒業の、写真家、探検家、詩人です。 1978年にアラスカ大学野生動物管理学部に入学し、アラスカの大自然の中で、自然と人の関係性をテーマに、多くの写真と文章を残しました。 1996年にテレビ番組の取材のため滞在していたロシアのクリル湖畔に設営したテントでヒグマの襲撃に遭い、43歳で死去したのです。 髙橋真理子さんは1970年埼玉県生まれ、北海道大学理学部を経て名古屋大学大学院でオーロラ研究を行いました。 星野道夫さんの訃報に際し、いつかミュージアムをつくるという夢を思い出し、科学館で修行を積むことを決心しました。 1997年から山梨県立科学館天文担当として、全国のプラネタリウムで類をみない斬新な番組制作や企画を行いました。 2013年に独立し、宇宙と音楽を融合させた公演や出張プラネタリウムを届ける仕事を行っています。 最新スペースエンジンUNIVIEWの描く壮大な宇宙映像と、音楽と語りが融合したSpace Fantasy Liveを学校や企業ホールで行ないました。 他にも、移動プラネタリウム、キャリア教育に関する講演、星・宇宙に関するイベント企画、番組制作、運営に関するコンサルタント、プラネタリウム職員研修などを行いました。 2014年からは、病院や施設に星を届ける病院がプラネタリウムを重点的に行っています。 作曲家・ピアニストの小林真人さん、作詞家・詩人の覚和歌子さん、音楽家の丸尾めぐみさんなどとともに、多面的な宇宙を見せています。 2008年人間力大賞・文部科学大臣賞を、2013年日本博物館協会活動奨励賞を受賞しました。 現在、星空工房アルリシャ代表、星つむぎの村共同代表、日本大学芸術学部・山梨県立大学・帝京科学大学非常勤講師を務めています。 青春の日々に、研究で落ちこぼれ、自分は何を目指していたのか、ほんとうは何をやりたかったのかと自問自答したことがありました。 やがて、自分とは何かという答えのない深みへと発展し、その井戸に降りたまま、しばらく抜け出られない日々が続きました。 どうにも答えが出ずアラスカに出向いたことが一つの光となり、見失った自分を取り戻すことができたといいます。 北海道の自然に魅了され、多くの人々に出会った多感な大学時代を経て、大学院で自然科学の研究の現場に触れてきました。 今の目標は、サイエンスと社会の接点をつくりだすことにあるそうです。 サイエンスそのものより、人間と自然そのものに対する思い入れのほうが強いのです。 ただ、人がやるからサイエンスが面白いのであり、自然があるからサイエンスがあるのです。 その視点から、なるべくたくさんの人にとってサイエンスが文化になれば素晴らしいなと想っているそうです。 自然に対する愛情や、好奇心がサイエンスをつくりだすということを、研究の現場と一般の人々をつなげられる場所を提供することによって伝えたいといいます。 サイエンスを知ることで、得られる新たな驚き、発見がどこかで人間や自然を愛することにもつながるのではないでしょうか。 ほんとうにつながるかどうかはわかりません。 けれど、人と人をつなげ、多くの人生を知り、多くの考えに出会います。 そうした営みの中にサイエンスがあるということ、驚きは自然が与えてくれるものだということは確信をもっていえます。 星野道夫さんにオーロラに憧れた高校生は、研究者から星と人々をつなぐ仕事にふみだしました。 星空と対峙することの意味を考え、多くの人々に出会い、心から幸せと思える仕事をやってきました。 さまざまな実践の中で気づかされてきた星の力を、必要とするであろう人のところに届けるべく、2013年から宙先案内人として活動を始めました。 そして2016年に科学館を退職し、星つむぎの村という団体を立ち上げ、あらたなスタートラインに立ちました。 本書は、その仕事に至った背景と、多くのかけがえのない出逢いを語り、星と人とをつなぐ仕事を通して見えた人の思いを述べています。 星は、いつもみんなの上で輝いていて、なぜか夢や希望を与えてくれるものです。 ぜひ、空を見上げて、自分のこと、将来のこと、家族のこと、友達のこと、いろいろ考えてもらえるといいな、といいます。プロローグ-20年前の手紙から/1 そうだミュージアムをつくろう/2 子どもたちの宇宙を原点に/3 「オーロラストーリー」が生み出したもの/4 心の中の星空をドームに―プラネタリウム・ワークショップ/5 星空が教えるめぐる時/6 星を頼りに―ぼくとクジラのものがたり/7 星で心をつむぐ-星つむぎの歌/8 見えない宇宙を共有する/9 星から生まれる私たち/10 遠くを見ること、自分を見ること/11 戦争と星空―戦場に輝くベガ/12 星がむすぶ友情―宮沢賢治と保阪嘉内/13 ほしにむすばれて―人と宇宙のドラマ/14 震災の日の星空/15 手紙を書くこと、見上げること/16 音楽とともに/17 宙をみていのちを想う―医療・福祉と宇宙をつなぐ/18 星を「とどける」仕事へ/エピローグ-星つむぎの村へ
2018.06.09
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蒲生氏郷は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主を務めました。 織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚し、文武両道にすぐれた武将として、戦国乱世を駆け抜けました。 ”蒲生氏郷物語-乱世を駆けぬけた文武の名将”(2011年6月 創元社刊 横山 高治著)を読みました。 現在の会津若松の基礎を築き、わずか40才でこの世を去った蒲生氏郷の生涯を紹介しています。 大将ながら戦場で抜群の槍働きをなし、平時は城下の整備発展に尽くしたという稀有の名将として知られています。 横山高治さんは1932年三重県津市生まれ、明治大学政治経済学部卒業、元読売新聞社会部記者で、読売新聞大阪本社にて河内支局長、連絡部次長などを歴任しました。 三重県平成文化賞、大阪府知事賞を受賞し、大阪歴史懇談会会長を務めました。 蒲生氏郷は1556年に、近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれました。 蒲生家は、日本の貴族の元祖、大職冠・藤原鎌足の流れを汲む名門藤原氏の一族です。 母は近江の国守、近江源氏・佐々木六角家の重臣・後藤播磨守の娘で、ともに名門の家系です。 幼名は鶴千代、初名は賦秀=やすひで、または教秀=のりひでと言いました。 1568年に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従しました。 鶴千代と会った信長は、”蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん”と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたといいます。 鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨きました。 岐阜城での元服の際には、信長自らが烏帽子親となり、弾正忠信長の一文字を与えられ、忠三郎賦秀と名乗りました。 1569年の南伊勢大河内城の戦いにて、14歳で初陣を飾りました。 戦後、信長の次女を娶って日野に帰国しました。 1570年4月に氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり、一千余騎で参陣し朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され5,510石の領地が加増されました。 その後、同年7月の姉川の戦い、1571年の第一次伊勢長島攻め、1573年4月の鯰江城攻め、8月の朝倉攻めと小谷城攻めに参加しました。 さらに、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年からの有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げています。 1582年に信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護しました。 そして、賢秀と共に居城・日野城へ走って、明智光秀に対して対抗姿勢を示しました。 光秀は山崎の戦いで敗死し、その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従いました。 1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたりました。 戦後、亀山城を与えられましたが、自身は入城せず家臣の関盛信を置きました。 1584年の小牧・長久手の戦いでは、3月に滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めました。 1585年の紀州征伐や富山の役にも参戦し、この頃に賦秀から氏郷と名乗りを改めています。 秀吉の諱の一字を下に置く賦秀という名が不遜であろう、という気配りからでした。 1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐でも活躍を見せました。 一連の統一事業に関わった功により、1590年の奥州仕置において、伊勢より陸奥国会津に移封され、42万石の大領を与えられました。 これは、奥州の伊達政宗を抑えるための配置だったと言われています。 会津において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置しました。 そして、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築しました。 築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から若松へと改めました。 氏郷はキリシタン大名で洗礼名をレオンと言い、会津の領民にも改宗を勧めました。 氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築きました。 1592年の文禄の役で肥前名護屋城へと参陣し、陣中にて体調を崩した氏郷は翌年11月に会津に帰国しました。 1594年春に養生のために上洛しましたが、この頃には病状がかなり悪化し、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷において享年40歳で病死しました。 蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継ぎましたが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封されました。 未完の天下人、文武両道の達人、蒲生氏郷は戦国の名将、申し子であり、戦国史上、ひときわ輝く名将です。 大変な戦略家にして文化人大名であり、もし氏郷が長生きをしていれば、大坂夏の陣も関ヶ原合戦も勃発せず、日本の歴史は少しは変わっていたかもしれません。 茶聖・千利休の言として、氏郷を”文武二道の御大将にて、日本に於いて一人二人の御大名”と讃美した言葉が伝わっています。 利休七哲の中でも氏郷は筆頭とされ、細川忠興と高山右近とは特に親しかったようです。 戦国武将としては珍しく側室を置かず二人の実子が早世したため、蒲生家の血が絶える遠因となりました。 不幸にして働き盛りの40歳で世を去り、蒲生家も四代で滅びましたが、氏郷は不朽の名将であり、今日の町づくりの先駆者でした。第一章 湖国に華やぐ日野・蒲生家 「荒城の月」ゆかりの会津鶴ヶ城/戦国風雲の申し子/蒲生の系譜/栴檀は双葉より芳し/近江源氏佐々木氏/痛恨の後藤騒動第二章 鶴千代、晴れの松坂初陣 織田信長、近江に侵攻/信長、鶴千代にひと目惚れ/伊勢大河内城に初陣/信長に従い各地に出陣/戦国乱世の先鋒/伊勢の関と神戸の両家/伊賀天正の乱第三章 信長、秀吉の天下布武 本能寺の変/日野篭城、秀吉に従う/清洲会議/伊勢路燃ゆ第四章 松坂少将、戦雲・金鼓の夢 松ヶ島城血戦と遷都/松ヶ島懐古/松坂開府/松阪を愛した文化人/氏郷はキリシタンか第五章 みちのく鶴ヶ城の会津宰相 会津転封/みちのく転戦/苦難の奥州平定/鶴ヶ城築城/会津の城下町づくり/氏郷名残りの茶道文化/会津の隠れキリシタン/氏郷と政宗、宿命の闘い/春の山風第六章 悲愁、春の山風 蒲生家残照/秀吉による毒殺説/晩歌
2018.06.02
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