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標高3776.24 mの富士山は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山です。 奈良・平安時代から江戸時代に至るまで多くの歌や随筆、絵画によって描かれてきた富士山は、いまや日本美の象徴であり日本人の心の山となっています。 ”日本人は、なぜ富士山が好きか”(2012年9月 祥伝社刊 竹谷 靭負著)を読みました。 日本最高峰の独立峰で優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られ、数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えてきました。 また、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている富士山は心の山だといいます。 竹谷靱負さんは、本名・竹谷誠、1941年東京生まれ、富士山北口の御師である竹谷家の長子で、父親は出生前に出征、戦死したため、母親の生家である東京・武蔵野市で育ちました。 ペンネームである竹谷靱負は、富士山北口に戦国期より約400年続く富士山北口御師である竹谷家の世襲名です。 早稲田大学理工学部応用物理学科入学、1967年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了、同年より日本電気株式会社中央研究所に勤務しました。 同社在職中の1981年に理学博士となり、1987年より拓殖大学工学部情報工学科助教授、1991年同大教授。2009年同大名誉教授となりました。 富士山学、富士山文化、富士信仰(富士講、富士塚など)に関する研究にも取り組み、現在、富士山の文化研究、富士山学専門家の第一人者です。 富士山は古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視されてきました。 噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立されました。 また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになりました。 これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至りました。 富士山は、日本一の山-これについて異論を唱える人は少ないでしょう。 東京の東京らしさは富士を望み得る処にある、といって憚らなかったのは永井荷風です。 江戸っ子に限らず、富士山が予期せぬところで見えると何かしら得をした気分になりますし、その日一日よいことがありそうな予感がします。 それどころか、畏敬の念というか、手を合わせたくなるから不思議です。 なぜ富士山が日本一なのでしょうか、日本一高い山だからでしょうか。 そういえば、最近はあまり歌われなくなりましたが、明治43年の文部省唱歌「ふじの山」の歌詞を見ると、やはり高く聳える富士山だからこそ日本一ということになります。一 あたまを雲の 上に出し/四方の 山を 見下ろして/かみなり さまを下に きく/ふじは 日本一の 山二、青ぞら 高く そびえたち/からだに 雪の きもの きて/かすみの すそを とほく ひく/ふじは 日本一の 山 第三期・国定教科書『尋常小学岡語読本』巻六(大正7~12年)中にある「日本の高山」では、兄弟の少年が富上山について無邪気な会話をしています。 そして最後に、「高くて名高いのは、どの山ですか」「それは富士山さ」と書かれています。 明治28年に台湾が日本の統治下に入ったため、日本一の高山は台湾の最高峰・3952mの玉山になりました。 しかし、兄弟は、台湾を含めた当時の日本の中で、山の偉大さを高さだけでなく名高さでも測ると、日本一の山は富士山だと主張したのでした。 富士山に対する名高さの観念は、古代、万葉歌人・高橋虫麻呂は、富士を「くすしくもいます神かも」と詠ったことにも見られます。 古代の富士は噴火を続けていて、貞観の大噴火をはじめとする度重なる噴火により、古代人はそこに荒ぶる神の姿を見て、霊妙な富士のイメージを増幅していったのでしょう。 さらに、富士山の特殊性はその山容の美しさにあり、富士山が好きな理由を尋ねられたら、たいがいの日本人は「美しいから」「崇高に見えるから」「独立峰だから」などと答えるにちがいありません。 平安期から中世にかけての多くの絵画・絵巻にその誇らしげな姿が表現され、文学においても同様に、万葉歌人・山部赤人は富士を「神さびて高く貴き」と詠いました。 そして、江戸期の漢詩人・石川丈山は「八面玲朧、面向不背」と詠みました。 いずれも霊妙な富士のイメージに加え、完全なシンメトリーをもつ円錐形の山容が、美を醸しだしているという富士山讃歌です。 現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んです。 日本三名山、日本百名山、日本の地質百選に選定され、1936年には富士箱根伊豆国立公園に指定されています。 その後、1952年に特別名勝、2011年に史跡、さらに2013年6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録されました。 第一章「富士山は両性具有の山である」では、祭神論が語られています。 第二章「富士山は、神仙郷である」では、三峰論が考察されています。 第三章「富士山はどこにでもある」では、各地にあるところ富士(ご当地富士)を文化的に解説されています。 第四章「富士山は外国からも見える」では、富士山は蝦夷や朝鮮や琉球からも見えるといいます。 第五章「富士山は世界に誇る山である」では、葛飾北斎や横山大観の富士が取り上げられています。 そして、第六章では「富士山は心の山である」となっています。第一章 富士山は、両性具有の山である/富士山には、人格がある/遥拝する山から、登拝する山へ/富士山の祭神は、男神か?女神か?/庶民が登拝する山へ第二章 富士山は、神仙郷である/なぜ子供は、富士山をギザギザの三峰に描くのか?/富士山を三峰としたのは誰か/伝説と神話の中の富士山/富士図のイコノロジー第三章 富士山は、どこにでもある/「ところ富士」という文化/富士山と国粋主義/外国にもある「ところ富士」第四章 富士山は、外国からも見える/蝦夷からも、見えた?/朝鮮からも、見えた?/琉球からも、見えた?/日本型中華思想の表現第五章 富士山は、世界に誇る山である/北斎はなぜ、富士を仰がせたのか/横山大観の得た境地-「心神」第六章 富士山は、心の山である/「富士は心の山なり」/病んでいる富士山は、日本人の心の労(いたつ)き/「噴火後の富士」を想定する
2018.10.27
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人類はいまふたつの医学上の危機に直面しているそうです。 ひとつはペニシリンなどの抗菌薬が効かない薬剤耐性菌が蔓延し死亡者数が増加していることです。 もうひとつは感染症のみならず、アレルギー、ガン、肥満、ぜんそく、自閉症、生活習慣病、潰瘍性大腸炎などの患者数が増えていることです。 ”ガンより怖い薬剤耐性菌”(2018年6月 集英社刊 三瀬勝利/山内一也著)を読みました。 世界中で薬剤耐性菌が蔓延し将来において感染死者数がガン死者を上回る可能性があるため、耐性菌蔓延の現状と対処法を解説しています。 これらの危機は治療等で抗菌薬を乱用し、人が生きていく上で欠かせない腸内や皮膚の細菌・微生物を殺してきたのが原因です。 三瀬勝利さんは1938年愛媛県生まれ、薬学博士で、東京大学薬学部卒業後、厚生省所管の研究機関で種々の病原細菌の研究に従事しています。 山内一也さんは1931年神奈川県生まれ、東京大学名誉教授で、東京大学農学部卒業後、国立予防衛生研究所、東京大学医科学研究所などでウイルスの研究に従事してきました。 薬が効かない恐ろしい多剤耐性菌による感染症が、明日にもあなたを襲うかもしれませんと書くと、何と大げさなことを書く人だと一笑に付される人がいるかもしれません。 もっともなことですが、筆者(三瀬氏)自身に降りかかってきた問題だ、といいます。 2017年7月に都内の病院の検査で、大腸ガンと肝臓に転移したガンが発見されました。 ガンの全摘出手術は難しかったのですが、幸いにも日本有数の名医に巡り合い、2018年の春の段階ではいちおう落ち着いています。 このとき、肝臓の半分を切除する大手術だったこともあり、多剤耐性菌による手術後の感染が避けられませんでした。 退院した後、不注意もあり、多剤耐性菌による再感染が起こり、2ヶ月近くもの再入院を余儀なくされました。 その間、外科処置の苦痛や、多剤耐性菌の感染がもたらす強烈な悪心、嘔吐、悪寒、高熱などで悲鳴をあげることが再三でした。 もしも読者の中に、長年にわたって無用な抗菌グッズを使用したり、消毒薬や抗菌薬を乱用している人がいたら、自分が持つ腸内細菌叢などに多剤耐性菌が多くなります。 怪我や手術で入院した後には、多剤耐性菌による感染で悩まされるリスクが増大すると思われます。 現在の外科分野では、執刀医の手術の腕前はもちろん重要ですが、薬が効かない多剤耐性菌対策の適否が患者の入院期間の長さや生死までをも決定します。 現在の人類はさまざまな危機に直面していますが、医学の分野でも大変に大きな危機に直面しています。 あまり表だって語られることがありませんが、医学の分野での危機は2つです。 第一は、ペニシリンなどの抗菌薬が効かない薬剤耐性菌の蔓延による死亡者が急増していることです。 これまで肺炎などの感染症に効果があった抗菌薬が、効かなくなってきているのです。 イギリスの研究グループの調査によると、現在の状態が改められなければ、2050年には薬剤耐性菌による世界の感染症の死亡者数は年間1000万人に達すると予想されています。 現在世界中のガンによる死亡者数は年間880万人と推定されていますので、抗菌薬が効かない細菌による死亡者数は現在のガンを凌駕する恐ろしい数になります。 第二は、アレルギー、肥満、喘息、潰瘍性大腸炎などの患者数が急増しており、その増加にストップがかからなくなっていることです。 特に若者や幼児での急増が目立ち、患者数はほぼ毎年のように増加しています。 第一の危機と第二の危機が発生した原因は無関係のように思われますが、実は密接な関係があります。 人間は、ヒトと、ヒトの大腸内部などに共生する細菌などの微生物が分かち難く結合した複合生物という生物学上の新しいパラダイムが、アメリカのレダーバーグによって2000年に打ち立てられたました。 ヒトと共生している微生物とヒトは、それぞれの遺伝子群が結びついたキメラ状態になっている複合生物=超生物と見なされるべきだ、と述べています。 キメラという言葉は、複数の異なる生物に由来する組織や細胞などから成る複合個体を指しています。 我々の大腸などにはたくさんの細菌が棲みついており、その数は100兆個にも上ります。 こうした細菌は我々に免疫力をつける役割や、食べ物の消化を助けて栄養を与える役割、外部から侵入してきた悪辣な病原微生物を抑える役割など、実に多くの恩恵を我々に与えてくれています。 ところが、これら細菌の中で我々に有益な作用をもたらす善玉菌が抗菌薬などの乱用によって消滅したり、絶滅しかかっています。 抗菌薬は多くの悪玉菌をやっつけてくれますが、同時に共生している善玉菌の方も巻き添えを喰らって殺滅・追放されています。 その結果として、抗菌薬が大々的に使用される以前と比較して、アレルギー、喘息、肥満、潰瘍性大腸炎のような、難病などが急増しているのです。 ヒトに共生している腸内細菌叢の構成が異常をきたすことで引き起こされる病気には、先に挙げたアレルギーなどのほかに、クローン病、自閉症、リウマチなども含まれます。 我々と共生している細菌が殺滅されることが原因のひとつとなり、さまざまな病気が引き起こされているのです。 そればかりか、抗菌薬の乱用は、薬の効かない薬剤耐性菌を生み出し、感染症の死亡者数の増加に直結しています。 1940年代から始まった抗菌薬の医療への大規模な使用は、感染症の制御に多大な役割を演じてきましたが、いまや、新たな危機を人類にもたらしているのです。 細菌もある数以上になると情報交換をして共同戦線を張り、不利な環境などをやり過ごします。 例えば、ヒトが抗菌薬で細菌を退治しようとしても、細菌の方は全員で化学物質を出して連絡を取り合い、バイオフィルムという名前の生物膜の障壁を作って抗菌薬から逃れようとします。 一度、病原細菌がバイオフィルムを作ると、抗菌薬が障壁の内部に浸透できないために効果が激減し病気の治療は難航します。 ペニシリンをはじめとする抗菌薬が見境なく乱用されたため、細菌の側も防御態勢を取り始め、今や、ほとんどの病原菌で抗菌薬が効かない薬剤耐性菌が発生・蔓延し、薬剤耐性菌だらけになっています。 ウイルス感染症に抗菌薬を使うことで、我々人間の重要な構成部分である有用な共生細菌を殺し、同時に薬が効かない薬剤耐性菌を生産しているとも言えます。 近年は新しい抗菌薬の開発が非常に難しくなっており、ヒトには強い毒性を示しませんが、病原微生物だけに強い毒性を発揮します。 感染症の治療薬にふさわしい化合物の種類は、限定されていることを示唆しています。 本書では、我々人類が直面している危機の現状を紹介すると共に、微生物の特性や行動様式を紹介することで、具体的な感染症対策も提示しています。プロローグ 感染症の薬が効かなくなっている!/第1章 感染症の治療薬と薬剤耐性/第2章 抗菌薬の乱用がもたらした2つの災害/第3章 感染症を引き起こす病原微生物とその対策/第4章 ガンや循環器病の原因になる微生物/エピローグ 明らかになりつつある人体内の共生微生物の世界/用語解説/参考文献
2018.10.20
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松井友閑は織田信長の法体の側近で、舞の師匠を経て家臣となり、堺代官をつとめながら、将軍足利義昭や上杉・伊達・大友ら大名家、本願寺などのほか、逆心家臣との交渉役として活躍しました。 “松井 友閑”(2018年9月 吉川弘文館房刊 竹本 千鶴著)っを読みました。 戦国時代から安土桃山時代の武将で織田信長の信任篤く政権を支え、堺代官、外交交渉役としても活躍した松井友閑の生涯をたどる初の伝記です。 友閑は文化の才にも秀で、政権の茶の湯を統括し、大名茶湯の世界を作り上げ、晩年は文化人として過ごしました。 竹本千鶴さんは1970年神奈川県生まれ、1993年に國學院大學文学部史学科卒業、2004年に同大学院文学研究科日本史学専攻博士課程後期修了して、博士(歴史学)学位を取得しました。 現在、國學院大學・京都造形芸術大学講師を務めています。 松井友閑は京都郊外の松井城で生まれましたが、生没年はおろか、親、兄弟、家族もわかりません。 一般に知られている氏名は松井友閑ですが、それすらも確かな歴史史料にもとづいているとは言えないのです。 加えて、肖像画も残されておらず、いわばないない尽くしです。 松井氏は友閑の祖父の松井宗富が室町幕府8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々の幕臣として仕えていました。 友閑は12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えましたが、1565年に永禄の変で義輝が三好三人衆らによって暗殺されると、後に織田信長の家臣となりました。 1568年の信長入京後は京畿の政務にあたり、信長の右筆に任じられています。 右筆=ゆうひつは、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官です。 文章の代筆が本来の職務でしたが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになりました。 右筆は、部将の華々しい活躍と比べると一見地味な役同りのようですが、信長政権を内側から、つまり信長のかたわらで主君を支えた有能な側近衆でした。 友閑と信長との関係は、滋賀県の蘆浦にある観音寺に伝わる信長の書簡からうかがい知ることができます。 信長は観音寺に宛てて、当地に滞在しているイエズス会の医師を派遣するよう求めました。 理由は、友閑に腫れ物ができたのでその診察のためとありました。 状況によっては外科的な治療も必要となるので、その分野の知識を有する者を求めたのです。 これは、家臣を案じる信長の心中を読みとることができるエピソードでしょう。 信長にこれほど心配される友閑とは、いったいどのような人物であったのでしょうか。 信長の家臣といえば、羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家など軍事にすぐれた部将が有名です。 先に登場した右筆の武井夕庵や楠長請、そして京都所司代の村井貞勝ら主に内政に携わった者の存在も軽視することはできません。 ですが、友閑はたんなる事務方だったわけではなく、独自の部隊を持ち、ことのほか信長からの信任篤く、重用されている人物でした。 友閑に関わる史料をひもとけば、友閑が信長の吏僚として内政外交に、そして文化活動にと幅広く活躍した様子を見てとることができます。 信長から重用された友閑の足跡をたどり、その生涯を明らかにすることが本書の課題です。 友閑に関する研究は、主として二つの分野からなされています。 ひとつは、戦国期に自治都市として繁栄を極めた大坂・堺に焦点を絞った研究のなかで、代官としての友閑に着目したものです。 この関係で、友閑は文治的官僚として有能であったためにこの職についていたという指摘があります。 いまひとつは信長の家臣団研究のなかで、側近としての友閑に着目したものです。 この関係で、友閑の右筆説を否定したものがあります。 友閑の多岐にわたる才能はどこで培われたものであったのかは、はっきり分かりません。 謎めいた人物ですが、ただひとつ明らかなことは、信長なくして友閑の生き様を描くことは到底できなかった、ということです。 舞の師匠とその弟子からはじまったと思われる友閑と信長との関係は、信長のための名物収集にはじまり、客人接待や寺社に関する奉行を経て、堺代官の就任という主従関係にいたりました。 ですが、友閑は堺に常駐することはなく、信長の行動に合わせて移動する側近でした。 それはひとえに、友閑が信長の意を直接受け、それを伝達および実行するためです。 友閑はトップクラスの、ごく限られた吏僚のひとりとして、信長と奉行との間を取りもつなど、政権内における命令系統の中枢に位置しました。 また、対外的に信長にとって侮ることのできない存在でした。 上杉謙信との外交のため春日山城に赴き、将軍足利義昭と交渉しました。 本願寺との和睦に際しては、信長の御意実行役、代弁者として奔走し、大徳寺や石清水八幡宮などの寺社、伊達や大友といった大名との窓口ともなりました。 こうして友閑は内政外交にいかんなくその手腕を発揮し、果ては近衛前久や勅使など公家衆からも一目置かれる存在になりました。 友閑の行動の軌跡は、そのまま信長政権の発展過程をたどる旅でもあります。 信長のもとには多くの有能な家臣が集結していましたが、友閑のように多方面に、ことに政治と文化の両面で信長を支えた者はほかにはいません。 信長が唯一訪問した家臣の茶会は、友閑の茶席だけでした。 この一事をもってしても、信長と友閑との関係の深さをおしはかることができます。 こうした人柄と知性とが友閑の最大の持ち昧であり、またそれを武器に困難でデリケートな交渉や調停をなしとげてきました。 信長が信頼を寄せるのも納得の逸材であり、友閑もまた、信長からの篤い信任にこたえ、友閑の生涯は信長とともにありました。 本能寺の変当時、友閑は堺で茶会を催して徳川家康を歓待中であり、変を知ると上洛を目指しましたが途中で断念し、堺の町衆に変の勃発と信長の死を報じました。 変後は豊臣秀吉に接近し、堺の代官として以後も活躍しましたが、1586年6月14日に突然不正を理由に罷免され、その後の消息は不明です。 また、秀吉から利用価値を認められていた4年間、友閑が何を考えていたのかを示す史料は残されていません。第1 友閑点描 /出自/名前と号/素養/松井姓/子息とされる人たち第2 師匠から家臣へ /信長のための名物収集/饗応の場への参席/寺社奉行および取次第3 初期の活動 /堺での名物収集と代官就任/はじめての対外交渉/大徳寺と上賀茂社との相論第4 信長側近と堺代官の兼務 /将軍義昭との交渉と「堺衆」掌握/信長茶会での茶頭と蘭奢待截香の奉行/伊達家との外交第5 宮内卿法印として多忙な日々のはじまり /宮内卿法印任官/本願寺との和睦交渉/信長の妙覚寺茶会とその跡見/信長の御意伝達役第6 最高位の信長側近として /堺と京都を往復して/信長御成の茶会/政権下の茶の湯統轄と信長の堺御成/内政外交に活躍の日々第7 ゆるぎない地位、そして突然の悲報 /饗応役と勅命講和の交渉/「王国の寧日」/信長のもとでの最後の任務/亡君信長の重臣として第8 晩年 /混沌とする政局にのまれて/秀吉政権下における立場/堺代官の罷免とその後略年譜/参考文献
2018.10.13
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一般的に県境は、川の上だとか、山の稜線に沿って引かれていることが多いです。 ”ふしぎな県境-歩ける、またげる、愉しめる”(2018年5月 中央公論新社刊 西村 まさゆき著)を読みました。 日本各地の複雑怪奇な県境について、なぜ生まれたのか、実際に何があるのか、地元の人は不便ではないのかなど、県境マニアの著者が全国13ヵ所の県境を検証しています。 川の上や山の稜線に境目か実際にあるわけではなく、よくて県境かあることを示す標識やカントリーサインと呼ばれる看板か申し訳程度に立っているくらいです。 そのため、県境を見に行くという趣味は、境目は見えないけれどここか境目だと思うとテンションがあがるといいます。 形而上的な興奮や感動であるため、写真などのビジュアルでは伝えにくいというジレンマを抱えているそうです。 西村まさゆきさんは1975年鳥取県倉吉市生まれ、1996年に上京し編集プロダクションに14年勤務しました。 その後、フリーライターになり、主にインターネットサイトで、地図、地名、県境などに関する記事を執筆しています。 県と県を分け隔てる線、県境ですが、現地におもむくと、たいてい線すらも引かれていないところか多いです。 こんな県境にいったいどんな魅力があるのか、不思議に思う方も多いかもしれません。 たとえば、県境マニアというマニアが三県境と呼んでいるポイントがあります。 その名のとおり3つの県か境目を接する場所のことで、日本全国に48ヵ所あるといわれています。 そのほとんどが水上や山の上にあるため、実際に行くことはもちろん、近づいて見るといったことも難しいです。 しかし、そんな三県境のなかでも、渡良瀬遊水地そばにある群馬、埼玉、栃木の三県境は、日本で唯一、鉄道駅から歩いて数分で行くことかできます。 そのため、歩いて気軽に行ける三県境として県境マニアの聖地になっています。 そこはもともと川の上でした。 しかし、あの有名な足尾銅山鉱毒事件で発生した鉱毒対策で設けられた渡良瀬遊水地が造成される際、もともと県境か引かれていた河川の流路が変わったため、田んぼの中に突然三県境が出現しました。 つまり、県境が昔の河川の痕跡として存在しているのです。 群馬、埼玉、栃木の端っこが接する場所は、なんの変哲もないただの田んぼのあぜ道でしかありませんが、あぜ道をまたいで歩けば、たったの二歩で埼玉、栃木、群馬をわたり歩くことかできます。 ところが、県境マニアはそこで満足し珍しい場所にきたなでは終わりません。 なぜこんなヘンテコな境目が引かれることになったのかに思いをめぐらります。 県境は一見、空間と空間を分け隔てているだけのように見えますが、なぜそこに県境か引かれるよになったのかを考えると、たちまち時間を背負った存在にもなり深い意味が出てきます。 県境マニアは、県の境界線の、この線からそれぞれの県の広大な県土が始まっていること、そしてその境界線の歴史、そこに関わる人々の営みに思いをはせます。 ただの一筋の境界線を、地理や歴史をも含めた、立体的な魅力を持った境目として見ています。 境界の魅力は、県境のみに限りません。 町丁目の境界や市区町村境、果ては州境や国境に至るまで、境界となるものに関しては必ずそうなった理由が存在します。 境界マニアは、そういった目に見えない物語を肌で感じるために、さまざまな境界線をめぐるのです。 境目好きの人間であれば、何もなくてもこの道が群馬県と栃木県の境目かなどと、盛り上がることができます。 しかし、あまりそういうものに興味のない人を県境に連れて行っても、何がすごいのか今ひとつピンとこないことか多いです。 そこで、見ただけでひと目で境目かわかるような場所、そんな場所かあれば、県境初心者の人でも十分楽しめるのではないでしょうか。 そんな思いで目を皿のようにしてグーグルストリートビューを探していたところ、県境初心者でも楽しめそうな場所が東京都練馬区と埼玉県新座市の間にありました。 大泉学園駅からバスに乗り、目的の県境が近いバス停まで移動しました。 しばらくすると、県境近くのバス停の天沼マーケット前に到着しました。 バス停を降りると、県境はすぐそこにありました。 そこには、かつてこれほどまでに県境か明確にわかる場所はあっただろうかというほど、明らかに歩道のつくりが違っていました。 車道のアスファルト舗装も、ちょうど東京都練馬区と埼玉県新座市の県境で切れ目か入っています。 県境の明瞭さが予想以上で、練馬区のアスファルトは粒が粗くて擦ると痛そうと、皮膚感覚で県境を堪能できます。 県境がこれだけ目に見えてわかると、たしかに面白いです。 グーグルストリートビューで見られますが、やはり、本物を実際に見るというのは違います。 最近は境界探訪の趣味がこうじて、国境をめぐりはじめました。 まだそんなにめぐったわけではないですが、ドイツ、オランダ、ベルギーの国境、韓国と北朝鮮の軍事境界線、中国と香港の境界など、行けそうなところからめぐっています。 ただ、国境は、県境のように、軽い気持ちで境界にまたかって写真をとったりしてふざけることかできないところか多いです。 韓国と北朝鮮の国境である板門店に行ったときなどは、ピースなどはもってのほかで、引きつった笑顔で憲兵の横に近づき、記念写真を撮るのが精一杯でした。 一方、ペルギーとの国境に近いオランダにバールレ=ナッサウという町があります。 町の中に無数のベルギーの飛び地が存在し、さらに、そのベルギーの飛び地の中にオランダの飛び地が入れ子になっているといいます。 複雑な国境を抱えた町です。 オランダもベルギーもシェングン協定という、国境審査なしで国境を行き来できる協定に加盟しています。 この町の国境は、日本の県境ほどの気持ちで越境できるようになっています。 もちろん、境目をまたいでの記念撮影も可能です。 国境や境界の話になると、境界かあることの良し悪しを語ろうとする向きがあります。 しかし、境界がいさかいのもとになっているからと、区切るための目印でしかない境目を取り去ったとしても、それは問題の根本的な解決になるわけではありません。 境界線は、そこに境界を引く必要性かあって初めて引かれるものです。 そういった人の営みを、何十年、何百年と積み重ねてきてその形になっているのです。 いわば、境界線はその土地の歴史が刻み込まれた記念碑でもあります。 県境などの境界が、なぜそこに引かれているのかをニュートラルな目線で見つめ直すと、今まで気付かなかったことにいろいろと気付けるのではないでしょうか。1練馬に県境がひと目でわかる場所があるので見に行った/2店舗内に県境ラインが引かれているショッピングモール/3東京都を東西に一秒で横断できる場所/4「峠の国盗り綱引き合戦」で浜松と飯田が仲良すぎて萌え死にそう/5蓮如の聖地に県境を見に行く/6標高二〇〇〇メートルの盲腸県境と危険すぎる県境/7福岡県の中に熊本県が三ヵ所もある場所/8日本唯一の飛び地の村で水上の県境をまたぐ/9県境から離れたところにある「県境」というバス停/10埼玉、栃木、群馬の三県境が観光地化している?/11湖上に引かれた県境を見に行く/12カーナビに県境案内をなんどもさせたかった/13町田市、相模原市の飛び地の解消について担当者に話を聞く
2018.10.06
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