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室町時代において、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒す下剋上が起こりました。 応仁の乱によって将軍の権威は失墜し、その無力が暴露するに及んで、守護大名の勃興と荘園制の崩壊を招き、実力がすべてを決定する時代が現出したのです。 ”松永久秀と下剋上-室町の身分秩序を覆す”(2018年6月 平凡社刊 天野 忠幸著)を読みました。 室町時代初めに畿内を支配し室町幕府との折衝などで活躍し権勢を振るった松永久秀について、最新の研究成果から武家社会の家格や身分秩序に挑む改革者の側面を紹介しています。 下剋上の結果、将軍は管領に、守護は守護代に取って代られ、農民は一揆をもって支配階級に反抗するようになりました。 足利将軍が管領細川氏に、細川氏が家臣三好氏に、三好氏が家臣松永氏にそれぞれ権力を奪われ、松永久秀が将軍足利義輝を襲って自殺させました。 松永久秀は戦国時代の武将で大和国の戦国大名であり、官位を合わせた松永弾正の名で知られています。 三好長慶に仕えて頭角を現し、将軍から主君と同等の待遇を受けるなど権勢を振るいました。 天野忠幸さんは、1976年兵庫県生まれ、大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了、博士(文学)で、専門は日本中世史です。 滋賀県立大学、大阪市立大学、滋賀短期大学、関西大学、奈良県立医科大学の非常勤講師を務め、2016年から天理大学文学部歴史文化学科歴史学専攻准教授となり今日に至っています。 松永久秀は1508年生まれで、生い立ちについては不明な点が多く、山城国西岡の商人説、阿波国市場の武士説、摂津国五百住の百姓説など諸説があります。 著者は、妙福寺の伝承の信憑性から、摂津国五百住村に住む土豪であったとの説に拠っています。 久秀は32歳頃に細川晴元の被官・三好長慶の書記として仕えたとされています。 やがて、合戦でも能力を発揮するようになりました。 1540年に、三好長慶が連歌田を円福寺、西蓮寺、東禅坊の各連衆に寄進する内容の書状に、久秀の名が見られるのが初見です。 1542年には、三好勢の指揮官とし出陣した記録が見られます。 久秀は弾正忠、弾正少弼、山城守、霜台、道意とも言い、戦国時代の下剋上の代表として最もよく知られた戦国武将です。 小説やドラマでは、主家の三好氏や、将軍の足利義輝を暗殺し、東大寺の大仏を焼き払うなど、常人ではできないことを、一人で三つもしたことで恐れられたとされています。 さらに、織田信長に三度も歯向かいましたが、二度までも許されたとされています。 その最期は、1577年に信貴山城の天主で信長が望んだ平蜘蛛の茶釜を道連れに自害するなど、強烈な個性の持ち主として描かれています。 こうした多くの逸話から、久秀は忠誠心のかけらもない謀叛人、神仏を恐れぬ稀代の悪人というマイナスイメージがあります。 一方、実力主義の果断な名将、築城の名手、名物茶器に命を懸けた茶人というプラスイメージもあって、戦国乱世を象徴する人物として魅力を放ってきました。 ”信長公記”の作者・太田牛一は、将軍義輝を討ち取ったのは、三好長慶の養子義継と松永久秀の嫡子久通であるのに久秀としました。 別のところで、討ったのはすでに死去していた長慶としていて、正確な情報をつかんでいなかったために混同したようです。 また、”常由紀談”の作者・湯浅常山は、朱子学を重んじる立場から久秀を反面教師として、幕藩体制下の家格秩序を守ることを説こうとしました。 ”日本外史”の作者頼山陽は、久秀の三悪と、信長が欲した平蜘蛛の釜をうちこわし自害する最期を記しました。 久秀に限らず、戦国武将は、江戸時代に創作されたイメージが流布していることの方が多いです。 21世紀になってから、細川氏や三好氏を中心に畿内の政治史を叙述する視点が出されました。 足利氏・細川氏・畠山氏・六角氏・三好氏の本格的な研究が進み、その成果が研究者同士で共有され始めました。 松永久秀も、三好氏研究や戦国期の大和研究から独立し、専論が出されるようになり、その実像がわかるようになってきました。 本書では、こうした研究成果を踏まえて、松永久秀を戦国時代の政治や社会状況の中で考えています。 その際、下剋上とは何かということと、織田信長英雄史観を超えて実像に迫るということの、二つの視点に留意しています。 室町時代の身分秩序の頂点に位置したのは、天皇を除くと足利将軍家でした。 足利氏が、公家・武家・寺家の権門、および中央と地方に君臨していました。 戦国時代に実力のある者が上の者を否定するといっても、それは鎌倉幕府草創以来の身分秩序の改変であり、言うは易く行うは難しでした。 畿内近国でも織田信長は、主君の斯波義銀や足利義昭を殺害していません。 その結果、義昭の身分秩序や家格秩序の改変は、戦国時代といえども、決して容易ではありませんでした。 現在、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は三英傑として誰もが知る存在であり、中でも信長の人気は非常に高いです。 頼山陽は信長の行動を非常事であるからやむを得ない処置であったと擁護し、勤皇の視点を持ち込みました。 戦後、信長を勤皇の視点から語ることはなくなりましたが、革命児としての位置づけは変わっていません。 松永久秀は、三好長慶に登用され、その家臣として頭角を現わしました。 そして、三好氏の下で大和一国を支配するようになりました。 そうした過程で、下剋上と呼ばれている久秀の行動の実態をとらえていきます。 また、足利義昭や織田信長の上洛に際し味方したのに離反している点は、信長英雄史観にとらわれずに、むしろ義昭幕府や織田政権の矛盾として、その要因を探っています。はじめに-“戦国の梟雄”が戦ったものはなにか/第1章 三好長慶による登用/第2章 幕府秩序との葛藤/第3章 大和の領国化/第4章 幕府秩序との対決/第5章 足利義昭・織田信長との同盟/第6章 筒井順慶との対立
2018.08.25
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上杉鷹山は、1751年に高鍋藩江戸藩邸にて秋月種美の次男として生まれ、幼名は直松、直丸、名は治憲と称しました。 1759年に米沢藩主上杉重定との養子内約により、1760年に重定の世子となり上杉家桜田藩邸へ移りました。 “上杉鷹山と米沢”(2016年3月 吉川弘文館刊 小関 悠一郎著)を読みました。 ”なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬ成りけり”で知られる、名君・上杉鷹山の思想と行動とゆかりの地を紹介しています。 上杉鷹山は出羽米沢藩藩主上杉家9代を継ぎ、後に、倹約を奨励し、農村復興・殖産興業政策などにより藩財政を改革しました。 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。 小関悠一郎さんは、1977年宮城県仙台市生まれ、2008年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了、博士(社会学)として、現在、千葉大学教育学部准教授を務めています。 江戸幕府の成立からおよそ150年、18世紀なかばの日本社会は、大きな時代の変動を経験しつつありました。 全国で商品生産が進み、特産物生産地帯が飛躍的に発展する一方で、その社会には貧富の格差が顕在化しつつありました。 他方で、幕府・諸藩は財政窮乏の度を深めて苦しい生活を余儀なくされる武士が増えました。 商品生産の成果を吸収しようとする幕府・諸藩の政策が各地で百姓一揆に直面するなど、政治・社会の秩序の大きな動揺を経験しました。 鷹山は1766年に元服し勝興と名乗り、従四位下弾正大弼に叙任され、将軍より偏諱を与えられ治憲と改名しました。 1767年に重定が隠居して治憲が米沢藩主となり、1769年に幸姫と婚礼をあげ初めて米沢に入りました。 当時、大名は誰も彼も華美な生活の中に生まれ育っていて、財政赤字の原因などはさっぱり、というありさまでした。 そんななか、少しでも厳しい年貢取り立てや慣行を破る新法が出されれば、年々うち続いてそこかしこから一揆徒党の情報が入ってきました。 慣行を破る新法々の主要なものの一つには、幕府・諸藩が、特権商人・有力農商層らと結んで実施した殖産政策をあげることができます。 商品生産の発展を踏まえて、それぞれの利益を追求する動きが、政策レベルで課題とされたといえます。 それは、江戸時代の政治・社会がそれまで培ってきた規範や秩序を破り、貧富の格差を一層拡大する方向性をはらむものでもありました。 幕藩の為政者たちは、人びとの政治的社会的意識・秩序の動揺と変容にいかに対峙し、どのような選をするかが問われはじめていました。 本書は、こうした時代のなかで、名門大名上杉家に養子に入り、出羽国米沢藩主として政治改革を行ったことで有名な鷹山の生涯とその足跡をたどろうとするものです。 鷹山は上杉家の祖・謙信から数えて10代目の上杉家当主にあたっています。 その謙信と数次にわたり川中島で対峙した武将武田信玄が詠んだ歌に、”為せば或る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ”というのがあります。 やればできるし、やらなければできない。できることをできないといってやらないのは愚かなことだ、といった意味です。 これとよく似た”成せば成る成さねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬ成りけり”と詠んだのが鷹山です。 上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両、現代の通貨に換算して約150億から200億円に累積する一方、石高が15万石、実高は約30万石でした。 初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れませんでした。 他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったのです。 そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。 加わえて、農村の疲弊や、寛永寺普請による出費、洪水による被害が藩財政を直撃しました。 名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどでした。 新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立しました。 また、それまでの藩主では1500両であった江戸での生活費を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行いました。 ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果、1769年に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れました。 天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していましたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。 また、曾祖父・綱憲が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。 1773年に改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発しましたがこれを退けました。 これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済しました。 1785年に家督を前藩主・重定の実子で治憲が養子としていた治広に譲って隠居しましたが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。 隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移りました。 1802年に剃髪し、米沢藩領北部にあった白鷹山からとったと言われる鷹山と号しました。 1822年4月2日早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に享年72歳で死去しました。 法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所にあります。〝成せば成る〟上杉鷹山への眼差しⅠ 上杉鷹山の履歴書/藩主への道/「仁政」を求めて-明和・安永改革の展開/隠退の謎/寛政の改革)/日本史教科書のなかの藩政改革/人物相関/Ⅱ 藩政改革の思想/学問・知識と藩政改革/「明君」と民衆/「改革」のシンボル-明君像の形成と変容)-/仁政徳治と法治主義/Ⅲ 米沢をあるく/米沢城跡/祠堂(御堂)跡/上杉神社・稽照殿/松岬神社/餐霞館遺跡/上杉家廟所(御廟所)/米沢市上杉博物館/市立米沢図書館/藉田遺跡/黒井半四郎灌田紀功の碑/常慶院/長泉寺/春日山林泉寺/酒造資料館 東光の酒蔵/普門院・羽黒神社/文教の杜ながい・丸大扇屋)/参考文献/上杉鷹山略年表
2018.08.18
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筑波常次さんは、1930年に、東京・代々幡町代々木で侯爵の筑波藤麿の長男として、また山階宮菊麿王の孫として生まれました。 ”筑波常次と食物哲学”(2017年10月 社会評論社刊 田中 英男著)を読みました。 身の回りのものをことごとく緑色で揃え、緑の麗人の異名を持っていた農本主義者・筑波常次の講演録と著者との対話録を中心に様々な回想が綴られています。 山階宮菊麿王は、京都山科の門跡寺院・勧修寺を相続した山階宮晃親王の第一王子です。 弟に、真言宗山階派大本山勧修寺門跡の筑波常遍がいます。 祖母に当たる香淳皇后の母と筑波藤麿の母は姉妹であり、今上天皇ははとこにあたります。 筑波常次さんは、学習院初等科から学習院中等科に進み、2年生の時、茨城県内原の満蒙開拓幹部訓練所で修練中、いじめを受けたことがあったそうです。 1945年に、学習院中等科2年修了の資格で、海軍経理学校に第39期生として入学しました。 戦後は農業に関心を持ち、山階鳥類研究所設立者の伯父・山階芳麿の紹介で、日本農業研究所の臨時農夫となりました。 1948年に東京農業大学予科に入学しましたが中退し、1949年に東北大学農学部に入学しました。 1953年に卒業し、東北大学学院農学研究科修士課程に入学しました。 専攻は作物遺伝育種学で、1956年に修了しました。 同年、法政大学助手、専任講師、助教授を経て、1968年に依願退職しました。 同年、青山学院女子短期大学助教授に就任し、1970年に同校を依願退職しました。 1981年まで、フリーランスの科学評論家として著述業に従事する傍ら、早稲田大学教育学部などで非常勤講師を務めました。 1982年に早稲田大学政治経済学部助教授、1987年に同教授となり、2001年に定年退職しました。 日本農業技術史、生物学史の研究で知られました。 田中英男さんは1943年福岡県大牟田市生まれ、法政大学文学部在学中から筑波常治に師事したといいます。 筑波常次さんは2012年4月13日金曜日に亡くなりました。 この週の月曜日は9日でした。 食事の予約をするので、4月13日か、4月9日のいずれがよいかと師に伺うと、どっちでもいいですという返事であったということです。 場所は、神楽坂のうなぎ屋です。 日時は、4月9日午後6時、これが師との最後の夕餉となりました。 このうなぎ屋は、先生とはじめて会食したところで、桜が散り葉桜となった頃でした。 師は この時33歳。弟子は20歳で、献立はやはりうなぎでした。 師は、この時法政大学の教師、たぶん助教授でした。 弟子は、日本文学科の学生でした。 筑波常治さんは、1961年に”日本人の思想-農本主義の時代”を上梓して、社会的反響を呼び起こしました。 以後、”米食・肉食の文明””自然と文明の対決””生命科学史”など多数の著作を通して、精力的に現代文明批判を展開しました。 農本主義は、第二次世界大戦前の日本において、立国の基礎を農業におくことを主張した思想もしくは運動です。 明治維新以降、産業革命による工業化の結果、農村社会の解体が進むと、これに対抗して農業・農村社会の維持存続をめざす農本主義が成立しました。 商品経済が浸透した封建末期や帝国主義段階の後進資本主義国で、農業の危機に際して唱えられました。 特に日本やドイツでは軍国主義やファシズムと結び、富国強兵の基調となりました。 筑波常治さんのいう農本主義は、これとは異なったものです。 ”日本人の思想-農本主義の時代”は、日本人の思想論の壮大なデッサンにむかう途中の作業としての、農本思想史に関するデッサン集です。 農本思想史のさまざまな断面について、いく枚かのデッサンを描いてみる必要を感じ、デッサンなりに力を入れて練習したものだといいます。 第一の論文では、日本の農業技術のうち、品種改良の歴史とその技術を、第二は、日本における農学の成立史を振り返り、日本のアカデミズムの性格を解明することを志しました。 第三の論文では、日本での進化論の運命をたどりながら、キリスト教あるいはギリシャ的合理主義になっていると考えてよいでしょう。 筑波常治さんを、忘れられた思想家、最後の農本主義者というのは、少なくとも、現在の日本の思想の根源がどこに発しているかの答えの幾つかがここにあると確信できるからです。 筑波常治さんの今日的な意味を辿る筋道が認められています。 第四の論文では、農業史の歴史をふりかえり、日本人に根づよい道徳主義の歴史観の源泉を掘りおこしています。 第五の論文では、戦争中から戦後にかけて隆盛をきわめた家庭菜園を手がかりに、日本人の生活がいかにふかく伝統とむすびついていたかを探求しています。 第六の論文では、戦後における農本思想の存続をあきらかにし、日本人の実感主義ないし大衆崇拝のよりどころを追求しています。 このデッサンの肉付けは、”雑種について-ハイブリッド・ライス-」で第一の論文の補完がなされ、第二、第三論文については”米食・肉食の文明”において展開されています。 第四および第五の論文は、”農業における価値観”で展開されています。 そして、第六の論文は、”日本の農書”のベースになっていると考えてよいでしょう。序にかえて-神保町から神楽坂へ1 食物は世界を変える 講演録/食物史へのチチェローネ/雑種について-ハイブリッド・ライス考-/味の科学と文化/食物が歴史を作る2 知恵の献立表 対話録/筑後の青と鎌倉の緑/チャタレー夫人VSマダム・ボーヴァリー/日本と英国/玄人と素人/グルメ時代の酒と煙草/ペルーへの旅/場末のおせち料理/新古今的/猫と犬/一冊の本/ダ・ヴインチとミケランジェロ/彼岸花/残酷な料理方法/職人の味/歯医者の”かくし味”/注文の多いラーメン屋/古本のベル・エポック/本居宣長と良寛和尚/飢餓世代の対話3 まずしい晩餐/京都・山科・勧修寺への道/武州・粗忽庵を哭す/変革期の思想家-谷川雁・丸山真男・筑波常治/ある芸術家への手紙/最後の農本主義者4 食後のコーラス/神保町物語/小津安二郎は世界一であるか/”筑豊”の子守歌/映画監督・森崎東/藝術空間論/黄昏の西洋音楽エピローグ 食わんがために生きる-飢餓の恐れ
2018.08.11
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植物は多種多様な有機化合物を生合成しています。 薬用植物の主たる成分は、 デンプン、イヌリン、脂肪油、タンパク質、蝋、粘液、ゴム樹脂、精油、バルサム樹脂、トリテルペン、ステロイド、サポニン、カウチュック、タンニン、リグナン、リグニン、配糖体、アルカロイド、カルシウム塩などです。 ”植物はなぜ薬を作るのか”(2017年2月 文藝春秋社刊 斎藤 和季著)を読みました。 動かないという選択をした植物は生き残り戦略としてどのようにして、ポリフェノール、解熱鎮痛薬、天然甘味料、抗がん薬等の薬を作ったのか、最先端の研究成果で説きあかします。 人類はおそらく文字として歴史に残されていないくらいの大昔から、薬用植物を用いてきたと考えられています。 モルヒネやキニーネ、ヤナギの成分から作ったアスピリン、生薬を用いる漢方薬など、人間は古代から植物の作る薬を使ってきました。 しかし、つい最近まで、なぜ、どのように植物が薬を作るのかは解明されていませんでした。 根源的なメカニズムがわかってきたのは、2000年代に入って植物のゲノム配列が決定されてからのことです。 斎藤和季さんは1977年東京大学薬学部製薬化学科卒業、同大学院薬学系研究科に進学、1982年薬学博士号取得しました。 1985年千葉大学薬学部助手、1987年ベルギー・ゲント大学研究員、現在、千葉大学大学院薬学研究院・教授、薬学研究院長・薬学部長を務めています。 生薬学、薬用植物や植物成分のゲノム機能科学、バイオテクノロジーなどの研究と教育に携わり、日本生薬学会賞、日本植物生理学会賞、日本薬学会賞を受賞しています。 地球の人口は、21世紀中に100億人に達するだろうと予想されています。 薬となる植物成分に限らず、光合成に依拠した植物の自立的な生産性は、食料、燃料、工業原料を作り出し、さらに、宇宙船地球号に同乗している人類の生存を支えています。 人類は命の源である植物のことをもっと良く理解し、上手に利用しながら、人類と植物の関係も新しい段階に進まなければならない時代に来ています。 植物は私たち人間に優しくするために、私たちの体に良いものを作っているわけでは決してありません。 植物は、厳しい進化の歴史の中で、極めて巧みに設計された精密化学工場によって、多様な化学成分を作るという機能を発達させて、進化の歴史の厳粛な審判に耐えてきました。 私たち人間は少しだけ借りて使わせてもらっているに過ぎません。 本書は、著者が長い間釈然としない思いのままでいた違和感を題材にした、いわば、もの言わぬ植物からの伝言メッセージです。 植物はなぜ、どのように、このような多様な化学成分を作るのか、という根源的な問題を、植物の側から捉えることに重きを置いたということです。 著者は、植物化学成分の生合成の解明の研究からスタートし、その後、植物での遺伝子組換えや、バイオテクノロジーに応用する研究に携わりました。 さらに、2000年以降ゲノム時代に突入してからは、メタボロミクスとゲノム機能科学研究に研究領域を広げました。 この間、一貫して、薬用植物などの多様な植物で作られる多様な植物成分の不思議さに魅せられていましたといいます。 なぜ、植物はかくも多様な化学成分を作るのでしょう? どのようにして、多様な成分を作るのでしょう? これを作る酵素やその遺伝子は、どのように進化してきたのでしょう? このように特異的な化学成分=二次代謝産物は、植物にとってどのような役割や意義があるのでしょう? という根源的な問題に取り憑かれているそうです。 同時に、おそらく人類の誕生とともに、このように多様な植物化学成分を薬として使い、さらに常に新薬を開発しつつある、人類の知恵の素晴らしさにも驚かされています。 さらに、おそらく本来的に植物成分を介して相互作用している、植物と人類を含めた生命同士の関わりあいも、大きな関心事です。 第一章では、東西での医療に関する考え方の違いも交えて、植物からの薬につて考えます。 第二章では、薬になった植物成分について、身近な例を挙げながら解説します。 第三章では、なぜ植物は薬を作るのかという問題について、いくつかの実例を挙げながら考えます。 第四章では、どのように植物は薬の元になる物質を作るのか、その仕組みについて考察します。 第五章では、このような薬になる成分を作る仕組みが、どのように進化したかについて考えます。 第六章では、その仕組みを応用したバイオテクノロジーによる植物成分の人工的な生産について見ていきます。 最後に、第七章では、人類はどのように植物と相互共存していくべきかについて考え、未来の展望と期待を述べています。第一章 植物から作る薬■古代から人類は植物が作る薬を使ってきた/チンパンジーも薬を使っている/薬の発見はセレンディピティーによる■自然からの薬「生薬」/「生薬」自然にもっとも近い薬/「生薬学」は薬学の源泉/「本草学」は薬草についての知識■薬はどのように天然物から開発されたのか?/中国最古の薬物書『神農本草経』/近代薬学はモルヒネの単離から始まった/東西の薬に対する考え方の違い/医薬学における要素還元主義/東洋における全体システム主義/医療における西洋と東洋の融合/現在では医師の9割が漢方を使っている第二章 薬になった植物成分■ケシを原料とする鎮痛薬モルヒネ/ケシ坊主から採れるアヘン/モルヒネの鎮痛作用/なぜ、ケシはモルヒネを作るのか?■解熱鎮痛薬アスピリンはヤナギの成分から/ヤナギの成分サリシン/アスピリンの作用を解明してノーベル賞受賞/植物の全身に危険を知らせる■タバコやコーヒーなどの嗜好品における植物成分/ニコチンは猛毒/ニコチンで昆虫や小動物を撃退/お茶やコーヒーに含まれるカフェイン/アレロパシー■天然甘昧料となるグリチルリチンを含む甘草/甘草は漢方で最も使われている生薬/甘草の主成分グリチルリチンはサポニンの一種/グリチルリチンの植物における役割■植物からの万能薬-ポリフェノール/ポリフェノールは代表的な植物成分/抗酸化作用とはどういうもの?/薬になったポリフェノール/ポリフェノールの植物における役割/乾燥と紫外線を防ぐフラボノイドとアントシアニン/タンニンの渋み戦略/植物の生長をコントロールするフラボノイド■植物から得られる抗がん薬/臨床的に用いられている四つの抗がん薬/ニチニチソウが作るピンカアルカロイド/タイヘイヨウイチイから発見されたパクリタキセル(タキソール)/キジュのエキスから作るカンプトテシン/ポドフィルム属植物からのポドフィロトキシン/毒性のある成分を作る植物への疑問第三章 植物はなぜ薬を作るのか?■植物の生存戦略が多様な代謝産物をもたらした/「自然の恵み、植物からの贈り物」は大きな誤解?/動けない植物の巧みな生存戦略/生命が持つべき属性/その1 同化代謝戦略-太陽エネルギーと土からの栄養による光合成/その2 化学防御戦略-様々なストレスに対する化学兵器による防御/植物の作る防御物質が薬になる理由/敵を寄せつけない強い生物活性 アトロピン ベルベリン グルコシノレート/どんな敵にも対応できる豊富なバリエーション/敵は虫や病原菌ばかりではない/葉の形や向きを変えてストレスを避けることも/化学成分でもストレス撃退/栄養が足りなくなったときも植物成分が役立つ/その3 繁殖戦略-化学成分で相手を引き寄せる/夜、放たれる甘い香り■植物は何種類の成分を作るのか?/植物成分は何種類あるのか?/地球上にある植物種の数/一種の植物種に含まれるメタボローム/地球上の植物成分の数第四章 植物はどのように薬になる物質を作るのか?■植物は自然を汚さない精密化学工場/個人的な経験から/地球を汚さない緑の精密化学工場■一次代謝と二次代謝(特異的代謝)/一次代謝はどの生物種にも共通している/最低限生きるための一次代謝産物/よりよく生きるための二次(特異的)代謝産物/二次(特異的)代謝は何のためにある?■植物の二次代謝経路から作られる成分とは/共通の前駆体で分類される/主な二次代謝経路は五つ ①ポリケチド経路-便秘に効く大黄やアロエの成分はこの経路から ②シキミ酸経路-スパイスや心地よい香りの芳香成分を作る ③イソプレノイド経路-柑橘類やハッカ、樟脳、甘草、ジギタリスなどの多様な植物成分を生み出す ④アミノ酸経路-モルヒネ、ニコチンなどアルカロイドを生成 ⑤複合経路・抗酸化性フラボノイドやキニーネ、抗がん薬の成分を作る第五章 植物の二次代謝と進化のしくみ■植物はなぜ、自らが作る毒に耐えられるのか?/毒性成分に対する自己耐性のしくみ/毒を液胞に隔離してしまう/細胞の外や隣の蓄積空洞に吐き出す/標的タンパク質を変異させる/カンプトデシンを作る植物の自己耐性-新しい仮説/酵素に突然変異が?/突然変異は人間の耐性がん細胞にも起きていた/カンプトデシンを作る植物の中で同じような変異が/進化の途中にある植物種/抗がん薬の耐性を予知できる?■新たに分かってきた進化のしくみ/アミノ酸代謝から分岐してアルカロイドを作る/ルピナスのスイート変種とピター変種/ビター変種だけに発現する酵素遺伝子/シダ植物でも同じ進化が起こっていた/生合成遺伝子群がクラスターとしてゲノム上に集まる/なぜクラスターを作っているのか?■進化における植物成分と摂食動物の相互協力/トウガラシのカプサイシンと鳥の奇妙な協力関係/ジャガイモの毒とアンデスのピクーニャの関係第六章 バイオテクノロジーと植物成分■植物のゲノム構成/植物細胞の中では/核染色体ゲノム/葉緑体とミトコンドリアのゲノム■ゲノミクスからの発展-すべてを見るオミクス/「オーム」と「オミクス」のもたらした革新的進歩/オミクスによって遺伝子機能を決める/メタボロミクスによってわかること■植物の遺伝子組換えとゲノム編集/遺伝子組換えとそのインパクト/遺伝子機能を決める逆遺伝学/私たちの生活と遺伝子組換え植物/青いバラ-夢はかなう/パープル・トマトで長生きできる?/今、話題のゲノム編集とは?■遺伝子を使って微生物で植物成分を作る/抗マラリア薬アルテミシニンを作る/甘草の甘味成分グリチルリチンを作る第七章 人類は植物とどのように相互共存していくべきか?地球を汚さない精密化学工場/生物多様性とゲノム多様性/生物多様性ホットスポット/新薬の6割は天然物からのヒント/遺伝資源の持続的な利用とCOP10/宇宙船地球号を支える植物-未来に向けて参考文献一覧
2018.08.04
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