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リバタリアニズムは自由至上主義や完全自由主義と呼ばれ、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視します。 福祉国家のはらむ集産主義的傾向に強い警戒を示し、国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する政治思想です。 新自由主義と似ていますが、新自由主義は経済的な自由を重視するのに対し、リバタリアニズムは個人的な自由も重んじます。 “リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義 ”(2019年1月 中央公論新社刊 渡辺 靖著)を読みました。 公権力を極限まで排除し自由の極大化をめざすリバタリアニズムが、いまアメリカ社会で特に若い世代に広がりつつあります。 従来の左右対立の枠組みではとらえきれないこの新しい潮流について、トランプ政権誕生後のアメリカ各地を訪れ実情を報告しています。 他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は基本的に自由だと主張します。 古典的自由主義と同様に自由市場経済を支持しますが、論拠は自由市場が資配分の効率性で卓越するということだけではありません。 より重視されるのは、集産主義的介入が、自明の権利である個人の自然権や基本的人権を侵害するという点です。 渡辺 靖さんは1967年札幌市に生まれ、上智大学外国語学部卒業、1992年ハーバード大学大学院修士号、1997年同大学院博士号取得しました。 1999年慶應義塾大学SFC助教授、2005年慶應義塾大学SFC教授となり今日に至ります。 ウィルソンセンターフェロー、ケンブリッジ大学フェロー、パリ政治学院客員教授、欧州大学院大学客員研究員などの経歴があります。 専門はアメリカ研究、文化政策論で、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞、サントリー学芸賞、アメリカ学会清水博賞などを受賞しています。 リバタリアニズという言葉を初めて耳にしたのはアメリカに大学院留学していた1990年代初頭だといいます。 学部時代から思想哲学や国際関係に関心があり、留学先のハーバード大学でマイケル・サンデル教授やロバート・パットナム教授、ジョセフ・ナイ教授などの議論から大いに刺激を受けたそうです。 日本の大学を卒業したばかりで、彼らの議論はあまりに高尚かつ難解で、リバタリアニズムの考えは奇抜に思えたといいます。 当時のハーバードには、まだリバタリアン系の学生組織などありませんでした。 しかし、ミレニアルに入ってから、リバタリアニズムのことか次第に気になり始めました。 経済政策では保守でありながら、イラク戦争に反対し、人工妊娠中絶や同性婚に賛成するなど、リベラルな姿勢が興味深かったのです。 その後、オバマ政権の景気刺激策や医療保険制度改革に抗うティーパーティ運動で存在感を高め、2016年の大統領選では民主党にも共和党にも共感できない有権者の受け皿として注目を集めました。 とりわけ、今世紀に入って成人になったミレニアル世代の価値観とは重なる点か多いです。 すでに世代別人口ではレニアル世代が全米最大となり、2020年の大統領選では有権者数でも最大集団となります。 名実ともに、今後のアメリカの政治経済・文化社会・外交安保の牽引役となります。 こうした草の根の運動としてのリバタリアニズムは、これまで十分に調査されてきませんでした。 哲学や政治思想の分野ではすでに多くの研究の蓄積がありますが、現実の運動は必ずしも論理的な厳密さや整合性に裏打ちされているわけではありません。 マレー・ロスバードによると、自由とは個人の身体と正当な物質的財産の所有権が侵害されていないことという意味です。 また、犯罪とは暴力の使用により、別の個人の身体や物質的財産の所有権を侵害することです。 古典的自由主義者が使用してきた積極的自由の概念は、所有権の観点から定義されていません。 そのため、曖昧で矛盾に満ちており、知的な混乱と、国家や政府が公共の福祉や公の秩序を理由に個人の権利を恣意的に制限する事を許すことに繋がったといいます。 リバタリアンは、権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗するという信念を持っており、個人の完全な自治を標榜し、究極的には無政府主義同様、国家や政府の廃止を理想とします。 また、個人的な自由、自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は肉体・精神の搾取であり隷従と同義であると唱え、徴兵制に反対します。 経済的には、レッセフェールを唱え、国家が企業や個人の経済活動に干渉することに強く反対します。 また、徴税は私的財産権の侵害とみなし、税によって福祉サービスが賄われる福祉国家は否定します。 なお、暴力、詐欺、侵害などの他者の自由を制限する行為が行われるとき、自由を守るための強制力の行使には反対しません。 リバタリアニズムでは、私的財産権もしくは私有財産制は、個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考えます。 私的財産権には、自分の身は自分が所有する権利を持つとする自己所有権原理を置きます。 私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定します。 法的には、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想を追求します。 経済的には、市場で起きる諸問題は、政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義を唱えます。 個人が自由に自己の利益を追求し、競争することが社会全体の利益の最大化に繋がるとします。 日本では、こうしたイデオロギーの象限は存在しないに等しいです。 経済的に小さな政府を志向しながら、社会的には愛国心に訴える場合が多く、社会的には国家権力の介在を警戒しつつ、経済的には大きな政府を是認する場合も多いです。 グローバル化の論理と力学が国家を揺さぶる中、先進国では福祉国家的なビジョンが行き詰まりを迎えて久しいです。 財政赤字や少子高齢化の問題が重なる日本は尚更です。 その一方、明治維新以降、中央集権型の国家発展を遂げた日本では、いまだにお上に頼る傾向か強いです。 リバタリアアニズムの考えそのものは過激ですが、政府や役所の役割の最低ラインかどこにあるか思考実験しておくのは無益ではないでしょう。 本書は、あるべきではなくありのままの草の根のリバタリアニズムの動向理解を主眼に据えました。 いわば、規範論ではなく記述論としてのリバタリアニズムです。 同時に、アメリカのリバタリアニズムは海外にもネットワークを積極的に拡張しているため、アイデア共同体のトランスナショナルな広がりにも着目したといいます。第1章 リバタリアン・コミュニティ探訪/第2章 現代アメリカにおけるリバタリアニズムの影響力/第3章 リバタリアニズムの思想的系譜と論争/第4章 「アメリカ」をめぐるリバタリアンの攻防/第5章 リバタリアニズムの拡散と壁
2019.03.30
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徳川慶勝は1824年江戸四谷の高須藩邸生まれ、実父は美濃の高須藩主松平義建で、母は正室・規姫(徳川治紀の娘)で、徳川慶喜は母方の従弟にあたります。 尾張藩14代・17代藩主で、尾張藩15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬と四兄弟です。 ”写真家大名・徳川慶勝の幕末維新-尾張藩主の知られざる決断”(2010年10月 日本放送出版協会刊 NHKプラネット中部 編 徳川黎明会監修)を読みました。 御三家筆頭でありながら倒幕を決断し新政府誕生への道を開いた、功労者の徳川慶勝によって撮影された貴重な写真を多用しながら、幕末を活写して激動の時代を再現しています。 尾張藩では4代続いて将軍家周辺からの養子が続いたため、反対派が支藩の高須藩出身である慶勝の藩主継承を渇望していました。 慶勝の擁立は12代・13代と藩士に渇望されましたが、12代藩主・斉荘、13代藩主・慶臧といずれも将軍家からの養子が尾張家を継ぐことになりました。 1849年に慶臧が死去すると、慶勝の14代藩主就任が実現しました。 編者はNHKプラネット中部で、執筆者は 和泉宏一郎(NHK専任ディレクター・現所属NHKプラネット中部)、 岩下哲典(徳川林政史研究所特任研究員・明海大学教授)、 太田尚宏(徳川林政史研究所主任研究員)、 白根孝胤(徳川林政史研究所研究員)、 中島雄彦(徳川美術館学芸員)、 並木昌史(徳川美術館学芸員)、 原史彦 (徳川美術館主任学芸員)、 深井雅海(徳川林政史研究所副所長)、 藤田英昭(徳川林政史研究所非常勤研究員・明海大学非常勤講師)、 吉川美穂(徳川美術館学芸部係長・学芸員)、 龍渾彩(徳川美術館学芸員) 所属肩書はいずれも出版当時のものです。 2009年8月23日にNHK-BSで関連番組ハイビジョン特集が放映されました。 徳川慶勝は、幼名は秀之助、元服後、高須松平家時代は松平義恕を名乗りました。 尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕、のち慶勝と改名しました。 1841年に従四位下に叙し、侍従に任官し中務大輔を兼任しました。 1849年に掃部頭を兼任し、中務大輔の任替、侍従如元となりました。 1851年から藩政改革に着手し、人事の刷新、財政整理、禄制改革などを行い成果をあげました。 幕閣においては、老中・阿部正弘の死後に大老となりました。 当時、幕政を指揮していた井伊直弼が、1858年に日米修好通商条約を調印したため、水戸徳川家の徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議しました。 これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が15代藩主となりました。 1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、悉皆御宥許の身となりました。 その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられました。 1863年に茂徳が隠居し、実子の元千代(義宜)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握りました。 京都では会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、京から長州藩と尊攘派の公卿らが七卿落ちとして追放されました。 1864年に池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変(蛤御門の変)を引き起こしました。 しかし、これに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行うこととなりました。 征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられましたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征しました。 この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋しました。 しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定されました。 慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就きました。 長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破りました。 1867年11月9日に、土佐藩の勧めで15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われました。 慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、1868年1月3日の小御所会議において、慶喜に辞官納地を催告することが決定され、慶勝が通告役となりました。 1月27日に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎しました。 慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取りましたが、尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、2月13日に尾張へ戻って佐幕派を弾圧しました。 そして尾張から江戸までの間の譜代親藩を含む大名や寺社仏閣に至るまで使者を送って新政府側に付くよう説得し、500近くの誓約書を取り付けました。 これにより、京都を出発した新政府軍は大きな抵抗に合うこともなく約1月ほどで江戸に到着しました。 その後一橋家当主となっていた茂徳に手紙を送り、容保、定敬の助命嘆願にあたらせました。 1870年に名古屋藩知事となりましたが、1871年に廃藩置県により名古屋藩知事を免じられました。 慶勝には黎明期の写真家というもう一つの顔があり、当時最先端のテクノロジーだった写真を自ら研究し、1000点以上の作品を残しました。 大名屋敷の生活ぶりや名古屋城内部の様子など、殿様でなければ撮ることができない、興味深い被写体も撮影しています。 名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、江戸の尾張藩下屋敷などの写真は、歴史的史料価値の高い写真です。 また、技法にも工夫を凝らし、四枚組で名古屋城を撮った写真は、日本人による最初のパノラマ写真と言われています。 本書には多くの写真が掲載されており、それぞれについて詳しく説明されています。第1部 政治家徳川慶勝-日本近代化、陰の功労者/第2部 殿様徳川慶勝-殿様らしい最後の殿様/特別対談・徳川慶勝の魅力-竹内誠×黒鉄ヒロシ/第3部 写真家徳川慶勝-江戸の原風景をとらえた記録写真家
2019.03.24
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がんという語は悪性腫瘍と同義として用いられることが多く、悪性腫瘍は一般に癌や悪性新生物とも呼ばれています。 しかし、平仮名の「がん」と漢字の「癌」は同意ではなく、漢字で「癌」というと悪性腫瘍のなかでも特に上皮由来の癌腫=上皮腫のことを指します。 平仮名の「がん」は、癌や肉腫、白血病などの血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で悪性腫瘍を表します。 ”がんの練習帳”(2011年4月 新潮社刊 中川 恵一著)を読みました。 今や日本人の2人に1人は経験するというがんについての、予防策、告知、心構え、検診、治療、痛み、費用、最期などを練習し、平常心でのがんとのつきあいを目指しています。 中川恵一さんは1960年東京生まれ、1979年に東京大学教養学部理科入学、1985年に同医学部放射線医学教室入局、1989年にスイス、ポール・シェラー・インスティチュート客員研究員となりました。 1993年に東京大学医学部附属病院放射線科医員、1997年に東京大学大学院医学系研究科生体物理医学専攻放射線大講座講師、その後、助教授となりました。 2005年に東京大学医学部附属病院緩和ケア診療部長、2007年に准教授となりました。 悪性腫瘍は、遺伝子変異によって自律的で制御されない増殖を行うようになった細胞集団=腫瘍のなかで、周囲の組織に浸潤しまたは転移を起こす腫瘍です。 悪性腫瘍のほとんどは、無治療のままだと全身に転移して患者を死に至らしめます。 ヒトの身体は約60兆個という膨大な数の細胞からできています。 そして、髪の毛が抜けたり、皮膚の細胞が垢になったりするなど、毎日、なんと、8000億もの細胞が死んでいくそうです。 そして、死んだ細胞の数だけ、新しい細胞が、細胞分裂の形で生まれています。 つまり、2、3か月でカラダの細胞は全部入れ替わってしまう計算になります。 細胞分裂はもとの細胞のコピーを作ることで、細胞の設計図であるDNAをコピーすることが一番大事になります。 しかし、人間の細胞がやることなので、DNAのコピーの際にミスをすることがあります。 これが突然変異であり、1日に数億回も起こると言われています。 実は、このコピーミスが起こらなければ、現在の私たちの存在はないのだそうです。 38億年前に誕生したバクテリアのような生物はいつまでたっても、同じDNAのままで進化せず、変わらないからです。 DNAのコピーミスは進化の原動力なのですが、正確にコピーできなかった細胞は出来損ないで、まずは生きていけないのです。 しかし、ごくまれですが、コピーミスの結果、スーパー細胞が生まれることがあります。 その特徴は死なないということで、ある遺伝子に突然変異が起こると、細胞は死ぬことができなくなり、止めどもなく分裂を繰り返すことになります。 こうした遺伝子の代表ががん遺伝子であり、反対に細胞の分裂を止める働きをするのががん抑制遺伝子です。 がん抑制遺伝子が突然変異の結果働かなくなると、分裂を抑えることができなくなり、細胞は無限に増殖を続けることになります。 死なない細胞=がん細胞の誕生であり、がんは進化の代償とも言えます。 そして、寿命が延びれば、がん抑制遺伝子に突然変異が起きうる期間が長くなり、がん細胞の発生の可能性が増えていきます。 最近の研究では、がん細胞は健康な人の体でも1日に5000個も発生しては消えていくことがわかっているそうです。 しかし、毎日5000個の死なないがん細胞ができるわけではなく、できたばかりのがん細胞は免疫細胞=リンパ球にその場で退治されています。 リンパ球は、不審な細胞を見つけ出して、自分と同じDNAの細胞でないと判断すると、殺してしまうのです。 しかし、がん細胞の場合は少々やっかいな点があり、もともと私たちの正常な細胞から発生していますので、細菌などと比べると、免疫細胞が異物と認識できにくいのです。 それでも免疫細胞は、できたばかりのがん細胞をなんとか識別して攻撃し死滅させています。 しかし限界はあり、加齢によって免疫力も低下しますので、年齢とともに、がん細胞を見逃す確率は高まっていきます。 がんは、簡単に言えば、細胞の老化であり、日本は、世界一の長寿国になった結果、世界一のがん大国となったというわけです。 腫瘍が正常組織との間に明確なしきりを作らず浸潤的に増殖していく場合、あるいは転移を起こす場合、悪性腫瘍と呼ばれています。 無制限に栄養を使って増殖するため生体は急速に消耗し、臓器の正常組織を置き換えもしくは圧迫して機能不全に陥れます。 そして、異常な内分泌により正常な生体機能を妨げ全身に転移することにより、多数の臓器を機能不全に陥れます。 ただし、がんはとにかく怖いと思っているなら大間違いだといいます。 怖いのは、がんではなく、がんを知らないことです。 日本人のおよそ2人に1人ががんになり、日本人の3人に1人ががんで亡くなっています。 65歳以上の高齢者に限れば、2人に1人ががんで死亡しています。 今やがんの半数以上が治癒する時代なので、高齢者の大半ががんになっている計算になります。 こうした割合は世界一高いものであり、日本は世界一のがん大国と言えます。 しかし、日本人は、がんのことを知らない、いや、知ろうとしないと言ってもよいでしょう。 受験にしろ、結婚にしろ、就職にしろ、巷にはハウツー本、マニュアル本があふれ、人々はその予習に余念がありません。 しかし、日本人の2人に1人が体験するがんについては、予習がとてもむずかしくなっています。 自然の一部である自分の死を思うどころか、私たちはまるで死なないつもりで生きているかのようです。 平和で豊かな現代日本では、がんだけが死のイメージを持っているため、がんはタブーになってしまっています。 しかし、2人に1人ですから、がんを人生の設計図のなかに織り込んでおく必要があり、その予習は絶対に必要です。 がんと告知されると平常心ではいられず、頭が真っ白になったまま、あれよあれよという間に不本意な治療を受け、後遺症に苦しんで後悔する、といった例が少なくありません。 実際には、乳がんではお乳は切り取らないですむことが多く、子宮頸がんでも前立腺がんでも欧米では臓器を摘出する外科手術より、メスを入れない放射線治療の方が主流です。 しかし、多くの日本国民はこうしたがんの常識すら知らないため、がんになる前にがんを知る練習が必要なのです。 本書は、 がんとはいったい何者か、がんにならない生活は、早期発見のためのがん検診の大切さ、がんと言われた時の心構え、治療法の選択のコツ、がん治療にいくらかかるのか、がんの痛みとのつきあい方、など、実用的な情報を、分かりやすく解説しています。 本書で練習しておけば、実際にがんと言われてもあわてずにすみ、がんと闘っている人には、がんをどう治し、どうつきあうか考える上での羅針盤になると思われます。 そして、がんを知ることは、老いとその先の死を考えることにもつながります。 がんこそが、現代のメメント・モリ=死を想えであり、がんを正面から見つめることが、日本人の死生観の再生のきっかけにもなると思われます。まえがき――「死なないつもり」の日本人へ練習1 本当にがんを知っていますか?「5000勝0敗」の闘い/がんの「迷信」あれこれ/「生活習慣」の重要さ/お酒で「赤く」なる人は要注意/タバコ×酒=「食道がん」/早期がんは「めでたい」/がん検査の基礎知識練習2 働き盛りに告知されて――山田二郎さんの「肺がん」闘病記 診察室で気をつけてほしいこと/若いから安心、ではない/がん治療には「3つの選択肢」しかない/カラダの痛み、金銭的負担は?/判断に迷ったとき、医者にどう聞くか/出社を焦るのは禁物練習3 切除か温存か、仕事か治療か――佐藤花子さんの「乳がん」闘病記 乳がん即切除ではない/「ホルモン治療」のマイナス点/日本の「放射線治療」は古い/転移とはどういうことか/骨転移の痛み練習4 男性機能と治療の両立――青山三郎さんの「前立腺がん」闘病記「PSA」が目安になる/急増する前立腺がん/そもそも「前立腺」とは何か/「生検」で確定する/男性機能が維持できる治療法は/セカンドオピニオンを求めよう/放射線治療の副作用/強度変調放射線治療/小線源治療なら日帰りも/体内のアイソトープの影響/「ピンポイント」でがんを直撃/最先端「粒子線治療」の破壊力/ホルモン治療で女性化する/通院はいつまで補講 日本の「がん治療」ここがおかしい「がん登録」の法制化を/日本のがん治療4つの問題点/「日進月歩」の最新治療練習5 余命と抗がん剤のイタチごっこ――吉田松次郎さんの「直腸がん」闘病記「標準治療」の確立と「余命告知」/「直腸がん」からの転移/「真実」を告げるべきか否か/「FOLFOX」開始/治療でがんが「進化」する/「アバスチン」と「イリノテカン」/「サプリメント」には要注意/薬がなくなったとき練習 最期をどう迎えるか――山内千代子さんが向き合った「余命」「新しい死」に素手で立ち向かう日本人/「余命3か月」宣告/「痛みはがまん」は間違い/「悪液質」の苦しみ/この世から消える恐怖/末期にできる治療/光の向こうに/「死の恐怖」とはなにか/イザナギも西行も私たちも/死を想う意味/がんで死ぬのもわるくない付録・さらにがんを知るためにお薦めしたい本・サイト
2019.03.16
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折口信夫は1887年生まれの国文学者、国語学者で、国学院大学・慶応大学教授を務めましたが、同時に、釈迢空と号した詩人・歌人でもありました。 日本文学・古典芸能を民俗学の観点から研究し、歌人としても独自の境地をひらきました。 成し遂げた研究は折口学と総称され、柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築きました。 ”折口信夫 神性を拡張する復活の喜び”(2019年1月 ミネルヴァ書房刊 斎藤 英喜著)を読みました。 歌人としてまた万葉学者として知られ、釈迢空の筆名で活躍した折口信夫の神道学者としての姿を軸に学問と生涯を紹介しています。 斎藤英喜さんは1955年東京都生まれ、日本大学芸術学部卒業、法政大学文学部日本文学科卒業、成城大学大学院文学研究科修士課程修了、1990年に日本大学大学院文学研究科博士課程満期退学しました。 その後、宗教学者・日本文学者・神話学者として、日本大学文理学部講師、椙山女学園大学短期大学部助教授を経て、2000年に佛教大学文学部歴史文化学科助教授、2004年に同教授となり現在に至ります。 折口信夫は1887年2月11日大阪府西成郡木津村生まれ、1890年木津幼稚園、1892年木津尋常小学校、1896年育英高等小学校、1899年大阪府第五中学校にそれぞれ入学しました。 1901年に15歳になったとき、父親から”万葉集略解”を買ってもらい、雑誌に投稿した短歌が入選しました。 1902年に成績が下がり暮れに自殺未遂を起こしました。 1903年にも自殺未遂を起こしました。 1904年の卒業試験で4科目が落第点となり、原級にとどまりました。 この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかったといいます。 1905年に天王寺中学校を卒業し、医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学しました。 藤無染と同居し、この頃に約500首の短歌を詠みました。 1907年に予科を修了し、本科国文科に進みました。 國學院大學において、国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受けました。 また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りしました。 1910年に國學院大學国文科を卒業し、1911年に大阪府立今宮中学校の嘱託教員、国漢担当となりました。 1912年に伊勢、熊野の旅に出ました。 1913年に”三郷巷談”を柳田國男主催の”郷土研究”に発表し、以後、柳田の知遇を得ました。 1914年に今宮中学校を退職し、上京しました。 折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したといいます。 1916年に國學院大學内に郷土研究会を創設し、”万葉集”全20巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行しました。 1917年に私立郁文館中学校教員となり、”アララギ”同人となって選歌欄を担当しました。 一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動しました。 1919年國學院大學臨時代理講師となり、万葉辞典を刊行しました。 1921年に柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行を行いました。 1922年に雑誌”白鳥”を創刊し、國學院大學教授となりました。 1923年に慶應義塾大学文学部講師となり、2回目の沖縄旅行を行いました。 1924年に”アララギ”を去って、北原白秋らと歌誌”日光”を創刊しました。 1925年に処女歌集”海やまのあひだ”を刊行しました。 1927年に國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪れました。 1928年に慶應義塾大学文学部教授となり、芸能史を開講しました。 1932年に文学博士の称号を受け、日本民俗協会の設立にかかわり幹事となりました。 1935年に3回目の沖縄旅行を行いました。 1940年に國學院大學学部講座に民俗学を新設しました。 1941年に太平洋戦争が起こり、藤井春洋が応召しました。 1944年に藤井春洋が硫黄島に着任しました。 春洋を養嗣子として入籍しましたが、大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕が発表されました。 8月15日に敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もりました。 1948年に日本芸術院賞を受賞し、第一回日本学術会議会員に選出されました。 著者は、古代文学研究の道に進み、古代文学研究の最先端において、折口学から多くの影響を受けながらも、折口信夫はすでに乗り越えられていくべき対象となっていたといいます。 しかし、古代文学研究の先行研究者としての折口信夫とは違うところから、再び折口信夫に出会い直しすることになりました。 きっかけは2006年に刊行した新書の中で、折口の古代研究もまた、近代における読み替えられた日本神話の一つとして読める可能性に気が付いたからとのことです。 折口信夫を読み始めた最初の頃に、神道関係の論文が第20巻”神道宗教篇”の1巻分しかなかったのが不思議だったそうです。 1巻だけにまとめたのは、折口はあくまでも国文学者、民俗学者なのであって、神道の専門的な学者ではないという認識に基づくのだろうと、なんとなく考えていました。 しかし、著作を読んだらすぐに気が付くように、いくつかの論文を読み込んでいくと、それらは神道と無関係な論文ではありませんでした。 折口にとって文学や芸能の歴史的な研究は、どれも神道史の研究と不可分にあったのです。 改めて折口信夫について論じたものや折口学を研究した著作を見渡してみると、神道史の研究者としての折口にポイントを絞ったものがないことに気付いたといいます。 馬渡憲三郎・石内徹・有山犬五編”迢空・折目信夫事典”には、折口信夫と深い関わりを待った神道関係の人物は、一人も登場していません。 一方、神道関係の人物を研究する近代神道史研究のプロパーの論考を見ると、折口信夫との関係を本格的に論じているものはほとんど見当たりません。 神道学者としての折口については、あたかもブラックボックスのようになっているのではないでしょうか。 改めて、古本隆明を始発点に、古代文学研究を経置づけ、そうした視点から折目を読み直し、これまで見えなかった折口信夫の可能性、面白さが浮かんでくるという感触を持つたといいます。序 章 「神道学者」としての折口信夫/第一章 「折口信夫」の誕生まで/第二章 「よりしろ」論と大正期の神道、神社界-「髯籠の話」「異訳国学ひとり案内」「現行諸神道の史的価値」-/断章1 弟子たちとの生活/第三章 神授の呪言・まれびと・ほかひびと-「国文学の発生」-/第四章 沖縄へ、奥三河へ-「琉球の宗教」「古代生活の研究」「山の霜月舞」-/第五章 「神道史の研究にも合致する事になつた」-「神道に現れた民族論理」-/断章2 二つの大学の教師として/第六章 昭和三年、大嘗祭の現場から-「大嘗祭の本義」-/第七章 折口信夫の「アジア・太平洋戦争」-「国学とは何か」「平田国学の伝統」「招魂の御儀を拝して-/第八章 神々の「敗北」を超えて-「神道の友人へ」「民族教より人類教へ」「道徳の発生」-/断章3 食道楽/終 章 「もっとも苦しき たたかひに……」/参考・引用文献・資料/折口信夫年譜/折口信夫引用著作索引
2019.03.09
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渓斎英泉は1791年に、江戸市中の星ヶ岡に下級武士政兵衛茂晴の子として生まれました。 “絵師の魂 渓斎英泉”(2019年1月 草思社刊 増田 晶文著)を読みました。 文化文政時代に葛飾北斎に私淑し、美人画・春画で一世を風靡し、千数百点の作品を残した浮世絵師・渓斎英泉を題材にした書下ろし時代小説作品です。 渓斎英泉の本姓は松本でしたが、父の政兵衛茂晴が池田姓に復して以後は池田を名乗り、本名は義信ですが、茂義といった時期もあります。 字は混聲、俗称は善次郎、のちに里介と名乗りました。 菊川英山の門人で、画号は渓斎、国春楼、北亭、北花亭、小泉、涇斎といい、天保の改革以後は戯作や随筆に専念し、戯作者としては可候を名乗りました。 増田晶文さんは1960年大阪府東大阪市生まれ、清風高等学校、同志社大学法学部卒業、会社員生活を経て、1994年から文筆業に専念しています。 1990年代から2000年初頭まで、スポーツ、お笑い、教育、日本酒、自動車など幅広いジャンルのノンフィクション作品を単行本で発表してきました。 1998年にナンバー・スポーツノンフィクション新人賞、2000年に小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞しました。 2010年より小説へ移行し、2012年には初の書き下ろし小説を上梓し、人間の果てなき渇望を通底テーマに、さまざまなモチーフの作品を発表しています。 渓斎英泉は、12歳から狩野典信の弟子という狩野白桂斎に画技を学びましたが、15歳の元服を機に、16歳か17歳かで安房国北条藩の水野忠韶の江戸屋敷に仕官しました。 侍奉公には不向きだったのか、17歳の時に上役と喧嘩沙汰となり、讒言によって職を追われました。 20歳の時、父と継母が相次いで亡くなり、3人の妹を一人で養う身となって、狂言作者の道は挫折を余儀なくされました。 この時、先の水野壱岐守家に仕える多くの血族からの支援もありましたが、善次郎はそれをよしとせず、流浪の上一時、狂言役者篠田金治、後の2世並木五瓶に就いて、千代田才市の名で作をなしました。 また深谷宿にて菊川英二に寄寓、浮世絵師菊川英山の門人格として、本格的に絵筆を執ることとなりました。 ここからが善次郎の才能の発露であり、浮世絵師渓斎英泉の始まりでした。 師の英山は4歳年上でしかない兄弟子のような存在でしたが、可憐な美人画で人気の絵師でした。 英泉は英山宅の居候となって門下で美人画を学びつつ、近在の葛飾北斎宅にも出入りし、私淑をもってその画法を学び取っていきました。 著者は、浮世絵を前にしてのけぞったのは、渓斎英泉の美入画が初めてだったといいます。 むっちりと妖艶、婀娜っぽいだけでなく、内面に蛇が棲んでいる女を描きつづけました。 彼女たちの魅力は、うつくしい、かわいい、艶っぽいで収まりきらず、とても全体像をあらわせません。 英泉が紡いだ錦のように豪奢な女は、菱川師宣から鈴木春信、鳥居清長、鳥文斎栄之とつづく美人画の系譜から大きくはみ出し、喜多川歌麿にもまけない強烈なオリジナリティーを醸しています。 知名度では、歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重ら四天王という面々におよばないものの、十傑をあげるなら、英泉は指おって名をかぞえるに値する絵師でしょう。 英泉の美人画は海をわたり、ジャポニスムに傾倒する画家に注目されました。 とりわけ、フィンセント・ファン・ゴッホは、1886年刊行の”パリ・イリュストレ”誌に掲載された英泉の”雲龍内掛の花魁”にはげしく感応しました。 また宋・明の唐画を好み、書を読み耽ることを趣味とする人でもありました。 文筆家にして絵師である英泉は、数多くの艶本と春画を世に送り出しています。 22歳の時、千代田淫乱の名で最初の艶本”絵本三世相”を発表しました。 24歳の時ころには、それまで可憐に描いていた美人画のほうも、この時分から英山色を脱して独自の艶を放つようになりました。 妖艶な美人画絵師としての英泉はこの分野で磨かれ、26歳の時には北斎から譲られた号、可候をもって、合巻”櫻曇春朧夜=はなぐもりはるのおぼろよ”を発表しました。 挿絵とともに本文も自ら手掛け、以後、艶本は毎年のように作られさまざまな隠号をもって人気本を世に送り出しました。 文政5年=1822年の”春野薄雪”は傑作と名高く、”閨中紀聞 枕文庫”は当時の性奥義の指南書でした。 30歳ごろからは人情本や読本の挿絵も手掛け、曲亭馬琴の”南総里見八犬伝”の挿絵も請け負っています。 文政12年3月の大火による類焼で家を失った上、縁者の保証倒れにも見舞われました。 英泉は尾張町、浜松町、根津七軒町、根岸新田村、下谷池ノ端、日本橋坂本町2丁目の植木店に居住、根津では若竹屋忠助と称して遊女屋を経営した他、坂本町では白粉を販売していました。 天保の改革の時勢を迎えたのちは、画業はもっぱら多くの門人に任せて、自らは描く事は減少し、一筆庵可候の号をもって合巻や滑稽本を主とする文筆業に専念しました。 主な門人に、五勇亭英橋、静斎英一、泉蝶斎英春、春斎英笑、米花斎英之、英斎泉寿、貞斎泉晁、紫嶺斎泉橘、嶺斎泉里、一陽軒英得、山斎泉隣、磯野文斎、信斎英松、春斎英暁などがいます。 著者は、類例のない、艶やかで凄味たっぷりの女を描いた絵師の英泉のやむにやまれぬ衝動、果てなき渇望をつきとめたいと躍起になったといいます。 英泉は十数年もの苦節を経験し、メインストリームに躍りでてからも紆余曲折はつづきました。 英泉の軌跡は、栄光と失意、再生の繰り返しにほかなりません。 英泉の画業にもっとも影響を与えたのは、画狂老人出こと北斎でした。 北斎は慈父という側面が強く、北斎もまた英泉をよく可愛がり、節目ごとに導いてくれています。 英泉は、私淑こそすれ、浮世絵界の大派閥の北斎一門には加わらず、対抗する歌川一党にも背を向けました。 とりわけ、同時代を生き、人気で先行した歌川国貞へのライバル心は強烈でした。 トレンドになびく俗人、ビジネス第一の本屋への反発もなまなかではありません。 そのくせ、世の動向や書肆の思惑に右往左往されられどおしでした。 ですが、最後は知命の心境に達し、最盛期の美人画と後年の風景画でみせた、個性を貫き昇華させる強烈なプライド、これこそは英泉の真骨頂でしょう。第一章 前夜/第二章 美人画/第三章 裏の絵師/第四章 世間/第五章 暗雲/第六章 災厄/第七章 青の時代/第八章 絵師の魂/終 章 富士越龍
2019.03.02
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