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アーネスト・サトウはイギリスの外交官で、イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築きました。 日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、一時帰国の期間を含めて計25年間になります。 ”アーネスト・サトウと倒幕の時代”(2018年12月 現代書館刊 孫崎 亨著)を読みました。 幕府を支援していたイギリスを薩長に付かせ、日本の政治体制を大きく変え江戸城無血開城へつながった、日本名・佐藤愛之助または薩道愛之助、イギリスの外交官アーネスト・サトウを紹介しています。 サー・アーネスト・メイソン・サトウは、1843年に非国教徒でルーテル派の宗教心篤い家柄で、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つ独人の父親と英人の母親の三男としてロンドンで生まれました。 父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったのですが、非国教徒が学位を取れる保証がありませんでした。 そのためため、アーネストはプロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学し1859年に首席で卒業しました。 宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学し、ローレンス・オリファント卿著『エルギン卿遣日使節録』を読んで日本に憧れ、1861年に英国外務省へ通訳生として入省しました。 駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により、清の北京で漢字学習に従事しました。 孫崎 亨さんは1943年旧満州国鞍山生まれ、第二次世界大戦終結にともない、父の故郷である石川県小松市に引き揚げ、小松市立松陽中学校を経て金沢大学教育学部附属高等学校を卒業しました。 東京大学法学部在学中に外交官採用試験に合格したため、1966年に大学を中途退学し外務省に入省しました。 イギリス、ソ連、米国、イラク、カナダでの勤務を経て、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任しました。 城西国際大学大学院研究科講師、東アジア共同体研究所理事・所長、ハーバード大学国際問題研究所研究員、ウズべキスタン特命全権大使、外務省国際情報局局長、イラン特命全権大使などを歴任しました。 1862年9月8日に、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任しました。 当初、代理公使のジョン・ニールは、サトウに事務の仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができませんでしたが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許されました。 このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学びました。 また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結びました。 1863年8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かいました。 サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していましたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発しました。 サトウ自身も薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会いましたが、その際に五代友厚・松木弘安(寺島宗則)が捕虜となっています。 開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃します。 1864年、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩みますが、帰任した駐日公使オールコックから昇進に尽力することを約束されましたので、引き続き日本に留まることを決意しました。 オールコックはサトウを事務の仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなりました。 また、ウィリスと同居し親交を深めました。 1864年8月20、長州藩は京都の蛤御門等で武力を行使しましたが、幕府、会津藩、薩摩藩の兵力に負けました。 この時点では、薩摩藩と長州藩は敵対関係にありました。 そして長州藩征討の勅命が発せられ、薩摩藩の西郷隆盛は長州征討の参謀格でした。 1865年4月、通訳官に昇進し、この頃から伊藤や井上馨との文通が頻繁になりました。 この往復書簡で、長州藩の内情や長州征討に対するイギリス公使館の立場などを互いに情報交換しました。 サトウはこの頃から「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い始めました。 10月には新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に同行しました。 11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行、神戸・大坂に上陸し、薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員と交わりました。 このころから、日本語に堪能なイギリス人として、サトウの名前が広く知られるようになりました。 1866年3月から週刊英字新聞に匿名で論文を掲載し、この記事が後に『イギリス策論』という表題で、サトウの日本語教師の徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳出版され、大きな話題を呼びました。 1866年3月7日に坂本龍馬の斡旋で薩長連合が成立し180度変わりましたが、この連合が倒幕の中心になるにはまだ脆弱でした。 アーネスト・サトウは、将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行条約はその将軍とだけ結ばれたもので、現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないと主張しました。 また、現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきであるとも主張しました。 イギリスの軍事力が強固であることは、当時政治に関与していた者は皆知っていました。 その中、アーネスト・サトウの『イギリス策論』によって、イギリスは倒幕側についたことを人々は知りました。 幕末期におけるアーネスト・サトウの活躍はこれで終わらず、江戸城の無血開城にも関わっていそうです。 無血開城は勝海舟と西郷隆盛との問での合意ですが、アーネスト・サトウは双方にパイプを持っていました。 パークス公使の発言が無血開城に貢献し、江戸城が無血開城され、勝海舟が江戸から去る時、愛馬の伏見をアーネスト・サトウに贈りました。 アーネスト・サトウは、戦いの中で、倒幕側と幕府側の双方に太いパイプを持っていたのです。 外交史を見ると、一方に食い込むという人物はいますが、戦いの双方と密な関係をもったのは稀有な存在と言えます。 アーネスト・サトウを偲んだ石碑が千代田区一番町にあり、「1898年、当時のイギリス公使サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました」と記されています。 アーネスト・サトウは類まれな外交官であり、相手国の歴史の動きに深刻な影響を与えたという点では、アーネスト・サトウ以上の人はほとんどいません。 徳川幕府が終わり明治政府が出来るというのは日本史の中の一大転換期には、歴史の流れから言って、様々な可能性がありました。 幕府と倒幕派に分かれ内戦を続けるという可能性、幕府が朝廷と連携して延命を図るという可能性、幕府が倒れ新政権が出来るという可能性です。 この時期、イギリスやフランスの持つ影響力は決して小さいものではなく、イギリスは倒幕側の雄である薩摩藩と長州藩を各々、薩英戦争、馬関戦争で破っています。 もし、イギリスが幕府側を支援していたら、倒幕側の圧勝にはならなかったでしょう。 事実、一時イギリスは幕府を支援していたのです。 こうした中で、アーネスト・サトウは倒幕に与し、重要な役割を演じました。 幕末に、勝海舟と話が出来る、西郷隆盛と話が出来る、木戸孝允と話が出来る、伊藤博文と話が出来る、こんな人物は、アーネスト・サトウ以外にいたでしょうか。 なお、アーネスト・サトウは戸籍の上では生涯独身でしたが、明治中期の日本滞在時の1871年に武田兼(カネ, 1853-1932)を内妻とし3人の子をもうけました。 兼とは入籍しなかったものの、子供らは認知して経済的援助を与え、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せて植物学者として育て上げました。 長男の栄太郎は1900年にアメリカ・コロラド州ラサルへ移住して農業に従事し、現地の女性と結婚してサトウダイコンの生産者として暮らしたといいます。第1章 アーネスト・サトウの来日/第2章 「桜田門外の変」から「生麦事件」へ/第3章 高まる「攘夷」の動き/第4章 薩英戦争後、薩摩はイギリスとの協調路線へ/第5章 国際的、国内的に孤立する長州藩/第6章 薩長連合の形成と幕府崩壊の始まり/第7章 イギリスと、幕府を支援するフランスの対決/第8章 倒幕への道/第9章 江戸城無血開城
2019.12.28
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伊勢宗瑞は俗称を北条早雲といい、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名です。 北条氏の始祖として知られていますが、その出自など多くがなぞにつつまれていました。 一介の素浪人が妹または姉の嫁ぎ先の今川家を頼って駿河に下向し、そこで出世してさらには関東に進出するという、立身出世物語として描かれることが多かったです。 ”戦国大名・伊勢宗瑞”(2019年8月 KADOKAWA刊 黒田 基樹著)を読みました。 北条早雲の名で知られる北条氏の初代・伊勢宗瑞について、近年の新史料の発見による人物像を紹介し、新しい政治権力となった戦国大名の構築過程を明らかにしています。 黒田基樹さんは1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修を卒業しました。 1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)単位取得満期退学、1999年に駒澤大博士 (日本史学)号を取得しました。 2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり現在に至っています。 歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めています。 あたかも今年は、宗瑞が死去してから500年という記念すべき年にあたっています。 北条家の本拠であった神奈川県小田原市では、「北条早雲公顕彰五百年」として、宗瑞の事績を偲ぶ様々なイベントが企画されています。 本書は、伊勢早雲庵宗瑞についての、最新の研究成果をもとにした、初めての本格的な評伝書としようとしています。 伊勢宗瑞は江戸時代からつい近年まで、北条早雲の名で知られてきました。 そこでは、戦国大名の魁、下剋上の典型、大器晩成の典型などと評価されてきました。 しかしながらここ30年における研究は、そうした人物像を大きく書き換えてきています。 宗瑞に関する新たな史料が見いだされ、またその解釈についても深化がすすめられてきました。 何よりも、宗瑞をとりまく、京都や東海、そして関東に関する政治状況についての解明が大きく進展し、それによって宗瑞の置かれていた状況や、行動の意味についての理解も著しく進展をみるものとなっています。 北条早雲こと伊勢 宗瑞は、室町時代中後期、戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代です。 早雲の代の時はまだ伊勢姓であり、戦国大名の嚆矢として活動しました。 諱は長らく長氏=ながうじまたは氏茂=うじしげ、氏盛=うじもりなどと伝えられてきましたが、現在では盛時=もりときが定説となっています。 通称は新九郎、号は早雲庵宗瑞、生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきましたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が定説となりつつあります。 伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはありません。 一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきました。 しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流です。 伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘、現井原市で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主であったことがほぼ確定しました。 近年の研究で、早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになっています。 早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に、盛定の所領の備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられています。 身分の低い素浪人ではなく、井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられています。 応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わりました。 義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めています。 その縁で早雲の姉または妹の北川殿が義忠と結婚したと考えられています。 北川殿は側室であろうとされていましたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られています。 文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸、後の今川氏親を生みました。 文明8年(1476年)に、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしました。 残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して、家中が二分される家督争いとなりました。 これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させました。 範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の合力と記されています。 北川殿の弟または兄である早雲は駿河へ下り、双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させました。 上杉政憲と太田道灌も撤兵させ、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓いました。 家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者、長谷川政宣の小川城に身を寄せました。 今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっていまし。 文明11年(1479年)に、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出しています。 ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしませんでした。 長享元年(1487年)に、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城に入って同志を集めました。 同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺しました。 龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となりました。 早雲は伊豆との国境に近い興国寺城に所領を与えられて駿河へ留まり、今川氏の家臣となりました、 早雲は甥である氏親を補佐し、駿河守護代の地位にあったとも考えられています。 この頃、早雲は幕府奉公衆小笠原政清の娘、南陽院殿と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれました。 早雲が、11代将軍足利義澄の異母兄の堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされています。 本書では、伊勢宗瑞の生涯について、当時の史料を中心にしながら、できるだけ詳しく取り上げています。 宗瑞に関する史料は、その後の北条家歴代と比べれば、著しく少ない状況にあります。 あわせて、新史料が確認されることも、極めて稀な状況にあります。 しかしながら、宗瑞に関する史料がすべて、十分に検討されたものとなっているかといえば、そうとはいえない状況にありました。 あらためて丹念に史料を検討してみると、これまで十分に解釈されていなかった事柄や、見過ごされてきた事柄が、いくつも存在していたといいます。 現在の宗瑞像において大きな前提となっている事柄に、室町幕府の有力官僚の出身であったという出自の問題と、かつての通説よりも二回りも若かったという年齢の問題があります。 前者は戦後における宗瑞研究の蓄積による成果ですし、後者は著者が20年ほど前に提示したものです。 そこから、宗瑞像は大きく転回するものとなったといって過言ではありません。 その後においても、宗瑞に関する研究はわずかずつではあるものの、堅実に進展をみるものとなっていました。 この機会に、それらを集大成し、最新の宗瑞像をまとめておこう、というのが本書のねらいとなっています。第一章 伊勢宗瑞の登場/第二章 伊豆経略の展開/第三章 伊豆国主になる/第四章 相模への進出/第五章 両上杉家への敵対へ/第六章 相模の領国化/第七章 政治改革の推進
2019.12.21
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今大きな危機が迫りつつあります。 日本の農業が壊滅するかもしれないという危機ですが、そのことに気づいている人は多くありません。 ”日本を救う未来の農業-イスラエルに学ぶICT農法”(2019年9月 筑摩書房刊 竹下 正哲著)を読みました。 日本の農業の国際競争力のなさを改善する上で、いちばん参考になるのは今や農業大国となったイスラエルの最先端技術を駆使した農法を学べば、日本の農業問題はほとんど解決できるといいます。 一般に農業問題というと、低い自給率、農家の減少、農家の高齢化、担い手不足、耕作放棄地の増大、農地の減少などが思い浮かびますが、実はこれらは大きな問題ではありません。 農業は変わるはずがありません。 なぜなら、農業とは5千年以上の歴史を持つ人類最古の産業だからです。 それは土を相手にする技術であり、土や自然が5千年前と変わらないのであれば、農業も変わるはずがありません。 いや、変わってはいけないのです。 そう考える人も多いことでしょう。 しかし、農業もやはり変わらなければならない、と著者は考えています。 しかも、ただ変わるだけではいけないのです。 社会の変化と同じように、急速にドラスティックに変わらないといけないのです。 なぜなら、そうしないと日本の農業は滅びてしまうからです。 本書では、日本農業に迫りつつある危機を解説するとともに、それを乗り越えるための手段を提案しています。 竹下正哲さんは1970年千葉県四街道市生まれ、北海道大学農学部、北海道大学大学院農学研究科で学び、2004年に博士号(農学)を取得しました。 1999年大学院在学中に冴桐 由のペンネームで第15回太宰治賞を受賞し、その後、民間シンクタンク、環境防災NPO、日本福祉大学講師などを経て、拓殖大学国際学部教授となりました。 日本唯一の文系の農業として知られる国際学部農業コースの立ち上げに尽力し、栽培の実践を重視した指導を行っています。 かつて青年海外協力隊でアフリカに行ったことをきっかけに、世界中のフィールドを回り、海外の農業現場に精通しています。 2015年に初めてイスラエルを訪問し、衝撃を受けたといいます。 農業は、私たちが生きていく上で必要不可欠な穀物や野菜といった食物を育てています。 土を耕し、水を活用し、植物という自然の恵みを、気候や天候といった不確実な環境のなかで育む、高度な知識と技術と経験が求められてきました。 そんな農業分野に、いまICTやロボット、AIなどを活用した次世代型の農業が登場し、注目を集めています。 ICTとはInformation and Communication Technologyの略称で、情報伝達技術と訳され、ITとほぼ同義です。 ICTでは情報・知識の共有に焦点を当てており、人と人、人とモノの情報伝達といったコミュニケーションがより強調されています。 海外では、ITよりICTのほうが一般的です。 農業に関しても、これから急速な変化が次々と起きていくことになります。 まさに革命と呼べる激変が起きるでしょう。 でも、それはかつてなかったチャンスと捉えることもできます。 たとえば農業AIロボットが登場してくれば、人間は単純労働から解放されることになります。 もはや雑草取りで腰を痛めなくてもよくなるのです。 それだけでも、農業のイメージが変わるでしょう。 必然的に、まったく新しい形の農業になっていきます。 日本の農業はずっと鎖国を続けてきました。 戦後70年間以上、国を閉ざし、海外の農業を決して見ようとしてきませんでした。 ひたすら国内だけを見る内向きの農業を展開してきました。 それは世界との競争を放棄したことを意味しており、その結果、農業技術の進歩はストップしてしまいました。 実は日本の農業の生産効率は、1970年代からまるで向上していません。 日本の農業は世界最高レベルと信じている人は多いことでしょう。 ですが、それはもはや正しい認識とは言えません。 確かに1980年代ぐらいまでは、日本農業は世界をリードしていたかもしれません。 でも今は、農業後進国になっていると言わざるを得ません。 というのも、日本が鎖国をして長い眠りについてしまっている間に、世界の農業は著しく進化してしまったからです。 センサーネットワーク、IoT、衛星画像、グラウトシステムを使った農業は、ヨーロッパ、アメリカ、イスラエルなどではもはや当たり前になっています。 インドもそれに追いつきつつあり、中国もここ数年で海外の巨大企業を次々と買収することで、ハイテク農業を会社ごと吸収しつつあります。 それだけ世界の農業は熾烈な戦いを繰り広げています。 日本は植物工場という独自の路線を2000年代に展開しようとしましたが、うまくいきませんでした。 補助金がなくなった途端に次々と倒産しているのが現実です。 理由は、植物工場はコストが余りにかかりすぎ、採算をとることが難しいためです。 ヨーロッパやイスラエルには、より洗練された栽培システムがあって、しっかりと利益が上がる仕組みになっています。 今の時代、あらゆる産業は世界を相手に戦うことを強いられています。 確かに、このまま鎖国を続けていけるのならば、それもいいでしょう。 しかし、現実的には、鎖国をこれ以上続けることは難しいのです。 もはやグローバル化の波は止めようがなく、それらは共通して、日本農業が世界に開かれることを強く要求してきていますし、農業補助金を廃止することも求めてきています。 これからは、たとえ日本の国内であっても、海外の農産物と戦っていかねばならない時代となってしまいました。 このまま指をくわえているだけだと、日本の農業は壊滅し、すべて海外に飲み込まれてしまう可能性が高いです。 そうならないためにも、日本の農業は変わらないといけないのです。 生産効率が今の2倍、3倍になれば、すなわちlヘクタールあたりの収量が今の2倍、3倍になっていけば、その分価格を下げることができるようになってきます。 価格が下がれば、世界と対等に戦うことができるようになります。 元々味は世界一なので価格さえ適正範囲に入ってくれば、むしろ世界一強い農産物になることができます。 すると、農業が滅びるどころか、世界トップクラスの農業大国になることもできます。 アメリカやヨーロッパ諸国のように、工業と並んで、農業も主要な成長産業になれます。 農業が、日本の経済成長を引っ張ることだってできるかもしれません。 すべては栽培法の改善にかかっています。 そしてその栽培法は、今後10年の間に、テクノロジーの進化に合わせて急激に変わっていくと見込まれています。 そのとき、イスラエルという国の農業が、大いに参考になると考えています。 ほとんど雨が降らないイスラエルが有数の農業輸出国になっています。 イスラエル農業の根幹を支えるのはドリップ灌漑で、農地に小さな穴が等間隔に開けられたチューブが張り巡らされ、穴からポタポタと点滴のように水を出して植物に水をやるシステムです。 与えられた水がどれだけ作物に吸収されたかを示す水利用効率でいうと85~95%です。 日本の灌漑の多くは、水田のように一気に水を流し込むのが一般的ですが、これでの水利用効率は40~60%にすぎません。 このドリップ灌漑は、イスラエルの不利な降雨条件と土壌の問題を一気に解決するだけでなく、クラウド農業やAI農業の基盤となる技術です。 イスラエルが通ってきた道は、日本がこれから歩まねばならない道を先導してくれているように見えるといいます。第1章 日本に迫りつつある危機/第2章 すべてを解決する新しい農業の形/第3章 最先端ICT農業とは―イスラエル式農業/第4章 イスラエル式農業の日本への応用実験/第5章 近未来の農業の形
2019.12.14
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カルピスは乳酸菌飲料で、原液は非常に高濃度であるためそのままでの飲用は推奨されていません。 水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とします。 原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、戦前は一般家庭の常備品や日本軍の補給品として、戦後は贈答用として広く使われています。 “カルピスをつくった男 三島海雲”(2018年6月 小学館刊 山川 徹著)を読みました。 会社の売上げより国の豊かさと日本人の幸せをひたすら願った誰もが知る国民飲料、カルピス社創業者の三島海雲の生涯を紹介しています。 カルピスは乳酸菌飲料で、原液は非常に高濃度であるためそのままでの飲用は推奨されていません。 水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とします。 原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、戦前は一般家庭の常備品や日本軍の補給品として、戦後は贈答用として広く使われています。 山川 徹さんは、1977年山形県上山市生まれ、東北学院大学法学部、國學院大學文学部2部を卒業し、在学中より雑誌の編集に携わり、大学卒業後にフリーライター となりました。 2007、2008年には北西太平洋の調査捕鯨に同行し、捕鯨に携わる若者たちやラグビーなどの取材を続け、各誌に様々なルポルタージュを発表しています。 三島海雲は1878年に大阪府豊島郡下萱野村、現・箕面市萱野の浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の子息として生まれました。 13歳で得度し、本願寺文学寮、現在の龍谷大学を卒業後、英語教師として山口の開導教校に赴任しました。 しかし、その職を辞し、仏教大学、現在の龍谷大学に編入しました、 1902年に、日本語教師として清朝が統治する中国大陸に渡りました。 1905年に中国大陸、北京で教師として暮らしたあと、雑貨などを売買する行商会社を立ち上げました。 馬車を引き、大陸各地で日本の雑貨等を販売しました。 やがて日本陸軍から買い付けを依頼されたり、モンゴル王公から仕入れを頼まれたりして、中国とモンゴル高原を行き来して様々な事業を手がけるようになりました。 1908年に日本軍部から軍馬調達の指名を受け、内蒙古、現内モンゴル自治区に入り、ケシクテンでジンギスカンの末裔、鮑=ホウ一族の元に滞在しました。 そこで酸乳に出会い、体調を崩し瀕死の状態にありましたが、すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ回復を果たしたといいます。 しかし、当初の目的であった緬羊事業に失敗し、辛亥革命を機に1912年に清朝が滅亡すると、中国大陸の状況が劇変しました。 1915年に日本に帰国し、心とからだの健康を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、製品開発に取り組みました。 1917年に、カルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立しました。 発酵クリーム、脱脂乳に乳酸菌を加えた醍醐素、生きた乳酸菌が入ったキャラメルなどを開発し販売しましたが、ことごとく失敗しました。 帰国から4年後の1919年に、無一文になってしまった41歳のとき、試行錯誤を繰り返してモンゴル高原で親しんだ乳製品に着想をえたカルピスの開発に成功しました。 そして、世界で初めての乳酸菌飲料の大量生産に成功し、7月7日にカルピスとして発売しました。 この時のカルピスは現在の薬用養命酒のような下膨れのビンで、ミロのヴィーナスが描かれた紙箱の包装でした。 1922年に水玉模様の包装紙を巻いたものになり、カルピスのパッケージの水玉模様は、発売日の七夕に因んで天の川をイメージしました。 最初は青色地に白い無地玉で、1949年に色を逆にし、白地に青い水玉としました。 仏塔の基壇に隨道を穿つという一風変わったデザインにはモデルがあります。 中国の北京市街から約50キロ北西の山峡に築かれた居庸関に建つ過街塔という史跡です。 居庸関は、いまから約2500年以上も昔の春秋戦国時代、モンゴル高原に暮らす遊牧民族の侵略に備えて、燕という国が建設をはじめた要塞です。 万里の長城と連結されて関所の役割を果たした居庸関は、交通と交易の要衝となり、蒙古と呼ばれたモンゴル高原と中国を結び、たくさんの人や物が往来しました。 過街塔は1343年に元朝の皇帝が建立した仏塔で、塔を載せたアーチ型の門は雲台と呼ばれます。 雲台の隨道には、漢字、チベット文字、ウイグル文字、西夏文字、元朝の公用文字だったパスパ文字、サンスクリットの言語を記すためのランツア文字で、旅人の安全を祈願した経が刻まれています。 それほど多様な言語や文化を持つ人々が、燧道を通り、モンゴル高原に向かったのです。 明治時代に、三島海雲というひとりの日本人青年が居庸関を通り、モンゴル高原に向かいました。 三島は草原に生きる遊牧民から乳製品を振る舞われ、その体験が日本初の乳酸菌飲料カルピスを生みました。 三島について書かれた書物は、50年近く前に刊行された自伝がいくつかあるだけです。 国立国会図書館などに足を運んでも、数十年前の古い資料が並ふものの、本格的にまとめられた評伝は見つからなかったといいます。 知人に尋ねても誰も知らない、モンゴルに詳しい人はカルピスのルーツが、遊牧民が作る乳製品にあると知ってはいたものの、情報はそこまでした。 カルピスは誰もが知る飲料ですが、いまその産みの親である三島を知る人はほとんどいません。 96年の生涯を生き抜いた三島は、過街塔を模した顕彰碑が建つ和田堀廟所に眠っています。 創案者を慕うカルピス社のOBは、毎年7月7日に決まって墓参りをしたといいます。 カルピスウォーターのペットボトルにも、発売当時の包装紙に採用された水玉模様のデザインが用いられています。 七夕にちなんで、青地に白の水玉という天の川をイメージした図案が、戦後に白地に青といういまも使われているデザインに変わりました。 この包装は、宇宙の縮図です。 天体には無数の星があります。 丁度カルピスの水玉模様であって、遠方にある星は薄く、近くの星は白く強く光っています。 そういう意味でもカルピスの今の水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものです。 右から左下へ斜めにしてあるのは、天の川を形取ったのです。 三島は、戦後すぐ富士山麓で見た、ちぎれ雲の間にあらわれた空の色に魅入られたといいます。 その色といったら、実に何とも形容のつかない深みのある色をしていました。 そこで三島は、天体の色をカルピスの包装箱に応用したのです。 断雲の間の深さ極みなし 百光年のみとりたたえて。 1923年に、ラクトー株式会社をカルピス製造株式会社に商号を変更しました。 国利民福は、企業は国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、そして幸せにしなければならないという三島が唱えた経営理念です。 マーケティング活動にも優れ、サンスクリット語の仏教用語が語源の「カルピス」という特色ある商品名を考案し、「初恋の味」というキャッチフレーズを採用しました。 黒人マークは国際コンペで募集されたもので、また、関東大震災時に善意から無料でカルピスを配給したことも知名度向上に貢献しました。 三島の生涯の根底には仏教精神、仏教哲学があり、学生の頃より、国利民福という、国の利益と人々の利益としていました。 三島は、会社の売上げより国の豊かさ、そして日本人の幸せをひたすら願いました。 いま、新自由主義がもたらした格差と分断が広がる社会で、社会や他者を顧みる余裕は奪われてしまったのではないでしょうか。 何よりも三島が辿った道は、私たちが生きるいまにつながっています。序章 カルピスが生まれた七月七日に 第一章 国家の運命とともに/一 仏像を焼き棄てた少年/二 学僧たちの青春/三 日本語教育の名の下に/四 山林王と蒙古王第二章 草原の国へ /五 死出の旅路/六 遊牧民という生き方/七 別れの日 第三章 戦争と初恋/八 カルピス誕生と関東大震災/九 健康と広告の時代/十 焦土からの再生/十一 東京オリンピックを迎えて第四章 最期の仕事/十二 仏教聖典を未来に/十三 父と子 終章 一〇〇年後へ/カルピスの里帰り/タイムカプセル
2019.12.07
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