全4件 (4件中 1-4件目)
1
五代友厚は1836年に薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷に、薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれました。 江戸時代末期から明治時代中期にかけての薩摩藩士で、大阪経済界の重鎮の一人です。 当時、まさに瓦解に及ばんとする萌しのあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。 ”五大友厚 富国強兵は「地球上の道理」”(2018年12月 ミネルヴァ書房刊 田付 茉莉子著)を読みました。 薩摩藩に生まれ幕末に渡欧し帰国後明治政府に出仕し、辞任後数々の事業を手がけ、商法会議所、商業講習所、株式取引所などを創設し大阪実業界の基盤を築いた五代友厚の功績を振り返っています。 田付茉莉子さんは1944年生まれ、1974年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了、現在、一般財団法人日本経営史研究所会長を務めています。 幕末の動乱期にあって、ほとんどの志士たちが攘夷思想を抱いていたなかで、ヨーロッパに眼を向けていた人物は数少ないです。 一般によく知られているのは、ペリー艦隊に小舟を漕ぎ寄せて渡米を計画した吉田陰ですが、その渡航の試みは無計画・無謀な企てであって、当然のことながら失敗しました。 これに対して五代は、薩摩藩という開明的な藩を動かし、藩の事業として留学生を率いて渡欧を実現しました。 五代は時代を突き抜けたグローバルな視野の持ち主で、ヨーロッパ諸国が世界に活躍している時代を正しく認識し、日本もその一員とならなくては国の将来はないと喝破したうえでの綿密な渡航計画でした。 大久保利通や西郷隆盛といった下級武士出身の志士たちと違って、五代は上級武士の出身でしたから、直接的に斉彬の影響を受けて育ちました。 1851年に元服して才助と名乗り、1857年に郡方書役となり、長崎遊学を命ぜられ、長崎で勝海舟と出会い、イギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーと知己を得ました。 グラバーと共に上海に渡航し、ヨーロッパ諸国の租界が軒を連ね、世界有数の国際都市へと発展しつつあった都市の活気に触れました。 1862年に藩庁より舟奉行副役の辞令が下り、蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴き、上海で高杉晋作らに出会いました。 1863年に薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送されました。 1865年3月にグラバー商会が手配した蒸気船オースタライエン号で、薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅立ちました。 薩摩藩留学生を引率してのヨーロッパ渡航は、五代の見聞の幅を大きく広げました。 5月にイギリスのサウサンプトン港に到着、即日、ロンドンに向かい、7月にベルギーに行き、9月にプロシアから、オランダを経由して、フランスへ行きました。 1866年2月に薩摩の山川港に帰着し、直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられました。 イギリスやフランスでの知見に基づいて、五代は世界の強国の拠って立つ経済的基盤を理解し、斉彬のめざした富国強兵を、きわめて現実的に追求していきました。 帰国後の五代は、志士としての活躍もしましたが、蒸気船、開聞船長として、資金調達と武器・艦船の調達などの商業活動にほとんど専念していました。 刀を切り結び立ち回ることはなく、自らの役割を限定的に自覚して遂行したのです。 その意味で五代は、同時代のいわゆる志士とは明確に一線を画していました。 1867年1月に小松清廉、グラバーらとともに、長崎の小菅において、小菅修船場の建設に着手しました。 5月に幕府が崩壊すると、御納戸奉公格という商事面を担いました。 1868年に明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられました。 2月に外国事務局判事に任じられ、初めて大阪に来ました。 5月に外国権判事、大阪府権判事に任命され、初代大阪税関長に就任しました。 9月に大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当しました。 政府に大阪造幣局の設置を進言し、グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を6万両で購入する契約を結びました。 1869年5月に会計官権判事として横浜に転勤を命じられましたが、2か月で退官し下野しました。 以後、金銀分析所、大阪通商会社、為替会社の設立に尽力し、鉱山経営として天和鉱山を手掛けました。 また、造幣寮(現・大阪造幣局)、弘成館(全国の鉱山の管理事務所)、朝陽館(染料の藍の製造工場)、堂島米商会所の設立を行いました。 1878年8月に大阪株式取引所(現・大阪取引所)、9月に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任しました。 ほかに、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋会社、大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)を設立しました。 五代友厚の事績を評価するときに、東の渋沢、西の五代と並び称されることが多いです。 商法会議所や商業講習所を設立し、実業界の組織化に大きな貢献をしたという点では、東京の渋沢栄一に匹敵する役割を、西の大阪で果たしたからです。 一方で、五代は政商として岩崎弥太郎と並び称されることも多いです。 大蔵卿大隈重信と結んで三菱財閥を築き上げた岩崎に対して、内務卿大久保利通と五代の関係が比定されているのです。 五代が政商とされるのは、北海道開拓使官有物の払い下げ事件によってであり、日本史の教科書ではこの一件だけ取り上げる本が多いです。 しかし、事業家としての資質は、渋沢や岩崎と五代とのあいだには大きな違いがありました。 渋沢は、自ら事業を起こすよりは、財界の組織者として能力を発揮しました。 一方の岩崎は、政府の保護を利用して事業で成功し、のちに財閥を築きました。 渋沢にとっても岩崎にとっても、事業意欲と資本蓄積意欲は表裏一体でした。 五代もまた、自ら事業を起こして経営する実業家でした。 そして、数多くの大事業の創業に関わった点では、渋沢や岩崎と共通するものがあります。 しかし五代の事業意欲は、蓄財を最終的な目的とはしておらず、殖産興業と富国の実現を理念としていました。 在来産業に代わって近代工業を根づかせ、それによって国際収支の悪化を防ぎ、植民地化の危機を回避しようとしました。 その事跡をみるならば、五代は単に大阪の恩人にはとどまらず、近代産業の父として渋沢に先んじる存在でした。 日本の近代を築く志にこだわった数少ない事業家であり、さらに大久保をバックアップする偉大な論客でもありました。序 章 幕末薩摩藩と五代友厚/第一章 西欧近代に学ぶ/長崎遊学と上海渡航/薩英戦争から薩摩藩英国留学生の派遣へ/第二章 日本の近代化に向けて/ヨーロッパの視察/十八箇条の建言/幕末における志士活動/第三章 明治政府に出仕/在官時代の活躍/造幣寮の設立/辞官と帰郷/第四章 実業界でのスタート/金銀分析所の事業/活版印刷の普及と出版事業/第五章 鉱山業の展開/鉱山業と弘成館/主な鉱山の経営/弘成館の業績/第六章 製藍業の近代化と失敗/製藍業と朝陽館/経営難から破綻へ/第七章 その他事業への出資/大阪製銅会社/貿易事業への関与/その他の事業投資/第八章 商法会議所と財界活動/明治初年の政界活動/大阪商法会議所の設立/商業講習所と商品取引所/財政政策の建議/終 章 五代友厚の生涯、果たした役割/五代をめぐる人びと/五代友厚の逝去/五代の顕彰と事績/参考文献/おわりに/五代友厚略年譜/人名・事項索引
2019.02.23
コメント(0)
発達障害とは、生まれつきの脳機能の発達のアンバランスさ・でこぼこと、その人が過ごす環境や周囲の人とのかかわりのミスマッチから、社会生活に困難が発生する障害のことです。 アスペルガー症候群は発達障害のひとつで、発生率は約4,000人に1人程度であるといわれます。 対人関係の障害、コミュニケーションの障害、パターン化した興味や活動の3つの特徴を持ち、言葉の発達の遅れや知的発達の遅れがない場合を指しています。 ”15歳のコーヒー屋さん-発達障害のぼくができることから ぼくにしかでないことへ”(2017年12月 KADOKAWA刊 岩野 響著)を読みました。 10歳で発達障害のひとつのアスペルガー症候群と診断され中学校に通えなくなったのをきっかけに、あえて進学しない道を選んだ15歳のコーヒー焙煎士の来し方と行く末を紹介しています。 厚生労働省はアスペルガー症候群を、広い意味での自閉症のひとつのタイプであると定義しています。 アスペルガー症候群を含む自閉症スペクトラムについては、これまでのところ確実に断定できる原因はありませんが、先天的な脳の機能異常により引き起こされていると考えられています。 岩野 響さんは2002年生まれ、10歳でアスペルガー症候群と診断され、中学生で学校に行けなくなり、あえて高校に進学しない道を選びました。 料理やコーヒー焙煎、写真など、さまざまな「できること」を追求しています。 そして2017年4月に、群馬県桐生市の自宅敷地内に「HORIZON LABO」をオープンしました。 幼い頃から調味料を替えたのがわかるほどの鋭い味覚、嗅覚を生かし、自ら焙煎したコーヒー豆の販売を行っています。 コーヒーに興味を待ったのは、じつはカレー作りがきっかけだといいます。 学校に行かなくなった中学1年の冬、ずっと家にいて家事をやりはじめ、夕飯を作るのがおもな仕事でした。 八百屋や魚屋に買い物に行き、鯖の味噌煮や肉じゃがなどを作っていましたが、ある日突然、スパイスからカレーを作りたいと思い立ちました。 どうせだったらスパイスから作りたい、せっかく作るのなら、おいしいものがいいという単純な気持ちだったそうです。 そこで、スパイスの本を探してきて読みあさり、それぞれの特徴を覚え、世界中のカレーの歴史や製法なども勉強しました。 カレーがどうしてコーヒーにはまるきっかけになったかといいますと、カレーの隠し味にインスタントコーヒーを入れてみたら、おいしいことに気づいたからです。 さらに豆から挽いたコーヒーを入れるともっとおいしくなることがわかつて、どんどんのめりこんでいきました。 スパイスカレー作りにはまっていた頃、両親のお店にやってくるお客さんにカレーを振る舞うと、おいしいと食べてくれました。 でも、だんだんカレーよりもコーヒーのほうに夢中になっていきました。 その頃、両親の仕事関係の人から、コーヒーが好きなら焼くところからやらなきやダメ、と手回しの小さなコーヒー焙煎器を譲ってもらいました。 焙煎をしてみたら、味の変化がすごくおもしろくて、もっとやりたいと意欲がわき、これが人生の転機になったそうです。 両親の仕事関係者や友人知人たちは、心配してくれ、この豆を飲んでみてと持ってきてくれたり、この店のコーヒーがおいしいと教えてくれたり、コーヒーを職業にしている人を紹介してくれたりしました。 そして、地元のコーヒー屋から誘っていただき、スマートロースターという、大型焙煎機を触らせてもらえることになりました。 そんな中で出会えたのが、2013年に閉店した伝説の喫茶店、東京・南青山にあった”大坊珈琲店”の大坊勝次さんでした。 大坊さんとの話しの中で、コーヒーの焼き加減のポイントはすごく近く、また深くて甘いコーヒーというコーヒーの好みが似ていました。 その後は、大坊さんに飲んでほしいと思えるコーヒーが焼けたときに、豆を送らせてもらっています。 味覚や嗅覚には点数がつけられないし、正解というものがありませんので、いいと思うコーヒーがお客さんにもおいしいと思ってもらえるのか、じつは心配でした。 でも、大坊さんとコーヒーの話ができて、味の話題について共感してもらえたことで、目指すコーヒーのイメージはこれでいいと自信になりました。 この頃両親は、仕事場に連れていってくれて、いろいろな人に会わせてくれました。 そこで、たくさんの仕事やお金の稼ぎ方があることを知りました。 それまで仕事はどこかの企業に勤めるものと思い、中学を卒業したら高校に行って、次は大学に行って就職をすると考えていました。 障害があろうがなんだろうが、生きていかないといけません。 では、どうやって生きていけばいいのでしょうか、どんな方法で稼ぐのでしょうか、働くとはどういうことなのでしょうか、どんな方法があるのでしょうか。 この頃に出会った大人の人たちに、いわゆる一般的な会社勤めをしなくても、もっと自由に稼ぐ方法があると教えてもらいました。 自分はだんだん、「これでいいんだ」「このままでもいいんだ」「ぼく、いけるかも」という気持ちになることができたそうです。 家族で行ったフランス旅行で、道端のおしゃれなコーヒースタンドを見かけ、いいな、ああいうお店を持ちたいなと思いました。 そこでは、ひとりで、ビンテージのカップやコーヒー器具を使ってコーヒーを販売していました。 決して高価なものを並べているわけではありませんでしたが、その人のセンスとアイデアを感じられる素敵なコーヒースタンドでした。 そこから、自分ひとりでできる方法がないか、と考えはじめました。 ある日、自宅の空いている倉庫を、パパと一緒に改装してお店にできないかな、と両親に伝えました。 母はできそうだと喜んでくれ、父も自分の家でしかも自分たちで改装すれば、資金もほぼかからないしいいアイデアだねと賛成してくれました。はじめに第1章 幼少期のぼく ぼくはアスペルガー症候群/小さい頃の記憶は、じつはあいまいです/小学校3年生で教室にいられなくなる/はじめて先生やみんなに認められた!□「発達障害」を知らなかった私たち 母・岩野久美子 幼少期の響は、とにかく寝ない赤ちやんでした/シャンプーや洗剤のボトル集めに夢中/同世代の男の子と興味、関心が全然違う/「もしかして耳が聞こえていないの?」と聴力検査を受ける/保育士さんに相談できなかった理由/小学校3年で発達障害の診断を受ける/よい先生との出会いで気づいたこと/「育てる」より「サポート」でいい/お互いがよくなるために「家族会議」を開く□男親として考えたこと 父・岩野開人 違和感はあるものの、確信が持てない/弟の方ができることが多い!?と気づく/学校がつまらなそうだった響/障害を知り、たきまち将来が不安になる/障害者を取り囲む「社会の現実」に直面第2章 大きな壁にぷつかった中学時代 なにがなんでも校則を守ろうとしていた/体を鍛えるためにバドミントン部へ/教室にも、部活にも、ぼくの居場所がない/はじめて自分が発達障害であると知る/学校に行けなくなった□中学校は波乱の幕開け 母・岩野久美子 「家庭の問題は家庭で解決してください」/提出物という落とし穴/「もう学校に行かなくていいよ」の一言を言ってあげられない/「何でも障害のせいにしないで!」との叱責/できることに目を向けたら、可能性が広がった/傷ついた心をプラマイゼロの状態に戻す□不器用なのが響のよさ 父・岩野開人 響には「なんとかしてあげたいな」と思わせる才能がある/一般的なルートに乗らなくてもいい!第3章 働くごとで新しい世界が広がる これからの生き方を模索する日々/家事をしたり、父の仕事を手伝ったり/ぼくがコーヒーに目覚めたきっかけ/小さな手回しの焙煎器が人生を変えるきっかけに/コーヒー界のレジェンドとの出会い/もっと自由に稼ぐ方法はある/コーヒー屋さんをオープンしてみたい/回転準備と販売計画□できることと、できないことを理解する大切さ 母・岩野久美子 「100円でも稼げないと生きていけないよ」/高校進学の道を検討してみたものの/15歳の4月にどうしてもオープンさせたかった/家族全員で障害をポジティブにとらえていく口響を知ることで、ぼく自身が成長できる 父・岩野開人 そばにいたいから「仕事」を生み出す/わが子と一緒に働くことの楽しさ/毎日が新入社員/焙煎士が適職だと確信した理由第4章 ぼくの仕事はコーヒー焙煎士です 2017年4月、「HORIZON LABO」をオープンーン!/コーヒー屋さんの1日/何度やっても飽きることがない、コーヒー焙煎の魅力/味のイメージを膨らませるために/人見知りのぼくもコーヒーのことなら饒舌に/過敏な味覚と嗅覚が焙煎の役に立つ/じつは小学校低学年のときから、隠れてコーヒーを飲んでいました/焙煎を通じて自信を取り戻す/「HORIZON LABO」はまだまだ進化していく/自分の障害を受け入れた瞬間/誰にでも、自分の生きやすい場所はある/自分の好きなことを仕事にしているから障害がない□響は、そのままでいい 母・岩野久美子 家族という小さな社会を回していく□小さな焙煎器から始まった、大きな世界 父・岩野間人 一歩踏み出せば、人とのつながりができる/ものの考え方や見方ひとつで、人生は変わる解説 数々の選択が、よい結果につながっている 星野仁彦(心療内科医・医学博士)おわりに I ぼくができるごとから、ぼくにしかできないごとへ/できるごと探しを積み重ねていったその先に
2019.02.16
コメント(0)
鎌倉初期の武士で武蔵国畠山荘の荘司重能の子・畠山重忠は、頼朝挙兵当初は平氏に属して頼朝に敵対しましたが、のち頼朝に服属しました。 治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました。 ”中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流”(2018年11月 吉川弘文館刊 清水 亮著)を読みました。 まっすぐで分け隔てない廉直な人物で坂東武士の鑑として伝わる、武蔵国男衾郡畠山の在地領主・畠山重忠の武士としての生き方を描いています。 清水 亮さんは1974年神奈川県生まれ、1996慶應義塾大学文学部を卒業し、2002年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学し、博士(文学)となりました。 現在、埼玉大学教育学部准教授を務めています。 畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがあります。 畠山氏が成立した12世紀前半から中葉は、日本中世の成立期にあたります。 この時期、日本列島各地に天皇家・摂関家・大寺社を最高の領主とする荘園が形成される一方、各国の国管が管轄する国訴領もまた中世なりの郡・郷として確定されていきました。 武士の多くは在地領主でしたが、全ての武士が在地領主であったわけでも、在地領主の全てが武士であったわけでもありません。 武士とは武芸を家業とする職業身分であり、地方の所領に本拠を形成し、収益を取得する在地領主とはそもそも異なります。 2000年代に入って、武士団と地域社会との関わりについての研究は大きく進んだといいます。 とくに、武士の本拠・本領とその周辺の地域社会との関係が明確になってきました。 武士の本拠が館だけでなく、地域の流通・交通の要衝である宿や、地域社会の安寧を保障する寺社と結びついて形成されていました。 武士はこのような本拠を拠点として、地域における交通・流通の主導者、地域信仰の保護者の役割を果たしていました。 頼朝時代の御家人集団が、鎌倉殿のもとでの平等性とそれぞれの勢力の差に基づく差別をともに孕んでいました。 また、中世前期の武士を考える上で欠くことができないのが京都との関わりです。 武士身分を認証するのは王権であり、清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏に系譜を引く武士たちは王権の認知を受けた正統的な武士です。 一方、国管軍制の拡充過程で武士に認定された者たちも存在しており、その武士身分を認証するのは国街ですから、王権に認証された軍事貴族クラスの武士よりは格下です。 武士・武士団には家格・勢力に応じた階層性がありました。 畠山重忠・畠山氏は在地系豪族的武士で、その軍団は在地系豪族的武士団と呼称できそうです。 畠山氏は、郷村規模の所領を持つ地方中小武士を郎等・目下の同盟者として抱えていました。 本書では、近年の武士研究・在地領主研究の達成をふまえ、武士・在地領主としての畠山重忠・畠山氏のあり方をできうる限り具体的に示すことを目指すことになります。 畠山重忠の振る舞い・言説に関する史料は多く残されていますが、そのほとんどは鎌倉末期に成立した『吾妻鏡』や、『平家物語』諸本の記事です。 重忠個人の言説一つ一つの実否はともかく、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本などに示された重忠の姿は、武士としての重忠、武士団・在地領主としての畠山氏のあり方をそれなりに投影しています。 多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていました。 父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えました。 坂東八平氏は、平安時代中期に坂東に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏です。 8つの氏族に大別されていたため、八平氏と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門です。 時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わるため、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々ですが、一般的には千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏が多く挙げられます。 秩父氏は日本の武家のひとつで、桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東8平氏のひとつに数えられます。 平良文の孫で桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもあります。 秩父平氏の直系で、多くの支流を出した名族で、武蔵国留守所総検校職として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館を居城としました。 初代の平将恒は、武蔵介・平忠頼と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称しました。 1180年8月17日に、源義朝の三男・頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵しました。 この時、父・畠山重能が大番役で京に上っていたため、領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かいました。 8月23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走し、相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇しました。 合戦となり、双方に死者を出して兵を引きました。 8月26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡しました。 重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取りました。 9月に頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入りました。 10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏しました。 重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたといいます。 重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入りました。 河越重頼は、娘の郷御前を頼朝の弟である源義経に嫁がせることに成功しました。 しかし、義経が失脚すると重頼・重房親子もこれに連座して討伐され、秩父氏惣領の地位は畠山重忠に与えられました。 奥州合戦では、源頼朝に従い畠山重忠が先陣を務めたほか、江戸重長も従軍しています。 1204年11月に、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争いました。 この場は収まりましたが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めました。 1205年6月に、時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対しましたが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したといいます。 時政の娘婿の稲毛重成が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍実朝は重忠討伐を命じました。 こうして、畠山重忠の乱が起こり、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされました。 これは、鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つでした。畠山重忠のスタンス―プロローグ/秩父平氏の展開と中世の開幕(秩父平氏の形成/秩父重綱の時代)/畠山重能・重忠父子のサバイバル(畠山氏の成立と大蔵合戦/畠山重忠の登場)/豪族的武士としての畠山重忠(源頼朝と畠山重忠/在地領主としての畠山氏)/重忠の滅亡と畠山氏の再生(鎌倉幕府の政争と重忠/重忠の継承者たち )/畠山重忠・畠山氏の面貌―エピローグ/あとがき
2019.02.09
コメント(0)
祭りで、神様にお供えする食べもの=神饌は、日本の神社や神棚に供えられ、御饌=みけあるいは御贄=みにえとも呼ばれるます。 “神饌-供えるこころ-奈良大和路の祭りと人”(2018年3月 淡交社刊 写真・野本暉房/文・倉橋みどり)を読みました。 奈良県内各地の神社の祭礼で神前に献じられる神さまへのお供え物=神饌の、いろいろなすがた・かたちを多数の写真と文章で紹介しています。 奈良大和路に残る祭りでは、それぞれに特色のある食べものを神饌とし、独特な作法でお供えするところが少なくありません。 そこには大和の祭事の歴史と魅力はもちろん、その土地の方々の祭りに対する思いが色濃く感じられます。 野本暉房さんは1940年大阪府生まれ、一般企業に勤務の傍ら趣味で写真を始め、1968年頃から各種コンテストに応募し、アサヒカメラ年度賞、シュピーゲル賞など、受賞・入選多数あります。 2000年より写真家として奈良大和の風景、祭事の撮影に専念し、独特の視点と優れた取材力による魅力的な写真作品で注目を集めています。 2010年に入江泰吉賞(日本経済新聞社賞)を受賞、日本写真家協会(JPS)会員、奈良民俗文化研究所研究員です。 倉橋みどりさんは1966年山口県生まれ、山口女子大学国文科卒業、地域文化誌『あかい奈良』の編集長を経て、奈良きたまちのアトリエ「踏花舎」を拠点に雑誌・新聞での企画・執筆を手がけました。 また、奈良の文化や歴史を発信する「NPO法人文化創造アルカ」の代表として講座やイベントを実施し、入江泰吉旧居コーディネーター、武庫川女子大学非常勤講師を務めています。 NPO法人文化創造アルカは、2012年11月法人として認可され、これまで軽視されがちだった近代・現代を中心に、奈良の歴史や文化などの魅力を掘り下げています。 そして、日本文化全体の理解を深め、ともに考え、さらには記録として未来へ伝えていくために、勉強会・講演会などの催しと出版活動などを行っています。 今回、その神饌をテ~マに選び、どのような神饌が供えられるのかを中心に、地元での神饌の準備が整うまでの様子や、祭りでの人々の表情などを合わせて紹介しています。 一年の節目に行われる日本の祭は神事と祭礼から成りたち、神事の際にはその土地の人々が特別な恩恵を享受した食物を神饌として捧げ、神迎えを行ってきました。 捧げられる神饌は主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれてきました。 儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする直会=なおらいとよばれる儀式が行われます。 現在では、1871年に打ち出された祭式次第に準拠した生饌と呼ばれる、素材そのものを献供する丸物神饌が一般的になりました。 それ以前には熟饌とよばれる、調理や加工を行った、日常生活における食文化の影響が伺えるものも神饌として献供されていました。 そして、一部の神社では伝統に則ってこの形式の神饌の献供が引き継がれており、これらの神饌は他の地域に見られない特徴を有することから、特殊神饌とも呼ばれまっす。 特殊神饌の献供を行う神社は全国各地に存在しますが、奈良県内の代表的な例として、 奈良市の春日大社春日祭「御棚神饌」「八種神饌=やくさのしんせん」と率川神社三枝祭、桜井市の談山神社嘉吉祭「百味の御食=ひゃくみのおんじき」などが挙げられます。 神饌の調製は竃殿=へついどの(春日大社)、大炊殿=おおいどの(賀茂御祖神社)など、専用の建物がある社はそこで調製を行います。 あるいは、特別の施設を持たない社では社務所などを注連縄を用いて外界と分かち、精進潔斎した神職や氏子の手で作られます。 火は忌火が用いられ、唾液や息などが神饌にかからないよう、口元を白紙で覆う場合もあります。 また、近親者に不幸があった者は調製に携わることが許されないなど、調製には細心の注意が払われます。 春日大社で行われる春日祭などの勅祭では、明治以前には宮中から大膳が参向し、御物の調製にあたりました。 1884年の明治天皇の旧儀復興の命で神饌は特殊神饌に戻されましたが、調製は春日大社の神職の手で行われています。 祭事、民俗行事の取材をしていていると、神事の初めに上げられる神饌にまず目を引かれます。 神饌について、神社庁などで定める基準があるのか調べても、これでなければならないというものはないようで、それぞれの神社の故実や伝承によって行なわれています。 本書は、神社庁の公認のものはなく、学術的なものでもなく、著者がおもしろいと興味を待ったものを中心にまとめている、といいます。 奈良大和の祭事、神饌などはどちらかというと、静かでおとなしめの感がありまが、丁重さは他より感じられるものがたくさんあります。 また、本来の食べ物を中心とした神饌だけでなく、おもてなしの演出とも言える、舞、唄、火、水なども含めて取り上げました。 神様には元来私欲のお願いごとをするというものではなく、荒ぶる神を鎮める、国土、民の安寧を祈るというものだと言われます。 今年もおかげさまで野山の幸も海川の幸も得ることができましたと、神様にその報告と感謝をし、捧げるのが神饌だと思われます。 同じことならその容器などにも飾りや化粧をして、演出もすればより喜んで頂けるだろうとのおもてなしの気持ちで、凝ったものが作られてきたのでしょう。 由緒や謂れを尋ねても、民俗行事などでは、大方は昔からそうしてきたようだし、意味はわからん、との答えが多いです。 民俗伝承とはそういうものでもあり、それがまた興味津々なのです。 どうしても目を引く神饌を取り上げることになり、祭礼の日に特殊神饌など目を引く神饌に興味を感じます。 しかし、多くの神社では毎朝に「日供」と呼ばれる神饌を上げおり、神饌の基本とも言えるもので見落としてはなりません。 こうした祭事や神饌などは、日本人の精神文化の形成に影響を与えてきた大きな要因であったのではないでしょうか。 近代化激しい時代で祭事も簡素化省略化される傾向がないでもありませんが、こうした文化の伝承は続いて欲しいと願います。第1章 神饌の色色/第2章 神饌のかたちの不思議/第3章 いのちを供える/第4章 舞を供える、音を添える/第5章 火を供える、水を供える/第6章 神饌ができるまで/第7章 直会のよろこび
2019.02.02
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1
![]()

