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アフリカは大きく変わりつつあります。 貧困と飢餓の大陸といった20世紀のアフリカ観からは、今世紀中葉のアフリカの姿を想像できません。 ”物語 ナイジェリアの歴史 「アフリカの巨人の実像」”(2019年5月 中央公論新社刊 島田 周平著)を読みました。 世界におけるアフリカの位置を見直す歴史的転換点にあって、イギリスの統治などを経て人口・経済ともにアフリカ最大の国となったナイジェリアの歴史をたどっています。 国際通貨基金が2015年に発表した数値によりますと、2001年からの10年間と2011年からの5年間の国内総生産の国別伸び率で、世界上位10力国の半数以上をアフリカ諸国が占めています。 アフリカはサハラ砂漠南縁を境に、北のアラブ主義と南のネグロ主義に分けられます。 この両者にまたがる唯一の国がナイジェリアであり、ナイジェリアはビアフラ戦争を経験しボコ・ハラムを抱えています。 島田周平さんは、1948年富山県生まれ、1971年東北大学理学部地理学科卒業、理学博士です。 アジア経済研究所、東北大学理学部助教授、立教大学文学部教授、東北大学教授、京都大学教授等を経て、名古屋外国語大学世界共生学部教授を務めています。 日本地理学会賞優秀賞、大同生命地域研究奨励賞を受賞しています。 ナイジェリア連邦共和国、通称ナイジェリアは、西アフリカに位置する連邦制共和国で、イギリス連邦に加盟しています。 ナイジェリアという名は、同国を流れるニジェール川から採られています。 ナイジェリアという名前は、19世紀後半に英国のジャーナリストであるフローラ・ショーによって使い始められたともいわれます。 およそ1億9000万人の人口はアフリカ最大で、世界でも第7位に位置しており、若年人口は世界でも非常に多いです。 多民族国家で500を超えるエスニック・グループを擁し、そのうち3大エスニック・グループがハウサ人、イボ人、ヨルバ人です。 エスニック・グループが用いる言語は500を超え、文化の違いも多岐にわたり、それにより互いに区別されます。 ナイジェリア連邦共和国の公用語は英語であり、宗教はおおまかに南部のキリスト教と北部のイスラム教に二分されますが、少数はナイジェリア土着の宗教を信奉しています。 西のベナン、北のニジェール、北東のチャド、東のカメルーンとそれぞれ国境を接し、南はギニア湾に面し大西洋に通じます。 ナイジェリアの地には、過去数千年間に多数の王国や部族国家が存在してきました。 現在のナイジェリア連邦共和国の源流は、19世紀以来の英国による植民地支配と、1914年の南部ナイジェリア保護領と北部ナイジェリア保護領の合併にもとめられます。 英国は行政システムと法制度を設置した上で、伝統的な首長制を通じた間接統治を行いました。 ナイジェリアは1960年に正式に独立し、1967年から1970年にかけて内戦に陥りました。 以来、選挙に基づく民主政権と軍事独裁政権が交互に続きましたが、1999年に安定した民主政権が成立しました。 2011年の大統領選挙は、同国で初めて比較的自由かつ公平に行われた選挙です。 ナイジェリアは人口と経済規模からアフリカの巨人と称されることが多く、2014年には南アフリカを抜きアフリカ最大の経済大国となりました。 2015年時点で、ナイジェリアの経済規模は世界第20位となっています。 しかし、2002年以降、ナイジェリア北東部で、世俗の統治機構を廃しシャリーア法の設立を目指すイスラム教の過激派組織ボコ・ハラムによる暴力に見舞われています。 度重なる攻撃により1万2000人が死亡し、8000人が身体に障害を負ったといいます。 アフリカはすでに、低所得者層を対象とした持続的なBOPビジネスの対象となっていますが、早晩一般のビジネスにとっても有望な市場になると考えられています。 アフリカの中で最も注目される国の一つがナイジェリアで、人口規模か大きく経済成長の潜在性も高い国です。 圧倒的な人口と経済力を背景に、ナイジェリアはアフリカの中で大きな存在感を示し、とりわけ西アフリカ域内では政治と経済の両面で大きな役割を果たしてきました。 西アフリカ諸国経済共同体の中心的メンバーで、西アフリカ諸国経済共同体監視団活動では、常に最大資金拠出と軍隊派遣を行ってきました。 また、アフリカ連合においても一定の影響力をもっていますが、日本でのナイジェリア認知度高くありません。 ピラミッドやナイル川で有名なエジプト、チョコレートと野口英世で知られるガーナ、自然動物公園で有名なケニアやマダガスカル、資源豊富な南アフリカなどに遠く及びません。 ナイジェリアは日本では、知られざる大国なのです。 国際的にも認知度や評価か低い原因はナイジェリア自身にもあります。 独立以来のビアフラ内戦、長期の軍事政権、繰り返されるクーデターというように、負のイメージで捉えられる政治か長く続いてきました。 とりわけ1980年代にその悪名を世界に轟かせた汚職や不正の横行、1990年代の軍事政権による恐怖政治などは、ナイジェリアの国際的信用を著しく損なってきました。 その結果、アフリカ諸国からでさえ、経済力はあるか政治的に不安定で信頼のおけない国で、人権意識か低く非民主的な国だという評価がなされてきました。 1999年に軍政が終わり民主政権が誕生しましたが、民政か実現すると同時に北部でボコ・ハラムが誘拐事件を起こしました。 南部のニジェール川河口域では、武装集団による地域紛争が激化しはじめ、治安の悪い不安定な国という印象を拭い去ることはできませんでした。 しかし、大きな転換点を迎えているアフリカにあって、残念ながらナイジェリアがアフリカ型発展の模範国に挙げられることはありません。 教育水準は高いですが、政府の統治能力は高いとは言えず、汚職も多く、伝統的統治システムは残存しています。 ただし、最大の大国ナイジェリアを今のまま知られざる国としておいて良いはずはありません。 この国のありようが、今世紀中葉のアフリカの姿に大きな影響を与えることは間違いありません。 21世紀のアフリカの発展を考えるとき、ナイジェリアは目を離せない枢要な国です。 重い課題を背負った大国ナイジェリアは、効率を追求する小国とは違う独自のイジェリア型発展の途を模索するしか方法はないのではないでしょうか。 そのためには、地域の歴史を丹念にたどりつつ、それらを束ねて共通の歴史へと絢っていく地道で不断の努力が必要でしょう。第1章 ナイジェリア誕生以前:サハラ交易/第2章 大西洋貿易/第3章 奴隷貿易の禁止/第4章 探検と宣教/第5章 アフリカ分割から特許会社支配まで/第6章 イギリスによるナイジェリア植民地支配/第7章 反植民地運動のはじまり/第8章 独立からビアフラ内戦へ/第9章 軍事政権と第二次共和制時代/第10章 民政移管とボコ・ハラム問題
2019.07.27
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六角氏は佐々木六角氏とも言い、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った守護大名ですが、藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりはありません。 六角定頼は戦国時代の武将・守護大名で、室町幕府管領代、近江国守護、南近江の戦国大名、南近江守護・六角高頼の二男で、六角氏14代目の当主です。 “六 角 定 頼-武門の棟梁、天下を平定す-”(2019年5月 ミネルヴァ書房刊 村井 祐樹著)を読みました。 足利将軍家の後盾となって中央政界に大きな影響力を持ち、北近江浅井氏をも支配下に置き最盛期には天下人ともいえる存在だった、六角定頼についての初の評伝です。 村井祐樹さんは1971年東京都生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、2000年に東京大学史料編纂所助手となりました。 以後、東京大学史料編纂所助教を経て、現在、准教授となっています。 六角氏は近江源氏と呼ばれた佐々木氏の4家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していました。 六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に六角氏の祖となる佐々木泰綱が屋敷を得たからと言われています。 鎌倉時代、佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承しました。 1243年に信綱の長男・重綱の訴えを幕府が入れ、泰綱が嫡流であることは変わりはありませんでしたが、泰綱は有した近江の所領の一部を失いました。 近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれました。 これらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化することはできませんでした。 鎌倉幕府滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方して敗れ降伏しました。 室町幕府が成立すると、庶流である京極氏の京極高氏の佐々木道誉が出雲守護、飛騨守護などに加えて、近江守護に任じられました。 その後、六角氏頼が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて、近江一国の守護の地位を占めました。 なお、京極氏は出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ、近江国内でも守護である六角氏の支配を受けない特権を認められました。 3代将軍足利義満の頃には四職となり、幕府の要職につき六角氏と対立しました。 同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など、奉公衆として幕府の直臣化される者もいて、幕府からの直接の命令を奉じて、守護の命令には従いませんでした。 領内には比叡山もあり、室町時代を通じて六角氏の支配は安定せず、六角満綱・六角持綱父子は、家臣の反乱により自害に追いやられました。 持綱の弟で後を継いだ六角久頼は、京極持清との対立の末に、心労により1456年に自害して果てました。 久頼の跡を継いだ六角高頼は、1458年に幕府の命により廃嫡され、従兄・六角政堯が近江守護となりました。 しかし、政堯は伊庭氏との抗争により、1460年に近江守護の座を高頼に返還させられました。 1467年に応仁の乱が起こると、高頼は重臣の山内政綱と伊庭貞隆に支持されて、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦い、美濃守護の土岐成頼と共に西軍に属しました。 1478年に応仁の乱が収束すると、1478年に高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚により近江守護の座を与えられました。 しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を押領したため、1487年足利義尚自ら率いる幕府軍の遠征が開始されましたが、義尚は1489年に近江鈎の陣中で病死し遠征は中止されました。 1490年に土岐氏に庇護されていた足利義材が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免されました。 しかし、六角氏の内衆が寺社本所領の返還を拒絶したため、翌年に再び幕府軍の遠征が開始されました。 高頼は再び甲賀に逃れましたが、敗北を重ね伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡しました。 足利義材は近江守護の座を六角政堯の遺児の六角虎千代に与えましたが、1493年に河内遠征中に管領の細川政元が足利義高を擁立し権力を失いました。 11代将軍となった足利義高は六角虎千代を廃し、山内就綱を近江守護に任じました。 高頼はこの機に乗じて蜂起して山内就綱を京都に追い返し、1495年に足利義高からの懐柔を受け、近江守護に任じられました。 1508年に大内義興の上洛により10代将軍足利義材が復権すると、高頼は11代将軍足利義高を庇護しました。 しかし1511年に、船岡山合戦で足利義澄を擁立していた細川澄元が敗北すると、足利義材に恭順しました。 その後、高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げました。 戦国時代中頃には高頼の次男の六角定頼が登場し、第12代将軍足利義晴や第13代将軍足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与しました。 近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げました。 伊賀国や伊勢国の一部まで影響力を及ぼし、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争いました。 しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争いました。 そして、1560年に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れ、六角氏の勢力は陰りを見せ始めました。 そもそもこれまで一般書で六角氏を主題にした著作は皆無に等しく、専門書であっても専論は片手で足りるほどしかないのが実情です。 もちろん、地元である滋賀県の郡・市・町が出版した自治体史においては叙述されています。 なかでも戦前の最高水準の自治体史と言われる”近江蒲生郡志”において、当主の政治・外交面を含む各動向の事実関係が取り上げられています。 戦後では、”新修大津市史第二・三巻””八日市市史第二巻”における叙述が最も詳細でまとまっています。 専門家の研究では、本書の主役である定頼について、戦国期室町幕府研究の中においてその存在が注目され、一部究明されているものの、もとより十分なものとは言いがたいです。 総じて、戦国期六角氏については、触れられていない、あるいは看過されている事跡が数多く残されたままです。 どこかで六角定頼の紹介をせねばと考えていた折、幸いにもミネルヴァ書房から”日本評伝選”という最高の場を与えられましたので、研究成果を報告させていただくことにしました。 前史として定頼の父高頼・兄氏綱、後史として子義賢・孫義弼についてもそれぞれ一章を割いて、定頼の生涯を浮かび上がらせるという形をとりました。 したがって、事実上の戦国期六角氏列伝ということになります。第一章 父高頼と兄氏綱-戦国大名六角氏の始まり/1 高頼の登場/2 応仁の乱/3 幕府との和睦から六角征伐へ/4 幕府との宥和/5 氏綱の生涯第二章 定頼の登場-将軍を庇護し幕府を支える/1 定頼の幼少期/2 定頼と管領細川高国/3 定頼と細川晴元/4 将軍の庇護者定頼第三章 定頼の全盛-「天下人」として畿内に君臨/1 定頼と天文の騒乱/2 定頼の権勢上昇す/3 天下人定頼/4 天下の執権/5 定頼の晩年第四章 定頼の事蹟-発給文書に見るその権勢/1 他大名との交渉/2 洛中の相論/3 領国近江の内と外第五章 子義賢と孫義弼-後継者の苦闘、そして戦国大名六角氏の終焉/1 定頼の後継者/2 家督相続/3 崩壊の序曲/4 観音寺騒動から信長の上洛へ主要参考文献/附録 戒名集/六角定頼年譜
2019.07.20
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ルース・スレンチェンスカは、1925年アメリカ・カリフォルニア州サクラメントの生まれです。 幼少期に父親のヴァイオリニスト、ヨゼフ・スレンチンスキから音楽の手ほどきを受け、4歳でステージ・デビューを果たしました。 ”のこす言葉 ルース・スレンチェンスカ-94歳のピアニスト一音で語りかける-”(2019年5月 平凡社刊 ルース・スレンチェンスカ著)を読みました。 かつて神童・天才の名をほしいままにしたアメリカ生まれの94歳のピアニストの、半生を紹介しています。 父親のヨゼフ・スレンチェンスキはヴァイオリン奏者で、子どもが生まれたらその子を音楽家にすると決めていました。 生後12目目の赤ん坊を指さして「この子はいつか世界的な音楽家になる」と予言したとき、居合わせた人々はみな笑った、といいます。 ポーランド生まれで、ワルシャワ、ヘルソン、ウィーンでヴァイオリンを学び、演奏家を目指してアメリカに渡った父親は、家で生徒を教える教師にとどまりました。 そこで、その情熱はすべて娘のルースに注ぎこまれました。 ルースはヴァイオリンよりピアノが好きで、3歳半のとき、ヴァイオリンのプレゼントを壁に投げつけて壊してしまったといいます。 それ以前に、父親からピアノの音階、スケールは習っていて、3歳からハ長調の音階を両手で弾く練習を始め、全部の調でひととおり弾けるようになっていたそうです。 ヴァイオリンを壊した翌日から新しい日課が始まり、朝6時から毎日、稽古に明け暮れました。 1929年、4歳の時に、カリフォルニアのオークランドで初めてのリサイタルを行いました。 このリサイタルがセンセーションを巻き起こし、名高いピアニストのヨーゼフ・ホフマンの推薦で、奨学金を受けてカーティス音楽院に入学することになりました。 ルースと父は二人で東海岸のフィラデルフィアに行き、5歳のルースは最年少の生徒として、はるか年上の学生たちに混じって実技や音楽理論などを学びました。 しかし演奏旅行で留守がちなホフマンからなかなかレッスンを受けられず、不満を募らせた父親はルースを連れてカリフォルニアに戻り、ヨーロッパに渡ろうと画策しました。 ついにスポンサーを見つけ、1930年に家族全員でニューヨークから船出し、ベルリンに渡りました。 当時最高の教師と言われていたシュナーベルのレッスンを受けるようになって、6歳でベルリンでのデビュー・リサイタルを行いました。 その頃ベルリンフィルがシリーズで行なっていた朝の演奏会に行くと、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターが指揮をしていました。 ラフマニノフのピアノも聴いたし、メニューイン、ハイフェッツ、エルマンのヴァイオリンも聴きました。 シュナーベルが演奏旅行に行くことになって、父はまた先生探しに奔走しました。 アルフレッド・コルトーがベルリンに来ていて、かつてルースはサンフランシスコでピアノを聴いてもらい、パリに来るなら教えてあげる、と言われていました。 楽屋を訪ね、いつパリに来ますかと訊かれて、それがパリに引っ越すきっかけになりました。 ルースは7歳になったばかりで、コルトーのお膳立てでパリでのデビュー・コンサートが行なわれ、大舞台で大成功を収めました。 翌日、シャンゼリゼ劇場でパデレフスキのリサイタルがあり、新聞はこの7歳半の最年少者と72歳の最年長者のコンサートを並べて論評したといいます。 重要な先生はコルトーとラフマニノフで、コルトーにはそのアパルトマンに7年間通って教えを受けました。 パリでの成功を受けてアメリカ公演の話が持ち込まれ、1933年に8歳でニューヨークのタウンホールでデビューしました。 モーツァルト以来のもっとも輝かしい神童と評され、ニューヨークータイムズをはじめ、新聞各紙にこぞって取り上げられました。 年が明けて9歳のとき、ロサンゼルスのリサイタルに出られなくなったラフマニノフに代わって、急逡、演奏することになりました。 パリの自宅に戻って少しした頃、突然、会ったこともないラフマニノフから電話がかかってきました。 公演でパリに来ていたラフマニノフが、会いたいのでホテルに来てほしいということでした。 部屋のピアノでテストをされたあと、準備した曲を次々と聴いてもらい、それ以来、パリに来るたびに呼ばれて宿題を出され、指導を受けることになりました。 12歳、13歳と年齢が進むにつれ、難曲を力いっぱい弾かせて聴衆を驚かせることに腐心する父に疑問が湧いたといいます。 第二次世界大戦が始まると、アメリカに帰ろうとして、ニューヨーク行きの汽船の切符を手に入れて、出国することができました。 14歳でサンフランシスコに戻ったルースは、再び1日9時間、父親と一緒にピアノに向かう生活に戻りました。 しかし、翌年のニューヨークのタウンホールでのコンサートは、燃え尽きた蝋燭と書かれてしまいました。 舞台に出て行って演奏する才能はないと覚悟を決め、音楽以外何も知らないので、学校に行ってどういう教え方がいいのか学びたいと思ったそうです。 それで、カリフォルニア大学バークレー校を受験し、幸運なことに試験をパスすることができました。 16歳の秋に大学生になって心理学を専攻し、学校に通いながら子どもにピアノを教え始めました。 ある晩バークレーのパーティーでジュークボックスが壊れ、ダンスを続けるためにピアノを弾いてほしいと頼まれ、ポピュラーソングを弾きました。 一人の若者が近づいてきてショパンを弾いてほしいと言い、そこから交際が始まりました。 音楽好きな23歳のジョージ・ボーンは19歳のルースに夢中になり、2か月後にプロポーズされました。 翌日、隣のネバダ州のワノに行って婚式を挙げ、家から逃げ出して最初はジョージの両親の家に住みました。 生活費と学費を稼ぐために、ピアノの家庭教師やベビーシッターなどのアルバイトをしました。 しばらくして、カトリック系の女学校でピアノ教師の職を得ることができました。 ある日、学校の自分の部屋でピアノを弾いていると、バッハ・フェスティバルの関係者に演奏しないかと誘われたそうです。 もう批評にさらされることもないだろうと引き受け、これが予想外に好評を博すことになりました。 その年、1951年は大きな変化の年で、26歳になったルースは、アーサー・フィードラーが指揮するサンフランシスコ交響楽団と協演することになりました。 サマー・フェスティバルでの公演は大成功を収め、ジョージは跳びあかって喜び、ルースに演奏活動に復帰することを強く勧めました。 1954年から4年間、ルースはアーサー・フィードラーの率いるボストン・ポップスーオーケストラと一緒に、ソリストとして全米を公演して回りました。 折からのクラシック音楽ブームとあいまって、この公演活動で多くのファンが生まれました。 1957年32歳のときに、自伝を出さないかという話がきて、この本がベストセラーになりました。 印税収入で当時の借金をすべて返し、税金を払って残ったお金でニューヨークにアパートメントを買ったそうです。 1964年からサウス・イリノイ大学のアーティスト・イン・レジデンスに就任し、大学で教鞭を執りながら独自の演奏活動を展開する道を選びました。 大学は1987年に退任し、2003年に初来日し、その後たびたび来日しました。 2005年の岡山でのコンサートで公開演奏の場から退きましたが、録音はその後も続けています。 2018年、93歳で東京・サントリーホールで開催されたリサイタルは、大きな感動を呼びました。老いは成長の始まり/英才教育か児童虐待か/「燃え尽きた蝋燭」と呼ばれて/コンサートピアニストの日々/新天地を求めて/日本との出会い/のこす言葉
2019.07.13
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人生無意味症候群という精神的な病があり、人生は無意味という事実を改めて認識してしまうことで発症します。 人間が極限状態に追い込まれるとこの事実を再認識し、開き直って暴走してしまうことが知られています。 そのため、鬱に続く自殺原因の第2位とされており社会問題となっています。 しかし、この世には一人として同じ人はいません。 ”無意味な人生など、ひとつもない”(2017年3月 PHP研究所刊 五木 寛之著)を読みました。 人はどんな人生を送ったとしても、この世に生まれ生きたというだけで人間として大変大きな意味のある仕事をしているといいます。 どんなに自分が小さなとるに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っています。 無意味な存在、無意味な人生など、ひとつもないのです。 それぞれの宿命を抱きながら、それぞれが死に物狂いで生きています。 その健気さを思うと、胸が熱くなるような気がするといいます。 五木寛之さんは、1932年福岡県生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、教員としての父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地を移動しました。 第二次世界大戦終戦時は平壌にいましたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母が死去し、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げました。 引き揚げ後は、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えました。 1948年に旧制福岡県立八女中学校、福島高等学校に入学し、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞部に入って、創作小説や映画評論を掲載しました。 1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学し、横田瑞穂に教えを受けゴーリキーなどを読み漁り、また音楽好きだった両親の影響でジャズと流行歌にも興味を持ちました。 生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など、様々なアルバイトや売血をして暮らしました。 同人誌に参加し、詩人の三木卓とも知り合いました、 1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍されましたが、後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなりました。 1965年に、学生時代から交際していた岡玲子と結婚、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗りました。 日本での仕事を片付けて、1965年に、かねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅しました。 帰国後は精神科医をしていた妻の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活し、小説執筆に取りかかりました。 1966年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を受賞し、1969年には『青春の門』掲載を開始しました。 金沢で泉鏡花文学賞、泉鏡花記念金沢市民文学賞の設立に関わり、創設以来審査委員を務めています。 1970年に横浜に移り、またテレビ番組『遠くへ行きたい』で永六輔、野坂昭如、伊丹十三らと制作に加わりました。 1972年から2年間一度目の休筆に入り、その間の1973年に『面白半分』編集長を半年間務めました。 1974年に執筆活動を再開し、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」の翻訳を刊行し、ベストセラーとなりました。 1975年に日刊ゲンダイでエッセイ『流されゆく日々』の連載を開始し、2008年に連載8000回の世界最長コラムとしてギネス世界記録に認定され、2016年には連載10000回を達成しました。 1976年、『青春の門・筑豊編』により、第10回吉川英治文学賞を受賞し、1981年から3年間再び執筆活動を一時休止し、龍谷大学の聴講生となり仏教史を学びました。 1984年に執筆活動を再開し、吉川英治文学賞、坪田譲治文学賞、小説すばる新人賞選考委員なども務めました。 2002年に菊池寛賞、同年ブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門を受賞しました。 2004年に仏教伝道文化賞。2009年にNHK放送文化賞を受賞しました。 2010年に『親鸞上・下』により、毎日出版文化賞特別賞を受賞しました。 著者は、あなたはこの世界でかけがえのない存在であり、今こそその意味を伝えたいといいます。 人の一生は、その一日一日が積み重なって延びてゆく一本の道のようなものかもしれません。 前に延びてゆく道筋がはっきりと見える時もあれば、暗闇に包まれて何も見えず一歩も踏み出せないと思う時もあります。 時に迷い、気づき、歓び、苦しむ、そのどれもがあってこそ人生です。 そうわかっていても、やはりまた悩み、苦しむのです。 誰かのためだけに生きてきた、孤独に生きてきた、ただ呆然と生きてきた、そのいずれの生き方も、どんな生き方をしようともそれでいいのです。 たとえ周囲から極楽とんぼと言われて馬鹿にされようとも、不幸にも罪を犯し、刑務所の塀の中で一生を過ごすような、そういう人生であってもいいのです。 人間としての尊い生き方は、あるいは価値というものは少しも変わらないのではないでしょうか。 しかし、人は何かを成すことがなくても十分ではないか、人間は生まれてきて生き続け、そして人生を懸命に生きており、そこにまず人間の最も大きな価値があります。 もし、人よりすぐれた野心やエネルギー、才能などを持ち合わせたなら、それを十分に発揮して世のため人のために尽くせばいいのです。 それは他人に自慢することでもなく、周りが称賛しなければならないことでもありません。 そういうふうに生まれてきて、そうした才能を開かせる機会を得たことを謙虚に感謝することです。 そしてもし無名のまま一生を送ったとしても、この世の中に生まれてきて生きたというだけで、人間として大変大きな意味のある仕事をしているのではないでしょうか。 50年生きた70年生きた、いや、わずかに1年生きたとしても、その生きたというだけでいいのではないでしょうか。 あなたの人生は、この広い世界でたったひとつしかありません。 この世には一人として同じ人はいませんし、どんなに自分が小さなとるに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っています。 無意味な存在、無意味な人生など、ひとつもないのです。 ほかと比べて優劣見る必要もありませんし、真似をする必要もありません。 同じように迷える者、弱き者の一人として生きてきた経験が、少しでもお役に立つことがあればと願い、この一冊にまとめてもらうことにしたといいます。第1章 大いなるいのちと「私」/無意味な人生など、ひとつもない/あなたが生きるのはなんのためなのか/悩み苦しむ「あなた」、そのままでいい/人間としての「私」と、個としての「私」/変えられないこと、変えられること/今見える道だけがあなたの道ではない/「あれかこれか」より「あれもこれも」/人生は自ずとなるべきようになる第2章 「今日一日」を生きる/生きる力を与えてくれるもの/「気休め」の効用/こころの傷があなたを支えてくれる/人を本当に力づける励ましとは/歓び上手のススメ/肉声で語り合うことの大切さ/怒りとどうつきあうか/悲しみはいのちを活性化させる/一人で生きるということ第3章 歳を重ねるということ/生には、立ち止まるべき時がある/「林住期」こそ人生の黄金期/”学び直し”が人生に深みと変化を与える/「必要か否か」ではなく「興味」で選んでみる/歳を重ねて、やりくり上手になる/失ったものではなく、増えていくものを数えよう/死があるから、生か輝く/生きどきがあり、死にどきがある第4章 ありがとう、おかげさまで/私たちは、すぺて大河の一滴/「天が見ている」という感性/激変する世界にどうむきあうか/どこにでも「地獄」はある/今必要なのは「許し合うこころ」/「理想の死に方」をイメージしてみる/生きていることは、ありえないほど貴重なこと/ありがとう、おかけさまで
2019.07.06
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