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8世紀の日本は、律令制の時代、平城京の時代であり、文化的には天平文化とも称されています。 天平文化の最盛期は、東大寺大仏と正倉院宝物で代表され、聖武天皇と光明皇后を中心に考えられることが多いです。 その同時代の重要な政治家の一人が橘諸兄=たちばなのもろえです。 “橘 諸兄”(2019年7月 吉川弘文館刊 中村 順昭著)を読みました。 藤原四兄弟が疫病に倒れると政権の中枢に立ち聖武天皇の度重なる遷都や東大寺大仏の造営など天平期の諸政策を主導した、奈良時代の政治家の橘諸兄を紹介しています。 五世王にすぎなかった諸兄はいかにして政界の頂点に登りつめたのでしょうか。 最新の発掘成果にも触れつつその生涯を描き出します。 中村順昭さんは1953年神奈川県生まれ、1978年に東京大学文学部を卒業し、1982年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。 文化庁文化財保護部美術工芸課文部技官、文化財調査官などを経て、現在、日本大学文理学部教授で博士(文学)です。 橘 諸兄は奈良時代の皇族・公卿で、初名は葛城王(葛木王)といい、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。 敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子であり、母の橘三千代は、光明子(光明皇后)とは異父妹にあたります。 橘諸兄は737年に藤原武智麻呂らが疫病で亡くなった後、756に致仕するまで20年近くの間、右大臣・左大臣として太政官のトップの座にありました。 奈良時代の8世紀の政治を政権のトップに立った人物で見ると、藤原不比等、長屋王、藤原武智麻呂、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡、藤原永手などとなり、藤原氏とそれ以外とが交互に権力を握りました。 奈良時代の朝廷は、皇族と藤原氏が権力の座を巡り争っていた時代です。 この両者の争いは、超絶金持ちエリートだった長屋王という皇族が729年に藤原氏の策略で自殺に追い込まれて以後、藤原氏の圧倒的勝利に終わりました。 藤原氏は朝廷の主要な役職を占め、朝廷を支配しました。 藤原氏を中心にした観点では、藤原氏対反藤原氏の対立という図式を設定して、政権交代を経て藤原氏が勢力を拡大していったととらえることも行われています。 藤原不比等(藤原氏)、長屋王(皇族)、藤原四兄弟(藤原氏)、橘諸兄(皇族)というふうに、藤原氏と皇族が交代して政権運営することになりました。 橘 諸兄は和銅3年=710年に無位から従五位下に直叙され、翌年に馬寮監に任ぜられました。 元正朝では、霊亀3年=717年に従五位上、養老5年=721年に正五位下、7年=723年に正五位上と順調に昇進しました。 神亀元年=724年に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に叙せられました。 6年=729年に長屋王の変後に行われた3月の叙位にて、正四位下に叙せられると、同年9月に左大弁に任ぜられました。 天平3年=731年に諸官人の推挙により、藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ、公卿に列しました。 天平4年=732年に従三位、8年=736年に弟の佐為王と共に、母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗りました。 9年=737年4月から8月にかけて、天然痘の流行によって、太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去しました。 9月には、出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなりました。 そこで急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して、応急的な体制を整えました。 翌年=738年に諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となりました。 これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになりました。 11年=739年正月に諸兄は従二位に昇叙されましたが、母の県犬養三千代の同族である県犬養石次を近々の参議登用含みで従四位下に昇叙させました。 同年4月に石次に加え、自派の官人である大野東人・巨勢奈弖麻呂・大伴牛養を参議に任じて、実態として橘諸兄政権を成立させました。 12年=740年8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行いました。 しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判と、藤原氏による政権の回復を企図したものと想定されます。 9月に入り広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸しました。 さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われました。 15年=743年に従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年=749年4月についに正一位に陞階しました。 しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになりました。 同年11月の聖武上皇が病気で伏していた際、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けました。 この讒言については聖武上皇が取り合わいませんでしたが、諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳=756年2月に辞職を申し出て致仕しました。 9歳=757年1月6日享年74歳で薨去しました。 諸兄の没後間もない同年7月、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死しました。 藤原不比等、武智麻呂、仲麻呂、永手らを藤原氏ということで一律にとらえることが適切なのでしょうか。 また長屋王、橘諸兄、道鏡は、それぞれの置かれた政治状況が異なっていて、反藤原氏と一括するのは一面的にすぎましょう。 とりわけ橘諸兄は、もと葛城王と称する皇親でありましたが、母は県犬養 橘三千代で、光明皇后と父は異なりますが母は同じ兄妹でもありました。 藤原氏を代表する光明皇后と諸兄は、互いに支え合うような側面もありました。 子の奈良麻呂がクーデタを計画したとき、大伴氏や佐伯氏などの伝統的豪族を同士としていました。 諸兄も守旧派と位置づけられることもありますが、橘氏は諸兄に始まる新興氏族でもあります。 このように橘諸兄には多様な側面があり、天平期の政治を考えるうえでは諸兄をどのように位置づけるかが重要な問題となります。 そのためには諸兄の経歴、事績などをきちんと把握する必要があり、本書はそのための試みです。はしがき/生い立ち(父祖/県犬養三千代/五世王)/皇親官人としての葛城王(藤原不比等と葛城王/長屋王政権/長屋王の変/藤原武智麻呂政権と葛城王/藤原武智麻呂政権の政策/橘宿禰諸兄)/疫病大流行(藤原四兄弟の死/橘諸兄政権の成立/阿倍内親王の立太子/疫病後の政策/橘諸兄の相楽別業)/彷徨五年(藤原広嗣の乱/関東行幸/恭仁京/国分寺造営/紫香楽行幸と大仏建立/難波遷都と安積親王の死/平城還都/彷徨五年期の政策)/左大臣橘諸兄の政権(橘奈良麻呂のクーデタ計画/皇太子阿倍内親王/陸奥の産金/平城還都後の政策/橘諸兄の家産)/橘諸兄と藤原仲麻呂(孝謙天皇の即位/橘諸兄の致仕と死/橘奈良麻呂の変/橘諸兄の子孫たち)/橘諸兄関係系図/天皇・皇族略系図/略年譜
2019.09.28
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フランシスコは第266代ローマ教皇で、2013年3月19日にサン・ピエトロ広場において就任ミサが執り行われました。 長らくキリスト教世界を支えてきたヨーロッパでは、近年信者が減少し、南の世界での増加か著しく、ヨーロッパ以外から教皇が選ばれたのはおよそ1300年ぶりです。 ”教皇フランシスコ-南の世界から”(2019年3月 平凡社刊 乗 浩子著)を読みました。 アルゼンチン育ちで2013年に南半球からの最初のローマ教皇となり世界の注目と敬意を集めている、フランシスコの果たそうとしている課題や実績を明らかにしています。 フランシスコ教皇の激動の半生を描く映画”ローマ法王になる日まで”が、2017年6月に日本でも公開されました。 1960年代、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ青年は、アルゼンチンで司祭への道を歩み始めました。 当時の軍事独裁政権下では、3万人もの人びとが行方不明になったと言われています。 そこで、司祭としてイエズス会アルゼンチン管区長として、人びとと神に忠実に生きようとして苦悩しました。 大切な仲間や司祭、友人が次々苦難に遭う辛い日々を、ベルゴリオは神父つして生きることになりました。 乗 浩子=よつのやひろこさんは中国・大連市生まれ、1958年に東京女子大学文学部を卒業し、1980年に上智大学大学院外国語学研究科で国際関係論を専攻しました。 1958年から世界経済調査会研究員、 1981年から国学院大学、日本大学等で非常勤講師、 1988年から帝京大学文学部教授、 1999年から同大学経済学部教授となり、現在、退職しています。 専攻は、ラテンアメリカ近現代史、国際関係史です。 いわゆる近代化論は、近代化の進展にともなって宗教は死に至ると予言してきましたが、実際には信者は増えつづけています。 また冷戦体制が揺らぎ始めた1970年代以降イスラム・パワーが台頭しました。 一方で1960年代のバチカンの民主化路線を反映して、南欧、ラテンアメリカ、アジア、東欧のカトリック勢力は民主化に大きな役割を果たしました。 なかでも東欧のカトリック国ポーランドヘの当時の教皇の働きかけが、一党支配体制からの脱却を促し、冷戦体制崩壊につながりました。 冷戦後、世界各地で起きている文明の衝突的な宗教がらみの紛争や衝突に平和的に取り組むためにも、宗教指導者の役割はかつてより大きくなっています。 ベルゴリオは1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれました。 父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員、母のレジーナ・マリア・シヴォリもイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身です。 小学校を卒業すると、教育上の配慮から会計士事務所に働きに出されました。 サレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得しました。 1958年3月にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始めました。 1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学びました。 その後、1964年から1965年にかけて、サンタフェ州のインマクラーダ学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えました。 1967年に本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学しました。 1969年12月にラモン・ホセ・カステジャーノ大司教によって司祭に叙階され、また、1970年に修士号を取得しました。 1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任しました。 指導力を高く評価され、1973年7月にアルゼンチン管区長に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めました。 1980年から1986年の間に、サン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科院長、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務めました。 1986年3月には博士号取得の為、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院に在籍しました。 その後、アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務めました。 1992年5月に、ヨハネ・パウロ2世によりブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教に任命されました。 同年6月に、ブエノスアイレス大司教のアントニオス・クアラチノ枢機卿の司式によって、司教に叙階されました。 1997年6月にブエノスアイレス協働大司教に任命され、1998年2月にクアラチノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教となりました。 また同年11月より、アルゼンチン居住の裁治権者をもたない東方典礼カトリック教会信者の、裁治権者を兼任しました。 2001年2月に、ヨハネ・パウロ2世によって聖ロベルト・ベラルミーノ教会の枢機卿に任命されました。 そして、枢機卿として、ローマ教皇庁5つの管理職的な地位に就きました。 ベルゴリオ枢機卿は、宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのリムジンの使用を拒否して公共交通を利用していました。 個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになりました。 2005年にヨハネ・パウロ2世が死去した直後の使徒座空位の間には、聖座とローマ・カトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人になりました。 新教皇を選出するコンクラーヴェに選挙枢機卿の一人として参加しました。 ベルゴリオ枢機卿は、新教皇の最有力候補であったラッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取り沙汰されました。 コンクラーヴェでベルゴリオの得票数はラッツィンガー枢機卿の次席となり、勝者となったラッツィンガー枢機卿は教皇ベネディクト16世として2013年まで在位しました。 ベネディクト16世が2013年2月をもって辞任したことを受け、その後継を選ぶために同年3月12日よりコンクラーヴェが実施されました。 コンクラーヴェにおいて、翌3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇に選出されました。序章 宗教の復権/第1章 カトリック大陸、ラテンアメリカ/第2章 教皇フランシスコへの道/第3章 バチカンの動向/第4章 アフリカとアジアでふえるキリスト教徒/第5章 民主化を促した教会―冷戦体制崩壊へ/第6章 プロテスタントの拡大とカトリックの対応/第7章 教皇フランシスコの課題と実績/終章 回勅『ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』―環境・人権・平和
2019.09.21
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金 美齢さんは日本統治下の台湾に生まれ、留学先の日本で台湾独立運動に関わりながら家庭を築いて一男一女を育て、通訳、英語講師、日本語学校校長などで大活躍してきました。 ”82歳。明日は今日より幸せ”(2016年11月 幻冬舎刊 金 美齢著)を読みました。 これまでの人生を振り返り、何歳になってもいつも前向きで日々ハッピーに生きる秘訣を語っています。 著者は、マイナスのカードを四枚持っていたそうです。 一枚目は台湾入であること、二枚目は女性であること、三枚目は結婚し子どもがいること、四枚目は高齢者であることです。 これらすべてのマイナスのカードをプラスに変えたといいます。 金 美齢さんは1934年に台湾で生まれ、1945年に日本が敗戦し台湾は中国人による国民党政権となりました。 日本統治時代の台湾の台北の裕福な家庭に生まれ、1953年に台北市内の台北市立第一女子高級中学を卒業しました。 その後、結婚し、国際学舎=留学生会館に勤務しました。 1956年に離婚し、1959年に留学生として来日し、早稲田大学第一文学部英文学科に入学しました。 1962年に台湾に一時帰省し、その後、台湾民主化運動を日本で推進し、反政府ブラックリストに載り政治難民となりました。 1963年に同大修士課程に進学し、1964年に東京大学博士課程在籍の周英明氏と学生結婚しました。 大学院生のときから、聖心女子学院、東京女子大学、東京理科大学、フェリス女学院大学の講師を歴任し、早稲田大学では1996年3月に至るまで20年以上にわたり英語教育に携わりました。 1971年に早稲田大学大学院文学研究科博士課程を単位修了し、1975年から1976年まで英国ケンブリッジ大学客員研究員となりました。 1988年に学校法人柴永国際学園JET日本語校を設立し、JET日本語学校校長を務め、現在、同校名誉理事長です。 1992年に反政府ブラックリストから削除され、31年ぶりに台湾に帰国しました。 1993年からテレビでの提言活動を開始し、2000年に台湾総統府国策顧問に就任しましたが、2006年に台湾総統府国策顧問制度は廃止されました。 2009年に日本国籍を取得し、2017年秋の叙勲で旭日小綬章を受章しました。 現在、日台の親善にも努め、政治、教育、社会問題等でも積極的に発言する、テレビ討論番組の論客として知られています。 負け組と勝ち組という言葉が定着して久しいですが、そんなことを他人に決められるゆえんはないと言います。 いくら今、世間から負け組とジャッジされているとしても、最終的に自分は勝つと信じて突き進めばいいのです。 大切なのは、自分の力と未来を信じて、最後まで諦めないことです。 著者が台湾独運動に身を投じている間、人々から白い目で見られて敬遠されたこともあるそうです。 勝てもしない闘いに人生を懸けるなんてバカだ、と面と向かって言われたこともありました。 夫も、孤独で長い闘いを強いられてきました。 けれども、今、著者の頭の中にはファンファーレが鳴っているといいます。 最終的に、著者は人生で勝利を収めました。 どんなに国民党に虐げられようとも、台湾の未来を諦めず、56年間闘ってきました。 そして今、国民党は落ちぶれて、勝っだのは自分だといいます。 なぜ、諦めることなく突き進むことができたのかを考えてみると、一番最初に思い浮かぶのは、能天気ということです。 ブラックリストに載って台湾に帰れなくなり、親の死に目に会見ず、遺産も全部放棄しなくてはいけないなどいろいろなことが起こりました。 でも、状況を恨むことなく、それかどうしたと開き直ってしまいました。 第二に、自分には劣情がありません。 最初から持ち合わせていなかったのかはわからりませんが、やっかみやコンプレックス、やきもちなどの感情が一切ないことに、最近気が付きました。 努力もそれほどしていないし、学校の成績がよかったわけでもありません。 でも、それが全然コンプレックスにはなっていません。 やりもしないくせに、やろうと思えばいつでもできると思っています。 自分より素晴らしい人がいても、嫉妬することもありません。 素直にその人のよいところを認めますから、自分には好きな人がたくさんいます。 好き嫌いかはっきりしていますので、嫌いだと思ったら最初から付き合わないのも、下手に嫉妬心が生まれない理由かもしれません。 第三に、自分はツッパリです。 辛いことや大変なことが起きても、それを受け入れて肥やしにします。 辛いことがあると避けて通る人もいますが、ときにはしっかり受け止めることも大切です。 避けてばかりで遠回りしていては、いつまでたってもゴールに到達することはできません。 不利な状況にあっても、自分は負けを認めないし、最終的に自分は勝つと信じて歩んできました。 来日当時、第三国人といわれた旧植民地の人間は非常に地位が低かったので、日本で暮らして行くことにおいては明らかなハンデを負っていました。 しかし、台湾出身だということは、視点を変えると、アウトサイダーとしての目を持っているということです。 しかも、長い間日本に暮らし、インサイダーとしての目も持っています。 つまり、自分は複眼的に物を見ることかできるということです。 これは、生きていくうえで大きな強みになります。 日本しか知らない、狭い世界しか知らない人に比べると、比較できるからこそわかることがあります。 女性であることも、以前は大きなマイナスでした。 現在も、女性であるがために正当な評価をされず悔しい思いをしている人がいると思います。 けれども、世の中をよく見てほしいです。 男はだらしがないではないでしょうか。 自分は女、強いんだからと、胸を張っていればいいです。 自分がちゃんと仕事をしていれば、女であることがプラスになることはいくらでもあります。 なぜなら、ライバルが少ないからです。 次に子どもがいるということ、これもまたプラスに変換できます。 世の中の半分は女性であり、そのうちの多くは、結婚をして子どもを産んでいます。 つまり、大多数の人が経験することを自分自身も経験できたということによって、発言には説得力が生まれます。 最後に、高齢者であるということです。 82歳の自分は、大いに威張っています。 高齢というマイナスのカードをひっくり返して、自分はプラスにしました。 曲がりなりにも、自分は長いこと人生を歩んでいます。 年寄りだということは、それだけ多くの経験を積んでいるということです。 人間は、生まれる国や親を選べません。 DNAは生まれた瞬間に決まっているからもうどうしようもないといいますが、DNAが人生を占める割合は半分くらいだと思います。 もう半分は、自分かどう生きていくかによって決まるのです。 ですから、せめて残った半分は、真っ当に生きていたいと思っているそうです。 衣食住すべてに関心を持ち、カンファタブルにハッピーに生きたい。 もちろん、そのためには努力がいります。 その当たり前のことを見過ごして、生きている人か多いのではないでしょうか。 自分はこれまで歩いてきた人生に100%満足しています。 幸せだと思える理由は、やるべきことをやってきたからだと思います。 しかも、それはやりたいことでした。 やるべきことと、したいこと、そしてできることが一致したというのは、本当にありかたいことでした。第一章 「台北一の不良娘」が台湾独立運動へ/第二章 思いもかけず結婚し、想定外で母になり/第三章 働いて稼いで、ハッピーに使う/第四章 小さな楽しみを重ねる、毎日の贅沢/第五章 日本って本当に素敵な国/終 章 明日は今日より幸せに
2019.09.13
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柳田国男は、農政官僚、新聞人、民俗学者としてフィールドワークを積み重ね、近代化に立ち後れた日本社会がいかにあるべきかを構想し、社会の基層にあるものを考え尽くしました。 ”柳田国男-知と社会構想の全貌”(2016年11月 筑摩書房刊 川田 稔著)を読みました。 民俗学の祖として知られ、狭義の民俗学にとどまらない柳田学として日本近代史上に燦然と輝く、柳田国男の知の体系と知の全貌を再検討しています。 川田 稔さんは1947年高知県生まれ、1971年に岡山大学法文学部を卒業し、1978年に名古屋大学大学院法学研究科博士課程を単位取得満期退学しました。 1987年に「法学博士(名古屋大学)となり、1978年に名古屋大学法学部助手、1980年に日本福祉大学経済学部講師、1989年に同社会福祉学部助教授、1990年に教授となりました。 1996年に名古屋大学情報文化学部・大学院人間情報学研究科教授となり、2012年に定年で退任し、名誉教授、日本福祉大学子ども発達学部教授となり、2018年に退任しました。 専攻は、政治外交史・政治思想史で、近代日本の政治外交史、政治思想史を専門としています。 柳田国男は1875年兵庫県神東郡田原村辻川生まれ、明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めました。 1949年に日本学士院会員となり、1951年に文化勲章を受章し、1962年に勲一等旭日大綬章を受賞しました。 父は儒者で医者の松岡操、母たけの八人兄弟の六男として生まれました。 幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破しました。 12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ、茨城県と千葉県の境の布川、現・利根町に住みました。 生地とは異なった利根川の風物や、貧困にあえぐたちに強い印象を受けました。 隣家の小川家の蔵書を乱読し、16歳のときに東京に住んでいた三兄・井上通泰、帝国大学医科大学に在学中と同居し、図書館に通い読書を続けました。 三兄の紹介で森鴎外の門をたたき、17歳の時、尋常中学共立学校、のちの開成高等学校に編入学しました。 この年、田山花袋を知り、翌年、郁文館中学校に転校し進級しました。 19歳にして第一高等中学校に進学し、青年期を迎えました。 東京帝国大学法科大学政治科卒業後、1900年に農商務省に入りました。 高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに、次第に民俗的なものへの関心を深めました。 そして、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになりました。 当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた怪談ブームのさなか、新進作家だった佐々木喜善と知り合いました。 岩手県遠野の佐々木を訪問して、”遠野物語”を執筆しました。 他に、宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌”郷土研究”を創刊しました。 方言周圏論、重出立証法などで、日本民俗学の理論や方法論が提示されました。 一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示されました。 以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に、内省の学として位置づけられてきました。 柳田国男はさまざまなイメージがもたれています。 たとえば、山間僻地の厳しい生活のなかに生まれた伝承の卓越した記述者として。 あるいは、日本民族の起源について、かつて黒潮に乗って列島に移住してきたとするロマンあふれる仮説を提起した人物として。 また、しばしば国語の教科書にもとりあげられている”雪国の春”や”海南小記”にみられるような、陰影に富んだ印象深い紀行文の作者として。 さらには、各地の伝説や昔話に通暁し、カッパや天狗、一つ目小僧などの妖怪についても造詣が深い博識の人として。 そして、村々の祭やそれをめぐる信仰など人々の日常生活に関わる伝統的習俗についての最初の本格的な研究者として。 ですが、柳田の知的な世界は、これらのイメージよりもさらに広く深いといいます。 柳田は、日本民俗学の創始者として知られています。 近代化以前における日本の生活文化の全体像を明らかにすることが、民俗学研究の課題でした。 当時の人々の生活は、近代化とともに西欧化されつつありましたが、他面、近代化以前の伝統的な生活文化を色濃く残していました。 生活文化の西欧化された側面は比較的よく知られていました。 ですが、近代化以前の生活文化は、全体的な相互連関が分断され、その個々の意味が忘れ去られていく状況にありました。 柳田は失われつつある伝統的な生活文化の全体像を、改めて描き出そうとしたのです。 そのために、文献資料に止まらず、広く民間伝承を収集・分析する新しい方法を確立しました。 民間伝承には、人々の風俗・習慣、口承文芸、伝説・昔話などが含まれます。 柳田は、一般の人々の実生活の全体とその歴史を学問的に把握しようとした、独創的な研究者だったといえます。 また柳田は、近代日本の代表的な知識人・思想家の一人でもあります。 知的世界は、民俗学の領域のみならず、政治・経済・歴史・地理・教育など、人文科学一般に及んでいます。 そして、そのような柳田の「知」は、日本社会の将来についての独自の「構想」に支えられていました。 国のあり方、社会のあり方についての構想が、柳田の広範な知的活動のバックグラウンドとなっていました。 また逆に、その構想・思想それ自体が、知的活動の果実でもありました。 柳田の知と構想は、現在でもなお示唆的な内容をもっています。 そこで本書は、柳田の知的世界とそれを支えている構想を明らかにするとともに、その現代的射程を考えていきたいといいます。 本書では、その広がりと深さを、できるだけ平明にお伝えするよう努めました。序章 足跡と知の概観/第1章 初期の農政論/第2章 日本的近代化の問題性-危機認識/第3章 構想1-地域論と社会経済構想/第4章 構想2-政治構想/第5章 自立と共同性の問題/第6章 初期の民間伝承研究から柳田民俗学へ/第7章 知的世界の核心1-日本的心性の原像を求めて/第8章 知的世界の核心2-生活文化の構造/終章 宗教と倫理
2019.09.07
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