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ミラノ・スカラ座で初演されたオペラ『蝶々夫人』は失敗だったそうですが、数か月後の再演は大成功だったそうです。 ”『蝶々夫人』と日露戦争 大山久子の知られざる生涯”(2018年2月 中央公論新社刊 萩谷 由喜子著)を読みました。 世界的な大ヒット・オペラ『蝶々夫人』誕生に深く関わった、大山久子の生涯を紹介しています。 大山久子は『蝶々夫人』のモデルだったわけではなく、『蝶々夫人』のオペラの主人公だったわけでもありません。 夫の大山綱介の海外赴任に同行してジャコモ・プッチーニと知り合い、プッチーニに直接日本の音楽を教えた人物です。 綱介はロシアとの開戦直前に、二隻の軍艦の争奪戦に死力をつくした人物です。 そこには鈴木貫太郎、高橋是清、さらには堀口大学の父親や三浦環などの歴史的人物も次々と登場します。 開戦直後に二隻の軍艦はイタリアから横須賀に到着しました。 萩谷由喜子さんは東京都文京区生まれの音楽評論家、ジャーナリストで、女性音楽家を中心に音楽史を研究しています。 幼時よりピアノ、日本舞踊、長唄、筝曲の稽古に通い、立教大学で西洋音楽史を学び、卒業後音楽教室を主宰しています。 音楽評論を志鳥栄八郎に師事し、中国のFMラジオ、クラシック音楽番組の放送原稿執筆を機に本格的に音楽評論の道に入りました。 日本三曲協会会員、山田流協会会員、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員です。 『蝶々夫人』はマダム・バタフライとも言われます。 アメリカの弁護士ジョン・ルーサー・ロングの短編小説をもとに制作された、アメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコの同名の戯曲です。 ロングはアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士で、作品は1898年にセンチュリー・マガジン1月号に発表されました。 プッチーニ作曲の同名のオペラは、この2作品をもとに制作されたものです。 オペラは2幕もので、プッチーニ作曲の「西部の娘」「トゥーランドット」の二作と合わせたご当地三部作の、最初の作品です。 長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんと、アメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いています。 1904年2月17日にミラノのスカラ座で初演されるも失敗でしたが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版は成功し、以来、標準的なレパートリー作品となっています。 色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品です。 プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びました。 その後「ラ・ボエーム」「トスカ」と次々と傑作を生み出しました。 「蝶々夫人」は、プッチー二が音楽家として脂の乗り切った時期でした。 「トスカ」を発表してから次のオペラの題材を探していましたが、1900年にロンドンで、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇しました。 英語で上演されていたため詳しい内容はわからりませんでしたが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選びました。 同年にプッチーニはミラノに戻ると、イルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始されました。 翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手しました。 プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集めました。 日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励み、当時の日本大使夫人の大山久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めました。 1902年にはプッチーニは、パリ万国博覧会で渡欧していた川上貞奴に会ったとも云われています。 1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負いました。 春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされましたが、プッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日に脱稿しました。 現在ではイタリアオペラの主要なレパートリーとなっています。 「蝶々夫人」ですが、1904年2月17日ミラノ、スカラ座での初演はプッチーニの熱意にもかかわらず振るいませんでした。 初演で蝶々夫人を演じたロジーナ・ストルキオは、拍手ひとつなく舞台裏で泣き崩れました。 プッチーニは同作の成功を誓い、自らの生存中はスカラ座での再演を禁じたといいます。 落胆したプッチーニでしたが、すぐさま改稿に取りかかりました。 改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアのブレシアで行われ大成功を収めました。 その後、ロンドン、パリ公演と、プッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、21世紀の今日まで上演され続けている決定版となっています。 日露戦争は、1904年2月8日から1905年9月5日にかけて、大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争です。 朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となりました。 日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられ、最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和しました。 講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を全面的に承認されたほか、ロシア領であった樺太の南半分を割譲され、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を移譲されました。 同様に、東清鉄道の旅順・長春間支線の租借権も譲渡されました。 大山久子は、旧長州藩士で明治政府の官僚となる野村素介の娘でした。 東京女子師範学校付属高等女学校に学び、そこで幸田露伴の妹で、日本の西洋音楽受容を牽引したピアニスト兼音楽教授の延と親交を結びました。 夫は旧薩摩藩出身の外交官・大山綱介で、夫の海外赴任に同行しプッチーニと知り合った久子は、世界的な大ヒット・オペラ『蝶々夫人』誕生に深く関わることになりました。 一方、日露戦争で日本勝利の一因となる二隻の軍艦『日進』『春日』はイタリア製であり、アルゼンチンが発注したものでしたが、その日本転売にあたっては久子の夫綱介の功績が大きかったです。 西洋音楽と日本人の関わりがエピソード豊かに描かれる一方、世界の中で徐々に存在感を高めていく近代日本の姿が、大山綱介・久子夫妻の生涯から浮かび上がります。第1章 野村久子と大山綱介/第2章 軍艦/第3章 オペラ『蝶々夫人』ができるまで/第4章 軍艦争奪戦の英雄たち/第5章 日露戦争/第6章 三浦環の『蝶々夫人』への道/第7章 久子の後半生
2019.11.30
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徳川斉昭は第7代藩主・徳川治紀の三男として生まれ、母は公家日野家一門の外山氏、名は虎三郎、敬三郎でした。 ”徳川斉昭 ー 不確実な時代に生きて”(2019年6月 山川出版社刊 永井 博著)を読みました。 幕末の水戸藩主で徳川慶喜の父として知られ維新後の評価も毀誉褒貶が顕著な徳川斉昭の生涯を追いながら、新出史料も交えつつ全体像を描き新たな視点も加えて紹介しています。 斉昭は初めは父・治紀より偏諱を受けて紀教=としのり、藩主就任後は第11代将軍徳川家斉より偏諱を受けて斉昭と名乗りました。 幕末の重要人物でありながらこれまで評伝がなく、ドラマ、小説等では、頑迷固陋な攘夷主義者という一面的な取り上げ方がされてきました。 しかし、実は現実的には攘夷は不可能であると認めており、開国も是認していましたが、その交易和親の実現は年若い松平慶永に託したといいます。 永井 博氏は1958年生まれ、1983年に國學院大學大学院文学研究科日本史学専攻博士課程前期を修了しました。 1997年から茨城県立歴史館に勤務、管理部教育普及課主任研究員、史料部歴史資料室首席研究員、学芸部学芸第二室首席研究員、史料学芸部学芸課長・部長を歴任しました。 2007年から常磐大学非常勤講師(歴史学)を務め、2019年現在、常磐大学非常勤講師(博物館学)を務めています。 斉昭は江戸時代後期の親藩大名で、常陸水戸藩の第9代藩主、江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父です。 もはや老いた自分は世間から期待されている以上、一生、攘夷之巨魁を演じ続けるつもりである、と述べたことがあるそうです。 慶永は松平春嶽として知られ、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家です。 越前国福井藩16代藩主で、春嶽は号で、諱は慶永です。 田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男で松平斉善の養子、将軍・徳川家慶の従弟で、英邁な藩主で幕末四賢侯の一人と謳われいました。 慶永は慶喜の将軍擁立運動を繰り広げた一橋派の中心人物で、徳川一族として斉昭とも親しい間柄でした。 斉昭は1800年3月11日に水戸藩江戸小石川藩邸で生まれ、治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学び、聡明さを示しました。 治紀には成長した男子が4人いて、長兄の斉脩は次代藩主であり、次兄の松平頼恕は1815年に高松藩松平家に養子に、弟・松平頼?は1807年に宍戸藩松平家に養子に、と早くに行く先が決まりました。 三男の斉昭は30歳まで部屋住みであり、斉脩の控えとして残されました。 生前の治紀から、他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない、と言われたといいます。 譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがあるからです。 1829年に第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま病となりました。 大名昇進を画策する附家老の中山信守を中心とした門閥派より、第11代将軍・徳川家斉の第20子で斉脩正室・峰姫の弟である恒之丞を養子に迎える動きがありました。 学者や下士層は斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなりました。 斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を継ぎました。 1832年に有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子と結婚し、藩政では藩校・弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めました。 こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い、藩政改革を実施しました。 斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれます。 全領検地、藩士の土着、藩校弘道館および郷校建設、江戸定府制の廃止などを行いました。 また、大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどしました。 さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していました。 蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言しています。 その影響力は幕府のみならず全国に及びました。 またこれにより、水戸、紀州、尾張の附家老5家の大名昇格運動は停滞します。 宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行いました。 また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行しました。 1844年に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられました。 その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行いましたが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって、1846年に謹慎を解除され、1849年に藩政関与が許されました。 1853年6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わりましたが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張しました。 このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上しています。 また、江戸の石川島で洋式軍艦を建造し、幕府に献上しました。 1855年に軍制改革参与に任じられましたが、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが死去してしまうなどの不幸もありました。 1857年に阿部正弘が死去して堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立しました。 さらに第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊直弼らに対して、実子である一橋慶喜を擁して一橋派を形成して直弼と争いました。 しかしこの政争で斉昭は敗れ、1858年に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福=家茂を第14代将軍としました。 このため、1858年6月に将軍継嗣問題と条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永と尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問しました。 そのため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されました。 孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、1859年には、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となりました。 そして、1860年8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で享年61歳で急逝しました。 幕末は未来が予測しづらい不確実な時代でした。 そのなかにあって斉昭は、前例のない改革に挑戦し続けました。 その最終目的な、欧米に対抗しうる強い国家を実現することであり、そのためのスローガンが尊王攘夷でした。 まず、わが国の歴史的背景に裏づけられた、天皇を中心とした政治体制を確認する尊王がありました。 ついで対外的な緊張感を高めることにより、天皇を中心とした国民の統合を強靭なものにして、改革を推進する体制をつくる攘夷がありました。 もともと別個の概念であった「尊王」と「攘夷」は、斉昭のもとで初めて一連のスローガンとなり、強力な藩、さらには国家づくりの指針となり、斉昭の行動理念となりました。 こうした政治的行動をひとまず置いて、徳川斉昭という人物全体を何をどう評価すべきでしょうか。 ペリー来航以後の、とくに幕政とのかかわりという側面については、すでに多くの著作のなかで触れられてきているにもかかわらず、その生涯を追った伝記はほとんどありません。 全体像へのアプローチが難しい状況です。 そうしたなかで、斉昭の全体像の一端だけでも広く一般に紹介したい、それが本書述作の目的です。第1部 水戸藩主徳川斉昭(第1章 松平敬三郎紀教ー「潜龍時代」/第2章 藩政改革)/第2部 「副将軍」徳川斉昭(第1章 斉昭の処分と再登場/第2章 幕政参与と安政の大獄)/余話 「家庭人」としての斉昭
2019.11.23
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平凡社の「のこす言葉」シリーズに、ベストセラー『昭和史』で著名な作家、半藤一利さんが登場しました。 伝えておかねばならない戦争の時代として、平成から令和に変わったいまこそ、昭和史は伝えておかねばならない歴史です。 ”半藤一利 橋をつくる人 (のこす言葉KOKORO BOOKLET)”(2019年5月 平凡社刊 半藤 一利著)を読みました。 いま89歳であるがまだまだやる気まんまんの昭和史の第一人者が語る、波瀾の生涯と痛快人生を紹介しています。 半藤一利さんは1930年東京都生まれ、東京大学文学部を卒業し、文藝春秋社に入社し、週刊文春、文藝春秋編集長、取締役などを経て作家となりました。 先祖は長岡藩士で、東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区に生まれた。実父は運送業と区議をつとめ、近所に幼少期の王貞治が住んでいて顔見知りでした。 東京府立第七中学校に入学し、1945年3月の東京大空襲では逃げまどい、中川を漂流し死にかける体験をしたそうです。 茨城県の県立下妻中学校を経て、父の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎え、卒業後に東京へ戻りました。 浦和高等学校 (旧制)を学制改革のため1年間で修了し、東京大学へ進学しました。 大学ではボート部で活躍しました。 東京大学文学部国文科を卒業し、ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で、1953年に文藝春秋新社に入社しました。 流行作家の坂口安吾の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、冗談めかして坂口に弟子入りしたと称しています。 続けて軍事記者の伊藤正徳の担当となり、日本中の戦争体験者の取材に奔走し、週刊文春に無署名で人物太平洋戦争を連載しました。 社内で太平洋戦争を勉強する会を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催しました。 半藤は座談会の司会も務め、さらに取材して1965年に単行本『日本のいちばん長い日--運命の八月十五日』を執筆しました。 売るための営業上の都合から大宅壮一の名前を借りて大宅壮一編集として出版された。単行本は20万部、角川文庫化されて25万部が売れました。 この他にも30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出しました。 その後、漫画読本の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、増刊文藝春秋の編集長になりました。 ムック「目で見る太平洋シリーズ」「日本の作家百人」「日本縦断・万葉の城」を手掛けました。 次いで週刊文春編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執りました。 1977年4月に、文藝春秋編集長の田中健五と入れ替わる形で、田中が週刊文春編集長に、半藤が文藝春秋編集長に就任しました。 1980年に季刊誌くりまの創刊編集長となったが、2年後に第9号で休刊しました。 この間の編集長時代の13年ほどは、本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていました。 1993年に、『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞を受賞しました。 出版責任者として、書き下ろしノンフィクションシリーズを手掛け、1988年に全3巻の『「文芸春秋」にみる昭和史』を監修しました。 専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身した。近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、歴史探偵を自称しています。 1998年に『ノモンハンの夏』で山本七平賞、2006年に、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞しました。 2009年に語り下ろしで出版された『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』は単行本で45万部、平凡社ライブラリーでは23万部の売れ行きを示しました。 2015年に、第63回菊池寛賞を受賞しました。 妻の半藤末利子は、作家の父・松岡譲と夏目漱石の長女の母・筆子夫妻の四女で、漱石周辺に関する随筆を多く執筆しています。 夏目漱石は義祖父、松岡譲は岳父です。 夏目漱石が大正5年8月24日、芥川龍之介と久米正雄に宛てた長い手紙で、文壇や世間の評判を考えるのでなく、人間そのものを根気よくただ一筋に押し続けるのだと述べています。 パッと出た火花のような一瞬のものは後には残らないと書いているのです。 同じようなことを、兼好法師が『徒然草』で、「されば、一生のうち、むねとあら圭ほしからむことの中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし」と書いています。 松尾芭蕉も『笈の小文』で、「ついに無能無芸にして只此一筋に繋がる」と書いています。 これは、と思う三人の先人が、一つのことに心を定め、それだけに集中して、他は思い捨てても構わない、それが人生の要諦ですと同じことを言っています。 あれもやろう、これもやろう、あっちに目を配り、こっちにも目を配り、とやっていては何もかも中途半端になってものになりません。 ただし、これ、という一つの道を思い定めるまでが難しいのです。 自分がいちばん好きで、気性に合っていて、これならやってみたいと思うことを10年間、ほんとうにこれ一筋と打ち込んでやれば、その道の第一人者になれます。 何でもいい、それが著者の場合は「昭和史」だったといいます。 改めて1から昭和の歴史に取り組んでよかったのは、自分のなかでわからなかったこと、つまりどうしてここでこうなっちゃうのかな、というところが理解できたことです。 昭和史という一つの流れを、大づかみだけれど丁寧に辿っていったことは、ものすごく勉強になったといいます。 よく「歴史に学べ」というが、「歴史を学べ」のほうが今の日本人には正しいと思います。 まずは知ること、そうして歴史を学んでいれば、あるとき突然、目が開けます。 今は戦前と違って、いくらでも各国の人の交流があり、悲惨な戦争体験の人たちが元気なうちまだ大丈夫ですが、その先のことは、少し下の世代、さらに若い人たちの双肩にかかっています。 そのためにも、今を生きる人と昭和史のあいだに橋を架ける仕事をしなければなりません。 自分の人生を漢字一字にたとえるとすると「漕」であり、艇だけじゃなく昭和史も漕ぎつづけてきました。 ゴールはなくても、飽きずに一所懸命に漕いできました。 「続ける」ということ、決して諦めず、牛のようにうんうん押していくことです。遊びつくした子ども時代/大空襲と雪中鍛練/ボートにかけた青春/「昭和史」と出会った編集者時代/遅咲きの物書き、「歴史の語り部」となる/「のこす言葉」(直筆メッセージ)人間八十歳を超えると「一期一会」を日々意識する。人の生命には「果て」あり、つまり「涯」である。中国の『荘子』にいわく。「生に涯あり、されど知に涯なし」。八十九爺はそれで頑張っている。されば諸兄よ、奮闘努力せよ。
2019.11.16
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聖徳太子は574年生まれで、用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女です。 別に厩戸皇子、厩戸王とも呼ばれ、聖徳太子という呼称は後世の諡号です。 ”聖徳太子の寺を歩く-太子ゆかりの三十三カ寺めぐり”(2007年9月 JTBパブリッシング刊 林 豊著 南谷恵敬監修)を読みました。 聖徳太子ゆかりの寺を網羅し、それぞれの概要、歴史、伝説、収蔵文化財ガイドです。 聖徳太子の救世観音化身伝承に因み、33カ寺を中心にその他の太子開基の縁起を持つ主な寺院を含め50カ寺を紹介しています。 聖徳太子は、推古天皇のもとで、蘇我馬子と協調して政治を行いました。 遣隋使を派遣して進んだ中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図りました。 他に、仏教や儒教を取り入れ、神道とともに信仰し興隆につとめました。 著者の林 豊さんは1939年大阪市生まれ、関西大学を卒業し、大阪府職員を経て、編集デザイン会社代表を務めています。 刊行時現在、ルポライターとして雑誌、地方紙、企業PR誌等に執筆し、民族芸術学会会員、旅行ペンクラブ会友です。 監修者の南谷恵敬さんは1953年大阪市生まれ、大阪大学文学研究科博士課程を修了し、刊行時現在、四天王寺国際仏教大学教授、四天王寺執事を務めています。 写真家の沖 宏治 さんは1938年広島県生まれ、関西大学を卒業し、貿易商社在職中に写真家を志して退職し、若狭成价、田中幸太郎両氏に師事して国画会等に出品してきました。 刊行時現在、写真工房UNISONを主宰し、書籍、雑誌、官公庁パンフレット、企業PR誌等の写真を担当しています。 聖徳太子は厩戸前で生まれましたので、厩戸=うまやどと命名されたとの伝説があります。 また、母が実母・蘇我小姉君の実家であるおじの蘇我馬子の家で生まれましたので、馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説があります。 さらに、豊聡耳=とよさとみみ、上宮王=かみつみやおうとの別名も有ります。 法起寺塔露盤銘には上宮太子聖徳皇、『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸(豊聡耳)皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されています。 聖徳太子という名称は、死没129年後の751年に編纂された『懐風藻』が初出と言われています。 日本の歴史上の人物の中で、聖徳太子ほど様々なイメージをもって語られる人物はいないのではないでしょうか。 太子の一生は、『日本書紀』に既にみられるように、かなり古い時期から伝説的に語られ、その後、平安時代の中期に編纂された『聖徳太子伝暦』で集大成されるまで、多くの伝記が存在しました。 『伝暦』では、その跋文に語られるとおり、太子の事績には歴史的事実と超人的な伝説が混在し、それらをひっくるめて太子の真実だとする態度が示されています。 つまり、平安時代には既に太子は崇められるべき超人的存在として認識されていたのです。 太子の誕生は、今日では敏達天皇3年(574)とされています。 父は橘豊日皇子(後の用明天皇)、母は穴穂部間人皇女で、伝説では同年1月1日、厩の前でご誕生になられたとされています。 誕生地は橘寺とされていますが、これは仏祖釈尊の誕生の事績になぞらえた説話と考えられ、このような仏伝の影響は、太子の様々な事績で顕著です。 太子を「和国の教主」と信仰する上での仏伝の投影と考えてよいでしょう。 同じことは2歳「南無仏と称す」にもいえます。 これも釈尊の誕生時の「天上天下唯我独尊」の獅子吼になぞらえた説話でしょう。 特に幼少時の事績ではこういう傾向が強く、太子の凡人とはかけ離れた能力を強調したり、幼いころから仏教に帰依された姿が伝えられています。 3歳「桃花より青松を賞す」、4歳「進んで父君の笞を受く」、5歳「文章を読破する」など、太子の聡明さ、素直さを強調しています。 7歳「六斎日(殺生を禁断する日)を設ける」、12歳「日羅との出会い」、13歳「弥勒石像の渡来、三尼の出家」などは仏教との機縁を示す説話です。 青年期の太子は、父君用明天皇の病とその崩御という悲しい出来事があり、その折も太子は寝食を忘れ看病されました。 その姿は、後世孝養太子像として多くの寺院で製作され、礼拝されることになりました。 用明天皇崩御の後、14歳「物部守屋との合戦」で正式な史料『日本書紀』に登場します。 このとき、後に政権を支える蘇我馬子と協同歩調をとられるのですが、その背景には仏教という大陸伝来の新宗教の受容という大きな目的の一致がありました。 その後、崇峻天皇が即位しましたが、馬子が権力を強め、ついには馬子が崇峻帝を暗殺するという事件が起きて、政治の混乱が続くことになりました。 崇峻天皇の後を継いだのは、敏達天皇の皇后であり、蘇我氏の血を引く太子の叔母でもあった女帝の推古天皇でした。 天皇は即位と同時に聖徳太子を摂政に任命し、すべての政治をまかされ、ここから太子の華々しい政治改革が始まりました。 まず「三宝興隆の詔」を発し、仏教を正式に受容して、朝儀の整備を実行して国家としての体制を整えました。 その後の「冠位十二階の制定」、「十七条憲法の発布」、「遣隋使の派遣」等々、着々と国家体制の確立に努めました。 太子は49歳の折、病を得てついにその生涯を閉じました。 同じ時、最愛の妃であった膳大郎女=かしわでのおおいらつめも逝去したといいます。 その後、太子の一族は、蘇我蝦夷・入鹿によって全員亡ぼされ、太子の血統は絶えることとなりました。 これが、後世の人々にとって、太子の偉大な業績に比して、そのあまりにも悲劇的である運命をより際立たせることになったことはいうまでもありません。 太子にまつわる多くの伝説や奇譚が伝えられており、本書で紹介される寺院にはそれぞれに特有の太子伝説が存在します。 本書は『四天王寺誌』1997年1月 ~2001年7月に掲載された「太子の寺」を加筆訂正のうえまとめたものです。聖徳太子の寺:橘寺ー聖徳太子誕生/向原寺・石川精舎跡ー仏教の伝来/西琳寺ー牟原の後宮/鶴林寺ー法師かえり/道明寺ー仏法の広まり/大聖勝軍寺ー蘇我・物部の決戦/野中寺ー船氏の里/飛鳥寺ー馬子の寺/金剛寺ー名工止利仏師/四天王寺ー日本最初の官寺/勝鬘院〔愛染堂〕-四箇院の設置/瓦屋寺ー四天王寺の瓦/西教寺ー太子の師/法隆寺ー斑鳩の太子/久米寺ー太子の弟/広隆寺ー秦氏の寺/斑鳩寺ーもう一つの斑鳩/頂法寺〔六角堂〕-日出ずる国の使者/達磨寺ー片岡の飢人/平隆寺ー鹿の菩提寺/額安寺ー熊凝の道場/大安寺ー大官大寺/中宮寺ー母の死/叡福寺ー太子の旅立ち/西方院ー太子の乳母/法輪寺ー山背大兄王の選択/世尊寺ー南海の香木/朝護孫子寺ー信貴山の毘沙門天/中山寺ー石の唐櫃/百済寺ー百済僧の寺/長命寺ー修多羅の山/石馬寺ー石になった馬その他の聖徳太子ゆかりの寺:長福寺・成福寺跡・大福寺・百済寺・定林寺跡・神童寺・乙訓寺・法観寺(八坂塔)・芦浦 観音寺・長光寺・願成就寺・観音正寺・蓮華 寺・浄土寺・法安寺・香園寺・営麻寺聖徳太子関連年表/主要人物略記/聖徳太子関係系図/掲載寺院の拝観時間、拝観詳細一覧
2019.11.09
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かつての日本は、加工貿易を得意としてきました。 加工貿易は、原材料や半製品を他国から輸入し、それを加工してできた製品や半製品を輸出する貿易の形です。 戦後の日本は、貿易立国を合言葉に経済発展を遂げてきました。 “新貿易立国論”(2018年5月 文藝春秋社刊 大泉 啓一郎著)を読みました。 もはや輸出大国ではなくなった日本について、グローバルな視点で現実を直視し日本経済復活のための新たなモデルを示そうとしています。 貿易立国は、資源の乏しい国が外国から原油・鉱石等の鉱産物、また原材料の類を輸入して国内で加工し、製品を輸出して得た利益で国の経済を維持することです。 日本はついには、アジアで真っ先に先進国入りを果たしましたが。いま発展の原動力となった輸出が不振です。 大泉啓一郎さんは1963年大阪生まれ、1986年に京都府立大学農学部を卒業し、1988年に京都大学大学院農学研究科修士課程を修了しました。 その後、東レ・ダウコーニングに就職し、1990に三井銀総合研究所、現・日本総合研究所に入所し、2012年に京都大学博士(地域研究)となりました。 現在、日本総合研究所調査部環太平洋戦略研究センター主任研究員、法政大学経済学部非常勤講師、JICA社会保障課題別支援委員会委員を務めています。 アジアの人口変化と経済発展、アジアの都市化を巡る経済社会問題、アジアの経済統合・イノベーションなどの調査・研究に取り組んでいます。 日本は、これまでリードしてきた工業製品の優位性が揺らぎ、かつては世界の10%ちかくを占めてきた日本の貿易シェアは低下する一方です。 貿易立国というこの国のかたちが、危機に瀕しています。 経済のグローバル化、技術のデジタル化という、かつてとは大きく異なる環境を背景に、新興国・途上国が台頭し、日本を含めた先進国の地位が低下しています。 貿易立国と呼ばれる代表的な国は、その国の輸出依存度を見ることで把握することができます。 この依存度は国民ひとりあたりの国内総生産または国民所得に対する輸出入額の比率のことを指します。 輸出依存型経済は、自国の市場だけですべての産業を自給自足的に成立させることが難しく、国外市場への輸出や国外供給地からの輸入に頼らざるを得ない経済状況です。 一般的に国内総生産が小さい国であるほど、輸出依存度が大きいといわれています。 この観点から、現在、貿易立国と呼ばれる代表的な国は、輸出依存度66%のオランダ、58.8%の台湾、57.8%のアイルランド、45.7%のスイス、43.9%の韓国などです。 これに対して、日本の輸出依存度は15.2%となっており、実際には内需依存型の経済です。 内需依存型経済は、自国の市場の中で産業を自給自足できる経済状況をいい、日本では、高度成長期時代に内需依存型経済の代表的な傾向が見られました。 1980年代に米国との貿易摩擦が起こり、1980年代半ばから輸出依存度が低くなっていますが、1980年代前半も輸出依存度は15%を下回っていました。 日本は、もともと輸出依存型ではなく、内需依存型の構造になっていたのです。 しばしば日本は貿易立国と言われますが、実際は世界的に見ると輸出依存型ではなく、長期にわたり内需依存型の経済を維持してきました。 しかし、1980年以降の日本人の消費性の傾向は年々変化し、国内市場のみを意識して産業を発展させていくことは難しい状況です。 かつて、人口規模では世界の3%に満たない日本が、1980年代半ばには世界貿易の輸出シェアが10%台に迫っていました。 工業製品に限れば約15%でした。 しかし、2016年度には4%にまで低下しています。 貿易収支は2011年には、東日本大震災の影響もあって、31年ぶりに赤字に転落しました。 現在は黒字を回復しましたが、黒字幅は震災前の半分程度です。 また、自動車を中心とする輸送機器や生産機械などの一般機器、電気機器、化学品の黒字がいずれも縮小傾向にあります。 米国の輸入全体における日本のシェアは、1986年の22%から30年後の2016年には6%まで縮小しています。 1985年から1992年までは米国最大の輸入国は日本でしたが、2016年では、中国、メキシコ、カナダに次ぐ第4位となっています。 日本製品の競争力低下の原因は、経済のグローバル化を背景にした中国などの新興国、途上国の台頭です。 中国の対米輸出額は2016年で4820億ドルと、日本の3倍以上であり、貿易黒字も3660億ドルで5倍以上となっています。 長期的なトレンドで、中国向け輸出の主力である中間財や資本財が減少しています。 中国の技術水準が高まり、日本からの輸入に頼っていたのが、中国国内で生産することが可能になったのでしょう。 自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)、米国を除く環太平洋経済連携協定(TPP)参加11カ国の新協定TPP11などの、関税の撤廃や規制緩和は、もはや特効薬にはなりません。 スマートフォンやパソコン、液晶パネルや半導体などの電子電機部門は、韓国や台湾に圧倒されています。 新興国では、デジタル技術を活用したビジネスが次々に立ち上がりつつあります。 したがって、日本製品の技術力は高くブランド力もあり、関税引き下げで価格競争力が高まれば、貿易大国に復活できるとは言えなくなっています。 購買力の平価ベースのGDPでは、新興国・途上国の経済規模はすでに先進国を追い越しています。 アジア開発銀行は、世界におけるアジアのシェアは、2010年の27%から2050年には52%にまで上昇するという見通しを示しています。 地理的な場所にこだわらず、日本の生産力を生かすメイド・バイ・ジャパンを追求する時期にきています。 日本が復活するためにはどうすればいいのでしょうか。 著者は、成長トレンドにあって、日本国内の工業地帯に匹敵するほど大きな、日本企業の集積地があるASEANとの連携を提唱します。 その上で、国内で開発・生産するメイド・イン・ジャパン戦略と、新興国・途上国へ生産拠点を移すメイド・バイ・ジャパン戦略の使い分けを説きます。 私たちの目は先進国との競争に向きがちですが、いま求められているのはライバルであり、パートナーでもある新興国・途上国の潜在力を客観的に評価し、新しい事業モデルを検討することです。 日本が貿易立国であり続けるためには、新興国・途上国経済の台頭のダイナミズムを理解し、対応することが重要です。 序章では、日本は輸出を梃子にアジアで真っ先に先進国入りを果たし、貿易立国を成し遂げましたが、輸出が1990年代以降振るわず、もはや貿易大国ではなく黄昏を迎えているようにみえると言います。 第1章では、世界貿易において日本のプレゼンスが低ドしていることを確認します。 第2章では、新興国・途上国経済か台頭してきた背景や特徴について考察します。 第3章では、新興国・途上国経済か台頭する時代において、ASEANと日本の関係も急速に変化していことを指摘します。 第4章では、ASEANから中国やインドなどの新興国を狙うというメイド・バイ・ジャパン幟略を検討します。 第5章では、中長期的なASEANとの連携強化の方向性を、ともに成長するをキーワードに検討します。 第6章では、拡大する富裕層をターゲットにして、日本の輸出拡大を狙うメイド・イン・ジャパン戦略を検討します。 第7章では、日本の競争力を高めるための視点を提示します。序章 貿易立国の復活に向けて/第1章 変わる日本の立ち位置/第2章 新興国・途上国の台頭/第3章 「アジアと日本」から「アジアのなかの日本」へ/第4章 ASEANから新興国・途上国を開拓するーメイド・バイ・ジャパン戦略/第5章 新興国・途上国とともに成長する/第6章 日本から富裕層マーケットに切り込むーメイド・イン・ジャパン戦略/第7章 日本の競争力をいかに高めるか
2019.11.02
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