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かつて、転職50回以上50人近い夫を持ち100年前に奇才か妖婦かと日本中の注目を集めた元祖モダンガールがいました。 ”問題の女 本荘幽蘭伝”(2021年10月 平凡社刊 平山 亜佐子著)を読みました。 女優、新聞記者、救世軍兵士、喫茶店オーナー、ホテルオーナー、活動弁士、講談師、劇団の座長など、転職は50回以上に及んだそうです。 また、50人近い夫を持ち、120人以上と交際し、多彩な男性遍歴を持ったそうです。 さらに、日本列島、中国大陸、台湾、朝鮮半島、東南アジアに神出鬼没し、明治・大正・昭和を駆け抜けたそうです。 幽蘭は、いまでいう毛断=モダンガールの本家本元です。 今では名前も忘れられていますが、100年前の知名度は抜群でした。 明治40年前後の新聞には、その動静が詳しく載っています。 仕事も数十の職業について活動の場も幅広く、人脈も右から左まで顔が広かったのです。 著者が本書執筆のための調査に着手したのが2013年6月でしたが、いったん出版の話が消えて2年のブランクがあり、気付けば足かけ8年にわたって本荘幽蘭を追ったといいます。 平山亜佐子さんは1970年兵庫県芦屋市生まれ、挿話収集家、デザイナーで、戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意としています。 時代に埋もれた破天荒な女性の生き方を対象とした研究や執筆を行うほか、歌のユニットのヴォーカリストとして、明治・大正・昭和の俗謡等を発掘し紹介しています。 既刊本に”20世紀 破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ”(2008年)、”明治 大正 昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団”(2009年)、”戦前尖端語辞典”(2021年)、”問題の女 本荘幽蘭伝”(2021年)などがあります。 2008年に河上肇賞奨励賞を受賞しました。 幽蘭の本名は本荘久代といい、明治2年2月18日に生まれたことはどの資料でも一致していますが、久代の少女時代の資料は少ないため、出生地については諸説があります。 実業之世界社の雑誌”女の世界”大正9年5号には、大阪市北区中の島に生る、故郷は九州久留米市とあるといいます。 檜垣元吉の”西日本百年の群像38”には花畑、大正時代に本人が配っていた名剌には福島県(福岡県の誤植)久留米市篠山町、鱒書房刊・綿谷雪著”妖婦伝”と大阪屋号書店刊・田中香涯G著の”愛慾に狂う痴人”には佐賀県、とあるそうです。 著者は、当時の父の職場に近いこと、「私生児二、公生児一を生み公生児のみ生存す」の記載があり、これは本人が書いた節があることから、大阪市が出生地ではないかと考えているそうです。 本荘家はもと500年来の旧家で代々、久留米の藩主有馬家の番頭を勤めて居たといいます。 父は本荘一行という古い弁護士の一人で、大坂新報の創立者として当時かなりに有名な人でした。 父は幼名を八太夫、後に一行といい、久留米藩政にも参画した切れ者です。 法律や経済学に精通していたため、藩内のもめ事の仲裁をつとめるなどして人望を集め、維新後には実業家五代友厚の腹心となりました。 大阪商法会議所、後の大阪商工会議所創立時に理事を務め、弁護士業の傍ら大阪新報の社主となるなど、本人も実業家として名を成しています。 父は頗る感情家であった上に、祖母には著しい狂伴の血が流れて居たといいます。 母に関する資料はほとんどありませんが、その名を花子と言ったらしいです。 また、母の従兄に牧師の伴君保がいること、久代の伯父に宗教家で立教大学創設者の元田作之進がいることから、日本聖公会に縁のある家柄と思われます。 久代には7歳上の民野(民子という資料もある)という姉がいて、15歳のときに精神の病を得たが回復し、20歳で柳河の字椿原町、現福岡県柳川椿原町に住む田中秋という人物と結婚しました。 その後離婚して石橋六郎と再婚し、父逝去の後に石橋が本荘家の家督を継ぎました。 久代か物心ついたときに居住していた桜の宮、現大阪府大阪市都島区の家には母も姉もおらず、父と祖母と末という元芸者の妾と、妾の両親と兄一家でした。 ほかに、末の両親と兄一家が住んでいて、末の芸者時代の養父母と妹芸者3人が外から通っていました。 久代が7歳の春、一家は大阪から横浜に引っ越しました。 その1年後、民野が病気だという報が舞い込み、祖母と久代の2人か曽祖母の実家である旗崎村、現福岡県久留米市御井旗崎に向かいました。 母は精神を病んだ4年前から民野とここに移り住んでいました。 いま一度、民野は母と同じ病で苦しんでいて、夜も昼も大きな声を出したり、室内や庭先を走り廻ったり、物を毀したり、物凄いほど暴れ廻りました。 そして、民野の回復を機に、祖母、母、民野、久代、雇い人2人の6人は、西久留米、現福岡県久留米市西町の本荘家の中屋敷に移りました。 久代はここで17歳まで暮らしましたが、父からの送金は一切なく、糸紡ぎや機織り、草鮭作りなどで賃金を得てつましく暮らしたといいます。 原古賀尋常小学校に通い、11歳の8月には敗原町の尋常高等小学校に入学しました。 この先は女子師範学校に進み、教師や作家になって母を助けようと考えていたそうです。 しかし、母から機織りのために学校を辞めてほしいと言われ、13歳の卒業の年に退学しました。 そして久代が15歳になる頃、婿選びの話が持ち上がり、病気で婚期が遅れた民野の代わりに、次女の久代か婿をとることになりました。 婿候補の真っ先に挙がったのは、母の従兄の5歳年上の吉和國雄でした。 幼いうちに孤児となって義理の兄に育てられ、細工町、現福岡県久留米市城南町辺りの歯科医の家で勉強していました。 おとなしく利口で、色白の美形、早朝から雇い人を手伝い夜は遅くまで勉強して戸締まりの見回りもするという実直さで、久代も好意を抱きました。 しかし、姉の民野は夫の従兄の藤古文太郎を紹介すると言います。 困った母が父に問い合わせると、既に決めた人間がいるという返信がきました。 旧武士階級の家では、娘が父に従うことが不文律ではありました。 翌年の秋、吉和國雄が訪ねてきて歯科の勉強のため上京すると言い残して去って行きました。 落ち込む久代に、最愛の祖母か寝つくというさらなる打撃か襲い、いよいよというときに父が突然姿を見せました。 死の床にある祖母は父に、末を追い出して親子4人で暮らすよう諭し、父は承知致しましたと告げましたが、法要後に末から電報が届くとそそくさと帰ってしまったといいます。 明治28年の夏、久代だけが父のもとに戻され、翌年の正月、客を迎えて同居の家族が集められ、末席に陸軍予備少尉の本荘忠之という男がいました。 久代は末から、将来の夫だと言い聞かされていましたが、年が15も上で薄給という人物でした。 その場で父は、本荘家の重大問題として口を切り、母を離縁し末を後妻に迎えると宣言しました。 久代はショックを受け、母に会うため久留米に急ぎました。 母は離縁の件を聞かされて3日間泣き明かし、家を引き渡せとの厳命が下ると実家の両替町、現福岡県久留米市に移りました。 久代には忠之の迎えが来て、戻らざるを得なくなりました。 ある日、忠之から葉書が来て、日清戦争の際、帰隊の期日延期をしたが、軍法会議に付せられ市谷監獄に3ヵ月の刑期を勤めるとあったといいます。 刑期を終えた忠之は無収入のため本荘家に寄宿しましたが、次第に兄のいる北海道に一緒に行こうと持ちかけるようになりました。 一刻も早く家を出たかった久代もついにその気になりましたが、そこへ吉和國雄が訪ねてきました。 國雄と接した父と末が好感を持ち、婚約者と認めないでもないという雰囲気になりました。 久代は土壇場で北海道行きを断り、忠之はひとりで旅立って行きました。 明治29年7月、國雄が歯科医の試験の合格報告に訪れ、別室で父としきりに話し合っていました。 いよいよ一緒になれるかと思ったのもつかの間、國雄の義兄に反対され縁談は立ち消えになりました。 久代は思い詰め、英語を学んで國雄の仕事を助けようと、横浜の宣教師ジェームス・ハミルトン・バラ宅を訪れ、フェリス和英女学校、現フェリス女学院に入学を許されました。 しかし、母の従兄で牧師の伴君保と滝野川孤女学院院長大須賀亮一が現れ、本荘家16代の孫として正なき業だと説教し、久代は学校を諦めました。 女学校から戻った久代を出迎えたのは、久留米藩時代の旧家老有馬秀雄の弟で内務省勤めの有馬重男という人物でした。 そんななか、未来の代議士候補という35歳の阪本格という人物が訪ねてきて、父がこの男との縁談を進めていることかわかりました。 松村雄之進の仲介で阪本との縁談か具体的に進んだため、久代は父に断りを告げて大変な叱責を受けました。 しかし、阪本の友人が阪本の訪問当日に着ていた服はすべて松村の物であることを暴露し、貧乏人に嫁がせると自分か損をすると考えた末が縁談を断りました。 このとき久代は20歳で、これまでに登場した婚約者は、吉和國雄、藤古文太郎、本荘忠之、阪本格の4人で、どの場合も久代と無関係に話が進み無関係に雲散霧消しました。 そして今ひとり有馬重男が残されていますが、この男こそ久代の運命を大きく歪める張本人となりました。 明治31年1月15日、数えで20歳のときのこと、父と末が家を空けた隙に重男に蹂躙されてしまったのです。 その後も何度か繰り返され、久代は妊娠し早急に結婚して月足らずとして産むしかないと迫りましたが、重男は堕胎を主張しました。 その頃、父は経営していた日本運輸株式会社か破産の危機に陥り、介する人があって富士紡績株式会社の工場、現フジボウ愛媛株式会社小山工場の支配人となりました。 父と末と久代は小山、現静岡県駿東郡小山町小山に移住し、重男は東京から休みの度に泊まりにきました。 重男の目的はあくまで堕胎を促すことでしたが、久代は秘かに出産しましたが、6ヵ月の早産児ですぐに死亡しました。 子供には重興と名付け、遺体を風呂敷に包んで富士川に流したといいます。 しばらくして遺体発見の報が駆け巡り、警察が工場の女工3000人を調べたと噂になりました。 今後は15歳以上50歳以下の女性全員を取り調べるとのことで、久代は半狂乱となり翌朝の一番列車に乗って重男の住む牛込に駆けつけました。 しかし、やっと会えた重男は他人のようなそぶりで、そこへ父と末が追ってきて久代を責め立てました。 思い余った久代は、重男と末の今までの罪をあげつらい、口を極めて罵倒しました。 頭に血が上り、自分の声が遠くに聞え、資料には、遂に発狂したとあります。 久代は巣鴨病院に入院し、退院後、明治女学校に入学しました。 この頃から幽蘭と名乗るようになりました。 卒業後、久留米で医師と結婚し、第二子を出産しましたが、過去の出来事を夫に告白し、夫は慰めてくれましたが、身を引く決心をし、子供を背負って東京に出奔しました。 上京した幽蘭は、救世軍の兵士、次に新聞記者になりました。 いくつか転職を繰り返し、読売新聞に入りました。 1カ月で辞めましたが、マスコミ業界と顔をつなぎ、その後も転職と男性との交際を繰り返しました。 男性遍歴が後世に伝わるのは、幽蘭が肌身離さず持っていた手帳に、今まで関係した男性の名前をすべて記録していたからです。 錦蘭帳と呼ばれる手帳には、約60人の名前が挙がり、新聞社社長、新聞記者、俳優、小説家、芝居の座長、ヤクザ、国士、外国人商社員、社会主義者などが記載されているといいます。 一方、自身でも、カフェを開いたり、辻占いの豆売りをしたり、高知で活動弁士になったり、中国の大連でホテルを開業したり、劇団を結成して朝鮮半島へ、と実にたくましく内外を行き来していました。 動向が分かるのは、問題の断髪美人などと自称し、自ら新聞社にネタを売り込んでいたからです。 大正9、10年あたりから、消息は断片的になり、朝鮮半島や中国大陸に滞在していたらしいです。 戦後は日本に戻ってきて、昭和25年に雑誌に掲載されたのが最後の写真のようだといいます。 明治40年頃から大正にかけて、幽蘭は都会では多くの人が知っている名前でした。 しかしこの多くの人はやがていなくなってしまうため、歴史は変わりませんが歴史においてわたしたちが記憶しておきたいと思うことは変わってしまいます。 ですから、著者には、時の波間に消えた本荘幽蘭を書き留めておきたいという強い気持ちかあったそうです。 生きていた時代にだけ有名だった本荘幽蘭という女性が喚起した問題を、あらためて問い直したいと考えたといいます。第1章 少女時代/第2章 幽蘭誕生/第3章 仕事遍歴、男性遍歴/第4章 満鮮、南洋へ/第5章 戦争に向かって[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]問題の女 本荘幽蘭伝【電子書籍】[ 平山亜佐子 ]この女(ひと)を見よ 本荘幽蘭と隠された近代日本[本/雑誌] / 江刺昭子/編著 安藤礼二/編著
2022.04.30
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社会正義は人間が社会生活を営む上で正しいとされる道理であり、社会、すなわち、その構成員たる人-の間の正義を意味します。 ”ジョン・ロ-ルズ 社会正義の探求者”(2121年12月 中央公論新社刊 齋藤純一/田中将人著)を読みました。 正義論で知られ独創的な概念を用いてリベラル・デモクラシ-の正統性を探究した、ジョン・ロ-ルズの生涯をたどりつつ、その思想の要点を紹介しています。 18世紀末の産業革命の黎明期に西洋で、資本家による労働者の搾取に対する抗議の表現として登場しました。 19世紀半ばに進歩的な思想家や政治活動家の、革命的なスロ-ガンとして広まっていきました。 政治哲学の巨人と言われるジョン・ロ-ルズが、独創的な概念を用いて構築した公正な社会の構想は、リベラリズムの理論的支柱となりました。 平等な自由を重視する思想はいかに形成されたのでしょうか。 齋藤純一さんは1958年福島県生まれ、早稲田大学政経学部を卒業し、1988年に同大学大学院政治学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1988年に横浜国立大学経済学部助教授となり、1994年から1995年までプリンストン大学客員研究員、2000年に横浜国立大学経済学部教授、2004年に早稲田大学政治経済学術院教授となりました。 2010年から2011年までロンドン・スク-ル・オブ・エコノミクス客員研究員、2015年から2016年まで早稲田大学大学院政治学研究科科長となりました。 博士(政治学)で、2016年に日本政治学会理事長を務めました。 田中将人さんは1982年広島県生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業し、2007年に同大学院博士課程を単位取得退学しました。 2011年に同大学政治経済学術院助手となり、2012年から高崎経済大学非常勤講師、2020年から岡山大学非常勤講師、2016年から拓殖大学非常勤講師、2016年から早稲田大学非常勤講師を務めています。 ジョン・ロ-ルズは1921年メリ-ランド州ボルチモア生まれ、ボルチモアの学校にしばらく通った後、コネチカット州にあるプレップスク-ルに転校し、1939年に卒業し、プリンストン大学に入学しました。 この頃より哲学に関心を持つようになり、1943年に学士号を取得して半期繰り上げ卒業後、アメリカ陸軍に兵士として入隊しました。 第二次世界大戦中は歩兵としてニュ-ギニア、フィリピンを転戦し、降伏後の日本を占領軍の一員として訪れて、広島の原爆投下の惨状を目の当たりにしました。 この経験からすっかり軍隊嫌いとなり、士官への昇任を辞退し、1946年に兵士として陸軍を除隊しました。 その後間もなく、プリンストン大学の哲学部博士課程に進学し、道徳哲学を専攻しました。 1949年に、ブラウン大学卒業生の6つ年下のマ-ガレット・フォックスと結婚しました。 ロ-ルズとマ-ガレットは本の索引作成という共通の趣味を持ち、一緒に最初の休日はニ-チェに関する書籍の索引を作成して過ごしたといいます。 ロ-ルズはこの時、自身の後の著作である”正義論”の索引も作成しました。 1950年に倫理の知の諸根拠に関する研究で博士号を取得し、1952年までプリンストン大学で教鞭をとりました。 1952年から1953年まで、フルブライト・フェロ-シップによりオックスフォ-ド大学へ留学しました。 当時オックスフォ-ドにいたアイザイア・バ-リンの影響を受け、フェロ-シップ終了後にアメリカへ帰国し、1953年にコ-ネル大学で助教授を務めました。 1960から1962年まで、マサチュ-セッツ工科大学で終身在職権付きの教授職を得ました。 1962年よりハ-バ-ド大学に教授として移り、1991年に名誉教授となりました。 哲学者として、主に倫理学、政治哲学の分野で功績を残し、リベラリズムと社会契約の再興に大きな影響を与えました。 1971年に刊行した”正義論=A Theory Of Justice”は大きな反響を呼び、停滞しきっていた当時の政治哲学界を再興させるのに大きく貢献しました。 人間が守るべき正義の根拠を探りその正当性を論じた著書で、倫理学や政治哲学といった学問領域を越えて、同時代の人-にきわめて広く大きな影響を与えました。 それまで功利主義以外に有力な理論的基盤を持ち得なかった規範倫理学の範型となる理論を提示し、この書を基点にしてその後の政治哲学の論争が展開されました。 正義論は、それまで停滞していた戦後の政治哲学の議論に貢献しました。 公民権運動やベトナム戦争、学生運動に特徴付けられるような社会正義に対する関心の高まりを背景とし、その後の社会についての構想や実践についての考察でしばしば参照されています。 ロ-ルズは価値、すなわち、善の構想の多元化を、現代社会の恒久的特徴と捉えました。 そのような状況にあっては、ある特定の善を正義と構想することはできません。 ロ-ルズは正義と善を切り離し、様-な善の構想に対して中立的に制約する規範を正義としました。 このように、正義が善の追求を制約しうる立場、つまり、正の善に対する優先権を義務論的リベラリズムといいます。 正義は制度によって具現化し、公権力のみならず社会の基本構造を規制する性格を持ちますが、それが各人の基本的な自由を侵害するものであってはなりません。 ロ-ルズは社会契約の学説を参照しながら、社会を規律する正義の原理は、自己の利益を求める合理的な人-が共存するために相互の合意によってもたらす構想ととらえました。 このような正義の原理を考案する方法を、公正としての正義と定義しました。 しかし、正義を公正性から解釈することは、古典的功利主義で論じられている効率としての正義の概念と対立せざるを得ません。 古典的功利主義は、効用を最大化しようとするひとりの人にとっての選択原理を社会全体にまで拡大適用します。 これに対して、ロ-ルズは個人の立場や充足されるべき欲求は個-人で異なるものであるとしました。 ゆえに、別個の人びとをあたかも単一の人格であるかのようにみなし、人びとの間で差し引き勘定をするような論法は成り立つはずもない、と批判しました。 それぞれ異なった仕方で生きている私たちか、互いを自由かつ平等な存在とみなすなら、社会の制度やル-ルはいかなるものであるべきか、が正義論の問いです。 ロ-ルズは、人種やジェンダ-による差別が存在する社会、家庭の貧富の差か進路を大きく左右する社会、生まれつきの才能の違いか著しい格差につなかる社会は、正義にかなったものとはいえないと考えました。 本人の責任を問えないような偶然性の影響を遮る無知のヴェ-ルを被った当事者たちが契約を結ぶとしたら、どのようなル-ルか採用されるかを考えるべきです。 そうした公正とみなされる条件のもとで得られる正義の構想を、ロ-ルズは公正としての正義とよびます。 この構想の特徴を示すのか、有名な正義の二原理です。 それは平等な自由の原理(第一原理)、公正な機会平等の原理 (第二原理前半)、格差原理(第二原理後半)という三つのパ-トからなります。 ロ-ルズか示した公正としての正義は、リベラリズムの伝統を刷新し、平等主義的なリベラリズムの立場を旗幟鮮明に示した正義の構想として広く受容されていきました。 ロ-ルズか力強く擁護したのは平等なき自由でも自由なき平等でもなく、平等な自由です。 それぞれの自由な生き方が誰かを手段化するのではなく、相互性のある公正な社会的協働として編成される社会が、ロ-ルズの描く社会の姿です。 正義論は多大な反響をよびおこし、ロ-ルズ・インダストリ-と称されるほどの膨大な研究と文献をもたらしてきました。 少なくとも今日までに30ヶ国語に翻訳され、アメリカだけでも30万部以上が売れたとされます。 この本は、政治哲学のいわば座標軸となり、ロ-ルズの立場をフォロ-して、リベラリズムを擁護する者だけではなく、それを批判する対抗的な議論も招き寄せました。 マイケル・サンデルやアラスデア・マッキンタイアといったコミュニタリアンの立場からは、あるコミュニティのなかに共通する善き生き方と切り離された形で正義を考えることはできないという反論が行われました。 ノ-ジックなどリバタリアニズムの立場からは、個人の能力の違いを制度によって矯正することは個人の権利を侵害すると反論が行われ、平等主義的な再分配の原理に批判が加えられました。 平等という価値に好意的な立場を取るロナルド・ドウォ-キンやアマルティア・センからも、社会が是正するべき不平等とは何かという点について異論が呈されました。 社会主義の立場からも、マクファ-ソンが資本主義的な市場の原理がロ-ルズの理想的社会に含まれているという考察を行いました。 これら批判に対してロ-ルズは自説を修正し、1993年に”政治的リベラリズム”を発表しました。 ロ-ルズは、リベラルな憲法規範を備えたデモクラシ-を政治理論の基点に据えました。 それゆえ、正義論をはじめとする著作は、リベラリズムだけではなくデモクラシ-を擁護したものとしても読むことかできます。 しかしながら近年、リベラリズムやデモクラシ-に対する逆風が日に日に高まっています。 ロ-ルズの母国アメリカも例外ではありません。 リベラルな価値の失墜や、立憲デモクラシ-の終焉を説く研究も次-と現れてきています。 ですが、性急に判断を下す前に、リベラリズムや立憲デモクラシ-の理念の源流をあらためてたどってみることも、けっして無駄ではないでしょう。 正義論の刊行から半世紀、格差を縮減し、価値観の多元性を擁護しうる献を真剣に探究したロ-ルズの構想は、今も色褪せていません。 むしろそれは、社会をどう再編していくかが問われている今日においてこそ、豊かなアイディアを提供してくれるように思われます。 本書は、そのような問題意識に立ったうえで、正義について再考するささやかな試みです。 第一次世界大戦後から同時多発テロにいたるアメリカの世紀を生き、一言でいえば、正義にかなった社会とは何かという問いの探究に捧げられました。 生涯の大半を研究者として過ごし、2002年11月24日に、マサチュ-セッツ州レキシントンで亡くなりました。 本書では、最新の研究で明らかにされたエピソ-ドにも触れながら、ロ-ルズの問題意識、理論の特徴、他の思想家との影響関係を浮き彫りにしようと試みました。 本書の主眼はあくまでロ-ルズの残したテクストの理解にありますが、評伝的な要素が色濃い第一章と第五章をはじめ、20世紀の政治思想史の一端を示すものにもなるように試みたといいます。第1章 信仰・戦争・学問-思想の形成期/第2章 『正義論』は何を説いたか-現代政治哲学の基本思想/第3章 「リベラルな社会」の正統性を求めて-『政治的リベラリズム』の構想/第4章 国際社会における正義-『万民の法』で模索した現実主義/第5章 晩年の仕事-宗教的探究と「戦争の記憶」/終章 『正義論』から五〇年-「ロ-ルズの理想」のゆくえ[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ジョン・ロールズ 社会正義の探究者【電子書籍】[ 齋藤純一 ]【中古】多元的世界の政治哲学 ジョン・ロ-ルズと政治哲学の現代的復権 /有斐閣/伊藤恭彦(単行本)
2022.04.23
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ウイルスに感染した細胞は死に、その細胞から新しいウイルスが放出され、また他の細胞に感染して体内に広がっていきます。 このウイルスの性質を利用して、がん細胞だけを殺すウイルスを投与することでがんを治そうという治療が、がんウイルス療法です。 ”がん治療革命 ウィルスでがんを治す”(2021年12月 文藝春秋社刊 藤堂 具紀著)を読みました。 人間の体に害をなすものとして認識されているウイルスを利用してがんを治そうという、画期的な治療法を紹介しています。 投与するウイルスは、遺伝子を改変してがん細胞内だけで増殖できるように作られ、正常な細胞は傷つけることはありません。 がん細胞は、正常な細胞に比べて増殖が早い特徴がありますので、この治療用ウイルスに感染したがん細胞は、増殖によりウイルスが周囲に速いスピードで拡散し、がん細胞を次々と死滅させていく効果が期待されます。 2021年に、世界で初めて脳腫瘍を対象としたがん治療用ウイルス薬が日本で承認されました。 ウイルスを人類の味方にするという画期的な発想から生まれたG47Δ=ジーよんじゅうななデルタは、副作用が比較的軽く、あらゆる固形がんに適用できるといいます。 藤堂具紀さんは1960年生まれ、1985年に東京大学医学部を卒業しました。 独エアランゲン・ニュールンベルグ大学研究員、米ジョージタウン大学助教授、米ハーバード大学マサチューセッツ総合病院助教授などを経て、2003年に東京大学脳神経外科講師となりました。 2008年より同大医学部附属病院トランスレーショナルリサーチセンター特任教授、2011年より同大学医科学研究所先端医療研究センター先端がん治療分野(脳腫瘍外科)教授となりました。 現在、医科学研究所先端医療研究センター先端がん治療分野の分野長を務めています。 博士(医学)(東京大学)で、専門分野は脳神経外科学、研究テーマは遺伝子組換えウイルスを用いたがんのウイルス療法の開発です。 遺伝子組換え技術を用いてがん細胞のみで複製するウイルスを作製し、がん治療に応用します。 特に、三重変異の単純ヘルペスウイルス1型(G47Δ)は、高い安全性と強力な抗腫瘍効果を有し、臨床応用を展開しています。 異なる抗がん機能を発揮する様々な次世代ウイルスの作製や、悪性脳腫瘍から分離したがん幹細胞の研究活用を通じて、再発や転移を克服する革新的がん治療法の開発を目指しています。 現在行われているがんの治療法には、主に、手術療法、放射線療法、化学療法、免疫療法の4つがあり、これらをがんの四大治療法と呼んでいます。 日本では、これまで手術ががん治療の中心にありましたが、近年は化学療法や放射線療法が進歩し、がんの種類やステージによっては手術と変わらない効果が認められるようになってきました。 四つの治療法を、場合によって2つ以上の治療を組み合わせることもあり、手術療法、放射線療法、化学療法、免疫療法を組み合わせた治療をがんの集学的治療と呼びます。 四大治療法を効果的に組み合わせ併用することで、より大きな治療効果が期待できます。 手術療法は、外科手術によりがんの病巣を切除する治療法です。 また、周辺組織やリンパ節に転移があれば一緒に切除します。 しかし、手術により身体にメスを入れるため、創部の治癒や全身の回復にある程度時間がかかる治療法です。 しかし最近では、切除する範囲をできるだけ最小限にとどめる縮小手術や、腹腔鏡下手術、胸腔鏡下手術など、身体への負担を少なくする手術の普及が進んでいます。 放射線療法は、放射線をがんに照射してがん細胞の増殖を防ぎがん細胞を殺してしまう治療です。 放射線は細胞分裂を活発に行う細胞ほど殺傷しやすい性質を持っています。 そのため、がん細胞は正常な細胞に比べて放射線の影響を受けやすく、一定の線量を小分けにして何回も照射することで、正常な細胞にはあまり影響を与えず、がん細胞を殺傷することができます。 化学療法は、抗ガン剤などの化学物質によってがん細胞の分裂を抑え、がん細胞を破壊する治療法です。 がんは次第に転移し全身に広がっていく全身病であり、 抗がん剤は内服や注射により血液中に入り、全身のすみずみまで運ばれ、体内に潜むがん細胞を攻撃します。 そのため、全身的ながんの治療に効果を発揮します。 免疫療法は、私たちの体の免疫を強めることによりがん細胞を排除する治療法で、化学療法同様、全身に効果がおよぶ全身療法のひとつです。 2018年にノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑教授が開発した、ニボルマブ=オプジーボという免疫チェックポイント阻害剤と呼ばれる画期的な薬が代表的です。 現在保険診療の範囲は一部のがん種に限られていますが、今後適用範囲の拡大が期待されています。 がんの治療は、この4つの治療を組み合わせ併用する事により、より大きな効果をあげることができます。 そして、がんウイルス療法は、1990年代から欧米などを中心に開発が進められていましたが、2021年6月11日に、神経膠腫という悪性の脳腫瘍の治療薬として、日本ではじめて承認されました。 手術や放射線治療などの、従来の治療で効果が見られなかった人が対象となります。 ウイルス療法は、腫瘍細胞=がん細胞だけで増えるように改変したウイルスを腫瘍細胞に感染させ、ウイルスそのものが腫瘍細胞を殺しながら腫瘍内で増幅していく、という新しい治療法です。 ウイルスが直接腫瘍細胞を殺すことに加え、腫瘍細胞に対するワクチン効果も引き起こします。 手術、放射線、化学療法など従来の治療法とも併用が可能であることから、近い将来悪性神経膠腫の治療の重要な一翼を担うと期待されています。 普通、医薬品は厚生労働省の承認が正式に決まって初めてニュースになるのですが、G47Δの場合、厚生労働省の専門部会が製造販売の承認を了承した5月24日の段階から大きな反響があったといいます。 新聞各紙をはじめ、あちこちで大きく報道されたため、問い合わせの電話が東大医科学研究所に殺到し、附属病院の電話はパンクしてしまったそうです。 G47Δは、悪性神経膠腫に対する治療薬で、一般名はテセルパツレブ、製品名はデリタクト注(「注」は注射薬のこと)といいます。 悪性神経膠腫のなかでも、代表的な疾患である膠芽腫は、最も悪性度が高い脳腫瘍です。 標準治療は、摘出手術に加え放射線治療と薬物治療がありますが、再発は必至で、再発後の平均余命は3ヵ月~9ヵ月程度、1年後の生存率は14%ほどしかありません。 しかし、臨床試験で、この膠芽腫の患者にG47Δを投与したところ、最終的な1年後の生存率が84.2%と、標準治療の結果に比べ6倍以上の延命効果が認められました。 先行した臨床試験の被験者のうち1人は、治療後の再発もなく、なんと11年以上生きています。 脳腫瘍を対象としたウイルス療法薬が承認されたのは世界初であり、ウイルス療法製品が承認されたのは日本初です。 また、開発から製造までのすべての工程を日本で行なっている、日本初の国産ウイルス療法薬でもあります。 そして、製薬会社ではなくアカデミアが単独で発明し、臨床試験を経て製造販売承認に至った医薬品も、国内では初めてのことでした。 今回承認された治療薬に使われているのは、東京大学医科学研究所附属病院で研究・開発されたG47Δというウイルスです。 これは、単純ヘルペスウイルスの3つの遺伝子を操作して、正常細胞では増えず感染したがん細胞内だけで増える治療用ウイルスです。 これまで行われた臨床研究では、治療1年後の生存率が従来の治療に比べて高いことが示されており、さらにデータを収集して有効性と安全性を評価する期限・条件付き承認となっています。 現在、第三世代の遺伝子組換え単純ヘルペスウイルスI型G47Δを用いて臨床試験を行っています。 この治療では、ウイルスの作用で直接的にがん細胞を殺傷する効果に加え、体内の免疫の働きを強めてがんを抑え込む、免疫療法としての効果も期待されています。 単純ヘルペスウイルスはもともと免疫からその姿を隠す働きをもっていますが、 G47Δウイルスはその働きを欠いていますので、治療用ウイルスが感染したがん細胞は、免疫の攻撃を担う細胞に発見されやすくなります。 また、ウイルスの感染によりがん細胞が破壊されると、体内の免疫反応も活性化しますので、がん細胞をさらに攻撃することが期待できます。 このウイルス療法薬の優れている点は、正常細胞に感染しても増殖できないしくみを備えていることです。 そのため、正常組織を傷つけることはなく、従来のがん治療のような強い副作用や後遺症が起こる心配がありません。 G47Δに使われているウイルスは単純ヘルペスウイルス1型で、成人の8割程度が一度は感染して抗体を持っている、ごく身近なウイルスです。 単純ヘルベスウイルス1型のように研究が進み、人為的に制御できるウイルスならば、がんの治療に活かすこともできます。 単純ヘルペスウイルス1型の遺伝子のうち1つを改変したものを第一世代、2つを改変したものを第二世代と呼びます。 今回は、単純ヘルペスウイルス1型の3つの遺伝子を改変したもので、第三世代と呼ばれています。 この第三世代は、安全性を格段に高めながらも、がんへの攻撃力を強めることに成功した、いわば、最新型のウイルス療法薬です。 G47Δウイルスは、全ての固形がんに同じメカニズムで同じく作用することから、今後、脳腫瘍以外にもさまざまながんを対象に研究が行われ、新たな治療となることが期待できます。 2013年から、前立腺癌と嗅神経芽細胞腫をそれぞれ対象とした臨床試験が、2018年から悪性胸膜中皮腫の患者の胸腔内にG47Δを投与する臨床試験が実施されています。 本書は、旧版の”最新型ウイルスでがんを滅ぼす”(2012年刊)に、G47△が承認に至るまでの臨床試験の結果(第五章)、日本の薬事行政の課題(第六章)を新章として加え、全面的に加筆した増補改定版です。第1章 革命的がん治療“ウイルス療法”/第2章 致死率一〇〇%の悪性腫瘍との闘い/第3章 がんを殺すメカニズム/第4章 G47Δ開発までの道のり/第5章 G47Δを、一日も早く患者さんのもとへ/第6章 日本への提言/第7章 がん治療の未来[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 がん治療革命 ウイルスでがんを治す 文春新書1338/藤堂具紀(著者) 【中古】afb【中古】 「副作用のない抗がん剤」の誕生 がん治療革命/奥野修司(著者) 【中古】afb
2022.04.16
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チベット仏教は、7世紀にインドから伝えられた密教的な要素が強い仏教と、土着の宗教であるボン教とが結びついて展開しました。 ”慧海 雲と水との旅をするなり”(2020年1月 ミネルヴァ書房刊 高山 龍三著)を読みました。 日本人として初めてチベット・ラサへ潜入、仏教の原典を入手し、チベットの文化、仏教の研究・紹介に努めた河口慧海の型破りで情熱的な生涯を紹介しています。 師匠のラマを崇敬し、師弟関係を通じて教えが伝えられることから、ラマ教と呼ばれることもあります。 8世紀半ば,インド系仏教が中心となってボン教と融合して成立しました。 吐蕃の国家的宗教となりましたが,吐蕃末の廃仏で衰微しました。 11世紀の再興後,13世紀にパスパがフビライ=ハンの保護を受けてモンゴルや華北にも普及させました。 14世紀にツォンカパが出て戒律の厳格な黄帽派を創立して改革にあたり,これまでの紅帽派と区別しました。 その二大弟子からダライ=ラマ,パンチェン=ラマが代々転生するとして,前者はラサに,後者はタシルンポに教権を立て,ともにチベットの政教を支配してきました。 また,16世紀にアルタン=ハンがチベットを討つとチベット仏教を奉じ,モンゴルに移入されました。 現在、ゲルク派、カギュ派、サキャ派、ニンマ派の四大宗派があります。 ダライ・ラマはゲルク派の最高位で、同時にチベット仏教の最高位にあります。 第2位にあたるのがパンチェン・ラマです。 共に転生霊童の活仏として崇拝され、どちらか一方が死亡した場合、もう一方がその転生者を認定します。 高山龍三さんは1929年大阪生まれ、大阪市立大学・同大学院博士課程中退、専攻は文化人類学・チベット学です。 東京工業大学助手、東海大学助教授、大阪工業大学教授を経て、京都文教大学文化人類学科教授となりました。 1958年以来ネパール、西および南アジア、ボルネオのフィールドワークを実施してきました。 2004年に新たに発見された慧海の日記の研究を続け、新版の著作集に収録しました。 2006年に日本国立民族学博物館がネパール写真データベースを公開しました。 データベースに収められた写真には、1958年の西北ネパール学術探検隊に参加し現地で撮影した3、584点と、同隊がネパールで収集した標本資料の295点の合計3、879点があります。 慧海の資料調査・研究公刊を生涯続け、講談社学術文庫版の慧海のチベット旅行記の校閲も担当し多数重版されました。 河口慧海は1866年摂津国住吉郡堺山伏町、現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁生まれ、父親は桶樽を家業とする職人でした。 幼名は定治郎、僧名は慧海仁広、ベット名はセーラブ・ギャムツォ、チベットでの通称はセライ・アムチーです。 6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二錦西小学校へ通学しました。 12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学しました。 その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けました。 1886年に京都の同志社英学校に通学を始めましたが、学費困窮から退学しました。 同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学びました。 1888年に宿院小学校の教員となりましたが、更に学問を修めるべく翌年に上京しました。 井上円了が東京市に創設した哲学館、現、東洋大学の外生として苦学しました。 1890年に黄檗宗の五百羅漢寺で得度し、同寺の住職となりました。 1892年3月に哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、同年4月から大阪妙徳寺に入り禅を学ぶ傍ら一切蔵経を読みました。 その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになりましたが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指しました。 1897年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドのカルカッタに到着しました。 摩訶菩提会幹事の紹介により、ダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得ました。 およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送りました。 その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択しました。 日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにしました。 1899年1月に仏陀成道の地ブッダガヤに参りました。 その際、摩訶菩提会の創設者のダンマパーラ居士より、銀製の塔、その捧呈書、貝多羅葉の経文一巻を、チベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託されました。 同年2月にネパールの首府カトマンズに到着し、ブッダ・バジラ・ラマ師の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査しました。 同年3月にカトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行きましたが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなりました。 ここで知り合ったモンゴル人の博士、セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになりました。 1899年5月より翌年3月頃まで、この村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり、登山の稽古をしたりして過ごしながら、新たな間道を模索しました。 1900年3月に新たな間道を目指してツァーラン村を発ち、マルバ村へ向かいました。 村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機しました。 同年6月12日に、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発しました。 同年7月4日に、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラ峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功しました。 白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェと面会し、マナサルワ湖・聖地カイラス山などを巡礼しました。 1901年3月にチベットの首府ラサに到達し、チベットで二番目の規模を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されました。 それまで中国人と偽って行動していましたが、この時にはチベット人であると騙ったといいます。 たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになりました。 次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー、つまり、セラの医者という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになりました。 そしてついに法王ダライ・ラマ13世に招喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されましたが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断りました。 前大蔵大臣の妻を治療した縁で、夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになりました。 この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェで、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことができました。 1902年5月に、日本人だという素性が判明する恐れが強くなり、ラサ脱出を計画しました。 親しくしていた薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、英領インドに向けてラサを脱出し、無事インドのダージリンまでたどり着きました。 同年10月に、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞いたといいます。 そこで救出のための方策として、チベットが一目置いているであろうネパールに赴きました。 1903年3月に、慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに認めた上書を、ネパール国王であったチャンドラ・サムシャールを通じて、法王に送って貰うことに成功しました。 同年4月24日に、英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に神戸港に帰着しました。 和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国でした。 慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことでした。 その後、慧海は1913年から1915年までにも、2回目のチベット入境を果たしました。 ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功しました。 また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集しました。 持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されています。 著者はかつて西北ネパール学術探検隊の一員として、一か月も歩いてヒマラヤを横断し、とあるチベット人村に滞在し、民族学的調査をしたことから、慧海師とのつながりが始まったといいます。 歩いた道は慧海師の歩いた道であり、滞在調査した村は、慧海師が旅行記の中でネパール最後に記した村でした。 帰国後、勤務の都合で上京し、師に連れられて慧海の会、通称、慧海忌に出席し、遺族や弟子たちと知り合い、多田等観師、平山郁夫画伯、山田無文師、深田久弥氏、中根千枝先生らの話を聞いたそうです。 慧海の会の自費出版、第二回チベット旅行記の編集、注記、地図づくりを手伝い、講談社学術文庫のチベット旅行記五冊本の校訂を行いました。 のちに僧籍を返上して、在家仏教を提唱しました。 また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献しました。 晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去しました。 チベット旅行記によって、多くの読者は探検談としての興味をもって評価しましたが、仏教の書として読んで欲しいと願ったといいます。 日記の出現により、慧海師の旅は修行そのもの求道そのものだったことが分かります。 この本では、旅行記によって話を進めず、日記によって判明した彼の行動、思考を追ってみたいといいます。第1章 若き時代/第2章 チベットへの旅/第3章 再びチベットへ/第4章 研究・教育・求道/第5章 世界のカワグチとなった慧海/第6章 慧海の遺したもの/参考文献/慧海年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]河口慧海 雲と水との旅をするなり/高山龍三【3000円以上送料無料】チベット旅行記 紀行文傑作集【電子書籍】[ 河口慧海 ]
2022.04.09
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津田梅子は1864年に、旧幕臣、東京府士族、下総佐倉藩出身の1津田仙と初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町に生まれました。 ”津田梅子 明治の高学歴女子の生き方”(2022年1月 平凡社刊 橘木 俊詔著)を読みました。 わずか7歳前後の少女時代に異国のアメリカに単身渡り当地で教育を受け、帰国後、女子英学塾(現津田塾大学)の創設に尽力した津田梅子の波乱に満ちた人生を紹介しています。 父は幕臣であったため江戸幕府崩壊とともに職を失い、1869年に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移り、西洋野菜の栽培なども手がけました。 幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていました。 1871年に父は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移りました。 開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、父は黒田が企画した女子留学生にうめを応募させました。 同年、岩倉使節団に随行して梅子は渡米しましたが、同行した5人のうち、最年少の満6歳でした。 一行は横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着しました。 橘木俊詔さんは1943年兵庫県生まれ、灘高等学校を経て、1967年に小樽商科大学を卒業し、1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了しました。 1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了 (Ph.D.)し、1998年に京都大経済学博士となりました。 1974年1月から1976年9月まで、パリでフランス国立統計経済研究所客員研究員となりました。 1976年10月から1977年9月まで、パリで経済協力開発機構 (OECD) エコノミストを務めました。 1977年10月から1979年3月まで大阪大学教養部助教授、1979年京都大学経済研究所助教授、1986年同教授を務めました。 2003年に京都大学大学院経済学研究科の経済学部教授となり、2007年に定年退任し、名誉教授となりました。 2007年に同志社大学経済学部教授、2009年に同志社大学経済学部特別客員教授、同志社大学ライフリスク研究センター長となり、2014年に京都女子大学客員教授となりました。 津田梅子は、渡米直後の1871年に、アメリカのジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられました。 1972年5月に森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされましたが、10月には上田悌子、吉益亮子の2名が帰国しました。 残った3人が梅子、山川捨松、のちの大山捨松、永井しげ、のちの瓜生繁子です。 この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに女子英学塾、現在の津田塾大学を設立する際に、二人は助力しました。 梅子はランマン家で十数年を過ごし、英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通いました。 キリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていませんが、1873年7月に特定の教派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けました。 1878年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学しました。 ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学びました。 また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行しました。 1881年に開拓使から帰国命令が出ましたが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年7月に卒業しまし、同年11月には日本へ帰国しました。 帰国したものの、日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、捨松と繁子はそれぞれ軍人へ嫁しました。 1883年に外務卿、井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾、桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されました。 このころ父との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在しました。 歌子からは日本語を学び、桃夭女塾へ英語教師として通いました。 1885年に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師となりました。 1886年に職制変更で嘱託となりました。 1888年に留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、薦められて再度の留学を決意しました。 父の知人、ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘、クララの仲介で、留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可されました。 1889年7月に梅子は再び渡米し、フィラデルフィア郊外のセブン・シスターズ大学のひとつ、ブリンマー大学で生物学を専攻しました。 3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆しました。 使命であった教授法に関する研究は、州立のオズウィゴー師範学校で行いました。 ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版る際には手助けをしました。 留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行いました。 大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められましたが、1892年8月に帰国しました。 再び華族女学校に勤め、教師生活を続けましたが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行いました。 1894年に明治女学院でも講師を務め、1898年5月に女子高等師範学校教授を兼任しました。 成瀬仁蔵の女子大学創設運動や1899年の高等女学校令、私立学校令の公布などの法整備があり、女子教育への機運が高まりました。 1900年に官職を辞し、父やアリス・ベーコン、捨松、繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、7月に女子英学塾の設立願を東京府知事に提出しました。 認可を受けると同年に、女子英学塾を東京麹町区に開校して塾長となり、華族平民の別のない一般女子の教育を始めました。 女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となりました。 ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだといいます。 独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられました。 梅子やベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われています。 1903年に専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人としました。 1905年10月に、梅子を会長として日本基督教女子青年会、日本YWCAが創立されました。 梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年1月に塾長を辞任しました。 鎌倉の別荘で長期の闘病後、1929年に脳出血のため享年66歳で死去しました。 女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは梅子没後19年目の1948年のことでした。 梅子が女子の高等教育機関をつくるに際しては、本人のブリンマー大学での学びの経験か大きく役立ったことは言うまでもありません。 そこで、梅子がアメリカでどのような学生生活を送っていたかに注目しています。 当時のアメリカの大学では、男女共学の学校は少なく、名門ブリソマー大学も女子大学でしたので、帰国後の梅子は女子学校の創設に走りました。 特に当時の日本は旧い社会でしたので、それを打破すべく、女子教育の発展に強い熱意でもって尽力しました。 今の津田塾大学は、女子大学の名門校として燦然と輝いています。 津田梅子を筆頭にして、教員、学生がいかにこの学校の発展に尽くしてきたか、その足跡に迫っっています。 興味深いのは、女子大学の一つの売りは家政学部を持っていたことにありますが、津田塾大学はそれを持たず、教養、純粋学問に特化してきたことに特色があります。 とはいえ現在は、津田塾大学のみならず、女子大学の意義も問われている時代となっています。 第1は、女子高校生の共学大学志向の高まりにどう対処するのかがす。 今や本家アメリカでも女子大学の数は減少していますし、ヨーロでハには女子大学の存在は珍しいです。 第2は、津田、大山、永井の三名に代表されたように、女子高等教育を受ける人に、女子大学を含めた日本の大学教育のあり方を検討してみました。 本書の中心はあくまでも津田梅子ですが、捨松と繁子との比較は明治時代の高学歴女子の生き方の代表的な三つの姿を象徴しています。 すなわち、結婚せずに独身で職業を全うする、専業主婦となって良妻賢母を貫く、職業人と妻・母として生きる、の三つです。 三名は恵まれた境遇にいたとはいえ、それなりの苦労を経験したのであり、その経験の差が三人の生き方に差を生じさせた一因でもありました。 その違いをよく知るために、1章分を割いて、捨松と繁子の人生についてもかなり詳細に記述しています。 現代の女性にとっても、特に高学歴女子にとっては、独身でキャリアを全うするか、専業主婦となって夫と子どもを支えるか、共働きをして職業人と家庭人を両立させるかの三つの大きな選択肢かあります。 その選択に多くの女性が悩んでいますが、明治時代の三人の女性の経験を知ることによって、現代でも学ぶところかあると思われます。 梅子はアメリカの大学で学んだことを活かすために、帰国後は職業人を目指しましたが、男性社会の壁はとても厚く、種々の困難に遭遇しました。 そこで普通の女性のごとく結婚という道も頭をよぎりましたが、女子教育の充実こそが梅子の宿願でしたので、一人で女子英学塾の開校を決意しました。 もとより女子高等教育機関をつくる仕事は、国の支援のある官立校ではなく私立校なので、当時としては苦難か多く、梅子も様々な壁にぶちあたりました。 しかし、アメリカ留学時代に構築した人間関係の恩恵を得て、物心ともに支援を受けて女子英学塾を創設し発展に寄与しました。 なお、2024年上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まりました。第1章 戦前の女子教育と岩倉使節団/第2章 津田梅子の幼少期と渡米/第3章 アメリカの大学へ留学する/第4章 帰国後の梅子と津田英学塾/第5章 山川捨松と永井繁子/第6章 三者三様の生き方と現代への含意 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]津田梅子 明治の高学歴女子の生き方【電子書籍】[ 橘木俊詔 ]【中古】津田梅子 (P+D BOOKS)/大庭 みな子
2022.04.02
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