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ユーゴスラヴィアは、ヨーロッパのバルカン半島北西部を占めた連邦共和国で、かつて独自の社会主義連邦の道を歩みました。 ”ユーゴスラヴィア現代史”(2021年8月 岩波書店刊 柴 宣弘著)を読みました。 かつてセルビア・クロアチア・スロヴェニア・マケドニア・モンテネグロ・ボスニアヘルツェゴビナの6共和国で構成したユーゴスラヴィアの、各国の動向や新たな秩序について概観しています。 14世紀からオスマン帝国の支配下にありましたが、第一次大戦後の1918年、南スラブ系の多民族最初の統一国家、セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国が成立しました。 1929年にユーゴスラヴィア王国と改称し、1945年に連邦人民共和国、1963年に社会主義連邦共和国となりました。 第二次大戦でドイツ軍に占領されましたが、1945年に自力で全土を解放し、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が成立しました。 1948年に民族主義的傾向によりコミンフォルムを除名され、独自の社会主義の道を歩み、1963年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国と改称しました。 この国家は、後に、七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家と言われる程の多様性を内包していました。 1991年から1992年にかけ、同国の解体・再編に伴い、スロヴェニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・マケドニア各共和国が分離・独立しました。 そして、セルビアとモンテネグロの2共和国が、新ユーゴスラヴィアを構成していました。 2003年に国名をセルビア・モンテネグロに改称しましたが、2006年に両国が分離して完全に解体されました。 民族、国家、宗教、言語、ユーゴスラヴィアの解体から30年となり、暴力と憎悪の連鎖が引き起こした紛争は、いまだ過ぎ去らぬ重い歴史として、私たちの前に立ちはだかっています。 柴 宜弘さんは1946年東京都生まれ、1971年に埼玉大学教養学部を卒業しました。 1975年から1977年まで、ベオグラード大学哲学部歴史学科に留学し、帰国後、敬愛大学経済学部専任講師、のち助教授となりました。 1979年に、早稲田大学大学院文学研究科西洋史専攻博士課程を満期退学し、専門はバルカン史です。 1992年に東京大学教養学部助教授となり、1994年東京大学教養学部・大学院総合文化研究科教授を経て、城西国際大学特任教授となりました。 2010年に東京大学名誉教授、ECPD(国連平和大学)客員教授、 城西国際大学特任教授となり、その後、同大学中欧研究所長を務め、2021年に死去しました。 今はないそのユーゴスラヴィアに、念願かなって留学が決まり、古びたベオグラード空港に緊張気味に降り立ってから20年が過ぎたといいます。 ユーゴスラヴィアという国にひかれ、この国の歴史を勉強してみようと思い立ってから数えれば、もう四半世紀を超えているそうです。 当時、自主管理と非同盟の国ユーゴスラヴィアに対するわが国の関心は決して低いものではありませんでしたが、関心の大部分は独自の社会主義の理念にあったように思えます。 実際に、ペオグラードでの生活を始め、各共和国や自治州に足をのばして感じたのは、風景や、生活習慣や、人々のメンタリティーがかなり異なる地域が、ひとつの国を作っている現実でした。 北のスロヴェニア共和国から送られるスロヴェニア語のテレビ放送には、セルビア・クロアチア語のテロップがつけられています。 テロップなしには、十分にスロヴェニア語を理解できないことを知りました。 南の後進的なマケドニア共和国の首都スコピエから、最も豊かなスロヴェニア共和国の首都リュブリャナに飛行機で行ったときなど、その落差に改めて驚かされたといいます。 ユーゴスラヴィアの魅力は、きわめて多様な地域がひとつの国を形成していることにありました。 しかし、このようなユーゴは内戦を経て解体してしまいました。 著者は、ユーゴスラヴィア研究者として、73年間で歴史の幕を閉じてしまったユーゴスラヴィアとはいったい、どのような国だったのかを現時点から検討し直してみようとしました。 ユーゴスラヴィアとは、そもそも南スラヴを意味する言葉ですが、国家としてのユーゴスラヴィアは二度生まれ、二度死んだといわれます。 一度は、1918年12月に王国として建国され、1941年4月にナチスドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻にあい、分割・占領されて消滅しました。 二度は、1945年11月に社会主義連邦国家として再建され、1991年6月にスロヴェニア、クロアチア両議会が独立宣言を採択し、翌1992年1月に、約50力国がこれら二国を承認して解体しました。 三度生まれ変わることはできず、民族対立による凄惨な内戦を通じて、73年間の歴史の幕を閉じました。 ユーゴスラヴィア紛争は、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国解体の過程で起こった一連の内戦で、1991年から2001年まで主要な紛争が継続しました。 1991年には、スロヴェニアがユーゴスラヴィアからの離脱・独立を目指したスロヴェニア紛争が起こりました。 規模は拡大せずに10日で解決し、十日戦争、あるいは独立戦争と言われています。 1991年から1995年まで、クロアチアがユーゴスラヴィアからの離脱・独立を目指したクロアチア紛争が起こりました。 ボスニア紛争と絡んで戦争は泥沼の様相を呈しましたが、4年の戦争の末に独立を獲得しました。 1992から1995年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、1996年から1999年までコソボ紛争、2001年にマケドニア紛争が起こりました。 第二次世界大戦後のユーゴは、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」という表現に端的に示される、複合的な国家でした。 最終的に連邦が解体する以前、ユーゴスラヴィアでは、1980年代末から1990年代初めにかけて連邦制の危機が進行しました。 第三の岐路に立つユーゴスラヴィアという表現が、当時のジャーナリズムを賑わせました。 第一次世界大戦の結果、建国された南スラヴの統一国家を「第一のユーゴスラヴィア」、第二次世界大戦の結果、再建された国家を「第二のユーゴスラヴィア」とする言い方が一般化しました。 「第一のユーゴスラヴィア」においても、「第二のユーゴスラヴィア」においても、最大の国内問題は民族対立であったといえるでしょう。 このユーゴが位置するバルカン地域は、民族構成の複雑なことで知られています。 その地理的な位置からも、歴史的に諸民族が混在し、混血もすすんでいました。 人為的な国境線をどのような形で引こうとも、自国内に少数民族を抱え込むことになり、自民族が隣接する国々に少数民族として留まることになります。 ユーゴスラヴィアは、このようなバルカン地域縮図ともいうべき特色を持つ国家でした。 また、ユーゴスラヴィアははざまの国といわれました。 冷戦期には東西両陣営に属さず、政治・外交的に非同盟政策を採っていました。 歴史をさかのぼってみると、この地域が古くは東ローマ帝国と西ローマ帝国との境界線に位置していました。 中世においては、ビザンツ・東方正教文化圏と西方カトリック文化圏との接点でもありました。 さらに近代に至ると、ユーゴスラヴィアを構成することになる南スラヴの諸地域は、ハプスブルク帝国とオスマン帝国との辺境を形成し、イスラム文化との接触も進みました。 第二次世界大戦期にナチスドイツの占領下で、民族対立を煽る分断統治が行われるにともない、大規模な兄弟殺しが展開されました。 戦後、の「第二のユーゴスラヴィア」で、パルチザン体験をもとに社会主義に基づいて統合化が推進されましたが、ユーゴ人意識を徹底させることはできませんでした。 したがって、文化の面でも、これがユーゴ的だと誇れる明確な文化を生み出すことはできませんでした。 多様な文化が並存する状況から生み出される独自の表現は、容易に国を越える広がりを持っていました。 ユーゴスラヴィアという複合国家がなくなってしまった現在、新たな独立国は政治的にも文化的にも、単一性や均質性を追い求めているように見えます。 しかし、歴史を振り返れば明らかなように、この地域では多様性を排して単一性を追求することこそが危険であり、民族の悲劇を生み出してしまったのです。 本書は、解体してしまった国家であるユーゴスラヴィアの現代史を、統合と分離の経緯を追いながら、内戦にいたる歩みを、決定論に陥ることなく見つめ直すことを目的としています。第一章 南スラヴ諸地域の近代/第二章 ユーゴスラヴィアの形成/第三章 パルチザン戦争とは何だったのか/第四章 戦後国家の様々な実験ー連邦制・自主管理・非同盟/第五章 連邦解体への序曲/第六章 ユーゴスラヴィア内戦の展開/第七章 新たな政治空間への模索/終 章 歴史としてのユーゴスラヴィア/あとがき/新版追記/主要参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ユーゴスラヴィア現代史 新版 (岩波新書 新赤版 1893) [ 柴 宜弘 ]ユーゴスラヴィア解体とナショナリズム セルビアの政治と社会(1987-1992年) [ 鈴木健太 ]
2022.06.25
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自分の仕事に自信がない親の元に生まれ、子供の頃から、農業だけは継ぐな、大学に行けと両親に言われ続けたといいます。 ”「やりがい搾取」の農業論”(2022年1月 新潮社刊 野口 憲一著)を読みました。 社会になくてはならないインフラで重要性については誰もが認める農業について、これまでの単なる食糧生産係から脱して、社会的な価値ある産業とするための成長戦略を考えています。 農家が高い収入を得て、自分の仕事に自信を持ち、社会に尊敬されるにはどうしたら良いのかという問いは、ずっと切実なものであり続けているそうです。 農業は儲からない職業だから不幸である、と言いたいわけではありません。 たくさん儲けている農家も少なからずありますし、世界を見てみても、日本の農家より厳しい状況にある農家はいくらでもあります。 農作業の省力化も進んでいて、農業基本法が推し進めた農業近代化を象徴するトラクターを筆頭に、農業機械の普及は農作業の辛さや大変さを大幅に改善させました。 近年では、センサーやカメラなどを用いて農家の感覚器官を補ったり、ビニール施設内での環境制御を行ったりするスマート農業が流行しています。 農業界でも働き方改革が求められており、長時間の農作業なども次第に緩和されつつあります。 最近では、アパレル業界の農作業着への参入により、オシヤレな農作業着も増えました。 本書で言うところの価値とは、お金、すなわちその農業を通して得られる経済的な利益だけを言うのではありません。 生産物である農産物の価値、農業という職業や産業に宿る尊厳、威信、そして自分自身の自信や職業イメージ、最終的には農業という営みの背景にある文化的な価値までを含みます。 いまや食余りの時代であり、単なる食糧生産係から脱し、農家が農業の主導権を取り戻すためには何をすればいいのでしょうか。 野口憲一さんは1981年茨城県新治郡出島村、現かすみがうら市生まれ、株式会社野口農園取締役です。 株式会社野口農園はレンコン1本5000円で販売し、ニューヨークやパリなどのミシュラン星つきレストランに納入する等、レンコンのブランド化に成功しています。 日本大学卒業後、実家のレンコン生産農家を手伝いながら、大学院で民俗学・社会学の研究を続け、博士(社会学)を取得した異色の民俗学者でもあります。 2012年に日本大学文理学部で助手を務め、2013年から恵泉女学園大学や日本大学で非常勤講師を務め現在に至っています。 民俗学と社会学の研究に加え、実家のレンコン栽培や販売を通して、農業の価値向上のためにも奔走しています。 かつてお米には七人の神様が宿ると言われたりしましたが、日本の主食である米もいまや単なる食材の一つとなりつつあります。 地域社会が保持していた稲作に関わる民俗なども消失しつつある昨今、その文化的な価値も年を追うごとに摩耗しているといいます。 日本社会の食糧生産係の役割をふられた戦後の農業界では、豊作貧乏が常態化していました。 どんなに需要が多くても、生産物の質を上げても、生まれた価値は農家の手元に残らなかったのです。 いつまでも豊作貧乏、キレイゴトの有機農業、単なる食糧生産係から脱し、農家が農業の主導権を取り戻すためには何をすればいいのでしょうか。 おしゃれな農作業着のイメージ方法論は、農業のイメージを表面的な見た目を改善する必要があるといいます。 ポルシェを乗り回す農家、農作業のつらさを軽減するトラクターやコンバインの導入、スマート農業や植物工場へ展開する方法論、効率性や経済合理性にあった農業などの方策もあります。 でもこの方法が、農業の本質的価値向上になるのでしょうか、むしろ、農業の価値を毀損するのではないでしょうか。 ある意味では、消臭剤を撒くことで本質を覆い隠すようなことが多いのではないでしょうか。 農水省の提唱しているスマート農業という言葉は、かっこいいみたいで、それ以外の農業は、野暮ったくて馬鹿で愚鈍でカッコ悪いと思われています。 日本の農家は、高品質な農作物を作ってきたにも関わらず、ほとんど社会からの価値を認められていません。 プロの農家として、自分の仕事に対して自信を持ち、自己実現を果たし、仕事それ自体が社会から尊敬され、かつ高い収入を得るためにはどうするのでしょうか。 そして、持続的に身近な自然環境を守り、自然の大切さを伝えるという社会的な使命を帯びています。 現在、農業という職業の社会的な役割は食糧生産係です。 しかし、著者は、農家が単なる食糧生産係に止まらず、農業という職業に社会的な尊敬が集まり、やりがいをもって取り組めるような社会を構想したいといいます。 そのための一番の近道は、農家が生産している農産物を高く売ることです。 職業の威信の高さや社会からの尊敬は、その職業が産み出す商品やサービスの値段に直結するからです。 そして、その高付加価値化は他の産業の力を使わず、農家にしかない特有の能力をもって成し遂げることが重要です。 著者はレンコンを1本50000円として、農産物ラグジュアリーブランドとして販売します。 それは価値があるから高いのでなくて、高いから価値があるのです。 農業の価値という大きな農業の連綿たる続いてきた価値の物語をかたることで、農業としての矜持を持とうとしています。 価値とはお金だけでなく、生産物である農産物の価値、農業という職業や産業に宿る尊厳・威信、そして自分自身の自信や職業イメージ、農業の営みの背景にある文化的な価値です。 ある意味では農水省が農業の価値に気がつくべきだと言っています。 有機農業は、有機農法、有機栽培、オーガニック農法などとも呼ばれ、化学的に合成された肥料や農薬を使用しないことと、遺伝子組換え技術を利用しないことを基本としています。 農業生産に由来する環境への負荷を、できる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業です。 近年ではハイテク機械を用いたスマート農業どころか、完全に外部環境を遮断してフルオートで野菜を生産する植物工場が流行しています。 スマート農業はロボット技術やICT等の先端技術の活用して、少人数で多数の圃場を的確に管理する技術です。 一見、均一にみえる圃場において、空間的、時間的に気温土壌肥沃度や土壌水分がばらつく事を前提として、それを認識して制御することで収量等を改善を目指します。 植物工場は内部環境をコントロールした閉鎖的または半閉鎖的な空間で、野菜などの植物を計画的に生産するシステムです。 ビル内などに完全に環境を制御した閉鎖環境をつくる完全制御型の施設から、温室等の半閉鎖環境で太陽光の利用を基本として、太陽光利用型の施設などがあります。 しかし、こうしたやり方は農業の本質的な価値向上とは何一つ関係がないばかりか、むしろ農業の価値を棄損する方法論なのではないかと考えるようになったそうです。 農業の本質的な特徴を軽視し、時には隠そうとする方法論であると気づいたからだといいます。 農家に一時的な幸せをもたらすかもしれませんが、結果的にはむしろ農業のマイナスイメージを強化してしまうのではないでしょうか。 近代的な農業経営が取り入れられて以降、農家固有の技術の経済的価値は、農家の手に落ちることはなく、ずっと外部に流出し続けているからです。 これまで農業の技術と呼ばれるものは、農学はもちろんとして、機械メーカーや肥料メーカー、そして種苗会社や製薬会社によって支えられてきました。 農家が発見したものであっても、それは知識として農学に吸い取られ、クレジットは農家の手には残りません。 結果として、農産物を生産する一農家が、自身の卓越した能力を待った職業人として社会に認められる余地はほとんど存在しません。 このような時代において、農家が自分の職業に対する誇りと自信を取り戻し、外部に流出している価値を自ら保持するにはどうすれば良いのでしょうか。 著者は農家としての立場の他に、社会学で博士号を獲得した民俗学者の立場としても活動しています。 民俗学とは、自分自身の足下にある身近な問題についての歴史的・文化的・現代的な背景を探る学問です。 本書では、農業経営に関わる農家としての活動、そして日本各地の農家を調査してきた民俗学者としての蓄積をすべて注ぎ込み、日本の農業が目指すべき方向性について考えてみたいといいます。はじめに/第1章 構造化された「豊作貧乏」/第2章 農家からの搾取の上に成り立つ有機農業/第3章 植物工場も「農業」である/第4章 日本人の仕事観が「やりがい搾取」を生む/第5章 ロマネ・コンティに「美味しさ」は必要ない/第6章 金にならないものこそ金にせよ/おわりに/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]「やりがい搾取」の農業論 (新潮新書) [ 野口 憲一 ]希望の日本農業論 (NHKブックス) [ 大泉一貫 ]
2022.06.18
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仏教史上最大の対決とは、三一権実諍論、三一権実論争、三乗一乗権実諍論、法華権実論争などと言われる論争です。 平安時代初期の817年前後から821年頃にかけて行われた、法相宗の僧侶、徳一と日本天台宗の祖、最澄との間で行われた仏教宗論です。 ”最澄と徳一 仏教史上最大の対決”(2021年10月 岩波書店刊 師 茂樹著)を読みました。 平安時代初期に天台宗の最澄と法相宗の徳一が交わした、三乗説と一乗説のどちらが方便の教えでどちらが真実の教えなのかと、いう真理を求める論争を解きほぐして描こうとしています。 三一権実諍論の三一とは、三乗と一乗の教えのことであり、権実の諍論とは、どちらが「権」(方便の教え)で、どちらが「実」(真実の教え)であるかを争ったことを言います。 天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称しました。 それに対し法相宗では、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説きます。 徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定性、無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとしました。 定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張しました。 論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではありません。 これは問答か謗法か、平安時代初期、天台宗の最澄と法相宗の徳一が交わした批判の応酬は、仏教史上まれにみる規模におよびます。 相容れない立場の二人が、5年間にわたる濃密な対話を続けたのはなぜだったのでしょうか。 師 茂樹さんは1972年大阪府大阪市に生まれ、その後、福島県耶麻郡猪苗代町で育ちました。 福島県立安積高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部に進学し、大久保良峻に師事しました。 1995年に卒業後、東洋大学大学院文学研究科に進み田村晃祐に師事し、2001年に同博士後期課程の単位取得し、2013年に博士(文化交渉学、関西大学)となりました。 2001年に早稲田大学メディアセンター非常勤講師、2002年に花園大学文学部専任講師となり、2008年に同准教授、2015年に教授に昇任しました。 その他、大谷大学、京都大学、国際仏教学大学院大学で非常勤講師を務めました。 奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗、律宗などの南都六宗です。 本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていましたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派でした。 天台宗は最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となりました。 この時代の日本における仏教は、鎮護国家の思想の下で国家の管理下で統制されていました。 仏僧と国家権力が容易に結びつき、奈良時代には玄昉や道鏡など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れました。 桓武天皇が平城京から長岡京、平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされます。 新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目、支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあったといいます。 日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられました。 653年に道昭が入唐留学して玄奘三蔵に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めました。 徳一は一説には藤原仲麻呂か恵美押勝の子ともいわれますが、真偽のほどは不明のようです。 はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下りました。 東国で布教に努め、筑波山中禅寺、会津慧日寺などを創建したといいます。 徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多いそうですが、確実な史料は最澄と空海の著作に残された記録です。 論争をしていた頃に書かれた最澄の著作には、陸奥の仏性抄、奥州会津県の溢和上、奥州の義鏡、奥州の北轅者などの記述があり、この頃は陸奥国にいたことがわかるといいます。 天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗を開祖とする大乗仏教の宗派です。 『法華経』を根本経典とし、五時八教の教相判釈を説きます。 五時はすべての経典を釈尊が一生の間に順に説いたものと考え、その順序に5段階をたてたもの、八教は化儀四教と化法四教の総称です。 化儀四教は説法の仕方によって四種をたてたもの、化法四教は教説の内容によって四種をたてたものです。 最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けましたが、比叡山に籠もり12年間山林修行を行いました。 さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始めました。 親交のあった和気氏を通じて、桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出ました。 これを受けて、桓武天皇は最澄本人が短期留学の僧として渡唐するように命じました。 最澄は805年に入唐を果たし、天台山にのぼり、台州龍興寺において天台宗第七祖の道邃より天台教学を学び、円教の菩薩戒を受けて806年に帰国しました。 帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請しました。 天皇没後に年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の遮那業と止観業各1名計2名を加えることを要請しました。 これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立し、日本における天台宗のはじまりとなりました。 最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想を立てました。 これによって、律宗の鑑真がもたらした具足戒の戒壇院を独占する、南都仏教の既得権益との対立を深めていました。 論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされ、この書における一乗批判、法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まりました。 ただし、そもそも徳一が論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠とその教団であったとする説があります。 徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも、道忠教団であったと見られますが、異論もあるといいます。 釈迦の弟子とその後継者によって受け継がれてきた主流派の教義は小乗と呼ばれ、声聞乗=教えを聞く者たちの道として、ブッダを目指す修行者である菩薩の道=菩薩乗と区別しました。 二つの道と二つのゴールがあると考えるのが、二乗説です。 後に、師から教えを聞くことなく独力で解脱する独覚を開いた人、あるいは縁覚とよばれるゴールを指す独覚乗あるいは縁覚乗が加わって、大乗グループによる分類である三乗説が定着します。 菩薩乗は大乗、声聞乗と独覚乗は小乗です。 『法華経』では、釈迦が、声聞乗、独覚乗で修行をしている僧に対して、汝らの目指すべきゴールは阿羅漢ではなく、ブッダになることだと述べました。 一般の修行者が目指すものは、あらゆるものへの執着を断ち切り、輪廻から解脱することであって、それを達成した人は阿羅漢とよばれました。 主流派の人々にとって、人々に教えを語り、導くことができるブッダ=目覚めた者は世界にたった一人、釈迦仏だけです。 それに対して大乗グループの人々は、釈迦以外にも複数のブッダがいると主張し、また一般の仏教修行者もブッダになり、釈迦と同様に人々を教導する存在になれるのだと主張しました。 『法華経』では、汝らはいずれブッダになれる、汝らに小乗の教えを説いたのは、大乗に導くための方便でした。 三つの道というのは方便であり、本当は一つの道しかないといいます。 これに対して、瑜伽行派とか唯識派などと称される大乗仏教の一学派は、『法華経』などに説かれる一乗説こそが方便であると解釈しました。 声聞乗をとるか、菩薩乗をとるかで迷っている修行者を、菩薩乗に誘導するための方便として生きとし生けるものはブッダになれるのだから、菩薩として修行しようと説きました。 実際には素質によってゴールが異なる三乗説のほうが、ブッダが本当に説きたかった真理である、という三乗真実説を主張しました。 唐の仏教が日本に入ってくると、日本においてもこの相容れない二つの立場が激突することになりました。 その代表的な存在が、最澄と徳一であり、玄奘の弟子たちが形成した唯識派の法相宗が、遣唐使などによって日本に輸入され、理解が進展していくと、日本国内でも三乗真実説に対する批判が起こりました。 天台宗の一乗真実説を目にした法相宗の徳一は、三乗真実説に基づいてそれに疑問を投げかけたのです。 そして『法華経』の一乗説こそが真実であると信じていた天台宗の最澄が、一乗真実の立場から徳一に反論し、それに対して徳一が反論して論難が往復しました。 論争の最中に最澄が提示した論争史の叙述は、まさに三一権実論争という枠組みを生み出したものであり、近現代の仏教学者が仏教史を把握する際のパースペクティブを規定してしまうほどの強い影響力を待ちました。 三一権実論争とは、最澄が提示した仏教史観によって規定された、最澄と徳一の論争の見方なのです。 私たちは最澄の作り出した見取り図のなかにいますが、本書ではその見取り図の形成過程に対しても、光を当てようとしているといいます。はじめに/第1章 奈良仏教界の個性ー徳一と最澄/第2章 論争の起源と結末ー二人はどう出会ったか/第3章 釈迦の不在をいかに克服するかー教相判釈という哲学/第4章 真理の在り処をめぐる角逐/第5章 歴史を書くということ/終章 論争の光芒ー仏教にとって論争とは/参考文献一覧/あとがき [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]最澄と徳一 仏教史上最大の対決 (岩波新書 新赤版 1899) [ 師 茂樹 ]ツォンカパー悟りへの道ー三乗から真の一乗へ (構築された仏教思想) [ 松本峰哲 ]
2022.06.11
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島田三郎、旧姓・鈴木三郎は、1852年に幕府御家人鈴木知英の三男として江戸に生まれ ました。 昌平黌で漢学を修め、維新後、ブラウン塾沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校で学びました。 ”島田三郎 判決は国民の輿論に在り”(2022年4月 ミネルヴァ書房刊 武藤 秀太郎著)を読みました。 横浜毎日新聞に入社して自由民権を論じましたが、退社して官途につき、のち大隈重信らとともに、官を辞して立憲改進党の創立に参加し、ジャーナリスト政治家として活躍した、島田の多彩な人生を描き出しています。 1874年に横浜毎日新聞社員総代、島田豊寛の養子となり、同紙の主筆となりました。 翌年、元老院書記官となり、1880年に文部省に移り、文部権大書記官となりましたが、明治14年の政変で大隈重信派として諭旨免官となり、横浜毎日新聞に再び入社しました。 1882年に嚶鳴社幹部として、立憲改進党の創立に参加し、同年に神奈川県会議長となりました。 嚶鳴社は元老院大書記官の沼間守一が1878年に設立した政治結社で、自由民権と国会開設を主張しました。 1888年に沼間から、東京横浜毎日新聞社長の座を受け継ぎました。 帝国議会開設後は、神奈川県第一区横浜市選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めました。 進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党と立憲改進党系の諸党を渡り歩きました。 その後、犬養毅との対立から大石正巳らとともに桂新党の立憲同志会に入り、後に憲政会に合流しました。 しかし憲政会が人道や軍縮に積極的ではないとして同党を離党して、立憲国民党の解散を余儀なくされていた犬養と和解して、新党革新倶楽部の結成に参加しました。 尾崎行雄、犬養毅とともに大隈重信門下の三傑と呼ばれ、自由民権運動と護憲運動を推進しました。 社会問題にもいち早く目を向け、廃娼運動や足尾銅山鉱毒事件の被害者救済に尽力しました。 武藤秀太郎さんは1974年生まれ、1997年早稲田大学政治経済学部卒業。2005年総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程単位取得後退学しました。 学術博士で、現在、新潟大学経済科学部教授を務めています。 尾崎行雄、犬養毅、島田三郎の三者は、1881年の明治14年の政変で下野した大隈重信が結党した、立憲改進党の中心メンバーでした。 また、いずれも1980年におこなわれた第1回衆議院議員総選挙に立候補し、当選しています。 その後、尾崎が25回、犬養は18回と、それぞれ連続当選をはたしました。 帝国議会を誕生から長きにわたり支えた尾崎と大養が、憲政の神様とならび称されていることはよく知られています。 実のところ、島田も第1回衆議院議員総選挙以来、亡くなるまで衆議院議員をつとめつづけました。 その連続当選回数は14回。第14回総選挙まで連続当選をはたしたのは、島田、尾崎、犬養、河野広中、箕浦勝人の5名にすぎません。 島田がもっと長生きしていれば、当選記録をさらに更新していたかもしれません。 とくに、島田の選挙区は、横浜という大都市であり、有力者が虎視耽々と議席をねらう激戦区でした。 島田は、衆議院議員となる前にも、神奈川県会議員や横浜相生町の町会議員として活動していました。 議員としての在職は、足かけ40年あまりにおよびます。 労働組合運動にも理解を示し、1899年の活版印刷工の労働組合である活版工同志懇話会の会長に就任しました。 他に、キリスト教会の諸活動、廃娼運動、足尾鉱毒被害者救済運動、矯風事業、選挙権拡張運動を生涯にわたって支援し、第一次世界大戦後は軍縮を主張しました。 足尾鉱毒事件を告発した田中正造とは盟友であり、栃木県佐野市の惣宗寺にある田中正造の分骨墓碑石に刻まれた、嗚呼慈侠田中翁之墓という文字は三郎の直筆です。 政治上の不正にも厳しく対応し、星 亨の不正を攻撃、シーメンス事件を弾劾しました。 シーメンス事件は、ドイツのシーメンス社が日本から軍艦や軍需品の受注をしようと、日本海軍の高官に多額のコミッションを支払ったとされる贈収賄事件です。 議会での島田の告発がきっかけとなり、一大疑獄事件へと発展し、時の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込むこととなりました。 島田は正義を口先だけでなく、行動で体現した唯一の政治家でした。 島田の清廉潔白な姿勢は、不正に憤る青年の志気を大いに鼓舞してくれました。 その一方、政界で孤立してしまい、満足な成果を残せませんでした。 1923年11月14日、島田は東京麹町の自宅で静かに息をひきとりました。 享年72才で、その年の1月に発病してから、少しずつ回復へと向かっていたものの、9月1日に起きた関東大震災による避難生活で、ふたたび病床の身となりました。 死因は、気管支炎と肺炎の併発でした。 島田に肩書をつけるならば、何より最初におくべきは政治家となるでしょう。 青山斎場でおこなわれた島田の葬儀でも、数干人におよぶ参列者の中に、内務大臣、司法大臣、陸軍大臣ら現役閣僚をはじめ、憲政会総裁、衆議院議長、衆議院副議長などがいました。 しかし、島田の葬儀を主催したのは、こうした政治家でなく、学者や社会運動家でした。 葬儀の司会をつとめたのは、早稲田大学教授であった内ヶ崎作三郎でした。 まず、ジャーナリストの石川半山が島田の遺文を読みあげました。 つぎに、大正デモクラシーのオピニオンーリーダーであった、東京帝国大学教授の吉野作造が経歴を紹介しました。 それから、救世軍の山室軍平が説教をおこない、早稲田大学教授の安部磯雄が惜別の辞を述べました。 これは、島田の遺志にもとづくものであったようです。 吉野が葬儀で読んだ原稿では、政治家としての島田の一生が総括されていました。 また、内村鑑三が島田の逝去直後に記した日記には、日本唯一人のグラッドストン流の正義本位の政治家との記述があるといいます。 近代人より見れば旧い政治家で、山本権兵衛氏や後藤新平氏とは全く質を異にする政治家でした。 多分島田のような政治家は再び日本に出ないでしょう。 邪を排し曲を直くする点に於て、わが国まれに見る大政治家でした。 吉野と内村がともに島田を、日本で類をみない正義の政治家と表現しました。 こうした亡くなった直後に示された高い評価と裏腹に、島田の名は今日一般にあまり知られていません。 これは、同じ大隈重信門下の三傑たる、尾崎や犬養と比べても歴然です。 尾崎と犬養には、記念館や銅像など、功績を顕彰する施設が複数存在します。 これに対し、島田にまつわるようなものは、ほとんどないといってよいでしょう。 政治家としてのキャリアをみると、島田が尾崎・犬養よりも見劣りすることは否めません。 尾崎は第一次大隈重信内閣で文部大臣、第二次大隈内閣で司法大臣にそれぞれ就任し、東京市長も10年近くつとめています。 犬養は第一次大隈内閣で、尾崎の後任として文部大臣となったのを皮切りに、第二次山本権兵衛内閣、加藤高明内閣でも大臣を歴任し、最終的に、総理大臣の座までのぼりつめています。 これに対し、島田は30年の議員生活で閣僚経験がなく、衆議院議長を一度つとめたにすぎません。 しかし、明治から大正にいたる日本の憲政史を考えるうえで、島田が残した足跡は無視でぎないといいます。 尾崎や犬養と肩を並べる、もしくはそれ以上の存在であり、吉野作造は島田を中心に、日本の憲政史を執筆しようと構想していたといわれるそうです。 これは未完に終わりましたが、公刊されていれば、後世における島田評価も変わっていたかもしれません。 島田は身売りされた娼婦や劣悪な条件で働く労働者、足尾鉱毒事件など、1890年前後より露わとなったさまざまな社会問題の解決に、いち早くとりくんだ政治家でした。 同時代で島田ほど、社会的弱者に広く目を向けた政治家はいないのではないでしょうか。 その意味で、日本で類をみない正義の政治家という、吉野、内村の島田評価は決して誇張ではありません。 さらに島田には、政治家、社会運動家のほか、翻訳家、官僚、新聞記者、歴史家といった多彩な経歴があります。 本書では、先行研究や新たな資料をふまえつつ、あらためて島田三郎の全体像を描き出してゆきたいといいます。はじめに/第1章 立身出世を求めて/第2章 官僚時代/第3章 人生の転機/第4章 初期議会での活躍/第5章 政治家と経営者の二足のわらじ/第6章 政界革新運動のリーダーとして/第7章 苦悩の晩年/参考文献/おわりに/島田三郎略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 島田三郎 判決は国民の輿論に在り ミネルヴァ日本評伝選/武藤秀太郎(著者) 【中古】afb【中古】 日本の歴史的演説/(趣味/教養),大隈重信,島田三郎,尾崎行雄,後藤新平,永井柳太郎,渋沢栄一,田中義一 【中古】afb
2022.06.04
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