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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率30%、曇り、気温は3~16度前後の予報です。 さて今朝は、ツバキ展の中から4~5回に分けて紹介したいと思います。種類がたくさんありましたので、出来るだけ多くの花たちを撮りました。 昨夜、紹介する予定でしたが、できませんでした。したがって、その分のが今朝にまわりました。 日曜日(28日)が展示最終日でしたから、多少、しおれかけたツバキもありました。 今朝も早めに出勤します。
2010/03/31
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おはようございます。今日の我が町の天気予報は、どうなっているでしょうか。いつものようにネットで見てみると、降水確率0%、晴れ、気温は0~11度前後の予報です。昨日は、狐の嫁入り(?)を通り越したように、雪や霰が降るおかしな天気でしたが、今日は晴れマークのみの天気になりそうです。しかし、気温はあまり上がりませんね。 さて今朝は、ほぼ祇園にあると言ってもいいくらいの場所にある崇徳天皇御廟の紹介です。 普通、○○天皇陵と言えば宮内庁がからんでいますが、ここはそうではありませんね。崇徳天皇白峯陵は、香川県の坂出市にありますね。そして、白峰寺へ向う途中の右手に十三重の石塔が、確か2基あったように思います。これは、源頼朝が崇徳上皇の菩提の為に建立したと伝えられていますね。 右の石碑には崇徳天皇御廟、左には崇徳天皇と書いてありましたが、その下にまだ文字があったかもしれませんし、なかったかも・・・扉の隙間(?)から、写してきました。まさか、タタリはないでしょうね。(笑い) 由緒書きを見れば、ONIGAWARAの説明は要りませんね。 今朝から、今週は早い出勤になります。
2010/03/30
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今晩は。あちこちで桜の花が・・・という話やTV放映があります。ONIGAWARAが今日見たTVの中では、京都の円山公園のしだれ桜と平安女学院のしだれ桜がありました。どちらも有名なのですが、特に平安女学院にあるしだれ桜は、豊臣秀吉が醍醐寺で花見をした時の桜とDNAを同じくするものだと言うことですね。そして、どちらも見ごろは今週末ということですから、時間のある方は両方見られたらよろしいかと・・・ というわけで、今夜は上記のいずれでもありませんが、昨日行った宇治植物公園のしだれ桜を紹介します。当園には、確か24種類の桜があったように記憶しています。 以下の2枚は別のもですが、どちらも7~8部咲きという感じです。 今日はまた大変な冷え込みになりましたので、桜もちょっとびっくりだったでしょうね。京都では、雪が降りました。降ったと言っても積もるほどではありませんが、この時期としてはびっくりですね。 宇治植物公園と京都府立植物園でも、来月4日からライトアップが始まります。見ごたえがありそうですから、時間があったら行ってみたいと思っています。
2010/03/29
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おはようございます。今日の天気は、降水確率20%、曇り、気温は3~9度前後の予報です。春の天気は、秋の天気より変わりやすい(?)・・・今春は、かなり変化に富んだ天気ですね。温暖化のせいでしょうかね。 さて今日から、2月に行った京都・八坂神社近くの花街周辺の紹介です。前回も似たようなものでしたが、今日は全く別の場所です。 八坂神社から四条方面に少し歩き、細い路地を入ったところにお茶屋さんが・・・こんなところに来たのは、ONIGAWARAにとっても初めてです。京都風情のあるところとでも言うのでしょうか。 そして、この家並みの外れ近くには、有楽稲荷大明神がありました。この地域は、織田信長の弟である織田有楽斎長益の元屋敷跡と言われています。神社の創建は、大正初期とか。 女紅場は明治5年(1872)、丸太町土手町に女子教育の機関として生まれたのが始まりだそうです。祇園・上七軒・宮川町などの花街にも設立されました。祇園では下京第15区女紅場と呼ばれ、明治14年(1881)八坂女紅場学園となり、それ以降、芸子・舞妓の歌舞音曲・茶道・生け花などの研鑽の場とされました。 3日も休みが続くと、体がナマッてしまいますね。こんな時は、外の空気を吸うことにしているんですが・・・
2010/03/29
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今晩は。今日は、昼頃から小雨が降り出し、それが降ったり止んだりを繰り返していました。現在は、また止んでいます。 今日は、11時頃から近場の宇治植物公園に行ってきました。来年度のボランティアの更新手続きなどをしてきました。 ちょうどツバキ展をやっていましたので、140~150枚ほどデジカメに収めてきました。ついでに温室に足を運んだら、ヒスイカズラが咲き誇っていました。 今夜は、久しぶりにヒスイカズラでもご覧いただくことにしました。 ヒスイカズラは、ONIGAWARA同様に非常にデリケート(?)な花ですから、触ると花が咲かなくなるようですね。毎年、このヒスイカズラを見ていますが、神秘的な色をしていますね。 ツバキ展ではずいぶんたくさんの種類(全部で、200種類くらいあったでしょうか)があり、見事な花を咲かせていました。 時間があれば、また夕方ないしは夜間に紹介しようと思っています。明日もまた、バイトは休みですからのんびりいこうと思います。明日は冷え込むようですから、お風邪を召しませんように気をつけてくださいね。
2010/03/28
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率20%、曇りから雨、気温は5~14度前後の予報です。 昨日は、午後からいつものラウンジで、今年3回目の「懐メロ歌おう会」がありました。参加された11名の方々で、53曲歌いました。やはり会を追うごとに、皆さん上手に(失礼)なっていますね。 私は5曲歌いました。「ああそれなのに」、「勘太郎月夜歌」、「赤城の子守唄」、「啼くな小鳩よ」、「リンゴの唄」でした。これまでの2回では、歌われていなかった曲です。 53曲の中では、「小判鮫の歌」(小畑)、「胸の振子」(霧島)、「夜のプラットホーム」(二葉)は聞いたことはあったものの、歌えませんでした。昭和20年代前半までの歌がほとんどでしたが、これまでと合わせて6~7曲歌えなかった曲があっただけでした。手回しの蓄音機の時代から、祖母のもとで聞いていたんですね。それらの曲が、今でも頭の隅に残っているなんて。勉強したことは忘れても、ましてONIGAWARAが産まれる前からの曲を覚えていたのは不思議ですね。 さて今朝もまた、京都・瑞泉寺から最後の写真紹介になります。今日もバイトは休みですから、ちょっと長編になるかも・・・まあ、10、000字にはならないでしょうけれど、ね。 この中央の人物が、秀次公で31歳のようです。そして下の5人が、殉死者の方々です。見る限り、まだ17歳とか19歳の若者まで・・・ 角倉了以の名前がありますが、以前紹介した高瀬川開削工事や、嵐山にある千光寺紹介の時に出てきましたね。 本堂です。 秀次とその一族の処罰の公式の理由は、「毛利家文書」によれば、”相届かざる子細これあるについて”という不明確なものだったようです。したがって、”相届かざる子細”については、諸説紛々のようでいまだ確固たる定説がないようです。 とは言え、秀次にもそれなりの幾つかの理由があったのは事実です。ONIGAWARAには、第一の理由は秀次の「乱行ぶり」、第二には秀次にも「野望」があったことではないでしょうか。 そして「乱行ぶり」については、太田牛一氏の『太閤さま軍記のうち』や小瀬甫庵氏の『太閤記』をみれば、幾つかの「乱行ぶり」があります。たとえば、鉄砲や弓の稽古という名目で、農民や通行人を射殺したこと。また巡礼往来の人々多数を殺害したことなどが挙げられます。このほかにもいろいろありますが、以下は省略します。また「野望」(秀次はこの当時、関白と言う地位にあった)については、『前野長康言行録』によれば、一つの理由として、秀次が毛利輝元や細川忠興ら19名の大名に、総額1、800枚にのぼる金子を貸し与えていたこと。しかし、ONIGAWARAに言わせれば、この程度のことだけでは、秀吉は何ら問題にしなかったのではないでしょうか。 ところがところが、もう一つ大きな問題が。それは文禄4年7月3日、秀次が金5000枚という高額を朝廷に献上した事実が明るみになったのです。この件では、さすがの秀吉も怒ったのは無理からぬことではなかったでしょうか。 結論を急いでしまいましたが、上記の件の前に、秀吉に実子・秀頼が産まれていたことで、秀吉が秀次(養子)をうとましく思っていたことも事実ではなかったこと思います。 こうした理由が幾つか重なり、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」(たとえが悪いですが)こととなり、高野山に追放され切腹という事態になったのではないでしょうか。 いずれにしても前記のことは、あくまでONIGAWARAの勝手な推理ですから、まともには受け取らないようにしてくださいね。 というわけで、今回で瑞泉寺の紹介は終わります。
2010/03/28
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おはようございます。今日の天気は、降水確率10%、晴れから曇り、気温は0~13度前後の予報です。寒い朝になりました。いつもどおり目覚めたのですが、再度、寝なおししました。起きた時すぐ窓の外を見るのですが、向かいの家の屋根は霜で真っ白でした。 昨夜はバイト先の送別会があり、それに出席しました。ONIGAWARAの方には、支店長・課長3名を含めて50名ほど出席しました。それ以外に、同じ勤務先なのですが、別の部屋で行われた課もありました。今春は、3名の方が栄転します。 いつものことですが、その後は二次会・・・有志で飲んで歌って、いつものラウンジは大盛況。12時前には解散しました。 さて今朝もまた、京都・瑞泉寺からお送りします。 秀次公の墓で、正面の古い石は秀次公の首を納めた「中空の石びつ」で下方に「7月15日」の文字が刻まれているという話です。 この墓域は慶長16年、創建当時のものとされている。 秀次公の墓を中心に、周囲には36名の子女の墓石が並んでいます。 現在でも、いつどこで災難が降りかかるかわからないですが、秀吉の場合は秀次一族全員を抹殺(処刑)してしまいました。まだ、物心つかない子供までですから、むごいですね。
2010/03/27
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おはようございます。今日の天気は、降水確率20%、曇り、気温は2~9度前後の予報です。寒さが、元に戻ってきました。今朝は、桜もちじみこんでいるかもしれませんね。 いつもは門前を通り過ぎていたのですが、今朝は、ゆっくりと拝観できた京都・瑞泉寺からお送りします。 門前の標石にもあるように、豊臣秀次一族のお墓があります。 文字が小さいですが、レンズを用いてご覧ください。 何と読むのでしょうか。 秀吉に実子秀頼が産まれたことにより、秀次に謀反の疑いをかけ、切腹に追い込んだ秀吉・・・残忍な一面があったんですね。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」にたとえられた秀吉・・・しかし、秀次一族全てにその罪が及んだなんて、現在ではとても考えられませんね。食うか食われるか、殺すか殺されるかの世の中なればこそかもしれませんが、それにしてもONIGAWARAに言わせれば、冤罪事件ですね。 そして罪のない秀次の子女・妻妾等39名が処刑されたんですから、恐ろしい世の中であったことは確かですね。合掌! 写真をアップしたら、画面に入らない案内板になってしまいましたね。読みづらく、申し訳ありません。 続きはまた明日に・・・
2010/03/26
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おはようございます。今日の天気は、降水確率50%、雨から曇り、気温は6~10度前後の予報です。昨夜からずっと雨です。今春はよく降りますね。逆に、梅雨の時期に雨が少なかったりして・・・少し早いかもしれませんが、これで夏場の雨不足が解消になるでしょうか。 今朝は、勤王の志士本間精一郎遭難の地と先斗町歌舞練場の写真紹介です。 このような狭い路地の奥まったところにありました。 そして、この刀傷は、岡田以蔵が切りつけた時の刀痕だと言われています。 1枚目の写真の石柱のすぐそばに説明板があり、次のように書いてあります。「文久二年閏八月二十日夜、勤王の志士本間精一郎はここで斬られた。精一郎は越後の人、江戸に出て勉強し、安政の大獄の後京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じた。どの藩にも属さなかったので自由に行動することができ、急進派に属した。しかし急進派の動きは伏見寺田屋の変でくじけ、精一郎はその頃から酒色に身を持ち崩して、同志からも次第に嫌われるようになった。この夜、先斗町で遊んだ帰り道を精一郎は襲われた。この南側の瓢箪路地を木屋町へ逃げようとしたが斬殺された。時に年二十九歳である。 京都市」 そして遺体は高瀬川に捨てられ、翌朝には首級が四条河原に晒されたと言われています。精一郎を斬ったのは、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵ら6名であったとされています。 以下の写真は、四条大橋を渡り終わったところに交番があります。その交番横の細い路地を入っていきます。交番横には、先斗町の案内板が立っています。 あるお茶屋さんのところにも・・・ 以下の写真が、祇園歌舞練場です。 面白い顔の鬼瓦(?)ですね。まあ、飾り物でしょうね。 今朝は、ゆっくり出勤です。
2010/03/25
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おはようございます。今日の天気は、降水確率80%、雨、気温は7~12度前後の予報です。昨日も、ほぼ終日、雨が降っていましたが、今日もまた雨のようですね。今年の春は、雨が多いような気がします。 さて今朝は、四条大橋近くに戻って「北座跡」の紹介です。 この鳩たちは、祇園花街を日向ぼっこしながら、悠々と闊歩しています。全く、人を恐れる気配などありません。餌でもくれないかと、足元まで寄ってきます。 こちらが表面? こちらが裏面? 再び、四条大橋近くまで戻ってきましたが、ONIGAWARAもこのような碑は初めて見ました。 そして、以下の写真ですが、四条大橋から西へ100mほどのところにあった「北座跡」の碑です。 先日、息子が乗っていた車が動かなくなり廃車にしました。そして、昨日中古ですが買うことにし、いつもの業者の所に行き契約してきました。 自動車保険も年末までありましたし、それを継続して使用することに・・・そうなれば、つまりはまた、この中古車もまたONIGAWARA名義。したがって、もうしばらくは子離れできそうにない(?)ONIGAWARAです。 今朝は、別部署のため早めに出勤です。
2010/03/24
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おはようございます。今日の天気は、降水確率80%、曇りから雨、気温は6~12度前後の予報です。今日未明からすでに雨は降っていますが、現在は、ぽつりぽつり状態です。 今朝は、青木木米邸跡の紹介です。 陶匠青木聾米宅蹟と石柱にあります。 木米氏(1767~1833)については、いつものようにネットから借用しました。ご覧ください。 木米の生家は京都祇園にある「木屋」という茶屋でした。祇園という土地柄もあって、その近くには篆刻(てんこく)で名の高い、高芙蓉(こうふよう)という儒学者が住んでいました。高芙蓉は、篆刻や儒学だけでなく書画にも優れ、銅器や玉材(ぎょくざい)、銭貨といった古器の鑑賞もたしなむような人物でした。少年時代の木米は高芙蓉の家で遊び、さまざまな教養を身に付けるとともに、古器を鑑賞する喜びを覚え、そこに出入りする多くの文人や芸術家にかわいがられました。 木米は高芙蓉から篆刻や書画を学び、若くして篆刻家として独り立ちする程の技量を見せ、また南画においても非凡な才能を発揮しました。 しかし木米の文化的な支柱であった高芙蓉は、木米が18才の時に江戸に移り、まもなく病気で他界してしまいました。その後、20代の木米の消息についてはあまりわかっていません。京都を出て、伊勢古市では銅器の鋳造を行って生計を立てていたり、当時流行していた古銭の鑑賞が高じて、自ら鋳造を試みて偽金造りに足を踏みいれそうになったりしていたという記録が残っています。あれこれとクリエイティブな彷徨を続けてきた木米も、29歳の時、父の死を機会に京に戻りました。そして20代の終わりとともに何か一つの方向に道を定めることを考え始めたのです。 「陶説」によって開眼 木米最大の転機は、ある書物によって訪れました。当代きっての風流人である木村蒹葭堂(けんかどう)の蔵書にあった「陶説」という中国の文献を読んだ時、木米は深い感銘を受けたました。そして陶芸こそ自分の生涯の仕事であると心に決めたのです。木米30才の時のことでした。その後蒹葭堂を通して知り合った頴川の元に弟子入りし、わずか5年ほどでその実力が認められるようになりました。そして40才になるころには加賀の前田藩に請われて金沢に窯を築くほどになりました。 その後金沢での活動に見切りをつけ京都へ帰った木米は、さらに文人や画家、風流人などとの交流を広げ、陶芸の技を洗練させていきました。頼山陽(らいさんよう)を始めとした当代屈指の文章や書画の達人たちが木米の交流していた人々でした。彼らは交流を楽しみ、そこからさらにお互いの芸域を広めていきました。 木米の作品はその様式、形状ともに非常に多岐に渡ります。中国系、朝鮮系、唐物、和物と数々の写しを製作しましたが、そこでも彼の非凡な才能が発揮されています。それは木米が若いうちから身に付けた好古癖による深い鑑賞の賜といえるでしょう。また、木米のオリジナル作品は、彼の高い文化人的素養を活かしたもので、彼自身の中国嗜好を反映した煎茶器が数多く作られました。交趾手(こうちで)や、染付、赤絵、青磁、白磁などに見られる洗練された瀟酒(しょうしゃ)な感覚は、これまでの京焼とは別の世界に属するものでした。そんな木米の作品たちを古清水風に飽きてきた人々は歓迎したのです。 昨年12月19日の散策時には、このようにいろんな花が咲いていました。季節が変わってきたのでしょうね。 いつもバイト先に向かう途中で、2軒の大きなお庭を持った家があります。そこのお庭にはたくさんのお花たちが咲いていますが、今はハクモクレンが散り始め、ユキヤナギ、レンギョウ、ツバキ、アセビ(?・・スズランの花に似た小さな花をたくさんつけた木です)などが咲いています。 今日は、年次休暇の消化で休みを取っています。ちょうどボランティアの日でもあり、遅れずに参加できそうですが、雨になれば中止になります。
2010/03/23
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おはようございます。今日の天気は、降水確率0%、晴れから曇り(遅くなって、雨になる可能性も)、気温は1~13度前後の予報です。 今朝は祇園花街界隈から、白川沿いに歩いた写真紹介です。 吉井勇の歌碑ですね。「かにかくに祗園はこひし 寝るときも枕の下を水の流るる」。これは祗園を限りなく愛し、『祗園双紙』『祗園歌集』などの歌集で知られる歌人・吉井勇の有名な歌碑ですね。ちなみにこの碑は、吉井勇の古希を祝って建てられたものだそうですね。 吉井勇は「都をどり」の復興に尽力した人とか。この碑は、谷崎潤一郎や堂本印象、湯川秀樹博士らが発起人となって建てたようです。11月8日には碑の前で「かにかくに祭」が開催されます。 今朝は、区切りのいいところでやめておくことにします。 今朝は一人勤務のため、少し早めに出勤です。
2010/03/21
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今晩は。今日は、黄砂がすごかったですね。日頃、我が家のベランダから見える山々が、全く見えませんでした。それに、洗濯物がとても干せる状態ではありませんでした。そしていっとき、強風とともに雨が降りました。その後は、玄関の扉、窓ガラス、ベランダの手すりなどに黄砂がへばりついて、黄ばんでいました。 さて今夜は、ONIGAWARAの収集物の最後の写真紹介です。 上2枚は比較的新しいものですが、500円前後で、ONIGAWARAの興味を引き、50ページ前後の冊子であれば、大体買ってきます。「鬼」がつくとか、「絵馬」とか興味がありますので、つい買ってしまいますね。ただし、これらは書店では売っていません。 まだ大学生のころ、大津市内の三井寺を訪ねたとき購入した冊子ですが、当時の三井寺の冊子には「傳説の三井寺」と謳ってありました。 そうかと思えば、上掲のような重たい本まで。1冊あたり約7.5kg前後あります。25冊(全集)ですから、ほぼ187kgありますね。こうした本が、自室や天井収納庫にありましたので、階下とカーポートに・・・読みもしない世界文学全集や、昭和日本史・・・など。これで、ずいぶん自室や天井収納庫が軽くなったと思います。一応、我が家は耐震構造になってはいると思いますが、木造なので、少しでも軽くしておかないと地震でもきたら重さに耐えられず崩れ落ちてしまいますね。本は、確かに重たいですね。 今夜は、ONIGAWARAの収集物の最後の写真紹介でした。これら以外にもまだびっくりするほどありますが、後は省略します。
2010/03/21
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おはようございます。今日の天気は、降水確率10%、曇りから雨、気温は5~17度前後の予報です。昨日は、ずいぶん暖かかったですね。予報では最高気温21度でしたから、薄いシャツにセーターで通しました。もっと高かったかもしれません。 ちなみに松山市で27.5度、奈良市で25.9度、松江市で26.4度、大阪の堺市で25.1度を記録したようです。 昨日は、風がけっこう強かったですね。一時、止んではいたんですが、夜間にまた吹き始めました。静岡県では、強風の中で野焼きをやり、尊い3人の命が奪われました。 そして我が家では、昨日は赤ちゃんの検診があり、午後から車を運転し行ってきました。ワイフも一緒でしたが、赤ちゃんにも娘にも特に異常はありませんでした。これまでは、3時間に1度くらいに30~40ccのミルクや母乳を与えていましたが、量的にはもっとあげてもいいようです。それまでにも足りないくらいでしたから、これからたくさん飲んで大きくなるでしょうね。娘の赤ちゃんより1日前に産まれたお子さん(同時間帯に来ていました)は、ちょっと小さめながら弱々しい感じがしました。 ところで、今年は女の赤ちゃんが多いのでしょうか。ベビールームにいた赤ちゃんたちのほとんどが女の子でした。10日に同医院で産まれた赤ちゃんも、1人を除いて女の子ばかりでした。ここの産・婦人科医院は、いつも満室状態ですね。 さて今朝はバイトが休みですから、少し長編になりそう・・・先ず祇園新橋周辺からお送りします。 祇園新橋に向かう途中です・・・と言っても、すでに町の中に入っています。たまたま、修行中のお坊さんが、散策中の皆さん方の後ろを歩いておられました。京都らしい写真になりました。 これが、有名な「たつみばし」です。 反対側から見れば、「巽橋」です。ガイドブックには、必ず出てきますね。また女性の観光客が多いのも目立ちますね。 花街の家並みです。 アップのし過ぎで、却って読みにくくなりましたね。 これが辰巳神社(辰巳大明神)です。これもまた、ガイドブックには必ず載っていますね。そして、京都を舞台にしたドラマにも、必ずと言っていいほど巽橋と辰巳大明神(辰巳神社)が出てきますね。 小さな社です。 ところで、以下に出てくる2枚の写真ですが、何だと思いますか。観光客の皆さんには、知らない方が多いと思います。おそらくは、京都を知る方でも見逃しているかもしれません。ついででしたから、ネットで4~50調べてみましたが、この何の変哲もない石については載っていませんでした。皆さん、おわかりですか。 陰と陽・・・つまりは男と女・・・そのシンボル(?)とでも言うべきもののようです。何やら、花街を象徴しているような感じがしますね。小さな社、そして小さな本殿、その本殿の後ろにあります。 辰巳神社側を流れる白川のほとりに、1輪のサザンカが咲いていました。 最後になってしまいましたが、辰巳神社は、新橋通の花見小路から西、祗園白川のそばに建っています。祗園花街のシンボル的な神社として、芸子さんや舞妓さん、また芸能に関連する人達から芸上達のご利益神社として親しまれていますね。 そして先に紹介した巽橋に棲み、芸子さんや舞妓さんを騙して川を渡らせたりなどの悪戯をしていたタヌキを祀ると言われています。 本来は、京都御所の辰巳(南東)に位置し、辰巳の方角を守る神社だったと言われています。
2010/03/21
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おはようございます。今日の天気は、降水確率10%、晴れから曇り、気温は6~21度前後の予報です。 今朝は日曜日でもないのに、珍しくゆっくりブログに取り組んでいます。というのは、二度寝(?)をしたからです。 まあそれはそれとして、今朝から京都市内に戻ります。まずは、南座のすぐ側にある「仲源寺」からお送りします。 ここは、洛陽三十三観音霊場の第十六番札所です。 仲源寺は浄土宗の寺院で、山号は寿福山と言います。 本尊は地蔵菩薩、創建は防鴨河使(えいかんかわし)勢多判官為兼(ぜいたはんがん ためかね)です。 このお寺は、京阪電車祇園四条駅を下車して、八坂神社方向に行く途中にあります。非公開で観光寺院ではありませんが、境内は自由に散策できます。境内と言っても、本当に狭いところですが、参拝客は多いですね。 行った当日(昨年12月19日)は、住職さんの奥さんがわざわざ出て来られ、特別に本堂などを見せてくれました。有難いですね。この日は、終日、満足しながら散策を続けました。 折角なので、この寺院に関するネットを調べてみましたが、上掲のような本尊など掲載しているところはありませんでした。下から2枚目・3枚目は、したがって初公開かもしれませんね。写真のような、重要文化財の木造千手観音坐像を拝顔できました。感謝・感謝でした。
2010/03/20
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おはようございます。今日の我が町の天気は、どうなっているでしょうか。いつものように、ネットで見てみましょう。それによれば、降水確率0%、晴れ、気温は5~13度前後の予報です。 さて今朝は,枚方市内から最後の写真紹介です。 ニレ科のムクノキです。 意賀美神社境内に、御茶屋御殿跡の案内板がありました。 御茶屋御殿跡の案内板があったすぐ近くに、万年寺山遺跡1号石棺がありました。 京阪枚方市駅方面からの上り口階段です。 ちなみに、京都方面に向かって京阪電車枚方市駅の次に「御殿山駅」があります。 早いブログ登録になりましたが、今朝もゆっくり出勤です。
2010/03/19
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今日は。天気予報どおり、現在、雨が降っています。気温はそれほど上がっていませんが、外もそんなに寒いことはありません。 夕方から雨と思っていましたから、結局は雨が降ってきてしまいました。したがって、外出しないでいます。まあ、孫の顔でもながめながら・・・ということになってしまいましたね。 孫はこれからお風呂に入るようで、娘がその準備をしています。今は、赤ちゃん用のお風呂もいいのがありますね。当時、息子も娘も多少大きなタライの中で入浴させていましたが、なかなか便利な赤ちゃん用のお風呂です。オムツも昔のようなものではなく、使い捨ての紙おむつ・・・何から何まで、浪費に近いものになっていますね。 孫は産まれてから今日で9日になりましたが、よくおっぱいやミルクを飲み、よく寝てくれます。息子も娘もそうでしたが、夜泣きもせず元気に育っています。時々、バカ爺の腕の中でも寝てくれますから、寝顔がかわいいですね。早く目が見えてくれるといいのですが、それでも起きて居る時には、大きく目を開けて頭を左右に動かしたりしています。 さて今日は少し早いですが、ONIGAWARAの収集の仕方について紹介したいと思います。 上掲のように、A4の用紙に切り取ったものを張っています。そして、直接ファイルに綴じられるものは、そのまま綴じ種類別に分けています。 古墳関係(出土品含む)・仏像関係・・・・・というように。ですから、ファイルがどんどん溜まっていきます。 以前にも紹介したかと思いますが、映画を観に行けばその映画のパンフや冊子、美術展に行けば同じくパンフや冊子というように、相も変わらず収集癖は変わっていません。それでも最近、くだらないと思うもの(?)は初めから集めないようにしていますよ。 ちょうど、孫もお風呂入り終わったようで、娘の部屋に戻ったようです。孫は、お風呂好きのようです。我が家のお隣りさんの赤ちゃんは、お風呂が苦手のようで入るたびに泣いていました。現在、1歳半近くになってきましたから、泣き声はあまり聞こえなくなりましたね。 これからの成長が、ますます楽しみになってきました。
2010/03/18
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おはようございます。今日の天気は、降水確率60%、曇りから晴れ、気温は2~13度前後の予報です。 今朝は、枚方市内から万年寺山古墳の紹介です。とは言っても、意賀美(おかみ)神社の境内にありますが、この境内全体が古墳(?)かもしれません。 上掲の写真ですが(門前を通っただけです)、浄土真宗大谷派願生坊(がんしょうぼう)です。 いつものように、ウィキペディアから借用してきましたので、ご覧ください。 「意賀美神社は元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山に鎮座していた。創建の年代は不詳であるが、開化天皇の時代には饒速日命の五世の子孫で物部氏の遠祖である伊香色男の邸宅がこの地にあり、その敷地内に鎮座していたという。高おかみの神(たかおかみのかみ)は水神であり、淀川の鎮守として創建されたものとみられる。延喜式神名帳では小社に列している。旧伊加賀村の氏神として、明治5年(1872年)に村社に列格した。 現鎮座地の万年寺山にあったのは須加神社であった。須加神社は元は牛頭天王社(祇園社)と称し、貞観14年(872年)、流行していた悪疫の終息祈願のため、当地にあった長松山万年寺の開祖・聖宝が牛頭天王を勧請して創建された。万年寺は明治3年に廃仏毀釈により廃寺となった。旧三矢村の氏神として、明治5年に村社に列格した。 日吉神社は岡村の鎮守神で、元は山王大権現と称していた。創建の年代は不詳であるが、一説には淀川の洪水で流れついた日吉大社の神体を祀ったのに始まるとも、最澄(伝教大師)が平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀ったのに始まるとも伝わる。応仁の乱で焼失したが、慶長5年(1600年)に枚方城主・本多政康が再興し、氏神として崇敬した。旧岡村の氏神として、明治5年に村社に列格した。 明治42年(1909年)10月14日、須加神社と日吉神社は意賀美神社に合祀された。境内が狭いため、翌10月15日、万年寺山の元の須加神社境内に遷座した。同年12月、神饌幣帛(ハクorビャク)料供進社に指定された。昭和9年(1934年)、大風害により社殿・社務所が大破し、翌昭和10年に再建された」・・・・・・ということですね。 注:たかおかみのかみ・・・漢字が使えません。 そしてここは、枚方八景の一つです。 案内板の下部分には、以下のように書かれています。 淀川に沿って細長くのびる旧枚方の町並みを東西に分けるかのように、こんもりと緑に包まれて突き出た丘が万年寺山です。この丘の上には、古墳時代はじめに築かれ、銅鏡八面を副葬していた万年寺山古墳がありました。川風にゆらぐ梢のあい間から、摂・丹の山々とむかいあい、豊かな淀川の流れにひろがる平野を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都の中間にあり数々の歴史の舞台になってきました。いい伝えによると、その昔推古天皇の時、高麗の僧恵灌が、この地の風景の勝れているのを愛で、山の木立や川の流れが唐の林岸江に似ているとして、草庵を建てたのが万年寺のはじまりでした。一千年余の法灯を伝え、夕暮を告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令でとりはらわれ、その跡に意賀美神社が遷ってきました。いまも表参道の数多い石段を登りつめた緑陰のなかに、「長松山万年寺」と刻んだ標石や十三重の石塔が苔むしており、往時を偲ばせてくれます。神社の森を北に向かうと、豊臣秀吉の御茶屋御殿跡があり、枚方小学校も、一時この地に建てられました。近年、丘の中ほどに紅梅を中心とした植樹もすすみ、新たな観梅の名所になっています。 今朝は、ゆっくりの出勤です。
2010/03/18
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率10%、曇りから晴れ、気温は1~12度前後の予報です。 今朝は、まだ比較的に新しい「モノ」を紹介します。 上掲の冊子、以前、紹介したような(?)・・・ これは、昨年6月に訪ねた「しょうせいえん」の冊子で、2種類あります。前回、紹介した「モノ(パンフ)」とずいぶん「差」がありますでしょう? 當麻寺(たいまでら)の冊子です。 こちらは、東大寺のものです。 平成に入ると、パンフや冊子もどんどん新しいモノに変わってきています。 冊子はなかなか廃棄しにくいですが、やがては廃棄しなければならなくなりますね。その間に、内容をしっかり覚えておかないとね。
2010/03/17
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おはようございます。今日の天気は、降水確率20%、曇りから晴れ、気温は4~17度前後の予報です。 さて以下の写真は、昨夜掲載するつもりでいましたが、何やかにやでできませんでした。したがって、今朝になりました。 これは娘が中学生の頃、高知で国体がありました。水泳の部で、京都府代表で出場していました。競技を見るため、ワイフと出かけました。その競技を見て、帰りに立ち寄りました。 龍馬歴史館は、蝋人形館だったような・・・ ESSクラブに入っていた時、クラブ員たちで「瀬田の唐橋」を見に行った時に拝観しました。 法隆寺には、拝命した年に行きましたから、昭和48年でしたね。 奈良市の秋篠寺のパンフです。昭和48年10月29日の消印がありますね。この時は、確か研修中でしたから、休みを利用して行ったのかも・・・ これは、数年前にカラオケ旅行の帰りに寄って見てきました。 当時を思い起こすと楽しいですね。 今朝も少し早い出勤です。
2010/03/16
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率40%、曇りから雨、気温は8~21度前後の予報です。 今朝は、枚方宿鍵屋資料館から最後の写真紹介です。 わかりにくいですが、船(模型の三十石船でしょうか)が入っています。ここから、淀川に出入りしていたようですね。 鍵屋の主屋内です。 数日間、掲示物のアップで見飽きたと思います。次回は、どこだったかな。寝屋川市内に入っていたでしょうか。見てからでないとわかりませんね。 今朝は、少し早い出勤です。
2010/03/15
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今晩は。夕方5時8分ころ、東北地方でM6.6の地震がありました。福島県では震度5弱でしたが、TVでの揺れを見ていましたら大きかったですね。まだ被害情報はありませんが、津波などの心配はないのでしょうか。何もなければいいのですが・・・ さて今夜はまた、私の収集癖の一部を紹介します。過去には、ずいぶんいろんなモノを集めていましたが、かさばるもモノはすでに処分しています。 珍しいモノでは、会社の「標章」でしょうか。これは、ノートに貼り付けていました。その他には旅館やホテルの箸置きや箸の包み紙などでした。 今夜は、以下のモノたちです。 城崎の日和山に行ったときのものですね。 万福寺の門前にある、「白雲庵」の普茶料理を食べに行った時のものですね。 この頃、確か「保護司」をしていて、その時の研修旅行が終わった後に行ったのではなかったかと・・・博士課程の時に、ONIGAWARAは、こんなことまでやっていました。多分、当時とすれば一番若い「保護司」さんではなかったのではないでしょうか。当時の法務大臣は、郡裕一氏(字が違っているかもしれません)ではなかったかな。 あだしの念仏寺、大徳寺の塔頭の三玄院を拝観した時のものですね。 あとは、音楽会や美術展他の入場券などです。ミロのビーナス展やミケランジェロ展などもありましたね。 学生時分でしたが、暇があったんでしょうか(?)。とにかく、博物館・美術館にはよく足を運んでいました。 こうした思い出も、やがて廃棄すれば消えていくものです。今更、この年齢になれば必要もありませんから。 今朝、9時半に娘と子供が退院しました。子供は、自分の家だと思っているのでしょうか、お腹が空いたとき以外はよく眠っています。
2010/03/14
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おはようございます。今日の天気は、降水確率0%、晴れ、気温は4~16度前後の予報です。 今朝もまた、枚方宿鍵屋資料館の展示物を紹介します。以下の写真のように、館内の写真を撮らせてもらえるのはうれしいですね。 天野川橋と大名行列の図です。 アップするほどのことはありませんでしたね。 この辺りは七夕伝説のあるところで、天の川はじめ星が丘、星田などの地名があります。 淀川の舟運の掲示物です。 淀川の船の掲示物です。 朝鮮通信使や琉球使節も大船団で淀川を渡ったようですね。 現在の淀川と山並み、府道の景色を撮ってみました。 鍵屋資料館の大広間(と言っていいでしょうか)です。 あと1回分ありますので、明日にでも・・・ 今朝は、9時半までに娘が退院します。以後、しばらくの間、赤ちゃんとともに我が家で生活です。昨日は向こうの両親も来られて、挨拶を交わしました。入院前も入院後も、電話では毎日話していました。面会にはそれぞれ時間帯が違っていましたから、20日ぶりの顔合わせでした。お互いフランクな付き合い、そして何でも包み隠さず話せる間柄ですから、両家とも安心です。今後も娘夫婦は、安心して子育てができるでしょう。まあ、しばらくは、我が家もにぎやかになりそうです。(笑い)
2010/03/14
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今晩は。今日もまた、あまりすっきりしない天気でしたが、まま暖かいだけよかったかもしれません。午前中は細かい雨というか、霧雨といったらいいのか降っていました。 今日はバイトが休みでしたから、9時過ぎにホワイトデーの贈り物を届けにバイト先まで行ってきました。明日も休みなので、今日中に渡そうと出かけました。ついでに、宇治橋の方へも足を延ばして買い物等をしてきました。午後からは、チャイルドシートを業者が車に取り付けてくれました。その足で、明日娘が退院しますのでお礼の品をデパートに買いに・・・そして入院先まで・・・けっこう忙しい1日でした。 今、夕食を済ませ、PC前に座りました。この2~3日、夜のブログをお休みしていました。今夜はベッドに入るまで40分ほどありますから、少し古いモノでも紹介しようかと思います。 これは、私がまだ学生だったころ、祇園祭を見学した時のパンフだったと思います。 同じく、京都・天竜寺の絵葉書です。 静岡県の純金温泉「船原ホテル」のパンフです。ネットで見ましたら、「1983年11月24日に火災を起こし、翌1984年に廃業した超巨大ホテル。1億円の22金製の風呂(有料で入浴するのに2分間1000円かかる)があったことで有名で、敷地面積は東京ドームの1.5倍ほどありました。 廃墟化した後も純金風呂は放置されていた為、盗まれてしまいました。2005年に本館と旧館は解体され、源泉・風呂のあった部分は日帰り入浴施設としてリニューアルオープンしました。」とありました。 これも、多分、静岡に行った時にもらったものかと・・・ これは、倉敷に行った際に購入した絵葉書です。これも、学生時分かと・・・ これも同じだと思います。西方寺(苔寺)の拝観券と同時にいただいたパンフです。現在では、数ヶ月前から予約しないと拝観できません。また現在は拝観料と言う名目ではなく、何と言ったか忘れてしまいましたが、最低でも3000円は納付(?)しないと拝観できません。 東本願寺の別邸・・・「しょうせいえん」のパンフです。現在は、立派な渉成園のパンフに変わっています。大学の2回生の時ではなかったかと・・・昭和39年東京オリンピックがありましたね。その年の夏休みに、外国のお客さんたちをボランティアで案内していました。多分、その時のパンフではないかと思います。現在は全く話せませんが、その当時は少し英会話ができました。 これはいつのものか、忘れました。中味は、絵葉書です。 京都は東山区にある、泉涌寺のパンフです。これも、学生時分に訪れました。当時は、御寺泉涌寺と言っていたんですね。 富山県五箇山の民家の絵葉書です。全て数枚ずつ絵葉書が入っています。いつだったか、黒部市に行った時、買ったものです。多分、学生時分でしょう。 とにかく、学生時分からあちこちよく行きました。春休みや夏休みになれば、親からもらったお金、次兄・参兄からもらったお金で放浪の旅でした。懐かしい思い出ですね。
2010/03/13
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率30%、曇りから晴れ、気温は6~14度前後の予報です。 今朝も昨日に続いて、枚方宿鍵屋資料館の展示物を紹介します。 「枚方宿の運営」に関しての掲示物です。おそらくは、他所の○○宿というのも同様のことが言えるのではないでしょうか。 とは言いましたが、枚方宿は京都・大坂間の「片宿」だったようですね。通行のほとんどが「上り」で、「下り」は京都の伏見から舟運を利用したようです。したがって、財政難で苦慮していた・・・ 聞いたことのない「小南馬・大南馬」・・・「馬」のことなんでしょうが。ネットで調べようとしましたが、ウェブ検索がしにくくなっていて検索できません。 以下は、「枚方宿のにぎわい」についての掲示物です。 枚方宿は、規模の割りに旅籠が多かったようで、江戸時代後期には家の数が約380軒に対して旅籠が約70軒もあったとか。そして、旅人よりも近隣からの遊び客が多く、歓楽街として賑わいをみせていた・・・ アップしても見難い(読み難い)ですが、今まで知らなかったことがよくわかります。この年齢になって、ようやく歴史の面白さというか奥深さがわかってきます。 外国人のみた当時(江戸時代後期)の枚方は、安いお金で酒やお茶が飲め、またいろんな食べ物を食べることができた。大坂からの人が多く、遊楽地として大きな村であった。また枚方は美しかったようですね。 こうしたものをじっくり見ただけで、これからの歴史ウォーク(散策)がさらに楽しくなってきます。暖かくなれば、一人で歩くことも多くなってくるでしょうね。 1週間に1ケ所でもいいから、隅から隅まで見たいものですね。 娘が出産してから、1日1回のブログ更新になっています。午後からは、ほとんど娘の入院先に足を運び、子供に「面会(?)」しています。バカ爺ぶり丸出しです。明日の朝は、退院です。
2010/03/13
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率10%、晴れ、気温は3~16度前後の予報です。 今朝もまた、枚方宿鍵屋資料館から掲示物の紹介です。文字が小さいので、レンズを使用してご覧ください。 枚方宿の通行・・・に関してです。 枚方宿の機構・・・に関してです。 これまで、○○宿と名のつくところを何軒か訪ねましたが、こうして紹介したのは初めてです。またONIGAWARAには、いい勉強になっています。 今日は早い出勤になりますので、写真掲載だけになりました。
2010/03/12
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おはようございます。このところすっきりしない天気が続いていましたが、今日はどうでしょうか。いつものようにネットでみると、降水確率10%、曇りから晴れ、気温は2~11度前後の予報です。 今朝もまた、枚方市内の枚方宿鍵屋資料館からお送りします。 「発掘された枚方宿」の掲示物ですが、以下にアップしたものを掲載しました。ほんの少しだけ読むことができそうですね。 「発掘調査点描」の掲示物です。 資料館には、上掲の写真のような出土品が幾つか展示されていました。 写真のような資料もまた、たくさんありました。 ONIGAWARAも過去に、隣の市に長年勤務していながら一度も訪ねていませんでした。昨年12月18日に訪ねて、本当によかったと思っています。訪ねていなかったら、死ぬまで後悔していたと思います。 上掲の展示物・・・あと何枚かデジカメに収めたのですが、全てと言うわけにはいきませんでした。したがって、できるだけアップして紹介したいと思っています。 ところで、9日の午前中に出産のため入院した娘に、昨日15時過ぎ女の子が生まれました。ONIGAWARAも、とうとうおじいちゃんの仲間入りをしました。比較的楽な出産でした。2920gと、娘が生まれた時の体重とほとんど一緒でした。ちなみに息子が生まれた時は、2960gでした。似てくるものなんでしょうか。母子ともに健康で、異常なしでしたから安心しました。予定日より1週間早めの出産でした。 今朝は、普通どおりの出勤です。そしてワイフは、バレーボールの試合のため8時過ぎには出かけるでしょう。設備が最新の病院であると同時に、看護士さんが一人の入院者に一人の割合でついているようですから、安心できます。
2010/03/11
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おはようございます。今日の我が町の天気は、いかがでしょうか。降水確率50%、曇りから雨、気温は4~9度前後の予報です。昨日からの雨は、現在も降っています。この状態では、今日も終日、雨かもしれませんね。 さて今朝は、枚方宿鍵屋資料館からお送りします。 市立枚方宿鍵屋資料館が正しい名称ですね。何度も目にしていた建物でしたが、入るのは初めてでした。 以下に、展示物の中から1枚を選び、試みにアップしてみました。 「享保の象」という掲示物です。 徳川吉宗が注文した象が、はるばる江戸まで行く途中でこの枚方宿に1泊したんですね。 象小屋までわざわざ作らせた他に、道中での注意事項まで・・・すごいですね。 アップしてみると、けっこう面白いですね。散策時にはとても読んでいられませんから、こうしてみると中味が濃い(?)ではないですか。 鍵屋資料館にある掲示物を、こうして紹介するのもいいですね。けっこうたくさんデジカメに収めていますので、楽しいかも・・・ 今朝は、昨日よりも早め出勤です。
2010/03/10
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今晩は。今日は、寒いですね。天気予報では雪マークがついていましたが、雪ではなしに冷たい雨が降ったり止んだりしています。夜半になったら、雪かも・・・ 10時過ぎ、娘が出産のため入院しました。ちょうどバイトから帰ってきたら、娘も検診から帰ってきたところで、「すぐ入院だ」と言われたとのこと。すでに入院の準備はしていましたから、ワイフと送って行きました。病室と言うのか、部屋に入ったらホテル並み・・・驚かされました。今思えば、息子や娘が生まれたところは四国・高松の病院でしたから、その当時の病院は汚かったですね。それに比べれば、雲泥の差です。 さて今夜も、懐かしい思い出の一品を紹介したいと思います。昨日紹介した「思い出」よりは、さらに古いものです。 茨城県水戸市内にある偕楽園の中にある好文亭です。 そして、その入場券(拝観券)です。好文亭については、以下のHPを検索していただくと、中の様子などがよくわかります。 http://www.kairakuen.u-888.com/kobuntei/index.html ここ好文亭を訪ねたのは、昭和39年の今時分ではなかったかと思います。つまり、大学の一回生の終りころで、帰省途中、東京に寄ったついでに少し足を延ばした記憶があります。 これはまた、懐かしいパンフでしょう? これも、大学一回生(昭和38年)の夏休みのころ、輪島から電車に乗り換え、曽々木海岸近くのお寺さんで合宿した時のものです。ここには、2年連続で行きました。 そして、合宿中の時間を利用して上時国家・下時国家を訪ねました。その時のパンフです。合宿は1週間・・・この1週間は、日本語では会話できません。起床から就寝まで(寝言まで)は、すべて英会話です。ESSクラブに入りましたから、合宿中は厳しかったですね。日本語を一言でも口に出してしまったら、10円の罰金でした。(笑い) 上時国家・下時国家に関しては、こちらのHPをご覧ください。簡潔に書かれています。 http://www.hot-ishikawa.jp/page/yoshitsune/yukari/tokikunike.html その帰りに買った「奥能登全集」の絵葉書です。(仏ケ浦の絵葉書ですが、これはずっと後の話になります。ここは、下北半島になりますね。奇岩がたくさん・・・) 上2枚のパンフも、その時のものだったか・・・この辺には、奉職してから職員旅行で行っています。 これらは、ほんの一部ですね。 ONIGAWARAは手紙(葉書)をほとんど書きませんから、記念の便箋・封筒・絵葉書等を買っても宝の持ち腐れですね。(笑い)
2010/03/09
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率90%、ダルママークが付いていると言うことは雪? 気温は5~7度前後と低い予想です。 今朝もまた、大阪府枚方市内からです。 枚方宿本陣跡ですが、工事用のネットフェンスが張られていました。現在は、公園になっているようですね。 寺内町(じないまち)という町名は、よくありますね。 浄念寺ですが、通りすがりに写しました。 昔、交野市内に勤務していたころは、この辺によく車で来ていました。でも、現在のように歴史散策など考えもしていませんでしたね。明日は、「枚方宿鍵屋資料館」からお送りします。 今朝は、3時過ぎに目覚めてしまいました。少し早いですが、いつものように中味のないブログ(雪の1日になるため?)でした。 今朝は、5時には出勤です。これからしばらくは、5時までに出勤の日が続きそうです。
2010/03/09
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今晩は。今日は雨にはならなかったものの、決していい天気というわけではありませんでした。寒いと感じた方が多かったのではないかと思います。 午後から、天井収納庫の整理かたがた、廃棄でもしようと思うものを自室に下ろしていました。引越し用段ボール箱に1個分はあろうかと思われるほど、あちこちに行った時のパンフや写真などが出てきました。 これからそうしたものの中から、いろいろと「歴史」でも振り返ってみようか、なんて思ったりも・・・ 先ず最初に、以下の写真です。皆さんよくご存知の「宇治平等院」です。ONIGAWARAが初めて宇治平等院を訪れたのは、昭和49年3月3日だったと思います。なぜわかるかと言えば、当日の電車の切符の半券みたいなのが一緒に出てきました。 拝観券と同時に、電車の切符の半券が出てきました。そして、その時の記念に買ったものが、写真のものです。 現在、鳳凰堂のこうした雲中供養菩薩の写真が買えるかどうか。 そして、便箋と封筒です。 昭和49年と言えば、公務員として奉職しながらまだ大学院にも通っていた時ですから、ONIGAWARAの歴史を振り返るいいチャンスかもしれませんね。 昭和38年3月17日は、京都駅に降り立った日です。それから数えて11年・・・初めて宇治平等院を訪ねたのでしょうね。当時のカメラはデジカメではありませんでしたから、写真はどこかの隅っこにでもあるのでしょうか。 いずれにしても、学部の時から合宿やら帰省の途中であちこち行っていましたから、地元のパンフや写真が揃って出てきました。またそれまでにも京都市内の有名寺院は訪ねていましたから、当時の古い拝観券やパンフ・写真もありました。 お花の写真などない時に、数枚ずつでも紹介していこうと思っています。 宇治平等院については、以下のHPを検索していただくと、すばらしい画像等がご覧いただけます。 http://www.byodoin.or.jp/
2010/03/08
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おはようございます。今日は、どのような天気予報になっているでしょうか。我が町は、降水確率10%、曇りから晴れ、気温は4~10度前後の予想ですね。 さて今朝は、枚方市内にある「淀川資料館」からの写真紹介です。 太閤堤について、URLで試みましたが、接続できませんでした。したがって、以下にアクセスしていただければ、上掲の写真にもある「内容」が確認できると思います。結構長いですが、興味深いかと・・・ http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_02_10.htm 今朝は、一人勤務です。少し早めに出かけます。
2010/03/08
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今晩は。今日は、1日中雨が降っていました。こんな日は、つい足が出にくくなり、家の中で雑用でもしようかという気持ちになります。 したがって先ほどまで、娘の部屋の整理整頓をしていました。娘が嫁いでから、ONIGAWARAの荷物が部屋半分を使用していました。このたび、出産に伴い里帰りしますので部屋を少しだけ整理したというわけです。 夕飯まであと15~20分ほどありますので、ブログで遊ぶことに・・・今夜は、ひょうたん展から最後の写真紹介です。 この作品が、最優秀賞でした。 ひょうたんに「絵を描く」のも大変だろうと思いますが、「彫る」のはもっと大変でしょうね。 絵画にしても、彫刻にしても、ONIGAWARAは鑑賞するのは大好きなんですが、作成するのは大の苦手です。 ここまできたところで、夕飯になりました。終わることにします。
2010/03/07
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おはようございます。昨夜から現在も、ずっと雨が降っています。今日の天気予報では、やはり曇りから雨になっています。気温もあまり上がらず、5~9度前後の予想ですね。 さて今朝は、枚方宿のいろいろな道標でも紹介します。 右は、左は・・・と行く先を表示しています。このような道標を、歩いている途中でたくさん見かけました。 文政9年・・・と刻まれていますね。 そしてさらには、大坂商人の名前まで刻まれています。 この付近は、枚方陣屋があった場所らしいですね。次回からは、淀川資料館や枚方宿鍵屋資料館などを紹介します。 今日は雨の1日に・・・
2010/03/07
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今晩は。今日は、何やらうっとうしい天気でした。早くも週末、いろいろ計画立てていながら、少しさぼりがちになっています。今のところは、ブログ登録とバイトだけが順調に進んでいる状況です。年齢を重ねれば、細かい計画はほどほどにして、大雑把にした方がよさそうです。この半ばからは、予定を大幅に変更しながら再度検討して実行していこうと思っています。 ONIGAWARAの予定なんて大したことはありません。取り敢えずはバイト、歴史ウォーク、カラオケ、植物公園訪問、ボランティアを主体として、空いたところにハングル語の勉強と読書(最近は、週刊誌以外のものにはあまり目を通していません。)を入れることに。ボケないように、少しは頭を使わないと・・・・・このほかにもやりたいことがいっぱいありますが、適度にこなしていくことにしないとね。 さて今夜は、ひょうたん展から面白い写真を紹介します。 ひょうたんに興味のある人には、もってこいの作品ですね。ずいぶん手が入っていますね。ONIGAWARAには興味があっても、とてもできっこありません。 今年は、意外と少ない展示になりました。 そして昨日から、宇治植物公園では、春らん展が始まっているのではないかと思います。多分、明日までではなかったかと思います。時間があれば、行ってみたいですね。
2010/03/06
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おはようございます。今日の我が町の天気は、どうなっているでしょうか。いつものようにネットを検索してみましょう。それによれば、降水確率50%、雨から曇り、気温は7~12度前後の予想です。現在、そう強くはないのですが、雨が降っています。これは、昨夜来から続いています。 さて今朝は、大阪府枚方(ひらかた)市内からお送りします。 京阪電車枚方市駅の案内板です。東海道枚方宿案内図とあります。ここは、元枚方宿だったようですね。 ご案内の方の説明を要約して書きとめればよかったのですが、時間の都合でウィキペディアから借用してきました。ちょっと長いですが、ご納得いただけるかと・・・ 文禄5年(1596年)に発せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が、大坂京橋から京都伏見へ向かう京街道(大坂街道)として用いられるようになった。 「宿人馬継合で困窮いたし、人馬役のもの多分に宿方退散し、継合に差支、此段、寺沢藤右衛門へ申出、追って退散のもの帰住致す」(天正年間(1573年~1591年)頃)という記録により、この頃には既に宿場としての起源が有った事が伺える。 慶長6年(1601年)、徳川家康がこの京街道を東海道の延伸部とし、伏見、淀、守口の宿場と共に東海道枚方宿として定めた。 「東海道は品川宿より守口宿」(幕府道中奉行所御勘定 谷金十郎、宝暦8年(1758年))や「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答、寛政元年(1789年)という記録により、この頃には枚方宿が東海道の一部であった事が伺える。 ほぼ京都と大坂の中間に位置する交通の要衝であり、陸の街道だけでなく、街道とほぼ平行して流れる淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄した。 参勤交代の際には親藩や譜代など徳川家に縁故の大名が枚方宿で休泊した。中でも御三家のひとつ紀州徳川家の大名行列は、その格式と威光を感じさせる大行列であったため、多くの農民が見物に訪れるほどだったという。史料によれば、その行列規模は御三家筆頭尾張徳川家(66万石)、外様大名筆頭加賀前田家(103万石)をも凌ぐものだったとされる。天保12年(1841年)、紀州徳川家11代藩主徳川斉順の参勤交代では武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁し、準備のために七里飛脚や家臣が藩主が到着する数ヶ月前から来宿したという。 明治時代になり蒸気船の登場、鉄道の開通(明治6年(1876年)東海道本線(JR京都線)、明治43年(1910年)京阪電車)が相次ぎ、淀川水運が衰退した事により急速に衰退した。 小野平右衛門家です。旧枚方宿問屋役人をしていたようですね。 これは? 現代風のお寺さんです。渓行寺と言います。由来等は、わかりません。通りすがりに写しました・・・ 東見附です。枚方宿の東端になります。側には、旧鶴橋西詰跡の碑がありました。後は、以下に掲載する案内板をご覧ください。 今朝は、早めの出勤になりますので、この辺で終わらせていただきます。今朝は、久しぶりに雨合羽でも着ていこうかと思います。自転車に乗り、傘をさせば道交法違反になりますからね。
2010/03/06
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今晩は。3時半ころから、娘を八幡市内まで送ってきました。出産に対する検診が2日に一度になり、段々あわただしくなってきました。とは言っても、我が家はいたってのんびりムードです。娘は、日曜日には戻ってくるようですが、彼氏の方がこれから大変かと・・・転勤と重なってしまいましたから、ちょっとしんどいでしょうね。 ONIGAWARAもワイフが出産の時は、長い間大変(?)でした。ワイフは、ずいぶん長い間実家に帰っていましたから、ほぼ7~8ケ月は一人暮らしでしたね。末っ子でしたから、向こうのお母さん方がなかなか帰れとは言わなかったようで、それにワイフが甘えていたようです。まあ、その間は真面目に勤務先とアパート間の往復だけでした。 どんな部署に配置されても文句一つ言わずでしたから、とにかく何でも屋でしたね。専門は違えど、用度・会計・文書・分類・国有財産関係等々何でもやりましたね。偉いさんは、そのおかげでずいぶん楽したと思いますよ。2~3ケ月もあればすべてマスターしていましたから、偉いさんはのんびりとハンコを押していたに違いありません。 それはそれとして過ぎ去ったことは、いい思い出としてしまっておきましょう。そこで今夜の出し物ですが、「ひょうたん展」から幾つか紹介しましょう。 どれをとっても、見事の一言ですね。丹精込めて作ったんでしょうね。それにしても、ひょうたんの大小はじめ、形もいろいろですね。それをうまく活用しての作品ですから、ずいぶん手間隙もかかっていることでしょうね。 ONIGAWARAは、このように「モノ」を作ることは苦手です。プラモデルの組み立てさえも、苦手です。ところが、逆に何でも分解することは大好きで、どんなに細かいものでも一つひとつの部品に分解してしまいます。変わっているのでしょうね。それこそ、見事に分解してしまいます。ところがところがです。それを組み立てることができないのです。なぜなんでしょうね。仕事は何でもこなしたはずなんですが、このような「工作」とでも言うのが苦手なんですね。専門は文学研究科(哲学)でしたから、仕方ありませんか。(笑い)
2010/03/05
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おはようございます。今日の我が町の天気は、降水確率0%、晴れから雨、気温は10~17度前後の予想です。昨夜は、音もなくしとしと雨が降っていたようですね。地面がまだ濡れています。 今朝は、現地時間1時過ぎに、南太平洋の島しょ国バヌアツ沖で、M6.4の地震が発生したようです。津波情報は、まだ入っていませんね。 さてと今朝は、大悲閣千光寺を後にして、というよりも元の場所に戻って来たという訳です。本当はモンキーセンターに最初に行くつもりが、時間の関係で千光寺に先に行ったのです。 そんなわけで、モンキーセンターが後になった・・・ モンキーセンターの上り口のところに、櫟谷宗像神社がありましたので、本殿と案内板だけ紹介しておきましょう。 そして今度は、ここから20分ほどかけてモンキーセンターのある山上まで・・・千光寺の上り坂も大変でしたが、ここも超汗だくになりました。それでも、どちらの上り坂もONIGAWARAが先頭に立っていました。参加者に、健脚を見せた格好になりましたね。(笑い) とりあえず、山上から京都市内をパチリ・・・左から右方向ですが、北区・中京区・南区あたりが写っているでしょうか。 お猿さんと目を合わせないようにすれば、人を襲ったりしませんから安心です。中に、何匹か小猿がいましたが、かわいかったですね。休憩する場所があり、そこから小猿たちに餌(果物など)を買って与えました。この休憩所の中からでは、人間様が檻の中でしたね。猿の目には、どのようにうつっていたのでしょうか。(笑い) ONIGAWARAが、野生の猿に触れるのは初めての体験でした。まして京都市内に、動物園以外にモンキーセンターがあったことさえ知りませんでしたから。 ところで今回で、嵐山周辺を終わります。次回は、どこになるでしょうか。ここまでは、昨年12月14日までの分でした。したがって、次回からは12月18日に行った、大阪府枚方市・寝屋川市周辺からお送りすることになります。
2010/03/05
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今日は。 天気予報どおり、雨が降っています。もう少ししたら、ワイフを伏見港体育館まで送って行くことになっています。午後から、ワイフはバレーボールの練習です。3つもクラブに入っていますので、ほぼ毎日のお出かけになります。この他にバドミントンクラブにも入っていますから、ONIGAWARAよりも忙しいスケジュールです。 お出かけ前に・・・ というわけで、今朝の続きで千光寺紹介です。これで、千光寺からは終りになります。写真はばらばら掲載です。上り口とは別に、反対方向から下りましたので、こんな感じになってしまいました。 写真の中に見える列車は、トロッコ列車です。 向こうに見える橋は、渡月橋です。 観光船なのでしょうが、お客は見えませんでした。 現在の千光寺には、本堂がありません。浄財を募り、再建計画があるようですね。 そろそろ出かけます。運転手役を仰せつかっていますので・・・
2010/03/04
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おはようございます。今日の天気は、降水確率80%、雨、気温は4~11度前後の予想です。現在はまだ降っていませんが、バイトから帰る頃には雨になっているでしょうか。 これまでにも紹介していますが、大悲閣千光寺境内から、京都市内(北区あたり)がよく見えます。山上からの景色などを撮ってみました。ですが、アップ写真ながらあまりよく撮れていません。 北区にある双ケ丘ではなかったかと・・・(違っているかも) 以下に、千光寺の部屋にあった額などです。 五省が書かれています・・・このように書かれたものが、部屋にはたくさんありました。そのうちのコピーを何枚かいただいてきました。 どんな方なんでしょうか。ONIGAWARAには、わかりません。 角倉了以父子の位牌と、徳川家康(?)のモノらしいのですが・・・ 山上は、暗くなりかけてきていました。 けっこう急な坂でしたから、汗びっしょりになりました。次回は、千光寺からは最後になります。帰りがけに撮った風景などです。
2010/03/04
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今晩は。今日は、少し寝不足でした。バイトから帰って昼食を済ませた途端、睡魔が襲ってきました。睡魔に襲われることは普通のことでしょうが、今日はバイトでちょっと焦りが出ました。せっかく「出したもの」が、「取り戻し」・・・ということで、900個弱の中から2個も見つけなければならず、大苦戦しました。 見つかりましたのでほっとしましたが、今度はいつものように時間的な余裕が持てず、それで少し焦りながら片付けました。その精神的な疲れがあったのかもしれません。外出したかったのですが、寝不足を解消することを第一にしました。2時間弱昼寝をしたので、現在はすっきりしています。このブログの前に、30分ほどゲームで頭の体操をしました。したがって、頭の回転も元に戻っています。 5時半を回りました。今日の写真紹介は、何でしょうか。府立植物園の温室から、きれいなお花たちを紹介しましょう。 これが、元日から紹介して1、000枚目の写真になります。 これらの花たちは、どこの植物園の温室でも見られますね。たまたま行った2月5日、ラン展をしていましたので、急ぎ写しました。他の花たちをじっくり見ていたため、閉園の4時半までに10分も残っていませんでした。ここでも「焦り」ながら撮ったので、それほどの枚数は撮れないまま、園を後にしました。 府立植物園のお花たちの写真が、残り少なくなりました。終われば、「ひょうたん展」に移ることにします。
2010/03/03
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おはようございます。今日の天気は、降水確率0%、晴れから曇り、気温は6~13度前後の予想です。 さて今朝は、大悲閣千光寺の本尊様たちです。 これが角倉了以翁の木像です。 京都・高瀬川も開削していましたね。 ここのお寺さんでは、写真を撮らせていただきました。 いつものように、ネットから借りてきました。 「大悲閣は、慶長19年(1614)、保津峡を開削した角倉了以が、清涼寺(嵯峨釈迦堂)近くにあった千光寺を現在地に移し、保津川の開削工事で亡くなった人とその関係者の菩提を弔うために二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に講じて建立したもの。 大悲閣へは、大堰川(桂川)に架かる渡月橋右岸、車両進入禁止となっている川べりの道を溯る。幾つかの茶店を通り越すと、嵐山温泉嵐峡館の入り口で、その直ぐ左手に大悲閣(千光寺)への石段がある。ここまで、渡月橋から1キロ弱の距離。ここからつづら折れの石段を登ることになる。途中、大悲閣を訪れた松尾芭蕉が「花の山 二町のぼれば大悲閣」と詠んだ句碑が建つ。また、近年では夏目漱石も訪れていて、小説「門」でその時の様子を書いている。」 ・・・・・ 「角倉了以(すみのくらりょうい)(1554~1614) :安土桃山・江戸初期の豪商。 角倉了以は京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉つまり質屋も営んでいた。了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、医業は弟に譲り自分は土倉経営を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と貿易して莫大な富を得たようだ。 家康が江戸幕府を開いて3年後に、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。そして、開削を始めて6カ月後には竣工させている。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったと言われる。史料「前橋旧蔵聞書・六」等々によると、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されている。 材木は筏で運送され、険しい山道を人馬で物資を搬送していた頃に比べれば、その利便は格段の差を生じた事が伺える。角倉家は、莫大な資金を投じて開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられる。通船の技術導入に当たっては、行舟術にすぐれた舟夫18人を了以が嵯峨に招いて、新しい水運への対応をした。舟夫の止宿先は嵯峨の弘源寺で、後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。そこには今でも角倉の地名が残っている。(現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたり)。他にも了以が行った通船のための河川疎通事業としては、富士川・天龍川・高瀬川等の開削がある。 中でも、了以の名が今日にまで残る事になったのは、晩年に開削した同じ京都の高瀬川の開削である。方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられていた了以は、淀川の上流で調達した木材を筏にくみ、使用許可を取っていた鴨川を遡って京の三条まで運び込んだ。この時、鴨川を遡る事が難しいことを知った了以は、京と伏見の間に運河を造る事を考え、高瀬川の開削計画を立てたと言われる。工事は三次に分けて行われた。第一次は慶長16年(1611)から開始され、慶長19年に完成した。水がいつも濁らぬよう、樋門や汚水抜きの溝なども配置してあり、この計画が非常に優秀なものであった事がわかる。了以は商人としても偉大だったが、土木技師としても優れていたのだ。高瀬川開発には、了以の息子素庵(そあん)も協力した。 開発には7万5千両(今のお金に換算すれば、約150億円)を費やしたとされるが、了以は運河航行には通行料を徴収しており、当時の通行料は、幕府納入金1貫文、舟の維持費250文、角倉家手間賃1貫250文となっていて、一回の船賃が合計2貫500文となり、こ れから計算すると、角倉家に年々納められる金額は1万両を超えたと思われ、その経済的利益は莫大であったことがわかる。勿論通航費を支払っても、人馬で物資を運ぶより採算性がすぐれていたから、江戸年間を通じて利用された続けた事は言うまでもない。 了以は、高瀬川の完成を見届けたかのように、竣工した慶長19年7月17日、61才の生涯を閉じている。京都洛西の「二尊院」に角倉了以の墓がある。」 続きはまた明日に。
2010/03/03
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今晩は。今日は、決していい天気と言うわけでありませんでした。晴れたのは、ほんのわずかな時間だけで、後は曇りだったからです。 昼前に娘の検診があり、赤ちゃんは順調に育っているようです。3時半過ぎに、嫁ぎ先の八幡市まで送って行ってきました。彼氏の家は、両親の家とは隣同士ながら1戸建てですから、お互いあまり気を使わなくていいそうです。 出産予定日まであと2週間と迫ってきましたから、日曜日にはこちらの方に帰るということです。それはいいとしても、彼氏の転勤が10日付けで木津川市になるようで、12日には新勤務地に赴任するようです。自宅から通えるところですから、まだ安心です。 さて今夜は、以下の花たちです。 ところで1番下の写真は、今年の元旦に1枚目を登録してから、999枚目になります。したがって、1日に約16枚掲載する計算になります。(ただし正確には、明日の朝の登録分まで含まれていて、たまたま、フォト登録段階でこちらの花が999枚目になってしまったというわけです。) 今日は、自室の整理中に珍しい代物が出てきました。はっきり覚えていませんが、多分、大学の1回生ころだと思いますが、「筆書き」のものが出てきました。ある文の一部分ですが、筆で書いたのはこれが初めてで最後だったと思います。下手くそ丸出しです。どうして、筆でそんなモノを書いたのかさえ覚えていませんが、文字は確かにONIGAWARAが書いたものです。 畿内のあちこちの寺社の拝観券や、旅行先での入場券やパンフ・写真等、また花博などでの入場券などに混じっていました。収集癖のあるONIGAWARAでしたから、そんなものまで大切に残していたんですね。大げさですが、京都に来てからのONIGAWARAの「歴史(?)」を語ることができるかもしれませんね。近いうち、その一部を紹介したいと思います。ONIGAWARAが京都に来た頃に、暇に任せて歩き回った時のものですね。 それらのものは、やがてシュレッダーにかけるか、廃棄する予定です。親のすねをかじりながら休みで帰省する際、途中下車をしながらあちこち見て回っていたんですね。水戸の偕楽園(好文亭)の拝観券も混じっていました。笑い種になりますね。
2010/03/02
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おはようございます。今日の天気は、降水確率10%、晴れから雨(昨日と同じ天気のようです)、気温は8~15度前後の予想ですね。 今朝は、いよいよ大悲閣千光寺に到着します。 上掲のような景色を見ながら、いざ、千光寺です。 「嵐気動く 奥は蝉声 晴れてあり」 以下からがまた大変です。上り坂です。10~15分かかるでしょうか。 これが、門です。お寺の門とちょっと違っているでしょう? 門のところから、上ってきたところを写しました。 上りきって、遠くの山々を見ると・・・こんな感じでした。 夢窓国師の座禅石とか。 ここに上って来るまで、お寺さんがここにあったことは知りませんでした。渡月橋を渡り反対方向には、幾つかあるのは知っていましたが・・・ 明日は、本尊等を紹介します。
2010/03/02
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今晩は。3時頃から雨になりました。ひどい降り方ではありませんが、それに伴い冷え込んできました。 今日は朝早くからワイフがバレーボールに出かけ、ちょうど雨が降り始めたころ帰宅しました。帰宅したらすぐ汗を流してもらうため、浴槽に湯を張り入ってもらいました。今日は出席した人数が少なかったようで、相当、動き回った様子です。したがって、ずいぶん疲れた感じです。風呂から上がったらすぐフネをこいでいましたが、今、夕食の準備に取り掛かりました。代わって、ONIGAWARAが夕食の準備をしてもいいのですが、自分から始めましたからブログに取り掛かりました。 先週土曜日は、第二回目の「懐メロ歌おう会」でした。参加者は前回より1名増えて、12名でした。13時から17時まで、全員で60曲歌いました。さすが懐メロ好きの方々ばかりで、前回歌った歌は誰も歌っていませんでした。大体が、昭和15年までに流行った曲でしたね。ONIGAWARAもさすがです、けっこう古い曲でしたよ。生まれる前の歌ながら、楽しい時間を過ごしました。 さて今夜のお花たちですが・・・ 見慣れた花たちばかりですが、京都府立植物園の温室で咲いていました。2月5日に撮ったものです。もう1~2回くらい紹介できるでしょうか。これが終われば、昨日行った「ひょうたん展」を紹介します。昨日、我が家にも「小海老草」が仲間入りしました。ベロペネロという四季咲性品種です。 それから、17日間のバンクーバー冬季五輪が閉幕しましたね。日本のメダルは5個に終わってしまいましたが、それなりの感動を与えてくれました。次回は、ロシアのソチですね。 最後に、チリの大地震による被害報告が段々聞かれるようになってきましたが、津波が襲った沿岸部の町だけで、約350人もの尊い命が失われたようですね。夕刊によれば、同国で708名の犠牲者がでたとか・・・またさらに、その数が増える可能性があるという情報ですね。 日本では、津波の影響で岩手県で養殖いかだなどが流され、億単位の被害になるようですね。日本近海の地震による津波であればまだしも、遠く南米チリで起こった地震による津波ですから、改めて津波の恐ろしさがわかりましたね。 それではまた。
2010/03/01
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おはようございます。今日から3月。早いですね。いつものように、我が町の天気から調べてみましょう。ネットからみると、降水確率が40%。晴れから雨で、気温は5~19度前後の予想です。 さて今朝は、天竜寺の各塔頭を後にして、渡月橋方面に向かう途中で撮った嵐山羅漢像の紹介です。 この羅漢像は、約60体あるそうです。 以下の写真は、渡月橋を渡る途中で撮ったものと、渡ってから撮ったものです。 そして、上掲の写真は、大悲閣千光寺に向かう途中で撮った大堰川から保津川あたりの写真です。 続きはまた明日に・・・そして千光寺の後は、モンキーセンターへと続きます。
2010/03/01
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