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科研費への応募だの、採用人事のとりまとめだの、来年度時間割編成だの、公私にわたって目の回るような10月を過したワタクシ。ここへきてようやく、一息つける週末となりました。 ということで、今日は仕事とか勉強とかは一切手を付けず、一日、だらだらと遊ぶことに。 で、昼食後、読みかけの『古本ツアー・イン・ジャパン』を読み進めていたのですけれど、日本全国の古書店の話を読んでいるうちに、私も久しぶりに古本屋さんに行ってみたくなりまして。それで以前読んだ『なごや古本屋案内』(風媒社)の中に、比較的自宅に近いところにある古書店のことが紹介されていたことを思い出し、ちょいとクルマを飛ばして、そこに行ってみることにしました。 向かったのは、植田と塩釜口の中間くらいにある「イマジンスペース真理」というお店です。 さて、3台分ほどある駐車場にクルマを停めて、まずは店外のラックから。店外のラックというのは、いわば店内で売れ残った本を格安で放出する場であるわけですが、ある意味、通りすがりの客の足を止めるための「撒き餌」でもあるわけで、この格安本の中に魅力的な本を潜ませておくことが、出来る古書店の常套手段なんですな。ですから、このラックでまず欲しい本があると、「むむ、おぬし出来るな・・・」ということになるわけですが・・・ ここで3冊ゲット!○Margaret Mead, Sex and Temperament in Three Primitive Societies 100円○西丸震哉『山小屋造った ネコも来た!』 50円○林真理子『野心のすすめ』 50円 林真理子の話題の本、美本で50円なら買うでしょ。 200円で3冊ゲットしたワタクシは、いよいよ店内へ攻め入ります。 で、店の中に入ってみると、これがまた本のジャングルのようで、棚に収まりきらなくなった古書が床から積み上げられて山をなし、その古本の山がそこここに重なり合って山脈のごとし。本の量からいうと、相当見応えがありそうです。 で、この古本山脈の谷間を小1時間ほども経巡った挙句、以下のような本をゲット!○亀井俊介『ピューリタンの末裔たち』600円○山本容子『わたしの美術遊園地』300円○サミー・デイヴィス・ジュニア『ハリウッドをカバンにつめて』300円○四方田犬彦『四方田犬彦の引っ越し人生』300円○林望『帰らぬ日遠い昔』100円○桜庭一樹『少年になり、本を買うのだ』200円 以上、全8冊の購入でちょうど2000円なり。選び出した本の質からすると、相当な収穫だったのではないでしょうか。 ということで、古本の神さまは、このところ働き過ぎだった私に、ちょっぴりご褒美を下さったのでありました、とさ。さてさて、どれから読み始めますか・・・。
October 31, 2014
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今朝、某Y新聞を読んでいたら、ヘーゲルの初版本についての興味深い記事が出ておりました。それによると、ヘーゲルの自筆の書き込みがある自著の初版本が、神保町の古書店で見つかった、というのです。 見つかったのは、『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』の初版本で、これはヘーゲルのデビュー作。で、その本に対する書評が出た際、ヘーゲルがその書評を本の見開きに書き写したらしいんですな。で、それを分析すると、ヘーゲルが自分とは異なるシェリング解釈があり得ることに既に気づいていたことが判明するので、そういう意味でも、ものすごく貴重な資料だとのこと。 じゃあなんでそんな貴重な資料が、ドイツではなく、東京の神保町で見つかったのか。 記事によると、ヘーゲルが死んだ時、奥さんが蔵書を売り払っちゃったらしいんですな。で、古書店に出回ったヘーゲルの蔵書を、当時ドイツに留学していた今泉六郎という獣医学者が買って日本に持ち帰った。 で、その今泉さんの蔵書は、(多分、今泉さんの死後、)神奈川県立第二中学校、すなわち今の小田原中学校に寄贈されたのですが、それが廃棄処分になることになり、巡り巡って神保町の古書店が手に入れ、それを商品として売り出したところ、ヘーゲルの研究者の寄川条路氏の目にとまり、この度の大発見になったと。 ふーむ! すごい話ですな! こういうことがあるから、神保町というのは、世界に冠たる古書店街ということになるわけですよ。 しかし、古本好きとしては、いつの日か自分も、そんな歴史的な大発見をしたい、なんて、つい思っちゃいますねえ・・・。今回は寄川教授に先を越されましたが、次は私が、ってね。 神保町に、ヘミングウェイの初期短編の原稿とか、秘かに出回らないかな・・・。それを私が偶然見つけ、100円くらいで手に入れて・・・。 無理か。
October 30, 2014
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ベトナムに遊びに行っていた姪っ子が、お土産に現地で買ったコーヒーを買ってきてくれました。 で、そのコーヒーというのが、何と、「Weasel Coffee」だったんですねえ~。「Weasel Coffee」って、御存知? 「イタチ・コーヒー」という意味ですが。 これ、正確に言うと「イタチ」じゃないよね。イタチは完全な肉食獣なので、コーヒーの実なんか食べない。食べているのは、イタチではなく、ジャコウネコ。 で、そのコーヒーの実を食べたジャコウネコのウンチの中に、未消化なコーヒー豆が含まれているのですが、その未消化な豆を良く洗って焙煎したのが、「Weasel Coffee」なわけ。又の名を「コピ・ルアク」。 何でこのウンチ・コーヒーが珍重されるかというと、ジャコウネコは、その動物的な勘というかセンシング能力で、コーヒーの実の中でも一番おいしい、最上質な実を選ぶんですな。だから、ジャコウネコが選んだ豆だけからなるウンチ・コーヒーは、絶対おいしいものになるはずなんです。 その理屈については前々から知ってはいたのですけれども、かくいう私もこのジャコウネコ・ウンチ・コーヒーを飲むのは初めて。 で、実際に飲んでみると・・・ うまーーーーい!! っていうか、ウンまーーーい!! 焙煎されたコーヒー豆自体は、見た目結構油ギトギトな感じで、いかにも半分消化されてます、みたいに変形したものもあるのですけど、抽出してみると全然油っぽくはありません。ちょっとブラジル系のコーヒーのようで、酸味はほとんどなく、コクのある苦味の奥に甘味がある。ちょっと濃い目に淹れて、ベトナム風にコンデンス・ミルクなんか入れた日には、めちゃくちゃ旨いですよ。これは、バリバリ私好みの味。 ウンチから採れたコーヒーなんていうと、敬遠する方もおられるかも知れませんが、騙されたと思って一度試してごらんなさいな。ジャコウネコの恩恵に、涙すると思いますよ。ちょっと値段が高いですけれども、コーヒー好きを自認する方は是非。教授のおすすめ!です。 これこれ!(私が飲んだブランドではないけれど・・・) ↓ジャコウネコの排出物からとれる希少価値の高いコーヒー!【送料無料】コピ・ルアク(コピルア...価格:4,100円(税込、送料込)
October 29, 2014
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自己都合により、坪内祐三さんの書かれた本をジャンジャン読んでいるのですが、これがね、なかなか難しいんですわ。 例えば『新書百冊』という本。坪内さんが若い時から読んで感動した新書、影響を受けた新書、楽しんだ新書、勉強になった新書など、とにかく強い印象を受けた新書本を百冊、紹介しつつ、その新書と自分との関わりを語っている本なのですが、坪内さんがここで挙げられている本の中で、私が読んでいるものの何と少ないことよ! さすがに渡部昇一氏の『知的生活の方法』とか、坪内さん同様、印象深く読んだものもいくつかはありますが、共通点よりも相違点の方が圧倒的に多い。坪内さんと私は5才しか違わないのに、こんなに違うものですかねえ・・・。 私だって人並みに、いや、人並み以上に新書を読んでいると思うのですけれども、坪内さんの読んでおられる新書の数や、それに対する強い思い入れには全く対抗できない感じがする。あまりに対抗できなさすぎて、目が回ってきます。 一般の基準からすれば本を沢山読む方の私がそうなのですから、一般の方はもっとそうじゃないかと思うのですけれども、この本、売れているらしいんですよね・・・。皆さん、これ読んで、坪内さんが何を言っているか分かるの? 私には結構、分からないことが多かったのですが。 で、これが『文庫本を狙え!』とか『文庫本福袋』とかになると、さらに読んだことのない文庫本がずらりと並んでいて、もうお手上げですわ。 こりゃ、あかん! 一気に萎縮!! 坪内さんって、もっと一般人にも読みやすいものを書かれる方かと思っていましたけれども、実際にはそうでもないね。難しいね。少なくとも、私にはちょっと手が届かない感じがします。 これに比べたら、私の書くものなんて、易しい、易しい! なのに、坪内さんの本ほど売れないのは何故!? 今日も、愛読の雑誌を買いがてら、家の近くの本屋さんに立ち寄ってみたけれど、私の本、そもそも売ってないもんね・・・。さすがに名古屋駅前の三省堂には売っていたけれど。 ついつい愚痴が出ましたけれど、とにかく、如何に難しくとも、都合により少しは情報を仕入れておきたいので、もうしばらく坪内ワールドに浸っているつもりのワタクシなのであります。さあ、勉強だ、勉強だ!これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】新書百冊 [ 坪内祐三 ]価格:777円(税込、送料込)
October 28, 2014
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話題の・・・なんて言うんですか、バラエティー? 「ヨルタモリ」が始まり、昨夜はその2回目。久々にタモさんの雄姿を楽しんでおります。 それにしても、初回はフラメンコ、二回目は中国語ラップと、昔と変わらぬ若々しい密室芸爆発で、改めてタモさんの凄さを実感。ビートさんやさんまさんとは全く異なる芸風に感じ入るところ大でした。そう言えば、ヒルタモリを辞めてから、テレビCMなどでイグアナ芸を復活させるなど、このところ原点回帰的な動きが顕著。タモさんにとっても、昼の番組の呪縛は意外に大きかったのかなと。 ビート氏は、映画監督としての真面目な自分が定着しないよう、敢えて時に羽目を外しておバカなふるまいをし、その両極を意識的に使い分けているんだろうなあ、という感じを受けるのに対し・・・ということは、羽目を外していてもその裏に周到な計算が見え隠れするのに対し、タモさんの密室芸は・・・あれはもっと遥かにカオス的というか、単に「好きだからやっている」というのでもなく、「受けを狙ってやっている」というのではなおさらなく、「大真面目にふざけている」というのでもなく、とにかく、何かモラルを超えたところでやっている感じがして、得体が知れない。そういう意味では、ビートさんの深みよりもさらに底のない暗さを持っているようではあるのですが、でも、そうかといって難しいことでもなんでもなくて、見ればそのまま可笑しい、というところがまた凄い。 で、この番組の脇を固める陣営の中で、能町みね子さんまでは想定内として、想定外の収穫は、やはり宮沢りえさんの存在ではなかったかと。彼女がここまで面白く、また存在感を持って番組を切り盛りできる人とは思わなかった。サンタフェ時代から、私にとっては特に関心のない人でありましたが、この番組を機に私はすっかり彼女の実力を認めました。 ということで、この先、どのような展開になっていくのか、タモさんは今後も町工場の社長さんキャラを続けて行くのか、(この点に関しては、どこかで放棄した方がいい、とは思っておりますが・・・)楽しみにしているワタクシなのであります。
October 27, 2014
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最近、寝しなに読んでいる本は、同名のブログでもお馴染み『古本屋ツアー・イン・ジャパン』という本。 日々、日本中の古本屋をめぐっておられる小山力也さんという方が、訪れた古書店の店構えや品揃え、さらには店主と交わした会話などを紹介しつつ、最後にその店で何を買ったかを語るという、ある意味、非常にシンプルな本。 しかし、この本がすごいのは、小山さんが訪れる古本屋さんの数。それこそ毎日、違う古本屋を訪れておられるのですから、半端な気持では到底できない業。 それも「今日は仕事の合間を縫って福島まで」とか、「三島まで」とか、とにかく、仕事の合間にとんでもないところまで足を延ばすのですから、そのガッツはもうおどろくばかり。しかも、そんな遠くまで行って何をするかって、ただ一軒の古本屋に寄るだけなんですから。 しかも、たまにそんな遠くまで行って、当の古本屋が休業だったりするんですから! まあ、とにかく、この本を読むと、この日本には今でも探せばそれだけの数の古本屋があるんだという事実に驚きますね。 小山さんは、今でもブログを続けておられるので、その気になればすぐにでも『古本屋ツアー・イン・ジャパン』の続篇を本にすることが出来るだろうと思いますが、とにかく、どんなことであれ、一途にやり続けると、他人には真似のできないスペシャリストになれるんだなと、この本を読むと痛感します。 ということで、今夜も寝る前の10分、小山さんと共に、日本各地の古本屋めぐりを楽しむといたしましょうか。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】古本屋ツアー・イン・ジャパン [ 小山力也 ]価格:2,592円(税込、送料込)
October 26, 2014
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栗きんとんの季節到来! ということで、栗きんとんを買いに、秋の中津川まで行って参りました。 関東育ちの私にとって「栗きんとん」と言えば、お正月に食べる、あの栗の甘露煮とサツマイモの餡から構成される甘ったるい食べ物でありますが、ここ中部地方で「栗きんとん」と言えば、良質の栗を擦り潰し、おそらくはごく少量の砂糖を加えて茶巾に絞ったものでありまして、これが実に旨い。しかもこの時期にしか食べられないものですから、栗きんとんのメッカ、中津川まで往復200キロの道のりもなんのその。 ところで、栗きんとんの名店と言えば「川上屋」と「すや」が有名で、私は川上屋、いやいや、すやの方が旨い、と議論が尽きないわけですけれども、もちろんそれ以外にも様々な菓子舗がそれぞれ工夫を凝らして栗きんとんを作っているのでありまして、ここ中津川市には、それこそ沢山のブランドがある。 で、今回はその中津川まで出向いて、栗きんとんの食べ比べをしてみようというわけ。 そんな試みに都合のいいことに、中津川駅前に地元の物産館みたいなのがあって、そこで様々な菓子舗が競って栗きんとんを販売しているんですな。というわけで、今回はその物産館を直撃し、川上屋はもちろんのこと、「しん」とか「松月堂」とか「仁太郎」とか「恵那福堂」などなど、地元の菓子舗の栗きんとんを買い求めたわけ。 で、家に帰って食べ比べてみた。 ふむふむ。 おおっ! なるほど・・・。 全部旨~い! 結局、どれを食べても、甲乙つけがたいほど旨いんだよね・・・。 しかし、慎重に食べ比べてみると、やはり多少の差はあります。 ちなみに、物産館で配っている「栗きんとんめぐり」というパンフレットに、各菓子舗の栗きんとんの特徴が書いてあるのですが、これが実に適切にそれぞれの特徴を言い当てておりまして。例えば「松月堂」の栗きんとんの特徴として、「ふんわりと口溶けのよい栗きんとんは香り高く、柔らかくソフトで優しい食感」などと書いてあるのですが、実際ここに書いてある通り、「柔らかさ」という点ではこの店の栗きんとんがピカイチ。一方、川上屋の栗きんとんの解説では、「ホロホロと溶けていくよう」とあって、確かにここの栗きんとんは、「柔らかい」と言うよりは、「ホロホロ」と口の中で崩れて行く食感の楽しさがある。そういう意味で、このパンフレット、なかなか良心的に作ってあると言えそうです。 ま、そんなこともありつつの、明日、明後日くらいまでは、栗きんとんの味比べを楽しむ幸せを味わえそうなわが家なのであります。 ところで、栗きんとんの里たるこの地方の小都市・中津川には、今後、リニアモーターカーの駅が出来る予定なのですが、私にはどうも、この静かな町の佇まいと、時速500キロの未来的な乗り物が結びつかないような気がして仕方がありません。地元としては、リニア景気で町興し、と考えているのでしょうが、どうなんですかね。最初は良いように見えても、結局、リニアに乗って東京とか名古屋にますます若者が去ってしまったりしないのでしょうか。地方の活性化というのは、なかなか正解が分りませんね。栗の最高の美味しさ栗きんとん 10個入 中津川銘菓【楽ギフ_のし宛書】価格:2,268円(税込、送料別)
October 25, 2014
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面白い話が舞い込んできました。文庫本にまつわる鼎談への参加のお誘いです。 文庫本というのは、これまで数えきれぬほど何度も座談会などのテーマになってきたわけですが、今年は新潮文庫誕生百周年なんてこともあって、文庫本を論じるということがあちこちで行われている。その流れで、私のところにも鼎談のお誘いがきたわけ。 まあ、日本の文庫本だけを論じていたのでは限界があるので、アメリカの文庫本であるペーパーバックについての話題を提供してほしいということらしく、この分野に強い私が選ばれたのかなと。 で、鼎談のメンバーには『古くさいぞ私は』とか『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』、あるいは『文庫本福袋』などの著作で知られる坪内祐三さんもいらして、私なんぞ最初のひと吹きで吹き飛ばされそうですが、それもまた一つの体験ですから、この仕事、勉強と思ってお引き受けすることにしました。 それにしても「文庫本」といえば、私も色々思い出がありまして。 一番最初に文庫本なるものを完読したのは、小学校5年生の時。文字がぎっしりつまっていて、大人が読む物だとばかり思っていた文庫本を読み切った(しかもそれは上下二巻の文庫本でした)のが自信となり、以後、文庫本を読破するのが趣味となったのでした。その点では、同級生よりも少しだけ早く、豊かな文庫の世界に入ったんじゃないでしょうか。自分の部屋の書棚に少しずつ文庫が増えて行くのが、何とも言えず嬉しかったのをよく覚えています。 私は子供の頃から「外国かぶれ」みたいなところがあって、日本の小説よりも翻訳小説を沢山読みましたが、子供の頃にそういうものをやたらに読んだことが、結局、外国文学の研究という道に私を進ませることになったのですから、ある意味、私は文庫本に人生を決められたようなところもある。 まあ、鼎談では、そんなことも話せればなあと思っております。 ということで、鼎談が実際に行なわれるまで、少し自分の中で、自分がどうやって文庫本とつきあってきたのか、少し考えをまとめておきましょうかね。
October 24, 2014
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新潮社が出している雑誌『考える人』には、スピンオフのような形でウェブマガジンがあるのですが、それの今週号で、編集長の河野通和さんが『S先生のこと』を紹介して下さっております。すごくいい文章で、こういう風に書いていただくと、まさに著者冥利に尽きますね! ということで、手前味噌のようになってしまいますが、興味のある方は是非! 別にウェブマガ登録をしなくても読めますよ~!これこれ! ↓『考える人』ウェブマガジン今週号
October 23, 2014
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最近、通勤の途上で猫ちゃんが無残にクルマに轢かれているのを見ることが多いような。季節的に、何か要因があるんですかね? 今朝もそういう可愛そうな姿を目撃し、あーらら、可哀そうにと。 で、大学からの帰り道。ポケーっと何も考えずに運転していた時、ふと、朝の光景を思い出し、こりゃ、いかん、こんなにぼんやり運転していて、もし猫ちゃんが道に飛び出してきたらどうする、と思い直したわけ。 それで、少しクルマのスピードを若干落とし、視線を前方・左右の道の端の草むらとかにしっかりと向け、「猫がいつ飛び出してきても、止まれるぞー。猫が飛び出すぞー、気をつけろよー」と心の中でつぶやきながら運転を始めた。 すると、案の定、猫ちゃんが前方で道をささっと横切ったではありませんか! ひゅ~! 危ない、危ない。良かった~、注意しておいて。 で、またしばらく運転していると・・・ サササッ! おお、また猫が飛び出してきた! 危ね~! 良かった~、用心しておいて。 その時、ふと気がついたわけですよ。いくらなんでも、一日のうちにこんなに何度も猫が私の前で道を横切ったことがかつてあったか? と。 あ! あああ! やばい、引き寄せたんだ! 最近、心に念じたことが次々と実現してしまい、マジで「引き寄せ」を実現しているワタクシ。その私が、「猫が飛び出してくるぞ~!」と念じれば、そりゃ、実現しますわな。 だから、心に念じるやり方がまずかったわけですよ。「猫が飛び出してくるぞ~!」と念じたのがまずかった。 ということで、そこから先は、「猫は私のクルマの前には飛び出してこない。私は決して猫を轢かない」と念じ続け、無事、何事もなく、家に到着したのでありましたとさ。 引き寄せの神通力が高まると、不便なこともあるね! というお話でした。用心、用心。ちゃん、ちゃん!
October 22, 2014
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拙著発売から1週間。この辺りがある意味、一番手持無沙汰なんですよね~。 発売前は、「早く発売しろ~」と心待ちにするところがあるし、発売してすぐは、著者謹呈の手続きがあったりして結構忙しい。で、この先、1カ月くらいすると、書評が出始めるので、それはそれで楽しみなのですが、今時分から書評が出始める前までが、なんか手持無沙汰で落ち着かない。 何しろ本を出すまでに何度も何度も校正作業をしているので、もうある意味麻痺してしまっていて、自分の本が良いのか悪いのか、判断つかないくらいになっているわけ。だから書評が出て、その中で褒めてもらえれば、「ああ、出して良かったんだ」と、ホッとするわけですけど、そういうものが出ていない今は、まだホッとできないんですな。これが、なんとも息苦しい。 だから、こういう時こそ、「次の本のことを考えよう」という風に、自分を強いることにしているんです。 ちなみに、次に出す本というのは、3冊までは既に決まっているの。といっても3冊のうち2冊までは自分が書くのではなく、他人が書いたものを私が編集するので、正確には自分の本ではない。残りの1冊、私自身が書く本で既に計画が進行しているのは、これはゼロ・スタートの研究書なので、出すまでにはまだ3年か4年はかかるでしょう。 だけど、今の気分としては、次の自分の本を出すまでに3年か4年というのは、待ちきれないわけですよ。 そこで、もっとお気楽な本で、手軽に出せるものをちょろっと出しちゃおうかなと。 例えばどんなの?と問われると困っちゃうのですけど、このブログもねえ、かれこれ10年近くやっているわけで、そこから何か発掘できないかなあ、とか。 つまり、「悪巧み」なんですけどね。 でも、悪巧みでもなんでも、何か考えてないと、手持無沙汰が解消できないですからね。 とまあ、そんな感じで、ムズムズする日々を過ごしているワタクシなのであります。【楽天ブックスならいつでも送料無料】ホールデンの肖像 [ 尾崎俊介 ]価格:2,484円(税込、送料込)
October 21, 2014
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粉のドレッシングって、どうよ? と思って、味の素の「トスサラ」を買ってみました。目新しいものは、とりあえず一回試してみる、というのが私の主義なもので。 実際、買ってみて驚くのはその大きさ。テトラパックになっているのですが、これが結構大きい。こんなデカいの? って感じ。 ちなみにトスサラは3種類あるのですが、まず食べてみたのは緑色パッケージの「イタリアン・バジル味」。これは普通のグリーンサラダに合います。 で、粉状のトスサラをサラダにかけて混ぜると、自然になじんでしまうので、食べても粉っぽさはみじんも感じられず。むしろ粉がサラダの水を吸うので、味がしっかりつく感じ。 そして食べてみると・・・うまーーい! 特にアーモンド・スライスがいいアクセントになっていて、高級レストランの味、と言いましょうか。 うーん、これ、気に入ったなあ! だけど・・・ドレッシングとしてみると、ちょっと高いかな。1個200円近くしますからね。それを一回で使い切ってしまうのですから、瓶入りのドレッシングと比べると大分高い。 だから、あれですね、今日はちょっと贅沢にご馳走を作ろう、ってな時とか、お客さんが来た時とかに使うといいんじゃないでしょうかね。 ということで、粉状ドレッシング「トスサラ」、教授のおすすめ!です。これこれ! ↓【東京/神奈川/千葉/埼玉の一部限定】※配送日により、価格・在庫数が異なります。トスサラ イ...価格:213円(税込、送料別)
October 20, 2014
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今日は先輩同僚たちと5人で、名古屋駅周辺でランチをしてきました。先輩同僚といっても、うち二人はすでに定年を迎えているのですが。 気の置けない集まりですので、話題は百出なのですが、今回特に注目だったのは、この3月に大学を去られたばかりのO先生のこと。このブログでは「叔父貴」としてたまに出てくる先生です。 定年で大学を去り、あらゆる雑用から解放され、すべての時間を勉強と執筆に割けるようになると、仕事は怖ろしくはかどるような気がするのですが、そこのところ、どうなんですか叔父貴? そう尋ねた私に対し、叔父貴の答えはどうだったかと申しますと、「拡散するね」ですと。 つまり、定年になったばかりの時は、一心に勉強するのですが、何のノルマもなし、何の締切もなし、という状況に次第に身体が慣れて行くにしたがって、一つの目標に向って何かをする、ということが難しくなると。専門の本を読んでいても、ふと気になって別な本を読みだし、それが面白いとそっちを中心に読んでしまい、さらにそこから別な本へ、また別な本へ、と気が移ってしまって、なかなか元の研究に戻れなくなってしまう。それでも、別に締切があるわけではないので、それでもいいか、ってな気になって、一向に前に進まないと。 それを叔父貴ことO先生は「拡散」と表現したわけですけど、うーん、なるほど、定年ってのは、そういうことなのね。そう考えると、年柄年中雑務に忙しくて、「これじゃ勉強するヒマがない!」とか言いながら、ちょこちょこ勉強している時の方が、案外、仕事がはかどったりするのかもね。 勉強になります。 で、その後、みんなで「定年になったら、何をする?」という話になり、あれこれ話していたのですが、イギリス人のR先生は、「英語塾でも開こうかな」と。 そこで、私が逆提案して、「R先生、英語塾なんか開くより、不動産業の方が儲かりますよ」と。 最近テレビで見たのですが、日本に来る外国人って、やはり住む場所を探すのに苦労するんですって。だから、そういう外国人がアパートを借りるのを仲介するような仕事って、需要があって儲かるらしいんですわ。 で、私がテキトーにそんなことを提案してみたら、R先生もしばし考え込んで、「うーん、それも悪くないな」と。 で、そこから妄想が爆発し、私とR先生で手を組んで「R&S不動産」を設立し、名古屋で来日外国人に対する不動産紹介業を始める計画が完成。 で、R先生は実は世界的に知られた「鉄ちゃん」でもあるので、そのワールドワイドな「鉄ちゃん」コネクションを使い、来日外国人鉄たちを一手に引き受けようと。そして、やがてリニアモーターカーが東京・名古屋間で開通した暁には、世界の鉄マニアを名古屋に呼び、東京行きのリニアモーターカーに乗せるツアーをやればいいではないかと。 そして、不動産業が軌道に乗ったら、適当な箱を用意して、「英語でお料理教室」とか、「英語でフラワーアレンジメント」とか、「英語でヨガ」みたいなのも企画しようとか。 これは、儲かるぞ・・・。 かくして、学者の集まりなのに、儲け話全開で、とっても世俗的になってしまったのでした。そう仕向けたのは、かくいう私なのですが・・・。 ま、大学の状況がお先真っ暗なもので、「それ以外」の話がやたらに楽しい、先生方のランチだったのであります。今日も、いい日だ!
October 19, 2014
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先週、いつものように道場に出て、八光流柔術の稽古をしていたのですが、師範のA先生に稽古をつけていただいていた時に一つ思いついたことがありまして。 それは何かと言いますと、「収縮と膨張」ということなんですが、敵から攻撃を受けた時、それに立ち向かってしまったら、それはもはや護身道ではない。そこで相手の攻撃のエネルギーをいかに無力化しつつ受けるかが問題になるのですけど、その際に重要なのが「収縮」ではないかと。 で、収縮して敵を受け止めた後、次にその収縮を解いて今度は逆に膨張し、相手に向って開いていく。それによって相手の攻撃を跳ね返すことができるのではないか。 で、その際、収縮と膨張の方向性として、「八」の字を描くようにする。 ここは実際にやったことがある人でないと解らないと思いますが、人を歓迎する身ぶりで、両手を体の前に開いて突き出すことがありますよね。これが膨張の状態。で、その状態から今度は肘を体に付けるような感じで腕を引き寄せる。これが収縮の状態。この動作を上から見たとしたら、腕で描いた「八」の字が大きくなったり小さくなったりしますよね。基本は、この収縮と膨張ではないかと。 初段の「八光攻」にしても、相手に腕を掴まれた場合、その掴まれた場所は動かさずに一歩相手に近づく。すると、実質的に肘が体に付き、「八」の字が小さくなって、収縮したことになる。そこから今度は膨張して相手を跳ね飛ばす。収縮と膨張です。 初段の「胸押捕」にしても、相手に胸ぐらを掴まれて押し込まれた時、一旦、身体を窪ませ、収縮して受け流した後、今度は骨盤から伸び上るように姿勢を正して行きながら膨張し、逆に相手に向って広がっていくことで敵を押さえ付けてしまう。 ああ、なるほど、考えてみればすべては収縮と膨張なんだ、と気づいた後で振り返ると、自分は収縮と膨張のメリハリが付いていなかったのではないかという気がしてきます。つまり、収縮すべきところでちゃんと収縮せず、先走って膨張を始めてしまっていたりしたのではないか、と。そして、そのことによって「力対力」の対立が生まれ、護身道ではなく喧嘩になってしまっていたのではないかと。 なんかね、そんなことを思いついた次第。 もちろん、そういうことは、別な言葉で師範の先生方や先輩、稽古仲間からも教わってきているのですけれども、人から教わるというのと、自分で気づくというのはまるで別物。自分で気づかないうちにいくら人から教えられても、実質的にはまるで分かってないわけですよ。でもこの間の稽古では、「そういうことなんじゃないかな?」ということを自分で気づいたので、次からの稽古で少し意識的に試してみようかな、なんて思っているわけ。 まあ、武道というのは難しくて、稽古しさえすれば上手くなるというわけにはいかず、なかなか前に進みませんけれども、少しずつでも何か気づくことがあれば、これが進歩の芽なんじゃないかと思って、頑張ることにします。
October 18, 2014
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なんか~、私の友人Oが本を出しまして~、とてもいい本らしいので、私も友人として一応、おすすめしておこうかな~っと・・・。 よろしくお願いしや~~っす!!これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】ホールデンの肖像 [ 尾崎俊介 ]価格:2,484円(税込、送料込)
October 17, 2014
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昨夜、レイトショーで『ジャージー・ボーイズ』という映画を観てきました! 以下、ネタバレ注意!! これ、1960年代からアメリカで人気のあったニュー・ジャージー州出身のポップ・グループ、「フォー・シーズンズ(後に「フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズ」に改名)」の結成から解散まで、そしてその後を描いたもので、もともとブロードウェイ・ミュージカルとして成功した後、売れ線のものへの嗅覚の鋭いクリント・イーストウッド監督が映画化したんですな。 で、ニック(ヴァリトン)とバンドを組んでいたトミーが、天与の美声の持ち主フランキーをリクルート、その後、作曲の天才ボブ・ゴーディオが加わって最強の4人組が出来上がるのですが、そうなってくるとバンドとしての強みはフランキーとボブの存在に掛ってくるわけで、バンド・リーダーであるトミーの存在意義が薄れてくる。 で、そのことに焦燥感を募らせたトミーは、バンドのお金を使い込んだり、金銭面で次々と問題を起こすようになり、またトミーの生来の横暴さを長年耐えて来たニックもそろそろ我慢の限界に近付いて、結局、トミーとニックがバンドから脱落し、人気の絶頂にあった頃、このグループは事実上崩壊してしまう。しかも、トミーが拵えた莫大な借金をフランキーとボブが返済することになったので、二人はそれこそ死に物狂い、コンサートであれクラブであれ、とにかく歌えるところならどこでも歌うというような感じで働きづめになった結果、借金は返済出来たものの、フランキーの結婚生活が崩壊。その影響で、フランキーの末娘フランシーヌはドラッグ中毒で死亡と、私生活はぼろぼろ。 それでも、フランキーとボブの結束で、ヒットを飛ばし続け、ついにフォー・シーズンズは長年の功績が評価され、1990年に「ロックの殿堂入り」を果たすんですな。で、そこで四半世紀ぶりにオリジナル・メンバーが顔を合わせるのですが、それぞれ別の道を行くことになったとはいえ、そこは「ジャージー・ボーイズ」の結束。すべてを水に流して、一日限りの再結成で、往年のヒット曲を歌いまくる・・・ ま、そんな感じの映画です。 で、この映画に対する私の評価は・・・ 「73点」でーす。とりあえず合格。 減点分の27点は、クリント・イーストウッド監督のしょぼい演出によるもの。多分これ、ミュージカルで見たら、もっとテンポよく、面白く観られると思うんですけど、イーストウッドがせっかくの素材を台無しにしたんじゃないかな。 御大イーストウッド監督ご自身は、「自分は音楽ものには強い」という錯覚をしているらしく、『バード』とか、しょうもない映画を沢山撮ってますけど、あなたは音楽ものに限らず、どんなジャンルの映画でも監督の才能ないですから! 俳優業に専念して、監督業からは手を引いて下さい!! でも、この映画を観ると、いかにフォー・シーズンズが偉大なバンドだったか、またボブの作曲能力とフランキーの独特の歌唱法が、いかにすばらしい奇跡のコラボだったかが良く分かります。もうね、私なんぞ、帰宅した途端に、速攻でフォー・シーズンズのCD買っちゃったよ。 で、YouTube とかも観ていたのですが、その中で、今年の7月4日、アメリカの独立記念日に、ワシントンDCでフランキー・ヴァリが歌っている動画がありまして、これがね、ものすごい。 だってフランキー・ヴァリって1934年生まれですよ。今年80歳じゃないですか。その80歳のおじいさんが、とてもそんな歳とは思えないほど若々しく、えも言われぬほど艶っぽく、キレキレの歌を聞かせてくれているんですから、見始めたら目が離せない。私なんぞ100回くらい、繰り返し観てしまいましたよ。これこれ! 必見!! ↓おん歳80歳のフランキー・ヴァリの超絶パフォーマンスを観よ! ということで、『ジャージー・ボーイズ』という映画自体に関してはそこそこの評価に留まりましたが、フォー・シーズンズ、とりわけフランキー・ヴァリ&ボブ・ゴーディオに対する評価はあらためてウナギ登りになってしまった私なのでした、とさ。
October 16, 2014
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自慢じゃないですけど、私は極度の方向音痴でありまして、これは釈迦楽家全員が代々そうなので、これはもう一家に伝わる伝統芸と言ってもいいくらいの、笑っちゃうほどのもの。目をつぶってその場でぐるっと回ると、一体どちらの方角から歩いてきたのか、まるで分らなくなるほどのものなんです。 でも、スマホの地図アプリがあるからいいじゃん、と思ったあなた。甘い。 地図なんか見ても、私には全然役に立たないの。自分が立っている場所が示されていて、自分の目的地が示されていても、まずどちらの方向に歩き出せば、目指す目的地に近づくのかが分らないのですから。 ところが! ついにそんな私にも使いこなせるお助けアプリを発見したんです! それは「Waaaaay!」というアプリでありまして、これは従来の地図アプリとはコンセプトがまったく異なるんですな。 何しろ、地図アプリなのに画面に地図が出ない。じゃあ、どうやって道案内するかと言いますと、画面上に大きな方向磁石の針みたいなのが現われて、「とりあえず、この針の指す方向に歩け」と指示してくれるの。さすがにこれならば、私にもどちらに向って歩けばいいか、分かるというもの。 しかも、「目的地まであと何メートル」という表示が出るので、それでもうすぐ到着するな、というのも分かる。これは、私のような、想像を越える方向音痴にも使いこなせる、ほとんど唯一の地図アプリではないかと。 で、実際に使ってみたのですけど、本当に目的地に着くのよ! 嘘みたいに、ちゃんと着く。 というわけで、これさえあれば、もう道に迷うことがない、というグッズを発見して、めちゃくちゃ嬉しがっている私なのであります。私と同様な方向音痴の方は是非! あ、お値段は無料でーす!
October 15, 2014
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1970年代のベストセラーにして、最近、「第4部」が付け加わった完成版が出たばかりの『かもめのジョナサン』、仕事がらみで読んでしまいました。 これ、私も1970年代に読んだことがあるのですが、読んだといっても子供の頃に読んだのですから、通り一遍に読んだだけで、別に深い意味を読み取ったわけでもなし。だから、今回読み直すに当たっても、「読み直す」というより、ほとんど初めて読むのと変わらなかったかも。 だけど、改めて読んでみても、うーん、あんまりよく判らないという意味では、子供の頃に読んだ時の読後感とほぼ同じ。成長がないね・・・。 まあ、昔のベストセラーですから、私と同年代の人は多分、読んだことがある、という人も多いと思いますが、これは「ジョナサン・リヴィングストン」という名のカモメの話。 ジョナサンは、いわば異端のカモメでありまして、とにかく「飛ぶこと命」。いかに速く、いかに高いところから、いかに見事に飛ぶかっつーことに命を賭けている。仲間のカモメが餌食ってのんびりしている間にも、練習、練習、また練習。あんまり練習に熱心なあまり、仲間はドン引きして、ジョナサンを仲間外れにする。 しかし、そんなことにもお構いなく練習しているうちに、ジョナサンは別次元のカモメになってしまったのでした。 別次元も別次元、もはや「飛ぶ」とかそんなレベルではなく、ワープですよ、ワープ。「ここに行きたい」と念じるだけで、その場所に瞬間移動できるほどになる。 そして、そこからさらにレベルアップする、という道もあったのですが、ジョナサンはその道はとらず、自分を仲間はずれにした平凡なカモメたちの中にも、潜在的に自分と似たような若者がいるんじゃないかとか殊勝なことを思って、かつて自分を追放した仲間のもとに帰り、その中から弟子を育てることにするんですな。 で、その弟子たちも立派に成長し、飛ぶ訓練についてはその弟子たちに任せれば良くなってきた。そこで、もはや自分がここに居る必要はないな、と見切ったジョナサンは、去って行ったのでした。 ここまでが第3部、すなわち、以前はここでこの物語は終わっていたわけ。 で、ここから新たに付け加わった第4部が始まるのですけど、第4部になりますと、もうジョナサンは伝説と化していて、ジョナサンの初期の古い弟子たちすら半分伝説になってしまっている。それで、いくら古い弟子たちが「ジョナサンはね、一生懸命練習したから速く飛べるようになったんだよ」と教え諭しても、新しい弟子たちは、「ジョナサン大先生は、どんな姿をしておられたのですかあ?」みたいなことばっかり知りたがり、もう練習なんてそっちのけになっちゃうわけ。 つまり神格化によって、教えが腐敗したわけですな。 だけど、そんな腐敗し、練習も軽視されてしまった末法の世界で、次の世代が登場してくる。 この新しい世代は、腐敗化したジョナサン伝説なんて無視して、自分達で勝手に速く飛ぶ練習に打ち込みだすんです。 そして、そんな新しい世代に属する一羽のカモメが懸命に練習に打ち込んでいるうちに、ふと気づくと、自分に併走しながら見事な飛翔をするカモメを発見する。若いカモメがあっけにとられてその名を問うと、「俺かい? 俺はジョナサンさ」と答えました。 ちゃん、ちゃん。終り。 さ・て・と。 で、これ一体、どういう話? 素直に考えれば、ジョナサンはカモメ版のイエス・キリストなんだという解釈になるのでしょうけれども、そんなに簡単に答えを出してしまうと、逆に、「そんな簡単な答えでいいの?」的な不安が湧いてきて、もっと別な解釈をしなきゃいかんのじゃないのか、とも思えてくるという。 だけど、これを書いたリチャード・バックという人も、そんなに大したことないライターっぽいから、案外、上のような簡単な解釈でもいいのかもね。 ところで、本書の訳者あとがきを読んでみますと、本書を訳している五木寛之氏は、これを訳しながらも、ずっと違和感を感じていた、ってなことが書いてありまして。 五木氏がどこに違和感を感じたかというと、この話が、何だか妙に上から目線で語られること。また、こんな説教臭い物語を、どうして人々が有難がって読むのか、それもよく分らない。それから、飛ぶことに命をかけたジョナサンが特権化され、そうでないカモメ、つまり、生きることに汲々としている平凡なカモメたちが、いかにもつまらない存在の様に描かれることへの不満もあった、というのですな。 なるほど。 でも、この本を一種の「自己啓発本」として考えると、上から目線、という点は分ります。自己啓発本というのは、「こうすれば他人より頭ひとつ秀でられますよ」ということを上から言うものなんですから、そもそも。 で、更に自己啓発本の立場から言えば、聖書もまた一冊の自己啓発本ですから。「求めよ、さらば、与えられん」ですからね。 そう考えれば、聖書の内容をカモメの世界に譬えた自己啓発本として、いわば説教臭くとも抹香臭くはない自己啓発本として、その時代の迷えるアメリカ人たちに受けた、ということなのかも知れません。 もっとも、私が思うに、この本の成功の半分以上は、挿絵的に無数に挿入されるカモメの写真、ではないですかね。お洒落だもん。ジャケ買いだよ、ジャケ買い。 ってなわけで、相変らずよく判らないながらも、カモメはフォトジェニックだよな! という確信だけは得た私だったのであります。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】かもめのジョナサン完成版 [ リチャード・バック ]価格:1,404円(税込、送料込)
October 14, 2014
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私が住むここ名古屋も、いよいよ台風19号の暴風域。 そろそろ用水路の具合でも見てこようかな。(ダメ~! それやっちゃダメ~!) まあ、それはともかくとして、この3連休、録りためていた映画をあれこれ見ていました。 例えば『エリジウム』とか。これマット・デイモン&ジョディ・フォスター主演と、それなりのメンツを揃えたSF、しかも監督は『第9地区』の人だというので、少し期待して見たのですが・・・。 結果から言うと、「13点」かな。100点満点の。 ネタバレでこの映画の梗概を言いますと、22世紀半ばの地球では、環境悪化が進み、金持ち連中は、「エリジウム」なる宇宙に浮かぶ巨大な人工植民地みたいなところに避難していて、庶民は劣悪な環境の中、地球上で労働させられている、みたいな状況になっているんですな。で、孤児として育ったマット・デイモンも、子供の時からいつか金を貯めてエリジウムに住むための市民権を取り、移住したいと思い、ギャングみたいなこともするのですが、警察の御厄介になった後は、労働者として半ば夢を諦めながら暮らしている。 ところが、労働中の事故で多量の放射能を浴び、余命5日間。そこで彼はギャング時代の知り合いであるスパイダーなる人物に頼み、エリジウムへの密航を企てるわけ。何せエリジウムには「どんな病気でも1分くらで直しちゃうカプセル」ってのがあって、それに入れば余命5日もチャラにできるので。 で、スパイダーは、密航の見返りとして、エリジウムに住む連中の中でも特に金持ちを狙い、そいつの脳をハッキングして土産に持ち帰ることを命ずるわけ。で、マット・デイモンは、自分をこんな目にあわせた自分の会社の社長の脳をハッキングすることとし、丁度地球を訪れていたその社長を襲います。 ところが、エリジウムではジョディ・フォスターがクーデターを計画中で、そのクーデターの鍵を握るのが、その社長さんだったんですな。そんなこととはつゆ知らず、マット・デイモンはその社長の脳ハッキングに成功! しかし、その最中、社長は死んでしまいます。 一方、ジョディ・フォスターにはもう一人、ならず者の部下がいて、こいつを地球上に残したままあれこれ使っていたのですが、この男がジョディ・フォスターのたくらみを察知、そしてマット・デイモンの脳に貯えられた例の社長さんの脳の情報があれば、エリジウムを我物にできることを知り、マットの幼馴染のガールフレンドも誘拐しつつ、彼を追うことに。 さて、ならず者にまで狙われることになったマットは、エリジウムで病気を治せるのか? そしてジョディ・フォスターのクーデターの成行きは? みたいな話。 さて、ここまで話した段階でも、突っ込みどころ満載でしょ。 マット・デイモンが放射能を浴びるいきさつもすごく変で、彼のやっていた作業って何? ロボットみたいなのを作っているみたいでしたけど、未完成のロボットに放射能浴びせてどうするの? で、放射能浴びたマットが、エリジウムで自分を治療しようとするわけですけど、どんな病気でも1分もしないうちに直せるカプセルって、何? そんな都合のいいものが、エリジウムには殆んどどのご家庭にもあるのに、それをエリジウムの市民にしか使わせないって、どういうこと? ジョディ・フォスターも、クーデターを狙うにしては、脇が甘すぎ。それに、そもそもジョディが狙っていたクーデターって何? 最後にマットの頭にあるプログラムを実行したら、地球上の全人類がエリジウムと住民と同じ市民権が得られることになるのですけど、ジョディがやりたかったのはそれ? そんなことして、ジョディは何か得するの? それに、鉄壁の防御を誇るはずのエリジウムなのに、どうしてマットやならず者がどんどん入りこめるんだ! ドロイド兵は何をしている? そして殺された社長さんは、自分の頭にクーデターのためのプログラムをインプットしながら、どうしてそれを取り出すと死ぬ、というセッティングにしたんだ? その他、ストーリーが破綻しているところばかりで、SFとして成立してないよ、これ。 というわけで、もう見るも無残な映画だったのでした。私に言わせれば、これは見る価値なし。ジョディ・フォスターも、こんな映画に出るようになるなんて、落ちぶれたもんだ。 そして、今日見たのは、『コズモポリス』という映画。これ、アメリカの作家ドン・デリロの小説を元にした映画ですな。 この映画で主人公を演じるのは、株だか先物だか通貨だかの取引で大儲けしている若き社長さん。この社長さんが、リムジンに乗って町はずれの床屋に行くという話なのですが、道が混んでいてなかなか進めない。結局、床屋に行くのが一日仕事になるわけ。 その一日の中で、彼はリムジンの中で色々な人に会います。彼は最近、同じく超大金持ちの娘と結婚したのですが、新たに彼の妻となったこの女と、町のあちこちで会って、飯を食ったりする。 あるいは彼がリスペクトしているラップ・ミュージシャンの葬列に出くわしたり。 あるいは、愛人に会ったり。 あるいは、彼のメンタル面のコーチに会ったり。 あるいは、彼の仕事をサポートしているヲタクっぽいコンピュータ・プログラマーみたいなのに会ったり。 で、ようやく夜遅くなって床屋にはつくのですが、その帰りに彼は暗殺者に狙われることになる。何しろ、気まぐれで自分のボディー・ガードを殺してしまったので、自分の身は自分で守らなくてはならない。 といっても、この社長さんはもう完全に行っちゃってて、自分の身を守るとか、そういう常識的なレベルの頭の回り方はしないので、暗殺者の家にわざわざ自分から押しかけて行ってしまったりするんですけどね。 さて暗殺者の家に行った社長さんの運命やいかに? みたいな映画。 さて、この映画への点数はと言いますと、うーん、「57点」かな。残念、不合格でした。 原作がドン・デリロなので、私には向かない映画だし、お金儲けすぎて頭がどうかしちゃっている社長の日常とか、感性なんかは、もともと訳が分らないわけなんですけど、それでも、何百億円レベルのお金をころころ転がしている人たちのぶっとんだ人生の不条理さとして見れば、説得力が皆無、というわけではない。そういうものの描き方としては、平凡でつまらないとは思いますけどね。だってそういうものだったら、もう『レス・ザン・ゼロ』で30年前にすでに描かれたわけでしょ。 だけど、『エリジウム』のダメダメさと比べると、まだこっちの映画の方が見られますね。57点だから、不合格映画ではありますが。 それにしても『エリジウム』にしても、『コズモポリス』にしても、よく考えてみれば、どちらも「金持対貧乏人」という映画なんですよね。しかも、どちらも図式的な捉え方で、金持の側にも貧乏人側にも共感できないという。 最近、この手の「金持対貧乏人」映画って、多いよね! それは、今日の地球的状況を反映しているのかも知れないけれども、どれもつまらないので飽きました。 実はもう一つ、この週末に、1971年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』も見たのですが、これは実に面白い映画で、ある意味、これだって「金持対貧乏人映画」ではあるのですが、『エリジウム』や『コズモポリス』みたいな平板な映画とは全然違う。 そう考えると、昔の映画は面白かったなと。 1970年代一つとったって、『ゴッドファーザー』も『ロッキー』も『スター・ウォーズ』も『キャリー』も『ディア・ハンター』も、『イージーライダー』も『燃えよドラゴン』も『マッシュ』も『カッコーの巣の上で』も『ジョーズ』も『タクシー・ドライバー』も、『クレイマー、クレイマー』も『エイリアン』も『アメリカン・グラフィティ』も、『未知との遭遇』も『ペーパー・ムーン』も、みーんな70年代ですからね。 昔は、毎月のように必見の問題作があったのになあ・・・。
October 13, 2014
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愛知県美術館で開催されている「デュフィ展」を見てきました。 が、まずその前に腹ごしらえ。先日、「孤独のグルメ」を見ていたら、その回はベトナム料理のお店が取り上げられていて、それを見ているうちにまんまと術中にはまり、無性にベトナム料理が食べたくなってしまった我らは、名古屋・吹上にある「アンヴィエット」という店でランチすることに。 駐車場を探すのに若干苦労した後、店内に入ると、入り口から想像するよりもはるかに大きな店であることを発見。そして、ランチコースの中から私はレモングラスと鶏肉のなんちゃらを注文。家内は牛肉のなんちゃら麺をチョイス。どちらも生春巻きやサラダ、食後の飲みものがついて1500円とリーズナブル。 で、結果から言いますと、美味しかったです。野菜も多いし、全体的にヘルシーな感じ。次に来る時は、フォーを頼んでみて、美味しかったら夜、もう一度来てもいいかな。だけど、どうして名古屋には「ベトナムアリス」の支店がないのかしら。 さて、エスニック系でお腹を満たした我らは、次に主たる目的地である愛知県美へ。 デュフィについては、超好き、というほどではないけど、関心はある、という程度の私。でも、シャガールなんかと違って、そうそう展覧会が開かれるわけでもない画家ですから、こういう機会に是非見ておかないとね。 で、見始めると、多くの画家がそうであるように、スタート時点では結構保守的というか、伝統的な画風なんですよね、デュフィも。でもそうしたトラディショナルな画風の油絵の中で、「サン=タドレスの桟橋」というのがあって、これがなかなかいい。それから、もう少し後の作品ですけど、「クロード・ロランに捧ぐ」というのも良かったかな。私が買うなら、この2枚のうちのどちらか。 ところで、今回のデュフィ展の面白いところは、彼がドイツ表現主義に影響されて一時期凝った版画の数々が展示されていることと、テキスタイルや陶芸などの作品がデュフィにはある、ということを打ち出したことでありまして。版画(書物の内容を表すような、挿絵的なものが主)もテキスタイルも、静的なデザインのセンスが問われるものですが、これがね、結構良くて、ああ、デュフィというのは、この方面の才能もあったんだなと思わせるものがありましたね。彼のデザインしたテキスタイルなんて、このまま売りだしてくれれば、テーブルクロスとして買いたいと思うようなものでしたから。 で、展示の後半になりますと、通常、我々が知っているようなデュフィの芸風というか、カラフルで軽やかな、油絵の中に水彩画の軽味を取り入れたような画風の作品が並びます。 だけど、今回勉強したのですが、あの、デュフィっぽい画風には、デュフィの体調が結構関わっていたらしいですね。 というのは、晩年のデュフィは、関節炎に悩まされていて、油絵にしても、細かく描き込むようなことができなかったらしいのですな。それでまずキャンバスに何色もの色の下地をばーーっと塗ってしまって、そのカラフルな下地の上に、スピーディにサラサラっと造型を描いた。もちろん、こういう画風は関節炎だけが原因なのではなくて、デュフィが若い時から影響されたマチスの影響とか、水彩画を描く時に培った独自の技法(彼は水彩画を描く前に紙を水で濡らし、その濡れた紙が乾かないうちにサラサラっと描いて、透明感を出す工夫をした)そういうものも積み重ねられてのことだと思うのですけど、そんなことも新たに知ることができて、デュフィの作品を理解する上での一つの手がかりが得られたのでありました。 それからもう一つ、デュフィは青が好きだったようで、「青は、色調が変わっても同じ個性を保ち続ける唯一の色である」という信念を持っていたということも、今回の展覧会で知ったのですけど、このデュフィの「青色観」も、私が今後「青」という色(実は私にとっても一番好きな色なのですが)のことを考える時のヒントになるであろうことは間違いなく、それも私にとっては大きな収穫でした。 ということで、愛知県美術館のデュフィ展、めちゃくちゃ昂奮するほどの感動はなかったですけれども、行って損はなかったと思います。お好きな方は是非!これこれ! ↓デュフィ展 で、美術館からの帰り道、最近家の近くに出来た「元町珈琲」という喫茶店でコーヒーを飲みながら一服。置いてあった雑誌をパラパラ読んでいるうちに、今、東京・上野の国立西洋美術館で「フェルディナント・ホドラー展」なる展覧会が開催中であることを知りました。ホドラーって、あまり聞かない名前ですけど、スイスの国民的画家なのだそうで。 雑誌にはホドラーの作品が何点か載っていたのですけど、これがね、見ると結構面白そうなんです。 ということで、もし会期中に東京に行く用事があれば、行ってみようかなと。 展覧会って、一度行くと、続けざまに行く羽目になるような、そんな感じがしますね。もちろん、いいことなんですけどね。これこれ! ↓フェルディナント・ホドラー展
October 12, 2014
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少し前に『嫌われる勇気』という、アドラー心理学の解説本みたいなものを読んで、そこそこアドラー心理学に興味を持った私は、もうちょいアドラー心理学の何たるかについて勉強してみようと思い、岸見一郎さんの書かれた『アドラー心理学入門』という本を買って読んでみました。 ちなみに『嫌われる勇気』から岸見一郎さんの『アドラー心理学入門』への道筋というのは、これはもう必然的なものでありまして。そもそも『嫌われる勇気』は岸見一郎さんと古賀史健さんの共著であり、その古賀史健さんは、岸見一郎さんの『アドラー心理学入門』を読んで異様な感動を覚え、岸見さんに師事し、ついにはお筆先となって『嫌われる勇気』を書いたというのですから、『嫌われる勇気』を読んでアドラーに興味を持った以上、一つ起源を遡って『アドラー心理学入門』を読みに行くのは、それこそ「これ以外ないだろう」ってな道筋であるわけですよ。 で、その岸見一郎さんの『アドラー心理学入門』を実際に読んでみた。 その感想、聞きたい? 何しろ、『嫌われる勇気』の大元であるわけですから、一層詳しくアドラー心理学のことが判るようになるだろうと期待したわけですが・・・ そうでもなかった! 残念!! 私思うに、『嫌われる勇気』の方がよほど効率よく、アドラー心理学の何たるかが判りますね。 何でそういうことになるかっつーと、岸見一郎という人の書く日本語が、非常に不可解だからです。 一見すると、すごく優しく、分かりやすく書いてあるように見えるのですけど、その気になって読むと、分るような分らないような、めちゃくちゃじれったくなる、実に不思議な悪文なんです。 例えば、次のような文をご覧ください: 「アドラーは他の人にそれがたとえ共同体感覚であっても押しつけることはできない、それを実践するのは自分であって他の人へ押しつけることの危険性をよく知っていたのでしょう」(115頁) 「私自身は、本書の最後で(第五章)触れますが、目の前にいるこの人を離れて、共同体や人類というものをさしあたって想定しないでおこう、と考えてきました」(115頁) ここに挙げた二文は連続した段落なのですが、どうです? 黒板を爪でひっかくような、背筋にぞっとくるような感覚がありません? 最初の文は、「てにをは」が果たしてこれで正しいのか、よく判りません。私だったら、 「たとえ共同体感覚であっても、それを他人に押しつけることはできない、というのがアドラーの考え方です。やるべきだと思うことは、自分がやればいいので、自分以外の他人も同じように行動すべきだなどと期待したり、それを強要したりするのは危険なことであることを、アドラーはよく承知していたのでしょう」 などと添削するでしょう。 二番目の文では突然出てくる「目の前にいるこの人」というのが誰のことなのか、唐突過ぎてよく判りません。私だったら、 「本書第五章で触れるように、私自身は「共同体」とか「人類」といったような漠然とした概念で人間のことを捉えることは避けようと努めてきました。そうではなくて、友人や知人など、私の周りにいる実在の人々のことを思いうかべながら、人間のことを考えてきたつもりです」 とするかな。 また、岸見さんという人は、やたらに「このことは第○章で述べますが」という形で、肝心なことを先送りすることが多いのですけど、それもあまり頻繁だと、どうかと思います。例えば、 「そこでそれに代わって、社会適応でもなく、共同体感覚でもなく、私は次章(第四章)で見るように、「善」あるいは「幸福」を私的感覚がたんなる私的ではないための判断基準として考えてみようと思います」(116頁) とかね。この文も、何がどうかかるのか、全然分りませんな・・・。 とにかく、こんな調子で、本書全頁に亘ってヘンテコリンな日本語がずっと続くので、内容よりも、その日本語のヘンテコリンさに気が行ってしまって、何を読んでいるのかさっぱり分からなくなってくるんですよね・・・。このヘンテコリンな日本語のまま、この本を出してしまったのは、編集者にも責任があるな。 多分、岸見一郎さんという人は、いい人だと思うのですけど、本を書くべき人ではないですね。だから、もし本を出したいなら、古賀史健さんみたいな人に手伝ってもらって、翻訳してもらった方がいいと思う。 ということで、『アドラー心理学入門』という本は、期待したほどの出来ではなかったのでした。それでも、この本の第五章は少しまともに読める章になっていて、書いてあることも納得できることが多かったので、もしどうしてもこの本を読むなら、まず第五章から読み始めることをお勧めします。そうして岸見一郎節に体を慣らしてから、先行する章に寛容な心をもってトライしてみてはいかがでしょうか。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】アドラー心理学入門 [ 岸見一郎 ]価格:699円(税込、送料込)
October 11, 2014
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あれやこれやの支払いをクレジット・カードで済ませているもので、ポイントがやたらに貯まって、今回はデジタル体重計をもらうことにしました。 で、生まれて初めて最新の体重計に乗ることになったわけですが、すごいね、コレ。一体全体、何なの? だってさ、この体重計、地球の重力まで計算に入れているらしく、日本のどこで体重を測るのか、使用者が申告するんだよ・・・。そこまでやるかね、普通? でまた、体重を測ろうとして上に乗っただけなのに、肥満率を示すBMIだとか、体脂肪率だとか、筋肉率だとか、みーんな分かってしまう。私だって知らなかった私自身の身体の隅々のことまで、なんでこの体重計は知っているんだ? 体重計も、日々、進化しているんだねえ・・・。 そのうち、体重計に乗ると、「性格、悪い」とか、そんなことまで分かるようになったりして。 ところで、この体重計には、「肉体年齢」ってのを測るシステムまで備わっているんですよね! で、それによると私の肉体年齢は・・・ 「39歳」だそうでーす! うーむ、実年齢よりも一回りも若いとなれば、悪くないんじゃないのって、桃井は思うわけ。・・・桃井じゃねえよ。 ということで、これからしばらく、私の周辺に居る人たちは、「俺さあ、肉体年齢39歳なんだよね・・・」って自慢を当分聞かされることになると思うので、覚悟しておいてくださいね~!これこれ! ↓【送料無料】オムロン【体組成計・体脂肪計付き】体重計 「カラダスキャン」 HBF-253W-BK ブラ...価格:15,843円(税込、送料込)
October 10, 2014
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ついに出版社から拙著のパイロット版が届きました~! パイロット版というのは、まあ、市販されるものと同じものではあるのですが、見本的な位置付けで、先行的に出版されるものでありまして。市販版は、来週、15日に書店に並ぶはず。 今回の本も、装丁とかめちゃくちゃ凝ってます。本文も、変形二段組みでね。 内容もねえ、相当アクロバティックよ。個々の章が、他の章と微妙に絡み合うという。章同士は、まるで別の話題のようでいて、底流のところでつながっていたり。キモとなるような事実は、別な場所で必ず2回言及してあって、「あ、これとこれがここでつながるの?!」的なおもしろさも。アカデミック色の強い章の中にお遊びの章を混ぜ、緩急の効かせ方もバッチリ。一言で言って、釈迦楽ワールド全開、ってところかな。 自分で言ってりゃ、世話ないね。 でも、まあ、自分としては十分楽しんで作った本ですから、きっと読んでも楽しいはず。この先、乞うご期待ということで。
October 9, 2014
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一度に三人の日本人がノーベル物理学賞を受賞されたそうで、目出度いことでございます。これで20人目くらいですか? アジアでこれだけノーベル賞を取っているのは日本くらいなもので、その点では他を圧倒しております。 で、その受賞理由が「青色発光ダイオード」なわけですが、いいですね、この「発光ダイオード」という言葉の響き。 「発光ダイオード」といえば、ラジオだよね! 今を去ることウン十年、ラジオ少年だった釈迦楽君は勉強机の脇に、あるいは枕元に、お気に入りのラジカセを置き、日がな一日、ラジオ放送を楽しんだものですが、特に深夜放送となると、部屋は真っ暗、その中にラジカセのラジオに付いている小さな赤い発光ダイオードだけが、当該のラジオ放送の電波を正しく受信していることを示しながら、私の心の友となってくれたのでございます。あの一つ目の赤い光、20世紀のキュクロープスか、はたまた1970年代のHAL9000か、あのダイオードの小さな光は、思い出すだけで、何ともいえぬ郷愁の念を私に与えてくれるなあ。 ま、それはさておき。 しかし、こんな感じで、人類の役に立つ発明・発見に対してノーベル物理学賞なんかが出てしまうと、ますます文科省の「理系賛美、文系蔑視」の方向性が強まるよね! 今、文科省は、日本の国立大学から文科系の学部を一掃しようとしておりまして。つまり、文系の学問なんてのは役に立たないものばかりで、その役に立たないことを国費を使って、国民の税金を使ってやる、なんてことは言語道断、というのが、文科省のスタンスなわけ。そんなものは、私学に任せておけばよいと。 「私学に任せておけばよい」というのも、随分な言い方で、文科省は基本的に私学を馬鹿にしているんだろうね。私学なんてどうせ自分たちで勝手に遊んでいるだけなのだから放っておけ、ということですからね。 とにかく、だから、文系の学問は私学で遊んでいてもらって、国の金は医学とか、理工系の学問に重点配分すべきだ、という文科省の方針が、ますます加速しそうな感じ。文学なんて、もろ役に立たない学問をやっている身としては、非常に首筋が寒い感じ。 というわけで、発光ダイオードのホットな話題で、昔を思い出し、夢見心地になったり、暗澹たる将来を見据えて冷え冷えとしたり、忙しくしているワタクシなのであります。
October 8, 2014
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まあ、これは私のたわけた独り言なのですが、最近、文学関連の学会発表があまり面白くない。 私の学生時代は、まだ新批評系の文学研究が幅を利かせていたわけですが、新批評のキモは「精読」でありまして、特定の文学作品を、まさに重箱の隅をつつくように精読していって、その果てに見えてくるものは何だ、というような読み方をすることが多かった。これは、下手をすると「木を見て森を見ず」的な落とし穴が無くはないものの、面白い発見があることも多く、これはこれで文学研究の方向性としては間違ってない、と思うところがあります。 で、その後、今から30年前位から、今度は「新歴史主義批評」ってのが出てきて、これは先ほどの「新批評」の弊害を補うがごとく、「森を見ながら木を見る」と言いましょうか、個々の作品の時代背景などを十分に読み込むことで、当該の作品が持つ時代性を明らかにする、という方向性を持っていて、これは実に面白かった。新歴史主義系の文学研究が盛んだった頃というのは、今思えば、学会が一番面白かった頃ではなかったかと。 しかし、その後、「脱構築」をキーワードとした新しい批評理論が導入され、「作品は、意味を生み出しているようでいて、実はその意味を覆すような意味も同時に生み出しているので、成立すると同時に崩壊もしている」みたいなことを言いだす人が沢山出てきて、学会のあちこちで「脱構築」「脱構築」という声ばかりが聞こえだした。その頃から、私にとっては学会がつまらなくなり始めたわけですよ。 で、その後、色々な看板が登場しまして、「ネイチャー・ライティング」(作品の中に自然のことについて少しでも言及があれば、それはみんなネイチャー・ライティングさ!)ってのがありましたし、「クイア・リーディング」(誰の家にもクローゼットがあって、そこに同性愛者であることを示す証拠の品を隠しているものなのさ!)ってのもありましたが、私には何のことやらさっぱり。そういうことを指摘して、それで作品の解釈が面白くなるのかい? 私にはちっとも面白くならないぜ? ってな感じ。 で、面白くないなあ、と思いながら、学会から敢えて身を遠ざけているうちに、何となくそういう看板も廃れて行って。「クローゼットがどうのこうの」というのはまだ少し生き延びておりますが、さすがに「脱構築」とか言い出す人は姿を消しましたね。今、「脱構築」とか言い出すのは、ちょっと古いギャグ(「そんなの関係ねえ!」とか)を今だに使っているような恥ずかしさすらあるのではないかと。ま、いずれクイア・リーディングお得意の「クローゼット」という用語も、この種の恥ずかしさをまとう日がくるでありましょう。 で、それでは今はどんな批評理論が流行っているかというと、(そろそろ聞き飽きてきたジェンダー批評をやや別として)特に何も流行ってない。何も流行ってないなら、元の新批評と新歴史主義に戻るかというと、そうでもないので、特に若い人ほど、どことなく寄る辺ない方法で、ふわ~っと研究している。とりわけ、最近の学会って、院生の発表者が多くて、力のある中堅以上の発表者が少ないもので、なおさら、そういう感じになってしまうんだなあ。 ってなことを言うと、本当にいい研究をしておられる若い研究者の方々に申し訳ないのですが、あくまで全体的な傾向としてそんな感じがする、という個人的な実感が私にはあります。 で、先日、北海道の学会で、言語学をやっている旧友(っていうか文字通りの「畏友」)に、「なんか文学研究って、ある種、壁にぶつかっているようで、イマイチつまらないんだけど、言語学って、今、面白いの?」と聞いてみた。 すると、「すごく面白い」と。 へえー、そうなんだ・・・。 じゃ、どういう風に面白いの? とさらに問うと、言語学では今なお、色々な発見があると。 例えば、最近もアマゾンの奥地で、未知の言語が発見された、というのです。しかも、その未知の言語が驚くべきもので、何と数詞の概念がまったくないと。 言語学的に言うと、数の概念というのは非常に重要で、自分は何歳であるとか、三日後に会う約束をするとか、100円で品物が幾つ買えるとか、とにかくコミュニケーションの中で数について言及することは多く、むしろ数の概念を伝えるために言葉が生まれた、と考える説すらある。 ところが、この新たに発見された言語には、その数の概念がまったくない。といって、動詞の活用などは非常に複雑で、幼稚な言語ではない。 となると、「数詞の概念が言語発達の根底にあるのではないか」という仮説は、この新言語の発見によってとりあえず否定されてしまうわけですな。このこと一つとっても、言語学的な事件です。 また、この言語には、関係代名詞によって文をとめどなく長くしていくこと(例えば日本語であれば、「この大きくて、色のきれいな、そして値段の高い伊万里のお皿を買ったのは、私の義理の兄、すなわち嫁さんの兄貴が経営している、恵比寿にあるお高級な店で、・・・」というように、修飾をいくらでも重ねることができる)ができない、という特徴があるそうで、これは日本語や英語など、通常の言語の概念を覆すものだったと。 となると、これまで言語学の常識と思われていたものが、この未知の言語の出現で、根底から覆されたことになるわけで、そのため、一方ではこの新言語の構造を完全に把握する、という作業が必要となったほかに、従来の言語学の常識を大がかりに修正し、新たな言語学の常識を構築する必要が生じたわけ。まさに世界中の言語学者にとって、大きな宿題が投げかけられたようなものなんですな。 また、こういう突発的なトピックのみならず、言語学的な発見というのはいまだに多く、例えば英語の構造を研究することによって、それとの比較で、今まで自覚されていなかった日本語の特殊な構造を新たに発見する、というようなことはいくらでもあると。だから言語学は、過去も現在も、そしておそらく未来においても、エキサイティングな学問であり続けるであろうし、自分はそれを楽しんでいる、と、私の友人はこともなげに語ったのであります。 はあ~! そ、そうでありましたか~! 言語学と文学、同じ文系の学問でも、よりサイエンスに近い言語学と、そうでない文学とでは色々と異なりますし、同列には語れないのは当たり前ですが、しかし、言語学は今なお未知なる発見に満ちていると言われてしまうと、何だか、招魂棒でビシッと打たれたような感じは受けましたね。活を入れられた、というか。 人のことを批判する前に、まず自分で、こうすれば文学研究は面白い!というところを、出さないといけませんな。そういうことを痛感させられただけでも、今回の北海道学会は実りがあったというべきかなと。 さてさて、数日後に発売になる拙著は、そういうものになっているかどうか・・・。
October 7, 2014
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ひゃー、昨夜遅く、北海道から戻りました~! 台風の動きによっては、名古屋に戻れないこともあり得るか? と心配しましたけど、私にとっては幸いなことに、台風の影響による強い向かい風のため、到着時刻が20分ほど遅れた程度で、なんとか無事に戻れたという。もっとも、途中何度か飛行機がガタガタと揺れ、軽く不安になりましたけどね。 さて、北海道ではアフター学会でのお楽しみもバッチリ。5月に北海道を訪れた際には、満席により入店することができなかった「松尾ジンギスカン」で、おいしいジンギスカン料理を堪能しながら、同門の友人とおしゃべりを楽しむことも出来ましたし、最終日の午後には、これまた高校時代からの旧友(現在北大教授)と7年ぶりに会って、互いの近況を報告し合うこともできましたしね。 それから、学会の懇親会では、現在私が進めているプロジェクトに関して、大御所の先生から一つ有力なアドバイスをもらうこともでき、それも有難かった。 ということで、私にとってはなかなか有意義な北海道学会だったのであります。 しかし、やっぱり少し疲れましたかね。 ということで、今回の旅で見聞きした面白い話に関しては、また後日報告することにしまして、今日は無事帰宅の報告のみにて御免下さい。
October 6, 2014
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先日、木田元氏の『闇屋になりそこねた哲学者』という本が面白い、ということを書きましたが、その印象は最後まで読み終わった後も変わりませんでした。ただ、後半、ちょっと箇条書き的な、テーマ毎の話になってしまって、物語性が若干薄れたのが惜しいところではありましたが・・・。 ところで、この本はある傑出した哲学者の一代記なので、その面白さには色々な側面があるのですが、その一つとして、木田さんが如何に外国語習得に努力されたか、ということがあります。私も大学で語学の授業なども受け持ちますし、自分自身の問題としても興味がありますので、今日はちょっとその辺のことについてご紹介しておきましょう。 木田さんという人は、もちろん、素質的にすごく頭のいい人なのだと思いますが、しかし、戦中・戦後の日本の状況に翻弄されて、学歴的には結構回り道をされている。いわゆる当時のエリート・コースである「一高から東大」という路線ではないんですな。 まず木田さんは、終戦を海軍兵学校の生徒として迎えている。つまり、エリート軍人への道筋に乗った途端に終戦になって、いきなり前途がなくなってしまったわけですな。 で、戦後の混乱の中で旧制高校への進学の道が断たれた木田さんは、郷里の東北地方に戻って新設の農業学校に入学する。当時GHQは、日本に工業国としての道を歩ませると物騒だから、農業国へ変えてしまおうとしており、それで各地に農業学校が創られていて、木田さんもとりあえずそこに籍をおいたんですな。 もっとも、元より農業をやる気などさらさらない木田さんは、その学校でヤンチャぶりを存分に発揮し、破天荒な武勇伝を築き上げるのですが、やがてドストエフスキーの小説などに触れるにつれ、哲学を勉強したいという強い思いを抱くようになり、とりあえずその方面の進路を考えるようになる。 ところが、当時東大とか京大などの旧帝国大学は、旧制高校からの進学生しか想定していないので、入学試験に外国語を二種類、例えば「英語」と「ドイツ語」みたいな感じで二つ課していたんですな。ところが木田さんは、第二外国語どころか、英語すらもうあやふやになりかけていて、とてもそんな大学への進学は無理。そこで、外国語を一つしか課していなかった東北大への進学を目指すことになります。 とはいえ、東北大を受験するにしても、英語の実力が足らない。弟さんの教科書を借りてみると、高校1年生程度の英語すらよく分からない。 そこで木田さんはどうしたか。ここが重要です。 ここで木田さんはすごくナチュラルな選択をするんですな。曰く、「基礎からやり直すしかない」と。そこで弟さんが使い古した中学校1年生の英語の教科書から、つまり英語をイロハから勉強し直すわけ。ここが偉い。 しかし、そのレベルの教科書なら1年分を1週間でマスターするのは楽。で、ほんのふた月ばかりで中学から高校までの英語の教科書をきっちりさらい、その後、荒牧鉄雄著『高等英文解釈読本』という、当時の受験参考書(木田さんによると名著である由)を、二回繰り返してやり、この本に出てくる6千語の英単語もすべて覚えたと。これで、受験用の英語力はばっちりついたそうです。そしてその後もカーライルなんかの英語のエッセイなどを読み進め、少なくとも英語に関しては、学校の先生あたりよりはよほど読めるようになってしまったのだとか。 とまあ、そんな猛勉強で大学受験を突破した木田さんですが、木田さんの語学修行はまだまだ続きます。 まず大学に入った4月、今度はドイツ語の勉強を始めます。何しろ東北大に入学した同級生の中には、旧制高校でさんざんドイツ語を勉強した上で入学してきた奴もいますので、このスタート時の差を早く埋めなくてはならない。 そこで、木田さんが何をしたかというと、まず薄っぺらいドイツ語の文法書を買ってきて、1週間くらいで読破して、ドイツ語文法のおおよそのところを頭に叩き込んだ。 そして続いて関口存男の『新独逸語文法教程』という、分厚い文法書を買ってきて、1日1課ずつこなしたと。練習問題もきっちりやり、出てくる単語もすべて覚えた上で、です。で、単語を覚えるのも、とにかく毎日、前日に覚えたものの復習をしながら、日々新しい単語を覚える。もう、毎日欠かさずやる。そうやって、毎日8時間(他の教科の勉強も含めると15時間)、語学習得に努めて3カ月。4月1日から6月30日までで、目標の言語をほぼマスターしてしまった、というのです。 そして、以後、毎年4月から6月の3カ月は語学月間と位置付け、大学1年でドイツ語、2年でギリシャ語、3年でラテン語をマスターし、大学院1年の時(当時大学は3年制だった)にはフランス語をマスターしたというのですから、すごい。もちろん、これは必要に駆られてのことで、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語が読めないと、ヨーロッパの哲学の勉強ができないから、それらをマスターしたわけですな。 うーむ! すごい・・・。 さて、ここまで語って来た木田さんの語学習得法(独習法)には、いくつかのカギがあると思います。 一つは、「基礎からやる」ということ。そしてその基礎とは「文法のイロハ」であること。 二つ目は、「単語の学習」に力を入れること。また丸暗記を重視すること。 三つ目は、短期間に集中してやること。木田さん曰く、短期間にやると、自分の実力が日に日に上がっていくのが体感できるので、学習自体が楽しくなってくるとのこと。 そして四つ目は、何のために語学習得するのか、目標をはっきりさせること。 この四つが揃ってこそ、語学というのは習得できるのであって、逆に、この四つのうちのどれかが欠けてもいかんということですな。 まあ、これは木田さんの個人的な語学習得の道であるわけですが、実に示唆に富んでおります。むろん、これは一義的には「読む」ための語学で、必ずしも「聞き」「話す」ための語学ではないかもしれませんが、しかし、そのことも含めて(つまり、ちゃんと文法が分かり、語彙数も十分にある、という状態が、語学の基礎であるという意味で)、外国語を学ぶ手順と方法はこうだという、一つの成功例ではあるでしょう。 ということで、この本、木田さんの豪快な語学修行の虎の巻としても、相当面白く読めると、私は思うのであります。3カ月で、一つの外国語をマスターしてしまうというのですから、これが本当の「スピード・ラーニング」。ただし、毎日8時間の勉強が必要なのであって、「聞き流すだけ」で、努力要らずで習得できると言っている、別な「スピード・ラーニング」とは内容は大分異なりますが。 ま、とにかくこの本、語学を志す人にとっても、ある意味、必読です。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】闇屋になりそこねた哲学者 [ 木田元 ]価格:777円(税込、送料込)
October 2, 2014
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ロンドンから戻ってすぐの9連勤も、ようやく明日で終了。いやあ、疲れました。 この間、何をやっていたかというと、一つは人事、一つは時間割編成に関する仕事だったのですが、この両者に共通することは、「自分がへまをすると、他人に迷惑がかかる」ということ。 自分がへまをして、自分が困る、というのなら、別にかまわないのですが、自分のミスで他人に迷惑がかかる、という状況は、結構、プレッシャーがかかるもので、特に私のように書類仕事の下手な人間にとっては、神経を使うわけですよ。 ということで、このところ毎日、疲労困憊して帰宅して、夕食後に2、3時間ほど寝てしまい、それから深夜に起き出して夜のお茶を飲み、それから風呂に入ってまた寝る、という生活。 しかし、それも明日まで。なぜなら・・・ 明後日からは、北海道だから! いや、遊びに行くわけじゃなくて学会で行くのですが、それにしても仕事場から物理的に離れるというのはいいものでありまして。今は北海道に住んでいる旧友にも会えるし、他大学に勤めている友人にも会える。ちょうどいい気分転換であります。 それに、北海道から戻った途端、拙著の発売だ! ということで、ようやく少し元気が出てきたところ。 さてさて、明日は後期最初の授業ですが、まあそれは適当にこなして、北海道に行ったら何を食べようか、とか、そんな愉しい計画に、そろそろ取り掛かりますか。
October 1, 2014
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