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「穂高神社の尾長鶏」 徘徊日記 2021年3月19日(その5)安曇野あたり 信州、安曇野の「穂高神社」でうろうろしています。ご神木も巨大で狛犬も可愛らしい、素朴ないい雰囲気の神社です。 で、樹齢500年を超えるという大欅の足もとでこんな写真を撮りました。これはどうみてもニワトリ、それも、いわゆる尾長鶏ですよね。 ご神木はこんな感じで、二羽が放し飼いです。 うーん、なんか意味ありげですが、なぜこの二羽が柵もない境内でこうやってノンビリしているのかはよくわかりません。 この神社の「ノンビリ」感は尋常ではありませんね。で、後ろを振り返るとこんな石碑がありました。 釈迢空(しゃく ちょうくう)ってご存知でしょうか。歌人で、国文学者、もう、偉大なというしかない民俗学者、折口信夫(おりぐちしのぶ)の歌碑です。ものぐさ太郎 このよひはやくねぶるらし あづみの大野こほりそめつつ そうなのです。この神社は、ぼくのようなナマケモノだった子供たちの夢の人「ものぐさ太郎」を祀っている神社でもあるのです。境内に広がる「ノンビリ」は、当然といえば当然の雰囲気なのですね。 「ものぐさ太郎」の草紙の碑がありました。太郎君が信濃の中将とかに出世する話で、高校の古典の教科書に出てきたりもする話ですが、ものぐさのままがいいのにと思ったりしました。 この神社には、他にも二人の人物の像がありましたよ。 こちらは白村江の戦いで戦死した阿曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)の像ですね。安曇一族の象徴のような人物で「若宮」としてお社もあります。古代、九州の海の民だった安曇一族が、信州、松本の山の民になるというドラマについてはよくわかりませんが、ちょっと、興味惹かれる人物ですね。 この神社のお祭りは「お船祭り」というそうで、こんな船も飾られています。 どこかに、海の民のムードが残っていて、面白いですね。 さて、もう一人の銅像がこの方です。 泉の小太郎君ですね。童話作家として名高い松谷みよ子さんの童話『龍の子太郎』のモデルなんだそうで、そっちの名前ならご存知の方も多いのではないでしょうか。なんだかよくわからない動物に乗っていますが、「犀龍」という動物だそうです。 いやはや、あれこれ面白いものがいっぱいありますね。それにしても、あの尾長鶏は何処かに行ってしまわないのでしょうか。駐車場はすぐそこなのですが、長閑なものですね。 これで穂高神社はおしまいです。これから松本の市街に戻りますね。穂高神社の徘徊(その3)・(その4)はこちらからどうぞ。ボタン押してね!
2021.03.31
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「穂高神社の狛犬」 徘徊日記 2021年3月19日(その4)安曇野あたり 穂高神社の拝殿正面の狛犬君の「阿!」 こちらが「吽!」 どうです、堂々たる姿というか、妙に愛嬌がある反り返りかただと思いませんか。この徘徊でいくつか神社を巡りましたが、松本で出会った狛犬君たちは皆さんこういう雰囲気というか、胸をそらしていらっしゃるのが共通していますね。 この穂高神社には、ぼくが気付いただけで三組の狛犬君たちがいらっしゃいました。 こちらがもう一組の狛犬君です。「阿吽」の「阿!」の口の形が上の狛犬君と違います。 同じく、こちらが「吽!(うん)」ですね。笑っているみたいですが、口は閉じています。 「ネッ!」姿勢がいいでしょ。三組目は若宮の矢代の前にいらっしゃいましたが、こんな感じの「阿!」でした。「吽!」はこんな感じ。 置かれている場所が低くて、触ることが出来ます。大勢の人たちが撫ぜたのでしょうか。顏の前面が「チビ」てしまって「つるん」としていて、それがとても愛嬌があって気に入ったのですが、いかがでしょう。 若宮には安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)という神さんが祭られているらしいのですが、この方がこの神社の縁起では重要人物らしいのです。で、本殿以外では、この社にだけ狛犬君がいるというわけなのです。 その上、この社の後ろにはこんなデカイ木が植わっていました。 大欅ですね。樹齢500年という古木でしたが、この木のふもとに面白いものがいました。それは何でしょう?続き(その5)をお楽しみに。ボタン押してね!
2021.03.30
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ジェイミー・ロイド「シラノ・ド・ベルジュラック」神戸アートビレッジセンター ナショナルシアター・ライヴを、ノンビリ見続けて3年たちました。大阪まで行けば見落としはないのですが、地元のアートビレッジで見られるものを見ようという気分です。 アートビレッジは公営の施設ということもあってか、コロナ騒ぎの影響でプログラムが変わったような気がしますが、今回は久しぶりのナショナルシアター上映会で、演目は「シラノ・ド・ベルジュラック」でした。 ここの所、映画でも「シラノ」をやっていましたが見ていません。まあ、古典演劇の一つでしょうね、スジはぼくでも知っています。「鼻の男」の「悲しい恋」のお話です。まあ、騎士道物語の一つといってもいいのでしょうか。 今回のライヴ版シラノは現代劇でした。主人公シラノは鼻なんか気にならないダンディーで、ロクサーヌが別の若い男に恋して、シラノに惚れないのが、なぜだかわからない容姿です。 で、シラケちゃいました。なんかひどい感想ですね。 以前、シェークスピアの、確か、マクベスを現代化して「傭兵」の話にしていたお芝居がありましたが、イギリスの現代劇では、こういう演出はよくあることらしいですが、見ている側がついていけないと終ってしまいますね。 今回のシラノは、舞台とかもシンプルで抽象的、役者はマイクを装着していて、動きは現代の青年です。その上、詩的なセリフがラップ調で畳みかけられます。 ある意味、見どころはタップリなのですが、シラノは「言葉」の芝居だと思うのです。英語を耳だけで理解できればまだしもですが、字幕だよりの目に映る「セリフ」だけは原作のままの「古めかしい」ものですから、そのギャップについていけませんでした。 ナショナルシアター・ライヴで、外国語の芝居をおもしろがって観てきましたが、初めての挫折でした。というわけで、これは、お芝居に対する悪口ではなくて、ぼく自身の観劇失敗の記録です。あしからず。原題「Cyrano de Bergerac」上演劇場「プレイハウス・シアター」上映時間 3時間6分(休憩約20分含む)作「エドモン・ロスタン」脚色 マーティン・クリンプ演出 ジェイミー・ロイドキャストジェームズ・マカヴォイ他2021・03・26-no30神戸アートビレッジセンター
2021.03.30
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熊切和嘉「海炭市叙景」十三第七芸術劇場 2020年の暮れにコロナが再炎上し始めた頃から、遠くの映画館に出かけるのが億劫になってしまい、スケジュールも調べないままでしたが、ふと「十三第七劇場」のホームページをのぞくと、なんと、「海炭市叙景」をやっているではありませんか。 その上、本日2月25日(水)が最終日となっています。これは、まあ、とるものもとりあえず、という気分であわてましたが、上映は、夕方の5時過ぎからということなので、とりあえず、三ノ宮で予定していた1本を見て、つまり、まあ、とるものを取ってから移動することにして、出かけました。 佐藤泰志の原作小説は「海炭市」という架空の街を舞台にした「短編連作集」なわけですが、ぼくが好きなのは「まだ若い廃墟」と題された作品で、なけなしの金をはたいて「初日の出」を見るために、兄、妹の二人でロープウェイに乗り、登った函館山の展望台から帰りの金がないので兄一人歩いて降りて、その途中に遭難するという話なのです。 竹原ピストルと谷村美月の二人が兄と妹を演じて、映画のプロローグになっていました。 始まりのシーンは学校の教室でした。造船所で大きな事故があったようです。教室にはいってきた別の先生から早く帰るように促された少女が廊下に出ると、少年がポツンと待っていました。 兄と妹の二人で暮らす、今では珍しい棟割長屋風のアパートや、妹の作ったお弁当を食べるシーンがあります。 兄が働く造船所の進水式のシーンで大きな船が映し出されます。喜びにあふれた若い工員が、滑るように動き始めた巨大な船体と一緒に走り出し、手を振っています。 シーンがかわり、やがて、大量解雇の一人として、職を失う青年の姿が映しだされます。 初日の出を見ることを思いついた兄が妹を誘います。当たり前ですが、大晦日の夜です。ロープウェイ乗り場に急ぐ二人が市電の線路を渡ります。兄は山の上で、珍しくビールを飲みます。しかし、そこから、兄だけが帰ってきません。ここで、タイトルロールが流れ、海炭市の日常が始まります。 映画は、その日、二人の、すぐ後を通過する市電に乗っていた人たちが、それぞれ生きている小さな世界の集合として「海炭市」を描くという方法で出来ていました。 チラシの二人は市電に乗っていたプロパンガス屋を継いだ加瀬亮と、再婚した彼の連れ子で義理の母親から虐待されているアキラ少年の親子です。ぼくはチラシを見た時、この二人が「まだ若い廃墟」の兄と妹だと思い込んでいました。 映画が小説集の登場人物を、おなじ街に生きる群像としてすれ違わせたり、出合わせたりすることで佐藤泰志の世界を具現化していることに「おもしろさ」を感じました。 この市電の運転手も、アキラ少年が毎日のように通うプラネタリュームの職員も、小説では、それぞれの短編の主人公たちなのです。 映画は短編小説集の登場人物たちをオムニバスとして並列するのではなくて「海炭市」という街を主人公というか、昔のハヤリ言葉でいえば「サーガ」として描いているわけで、監督が「映像」で「小説」を読み解いていくのを見ている印象ですが、小説の世界と映画の世界は異なっています。そこがこの映画の、二つ目の面白さだと思いました。 そういうわけで、小説そのものが「暗い」のですから、映画もまた「暗い」のはしかたりません。まあ、それが見たくてやってきたわけですから。 映画のプロローグで、あっけなく死んでしまう竹原ピストル君が、進水していく大きな船の船体に向かって、喜びにあふれた笑顔で手を振っていたシーンと、最後の最後に、立ち退きを拒否して暮らしている老婆トキが、仔を孕んで帰ってきた飼い猫に「産め産め」と呼びかけるシーンが印象に残りました。 東北の震災の1年前に、わたしたちの社会は、すでにここまで来ていたのだという、ため息のような感慨が残った映画でした。監督 熊切和嘉原作 佐藤泰志脚本 宇治田隆史撮影 近藤龍人美術 山本直輝音楽 ジム・オルークキャスト谷村美月(井川帆波)竹原ピストル(井川颯太)加瀬亮(目黒晴夫 )三浦誠己(萩谷博 )山中崇(工藤まこと )南果歩(比嘉春代 )小林薫(比嘉隆三 )中里あき(トキ )2010年・152分・日本2021・02・25十三七芸no6
2021.03.29
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岨手由貴子「あのこは貴族」シネリーブル神戸 若い友人に勧められてみました。ぼくには、最近の日本映画に対して、偏見のようなものがあって、あんまり見ません。 しかし、その友人の「いや、これはちょっと違いますよ!」 という言葉が決め手になって、出かけてきました。 原作者の小説も知らないし、この監督の作品も初めてなののですが、予告編を見ていたものですから、勝手に筋立てを想像していました。見終えると、ほとんど、そのとおりだったことに驚きました。最後のシーンは、そうはならないと思っていた方で終りましたが、映画そのものに対する印象はさほど変わりませんでした。 ここからは、「過去」しか考えるための杖を持たない65歳を過ぎた老人のたわ言だと思ってお読みいただきたいのですが、いちばん衝撃的だったのは、この映画で「貴族」と呼ばれている人たちの下品さでした。貴族の令嬢、門脇麦さんの姉や母たち、嫁ぎ先の姑である高橋ひとみさんの、とても貴族とは思えない「ことば」と「行動」の品のなさは、ぼくにとっては異様でした。 演出はこれらの女性群の中で、門脇麦さんが演じている末娘榛原華子の「自立」とかを描きたかったようですが、そういう演出意図はともかくとして、例えば、高橋ひとみさんの演技そのものに感心しました。人間をこんなふうに薄汚く演じるのは、ちょっとしたことだと思いました。 実在するKO大学が「貴族」的な世界の象徴のように描かれていますが、高度経済成長の最中KO幼稚舎のくじ引き入舎に奔走した似非「セレブ」の「下品さ」が評判になったことがあります。あの結果が高良健吾君が演じている青木幸一郎なわけで、エリートで秀才である彼に内実がないのはさほど不思議とも思えませんが、それがなぜ「貴族」的だと描かれるのかとクヨクヨ考えていて思い当たったのは、この映画の題名で使われている「貴族」という言葉はSNS上の隠語のようなものなのではないかいうことです。 そういえば「上流階級」という言葉も流行っているようですが、「貴族」という言い回しが、「歴史性」も「現実性」も、あるいは「人間性」もない、浮遊するコミュニケーション記号として印象操作に使われる、あの「ことば」、まあ、ぼくがブログを書いていて「イイネ」がうれしい、あれなんだということです。 というわけで、この映画は、KO大学を続けることができない実家の貧困も、水商売も、起業も、松濤という地名も、医者の娘であるセレブも、玉の輿の結婚も、ついでにいえばヴァイオリニストも、ベイエリアのマンションも、イメージでしかない「空虚」な記号化された現在を描いた映画だったのではないでしょうか。 印象に残るシーンが二つありました。 ひとつは水原希子さんが演じる時岡美紀と山下リオさんの平田里英という、田舎者コンビが「ニケツって久しぶりに聞く」と言って、自転車に二人乗りする場面です。 もうひとつは、自分が暮らす世界の空虚に気付き始めた門脇麦さんが橋の上で、向うの橋の上ではしゃいでいる見ず知らずの人に手を振って、振り返される場面でした。 それぞれのシーンは空虚な「現在」に「過去」と「未来」を導入するべく描かれていて、ぼくにも「リアル」を感じさせたのですが、何か引っかかるものがありました。 この映画では「お金持ち=貴族」出身の代表として榛原華子が相良逸子とタッグを組み、「地方出身の貧乏人」の代表として時岡美紀と平田里英の二人が組みます。 それぞれの二人が、それぞれの社会から疎外されていて、それぞれが発見した「自分らしさ」に正直な生活を生きようとしている、至極真っ当な青春ドラマなわけですが、引っかかりの理由は、それぞれの背景にある社会の描き方が、ぼくの目には「類型」ないしは「パターン」でしかないことです。 登場する男性に関しては、全員が、ただの「カス」な奴であることはすぐにわかりますが、女性たちも「カス」さにおいては負けてはいません。要するに、全員が、同じ「パターン」でキャラクター化されているわけです。引っかからないわけにはいかないでしょう。世の中が、そんなにべったり同じパターンなはずがないじゃないですか。 そんなふうに苛立ちながら、一方で、ひょっとすると、ぼくが「パターン」だと思う社会認識こそが、若い人達にとっては「リアル」な社会そのものとして受容されているのではないかという、なんともいえない不気味さも、また、感じるわけです。 原作がそうなのか、映画がそうなのか、よくわかりませんが、映し出される、それぞれの家族の描き方を見ながら、1960年代から70年代に、いや、もっと古かったのかもしれませんが、描かれた「上流社会」の「家庭=ホーム」ドラマを思い出しました。 父親が会社の重役で、娘が、結婚話や就職を機に、その家庭から自立に目覚めるというパターンだったと思いますが、何となく似ているという感想です。 ただ、決定的に違うのは、それらの作品では「戦後」であるとか、「経済成長」であるとかの、背景にある社会が「家族」にあったはずの「価値観」や「アイデンティティ」をなし崩しに壊していく流動感が、ドラマの哀しさを支えていたと思うのですが、この映画にはそれが感じられないところでした。 どうしてこんなふうに描くのかという、なんともいえない問いが、妙にわだかまった映画でした。 鑑賞の付録にこんな絵ハガキがついていました。ぼくは、えらいカン違いをしながらこの映画を見たのかもしれないと思ったのですが、まあ、しようがないですね。監督 岨手由貴子原作 山内マリコ脚本 岨手由貴子撮影 佐々木靖之美術 安宅紀史音楽 渡邊琢磨キャスト門脇麦(榛原華子)水原希子(時岡美紀)高良健吾(青木幸一郎)石橋静河(相良逸子)山下リオ(平田里英)佐戸井けん太篠原ゆき子石橋けい山中崇高橋ひとみ津嘉山正種銀粉蝶2021・03・08シネリーブルno87
2021.03.28
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「穂高神社の馬」 徘徊日記 2021年3月19日(その3)安曇野あたり こちらは安曇野にある穂高神社の鳥居。奥に見えるのが神楽殿(?)と本殿です。 神楽殿だと思う。 本殿に祭られている神さんは「穂高見命(ほだかのみこと)」という神さんで、海神さんらしいですね。もともと、北九州にいた「安曇族」の神さんだったそうです。この神社には奥院と嶺院というのがあって、奥院は上高地、嶺院は、なんと穂高山頂にあるそうで、日本アルプスの総鎮守なのだそうです。「海神」が「山神」になっているんですよ。チョット、カンドーしました。 式年遷宮という神事が、伊勢神宮とかにもありますが、ここでも20年に一度「本殿」を作り変えているそうです。そういえば、ここにも神馬がいましたね。 作りものですが、愛嬌があります。 こっちは白馬です。まじめな顔をしていました。神社に馬がいるのは地域性と関係あるのでしょうか。どこか、「東国」っぽいものを感じますが、勘違いでしょうか。 先ほどに本殿の写真の手前に自動車が、ちょっと映っていますが、交通安全の祈祷中でした。その右に見えているのがご神木。 木がデカイです。樹齢は100年どころじゃなさそうですね。なかなか、いろいろあって楽しい神社ですね。続きは(その4)でどうぞ。ボタン押してね!
2021.03.27
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和田淳「私の秘かな動く楽しみ」神戸アートビレッジセンター 和田淳特集上映という企画をアートビレッジがやっていました。で、ぼくはこう思いました。「和田淳って誰やねん?」 で、見てわかりました。神戸あたりなら元町映画館です。この映画館のファンならご存知だと思いますが、あの映画館で上映前に映る「マナー啓発(?)アニメーションフィルム」 があります。映画大好き「ばくー」とその仲間たちによる、映画館では恋人同士漫才をしないとか、家族宴会はダメとかいう、これですね。 和田淳特集HP 通常、元町映画館では、前の座席をつつくキツツキ兄弟が飛び立って、座席から転げ落ちた「ばくー」君が消えたところで終るのですが、キツツキ兄弟と「ばくー」君が、その後どうなったか皆さんはご存知でしょうか?元町映画館でも時々やったことがあると思いますが、普段は最後まで映しませんね。 そのあたりが気になって仕方がない人はこの和田淳特集上映会で終わりまで見ることが出来ます。そうです、あのアニメーションの作家が和田淳なのでした。 今回の企画のプログラムは以下のとおりでした。映画上映前CM マイエクササイズ(短編映画版)蠕虫舞手鼻の日やさしい笛、鳥、石声が出てきた人そういう眼鏡わからないブタ春のしくみ和田淳 CM&TV作品集グレートラビットAnomalies私の沼秋 東京藝術大学130周年記念プログラム ヴィヴァルディ「四季」より半島の鳥(新作短編予告編)マイエクササイズ(ゲーム版予告編) ボク的には「グレートラビット」のボール(?)とか、これですね。 和田淳特集HP それから、「蠕虫舞手」の泡の使い方が気に入ったりしましたが、まあ、そのあたりは人それぞれでしょうね。「マイエクササイズ」のワンちゃんだってかなり可笑しいですし。 ああ、それから「音」と「言葉」がおもしろいですね。なんか、「ふにゃふにゃぽっちゃり国」というのがあるのかもしれませんね。 で、自宅に帰って来て関連記事を調べていると兵庫県の広報とか神戸新聞とかに記事があって、「兵庫県のひと」なのだそうです。ちょっと嬉しかったですね。 アニメに出てくる「生きもの」たちの笑える「動き」を、「王子動物園」とか「動物王国」とかで見つけているとインタビューで答えているのも、ちょっと嬉しかったですね。 まあ、何がうれしいのか自分でもよくわかりませんが。監督 和田淳上映分 80分日本、フランス、イギリス2021・03・24-no29神戸アートビレッジセンター(no13)追記2023・06・24 ブログの記事を修繕していて思い出したのですが、元町映画館で本編が上映される前に流されているの映画のマナー編、映画上映前CMの中で聞こえてくる映画の音なのですが、あれ、なんていう映画が使われてご存知の方いませんかね。 最近、気になってしようがないのですが(笑)。
2021.03.27
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ベランダだより 2021年3月26日「アゲハ蝶が!」ベランダあたり「ちょっとぉー、ちょっとぉー。ちょっと、すぐ来てよ。ホラホラ!」「なにー?」「カメラもって、ほら、これ、これ。」 ベランダでチッチキ夫人が騒いでいます。シマクマ君、カメラを持ってやってきました。「これよ、これ。顔は撮ったらだめよ、顏は。」「顔て、誰のやねん。これ、蝶々やんか。蝶々の顔は何であかんねん。」「イヤ、わたしの顔はアカンの。」「なんで、アンタの顔を撮んねん?」 チッチキ夫人の肩の上にアゲハ蝶がとまっています。「どうしたん?」「その植木鉢の葉っぱから落ちてん。ひろってあげたら、ここにとまってんやんか。」 なんだかよくわかりませんが、孵化したばかりのようです。 まだ羽根を立てることができないようですが、動き回っています。そっとつまんで植木鉢にかえしました。 ジーとぶら下がったままです。 少し羽をひろげました。 ここまでは昨日のことなのですが、このまま日が暮れて、夜中に行方がわからなくなりましたが、朝、洗濯物を干していたチッチキ夫人が叫んでいます。「おった、おった。こんなとこにおったよ。羽ひろげてるわよ。ほら。」 パジャマのままでかけつけてパチリ、パチリ。 植木鉢から脱出して「お外」に出かけるようです。「そや、外から撮ったるわな。」 1階のベランダの縁に居るので、着替えて裏庭に出て、勇んでやって来てみると消えていました。ほんの数分だったのですがね。チョウの場合も巣立ちというのでしょうかね。「跳ぶなら跳ぶといえよな。」 わけのわからない独り言をいいながら、まわりを見ると、いろいろ咲いていました。 チューリップは相変わらずゴキゲンです。おっと、サクラも咲き始めました。 団地の花だよりは、明日くらいから載せますね。また、覗いてみてくださいね。じゃあ、シマクマ君家のアゲハ蝶騒ぎでした。ボタン押してね!
2021.03.26
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ギンツ・ジルバロディス「Away」神戸アートビレッジセンター 2020年の秋、アートビレッジで予告編を見ました。そのあと、この映画を見た東京在住の知人たちの好評が耳に入ってきました。で、待ちかねていましたが、神戸では2021年の3月になって、やっとのことで上映です。 ギンツ・ジルバロディスというラトビアという国の28歳だかの青年が、一人で、3年かけて作った作品「Away」でした。 かすかな、自然の音、風とか鳥の羽ばたき、それから、オートバイのエンジンの音が記憶に残りました。 81分のフィルムに、人間の言葉は一度も聞こえてきません! スクリーンに映し出される出来事はシーンとして存在しますが、意味としては存在しません。素晴らしいとしか言いようがありませんね(笑)。 彼が出会う「コトリ」であれ、「カメ」であれ、「ゾウ」であれ、目の前の自然の「アメ」であれ、「カゼ」であれ、「ナダレ」であれ、そのようにそこあるだけ。そのように飛び、そのように転び、そのように崩れ落ちてきます。 足元から広がる世界が鏡のように頭上を映し出していて、かつ、逆立ちした向うの世界も映して出しているように見えます。 少年は二つの世界の狭間に立って、青い空が広がる世界を見上げ、足元の世界を覗き込みます。なんとかして意味を見つけ出そうと、物語を読み取ろうとしているのは、見ているぼくの勝手であることがじわじわとしみ込んでくるような映像でした。 二つの世界とは「生と死」でしょうか、「過去と未来」でしょうか、「夢と現実」でしょうか。ああ、ちがうのです。そんな世界から遠く離れた、今、このときが描かれているのですね、きっと。 傷ついた「コトリ」をポケットに入れ、転んだ「カメ」を起こしてやり、そして、オートバイは疾走します。やがて世界の突端にやってきた少年は、何もかも捨ててみごとに跳びました。 見終えて、ため息をつき、自分がもう少年ではない事をつくづくと噛みしめました。紺碧の海原に跳び込む勇気など、ぼくにはもうありません。青空に群がる白い鳥たちの群れ が、遠い思い出のように浮かんできます。 なんと清々しく、若々しく、勇気あふれる映画でしょう。言葉を棄てた世界には、なんとワクワクとドキドキが溢れていることでしょう。こんなフィルムを一人で作り出す青年が、世界のどこかにいるのです。 若き日の大江健三郎が小説の題名にしてたたえた、W・H・オーデンの詩「見るまえに跳べ」の、こんな一節を思い出していました。Much can be said for social savior-faire,But to rejoice when no one else is thereIs even harder than it is to weep;No one is watching, but you have to leap. (拙訳)だれか人がいると、よろこんでアレコレ話すんだ。しかし、だれもいない場所で楽しむのは一人で泣くことよりも 難しいよ。誰も見ていてはくれない。でもね、跳ばなきゃならないんだ。 拙訳は、ジジイの生活を想定していますが、映画では「No one is watching, but you have to leap. 」 という言葉通りの少年の姿が心に残りました。 劇場で、こんな絵ハガキをもらいました。ごちゃごちゃ何にも書いてなくていいですね。 ちょっと蛇足ですが、本編が終わって、「言葉」を棄てた世界の豊かさに、どうしても気づくことが出来ない広告マンがあつらえたのでしょうか、明るく、実にそれらしいダイジェスト版が流れてきたのには驚きました。 明るく楽しい音楽も流れてきましたが、「この国」の哀しさを再認識することになってしまいました。映画に対する評価は人それぞれですが、こういうやり方は、ちょっと違うんじゃないでしょうか。監督 ギンツ・ジルバロディス製作 ギンツ・ジルバロディス編集 ギンツ・ジルバロディス音楽 ギンツ・ジルバロディス2019年・81分・G・ラトビア原題「Away」2021・03・24-no28神戸アートビレッジセンター追記2021・03・25W・H・オーデン「見るまえに跳べ」がありましたから載せておきますね。Leap Before You Look Wystan Hugh AudenThe sense of danger must not disappear:The way is certainly both short and steep,However gradual it looks from here;Look if you like, but you will have to leap.Tough-minded men get mushy in their sleepAnd break the by-laws any fool can keep;It is not the convention but the fearThat has a tendency to disappear.The worried efforts of the busy heap,The dirt, the imprecision, and the beerProduce a few smart wisecracks every year;Laugh if you can, but you will have to leap.The clothes that are considered right to wearWill not be either sensible or cheap,So long as we consent to live like sheepAnd never mention those who disappear.Much can be said for social savior-faire,But to rejoice when no one else is thereIs even harder than it is to weep;No one is watching, but you have to leap.A solitude ten thousand fathoms deepSustains the bed on which we lie, my dear:Although I love you, you will have to leap;Our dream of safety has to disappear.
2021.03.26
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「そば処 時遊庵 あさかわ」 徘徊日記 2021年3月19日(その2)信州・安曇野あたり 安曇野の「そば処 時遊庵 あさかわ」というお蕎麦屋さんにやって来ました。食べログ風な記事を書くのが苦手なので、偶然撮っていた玄関の写真だけですが、なんと待ち時間30分でした。 駐車場には東京とか関東、東海あたりのナンバープレートの自動車がたくさん駐車していました。しようがないので、お店の裏庭をぶらぶらします。 梅が咲いていました。 ここの所、神戸で梅の花を追いかけていましたが、信州でも咲いていました。でも、この花はまだ蕾です。多分、辛夷だと思うのですが。 おや、こちらはクロッカスでしょうか。水仙は、まだ蕾でしたが、こっちは鮮やかに咲いていました。 おおー、蕗の薹ですね。もう花になっています。ぼくはこの日「蕗味噌ざるそば」というお蕎麦をいただいたのですが、そのあたりの藪でいくらでも取れそうですね。 この花は何かなあ? 「みつまた」なのか「サンシュウ」なのか。黄色い小さな花が寄り集まっています。チッチキ夫人は「ミツマタじゃないの?」といっていましたが、さて、よくわかりません。でも、この旅の途中で、何度か見た気がしますね。 松本の美術館にもあったような。おや、頭上で鳴き声がします。 もちろん鳩ではありません。鳴き声も忘れてしまいましたが、しっぽが長いですね。写真が上手に撮れていれば調べられたのですが、ザンネン! おっ、おーこれは何でしょう。 いやはや、これはいったい何の頭蓋骨なのでしょうね。ホンモノでしたよ。庭の真ん中あたりの切り株でした。 というわけで、長い待ち時間でしたが、面白かったですね。もっとも、もう少し緑が繁ってくる季節になれば、もっと面白いのかもしれません。 席について、お蕎麦が出てくるのに、またしても待ちましたが、田舎蕎麦風の色の濃い蕎麦で、そばつゆに「蕗味噌」を混ぜて食べるのがおもしろかったですね。 とりあえず、到着早々、信州のおそばを食べ終えました。ボタン押してね!
2021.03.25
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「空から北アルプス」 徘徊日記 2021年3月19日 松本あたり 空からの北アルプス(ほんとはよくわからない)の峰々です。今日は、空中徘徊です。シマクマ君、飛行機に乗るのは10年ぶりぐらいで、ちょっと興奮しています。 神戸空港を出発して、ほぼ1時間で信州、松本盆地の上空です。天気が好いので地上の様子もよく見えます。 着きました。松本空港です。「ゆかいな仲間=松本支部」のカガク君がお出迎えしてくれました。「お昼を食べに安曇野まで行くからね。」「安曇野って、ワサビ畑があるところ?」「うん、蕎麦屋さんもある。」 安曇野の田園風景です。こうしてみると、やっぱり山が気になりますねえ。 東のほうから、山並みにそって撮って見ました。右の奥の方が白馬だそうです。 地上から見る北アルプス(?)ですね。 合成するとこんな感じになります。 人間の眼で見ている風景は、こっちのほうです。周りを高い山で囲まれていて、この季節まで雪の山を見ている生活を、ふと羨ましいとも感じますが、それにしても寒そうです。もっともこの日は、体感では神戸よりも暖かい日でした。 この写真は昼食の蕎麦屋さんの行きがけのように言ってますが、帰り道で撮りました。今から(?)ゆく蕎麦屋さんは、この写真の、もう少し向うの山際でした。 というわけで、空からと、地上からと、信州の山の風景でした。 ボタン押してね!
2021.03.25
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ベランダだより 2021年3月23日「チューリップ満開!」ベランダあたり 先日、花をつけたチューリップの鉢の、隣の鉢のチューリップが六つ開き始めました。ちょっと角度を変えてみますね。 先日のチューリップはこんな感じです。 首が短いと笑っていましたが、蕾と一緒に首も伸びてきました。三つ目の蕾が開き始めています。 ついでですから、玄関先の様子も載せておきます。 山桜桃梅(ゆすらうめ)が満開です。向うには雪柳が1本あります。 雪柳の向こうは藪椿です。 椿の花も、そろそろ終わりのようです。1月ごろからでしょうか、長い間楽しませてくれました。 さて、こうなると、次はサクラですが、実は咲き始めました。まあ、その写真は次回ということで。ボタン押してね!
2021.03.24
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ベランダだより 2021年3月17日「これはチューリップ」 わが家のベランダや部屋の周りにも春はやって来ています。 アサガオではありません。 カタバミというのでしょうか。植木鉢の雑草のようなものですが、咲いてくれると嬉しい。 こっちのチューリップも咲きそうです。うちのチューリップは、なぜか首が短い。ベランダから、前の芝生を見ると、こんな花も咲き始めています。 スミレですね。まあ、ホント、ただの雑草です。 ムスカリ。花壇で育てている棟もありますが、これは雑草。おや、こんな鳥がやって来て、えらそうにしています。 ヒヨドリ君。ぼくは「くん」づけで呼びますが、チッチキ夫人には、いたって評判が悪いですね。そんなに悪さをするわけではないと思うのですが。 まあ、そうはいっても、こうやってあたりを見廻していますが、これはこれで、春ですね。ボタン押してね!
2021.03.23
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「草間彌生 魂のおきどころ」徘徊日記 2021年3月20日 松本市美術館 長野県松本市の松本市美術館でやっている草間彌生の常設展「魂のおきどころ」に迷い込んできました。なぜか徘徊老人シマクマ君は、この週末松本市にやって来ているのですが、ここに来たら寄らないわけにはいかない気分でやって来ました。 ご覧の通り、美術館の前はすべて草間彌生で、まあ、一年中春なわけです。ちなみに、建物近くにある飲み物の自動販売機も、派手な水玉模様です。 これがチラシの表紙。 これが裏ですが、今回の展示では上のチラシの左端に写っているシャンデリア、「傷みのシャンデリア」という作品ですが、この作品とか、「鏡の通路」、「天国への梯子」とかいう鏡を使った「無限の表象」が印象的でした。 展示の部屋の照明が落とされていることもあって、例えば「天国への梯子」とか、作品を覗き込むと、天国じゃなくて地獄へ降りていくことを思わせる際限のなさが、ぼくは面白かったのですが、一緒に入ったって、それぞれで回っていたチッチキ夫人は、学芸員の方から「ご無理なさらないように。」と出口に案内してもらって、ホウホウのていで逃げ出したそうです。親切で、助かったそうです。 これが、この日の展示作品のリストです。ユーチューブで検索されれば動画のサイトもあるようです。 外で水玉の蝶々を見ながら待っていると疲れ果てたチッチキ夫人が出てきましたが、「ポツポツ、ポツポツ」 は当分見たくないそうです。 中々な美術館だとぼくは思うのですが、まあ、苦手な人には耐えられないのかもしれませんね(笑)。 松本市美術館のホームページにはこちらかどうぞ。ボタン押してね!
2021.03.23
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ガース・ジェニングス「SING シング」パルシネマ 普段はあまり見ないタイプの映画なのですが、パルシネマのプログラムに誘われてやって来ました。ガース・ジェニングス監督の「SING シング」です。 キャラクターがすべて動物で作られていて、つぶれかけのホールの支配人のコアラのバスター君が起死回生の「素人のど自慢大会」を企画して、そこに集まる「のど自慢たち」が繰り広げる「歌合戦」アニメ映画でした。まあ、ありきたりなストリーなわけですが、これが見ていて、実に楽しい。 声優さんたちのメンバーを見ると、実物が顔出しで出演すると、一体どうなるのだろうという感じのメンバーで、スクリーンから聞こえてくる歌声は、いわゆる洋楽についてほとんど知らないぼくのような客でも、何曲かは知っているうえに、メンバーの実力通り、実に上手なのです。 ぼくのように80年代以前しか知らない人間でも楽しいわけですから、ここ十年くらいの音楽を聴いている人は間違いなく楽しいのではないでしょうか。 ただ、キャラクターの作り方を見ていて、最近話題になっている「ルッキズム」というのでしょうか、それぞれの動物が、見かけ上、人間をその動物に例えるのであれば、ある特定の差別的含意を強調することになることによって「笑い」をつくりだしているきらいがないでもないところには、ちょっと引っ掛かりました。 義眼が転げ出てしまうカメレオンの事務員、ミスク・ローリーさんといい、大勢の子育てをしながら、踊れる歌手になりたいブタのロジータさんといい、ゴリラのジョニーといい、これを人間でやれば事件でしょうね。 ぼくは、それぞれのキャラクターが、ストーリーの展開において「肯定的」に扱われている点で、楽しめましたが、どうなのでしょうね。続編ができるそうなのですが、そのあたりはどうなるのか、ちょっと気にかかりますね。監督 ガース・ジェニングス脚本 ガース・ジェニングス編集 グレゴリー・パーラー音楽 ジョビィ・タルボットエグゼクティブ音楽プロデューサー ハービー・メイソン・Jr.音楽監修 ジョジョ・ビリャヌエバエンディングソング スティービー・ワンダー アリアナ・グランデキャストマシュー・マコノヒー(バスター・ムーン:コアラ)リース・ウィザースプーン(ロジータ:ブタ)セス・マクファーレン(マイク:ネズミ)スカーレット・ヨハンソン(アッシュ:ヤマアラシ)ジョン・C・ライリー(エディ:ヒツジ)タロン・エガートン(ジョニー:ゴリラ)トリー・ケリー(ミーナ:ゾウ)ニック・クロール(グンター:ブタ)ジェニファー・ソーンダース(ナナ・ヌードルマン:ヒツジ・大歌手)ガース・ジェニングス(ミス・クローリー:カメレオン)2016年・108分・G・アメリカ原題「Sing」2021・03・16‐no24パルシネマno35
2021.03.22
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シャノン・マーフィ「ベイビーティース」シネリーブル神戸 映画の冒頭から「ただならぬ出来事」 が始まります。まず、大きめのグラスの底に、血がついた「奥歯」がゆらゆらと落ちてきて、アップになります。 で、場面が代わって、精神分析なのでしょうか、カウンセリングを受けていたらしい女性と担当医師が、診察室(?)で、とりあえずという感じで「ただならぬ行為に」に及び、行為の途中で電話がかかり、行為を中断して女性は出て行ってしまうのです。「何ですか、これは?」 と、あ然として見ていると、女性と男性は「ご夫婦」で、二人の間の子供、高校生のミラちゃんが、この映画の主人公だと分かります。 この映画では、随所に「ただならぬ雰囲気」が漂い、一体、何が起こっているのか、あるいは、何が起ころうとしているのかということが、いまひとつわからないまま、最初の「奥歯」のシーンにたどりつき、「ベイビーティース(乳歯)」という題名の謎が解かれ(うーん、解かれたのかな?)、そこまでの「ただならぬ雰囲気」が「なんや大ごとやないか」という結末を迎え、シーンがかわって最後の「海辺」のシーンになります。 映画には、最初から「エピソード」の展開ごとにクレジットがついていました。もっとも、最初の「ご夫婦」のシーンのクレジットは忘れました。ザンネン! で、最後のシーンのクレジットが、たしか「海辺」だったと思うのですが、ひとつ前のシーンで、いったん結末を迎えた物語の回想のシーンでした。 このシーンの最後の最後に、まだ「ベイビーティース」が抜けていなかったミラちゃんがカメラを構え、「仲の良い」ご両親の写真を撮ります。そして。彼女が構えたカメラのレンズ越しに見える海辺の光景が、静かに広がりエンドロールが廻り始めます。 ここまで、実は何が「ただならない」のか、よくわからなかったにもかかわらず、このシーンは素晴らしいと思いました。まあ、このシーンにやられたという感じでした。 JR元町駅から神戸駅までの元町高架下商店街を「モトコ―」と呼ぶのですが、今日は、その「モトコ―」のシャッター街を歩きました。延々と閉まっているシャッターの通路を歩きながら、つくづく、「よその家のことはわからないものだ」と思いました。まあ、家の中のことに限らず、ひと様のことはわからないのですが。 人はそれぞれ「ただならぬ」なにかを抱えて、その上で、家族とか恋人とかになるのでしょうが、「一人娘が死にかけの大病だ」とか、「親から見捨てられた」とか、そういう、人から見てわかることとは違う「ただならぬ」ものが、それぞれの人を支え続けていて、それはお互いにわからないんですよね。 その、お互いにわからないことに耐えて、どう生きていくのか、この映画は、その雰囲気をよく伝えていたと思いました。 死を宣告された高校生ミラちゃんを演じたエリザ・スカンレンという、若い女優さんの表情も印象に残りました。 まあ、それにしても、変な映画でしたね。監督 シャノン・マーフィ製作 アレックス・ホワイト脚本 リタ・カルニェイ撮影 アンドリュー・コミス美術 シャーリー・フィリップス衣装 アメリア・ゲブラー編集 スティーブ・エバンス音楽 アマンダ・ブラウンキャストエリザ・スカンレン(ミラ)トビー・ウォレス(モーゼス)エシー・デイビス(アナ)ベン・メンデルソーン(ヘンリー)ベン・メンデルソーンエミリー・バークレイユージーン・ギルフェッダー2019年・117分・G・オーストラリア原題「Babyteeth」2021・03・03シネリーブルno86追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.03.21
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長田悠幸・町田一八「シオリエクスペリエンス 16」(BG COMICS) 2021年2月25日の新刊「シオリエクスペリエンス 16」(BG COMICS)です。ヤサイクンの「3月のマンガ便」に入っていました。 最初の見開きはカラーです。いつも思いますが、このマンガに登場するジミー・ヘンドリックスって、なんだかちょっとダサいですね。それにくらべて本田紫織さん、このシーンの彼女は、いつもにまして気合入ってますね。私は私の魂の叫び(ブルース)に従います。 15巻まで、全国ツァーで炸裂した「シオリエクスペリエンス」でしたが、夏休みの、くそ熱い日常に戻ってきたメンバーとシオリさんに何が起きているのでしょう。 何をいってもネタバレなので、ヤサイクンが「マンガ便」を届けてくれた時の言葉を、ここにあげるだけにします。うん、バンドは解散やな。シオリだけアメリカに行く。いいや、マンガは終わらへん。まあ、そろそろ終わると思うけど。 蛇足ですが、ここまでの高校生・素人バンド、「シオリエクスペリエンス」の経緯を読み続けてきた人の中には、この16巻のクライマックス・シーンで泣く人もいるでしょうね。このままでは破綻しかねないほどに、ストーリーを「夢」のままに大きくしてしまった作者の苦労がしのばれますが、よく健闘していると思いました。 引用したい名場面が何カ所もあります。でも、この巻はお読みにならないと、よさがわからないと思います。 まあ、ネタバレなしで「カンドー!」を伝えるのはちょっと難しいなという展開だったということです。 辛抱しきれなくて、最後にネタバレですが、洗面所の洗面台になって、上から垂れてくる本田紫織さんの涙を堪能してください。
2021.03.20
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石塚真一「BlueGiantExplorer 2」(小学館) 石塚真一の「BlueGiantExplorer」(小学館)、第2巻が「ゆかいな仲間」ヤサイクンの3月のマンガ便で届きました。 「BlueGiantExplorer」は宮本大君のジャズ修業アメリカ編ですが、第1巻でシアトルに上陸した宮本大君が、第2巻では、ホンダの中古車を手入れ、大陸横断の旅をスタートします。 オハイオ州ポートランドがアメリカ編の二つ目の舞台です。下の場面は、シアトルを出発した宮本大君が、ヒッチハイカーのジェイソン君を載せてポートランドに到着したシーンです。 ここまで、石塚真一の「BlueGiant」を読んできましたが、何となく気づいたことがあります。 このマンガは確かにジャズ・ミュージシャンとして、世界の頂点に立ちたいという少年の夢を描く、実に素朴な「ビルドゥングス・ロマン」なのですが、ここまで読者であるぼくを引っ張り続けてきたのは、宮本大自身のキャラクターや、音楽演奏の感動的な描き方も大切な要素なのですが、どうも、このマンガのいちばんの肝は、宮本大君が出会う脇役たちの描き方なのではないかということに思い当たったのです。 少年マンガには、ある意味、常道ですが、主人公を成長させていく、他者として登場するライヴァルたちがいます。たとえば、「初めの一歩」にしろ、「あしたのジョー」にしろ、ボクシング・マンガがおもしろいのは戦う「相手」がいるからだということはすぐにわかるわけです。しかし、ミュージシャンの演奏の成長に「敵」はいるのでしょうか。 かつて、石塚真一が描いた「岳」では、山が相手でした。技術的な成長以上に、山という「自然の厳しさ」が、ライヴァルとして立ちはだかり、それに向き合う主人公の「内面」の描き方がマンガを支えていたと思います。 「BlueGiant」でも、ここまで、「最高の音楽性」という高みを目指す主人公の描き方を「岳」とよく似ています。 しかし、音楽の「高み」は物差しで測ることが出来る「山」ではありません。新しく創り出し、新しく生まれるものです。人それぞれの「好き好き」を超えた「高み」はどうすれば描けるのでしょうか。 で、石塚は「人」を描くことにしたのだというのが、ぼくが、ふと、気付いたことでした。そう思って読み進めると、音楽関係者ではない、印象的な登場人物が何人か登場します。 上のシーンで登場したジェイソン君もその一人です。彼はスケート・ボードを楽しみ長旅を続ける、アメリカ文学でいう「ホーボー」と呼ぶべき流れ者ですが、彼との偶然の出会いは、宮本大に音楽の「外の世界」の広さを教えます。 この巻に出てくる、もう一人の、印象的な脇役は、ひょっとしたらヒロインになったかもと思わせるコーヒーショップの女性シェリル・ハントです。 毎朝一杯のコーヒーを飲むために立ち寄ったお店で出会った女性ですが、彼女の最後の言葉が素晴らしいのです。「私とアナタは、凄く違うんだね。」 シェリルがいった言葉ですが、人と人の遠さを、互いの存在に対する敬意として描いた石塚真一をぼくは信用します。 表紙の宮本大の眼差しも、厳しさを加えつつありますね。彼が、どこまで「少年」であり続けられるのか、ますます楽しみですね。追記2022・03・31第3巻・第4巻・第5巻の感想書きました。よろしけれは覗いてみてください。
2021.03.19
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「こっちは辛夷の並木です。」 徘徊日記 2021年3月15日 本多聞あたり 垂水の街を北に歩いて、商大筋といいますが、昔、神戸商大のあった星陵台に上って行く道あたりから、第二神明と呼んでいる自動車道路の陸橋を越えるまでの新しい道筋の並木には「辛夷」の木が植わっています。10年ほど前に新しくできた道なのでまだ若い街路樹です。 この辺りから、もう少し北に歩くと、学が丘とか、本多聞という町名に変わって50年くらい前に開けた新興(?)住宅街ですが、この辺りにも辛夷の街路樹があります。 逆光で見にくい写真ですが、もう高木です。以前は通勤路だったので、毎日歩いていたのですが、辛夷の花が咲いているのに気づいた記憶がありません。不思議なことに、退職して初めて気づきました。 満開です。仕事をしていた頃に、「桜」以外は「松」も「鈴懸」も「楠」も見分けられない、まあ、関心がないだけなのですが、高校生に向かって「毎日歩いている道筋にいろいろあるでしょう。歩きながらどんな花が咲いているかとか、並木の緑にとまっている鳥や、集まっている虫がいるとか、気づかない暮しをしていませんか?」 なんて、きいた風なことを言っていましたが、当の本人が、そういう暮らしをしていたようです。 「辛夷」と「白木蓮」、「椿」と「サザンカ」の見分け、皆さんはつきますか?ぼくは、そんな見分けもつかない生活を60年以上していたことに、今になって気づいています。 でも、足が動く間に気付いたのは幸いです。腰を痛めた、少し若い友達が、腰が痛くて仰ぎ見ることが出来ないと便りをくれました。10年前なら笑っていたと思いますが、笑い事ではありません。仰ぎ見ることが出来ない生活は、やっぱり哀しいですね。 こうして、ウロウロ、ボーっと仰ぎ見ながら、へたくそな写真を撮って「これは何の花かなあ?」なんていう「おバカ」な初心者の悩みの日々を記録していきたいと思っています。 今日は、ぼくが知っている「辛夷」特集でした。ボタン押してね!
2021.03.18
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ブライアン・ヘルゲランド「ROCK YOU!」パルシネマ 久しぶりにパルシネマの二本立てでした。1本目が「SING」で、2本目がこの映画、ブライアン・ヘルゲランド監督の「ROCK YOU!」でした。 今でいうイギリスとフランスの間で、延々と続いた100年戦争とよばれる戦争がありますが、日本なら鎌倉時代から室町時代くらいになるのでしょうね、その時代の「騎士」のお話でした。 原題は「A Knight's Tale」です。そのまま訳せば「ある騎士の物語」というわけで、何の変哲もないのですが、邦題は「ROCK YOU!」でした。 1本目の「SING」が「ミュージカル・アニメ」とでも呼ぶべき映画で、パルシネマの二本立てです。これもなんかあるんだろうと思って見ていると、「馬上槍試合」というのでしょうか、丸太棒みたいな槍で突きあいする競技会のシーンが始まりました。 そこで、なんと、大観衆の手拍子と足踏みの音が、だんだんリズミカルになって行くではありませんか。ズン!ズン!チャ! ズン!ズン!チャ!We will we will rock you!We will we will rock you! そうです、あの、Q U E E Nですね。 画面の中の観衆たちは、足を鳴らし、曲に合わせてウェーブを始めています。大音響が響きわたりませ。見ているぼくは、もうこれだけで、年甲斐もなく鷲掴みされていました。イヤ、ホント衝撃的とはこのことですね。 もっとも、映画は、そのままハチャメチャ路線なのかと思いきや、この「rock you!」の歌詞をなぞるように、ビルドゥングス・ロマンというのでしょうか、クソガキの成長譚! をしっかり「騎士物語」として描いていきます。 で、「純愛」あり、「友情」あり、憎たらしくて、カッコイイ「敵役」あり、「危機一髪」ありで、十分納得でした。 最後のどんでん返しは、そうなるに決まっていると思いながらも、けっこうハラハラドキドキさせていただいて満足しました。 映画の中での、音楽の使い方に関しては、こういう時代劇!の描き方があるんだと、感心することしきりでした。洋楽というか、音楽についてよく知りませんが、クィーンだけでなくエリック・クラプトンやデビッド・ボーイのフレーズもあったような気がします。実にシャレていますね。 ネタバレですが、エンド・ロールではもう一度クィーンの「We Are The Champions」で決めてくれて、とどのつまりには、遊び心満点の一発かましまでありました。いやー、ぼくは、こういうの大好きです。楽しい体験でした。拍手!監督 ブライアン・ヘルゲランド製作 トッド・ブラック ブライアン・ヘルゲランド ティム・バン・レリム脚本 ブライアン・ヘルゲランド撮影 リチャード・グレートレックス音楽 カーター・バーウェルキャストヒース・レジャー(ウィリアム・騎士にあこがれる青年)ルーファス・シーウェル(アダマー伯爵)シャニン・ソサモン(ジョスリン:姫)ポール・ベタニー(チョーサー:後の文豪)マーク・アディ(従者ローランド)アラン・テュディック(従者ワット)ローラ・フレイザー(鍛冶屋ケイト)ジェームズ・ピュアフォイ(トーマス・コルヴィル卿=エドワード黒太子)クリストファー・カザノフ(ジョン・サッチャー:ウィリアムの父)2001年・132分・アメリカ原題「A Knight's Tale」2021・03・16・no25・パルシネマno34
2021.03.18
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100days100bookcovers no49(49日目)週刊 読書案内 小池昌代『屋上への誘惑』 光文社文庫 前回、SODEOKAさんが取り上げたエミリー・ブロンテ『嵐が丘』は未読なので、接点を探していくつか当たったら、ブロンテ3姉妹が小説の他に3人の共著として詩集を出している ことがわかり、今回取り上げる本が決まる。『屋上への誘惑』 小池昌代 光文社文庫 著者は詩人として活動を始め、その後小説も書くようになった。Wikiの「作品リスト」を参照すると現在も、両方執筆を続けているようだ。 ただ取り上げたのはエッセイ集。巻末の「文庫あとがき」によると「初めてのエッセイ集」。 そして私が彼女の著作中、唯一読んだ作品である。 一つ一つは短いものが多く、ほとんどが5~6ページくらい、長くて10ページくらいか。親本は2001年岩波書店刊。文庫化は2008年。講談社エッセイ賞受賞。文庫の表紙の著者紹介みたいなところを見ると、詩集にしろ小説にしろ、受賞歴もけっこう。 この作家を読んでみようと思ったきっかけはよく覚えていないのだが、もしかしたら、内田樹のブログやツイートで触れられていたことかもしれない。 一読、気に入った。たぶん文体が大きい。さっぱりしてケレン味がないのに、いくらか後を引く。そして、ちょっと意外でおもしろい視点。でも記憶にずっと残るわけではない。今回再読してみても、やはり同じように感じた。 たとえば。 エドワード・ホッパーが描いた絵について書かれた「言葉のない世界」と題されたエッセイ。 帽子をかぶった二人の女がテーブルをはさんで座っている。この絵に対してアップダイクが「まるで二人が互いに聴きあっているように見える」と書いたと紹介し、 しかし、「聴きあう」という表現ほど、この絵の女たちにふさわしい言い方もない。この不思議な対面は、まるで、互いに静かに消し合うようでもあるのだ。(中略) 描かれているのは、女たちというより、透明な関係性なのではないかと思われてくる。 と書く。さらに、 いずれにしても、この世での役割が吹き飛んで真裸になった存在同士が、とけあおうとしているように感じられる。 と続く。 そしてこの小文、 人と話しをしていて、話題がとぎれることがある。その瞬間のまの悪さが、私は実は、案外好きだ。話すことなど、もう何もない。-その虚空の中に身を置くと、ないことのかに、やがてゆっくり充ちてくるものがある。話題を探すのではない。私たちという存在が、こうしていつも、遠くからやってくるものに、手繰り寄せられ、探されるのだ。 さあ、話をしよう。 と結ばれる。 ホッパーの作品は、おそらく下のリンク先のものではないかと思われる。 https://www.artsy.net/.../artsy-editorial-edward-hoppers... 以前、はっきりは覚えてはいないのだが、ある作家、たぶん村上春樹だったような、が、理想的な友人関係の例として、話題が途切れたときに、あるいは沈黙が訪れたときに気まずくならない関係、というようなことを挙げていた。その時は、わかる気がすると思ったのだが、小池昌代のこれを読んで、「気まずくならない」ではなく、気まずくなってもそれに耐えうる関係と言うほうがいいのではないかと思い直した。あるいは「気まずい」というより「いくぶんぎこちない」くらいのほうが。沈黙の始まりはいくらか気にもなるが、沈黙が続くともはや気にならなくなる。そのうちどちらかが自然に口を開くことで沈黙が解消されたとしても、その過程が不自然でなく思える関係。ややこししいか。相手がどう考えているかがわからないのは仕方ないとしても。 あるいは。「いくつかの官能的なこと」には、ある夏の夜、小さなあつまりがあったときのことが語られる。だれかが「月がきれい」と言って、顔を上げようと思った瞬間、「月」と「まるで命令形のように男の人が言って、(みるようにと)、私のあごを急にしゃくり、くいっと月の方向へ向かせたのだった。 突然、ひとにさわられて、いやではなかった。むしろ、不思議なエロティシズムをあごに感じて、今でも、なぜか、忘れがたい。 たった、それだけのことなのだ。しかしロマンティックな乱暴だった。 そのひとを、きらいではなかったけれど、それ以来、一度も会うことはない。からだは、ふしぎなことを覚えているものだ。」 書き写していて気がついた。この作家の文章には読点が多い。それが作家の文体のリズムなのだろう。立ち止まり方の作法とでも言うべきか、軌跡の振り返り方と言うべきか。さらに。 いつか、夏の昼下がりの蕎麦屋で。 「こびんいっぽん」 と注文した、男の声の涼しかったこと。 これだけを切り取ると、さながら詩のような。 それから、ひらがな表記も多い。それはたしかに「すずしい」。 まだある。 フェルメールの絵はまた、私にいつも糞尿の匂いを想像させるのだ。洋服やカーテンのひだの多い分厚い生地に鼻をあてて、くんくん匂いをかいでみたい。分泌物のむっとするすっぱいような匂いが、そこからたちあがってくる気がするのである。そしてそれは、この画家の絵の表面を覆う、清潔な空気感と少しも矛盾しない。 わからないでもない。絵の中の世界に入り込んでみたと想像してみると。が、やはりフェルメールの絵に対する「糞尿の匂い」という表現には少々驚いた。おもしろい。 ただ私がフェルメールの絵に感じるのは、作家の言うのに近い、時間の過ぎていく重みが醸す、すえたような匂いと、「清潔感」というより、どちらかというと鄙びた自然な暖かさの入り混じったものにように思う。 そして。 カザルスホールでジュリアード・カルテットを一人で聴いた日、確かな理由もわからず感動し、涙があふれたとき、アンコールが終わり、拍手の起こる寸前に聞いた隣席の女性の、かすかなけれど深いため息に感じた「沈黙を分けあえたという思い」。 作家は、「沈黙」や「言葉にする含羞」にも直接、間接問わずいくどか触れていて、響くものが少なくなかった。 「あとがきにかえて」というサブタイトルが付いた「屋上への誘惑」には、夢に見たような、でも現実かもしれない風景が描かれる。 屋上の金網に手をかけて、地上へ吸い込まれるように落ちていくボールを、じっと見ていた子供のころ(入滅ってあんな感じではないかしら)。拾いに行った子を待っていた時間、あの場所には始終、風が吹いていた。結局、あの子はどうしたのだったか。今も時々、あの子をまだ、待ち続けているような気持ちになる。 屋上はたしかに心地よい空間だ。頭上に無限に開けた空間と足元に広がる限られた平面。風が吹き抜け、空が透明で、遠くまで見える。屋上にいるときはいつも一人だった。自身に普段流れる時間をほんの少し別の視点から見直せるような心持ちになっていたのかもしれない。 フィクションとノンフィクションが交じりあったような小品もいくつか。 様々な要素が緩やかに混じり合い融合してできた作品集のように思える。 最後に、「文庫あとがき」から。 作家が、詩を実際に書き始めたのは三十近くになってからで、「二十代のある時期」にはエッセイと称して頼まれもしないのに散文を書いていた。散文に詩を埋め込むという方法を用いて。そんなふうに、日常に驚きを見出そうとして、書き綴ったのがこの文章だと。 そうして綴られた散文には、「詩」というものの孤独と空っぽさと心細さと、そうして、風通しのよさが、これもまた、ないまぜになっている。では次回、DEGUTIさん、よろしくお願いいたします。(T・KOBAYASI2020・11・12)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.03.17
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「舞子浜で夕日を見ました」 徘徊日記 2021年3月10日 舞子あたり 3月になったということもあって、電車に乗って出かけない日は歩いてウロウロ徘徊しています。 部屋から出てみると、梅とか雪柳とか椿とか、あれこれ咲いていて、目の前には黄色や白の水仙が盛りを迎えていたりします。 まあ、記録のためのようなものですが載せてみます。 丁度、西日が差し始める時間に動き始めているのが、なんとも横着ですが、さてどこに行こうという感じです。 3月で閉校になる小学校の通学路が目の前ですが、寒緋ざくらが満開でした。ゆかいな仲間たちが通った学校ですがなくなるのだそうです。 さてここから、とりあえず南に向かって降りていきましょう。山田川という川が舞子浜まで流れています。何の目的もありませんが、今日は川沿いに下ってみます。 おや、白鷺です。夕食をさがしているようです。 何か見つけたのでしょうかね。あっ、鴨もいます。 歩きはじめて30分くらいでしょうか。もうしばらく歩けば河口ですが、なんだかたくさんいますよ。 カップルもいますね。 ここから山陽電車の西舞子の地下道を通って、山陽電車とJRの線路と国道2号線を渡ります。踏切を渡る方法もありますが、今日は地下道です。 西舞子の海岸線に出ると明石大橋がこんなふうに見えます。手前が漁港で、橋は夕日に染まっています。 時間とかご覧のとおりです。春の夕日、3月の夕焼けです。右手に見える街並みが明石です。 同じ時刻の明石大橋です。赤く染まっています。大型の冷蔵車がキラキラ輝いて見えます。こう見ると巨大な橋ですね。もちろん橋の向こうは淡路島です。 しばらく夕日が沈むのを見ていました。 ロメールという監督の「緑の光線」という映画では、このシーンの後、「緑色」が浮かぶのですが、瀬戸内海の夕日では、そういう事は起きませんでした。ザンネン! というわけで、ここからはバスで帰ります。じゃあ、またね。ボタン押してね!
2021.03.16
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「元町の街路樹 木蓮」徘徊日記 2021年3月15日 4丁目あたり 元町4丁目の元町映画館で、お昼過ぎから始まった映画が午後4時過ぎに終わりました。いつもなら山のほうに行くか、海のほうに行くか、ちょっと考えたりするのですが、今日は脹脛が痙攣していて、ホントにトボトボ歩きになってしまって、商店街を西に歩きました。 5丁目の交差点で「おやおや木蓮じゃないか」と気づきました。すると、そのあたり、南北の路の街路樹がみんな木蓮でした。 木蓮独特の紫とも少し違う色合いで、どっちかというとピンクがかっていますが、いっせいに咲き始めていました。 この通りは、木蓮が街路樹のようです。 少しウロウロしてみますね。 白い木蓮もあります。 白い花になると、木蓮と辛夷の見分けがよくわかりません。花びらの数が多いか少ないかというのが、ぼくの目安ですが、見事に咲いているこれは、花びらが九枚ありますから「白木蓮」だと思います。 写真写りがいいというか、たくさん咲いていても、上品な花ですね。 脚が痛いのを忘れてウロウロしてしまいましたが、ヤッパリ帰ろうと思い直して、ヤッパリ、トボトボ歩いていると神戸駅近くの機関車が置いてあるところにこんな花が咲いていました。 この写真では、一つ一つの花がよく見えませんね。盛りを過ぎていて、花が少し茶ばんでいるのでアップ写真はやめますが、これは辛夷のようです。花びらが6枚だと思います。 で、思い出しました。ここから帰る途中、自宅近所に「辛夷」の並木があるんです。 この様子だと、花が咲いてしまっていそうですが、帰りに寄ってみますね。というわけで、元町の木蓮とはお別れです。ボタン押してね!
2021.03.16
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「雪柳!」 徘徊日記 2021年3月14日(日) 団地あたり 一日おきに天気が崩れて、寒い日が繰り返しやって来ます。今日は日曜日ですが、サンデー毎日のシマクマ君にはあんまり関係ありません。でも、お天気が好くて、ちょっと、うろうろしたくなりました。 団地の雪柳が満開を迎えていました。冬の終わりに刈り込んでしまっているところもあって、新芽というか、新しい枝があまり伸びていないのが今年の特徴です。 小米花という呼び名もあるそうで、小さな花がたくさんついています。切り花にして飾るのも悪くないのですが、ぼくは遠景が好きです。 ここまではデジタルカメラの写真ですが、スマホだとこんなふうになります。 微妙に違いますね。何が違うのかよくわかりませんが、もう一枚載せてみます。 ピンボケしているわけでもないのですが、雰囲気が違います。 最後は雪柳越しの自宅です。こういう写真を載せるとチッチキ夫人に叱られそうですが、遠くにいる「愉快な仲間達」には懐かしい風景じゃないでしょうか。 雪柳が咲き終わると、いよいよサクラという気もしますが、どうもまだまだの様子です。 ヒヨドリ君ですが、サクラの木にとまっていました。サクラの芽が少し膨らんできているのは確かですね。ボタン押してね!
2021.03.15
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鬼海弘雄「靴底の減りかた」(筑摩書房) 友人から教えられた鬼海弘雄という人のエッセイ集「靴底の減りかた」(筑摩書房)を図書館の棚で見つけました。 鬼海弘雄という人は写真家なのですが、写真の題のつけ方とか、それぞれの写真に二言三言付け加えられた、キャプションというのでしょうか、も、「やるな」とは思っていたのですが、文章も達人でした。 漬物石を運んだ日 河原から葛の這う土手に砂利の路を上って行くと、土に半分埋まった玉石に、たくさんのバッタが触角を触れるようにして集まって日向ぼっこをしていた。びっくりして真上から覗き込むと、一斉に瞼のない目玉ににらまれた。足許の砂利が滑って転びそうになった。 隣り町への水道のポンプ場を抜けて、桜桃畑の傍を通りかかると、節ちゃん家の爺さんが佐藤錦の根元に敷かれた藁の上に軀を折って寝込んでいた。届いてくるゆっくりとした大きな鼾から熟睡しているのが分かった。 爺さんは、春先にいつも悪口を言いあっていた婆さんを亡くすと、タイヤがパンクしたように萎んで元気がなくなった。それでも、村一番の長生きで九十四歳になる爺さんは、自転車で畑に出かける日課をかえることがなかった。毎朝、ヒバの生垣の庭からふらふら危なっかしく自転車を押して道に出てきて、ふいといったんサドルに座ると別人のように決まった。やっと三角乗りで自転車を覚えた者には魔法のように見えた。 夏から畑帰りの爺さんは、長女を嫁がせた家の畑までやって来ると、決まって自転車を投げ出して昼寝をしていると聞いていた。晩秋にしては暖かい日射しが、ねじり鉢巻きで肘枕をした爺さんに注いでいた。それでも帰ったら、節ちゃんの家に教えに行かなければと思った。 桜桃畑を過ぎ、田んぼ路に出ると籠の紐がますます肩に食い込んできた。父が冬仕事に編んだ籠には、母から頼まれた青菜漬け用の平らな石が入っていた。土手を超えた頃から、もっと小ぶりな石にすればと何度も悔やんでいた。 石を下ろして一休みしていると、なんと、佐太郎さんの田んぼの中を我が家の三毛猫が走り回っている。何度も呼んだが振り向きもせず、駆られた株から新たに一尺ほど伸びた稲の葉にとまる赤とんぼに戯れていた。たしか、家を出る時は玄関傍の納戸で藁布団にまるまっていたはず。高齢なミケは春から足腰が弱って寝たきりになっていたのは、あれは母へ甘えるための演技だったのだろうか・・・・・。 おーいミケ、帰るぞと声をかけたが全く無視された。こんなところまで遠征して戻ることが出来るのだろうか。ミケとはわたしが生まれた時からの付き合いだ。 広く高い空には、羊雲が葉山に向かって連れだって流れて行く。きっと、月山の峰に雪が降るのも間もなくだろう。ゴムの短靴に小石が入って素足を刺す、位置をずらすと靴はきゅっと鳴った。 村の入り口にある共同墓地の杉の切株で何度目かの休憩をしていると、砂利道を後ろからやって来る俊子さんのお父さんが、一輪車(猫車)に助走をつけて押して一気にでこぼこの坂を駆け上った。スゴイ馬力だと感嘆したが、無愛想なのは知っていたので黙って見送った。一輪車の荷台には、たくさんのカボチャが積まれていた。中略 茶畑の中を歩いて行くと肩の籠が急に重くなった。気づくと籠の上にミケがちょこんと座っている。 ミケおりろ、降りろと怒鳴ると首筋を舐められた。 くすぐったさに、夢から目を覚ました。枕もとで十八歳になる虎猫のゴンが、餌をねだって首を舐めていた。空はやっと白みはじめたばかりだ。後略(「夢の実現するところ」2013年1月・ギャルリー宮脇刊) 開巻一番、すごい文章が掲載されていて、あ然としました。中途半端な引用で申し訳ないのですが、まあ、これで、雰囲気は伝わるかなと。興味を持たれた方は、図書館なりで、実物の書籍のほうに進んでいただきたいと思います。かなり、納得されると思いますよ。 ぼく自身、鬼海弘雄という写真家について、いつだったか興味を持ったことがあるらしいのですが判然としません。書棚に「普通のひと」(ちくま文庫)という文庫版の写真集がありましたからまったく知らなかったわけではなさそうです。 もっとも「きかい」ではなくて「おにうみ」だと思い込んでいた程度の興味なので、いいたがりのぼくでも「知ってる」というわけにはいかったのですが、このエッセイ集を読んで、「ちょっと知ってる」に進化したわけです。 友人が紹介してくれた「ペルソナ」(草思社)という写真集には目を瞠りました。このエッセイ集にも写真は載っています。建築というか、「建物の風景」写真が中心ですが、「ペルソナ」や、「普通のひと」に載っている人物の迫力が、人間のポートレイトだからではなく、写真そのものの力によるものだということを感じさせる写真です。 鬼海弘雄さんは2020年の秋に他界されていますが、本書は2016年に刊行されていて、載せられている文章はweb草思『ゆらりゆらゆら日記』、月刊「うえの」2012年~2015年、アサヒカメラ.Net「靴底の減りかた:」2010年~2013年20回連載の記事と、単発で書かれたエッセイ数編でした。 「バナナ男やカラからまわる風車」、「明るい暗室」、「女装するマッチョマンと偽看護婦」、「スティーヴ・マックイーンの佇む路地裏」、題名だけ挙げて行っても、ちょっとしたものだと思いませんか。 ちなみに表紙の写真は「囲いのあるパラダイス」、裏表紙は「野良ネコの散歩」と題されていました。
2021.03.15
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「寒緋桜とメジロ」 徘徊日記 2021年3月9日(火) 団地あたり このところ、サンデー毎日で団地を徘徊しているシマクマ君ですが、「メジロ」シリーズ第2弾の光景に出くわしました。今回は寒緋桜に群がるメジロ君です。 南北に数棟が重なって立っている団地なのですが、いちばん南の棟の芝生の庭に数本の寒緋桜が植わっています。通常のサクラよりひと月ほど早く花をつけるので、時期は梅の花とか椿の花と重なって、ちょうど今頃です。 同じ団地なのですが、よそさまの棟の裏庭というのは入りにくいのですが、花の写真に夢中の、アホ老人のふり(?)で覗き込むとメジロ君たちが群がっていました。 もう、ピントの合わないスマホのカメラはやめて、辛うじてピントの合うデジタル・カメラで挑戦です。 まあ、ヤッパリ、これもピンボケですが、スマホよりはましですね。「あっメジロや!」くらいには写っていますね。 こういう風情の写真が撮れていると嬉しいですね。アベックで写ってくれているところが、ますます、可愛いですね。 花の蜜にとりついているさまですが、ピンボケてますね。 「おっ、なかなかメジロらしいて、ええやないかて。」とか思っていると、この方がいらっしゃいました。 この方は「メジロ」君ではありませんね。 自信はありませんが、たぶん、ヒヨドリ君ですね。花の蜜を吸いに来た様子ではありませんね。まあ、睥睨するというほどでもありませんが、落ち着きのないメジロ君たちに比べると堂々としています。 この方、鳴き声が結構強烈なのですが、今は静かに様子をうかがっていますね。何を狙っているんでしょうね。さっきまで騒いでいた、メジロ君たちはどこかに行ってしまいました。 鳥たちの社会も、まあ、そういうふうになっているんでしょうか。そう思うと、この方、あんまり好感はもてませんね。 先日、ベランダでメジロ君の餌付けを提案したのですが、「雀のお宿」を目指しているチッチキ夫人に、軽く却下されました。「干飯でもヒヨドリとカラスが虎視眈々なのよ。そんなことしたら大変なことになるわよ!」 ヒヨドリ君は、どうも、嫌われているようですね。ボタン押してね!
2021.03.14
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保坂和志「この人の閾」(新潮文庫) 保坂和志の「この人の閾」(新潮文庫)を久しぶりに読み返しました。1995年夏の113回芥川賞受賞作です。 学生時代に同じ映画サークルの1年先輩だった女性「真紀さん」の家に、仕事で近所まで来て、偶然時間が空いてしまった「ぼく」が訪ねて行きます。二人で庭の草むしりをしたり、缶ビールを飲んだりして、半日を過ごした日のおしゃべりと、おしゃべりをしながら「ぼく」がふと考えたことが記されている作品です。P65(新潮文庫版) 真紀さんのいる場所は今この自分の家庭の中心ではなく、家庭の「構成員」のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところで、それでは「中心」はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない。子育てというか子どもの教育を中心においてしまうような主婦もいるが、真紀さんの場合どうもそれもなくて、たとえばモンドリアンの絵のように彩色されたキャンバスの上で何本もの車線が交差しあっているような絵を、ぼくはそのとき想像した。そして、現代芸術というのは絵画も音楽も何でもどんどん抽象度を増すが、家庭もそうだったのかと思ったりした。P75「ホラ、ヨハネの福音書のはじめに『初めに言葉があった』っていうのがあるじゃない」「うん」「 ― 『初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった』っていうの。 それから何だったっけ? 細かいことは忘れちゃってるけど ― 、すべてのものは言葉によってつくられて、言葉に命があって、その命は人の光で、光は闇の中で輝いた。闇は光に打ち勝たなかった―っていう意味のこと言ってるでしょ?」「うん」ぼくも真紀さんもキリスト教の信者ではないが、聖書の有名な箇所ぐらい知っていてもおかしくはない。「―だから言葉が届かないところっていうのは『闇』なのよね。そういう『闇』っていうのは、そこに何かあるんだとしても、もういい悪いじゃないのよね。何もないのと限りなく同じなのよね。」P77 ぼくは、このとき真紀さんの言ったことは、真紀さんがその場で考えたことではないはずだと思った。こんなこと即席で考えられるはずがない。これはイルカについてのことではなくて、真紀さん自身のことなのだろうと思ったけれどぼくは黙っていた。「静かね」真紀さんは言った。「洋平が一度あらわれて、消えてみると静かさが、こう、這い上がってくるようだ」「気になる?(ぼくはあいまいに頷いた) 二人でいるからね。 一人だといいわよ。この静けさにずっとつづいてほしいと思うわよ。 でも、洋平もルミも前ぶれなしに帰ってきちゃうのよね」 自分の家なんだから当然だとぼくは笑った。「そうなのよ おかしなところよね。家って。 自分でもずっとそうしてたわけだけど、出ていくときはまあ、いちおう 『行ってきます』って言うけど、帰ってくるときはフッて帰ってくるからね。 で、しまいには大きくなって平気で家をあけるようになってるのよね」 ぼくは少し悲しいような気がした。真紀さんの口を借りて普遍的な母親がしゃべったような気がしたからだ。普遍的な母親というのはぼく自身の母親と言い換えてもいいのだろう。 作品の終盤の光景です。引用していると楽しいのですが、引用をお読みになっても、ここがクライマックスだとぼくが思ったことは伝わらないでしょうね。 この作品が芥川賞を受賞した際に、選考委員だった作家たちの感想から、三人の感想を引用します。日野啓三 「他の都合もあって合計四回読んだが、読む度に快かった。(引用者中略)いまこの頃、私が呼吸しているまわりの空気(あるいは気配)と、自然に馴染む。こういう作品は珍しい。」 「バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか。」 「その意味で、この小説は新しい文学のひとつの(唯一のではない)可能性をそっと差し出したものと思う。」黒井千次 「他人の既成の家庭を覗き込むという形で書かれているために、語りのしなやかさと人物の主婦像とがくっきり浮かびあがり、三十八歳の女性の精神生活の姿が過不足なく出現した。」 「女主人公の精神的な自立と自足とが、どこまで確かであるかは必ずしも定かではない。しかしもし危機が訪れるとしても、それがいかなる土壌の上に発生するかを確認しておく作業も等閑には出来まい。その意味でも、この一編は貴重な試みであると感じた。」古井由吉 「今の世の神経の屈曲が行き着いたひとつの末のような、妙にやわらいだ表現の巧みさを見せた。」 「三年後に、これを読んだら、どうだろうか。前提からして受け容れられなくなっている、おそれもある。」 ぼくが、今回、この小説を読み直したのは、古井由吉の評を「書く、読む、生きる」(草思社)で見かけたからです。「三年後に、これを読んだら、どうだろうか。」 という問いに促されて、25年後に読みなおしました。ぼくには古井由吉がここで言っている「前提」の意味がよく分からないのですが、とりあえず、この作品が発表された1995年の今、ここ。この作品が描かれている時代の「生(なま)の社会」。あるいは、こういう会話をする30代後半の男女が存在しうる場だと考えてみると、それはもうないのかもしれません。 ぼくは、今から25年前に、同時代の同世代の登場人物を描いている作品として「リアル」に読みました。今、これを、当時のぼくと同じように「リアル」と感じる30代の読者がいるとは思いません。しかし、25年ぶりに読み直して思うのですが、この小説はそんなことを書いているのでしょうか。 「言葉が届かないところっていうのは『闇』なのよね。」 という真紀さんの言葉が指し示している『闇』のリアルは、果たして25年の歳月で古びたのでしょうか。 その真紀さんが、数年間の「主婦」の生活でたどり着いた「普遍的な母」の「識閾」の哀しさは古びたのでしょうか。 保坂和志は、その後、「ネコのいる世界」を描きながら言葉の届かない「闇」に言葉の触手を届けようとしつづけているように思いますが、それは、古井由吉が言葉の底にある「記憶」を「言葉」で紡ぎ続けているように見えた晩年の作品に、どこか共通すると感じるのは、読み損じでしょうか。 保坂和志は実に静かに、「新しい文学の可能性」を追い続けているのではないでしょうか。
2021.03.14
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「元町でサクラ発見!」徘徊日記 2021年3月8日 5丁目あたり 三ノ宮で映画を見て、さて、どの道を帰ろうかと考えて、ウロウロします。この日はどの道を通ってここにやって来たのかわかりませんが、元町5丁目から6丁目あたりの北側、JR東海道線沿いの西向きの一方通行の中央分離帯に植えられているサクラが、なんと既に満開でした。 左に見えるのがJR東海道線の高架で、この辺りは中央分離帯の左右ともに西向きの一方通行です。 サクラはまだ若木ですので、咲いたと騒ぐほどのことではないのでしょうが、ぼくにとっては2021年の、正真正銘の最初のサクラでした。初桜 折しも今日は よき日なり 松尾芭蕉初ざくら 其きさらぎの 八日かな 与謝蕪村夕桜 家ある人は とくかへる 小林一茶 ちなみに、今日は弥生の八日です。 ここから、高架をくぐって北にでて、もう一本北の道まで来ました。街路樹の白木蓮が咲き始めていました。 つい先日、六甲アイランドでも見かけました。サクラとは一味も二味も違いますが、街路樹で見かけ始めて、ちょっと嬉しい花です。 もう、夕暮れで、陰に入るとうまく撮れませんね。まあ、それにしても。今日はいいものを見ました。ボタン押してね!
2021.03.13
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P・B・シェムラン「博士と狂人」シネリーブ神戸 2020年の秋に見た映画です。英語を勉強したり、英訳を仕事にする人にとって必携の辞書に「OED」、「The Oxford English Dictionary」という百科事典みたいな辞書がありますが、あの辞書の誕生秘話といった趣の映画でした。 話しの筋立てはメル・ギブソン演じる、実直な学者ジェームズ・マレーと、ショーン・ペンが扮したウィリアム・チェスター・マイナーという、記憶の天才のような、チラシによれば、まあ、狂気の人との出会いを柱にしたOED完成の「驚くべき真実」のドラマで、ぼくには、そこそこ面白かったのですが、映画の中でショーン・ペンが演じていた天才の役割が、例えば、「その言葉はミルトンの『失楽園』のどこそこにある」というような、出典探索係だったことが、何となく引っかかって感想がかけませんでした。 辞書作りといえば、数年前に流行って、見ていませんが映画にもなった「舟を編む」にしろ、たしか、この映画の後に見た「マルモイ」という、日帝統治下の朝鮮語の辞書の話にしろ、「集める」ということと「整理する」ということの「膨大さ」が話題になるわけで、この映画も、ジェームス・マーレイという学者とその家族が、そのあたりの役割を担っていたのですが、ショーン・ペンという人の役割は「殺人犯」なのにというだけなのかなという引っ掛かりでした。 で、「アッそうか」と機会に最近出会いました。 松岡正剛という博覧強記で、八面六臂の活躍をしている人がいますが、彼の「擬(もどき)」(春秋社)という本を読んでいて、こんな記述に出会ったのです。 十一世紀以前のイギリスは多数の民俗の到来によって錯綜していた。ブリトン人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやって来て、最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんな、あのブリテンでアイルランドでウェールズな島々に来ていたのだ。全部で六〇〇〇もある島々だから、どこにだれが住み込んでも平気だった。 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったはずの「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」との境目が曖昧になる。 いまは我がもの顔で地球を席巻している「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語だ。 それゆえOED(オックスフォード英語辞典)後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて「公正(フェアネス)」や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があった。(「擬」第十綴アーリア主義) 映画が描いている19世紀の終わりですら、「英語」には標準がなかったということに、ぼくは驚きました。 だからこそ、ショーン・ペンが演じた人物のような「記憶の天才」が必要で、「聖書の英語」や「失楽園の英語」という標準を基礎において、スタンダードな「英語」を残す必要があったというのが、メル・ギブソンのジェームス博士の辞書作りのモチーフだったと納得したわけです。 「マルモイ」のように抑圧され失われていく自国語に対するナショナル・アイデンティティこそがドラマの主眼となったり、「舟を編む」のような、辞書作りの「そうだったのか、ごくろうさん」的な物語以前に、「OED」という辞書こそが「イギリス」という「国家」と「文化」を定義し、標準化するのだという「歴史」的な役割があって、その側面を二人の主役が演じていた、そう考えると、「なるほど」と納得でした。 ちょっと、胸がすきましたね。引用した松岡正剛の「擬 もどき」(春秋社)についてはまたいづれということで。監督 P・B・シェムラン原作 サイモン・ウィンチェスター脚本 トッド・コマーニキ P・B・シェムラン撮影 キャスパー・タクセン美術 トム・コンロイ音楽 ベアー・マクレアリーキャストメル・ギブソン(ジェームズ・マレー)ショーン・ペン(ウィリアム・チェスター・マイナー)ナタリー・ドーマー(イライザ・メレット)エディ・マーサン(マンシー)ジェニファー・イーリージェレミー・アーバインヨアン・グリフィズスティーブン・ディレインスティーブ・クーガン(フレデリック・ジェームズ・ファーニヴァル)2019年・124分・G・イギリス・アイルランド・フランス・アイスランド合作原題「The Professor and the Madman」2020・10・24・シネリーブルno85
2021.03.13
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徘徊日記 2021年3月6日「六甲アイランドあたり」 六甲アイランドといえば、「株式会社神戸市」と、かつて揶揄された神戸市が産業・住宅・教育の新たな中心地として企画し、六甲山を切り崩してつくりだした人工島で、1970年代の末に完成した「ポートアイランド」に続いて、阪神大震災の直前に完成し、震災の影響で「夢の島」だったはずが、一転、空き地だらけの不思議な「廃墟」のようになっていたのですが、ヤッパリさびしい場所ですね。この日は天気も悪かったということもあるのですが、この辺りにはほとんど人影はありません。 写真は最南端のヤシの木のテラスのような場所で、できたばかりの時は、ハーバーランドからここへ水上バスの定期便があって、「港めぐり」が楽しめたのですが、今はもうありませんが発着場はありました。 おなじ場所からカメラを西に向けると大型のコンテナ船の荷下ろしをしていました。船の向こうに見える建物はポートアイランドですね。ポートピアホテルが小さく見えています。カメラを少し南に振るとこうなっています。 ポートアイランドのコンテナ基地ですね。今日は寒いのでもう帰りますね。ここから北に歩いてポートライナーの駅に向かいます。 海岸から駅までには、大学と小学校がありました。この建物は六甲ライナーの、南の終点、「マリンパーク」駅の前にある「六甲アイランド」高校です。高校の前は公園風で銅像や池があります。 なんだか、ものすごく足の長い銅像でした。まあ、胴も長いのですが。名前は「大きな浴女No.2」で、エミリオ・グレコという人の作品だそうです。 コッチは、普通の女性かな。「渚」という作品で、制作者は船越保武という人らしいです。 六甲アイランドは「彫刻のある街」なのだそうで、島中に40体の彫刻が設置されているようです。ちょっと興味を惹かれますが、またの機会ですね。「マリンパーク駅」から六甲ライナーですが、電車は撮り忘れました。ははは。 先頭から見える六甲山です。前に見える赤い橋を渡ります。赤い橋を渡ったあたり。正面が住吉山手だと思います。左手の山が六甲台だと思うのですが。 六甲ライナー住吉駅です。JRの住吉駅と一体ですが、この日は阪神の御影駅まで歩きました。 住吉神社です。カメラが曲がっているのであって、お社が傾いているのではありません。 阪神電車の御影駅のホームです。ついでですから阪神電車の普通車の新しい車両を載せておきますね。まあ、ぼくは古い方が好きですが。 この日はここから「姫路行直通特急」で帰りました。JRの料金より高いのですが、ちょっと乗りたくなってしまいました。それではサヨウナラ。ボタン押してね!
2021.03.12
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穂村弘対談集「どうして書くの?」(筑摩書房) 歌人の穂村弘が7人の表現者、まあ、たいていは作家と対談しています。お相手は「高橋源一郎」、「長島有」、「中島たいこ」、「一青窈」、「竹西寛子」、「山崎ナオコーラ」、「川上弘美」ですが、作家の高橋源一郎とは二度出会っています。 読む人によって「読みどころ」は変わるのでしょうが、ぼくには高橋源一郎との二度にわたる対談が面白かったですね。 穂村弘は高橋源一郎の「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という作品で、石川啄木役を演じた歌人ですが、「明治から遠く離れて」という一つ目の対談はそのあたりから始まって、行きついた先の宮沢賢治をめぐる会話が出色です。穂村 自分の体内に宇宙があるという感じなんで、それが本物であろうということが言語を通じて生々しく伝わってくると、なぜその人の中にだけそんな混沌として、しかも整合性があるのか、ともいえますね。あの言葉の持っていき方というのは、勝手にこんな言葉を使うなよといいたくなるようなんだけど、本人の中ではすごい整合性があるわけでしょう。高橋 説得させられちゃうもんね。穂村 それでみんなを狂わせてしまうというか、だってあんなふうに自給自足で何かエネルギーが出せたら、表現者としてはすごくいいですものね。ばかみたいな「雨ニモマケズ」とか書いても、なんだか格好いい、なんだか彼なら格好いいみたいな。高橋 何書いても全部オーケーなんですね。日本文学内の唯一の自給自足作家(笑)。 もし、今宮沢賢治に相当する存在はと考えると吉増剛造ぐらいしか思いつかないけど、賢治のポピュラリティはないですものね。(中略) 読めば読むほど「理解」へ近づいていくことができる。言葉を解読していくことでその作家の謎に迫れる。しかしそういうやり方ではどうしてもわからないという人が必ず出てくる。単に頭が変だからわからない人もいるんだけれど(笑)、宮沢賢治となると、どこから来て、どこから何を持ってきたのかよくわからない。つまり、エンジンもよくわからないんだけど、その燃料をどこから持ってきたのかもわからない。それは非常に不気味なんですね。(中略) 宮沢賢治っていうのは日本文学史上のブラックホールみたいな作家、というか詩人で、この人のことをちゃんと言っておかないと日本語や日本文学についてきちんとわかったとは絶対いえないような気がするんです。 後半の引用は、高橋源一郎の部分だけになりましたが、まあ、そういう事です。ぼく自身、学生時代に宮沢賢治を読み始めたわけですが、世間一般の評判のよさについていけないにも関わらず、やめられない作家というか、詩人なわけで、皆さん褒めてばかりいて、悪口については黙っていらっしゃるのですが、高橋源一郎と穂村弘の言っていることって、どこか、ホッとしませんか? 二度目の出会いは「言葉の敗戦処理とは」と題されているのですが、穂村弘の「短歌の友人」(河出文庫)という評論をネタに対談が始まります。 小説にしろ短歌にしろ、表現者である二人の、2010年代の「現在」という「歴史性」がかなり突き詰められていて、スリリングです。近代150年の文学の歴史の中で、近代文学的な「言葉」が敗北した、今、現在に表現者は立っているのではないかという、仮説といえば仮説なのでしょうが、かなり本気な問題意識で語られています。モダンは終わったからポストモダンだという、80年代の流行りの話とはまあ、関係がないわけではないのですが、少し違います。そのあたりは読んでいただくほかありませんね。 本当は、この対談集の紹介は、竹西寛子との対談中に穂村弘が、おもわず(?)洩らしている表現者の本音について紹介するつもりでしたが、引用の成り行き上こっちの紹介で終ります。 「どうして書くの?」という書名の本なのですが、穂村弘という歌人が、真摯に「どうして」を突き詰めながら話しているところが面白い本だと思いました。
2021.03.12
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「こんな椿も咲いていた!」徘徊日記 2021年3月9日 団地あたり このところ、団地をウロウロしている不審な老人シマクマ君ですが、日ごろは通らない棟の前で、こんな椿が咲いているのを見つけました。 何だか作りものというか、「練りもの」の和菓子で出来ているというか。いかがですか、イイと思いませんか? 見ていて笑いそうですが、花も上品に微笑んでいるっていう気がしますね。 こんな風情で咲いています。この「かそけさ」がいいんですよね。「かそけし」って「幽し」って書くんですからね。それがね、同じ種類の木なのでしょうが、隣に植わっているもう一本の椿はこんな感じなのです。 なんか、ちょっと雰囲気が違いますね。厚かましいというか、ごった返しているというか。ちょっと離れて写すとこうなります。 圧倒されると思いませんか。どの花も、今が盛りなのですが、なんだか厚かましい結婚式の飾り付けみたいですよね。いやはや、こっちも、やっぱり笑っちゃいました。 「おいおい、そんなに咲いてどうするの?」 って、いうか、 「ガッツだぜ!」 っていうか、こういう風情って、かえって照れくさいですね。梅一輪一輪ほどの暖かさ 服部嵐雪 思い出しちゃいました。こういう句もありましたね。並べてみると、笑えませんか?まあ、こっちが、そんなに若くないっていうことかもしれませんね。追記2023・03・09 そういえば、この椿の姿、今年は見ていませんね。やはり、少し寒かったのでしょうか。ちょっと、探してきますね。こうやって、同じようにうろうろしているつもりなのですが、思っている自分のなかで「同じ」が変わっているのでしょうかね。年を取るって、そういうことなのでしょうか。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!
2021.03.11
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徘徊 2021年3月6日「花森安治『暮しの手帖』の絵と神戸」神戸ゆかりの美術館 ファッション美術館で絵本の展覧会を見終えて、ふらふら表に出て一服して美術館の宇宙船のような、2001年のあれですね、ドーム(?)を見あげていて気付きました。 この建物には「神戸ゆかりの美術館」という美術館が併設されているようです。催し物は、「暮しの手帖」の編集長だった花森安治の展覧会でした。 年末だったか、年明けだったか、出不精のチッチキ夫人が「ちょっと行ってくるね」といって出かけた展覧会をまだやっていました。 「スイスの絵本展」が入場無料だったことに気を良くしていたこともあって、「こっちも、ちょっと寄ってみようか」という気分で美術館に戻りました。今度は、このドーム状の建物のほうから入りました。 中は、こんな感じでしたが、ただ、こんな感じな空間がありました。展覧会は一番下の階だそうで、折角階段を上がってきたのですが、再び階下へというわけです。 花森安治についてはよく知りませんでしたが、神戸の人、神戸三中ですから、今の長田高校の出身だそうです。 「暮しの手帖」という雑誌の名編集長だったわけですが、最近、津野海太郎という、これまた名編集者だった人が「花森安治伝」(新潮文庫)という伝記を書いています。チッチキ夫人が、この展覧会に出かけたきっかけの本で、面白かったようですが、ぼくは読んでいません。 展覧会は「暮しの手帖」の、ぼくなんかの年齢の人間には懐かしい表紙がいっぱ居並んでいる印象でしたが、見ている人たちが記事を拡大した写真の展示を熱心に読んでいらっしゃるのが驚きでした。まあ、ぼくも、いくつかは読みましたがね。 ぼくは田舎暮らしでしたが、子供のころ家にあった雑誌といえば「暮しの手帖」、「家の光」、「中央公論」でした。昭和30年代ですね。 展覧してある記事で、一つだけ読んだのですが、「商品テスト」という「暮しの手帖」の代名詞のような企画について、消費者教育ではなくて、生産者に対する意識での企画だという花森安治自身の言葉が印象的で、戦後の昭和を感じました。 ぼくには、なんだか、ちょっと物足りない展覧会でしたが、けっこうお客さんがいらっしゃって、なんだかうれしいような気分になりました。 たしかに、忘れたくない人ですよね。ボタン押してね!
2021.03.11
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「雪柳が咲き始めました!」徘徊日記 2021年3月9日 団地あたり 団地では梅が満開になって、いよいよ次は雪柳です。スマホカメラのピンボケのせいで、本当に「雪」が舞っているように見えますが(見えないか?)、近くから撮っているせいで誇張されています。たくさん咲いているように見えますが、まだまだ群落の広がりはありません。 接写すると花はこんな感じです。 コッチはデジタルカメラの写真です。かなり大きな花のように写っていますが、小さい、小さい、白い花です。 我が家の玄関に切り花の雪柳が枯れかけていますが、チッチキ夫人が花屋さんから買ってきたこの雪柳の花はピンクがかっています。そういう種類もあるようですね。 もう一枚「雪が降っているのか!」 の、写真があります。どうぞ、ご覧ください。ヤッパリ、ピンボケしているだけなのですが。 井戸ばたにこほれて白し小米花 正岡子規雪やなぎ雪のかろさに咲き充てり 上村占魚 実は、わが家のゆかいな仲間が小学生だった頃には、この辺りに連翹の群棲があったのですが、雪柳に乗っ取られてしまいましたね。 ああ、それから、小米花(こごめばな)というのは、雪柳の別称らしいですね。追記2023・03・20 今年も、ちょうど雪柳が満開です。咲き始めると、一気に!なので、あわてて写真を撮っていますが、なかなか報告できていません。日付を見ると、実は二週間くらい遅いのですね。不思議です。やっぱり今年は寒かったのでしょうか。ボタン押してね!
2021.03.10
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ペマツェテン「羊飼いと風船」シネリーブル神戸 「あたたかさ」、「さわやかさ」、あるいは「きびしさ」と、いろいろ言葉を考えますがうまく言い表せない余韻を残してくれた映画でした。 チベット映画という触れ込みですが、中華人民共和国の「チベット自治区」を舞台にした映画です。そういう意味では「中国映画」ですが、ご覧になられればおわかりだと思います。これは、やはり、紛うかたなき「チベット映画」というべき、映画でした。 「羊飼いと風船」という題のとおり、まず草原の羊が主人公の映画かもしれません。映像に映し出される「羊を放牧する草原」、「腰に,生きている羊を括り付けてオートバイで運ぶ青年」、「遠くの山々」、「仏教に帰依する人々と生活」、「老人の死と葬儀」、「学校をやめて尼になる少女」、「仕事の合間に飲むお茶や食事」、「チベット語の書物」、どれもこれも、はっと目を瞠るシーンでした。「ああ、これがチベットなんだな」 そういう、「驚き」とも、「発見」とも少し違う印象深さが、この映画の、まず第一番の面白さでした。 ぼくは、おなじ中国の内モンゴル自治区で「日本語」を教えるボランティアをしたことがありますが、自然の雰囲気や、羊の扱い方や食べ方は、とてもよく似ていると思いました。 しかし、仏教と暮らしの結びつきの様子や、何といっても文字と言葉が大きく異なっているように思いました。「モンゴル語」も独特ですが、この映画に出てくる「チベット語」の文字や印刷物を、ぼくは初めて興味深く見ました。 こう書くと、地球の秘境のようなチベット高原の風物誌を描いた映画なのかと誤解されるかもしれませんが、違います。 間違いなく「現代」という時代と、「チベット自治区」という「小さな民族」と「中国」という「大きな国家」を描いた映画でした。 羊飼いの、若い夫婦が老いた父親の世話をしながら、三人の子どもを育てて暮らしている生活が描かれています。チラシの写真のシーンですが、夫婦の幼い子供たちが、なんと、両親の避妊具を膨らませた風船で遊んでいるエピソードから映画は始まりました。 妻ドルカルが四人目の子供を身ごもったことによって、「貧困」と「宗教」と中央政府の出産制限という「政策」が、辺境で暮らす「家族」の「穏やかな生活」を揺さぶり始めます。 身ごもった「いのち」と向き合うことで、女性として、母として、妻として「生きている」現実と向き合うドルカルを演じるソナム・ワンモという女優さんの「哀しみ」の表情と、涙を流す「眼」の美しさは忘れられないでしょう。 一方、素直な愚か者である夫タルギュを演じたジンパという男優の素朴な演技も印象に残りました。 ネタバレですが、上のチラシのなかにありますが、母親が留守になった子供たちに「赤い風船」を買って帰るオートバイが草原を走るシーンに続けて、子供たちが、その「赤い風船」をもって草原を走りだし、一つの風船がはじけてしまい、もう一つが、子供たちの手を離れ青空に舞い上がっていくラストシーンで映画は終わりました。 ぼくは、そのシーンの「美しさ」に感動しながら、大きな国に支配されている「チベット」の人々の、なんともいえない「哀しさ」を象徴したシーンに思えたのでしょう、思わず涙を流したのですが、それは、考え過ぎだったのでしょうか。監督 ペマツェテン脚本 ペマツェテン撮影 リュー・ソンイエ美術 タクツェ・トンドゥプ編集 リアオ・チンスン ジン・ディー音楽 ペイマン・ヤズダニアンキャストソナム・ワンモ(ドルカル:妻)ジンパ(タルギュ:夫) ヤンシクツォ(シャンチュ・ドルマ::妻の妹・尼)2019年・102分・G・中国原題「気球 Balloon」2021・02・25シネリーブルno84 大岡昇平の「事件」はこれです。創元推理文庫に入っているようですね。
2021.03.10
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「梅の花にメジロ」 徘徊日記 2021年3月1日 団地あたり 二月の末から咲き始めた団地の梅の花がそろそろ満開です。それぞれの木にメジロがやって来て、花の蜜を啄んでいるのでしょうか、なかなかにぎやかです。 スマートフォンのカメラ機能で撮ろうとしたのですがうまく撮れませんでした。今日は、徘徊のともで使っていたデジタルカメラで撮ってみました。 スマホのカメラより。カメラ機能が手動なので漸くピントが合いました。上の写真にメジロが何羽写っているかわかりますか? もう少しズームアップして撮るとこんな感じです。 実は、夕暮れ時ですが、明るく撮れました。天気のおかげですね(笑)。 ここに写っている、こういう仕草というか、動きというかが面白いのですが、動きが速いので、写っているのはただの偶然です。で、当然、ピンボケです。 どうして、ボクの写真のメジロは向こうばかり向いているのでしょうね。一枚くらい、こっちを向いて写っているのはないのでしょうか。 ありました! これで、やっとメジロだと分かりますね。最初の写真には5羽写っているようですが、撮った当人も、本当はよくわかっていませんね。 まあ、それにしても落ち着きのない鳥!ですね。もっとも、団地をウロウロしてこういう写真を撮って嬉しがっている人間に、そういうことをいう資格があるのかどうか、そのあたりはむずかしいですが(笑)。追記2023・03・12 2年前の日記ですが、苦心してメジロにピントを合わせたときのことを、覚えている気がします。今年も梅が終わりつつあって、さあ、いよいよ春が来るな!とか思ってしまう好天が続いていますが、メジロの写真は撮れませんでした(笑)。 なには、ともあれ、次はいよいよ桜ですね。ボタン押してね!
2021.03.09
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「西郷川のさくら?」 徘徊日記 2021年2月27日 灘区岩屋あたり 灘区の西郷川といってすぐにおわかりでしょうか? 阪神電車の岩屋駅と西灘駅の間を南北に流れている川ですが、摩耶山から流れてきて途中、王子公園の東を下る小さな川です。 こんな感じですが、今の季節に限らず、そんなに水量のある川とは思えません。王子公園のあたりでは「緑の桜」がもうすぐみられますが、ご覧のようにまだまだ花の季節ではありません。 ところが、阪神電車の南の「岩屋公園」のこの辺りの川端では、2月だというのに桜が満開でした。 「河津桜」という種類だと思うのですが、この辺りには「アーモンド」も植わっているようです。ぼくには見分けがつかないので、間違いかもしれません。 何はともあれ、写真を撮っている時は、今年初めて「桜の花」を見て「おおっ!これは、これは!」 と夢中ですからどうしようもありませんね。 住所は確認しましたが、花の種類は未確認でした。住所のわかる電柱の標識を撮るのは、徘徊の癖になっているのですが、花の名前とかにはまだまだ無頓着です。 それにしても、垂水区の住人が、なんでこんなところを歩いているのでしょうね(笑)。ボタン押してね!
2021.03.09
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徘徊 2021年3月6日「スイスの絵本展」神戸ファッション美術館 東灘区の海の上にある六甲アイランドの「神戸ファッション美術館」に初めて行きました。JRの住吉駅から六甲ライナーという無人電車に乗り替えて、アイランドセンター駅で降りるとすぐそこです。 美術館の建物のそばで、「白木蓮(?)」が盛大に花をつけていました。まあ、ぼくには「辛夷」との見分けがつきませんので、「白木蓮」ということにしますが、間違っていたら教えてください。 ちょっと、カメラを引くとこんな感じです。 この木の隣にファッション美術館がありました。写真の撮り方がへたくそなので映っていませんが「木蓮」はこの写真の左端にありました。 今日のお目当てはこの展覧会です。こわくて、たのしい スイスの絵本展 ー クライドルフ、フィッシャー、ホフマンの世界 ― チラシと同じデザインのポスターですが、チラシはこんな感じでした。 19世紀から20世紀にかけて活躍したらしい、スイスの絵本作家、エルンスト・クライドルフ(Ernst Kreidolf1863-1956)、ハンス・フィッシャー(Hans Fischer1909‐1958)、フェリクス・ホフマン(Felix Hoffman1911-1975)という三人の人たちの原画とかの展覧会です。 格別、絵本に興味があるとかいうわけではありません。「こわくて」に惹かれてやってきました。おチビさんたちは、大人が想像するより「こわい」絵柄が好きなもんだと思っていますが、さて、本当に「こわい」のでしょうか。 そんなに「こわい」わけではありませんでした。大人の目で「こわい」と思ったのはポスターになっているおやすみのシーンです。この子たち、さっきまで狼に丸呑みにされていたんですからねえ。その上、窓の外には満月です。 まあ、こういう興味を持ち始めると、老人二人の家に「絵本」が増えるという、これまた「こわい」ことが起こりがちですね。 まあ、ぼくは、三人の中ではフィッシャーという人の、ポスターの絵の人ですが、絵柄が好きでしたね。 この展覧会は神戸市在住の65歳以上の人は「ただ」でした。素晴らしい企画ですね。該当するぼくは、とてつもなく得をしたようないい気分の展覧会でした。
2021.03.08
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アントワーヌ・ランボー「私は確信する」シネリーブル神戸 この映画のチラシには「ヒッチコック狂」の完全犯罪 フランス全土の関心を集めた「ヴィギェ事件」と宣伝されていて、妻殺しを疑われながらも、一審で無罪判決を受けた大学教授が上告されて、という実話があるそうで、その裁判のドラマ化という、法廷もの映画でした。 法廷もの映画というのは、ぼくの好きなジャンルですが、最近、あまり見かけません。というわけで、普段はあまり読まない「チラシ」と「予告編」につられてやって来ました。見たのはアントワーヌ・ランボー監督の「私は確信する」です。 レストランの調理場で、女性のシェフが料理をしていますが、高級なフランス料理というわけではなさそうです。お昼ご飯を食べる食堂という感じのお店ですが、お昼の仕事を終えて女性は、黒人の同僚とシャワーを浴び、おやおや、そういう関係ですかという行為に及びます。それが映画の始まりでした。 この女性シェフが、実はシングルマザーで、この事件の探偵役のノラさんでした。彼女は、何の資格もないのですが、事件を担当することになった弁護士の、にわか助手として、膨大な通話記録から「真犯人」を見つけ出していく「女性探偵」へと変貌していくのですが、なぜそれほど気合を入れて「探偵」になってしまうのかよくわからないのがこの映画の残念なところでした。 「死体」のない殺人というミステリーを、法はどう裁くのかという筋書きで映画は進むのですが、当然、見ているぼくは、「で、真相はどうなの?」 という気分なわけです。そして、その気分を代行してくれるのがノラさんだったわけです。 真犯人と思しき男の、通話の矛盾を見つけ出し、事件の「真相」に迫っていくノラ探偵の様子は、ワクワクする展開なのですが、1審の陪審員だったことを隠していたことから弁護士と決裂し、疑った相手からは開き直られ、とどのつまりは、あわてて道路に飛び出して車にはねられるわ、職は失うわという展開で、「万事休す」となってしまいます。 ところが、そこからが弁護士の登場でしたね。ぼくは、敗色濃厚なこの裁判で、弁護士が何をするのか予想がつきませんでしたが、見終えてみると、なるほどそうかでした。 ぼくの好きな作家、大岡昇平に「事件」という「法廷小説」があります。野村芳太郎が同名の映画にしたのが1978年、大竹しのぶと渡瀬恒彦が印象的でしたが、その、小説にしろ映画にしろ、記憶に残ったのが「推定無罪」という「法」をめぐる概念でした。 「有罪」が証拠立てられる、あるいは、判決される以前の容疑者は「無罪」だということだったと思いますが、大事なことは「有罪」を論証するためには、原則として「物証」が必要だというのは、おそらくどこの国でも同じ事だと思います。 ただ、日本でも導入されているわけですが、「陪審員制度」で行われる裁判の場合、そのあたりがどうなるのかは、よくわかりません。おそらく単なる印象で判断してはならないくらいの心得は教えられているのではないでしょうか。 この映画の事件で、モレッティ弁護士は、なぜ弁護を引き受けたのかということを考えた時に、上に書いた「推定無罪」という原則に則れば「負ける」はずがないという読みだったのではないかと気づいたのは、彼の法廷での演説を聞いた後でした。 そういえば、最後の弁論を前にして「真犯人」という獲物を狙う「狼」のようになった探偵ノラに対して、モレッティ弁護士がいうセリフがこうでした。「その獣のような目つきは何だ。カン違いするな。この裁判は真犯人を見つけ出す場ではないんだ。」 とまあ、こう書きましたが、実は、正確な記憶ではありませんが意味はこうだったと思います。「真相」探しに熱中しているのらと、彼女がいかにそれをつかむのかと見入っていたボクにとって、なんとも鼻白む発言じゃないですか。 しかし、弁論をきけば「なるほどそうか」なのでした。実際、未解決の事件なわけで、オール実名で映画化しているスクリーンで「真犯人」を決めつめることはは無理でしょうね。でも、彼の演説の見事さが「推定無罪」を思い出させてくれたのはクリーン・ヒットでした。 弁護士役のオリビエ・グルメという役者さんも、ノラを演じていたマリナ・フォイスという女優さんもよかったですね。 ああ、それにしても、実話には存在しない「架空の人物」であるノラの「執着」の説明は、どこかにあったのでしょうか。そこが引っ掛かりましたね。監督 アントワーヌ・ランボー製作 カロリーヌ・アドリアン原案 アントワーヌ・ランボー カリム・ドリディ脚本 アントワーヌ・ランボー イザベル・ラザール撮影 ピエール・コットロー衣装 イザベル・パネッティエ音楽 グレゴワール・オージェキャストマリナ・フォイス(ノラ)オリビエ・グルメ(デュポン=モレッティ弁護士)ローラン・リュカ(ジャック・ヴィギェ)フィリップ・ウシャン(オリヴィエ・デュランデ)インディア・ヘア(セヴェリーヌ)アルマンド・ブーランジェ(クレマンス・ヴィギェ)ジャン・ベンギーギ(スピネル弁護士)スティーブ・ティアンチュー(ブルノ)フランソワ・フェネール(リキアルディ裁判長)フィリップ・ドルモア(検察官)2018年・110分・フランス・ベルギー合作原題「Une intime conviction」2021・02・26シネリーブルno83 大岡昇平の「事件」はこれです。創元推理文庫に入っているようですね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.03.07
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武田一義「ペリリュー 楽園のゲルニカ(10)」(白泉社) 2020年の秋に「ペリリュー」第1巻から第9巻までをまとめて読みました。感心しました。続いて「さよならタマちゃん」を読んで、すっかり武田一義さんのファンになったのですが、2021年、2月のマンガ便で「ペリリュー(10)」(白泉社)が届きました。 第1巻と「さよならタマちゃん」の感想を書いた時に、2巻から1冊ずつ「案内」しようと考えていたのですが、うまく書けないままほったらかしていると、どうも、あと1冊で終ってしまうようなので慌てました。 とりあえず、やってきた「ペリリュー」第10巻は裏表紙の宣伝を紹介しますね。 終戦から1年半 — 。 昭和22年3月、田丸と吉敷は「生きて日本に帰る」という約束を果たすべく、壕からの脱出に成功する。 投降 ― それは生死を共にしてきた仲間の敵になるということ。では生き残った兵士にとって「正しい行動」とは何か。 全体を危険から遠ざけるための規律か。 全員を救うための危うさのある勇気か。 「仲間」の命がかかる決断を迫られる島田。 混乱の中、島に銃声が響く―。 生き残った兵士それぞれに、譲れない正義がある。 数多の喪失に耐え、思いを繋いだ若者の生還の記録。 表紙の人物は、田丸くんではなくて吉敷くんだと思います。軍から脱走し、米軍に投降する企ての最中、上官によって撃たれます。田丸くんは瀕死の吉敷くんを支えて進みますが…。 眼窩を打ち砕かれた吉敷くんは、南の島の雨の中で故郷の父と再会し、米の飯を田丸くんに食べさせる夢を見ながら絶命します。 「生きて帰る」はずだった吉敷くんは、終わったはずの戦場で、文字通り、「戦死」します。ぼくは宗教を信じることができない人間ですが、彼の魂を祀っている立派な神社は、日本という国のどこかにあるのでしょうか。 アメリカ軍に投降し、1年以上も前の敗戦の事実を知った田丸くんが吉敷くんを思い出すシーンです。 このシーンを引用するかどうか、悩みました。作者はこのシーンを描くために、ここまで描き続けてきたと思うからです。こうして引用しながらいうのも変ですが、この「案内」をお読みいただいている方には、できれば、1巻から10巻まで、読んできて、このシーンに出会ってほしいと思います。 ぼくは、ぼくよりも20歳以上も若いマンガ家である武田一義さんが、このマンガをこんなふうに描いていることに驚きます。 マンガに限らず、あらゆる表現が、売れるか売れないかの空っ風に晒されている「現代」 という時代であるにもかかわらず、、この作品は「売る」ために書かれたとは思えない「まじめさ」 を失っていないように感じるからです。 追悼とは、戦死者を英雄として讃えることではない。 追悼とは、彼らの死の無惨さを、私たちの記憶にしっかりと刻み続けること。もがき、あがきながら死んでいった人々の傍らに静かに寄り添うこと。 生き残った人々の負い目にも心を寄せながら。(吉田裕) これは「売る」ためにつけられた腰巻、帯に載せられた推薦文です。誠実な文章だと思いますが、今、こういわなければならないこの国の「戦後」とは、田丸くんが帰ってきてからの80年とは、一体何だったのでしょうね。 昭和の戦争の研究者である吉田裕さんは一橋大学の先生だった方のようですが、「日本軍兵士」(中公新書)という本の著者でもあります。読んでみようと思っています。
2021.03.06
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ジョシュ・トランク「カポネ」シネリーブル神戸 ジョシュ・トランクという監督の「カポネ」という映画をシネリーブル神戸で見ました。 アル・カポネという名前を、アメリカのギャングの代名詞のように、子供の頃から知っていましたが、実際、どんなことしたのかなんて何も知りませんでした。 映画を見終えて調べてみると1899年、イタリア系の移民の子供としてニューヨークで生まれ、1925年シカゴのギャングの跡目をついで、ボスとして君臨します。カポネといえば「シカゴ」、「禁酒法」、「トミーガン」、「葉巻」ですよね。 1932年に収監され、1939年に出所、1947年に脳卒中で死んだそうです。48歳だったそうです。顔に、大きな切り傷があったので「スカー・フェイス」と呼ばれていたそうです。 映画は大きな屋敷の廊下を、奥へ奥へ進んでいくシーンから始まります。まあ、ネタバレですが、何が起きるのか、ドキドキしながら見つめていると、カメラは、なんだか揺れながら、ずっと進んでいって、暗い部屋の納戸の中に小さな可愛らしい少女が隠れているのを見つけます。で、それは、「カポネ」オジーちゃんと「かくれんぼ」をしていた子供たちの一人だったというわけでした。 映画は、こんなふうにズーッと、何が起きるのか引っぱり続けるのですが、派手なギャングのドンパチを期待していたぼくはすっかり騙されることになってしまいました。 主人公は、まだ50歳にもなっていない男なのですが、進行性梅毒の末期の症状でしょうね、身体的には失禁、脱糞を繰り返し、たえざる脳梗塞の危機に晒されていて、妄想と現実の間を行き来している、ほとんど「狂気」の世界の住人なのですが、カポネ役のトム・ハーディという役者さんは健闘していました。 現在なら「老人」と呼ぶような年齢ではないのですが、そのトンガッタ耄碌ぶり はなかなか見ごたえがありました(笑)。高齢の作家が「老いの日常」を書く「老人文学」というような言い方があるような気がしますが、この映画は「壮年ギャング映画」ではなくて、元ギャングの「老人耄碌映画」 でした。そこが、まあ、すごいところでしたね。 たしか、「ゴッド・ファーザーⅢ」でアルパチーノが椅子から転げ落ちる最後のシーンがあったと思いますが、あのシーンをふと思い浮かべました。 それにしても、1945年前後のアメリカが舞台なのですが、戦争のシーンなんてカケラも出てこないところに、ちょっと驚きました。監督 ジョシュ・トランク脚本 ジョシュ・トランク撮影 ピーター・デミング美術 スティーブン・アルトマン衣装 エイミー・ウエストコット編集 ジョシュ・トランク音楽 El-Pトム・ハーディ(フォンス/アル・カポネ)リンダ・カーデリニジャック・ロウデンノエル・フィッシャーカイル・マクラクラン(ドクター・カーロック)マット・ディロン(ジョニー)2020年・104分・R15+・アメリカ・カナダ合作原題:Capone2021・03・01シネリーブルno82
2021.03.05
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徘徊日記 2021年2月12日 「元町商店街 3丁目あたり」 これが3丁目のバナーと街灯ですね。4丁目と3丁目の境には、ヤッパリ女神さんがいます。 お仏壇の「浜屋」さんの角ですね。商店街はこの辺りから人通りが増えてきて、しばらく歩くと、2丁目と思いきや、「元町1番街」という名前に変わります。 「なんでそうなるの?」かは、よくわかりませんが「元町1番街」なわけです。路地をのぞくと南京町が見えます。 ここからの眺めはこの1年「閑散」というより、「人っ子一人」という言葉が似合う状態が続いていましたが、少し人通りが戻ってきました。「伊藤グリル」の看板が写っていますが、懐かしい洋食屋さんです。 洋食屋さんといえば「グリル一平」の元町店がこの辺りですね。 ありました。でも、このお店は昔はここにはありませんでした。ここにあったのは映画館です。 「元映」と呼んでいましたが、ぼくにとっては、「元町映画館」の本家ですね。確か二本立て(?)の名画座で「ペーパー・ムーン」、ライアン・オニールとテータム・オニールの父娘共演で、娘のほうがうまいと評判だった映画とか、「レイニー・ブルース」、ダスティン・ホフマンがスタンダップ・コメディアン、レイニー・ブルースを鬼気迫る迫力で演じていたモノクロ映画とか見た記憶があります。学生時代、70年代のことですね。 反対側から写すとこうなります。この辺りには、洋書の「丸善」とか、音楽関連図書やレコードが揃っていた「ヤマハ」とかがありましたが、もちろん今はありません。 元町商店街も、ここあたりで終わりです。東に出ると「大丸デパート」が正面に見えます。 人通りを写していませんが、信号が変わるたびに正面玄関に人が並んでいるのが見えます。 とまあ、「バナー」を写すだけのつもりがウダウダしてしまいました。(その1)・(その2)・(その3)はこちらをクリックしてみてください。ボタン押してね!
2021.03.04
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高橋源一郎「読むって、どんなこと?(その3)」(NHK出版) せいぜい100ページ余りの「読むって、どんなこと?」を案内するのに、えらく手間取っています。単なる偶然ですが、引用されているテキストのほとんどがぼくの書棚にもあることがうれしくて読み直しているとかしているわけでもありませんが、案内し始めると立ち止まってしまって、やっぱりこれも書いておこうという感じなのです。 だからと言って、ここに書いていることに意味があるとか言いたいわけではありません。でも、例えば今から案内する6時間目のテキストの詩なんて、やっぱり考え込んでしまうわけです。 で、(その3)は6時間目の紹介です。テーマは「個人の文章を読む」ですが、国文学者で、詩人の藤井貞和の詩がテキストです。 とりあえず詩を引用します。高橋先生は「いい詩だ。」と言い切っていますが、いかがでしょうか。 雪 nobody さて、ここで視点を変えて、哲学の、 いわゆる「存在」論における、 「存在」と対立する「無」という、 ことばをめぐって考えてみよう。 始めに例をあげよう。アメリカにいた、 友人の話であるが、アメリカ在任中、 アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、 学校から帰って、友だちを探しに、 出かけて行った。しばらくして、友だちが、 見つからなかったらしく帰ってきて、 母親に「nobodyがいたよ」と、 報告した、というのである。 ここまで読んで、眼を挙げたとき、きみの乗る池袋線は、 練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ、 降る雪のなか、難渋していた。 この大雪になろうとしている東京が見え、 しばらくきみは「nobody」を想った。 白い雪がつくる広場、 東京はいま、すべてが白い広場になろうとしていた。 きみは出てゆく、友だちをさがしに。 雪投げをしよう、ゆきだるまつくろうよ。 でも、この広場でnobodyに出会うのだとしたら、 帰ってくることができるかい。 正確にきみの家へ、 たどりつくことができるかい。 しかし、白い雪を見ていると、 帰らなくてもいいような気もまたして、 nobodyに出会うことがあったら、 どこへ帰ろうか。 (深く考える必要のないことだろうか。) 高橋先生は「nobodyがいたよ」という言葉が生まれる場所について「あちらの世界とこちらの世界」を行ったり来たりする「すきまの世界」だといっています。そして、そういう場所にしか存在しえないものとして「個人」という概念を持ち出してきました。 で、その話の続きで引用されるテキストが詩人荒川洋治の「霧中の読書」(みすず書房)というエッセイ集からウィリアム・サローヤンの「ヒューマン・コメディ」(光文社古典新訳文庫)の紹介である、「美しい人たちの町」についてという文章でした。 5時間目の「審判」の主人公は「故郷」から旗を振って送り出された兵士が「帰るところ」を失った話だったといってもいいかもしれません。藤井貞和の詩に登場する小学生は、あっちの「故郷」とこっちの「故郷」の間に立って友だちをさがしています。サローヤンが描いた、「イサカ」という美しい町は戦地で死んだ青年の戦友が、友だちの話に憧れてやってくる町でした。 気付いてほしいことは、それぞれの登場人物たちが、それぞれ「一人」だということだと高橋先生いっているようです。 さて、やっとたどり着きました。「おわりに」の章は、「最後に書かれた文章を最後に読む」というテーマで批評家加藤典洋の「大きな字で書くこと」(岩波書店)から「もう一人の自分をもつこと(2019年3月2日)」というテキストの引用でした。 鶴見俊輔の文章もそうでしたが、このテキストも加藤典洋の遺稿といっていい文章です。「読む」ということを考えてきた授業の最後に高橋先生が取り上げたのは、批評家が書き残した「キャッチボールの話」でした。ボールは言葉だなんていうことを言ったわけではありません。「一人」で生きてきたことを自覚していた批評家が何故、最後の最後にキャッチボールの思い出を書いたのか。そこを考えることが「読む」こととつながっていると高橋先生はいいたかったのかもしれません。 なんだか、ネタをばらさないで書こうとした結果、最後まで意味の分からない文章になりました。 多分図書館で借りることができる本だと思います。「読む」だけなら半日もあれば大丈夫です。興味を引かれた方は是非読んでみてください。まあ、考えはじめれば「尾を引く」かもしれません。少なくとも、子供向けで済ますことはできない話だろいうことはわかっていただけるのではないでしょうか。 いや、ほんと、ここまで読んでいただいてありがとうございました。(その1)・(その2)はこちらからどうぞ。
2021.03.04
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「椿の花が咲いています」徘徊日記 2021年3月1日 団地あたり 2月の末から3月にかけて雨が降ったり暖かかったり、冷え込んだり。三寒四温という言葉もありますね。この季節のことなのでしょうか。 梅の花が咲き始めているそばに椿の花が咲いていました。玄関を出た植え込みにあります。この花の季節はいつなのでしょうね。 サザンカが咲いて、椿が咲いて、梅が咲いて、そして、サクラなのでしょうか?サザンカはまだ咲いていますが、満開を超えると茶色く汚れた感じがして、ちょっと写真を撮る気持ちになれないんですね。サザンカの花が悪いわけじゃあないのですが。春風にむかふ椿のしめり哉 野坡はるまちて名をながさせん梅椿 土芳行春に赤き物あり藪椿 支考 志太 野坡(しだ やば)服部 土芳(はっとり とほう)各務 支考(かがみ しこう)皆さん、芭蕉のお弟子さんたちですね。 ピンクの花の椿も1本あります。「梅椿」というわけですから、ついでに水も滴る白梅も一枚載せますね。この日は一日雨模様でした。 弥生、三月というわけで、いよいよ春でしょうか。追記2022・03・03 去年の投稿を修繕していて「今年は椿の花の写真がうまく撮れなかったなあ。」と詠嘆しています。椿の花は咲き始めると、風のせいか、周りの枝や葉とこすれてしまうせいか、すぐに汚れたようになってしまいます。 これが自宅の前の椿の木の2022年の2月の末の写真です。花には何の罪もないのですが、花弁が少し汚れたようになって寂しい写真です。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!
2021.03.03
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エドワード・ゴーリー「ギャシュリークラムのちびっ子たち」(柴田元幸訳・河出書房新社) どうして、この絵本に行き当たったのか、いくら考えても思い出せません。アマゾンの本屋をのぞいていて、「何だこれは?」と思ったのかもしれませんが、なんだかえらいものを拾ってしまったようです。 1ページ目をめくるとこんな英文が書かれています。A is for AMY who fell down the atairs で隣のページがこれです。 柴田元幸さんの訳は「Aはエイミー かいだんおちた」 です。 次のページはBです。C、D、と続いて行って、最後のページはZです。 Z is for Zillah who drank too much gin 絵はこうなっています。 同じく訳は「Zはジラー ジンをふかざけ」 要するにAからZまで、一行づつ「詩」のような文句があって、その「ことば」の場面が版画の挿絵になっています。いわゆる「ABCえほん」です。ちがうのは、26人、すべて、登場人物は子供で、例外なく「不幸」になるというところです。裏表紙はこうです。 表紙で、子供たちの後ろにいたのは「死神」でしょうか。裏表紙のこれは、なんなんでしょうね。多分のお墓ですね。 チビラ君たちに見せたらなんというでしょうね。ちょっと興味がありますね。どんな感想を持とうが、まあ、見せたらいいとは思うのですが、それでも、ちょっとためらいますね。 巻末で、訳者の柴田元幸さんが解説しています。 ゴーリーの世界では、たとえ人々が居間で和やかににお茶を飲んでいても、あるいは春の花畑をそぞろ歩いていても、暴力と悲惨の影が常にすぐそこに見えている(もっとも、なぜか猫だけはたいてい明るい顔をしているし、さほどひどい目にもあわない。僕もゴーリーの作品は何十と読んだが、猫については、一度だけ首を斬られるのが記憶に残っている程度)。 とはいえ、これが本当に不思議なのだけれど、そこにはいつも、ひどく場違いなことに、滑稽さ、ユーモアがみなぎっている。 さすが、柴田元幸さんですね。うまいことおっしゃいます。そうなのです。じっと見入っていると、みょうに「可笑しい」んです。イヤだからと言って、「チビラくん」たちに「な、可笑しいやろ!?」といって手渡すのも、少し気が引けるわけで、どうしたらいいんでしょうね。 初めて手にしたエドワード・ゴーリーなのですが、ちょっとほっておけないことになりそうです。追記2022・06・19「ジージの絵本」の、新しい「案内」記事を書こうと思ってこの絵本を取り出して、いろいろ考えこんで、過去の記事を調べたりしていて、すでに「案内」を書いて投稿していることに気づきました。ちょっと「ヤバイ!」と自分で思いました。これから、こういうことが増えるのでしょうか?
2021.03.03
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「鶉野飛行場跡」 徘徊日記 2021年2月22日 青野ヶ原あたり 小野の鴨池でコハクチョウとか鴨とか見た後、お昼ご飯は「がいな製麵所」という所で「おうどん」をいただきました。 「おうどん」なんて言い方をすると、いかにも関西風ですが、「讃岐うどん」でした。「釜揚げ」と冷たい「ぶっかけ」をいただきましたが、とてもおいしい「おうどん」で、まわりには田んぼとかしかない雰囲気の場所でしたが、お客さんは結構込み合っていました。 うどん屋さんの隣が、向こうに見える神社の参道でした。鎮守の森というか、懐かしい風情でした。 このお店にやってくる途中で、第三セクターというんでしょうか、北条鉄道の網引駅に寄りました。「あびき」と読むようですが、もちろん無人駅です。 駅前の大きな銀杏の木が有名らしいですが、今は、巨大な箒を逆さに立てた様子です。芽吹きの直前でしょうね。 駅前の観光案内によれば、ウオーキングやサイクリングの人の休憩所になっているようです。近くに湿原とかもあるようで、今度はそこに連れて行ってくれるらしいです。 で、興味を持ったのが飛行場でした。とりあえず、昼食をすませて「鶉野(うずらの)飛行場跡」にやって来ました。 飛行場跡地の近くに、昔の戦闘機が置いてありました。この飛行機は「練習機」らしくて、作り直した「紫電改」が近くの倉庫に展示されていたようですが、気づきませんでした。ざんねん! 姫路の海軍航空隊の慰霊碑がありました。沖縄戦にさいして60数名の兵士が特攻作戦によって亡くなったことが記されていました。播州平野の、この飛行場から、はるか沖縄海上目指して特攻隊の飛行機が飛び立ったことに驚きました。 多分これが飛行場の跡地です。そもそも、こんなところに飛行場があった事すら知らなかったわけで、亡くなった方の年齢のほとんどが20代、それも20歳か21歳でした。父親と、ほぼ、同い年の青年たちであることに胸を突かれました。 今日は楽しい徘徊でした。お天気はいいし、ほとんど歩く必要もなかったし、見るべきものは見て、食べるべきものを食べました。 やはり、持つべきものは友ですね。2月22日徘徊(その1)「小野の白鳥」はこちらをクリックしてみてください。 ボタン押してね!
2021.03.02
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高橋源一郎「読むって、どんなこと?(その2)」(NHK出版) 高橋源一郎「読むって、どんなこと?」の(その2)、「つづき」ですので、裏表紙を貼ってみました。時間割と「テーマ」が読み取れるでしょうか。 それぞれの授業で、学校の教室の勉強では「読めない」テキストが使用されています。 1時間目は「簡単な文章を読む」というテーマの授業ですが、テキストはオノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」(講談社文庫)です。ぼくがこれまでに燃やした本の中でこれが一番偉大な本だ。ジョン・レノン 1970年 という言葉で始まる本だそうですが、オノ・ヨーコさんの「簡単な文章」の例はこうです。「地下水の流れる音を聞きなさい。」 これに対して、学校でならう詩の中で、ある時期、まあ、今でもかもしれませんが、代表的な人気を誇った黒田三郎さんのこの詩が対比されます。 紙風船 黒田三郎 落ちて来たら 今度は もっと高く もっともっと高く 何度でも 打ち上げよう 美しい 願いごとのように 二つの詩、あるいは詩(のような文章)と詩が比較されて論じられますが、興味が湧いた人はこの本を探して読んでみてください。学校の先生は、何故、オノ・ヨーコの文章を教室では扱われないのでしょう。 そういう問い方を高橋先生はするのですが、おわかりでしょうか。 2時間目は「もうひとつ簡単な文章を読む」時間です。テキストは哲学者の鶴見俊輔、「もうろく帖(後編)」(編集グループSURE)からの引用です。 お読みになる前に(その1)で引用した「そのときの人ぶつのようすや気もちを思いうかべながら読みましょう」という、小学生2年生に対する読み方の指針を思い出してみてください。2005年11月4日 友は少なく。これを今後の指針にしたい。 これからは、人の世話になることはあっても、人の世話をすることはできないのだから。2011年5月20日 自分が遠い。2011年10月21日 わたしの生死の境に立つとき、私の意見をたずねてもいいが、わたしは、わたしの生死を妻の決断にまかせたい。 最後の10月21日の文章が、鶴見俊輔の絶筆だそうです。この文章を書いた6日後、脳梗塞を発症し、「ことばの機能」を失い、「書く」ことや、「話す」ことができなくなった老哲学者は「読む」ことだけはできたそうです。最後の数年間、2015年7月20日に93歳でなくなるまで、ただ「読書の人」であったようです。 高橋先生はそんな鶴見俊輔の姿を思いうかべながら「読む」ことについて問いかけています。この「文章」を「そのときの人物」になって「読む」とはどうすることでしょう。最後まで本を手放さなかった哲学者を思いうかべて考えてみてください。 またしても長くなっていますね。ここからは、できるだけテキストだけ紹介します。 3時間目は「(絶対に)学校では教えない文章を読む。」というテーマです。テキストは永沢光雄「AV女優」(文春文庫)から、刹奈紫之(せつなしの)さんという人のインタビュー。 はい、間違いなく学校では教えません。初めてお読みになる方は「アゼン」となさるんじゃないかと思います。しかし、なぜ、学校では読まないのでしょう。 ぼくは読んだことがありますが、そこには「本当のこと」が書かれていて、きちんとお読みになれば、実はすごいインタビューだということはわかるのですが、教室で読もうという発想にはなりませんでした。なぜでしょう。 4時間目は「(たぶん)学校では教えない文章を読む。」というテーマですが、テキストの坂口安吾「天皇陛下にささぐる言葉」(景文館書店)は、授業で扱うには、かなり度胸がいることがすぐにわかります。同じ作家の「堕落論」を教室で読むことはあっても、この文章を教室に持っていくことはためらわれます。なぜでしょう。 ぼくは、もし、高橋先生がこの話をテレビかラジオであっても、実際に話したことをNHKが放送したのであれば、NHKを見直します。 3時間目の文章と4時間目の文章には、「私たち」の社会が隠そうとしている「なにか」について、本当のことを書いているという共通点があります。そのことを思いうかべてながら5時間目のテキストを読むと高橋先生が語ろうとしている「なにか」が見えてくる気がします。 5時間目のテーマは「学校で教えてくれる(はずの)文章を読む」です。テキストの武田泰淳「審判」(小学館)は、手紙形式の告白小説ですが、「そのときの人ぶつの気持ち」になることがまず可能な作品であるかどうかと考え込んでしまいました。 夏目漱石の「こころ」の第三部も同じ形式の告白小説ですが、あの「先生」の気持になることは可能なのかどうか、と考えられればおわかりだと思いますが、実は、限りなく難しいわけです。 その上、この作品は戦場で人を殺すことが平気になった男の告白なのです。戦後文学には、他にも同じような「告白」がありますが、本当に「読む」ことができているのでしょうか。 この辺りから高橋先生の「考えていること、語ろうとしていること」が見え始めたような気がしました。とりあえず、今日はここまでで、(その3)につづきます。 (その1)・(その3)にはここをクリックしレ下さい。
2021.03.01
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