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ティリー(絵)アンナ・クレイボーン(作)「シェイクスピアはどこ」(東京美術) 市民図書館の英国文学の棚の前でフラフラしていて、目にとまった大判の本がこの本です。ティリーという人の絵で、アンナ・クレイボンという人が文を書いていて、翻訳は川村まゆみという方です。「シェイクスピアはどこ?」(東京美術)という絵本でした。 我が家の愉快な仲間がおチビさんだったころ、もう20年以上も前ですが、「ウォーリーを探せ」という絵本が大ヒットして、我が家にもあったはずですが、あのウォーリーのシェイクスピア版ですね。 表紙をご覧になるとおわかりになると思いますが、あのグローブ座を取り巻いている人の中にシェイクスピアがいますね。おわかりですか? イギリスの子供向けの絵本で、シェイクスピアの代表作が10作、絵入りの名場面解説と「シェイクスピアはどこ?」の大画面の組み合わせで、恰好のシェイクスピア入門書になっています。 ライン・アップは「お気に召すまま」・「ジュリアス・シーザー」・「マクベス」・「テンペスト」・「から騒ぎ」・アントニーとクレオパトラ」・「夏の夜の夢」・「ロミオとジュリエット」、そして最後が「ハムレット」です。 たとえばハムレットの名場面のページはこんな感じです。 「To be, or not to be? That is the question.」という有名なセリフの場面は、ハムレットが学友のローゼンクロイツとギルデンスターンと会話していた場面だったような気がしますから、たぶん左のページの左下の場面です。でもね、そのセリフの話は解説のあらすじには出てきません。このセリフにこだわっているのは日本人だけってことはないですよね。でも、そうかもしれませんね。 まあ、もう一つ有名なオフィーリアの水死の場面は右ページの右上です。で、このお芝居に登場した人たちなんですが、ページの上に並んでいます。で、ページを繰ると、ページ全部が戯曲ハムレットの舞台であるデンマークの「エルシノア城あたり」の絵なんです。 それで、この絵の群衆の中にシェークスピアはもちろんのこと、先程の登場人物たちが、ハムレットも、オフィーリアも、父王の亡霊も、みんないるのですよというわけです。 見つけたときには、この絵本が、なんで「英文学コーナー」にあるのだと思ったのですが「これは、シェークスピア好きの大人の楽しみですな」といえないこともないくらい、まあ、手が込んでいるというか、丁寧な絵本なのでした。 まあ、こういう本で遊びながらシェイクスピアに親しむイギリスの子供が少しうらやましいですね。今「忠臣蔵だよ!」でこれをやっても、なんかそぐわないですが、イギリスで「シェークスピアだ!」というと、はまりそうですからね。お芝居ができたのは、同じくらいの時代だと思うのですが、どうしてそうなんでしょうね。「忠臣蔵」なんて、登場人物も名場面も多いうえに、「上野介を探せ!」でぴったりはまりそうなんですがね。(笑)
2021.06.30
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ベランダだより 2021年6月27日 「またまた、これって何でしょう?」 ベランダの「みかん林」(食べたみかんの種を植えて植木鉢の上で林になっているのでそう呼んでいますが、実がつくのは????)に不思議な「生命体」が二つ見えますか? 一つは体長10数センチ、足が6本ありますから、たぶん昆虫の1種でしょう。棒状の体の左の端から髭状の触角の用のものが伸びていますので、たぶんこちらが頭でしょう。 頭の方からの姿はこんな感じです。 前にぶら下がっているように見えるのが、一番前の対になっている足です。足場がなくて困っているようです。 つい先ほどのことでした。買い物から帰ってきたチッチキ夫人の叫び声が聞こえてきました。「ちょっと―。カメラもって、早く早く!」「なんですか?何事ですか?」「いいから、早く、これが玄関にとまっていたのよ。」 彼女は新聞の広告用紙で何やら包んでいるようです。カメラをさがして後を追うと、そのままベランダに直行して、包みをみかん林の上で開いて、パタパタはたくようにして、棒状の物体を落としました。「何これ?またナナフシ?この前のが大きくなったんかな?」「そんなんわかれへんけど、ちょっとすごくない、これ?」「これ、平気でつまんだん?」「えっ?だって、しようがないやん。」「えーっ?なにが、しようがないの?」 というような、顛末で、このカイジュウ、ナナフシ君、つい先ほどまでコンクリートの壁に、じっと貼りついていたのが、たった今、ミカンの葉っぱの上に落されたところなのです。 まあ、そういうわけで、かなりうろたえていると思うのですが、動きというほどの動きをしないところがエライといえばエライですね。 ところで、上の写真には、もう一匹のカイジュウ君が写っていたのですが、お気づきだったでしょうか。アップで撮るとこういう姿ですね。 ご存知、モスラ君ですね。つい先だっての報告では卵だった方ですが、ほかにも数匹成長なさっているようです。まだ、小鳥の糞のような姿ですが、あと1週間もすれば緑のモスラに変身します。 もっとも、スズメをはじめと知るラドン軍団の攻撃を避けきれればという条件付きです。実は先だって産み付けられて、無事孵化したはずのモスラ君は、もっとたくさんいたのですが、日に日に減っていますからね。それにしても自然というのきびしいものですね。 まあ、こんな写真ばかりでは、ちょっと味気ないので、今日咲きそろったこんな写真もどうぞ。 夏水仙というのでしょうか。種が飛んで、あちらこちらで見かける花ですが、我が家のベランダにはゆかいな仲間のピーチ姫が小学生だったころもらってきた花が、まだ、生き延びていて、季節になると咲いてくれるようです。 では、今日はこの辺りでさようなら。6月も、もう、終わりのベランダでした。また覗いてくださいね。バイバイ。
2021.06.29
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徘徊日記 2021年6月9日 「ちょっとお散歩 布引の滝あたり その3」 雄滝(おんたき)から、また渓流沿いを歩きます。歩き始めたあたりには、やっぱり、たくさん歌碑がありました。こちらは後鳥羽院ですね。布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ (後鳥羽院) 「やまかせ」は「山風」でしょうね。「うちはへて」は「打ち延へて」で、まあ「ずっと続いて」というような意味でしょうか。「らむ」がその場の推量でしょうから、「だれが干しているのだろう」くらいが直訳でしょうか。 こちらは橘長盛という人の歌碑です。ぬしなくて晒せる布を棚はたに 我こころとやけふはかさまし (橘 長盛) なんか、宇多天皇のお供で布引の滝見物に来たときの歌らしいのですが、「持ち主もなく晒している白布 (滝)を今日は七夕の日だから自分ひとりのはからいであの織女にかしてあげよう」というような意味のようですね。「棚はた」が、七夕の織姫のことだと分かれば、そう難しい歌でもないのでしょうが、まあ、クドクドしていて、ハイハイといいたくなる歌ですね、 こういうのを歌碑を、首をかしげながら見ている横にこういうのを見つけると嬉しいですね。 シジミチョウの一種でしょうね。カメラを構えて近づいても逃げません。卵でも産んでいるのでしょうね。 歌碑はまだまだあるのですが割愛しますね。マア、またの機会もあるでしょうし。俳句の句碑もありました。珍しいので載せておきます。 布引坊という人らしいですね。近所の熊内(くもち)の人らしいです。ああ、もちろん江戸時代ですよ。涼しさや嶋へかたふく夕日かけ(布引坊)「かたふく」が、ぼくにはよくわかりませんが、淡路島の方へ「風が吹く」と、夕日が「傾ぶく」が、掛けてあるのでしょうかね。「夕日かけ」は「夕日影」で、沈む夕日の日差しでしょうね。 マア、とか何とかいううちに、最後の滝にやってきました。 五本松隠れ滝とかいうらしいです。水量もそれほどではないのですが、風情はあります。 ここまでくれば堰堤はすぐそこです。正しくは「五本松堰堤」というそうです。 上まで登ると貯水池です。 初めて来たわけでは、もちろん、ないのですが、こんなところに、「まあ、こんな大きな!」という感想を持ちましたね。もちろん、石碑の石のことではなくて、貯水池の大きさですよ。 水の上を渡っていく橋にチッチキ夫人はビビっていましたが、一応写真を載せておきましょう。 貯水池の周りは歩道で、このまま歩けば市ケ原ですが。今日はベランダにお布団を干しっぱなしだということで。ここからUターンです。 歩道の近所にはこんな花もありました。 ホタルブクロですね。ほとんど人通りもない遊歩道なので、こういう花を見かけるとホッとしますね。一休みして下山、帰路につきます。 で、お散歩ブログはまだまだ続きます。新神戸駅から、さっさと歩けば小一時間の距離なのですが、六甲山の山のなかであることを実感する「かわいい動物」との出会いなんかが待っていました。 じゃあ、今日はこれで。続きをよろしくね。バイバイ。
2021.06.28
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ロベール・ブレッソン「田舎司祭の日記」神戸アートビレッジ 2020年の暮れだったでしょうか、「バルタザールどこへ行く」を久しぶりに見直す機会を作ってくれたのも神戸アート・ヴィレッジでした。 今回は、同じ映画館で、同じ監督ロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」をみました。「バルタザール」ではロバが主役でしたが、今回は北フランスの田舎の村に赴任した青年司祭の物語でした。 まあ、ロバに眼差しがあるとしてですが、ロバの眼差しが印象的だった「バルタザール」でしたが、この作品では司祭の眼差しに引き付けられました。 司祭の眼差しの先にあったのは「娘の家庭教師と不倫する伯爵の姿」、「回心した喜びを告げる伯爵夫人の手紙と突然の死」、「イノセントな笑顔の少女の悪魔のような裏切り」、「正直さゆえに排斥される田舎医師の孤独とその死」、「世俗とのなれ合いを示唆する上級司祭の思わせぶりな笑顔」、エトセトラでした。 神の不在を暗示するかのような、こうした現実に対して、青年司祭によって日々書き綴られる日記の文面が映し出され、読み上げるナレーションがあります。 日記の次の日の出来事が、翌日の司祭の目の前に映し出されます。おおむね、映画はこの繰り返しで、もちろん、司祭には見えないシーンもありますが、ぼくにとって面白かったのは、現実 ⇒ 内省 ⇒ 現実という順序で映し出されて主人公の表情でした。 主人公が司祭という役ですから、当然、「神の存在」とか「信仰の不可能性」とかが話題なのですが、ぼくには、若い主人公が理解を超える世間の「悪意」や「不条理」と遭遇し、苦悩とアイデンティティの危機に落ちっていく様子を、実に無表情に撮っているところが、「バルタザール」のロバの表情描写と共通していて、興味深く思えました。 この作品は、実は映像が紡ぎだす物語の世界の表象としてではなくて、映像と観客との間に生まれる「裂け目」をこそ意識して作られているのではないかというのが見ながら感じたことでした。 それは、映し出される映像を、見ているぼくの自由勝手に任せるというか、見ているぼくの中で司祭の表情や、ほかの登場人物の行為について、「自由?」に想像していく「場所」のようなものを、映画が作り出しているということです。あてずっぽうで、かつ、デタラメを承知で言えば、「作品の零度」ということが、かなり意識されているのではないかということでした。 1950年代に、こういう作品が作られていたことは、ロベール・ブレッソンという監督の才能と考え方に負うところが大きいのでしょうが、やはり驚くべきことのように感じました。監督 ロベール・ブレッソン原作 ジョルジュ・ベルナノス脚本 ロベール・ブレッソン撮影 レオンス=アンリ・ビュレル音楽 ジャン=ジャック・グリューネンバルトキャストクロード・レデュジャン・リビエールアルマン・ギベールニコール・モーレイニコル・ラドラミルマリ=モニーク・アルケル1951年・115分・フランス原題「Journal d'un cure de campagne」2021・06・21-no57・神戸アートビレッジ(no15)
2021.06.27
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徘徊日記 2021年6月9日 「ちょっとお散歩 布引の滝あたり その2」 雌滝(めんたき)から渓流沿いに上っていきます。こういう滝のような流れが続いて、歌碑もたくさんあります。 藤原良経という歌人です。平安末期、後鳥羽院歌壇の天才貴公子です。九条兼実の息子ですね。山人の衣なるらし白妙の 月に晒せる布引のたき (藤原 良経) 月の光に白く晒された滝水が、仙女の衣だというわけですね。石碑は武骨ですが、歌は繊細、鮮やかなものですね。 すぐ近くにあったのがっ藤原良清という方の歌碑です。「千載集」の歌人ですね。 なんだかよく見えませんね。音にのみ聞きしはことの数ならて 名よりも高き布引の滝 藤原良清 名高き評判に聞く「布引の滝」だけれど、もっと高い所から水が落ちてくる名瀑であるというふうな意味でしょうかね。 こちらは寂蓮法師の歌碑です。三夕の歌の「真木立つ山の秋の夕暮れ」の人ですね。百人一首では「霧立ち上る秋の夕暮れ」でしたね。 解説碑の写真も貼ってみますね。真面目にお読みください(笑)。 ははは、あんまりよく見えませんね。岩はしるおとは氷にとさされて 松風おつる布引のたき 寂蓮 法師 濁音が表記されていませんが、「岩ばしる」、「閉ざされて」でしょうかね。この歌は真冬の滝の風情ですね。滝が凍り付いているようです。 歩いている山道から谷川をのぞき込むとこんな様子です。さすがに水無月、水はたっぷり流れていて、岩ばしっている流れの音が聞こえてきそうですが、聞こえている音は鳥の声だけですね。 写真で見ると、なかなか、いい風情ですが、実際は、かなり急な谷底です。 高いところがあまりお好きでないチッチキ夫人はのぞき込もうとはしません。しばらく歩くとこんな石がありました。 どれが鼓滝なのかが、いまいちわからないまま写真を撮りましたが、あれでしょうかね。写真の右から流れ落ちている滝があるのですが、写っていませんね。 こちらは上から覗いた写真ですね。 この近所にあった歌碑です。これは紀貫之ですね。松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ 紀 貫之 「琴に調(ととの)ふる」と読むんでしょうね。「調べを合わせる」というような、意味でしょうか。「をや」というところの「や」は、詠嘆か疑問の係助詞、「弾いているようだなア」という感じですかね。 こちらは平安女流歌人、伊勢の歌碑ですね。お父さんが伊勢守の娘だから伊勢と呼ばれたようですが、布引36歌碑のなかでは数少ない女流歌人ですね。たち縫はぬ衣着し人もなきものを なに山姫の衣晒すらむ 伊勢 「たちぬはぬ衣」というのは無縫の天衣ということですね。つまりは、天人 の衣で、 着ていた人は仙人でしょうが、それ迎えるのが「山姫」、山の女神というわけでしょう。 仙人さまも、もう、いらっしゃらないのに、山姫の衣の白布を「さらして」、お迎えの準備をしているのは・・・?という歌ですかね?なるほど、いかにも女流歌人ですね。 で、ようやく雄滝(おんたき)ですね。 この滝つぼから流れ出た水がすぐ下の夫婦滝になります。連瀑ですね。マア、そんな言い方があるとは思えませんが。 瀧を見る場所には、なぜか、お不動さんが祭られていました。 ここのお不動さんは、どなたも、ちょっと可愛らしい。はい、なぜか複数いらっしゃったんです。 マア、こういう、ちょっと種類が違う方も祭られていました。なかなか、謎のパワースポット風ですね。 さて、ここから堰堤までは、もう少しですが、あとは(その3)ということで、また覗いてくださいね。じゃあ、今日はこれで、バイバイ。
2021.06.26
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「ちょっとお散歩 布引の滝あたり」 徘徊日記 2021年6月9日 新神戸あたり その1 シネ・リーブルで、朝一番に「おバカ映画」を見て、途中で「おうどん」を食べて、生田川公園を南の端から歩いて、ようやく布引の滝、雌滝に到着しました。「めんたき」と呼ぶのだそうですが、当然、次は雄滝、「おんたき」を目指すわけですが、チッチキ夫人もシマクマ君もまだ元気です。 で、おっちら、おっちら上っていくと20分ほどで見えてきました。これが雄滝ですかね。 滝つぼから連続して、ちょっと小ぶりの滝も落ちていました。夫婦滝っていうんでしょうかね。 もう少し暑くなってから来ると涼しいでしょうね。まだ、それほどヒンヤリという感じはありませんが、爽やかなものですね。 せっかくなので、もう少し上に向かってみましょう。ちょっと展望台のようなところもあって、神戸の街が、ほら、本当はすぐそこです。新神戸オリエンタルホテルなんて目の前ですよ。 もう少し、谷川に沿って登れば、たしか、大きな堰堤に着くはずなのですが。二人とも、まだ元気です。それに、歌碑もいろいろありますが、それはつづきを覗いてみてください。今回はこの辺りでということで、じゃあまた。
2021.06.25
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仲正昌樹「《戦後思想入門》講義 丸山眞男と吉本隆明」(作品社) 敗戦後の日本という国にとって1960年という歴史的な年があります。その後のこの国の「かたち」を決定づけた、一般に「日米安全保障条約」と呼ばれている日本とアメリカの間に取り交わされた条約が発効した年です。 最近「集団的自衛権」とかいう言葉がはやりましたが、その言葉にしろ「安保条約」にしろ、本質的には「軍事同盟」のことをいっているという認識は希薄ですが、実際は、「戦争放棄」という、この国の憲法の柱をないがしろにしているのではないかというふうに、ぼくは考えています。 マア、それはともかくも、1960年代に小学生だった世代というのが、ぼく自身の世代で、まじめに勉強したことは金輪際なかったに違いないとあきれさせながら、二度も最高権力者の椅子に座った人物は同い年なわけで、「いったいどうなっているんだろう?」というのが、ぼくが、最近、「戦後思想」に対して興味を持ち始めた理由の一つです。 今回の「《戦後思想入門》講義 丸山眞男と吉本隆明」(作品社)という本は、先だって紹介した仲正昌樹先生「《日本の思想》講義」(作品社)という講義録の、まあ続編です。 本書では、丸山眞男については「忠誠と反逆」(ちくま学芸文庫)、今では文庫化されていますが、単行本が発表されたのは1990年代の始め頃でした、が取り上げられ、吉本隆明については「共同幻想論」(角川文庫)です。 丸山眞男の「忠誠と反逆」は、戦争中に、彼が書いた論文を集めた「日本政治思想史研究」(東京大学出版会)という、名著中の名著のような本がありますが、その本の戦後的継続がこの本といっていいと思います。 吉本隆明の「共同幻想論」は、「言語にとって美とは何か」(角川文庫)、「心的現象論序説」(角川文庫)と並んで、かつて「吉本三部作」と呼ばれた評論の一つですが、今では角川文庫に収められていますが、1968年に河出書房から出版された単行本は、当時のロングセラーだったと思います。 ぼくは学生時代に読みましたが、論の中に、「個的幻想」と「共同幻想」の関係は「逆立」するというような叙述があって、首をかしげていると、ある先輩に「逆立ちのことだよ」と教えられて、「なんだそうか」と思った記憶が、40年以上も前のことなのですが、なぜか鮮明に残っています。 本書の講義中で、仲正先生が同じ個所で、同じ解説をされているの読んで、なんだかとてもうれしい気分になったのでした。 で、本書の内容ですが、今から、丸山眞男なり、吉本隆明なりの論文や評論を「戦後思想」の研究の目的でお読みになる、特に若い方には丁寧な教科書というおもむきでおすすめです。 ぼく自身は、この年になって、一人ではこの二人を読み直す気力がわいてきそうもないので、当該の「本」ではない参考書を読む、まあ、そう考えて読むとスルスル読めてしまうわけで、「ああ、そういうことか。」という納得も結構あって、読んだ気にもなれるし、思い出にもひたれるという、「アホか!」といわれてしまえばそれまでなのですが、かなり有意義な参考本だったのですが、一番記憶に残ったのは前書きで書かれたこんな文章でした。 現在では、注目を浴びる売れっ子であるほど、どんな読者、視聴者にも理解できる優しい言葉で語ることが要求される。現政権や財界、サヨク・ウヨクに対する「鋭い批判」だと、何の前提も知識もない、「庶民」にも瞬間的に理解できるような文章を書くことが前提になっている。そうでないと、「本当に賢い人は、そんな訳の分からないことは言わない。地頭が悪い証拠だ!」などといわれる。丸山が漢文読み下し文を頻繁に引用する固い文体で新書を書いたり、庶民の感性を重視すると称する吉本が、精神分析や文化人類学、ソシュール言語学などの基礎知識を前提にして、「庶民の心に届く」とは到底思えない評論を書き綴っていたのは、今から思うと、信じられないくらい幸運な状況にである。吉本は丸山の教養主義的スタンスを厳しく批判しているが、かつての左派系の政治文化、ジャーナリズムに教養主義的な前提があったからこそ、両者のそれような、極めて抽象化された水準での議論が可能だったのだろう。(「前書き」) 引用文の最初あたりの文脈が少々混乱している(校正ミスかな?)とは思うのですが、おおむね、言いたいことはわかってもらえると思います。1970年代に学生だったぼく自身は、仲正先生がいうところの「地頭が悪い」文章の「むずかしさ」にあこがれて、今、考えれば「わかったつもり」になるために、もっと「地頭が悪い」文章にとりつくという、悪循環の泥沼の中にいて、結局「よくわからなかった」現在を迎えているというわけです。 今のハヤリであるらしい「わかりやすい世界」に暮らすの人たちから見れば、愚かそのものですが、ぼくから見れば「よくわからない泥沼」に薄く張った氷があって、その上でスケートを愉しんでいるかのような現在社会の様相は不気味以外の何物でありません。 少なくとも、仲正先生が、そういう時流に掉さす位置にいらっしゃるらしいことを頼りに、「むずかしさ」にこだわり続けたいと思っています。 「むずかしい」、「よくわからない」ということは、本当はすべての本質なのではないでしょうか。
2021.06.24
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ロベール・ゲディギャン「海辺の家族たち」シネ・リーブル 予告編で見て、気になってやってきたシネ・リーブルです。とはいいながら、題名の印象でしょうか、さほど期待していたわけではありません。映画は「海辺の家族たち」でした。監督はロベール・ゲディギャン、フランスのケン・ローチだそうです(笑)。 始まるとすぐ、海に面したベランダでタバコを吸っていた老人が、脳出血でしょうか、脳梗塞でしょうか、倒れてしまいます。以後、この男性は一切言葉を口にできません、表情も無反応です。 実は、彼は、タバコをふかしながら一言つぶやいたのです。それが「残念だ!」 だったのか、それとも、もっとほかの言葉だったのか。 うかつにも、ぼくが亡失してしまったこの言葉が、この作品のすべての会話の底に流れていたことにラストシーンで気づいたのですが、あとの祭りでした。 イタリアの監督ヴィスコンティの作品に「家族の肖像」という、ぼくの好きな映画があります。この言葉を英訳すると「カンヴァセーション・ピース」になるということを、小説家の保坂和志が、同名の自作の中で書いていたような気がしますが、この映画はフランスの現代版「家族の肖像」でした。 父が倒れた「La villa」、田舎の家に、女優をしている娘アンジェルが帰ってきます。実家では、父のレストランを継いだ長兄のアルマン、若い恋人を連れた次兄のジョセフが待っています。この三人の子供たちも十分に「人生」というキャリアを生きた年齢にさしかかっているようです。ここから「一族再会」の「カンヴァセーション」が始まりました。 ポイントは、登場する人物たちすべてが「脇役」ではなくて、いわば「主役」として描かれていることでした。 意識の所在が不明な父親、三人の兄妹。隣人の老夫婦とその息子。次男の恋人、アンジェルに恋する青年、難民の三人姉弟、国境警備の軍人までほぼ10人の登場人物たち。 映画に登場する、その10人ほどの人物たちの「肖像」が、タッチの違いはあるにしても、海岸を捜査する軍人に至るまで、一人一人、「人」として、その姿が記憶に残る映画でした。 誰かと誰かの会話と回想の組み合わせが、何もしゃべることも表情を変えることもできない父親の周りを巡るかのように配置されていて、家族の記憶の物語の中心にいながら意識さえ確かではない「父親」が、決して、象徴的な存在としてではなく、今ここにいる一人の人間として、生きている人間として描かれているということを感じました。これは、稀有なことではないでしょうか。 映画の始まりに、不意打ちのようにつぶやかれた、父親の「ことば」は「カンバセーション・ピース」の、大切な一つの「ピース」として、映画の終わりになって光を放ち始めました。 高速鉄道が石造りの橋を渡ってさびれた村の上を通過しています。時代から取り残された海辺の村で再会した家族の数日間の「記憶」の物語の美しさもさることながら、ラストシーンで響く子供たちの名前を呼びあう声の木霊が「時間」を超え、父親の遠い意識に届いたかに見えるシーンの感動は何といえばいいのでしょう。 「リジョイス」という、ノベール賞作家のキーワードが自然と浮かんできて、涙があふれて困りました。ぼくにとっては美しい再生の物語でしたが、やはり老人の感想なのでしょうか。 ロベール・ゲディギャンという監督の作品で常連の俳優たちの出演のようですが、回想シーンに若かりし俳優たちの姿が自然に挿入されていて、その、あまりの「はまり具合」には驚かされました。 それにしても、ときおりの回想シーンのたびに涙がこみあげてくるのは、ほんと、なぜなのでしょうね。困ったものです。 マア、数年前の作品らしいですが、今年のベスト10に入ることは間違いなさそうです。拍手! 監督 ロベール・ゲディギャン 脚本 ロベール・ゲディギャン 撮影 ピエール・ミロン 美術 ミシェル・バンデシュタイン 編集 ベルナール・サシャ キャスト アリアンヌ・アスカリッド(アンジェル末娘) ジャン=ピエール・ダルッサン(ジョゼフ次男) ジェラール・メイラン(アルマン長男) ジャック・ブーデ(マルタン隣人) アナイス・ドゥムースティエ(ヴェランジェール次男の恋人) ロバンソン・ステブナン(バンジャマン漁師の青年) ヤン・トレグエ ジュヌビエーブ・ムニシュ フレッド・ユリス ディオク・コマ 2016年・107分・G・フランス 原題「La villa」 2021・06・22-no58シネ・リーブルno97
2021.06.23
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ジュディス・カー「ウサギとぼくのこまった毎日」(こだまともこ訳・徳間書店) 「ヒトラーに盗られたウサギ」という映画を、偶然見ることがあってジュディス・カーという人の名前を思い出しました。1923年6月14日、ワイマール共和国のベルリンに生まれ、家族とともにイギリスに亡命し、のちに、絵本作家として名を知られている人です。 映画は1933年、ヒトラーが政権を取った年、10歳だったジュディスが生まれて暮らしていたベルリンから、兄と両親の4人で、スイス、フランスを経由してイギリスに逃げていく話なのですが、一緒に連れて逃げることのできなかった、大切だったぬいぐるみのウサギが、ナチスによるユダヤ人迫害の現場に取り残された、あどけない「子どもの心」のシンボルのように描かれていました。 今日紹介する「ウサギとぼくのこまった毎日」(徳間書店)という童話は、そのジュディス・カーが2019年、95歳で亡くなったそうですが、その時、彼女によって書き残された最後の作品だそうです。 お話を聞かせてくれている「トミーくん」は、小学校の上級生のようで、「ウサギ・ダンス」が得意な妹の「アンジーちゃん」は2年生。お父さんは、売れない俳優さんらしくて、お母さんは学校のセンセイになるための勉強中という4人家族です。 その、トミー君の家にいたずらウサギの「ユッキー」がやってきて、てんやわんやの大騒ぎ、とどのつまりはアンジーちゃんは熱を出して寝込んでしまうわ、「ユッキー」は遊ばせていた庭から姿を消し、行方不明になってしまうわ、「ああ、トミー君、どうしたらいいんでしょ!?」 というわけで、お話は読んでいただくとして、この本には、こんな献辞が表紙の裏にありました。孫のアレクサンダーとタチアナへ愛を込めて―ジュディス・カー 95歳のオバーチャンの、思い出の「ウサギ」に込められた「20世紀を生きた言葉」ですね。10歳だったジュディス・カーの「心のウサギ」が、最後の本にも帰ってきて、それをお孫さんたちをはじめ、世界中の子供に届けたいという気持ちを感じますね。 彼女の作品を読む子供が、世界中にどんどんふえたら、ほんとにいいですね。追記2022・07・08「映画館で出会った本」のカテゴリーだった、映画の原作絵本なのですが、子供たちへのカテゴリーに変更しました。子供たちがいろんな絵本から、やがて、映画を見るようになったらいいなと思っています。
2021.06.22
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内山節「戦後思想の旅から 内山節著作集8」(農文協) 哲学者の内山節の著作集を気が向くままに読み散らしています。今回の「著作集」は第8巻、1989年から、ほぼ二年間にわたって信濃毎日新聞に連載された文章がまとめられた「戦後思想の旅から」という評論がメインです。ほかに「日本の伝統的な自然観について」と「合理的思想の動揺」という短めのエッセイも収められています。 ぼちぼちですが、内山節を読み続けているのは、要するに、ぼく自身の60年間を振り返りたいという、まあ、老人的なカイコ趣味によるところが多いのですが、はっとする記述も多く、何も考えずに、その場その場に身を任せて暮らしていたことに気づかされたりもします。 たとえば、あの頃から現在までに何があったのかということについて、それはそれで、きちんと知りたいと思わせるこういう文章に出会うと、ちょっと楽しいわけです。 戦後の日本の労働の思想は、時代ごとに三つのキーワードを持っていたのだと私は思う。敗戦から1950年代までは、搾取という言葉が労働を考える上での一番重要な役割を果たしていた。労働者は資本家に搾取されているという表現は、生活の困窮からの脱出を願う労働者たちの気持ちを説明する表現でもあったのだと私は思う。 それが1960年代に入ると、搾取という言葉よりも労働の疎外という言葉の方が大きな役割を果たすようになった。ルフランや中岡を嘆かせたように、技術革新がすすむにつれて、労働者には自分の労働が何かをつくりだしているという感覚が薄れてきていた。自分の労働は機械に使われているだけなのではないか、企業の利潤を高めるために使われているだけではないのか、というような問いかけがどこからともなくひろがってくる。 しかしそれで終わったわけではなかったのだと私は思う。というのは1980年代に入ると、疲れという言葉が私たちを支配しはじめるからである。現代の労働が生み出す疲れ、ここにはよく言われるように日本の労働者の労働時間が長いということもあるだろう。だがそれだけではないはずだ。別に労働時間が長くなったわけでも、ノルマがきつくなったわけでも、機械化がすすんだわけでもないような職場でも、そこで働いている人々は強く疲れを感じるようになったのだから。(「戦後思想の旅から 第4章 新しい思想を求めて」)註:中岡哲郎「技術史」:ジョルジュ・ルフラン「労働社会学」 内山節の観点によれば、1950年代は経済学用語の「搾取」という言葉でとらえられた、労働概念が、「疎外」という哲学の言葉にはっきり変わるのが1970年代。1980年を過ぎると「疲れ」という感覚用語で語られるようになるということですが、1980年代に働き始めた人間には、「搾取」も「疎外」も、実際には、何の解決にも至らないまま、ただ、ただ、「疲れ」が蔓延していくのが労働現場というわけだったことを思い浮かんできます。今から40数年前の記憶です。 このエッセイは80年代から90年代にかけ執筆されているわけで、2000年を超えたあたりから、あきらかに「疲れ」の「次の段階」に入ったはずなのですが、そこからはどうなったのかというのが、読みながら感じた疑問ですね。 変なことをいいますが、たとえば、「疲れ」が蔓延する日常を、突如、破壊した1995年の震災は、当然ですが、労働現場のルーティーンも破壊しましたが、「疲れ」の感覚を忘れさせる出来事でもありました。しばらく続いた非日常の興奮は、震災ハイとも呼ばれましたが、印象的な記憶として焼き付いています。 働くことに倦んでいた40代の自分には、ある種のショック療法だったようで、それ以後、明らかに「仕事に対する感じ方」が変化した出来事だったと思います。しかし、社会全体が、震災の「現場」を経験したわけではないということや、同じ感覚を共有したわけではないということを、数年後の郊外の職場への転勤で思い知りもしました。 内山節の文章を読みながら、あくまでも個人的な回想や感慨をさまよっているわけですが、それにしても、ここ20年、「搾取」や「疎外」といった労働思想の経済学的、哲学的基礎概念がきれいに忘れ去られ、ひょっとしたら「疲れ」という感覚も当たり前の付帯事項のように当然視されているかに見える「働くこと」の現在の意味はどこへ行ってしまったかのか。 まあ、最近の、おそらく70歳を超えたに違いない内山節がどんなことを言っているのかというあたりから読んでみたいと思っています。
2021.06.21
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カロリーヌ・リンク「ヒトラーに盗られたうさぎ」パルシネマ 童話作家ジュディス・カーの体験記、幼い日の経験を描いた「伝記映画」でした。題名は「ヒトラーに盗られたウサギ」でした。監督はカロリーヌ・リンク、ドイツの女性です。 ヒトラーが政権を取った1933年、祖国ドイツから逃げ出さなければならなくなったユダヤ人の劇作家で、演劇評論家ケンパーという人の十歳の娘アンナの物語でした。 家政婦の女性ハインピーさんとアンナの会話、ケンパーの忠告を聞かず自国にとどまったユリウスおじさんの不幸、スイス、フランス、イギリスと逃亡生活、いや亡命生活というべきか?を続けるケンパー一家の暮らしぶりや、それぞれの土地で出会う様々な人間。それぞれの土地の風景や学校。ナチスによる迫害が深刻化していく社会と、その時代を生きる少女の成長。 ストーリーの運びは穏やかですが、たとえ10歳の少女であろうと、人間が歴史的な「存在」であることを誠実に描いた作品だと思いました。 自宅に残してきた「ぬいぐるみのウサギ」が、幼いアンナに取って帰りたい場所の象徴ですが、2019年に95歳で亡くなったジュディス・カーが、お孫さんたちに残した最後の作品「ウサギとぼくのこまった毎日」(徳間書店)という童話の主人公もウサギだったことを思い出して、戦後もイギリスで暮らしたらしいジュディス・カーが、時間を超えて、本当に帰っていきたかった「世界」のことを考えました。 出てくる子供たちが、アンナとマックスの兄妹だけでなく、溌溂としていて楽しい映画でした。拍手!監督 カロリーヌ・リンク製作 ヨヘン・ラウベ ファビアン・マウバッフ原作 ジュディス・カー脚本 カロリーヌ・リンク アナ・ブリュッゲマン撮影 ベラ・ハルベン編集 パトリシア・ロメル音楽 フォルカー・ベルテルマンキャストリーバ・クリマロフスキ(アンナ・ケンパー)オリバー・マスッチ(アルトゥア・ケンパー:父)カーラ・ジュリ(ドロテア・ケンパー:母)マリヌス・ホーマン(マックス・ケンパー:兄)ウルスラ・ベルナー(ハインピー:家政婦)ユストゥス・フォン・ドーナニー(ユリウスおじさん)2019年・119分・G・ドイツ原題「Als Hitler das rosa Kaninchen stahl」2021・06・01‐no50パルシネマno39
2021.06.20
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マルクス・H・ローゼンミュラー「キーパー ある兵士の奇跡」パルシネマ ナチスの空挺部隊の兵士トラウトマンがイギリスの捕虜収容所に収容されて暮らしています。捕虜同士のタバコをかけたシュート合戦から「サッカー映画」が始まります。その賭けの場に登場する天才キーパーがトラウトマンです。映画の題は「キーパー ある兵士の奇跡」でした。 やがて、「鉄十字勲章」で称えられた「ドイツ第三帝国」の英雄が、あのマンチェスター・シティの伝説のゴールキーパーになり、「イギリス」サッカー界の英雄になるという、史実らしいですが、驚くべき話です。 映画は「スポーツ」が作り出す伝説の作品化といっていいのですが、第二次大戦末期から戦後という時代的、社会的背景の中で、ほとんど成就の見通しのない「ドイツ兵捕虜・トラウトマン」と「イギリス女性・マーガレット」の「愛」の物語が、この映画の、もう一つのストーリーです。 マア、いってしまえば、そういうお話なわけですが、これが、なかなか、見ごたえがあったんです。 主人公トラウトマンが、敗戦後、帰国を拒否し、イギリスに残り続ける理由は「サッカー」への情熱と「マーガレット」への愛でした。 敵国イギリスに残り、マーガレットと結婚し、といった二人の関係が、トラウトマンのサッカーでの伝説的プレーと重ねて描かれますが、必ずしも、実生活の上で、トラウトマンとマーガレットが幸せな結末を迎えたわけではなさそうだと描くところが「映画」の「人間ドラマ」・「伝記ドラマ」としてのリアルなのでしょうね。 しかし、ぼくが見ごたえを感じたのは、そういうストーリーではありませんでした。ある、ほんのしばらく映し出された、短いシーンに心を動かされたのでした。 トラウトマンとマーガレットが初めて親しく出会う場面にそのシーンはありました。「どうして、サッカーが好きなの?」「君は、どうしてダンスが好きなの?」「うーん、体から重さが抜けて、宙に浮かんでしまえるからよ。」「僕がサッカーが好きな理由もそれだよ。」 トラウトマンとマーガレットが、本気で愛し始めるシーンですが、この後、トラウトマンを演じるデビッド・クロスがサッカーボールを魔法のように操って、まあ、リフティングの一種だと思いますが、「ダンス」のよう踊る、そうです、踊るとしか言いようのない、なめらかで美しい、本当に「宙に浮かんでいる」かに見える、夢のようなシーンが映し出されます。それは求愛のシーンですね。 そして、実際の試合シーンで、もう一度、彼がボールを持って踊るシーンが、今度は、トラウトマンがマーガレットの愛を得た喜びの表現として映し出されました。 すばらしいと思いましたね。「スポーツ映画」としても、「恋愛映画」としても、この表現は抜きんでているのではないでしょうか。以前、砂漠の真ん中で、青年兵士が銃をささげて踊る「運命は踊る」という映画にも感動した覚えがありますが、勝るとも劣らないシーンだったと思いました。拍手!監督 マルクス・H・ローゼンミュラー製作 ロバート・マルチニャック クリス・カーリング スティーブ・ミルン脚本 マルクス・H・ローゼンミュラー ニコラス・J・スコフィールド撮影 ダニエル・ゴットシャルク衣装 アンケ・ビンクラー編集 アレクサンダー・バーナー音楽 ゲルト・バウマンキャストデビッド・クロス(バート・トラウトマン)フレイア・メーバー(マーガレット・フライアー)ジョン・ヘンショウ(ジャック・フライアー)ハリー・メリング(スマイス軍曹)デイブ・ジョーンズ(ロバーツ)マイケル・ソーチャマイケル・ソーチャ2018年・119分・G・イギリス・ドイツ合作原題「The Keeper」2021・06・01‐no51パルシネマno38
2021.06.19
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徘徊日記 2021年6月9日 「ちょっとお散歩 生田川あたり」 生田川沿いに北に広がっている「生田川公園」にやってきてました。国道2号線沿いにある公園名が記された石碑ですが、この出発点から北を見るとこんな感じでした。実に良いお天気で、チッチキ夫人は「あつい!あつい!」とへばり気味です。 向うに見えるのJRと阪急の高架ですね。この辺りグランドになっていて、バドミントンをしている人もいました。マア、初夏の昼下がり、実に平和です。 この公園には、この辺りから「布引三十六歌碑」とかいって、和歌の石碑が立っています。あんまり真面目に探さなかったのですが、まず見つけたのがこれでした。 藤原盛方という方の歌だそうです。岩間より落ち来る滝の白糸は むすはて見るも涼しかりけり 藤原盛方 ちょっと気になるのが「むすはて」のところですが、「結ぶ」と「掬ぶ」の掛詞に、打消しの接続助詞「で」がついている形だと思いますが、濁音は表記しないのですね。 話題が「滝の白糸」ですから、糸の縁語で「結ぶ」、実は、水ですから「掬(すく)う」の意味の「掬(むす)ぶ」ですね。摩耶山の展望台を「掬星台」というのですが、あれは「星を掬う見晴らし」でしょうね。 ああ、だから、この歌は「手に掬ってみなくても」くらいの意味でしょうね。なんか、ジジくさい解説をしていますね。 高架をくぐるとまた見つけました。 今度は藤原輔親という人です。水上はいつこなるらむ白雲の 中より落つる布引の滝 藤原 輔親 この歌は「何処(いづこ)」の濁音無表記以外はよくわかりますね。 マア、歌碑とかも面白いのですが、ここから北に歩いているとこんなお寺もありましたよ。東福寺というそうです。京都で聞いたことのあるお寺の名前ですが、同じお寺なのでしょうかね。 小学校もありました。中央小学校というそうです。「ラグビーちゃうの?小学校やのに。ええなあ。」 チッチキ夫人は喜んで覗き込んでいました。 御幸通から生田川公園にやってきて、初夏の日盛りのなかを北に向かってオッチラ、オッチラ歩いて、ようやく生田川の向こうに新神戸駅が一望できるところまでやってきました。 ここで、一服ですね。それにしても木陰のない公園ですね。日盛りのベンチで、まあ、とにかく一休みです。 目的地は、向こうに見える新神戸駅の裏の山を登ったところ、この川の水源地なのですが、たどり着けるのでしょうか?マア、文句を言っても進みませんから、歩くよりしようがありません。 新神戸駅を超えて、いや、くぐって、山に入ったところにありました。お地蔵さんの団地です。ここまでくると、最初の滝「雌滝」はすぐそこですね。 ほら、見えてきましたよ。 とりあえず、第一目的地到着です。以前一人で来たときには、ここからUターンして帰ったのですが、今日は貯水池まで歩きます。大した距離ではありませんが、それでも、まあ、上り坂です。太り過ぎのシマクマ君と、膝が、少々、弱点のチッチキ夫人、無事登りきることができるのでしょうかね。 滝も歌碑も、たくさんありますが、それはまあ、次回ということで。じゃあ、お楽しみに。
2021.06.18
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ベランダだより 2021年6月15日「これって何でしょう?」 6月になったころから、ベランダのみかん畑(鉢植えですが)にアゲハ蝶がひらひらし始めていました。10日を過ぎた頃でした、ベランダからチッチキ夫人の叫び声が聞こえてきました。「これよ、これ。ホラホラ、これがアゲハの卵よ。」「アッ、こっちにもあるで。」 白くて、ちょっと透きとおっている感じの粒粒です。「なあ、この一粒で孵るのは一匹かなあ?」「そうなんちやうの?」「でも、さがしてみても、そんなにようさん見つからへんで。一卵性双生児とかいうやん。一粒で二度おいしいとか。」「ええー!卵ひとつで一匹ちゃうの?」「いや、まあ、ソウやろけど。」 とはいいながら、毎年、モスラ君たち、軍団で登場するのですね。なんてことをいっていると、いよいよ孵化して登場しました。卵を発見して4日目くらいでしょうか。 見えますかね?下の写真はわかりますね。見つけた卵の数よりチビ・モスラの方が多いようですね。 さて、ここからアゲハになるまでには、結構、苦難の道のりなんですよね。聞くところによると「ふん」に擬態した姿らしいのですが、スズメ君からヒヨドリ、ムクドリの「ラドン」軍団が飛び交っていますからね。 今年はみかん畑の葉っぱが元気がよくて、食べるものには苦労しないと思うのですがね。また報告しますね。お楽しみに(笑) ちょっと番外なのですが、最近こういう虫(?)が紛れ込んできましたよ。 この虫(虫だと思うのですが?)、家の中でご覧になったことありますか?一応、彼がとまっているのは「冷たい」鍋です。 これは朝の写真ですが、昨夜の夜中に呼んでいた本に泊まっていて、ベランダの窓から逃がしたつもりなのですが、朝になるとここにいました。 もちろん、チッチキ夫人は叫びましたよ。「ああー、なにこれ?虫?カメラ、カメラ!」 これも、まあ「これって何でしょう?」ですよね。多分「ナナフシ」だと思うのですが、不思議な生き物ですね。南の方にいるような気がするのですが・・・、木の枝に擬態しているのは見たことがありますが・・・、こういう緑色で、家の中に出てくるとは思いませんでしたね。
2021.06.17
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ベランダだより 2021年6月14日「今年も咲きました!花盛丸!」 このところ数年、真夏から秋にかけて楽しませてくれるサボテン、「花盛丸」ですが、今年は6月に入ると花芽を伸ばし始めていました。 これが二日前の姿ですが、まあ、それにしても「キングギドラ」そのものですね。昨晩のうちに開花していたらしいのですが、あいにくの雨模様で気づきませんでした。 朝、洗濯を干しに出たチッチキ夫人の歓声で、ようやく気付きました。 毎年、毎回のことですが、「不細工」な「図体」で、美しい花を咲かせてくれるのが、何ともいえず、うれしいですね。 そういえば、同じ、今日、去年の母の日だったでしょうか、サカナクンのところのカヨちゃん女将が贈ってくれた「カラー」が一つ目の花を咲かせていました。 葉っぱが、頑張っておおきく成長しすぎてしまって、花は小さく見えますが、絶えずに春になって芽を出して、咲いてくれたのがうれしいですね。
2021.06.16
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徘徊日記 2021年6月8日「初夏 本多聞公園」「近所の公園の紫陽花」で、紫陽花を紹介しましたが、いやはやなんとも、手入れの行き届いた花壇で、初夏の花が満載でした。公園自体の管理は神戸市なのでしょうが、花壇を見る限り、丁寧な仕事をされているボランティアの方がいらっしょるに違いありません。本当にありがたいことですね。 ところで最初の写真の花はサルビアでしょうね。もうサルビアが咲き始めていることに驚きました。季節は廻っているのです。 で、こっちは鶏頭ですかね。 それから、次の写真は、たぶんバーベナという花じゃないかと思うのですが、いろんな色で咲いていました。 こっちもバーベナのようですね。 ここの花壇には花に名札が付けてあって、シマクマ君のような初心者にもわかりやすいというか、親切なのですが、それでも、「えっ、これもおんなじ花?」とか、「この名札はこっちかな?」というふうで、なかなか楽しいのですね。 バーベナという花は、どうも南アメリカあたりの花のようですが、花の種類が200種を超えるようで、色も多種多様なようですね。 こちらは、花の季節が過ぎつつあるようですが、タゲテス・ゴールドメダルという花ですね。レモンマリー・ゴールドとも言うそうです。そういえばマリー・ゴールドという花もありますが、まあ、同じ仲間なのかもしれませんね。雰囲気は南アメリカっぽいですね。はい、何の根拠もありませんが。 この花の名前は、帰ってきて調べました。アルストロメリアっていう名前だと思いますよ。彼岸花とかユリの仲間らしいですが、アンデス山脈の寒冷地に咲いている花だそうです。ちょっと、その素性に惹かれますね。マア、割合人気のある園芸種で、時々見かけますね。 こっちはユリですね。ユリといえば夏目漱石の小説「それから」を思い出しますが、あの小説には「鶏頭」や「椿の花」も出てきましたね。うろ覚えですが、三千代とユリがぼくのなかではセットの記憶です。 これは、名前が分かりません。花の雰囲気は芥子の仲間かなとも思うですが、ネットの花図鑑を見ていても確証というか「ああ、これだ!」に出会えませんでした。 同じように、この花はあっちこっちで見かけるのですが、「タチアオイ」の一種だとは思うのですが、花が八重なのですね。見事に咲いていましたが、背が高すぎる美人というか、見返り美人というか、そんな雰囲気ですね。 それにしても、ありきたりじゃない花が丹精込められていて、楽しい花壇ですね。団地の花壇の世話をなさっている方から「本多聞公園の花壇はいいですよ。」と教えていただいてやってきたのですが、楽しみがふえました。世話をなさっている方同士のつながりも感じられてうれしいですね。 次のシーズンが楽しみですね。初夏の本多聞公園でした。
2021.06.15
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勝田文「風太郎不戦日記(2)」(MORNING KC) 妙に醒めていてシニカル、それでいて、ニヒルになり切れない根性なしの、医学生「山田誠也」の戦時下での生活が続いています。 のちに山田風太郎という作家になった、23歳の主人公が、シニカルな青年として「日記」を書き続けることができたのは、この第2巻が描いている1945年に、偶然、医学生であったからですね。 当時、理工系学生、特に医学生については、「徴兵」が猶予されていたわけですが、同級生が戦地に駆り出され、戦死してゆく中で書き残された銃後の「青年」の鬱屈が、今となっては、それだけで希少価値を持つわけですが、日記を書いていた青年自身にとって、そういう境遇がどういう意味を持ったかを、感じさせてくれるシーンがこれでした。八月十五日炎天帝国ツイニ敵ニ屈ス。戦いは終わったが、この一日の思いを永遠に銘記せよ! 1970年に至って、この日記を「不戦日記」と題して公表した山田風太郎が何を思っていたのか。2001年に彼が亡くなって20年、笑い事ではすまない現実が、彼の伝奇作品の夢魔のように広がり始めている今、立ち止まって、考えてみてもよさそうですね。
2021.06.14
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徘徊日記 2021年6月9日 「映画の後はちょっとお散歩 生田川まで御幸通」 久しぶりにチッチキ夫人と同伴で、朝一番の「おバカ映画」を見て映画館を出てみると、お昼すぎでした。「ちょっと歩こうか?」「どこいくの?」「布引の滝。」「ええー、遠いやん。暑いやん。」「新神戸までバス乗る?」「いや、まあ、ええわ。歩く、歩く。」 というわけで、そのまま東に歩き始めて、御幸通の3丁目あたりまで来ると、ようやく、そこまで歩道からあふれるほどだった、お昼ご飯のサラリーマンの人込みも切れて、前に見えたのがこの建物でした。 「ケーニヒス・クローネ」ですね。大丸の近くにはホテルと一緒になっているお店がありますが、こちらは御幸通4丁目の、たぶん、今の本店です。 もともと、東灘の御影高校の近所にあった、いや、多分、今もあるお店が最初だったと思います。ぼくは35年前に勤めた、その高校が、すぐ近所にあって、ここの「コルネ」というお菓子の味を始めて知りましたが、今でも、時々食べたくなりますね。 ああ、そういえば焼き損じた、味ではなくて、山が大きくなり過ぎたとか言って、グランドの高校生に焼き窯から出したばかりの山食パンを一窯ぶん、みんないただいたことがありました。もちろん、その場にいた顧問の特権でぼくもいただきました。山食パンもおいしいですよ。 あの頃は街の洋菓子パン屋さんだったんですが、今はホテルとレストランもあるわけで、すごいもんです。看板が見えて「きっと反応するな」と思ったら案の定でした。「ちょっと、よっていい?」「はい、はい」 元町ケーキの「ザクロ」という定番ケーキをまねしたような、新発売のケーキもあるようですが、チッチキ夫人のお目当ては看板の「クローネ」(ボクは「コルネ」だとばかり思っていました)でしょうね。 神戸の人は大概知っていそうですが、筒状のパイ生地にカスタードとか、餡子とかが詰めてあって、一応生菓子なのでお店でしか買えないんですよね。 外で待っている間に、すぐお隣にうどん屋さんを見つけました。「大翔」という看板ですがなんと読むのでしょう。マア、写真も撮り忘れてますが、結局そのお店でお昼ごはん。 お出汁も麺も、関西風の「おうどん」で、ミニ・カツ丼までいただいて、おなかいっぱいになりました。 で、これから、ちょっと山に向かって歩こうか、という初っ端から満腹で、よたよた、ようやく生田川公園に到着です。 ここから、北に向かって歩くのですが、こう見ると新神戸もかなり遠いですが、布引は、その奥なのですが、大丈夫ですかねえ。マア、のんびりうろうろしますね。続きをのぞいてくださいね。
2021.06.13
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ジョージ・ギャロ「カムバック・トゥ・ハリウッド!!」シネ・リーブル神戸 今日は朝一番のシネ・リーブル神戸でした。10時半のスタートなので、いつもより早めのお出かけですが、永遠の「タクシードライバー」のロバート・デ・ニーロさん、77歳。「宇宙人ジョーンズ」のトミー・リー・ジョーンズさん、74歳。シマクマ君のボンヤリ記憶では、初めて見かけたときはお金持ちの女の人の、まあ、その頃から老運転手だった気がするモーガン・フリーマンさんに至っては83歳。 それにしてもお元気な三人が顔をそろえていらっしゃるというのですから、少々の早起きは仕方ありませんね。それに、今日はチラシを見て「これは見ないとしょうがないわね。」 と、のたもうたチッチキ夫人と同伴鑑賞でした。 久しぶりの、まあ出てくる人はチョーA級なのですが、正直、「チョーB級映画!」 でした。芸達者な老優が「イカレタ」三人を楽しく演じて、遊んでいらっしゃいます。いったい、どれくらいのギャラなんでしょうね。 なんというか、「映画の映画」という設定ですから、もう、インチキ満載、小ネタ満載なのがぼくでもわかるドタバタぶりで、そのうえ、妙にノスタルジックなんですよね。 チンピラギャングの親分に扮したモーガン・フリーマンの、あの「まじめな」声が聞こえてきて、ジーさんそのものの顔のド・アップで画面がいっぱいになった時には、笑っていいのか、涙ぐんでいいのかわからないし、インチキならお手のもの、目からインチキがにじみ出ている風情のデ・ニーロがC級映画のプロデューサです。あんまりぴったりで笑いを忘れそうでした。彼が「オスカー間違いなし!」と叫んで振り回している脚本が「パラダイス」。で、撮ったけど大コケした映画が「尼さんは殺し屋」ですからね。ホント、よーやるわ!って感じでした。 それにしても宇宙人ジョーンズのカウボーイには、もう呆れるしかないというか、いやはやなんとも、「頼むから落ちんといてね。」 という気分でしたね。 しかし、若い人がご覧になっても、同じように面白いのかどうか。なんとなく「笑い」が古いのかもしれないと感じたことも確かですが、でもね、だからといって、エンドロールが回り始めたからといって、さっさと席をお立ちになるのはおやめになった方がいいかもしれません。明るくなる直前に一番インチキなシーンが待っているかもしれないわけで、これが、なかなか、油断大敵でしたよ。(笑) こういう、余裕シャクシャクの映画って久しぶりでした。このところ、なかなか、見る機会がなかったのですが、これも、ぼくにとっては「映画」の原点の一つのような気がしましたね。チッチキ夫人も、なかなかゴキゲンでした。もちろん感想はアホやね!でしたがね。 監督 ジョージ・ギャロ オリジナル脚本 ハリー・ハーウィッツ 脚本 ジョージ・ギャロ ジョシュ・ポスナー 撮影 ルーカス・ビエラン 美術スティーブン・J・ラインウィーバー 衣装 メリッサ・バーガス 編集 ジョン・M・ビターレ 音楽 アルド・シュラク キャスト ロバート・デ・ニーロ(マックス) トミー・リー・ジョーンズ(デューク) モーガン・フリーマン(レジー) ザック・ブラフザック・ブラフ エミール・ハーシュエミール・ハーシュ エディ・グリフィンエディ・グリフィン 2020年・104分・G・アメリカ 原題「The Comeback Trail」 2021・06・09-no53シネ・リーブルno96
2021.06.12
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徘徊日記 2021年6月8日「近所の公園の紫陽花」 先日、街を歩いていて、あまりの鮮やかさに目を瞠った色の紫陽花がここにもありました。あれから、ちょっと気にかけて歩いていますが、それぞれのおうちの庭に植えられている紫陽花には、こういう、少し色の鮮やかなものが多いようですね。 ここは愉快な仲間たちが「ホンコー」と呼んで遊び場にしていた「本多聞公園」ですが、公園の東の入り口にある花壇の手入れが行き届いていて、いつ来ても「花」が咲いていいます。 白い紫陽花が群れて咲いていると、羊の群れを見るようで面白いのですが、まるで羊そのもののような紫陽花を、最近見かけます。 ね、羊の頭みたいだと思いませんか。いろいろあるんですね。この紫陽花は、葉っぱも特徴的ですね。「柏葉紫陽花」というそうですが、面白いと思って気にかけると案外あちらこちらで見かけます。 花だけ見ていると「これは何だろう?」と首を傾げましたが、葉っぱとかを見ていると、これも紫陽花なのでしょうね。ヤマアジサイとかいうのでしょうか。 こっちは、丁寧に作られた「紙細工の花」のような花です。白い色が「陶」質というのでしょうかね、ほかの花の見かけのニュアンスと少し違います。地味に存在感のある色ですね。 西日が差していますが、まあ、こういう様子です。公園を撮っていませんが、広場では中学生たちがクラブ活動をやっているようです。けっこうにぎやかですね。 この花壇には紫陽花以外にも沢山咲いていました。本多聞公園の初夏と題して続きを紹介しますね。また覗いてください。じゃあ、これで。バイバイ。
2021.06.11
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徘徊日記 2021年5月14日「六甲道駅から摩耶駅まで 道端のバラ」 六甲の「徳井神社」から西に少し歩くと、JRの六甲道ですが、神戸市の西の端に住むようになってなかなかやってくることができない地域です。 南北のバス道を南に見た風景ですが、学生時代に何度か、いや、何度もお邪魔した「ふくべ」という居酒屋さんの看板が懐かしいのですが、こんな今風のバナーは、もちろん記憶にありませんし、風景そのものが初めてやってきたような感じです。 横断歩道を西にわたって、北を見るとこんな感じでした。すぐそこにみえるのがJR六甲道の高架です。いやホント、「ここはどこや?」という感じですが、向こうの山並みが六甲山です。マア、しかし、左のビルの裏がJR六甲道駅ですね。 せっかくなので近所に住んでいるお友達に連絡してみると、お出会い出来ました。以前このブログでも案内した「六甲のふもと 百年の詩人」という八木重吉のアンソロジーを手作りしたママさんですが、二冊目の「赤ちゃんと百年の詩人」を作ったというので、本当は思い付きの徘徊のついでですが、結果的には、この冊子をいただきに垂水の方から、わざわざ!やってきたということになったのでした。(笑) これが、その二冊ですが、その日のことは、もう、このブログで書いていますので、そちらをのぞいてみてください。(「六甲のふもと百年の詩人」・「赤ちゃんと百年の詩人」) で、そこから、JR沿いを西に向かって歩いていると、線路わきの歩道で見つけたのが、最初の写真のバラの花でした。 これですね。実は、同じ花の写真ではありません。普通の歩道の街路樹なのですが、二本の立木に、バラの蔓が巻き付いていて、美しく咲いていました。なんというか、「これでいいのだ!」という風情も楽しい道でしたね。 バスを降りてすぐにもありましたが、このあたりの道端にも、この花(マツヨイグサ?)が目に付く徘徊でした。もう、夏ですね。 到着したのが、初見参のJR摩耶駅でした。 ここから、電車で帰ります。それではバイバイ。追記2021・06・10 今回紹介した二冊のアンソロジーですが、その後、育休中のヤング・ママの「労作」ということでしょうか。どこから聞こえてそうなったのか、新聞にも取り上げられ大騒ぎ(?)になったのですが、「子どもの愛らしさ詠んだ八木重吉 神戸の女性が育休中に作品集制作」という題で新聞に取り上げられたりしました。興味のある方はリンクを貼りましたのでどうぞ。
2021.06.10
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ジョン・アービン「ハンバーガー・ヒル」元町映画館 6月になって最初の映画は「ハンバーガー・ヒル」でした。1987年に制作された作品のリバイバル上映です。 ぼくは、どっちかというと「戦争映画」とか「ヤクザ映画」、それから「日活ロマン・ポルノ」で、映画を見始めたこともあるのでしょうか、こういう映画は結構好きです。 スター俳優を登場させないことで戦場のリアリズムを追及しようとした映画だと思いました。 戦闘シーン以外の場面にも興味を惹かれました。補充された新兵と古参兵との会話を始め、兵士同士の日常の言葉の飛び交い方。帰国して、再び戻ってきた兵士の胸中。ベトナム人の娼婦とアメリカ兵との会話や否応なく映し出される奴隷と主人の関係。 戦場シーンでは友軍による誤射も含めて、どこから銃弾が飛んできて、どこに向かって撃っているのか、見ているぼくにも全くわからない混沌が、まず、リアルでした。戦場は、ほとんどモノクロにしか見えないのですが、本人も気づかない間に失われている右腕、泥まみれの中でうたれるモルヒネ、そうして、あまりにもあっけない死。悲惨が重層化していて、一つ一つのエピソードを大したことではないように感じ始めるのが怖いですね。 映画はおそらくベトナムでアメリカが苦戦を強いられた屈指の戦場の悲惨を描いた作品だといっていいと思うのですが、「地獄の黙示録」のような、見ているものを煽り立ててくる印象が全くないのが特徴で、どこかで、懐かしい情景と遭遇したような不思議な感慨を引き起こす作品でした。 感慨の理由は、おそらく、ぼく自身の年齢によるもだと考えられますが、ひょっとすると、ぼくの中で「戦場」を映画的な虚構としてしか考えられなくなっている意識の鈍化によるものかもしれません。これはちょっとヤバいんじゃないか、そんな気分にさせた作品でした。監督 ジョン・アービン製作 マーシャ・ナサティア ジム・カラバトソス製作総指揮 ジェリー・オフセイ デビッド・コルダ脚本 ジム・カラバトソス撮影 ピーター・マクドナルド美術 オースティン・スプリッグス編集 ピーター・タナー音楽 フィリップ・グラス特殊効果 ジョー・ロンバルディキャストディラン・マクダーモットマイケル・パトリック・ボートマンドン・チードルコートニー・B・バンススティーブン・ウェバーアンソニー・バリルマイケル・ドーランドン・ジェームズM・A・ニッケルズハリー・オライリーダニエル・オシェアティム・クイルトミー・スワードローティーガン・ウェスト1987年・110分・G・アメリカ原題「Hamburger Hill」日本初公開1987年2021・06・04‐no52元町映画館no79追記2021・06・09 この映画を見ながら思い出したのがニック・タースという人が書いた「動くものはすべて殺せ」(みすず書房)でした。大慌てでしたが、読書案内で紹介しました。興味のある方は書名をクリックしてみてください。ある意味、この映画より、もっと悲惨であった「戦争」が、徹底的に暴かれています。
2021.06.09
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徘徊日記 2021年6月6日 「ちょっと裏山へ 摩耶山のふもとあたり」 今日はちょっと恥ずかしい徘徊だよりです。ご覧のように神戸市の東灘あたりから大阪湾を遠望していますが、本当は摩耶山の天上寺跡あたりまで登っての写真をもくろんでいたのですが、神戸高校の裏山あたりで、あえなくダウン、「無理して歩けんようになったら困るやろ。」と、同行のヤサイクンに諭されて、下山(そんな大げさな!)となった顛末です。 いつもマンガ便を届けてくれる、ゆかいな仲間のヤサイクンは、このところ、お休みお日には「裏山散歩」と称して、摩耶山や六甲山に歩いて登っています。チビラ君たちが同行する日もあるようです。 歩き終わるとロードマップと写真がラインとかで送られてきます。それを見て、うらやましくって仕方がなかったシマクマ君が、今日は同行したというわけです。 集合は「JR摩耶駅前」でした。約束の時間に待っていると、6年生の「コユちゃん姫」と1年生の「クルチャン姫」もやってきました。 で、ここから摩耶山ケーブルを目指して、まっすぐ北へ進みます。摩耶山のケーブル乗り場まで「坂バス」という小型シティ・バスも走っていますが、もちろん歩きです。街中の道ですが、結構な登りです。 JRから、水道筋、阪急の踏切を超えて歩きましたが、ちょっと興奮していたというか、緊張していたシマクマ君は、ここから写真を撮るのをうっかりしてしまっていて、ケーブルの駅の横を通って、最初の展望台まで写真がありません。 で、まあ、ここまでは到着しました。「えっ、ここで帰るの?」ってクルチャン姫に言われて、ションボリでしたが、帰りは、道を変えたこともあって、少し写真を撮りました。 6月の六甲山は紫陽花ですね。 植樹もしているのでしょうかね、川沿いにかぎらず、あちらこちらに咲いていました。 花はちょっとづつ色合いが違います。あっ、こんなせせらぎもありました。 神戸高校まで下りてくるとこんな祠がありました。お地蔵さんですかね。 ここから歩いて南へ下ります。少し西へ行けばJR灘駅です。 チビラ君たちとはここでお別れ。また、連れてってね。道中、6年生のコユちゃん姫が角々で、じっと、ジージ、シマクマ君を待ってくれていたのが、心に残りました。 灘駅から三宮まで歩いて高速バスで帰宅しました。灘駅から歩き始めたところで見つけました。色合いに目を瞠りました。 鮮やかなものですね。山中の色合いとは違います。マア、それにしても。もう少し「登り」に強くなりたいと、つくづく思った日でした。
2021.06.08
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ニック・タース「動くものはすべて殺せ」(布施由紀子訳・みすず書房) 「ハンバーガー・ヒル」という、1987年に作られた映画を見ていて、この本のことを思い出しました。ニック・タースというジャーナリストが書いた「動くものはすべて殺せ」という、衝撃的な題名の本です。2015年にみすず書房から翻訳出版されました。 「真実のベトナム戦争史」ともいうべき内容で、元従軍兵士や生き残った現地の住民に対してインタビューを重ね、公開された公文書館資料を調べつくし、「アメリカがベトナムで何をしたのか」、という「闇」の、当事者ならずとも目を覆いたい、隠し続けたかった「真相」を白日の下にさらした驚くべき本だと思いました。 どなたがお読みになっても、読了後、深くため息をおつきになることは間違いないと思います。ぼく自身は、「本当のこと」というのは知ることによって、必ずしも、人を救ったり、元気にしたりするわけではないことを実感しました。 ロバート・メイナード中尉は、ブービートラップ(革命軍の地雷・待ち伏せという「罠」攻撃のこと:引用者註)による死傷者が出てからほどなく、第1小隊のジョン・ベイリー少尉、ドン・アレン3等軍曹と作戦前の打ち合わせを行った。のちにアレンが報告したところによると、メイナード中尉は、「真っ先に村を襲う」と断言したという。アレンは指示内容をはっきり覚えていた。「われわれは全小隊を率いて村を縦断する。向う側に出たときには、生き残った者、焼け残ったものがないようにする。子供については、それぞれの良心に従って対応せよ」と言われたのだ。 ベイリー少尉はブービー・トラップで軽傷を負っていた。彼は打ち合わせから戻るとすぐ隊員たちに、これから村へ送り出されることにを告げた。オラーフ・スキップフィールド上等兵は、「村人を皆殺しにして焼き払うことになったと聞きました」と証言しているが、エディ・ケリー上等兵は「村の何もかもを探し出して破壊せよ。」と指示されたと記憶している。ライフル銃兵のエドワード・ジョンソンが覚えていたのは、毎年南ベトナム全域で米兵に下された多くの命令と似たような内容だった。「目にしたもの、動いたものはすべて抹殺せよと言われました。」(第一章 チェウアイ村虐殺事件) 引用は書名になっている「動くものはすべて殺せ」が、現場の命令として発されていたことが、元兵士の証言として出てきたところです。 このセリフの異常さもさることながら、「子供については、それぞれの良心に従って対応せよ」と命令された兵士たちがどのように訓練された、どういう年齢層の人たちであったかということが、この引用に続けて報告されています。 海兵隊員たちは、チェウアイ村の子どもたちについては、良心に従って対応せよと命じられたが、当の彼ら自身がまだ子供時代に別れを告げて間もない若者だった。じつのところ、ベトナムで任務についていた米兵の大半は十代か二十歳をを過ぎたばかりだったのだ。徴兵されたか、(徴兵を待つ不安定な状態がいやで)志願したかはともかく、みんな少年といってもいいような年ごろで基礎訓練を受けに行ったのだ。こうした訓練は、新兵を幼児並みの精神状態に追い込むよう計画されていた。ショックと隔離状態と心身へのストレスによって、彼らが十八年そこそこの人生で学んだことを全て剥ぎ取り、刷り込みができるような白紙状態を作り出すのだ。 発言の始めと終わりに「サー」をつけ忘れるといった些細な規定違反をあげつらい、頻繁に処罰を行うことは、このプロセスにとっては非常に重要だった。無理やり生ごみを食べさせる、気絶するまで運動をさせるなど、精神的ダメージと肉体的苦痛を与えることが目的とされていた。 マインド・コントロールという言葉が自然に思い浮かんできますが、白紙にされた、若い兵士の「心」に刷り込まれたのは次のような内容でした。 「十一ヵ月をかけて、私は殺人をするように訓練されました。八週間の基礎訓練のあいだもずっと『殺せ』『殺せ』と叫んでいたんです。だからベトナムに行ったときにはいつでもすぐに人を殺せるような気がしていました。」 ヘイウッド・カークランドという帰還兵も自分の経験を次のように語っている。訓練所に入るとすぐ‥‥連中は新兵の人格を全面的に変えようとした…まずはじめに、ベトナム人をベトナム人と呼ぶなと言われる。グークとかディンクとかと呼べと。ベトナムに行けば、おまえらはチャーリー、つまりベトコン、と真正面から対決することになる。あいつらは動物みたいなもんだ、人間じゃない‥‥。 現場で、まさに言い訳として、上官が口にした「良心」を、常識的に考えられる「良心」として受け取ることができない集団が、人為的に作られていくプロセスの報告でした。 これらの引用は、本書にあっては、実は序の口にすぎません。以下、300ページにわたって、戦争という犯罪の真相が、次に掲げる「目次」に従って、実に詳細に、しかし、具体的に報告されていきます。目次は次の通りです。序 作戦であって逸脱ではない第一章 チェウアイ村虐殺事件第二章 苦難を生むシステム第三章 過剰殺戮第四章 くり返された蛮行第五章 終わりのない苦悩第六章 バマー、“グーク・ハンター”、デルタのばらし屋第七章 戦争犯罪はどこへ行った?エピローグ さまよえる亡霊たち 報告を終えるにあたって、ニック・タースはこんなふうに問いかけています。 何十年もたち、幾人かの大統領がこの戦争のイメージ刷新を図り、あるいは歴史の片隅に葬り去ろうとしてきたが、アメリカ人はいまだに、ひっそりと闇に消えることを拒む戦争に縛られている。 あの戦争中にアメリカが実際に何をしたかを理解せぬまま、わたしたちは、つぎつぎと軍事介入がおこなわれる都度、新たな亡霊がよみがえるのを目にするのだ。 イラクは新たなベトナムだったのか。アフガニスタンも?「トンネルの向こうの光」は見えているのか。我々は「人心」をつかもうとしているのか。「対ゲリラ作戦」はうまくいっているのか。「ベトナムの教訓」は活かせているのか。そもそも、その教訓とはなんだ?(「エピローグさまよえる亡霊たち」) 読み終えて、つくづく思うのです。ベトナム以後も「戦争」をやめることができない「アメリカ」に対するニック・タースの問いかけは、今や、他人事ではありません。 「集団的自衛権」だの「積極的平和維持活動」だのという、インチキな呪文に騙され続けるのではなく、「戦争」で国家が何をしているのか。「戦場」で兵士は何をさせられているのか。「平和維持」とかで派遣された戦地で自衛隊員は何をさせられているのか。わたしたち自身こそが「問う」ことを迫られているのではないでしょうか。追記2022・04・30 戦場では同じように「敵は殺せ」と「命令」が下されていて、兵士が去った後には死体が残されていくことが、ウクライナでも報道されています。 地政学とか陰謀とか、きいたふうな薀蓄を、したり顔で語り合うのは「他人事」だからではないでしょうか。もっとも、「ロシアの侵攻をリアルにとらえると九条の無効性が・・・」などと口にする、常識家面したインチキな人まで現れているわけで、なんだか、やっぱりめんどくさい世相です。 個人的な感慨にすぎないのかもしれませんが、戦場に派遣される兵士は「敵は殺せ!」と命じられていることだけは忘れないでいようと思います。
2021.06.07
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笠井潔「吉本隆明と連合赤軍事件」(吉本隆明全集24月報25・晶文社) 市民図書館の新入荷の棚に発見して、「オオー24巻まで来ましたか!」という気分で手に取った「吉本隆明全集24」(晶文社)の月報に作家の笠井潔が書いている文章が、67歳の誕生日にふさわしい衝撃でした。 この投稿を読んでくれる人たちの多くには、たぶん、理解不能な感慨だと思います。でも、まあ、今日が経なので書きます。 笠井潔は、「八・一五に際してゲリラ的に徹底抗戦することも、敗戦革命に立つこともない日本人について」、「千数百年前の日本民衆の『総敗北』と、その後のグラフト国家について」、「六〇年安保で街頭にあふれ出した膨大な大衆を戦後社会が鬱積させた疎外感の流出としてとらえたことについて」の、三点において、自らは吉本隆明の発想を後継するものだと前置きしたうえで、吉本隆明が「連合赤軍事件」に対してとった態度をこんなふうに総括し、以下のように論を結んでいます。 連合赤軍の弱さと愚かさを高みから非難し愚弄すればするほど、それは生き延びた戦中派の一員に他ならないおのれに戻ってくる。だから吉本氏の無意識は連合赤軍を「否認」した、するしかなかったのではないか。 おまえたちのようような愚劣な結末を迎える以外にないから、戦中派は戦いを途中でやめることにした。われわれは恥辱に耐え、おまえたちを平和と繁栄のなかで育てようとした。それなのに、なんということか・・・・・。 外来勢力への日本民衆の「総敗北」は1945年にも反復され、75年もの長きにわたってアメリカが、「グラフト」の存在を塗り隠した超越的支配者として日本列島に君臨し続けてきた。 たとえアメリカの属国であるとしても、若い高卒女子労働者が「アン・アン」を手本にファションを愉しめる豊かな日本であれば肯定できる、肯定しなければならないと吉本氏は、進歩派として発言する埴谷雄高に語った。それから40年が経過し、日本の若者は1960年代の学生が求めた本来性の感覚も、80年代の高卒女子労働者が享受した豊かさ生活も失い、しかも「疎外感」を街頭蜂起として流出させるためのノウハウさえも奪われている。21世紀の時代性はどうやら、吉本氏からの三つの引用を原点とした思考では及ばない地点まで達しているようだ。(笠井潔「吉本隆明と連合赤軍事件」) ちょっと注釈的に言いますが、論の中で使われている「否認」という用語は、フロイトが、たとえば幼児が叱られるのを怖がって、濡れたパンツのまま、「お漏らしをしていない」と主張し、そのことを信じ込むというような、心性をいいますが、吉本隆明の戦後社会論が、最初に遭遇した落とし穴として出会った事件という、笠井潔の判断が書かれていると思います。それは笠井自身が吉本隆明を揶揄しているというような話ではありません。彼自身とっても大事件であったことは「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)という評論に如実だと思いますが、ぼくの衝撃は、そこではありませんでした。 二つ目の注釈です。本文中の埴谷・吉本論争というのは、連合赤軍事件が露呈した「戦後」という社会の終焉から、ほぼ10年後、コム・デ・ギャルソンの川久保玲の服を着て写真に写って雑誌に登場した吉本隆明を「死霊」の作家、埴谷雄高が批判したことから始まった事件です。 三つ目、「グラフト」というのは「接ぎ木」のことですね。たとえば、日本の古代に「倭国」から「大和」と変化する呼び名、大和朝廷とそれ以前の群小国家群との関係で用いられる用語に「グラフト国家」という語があります。マア、そういう意味合いで使われていると思います。 引用文は、大雑把に言えば、吉本隆明の思想の射程が述べられているわけですが、で、笠井潔はこう結んでいます。 それから40年後の現在、吉本氏からの三つの引用を原点とした思考では及ばない地点まで達しているようだ。 20代に出会い、以来、一つの指標として「吉本隆明」を読み続けてきて、67歳の誕生日を迎えた日にウロウロ図書館にやってきた人間が、ここにいます。その男の「時間」と、偶然、手に取った本の「月報」で一人の作家が指摘する40年という「時間」は、ぴたりと重なります。ぼくが衝撃を受けたのはこのことでした。 年を取れば、やがて、わかるようになると思って本を読んできました。その思想家を知って半世紀、後生大事に読み続けてきました。で、その思想家の終焉が語られてる文章に、偶然とはいえ、誕生日に出会ったのです。語っている人が、どうでもいい人ならいいんです。でも、笠井潔でしょう。 こんなふうに、ある時代の終わりについて、のんびりと語っている笠井潔という人が、ぼくにとって、どういう書き手であるのかというのは、ぼく自身の思い込みかもしれません。 が、たとえば「哲学者の密室」の作家であり、「テロルの現象学」の評論家であるというだけでも、ぼくにとっては、まあ、大したことなのです。 よりによって、今日、こういう文章に出会うとはねえ。しかし、まあ、本を読むということは、そういうことなんでしょうね。
2021.06.06
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河合雅雄「ゴリラ探検記」(講談社学術文庫) 「サル学」の河合雅雄が2021年5月14日に亡くなったというニュースを見ました。ジャーナリストの立花隆が「サル学の現在(上・下)」(文春文庫)という長大なレポートを書いて評判になって以来、サル学という言葉が普通名詞になりました。1990年代の初めのころのことでした。 しかし、今西錦司に始まる京大の「サル学」の世界、ニホンザル、ゴリラ、チンパンジーの社会に潜り込んで霊長類の生活や歴史を探る世界へ、ぼくたちのような素人を誘ってくれたのは、立花隆ではなくて、河合雅雄、井谷純一郎、西田利貞といった、今西門下の、みなさん、そろって、実に文章の上手なフィールド・ワーカーたちの報告でした。 中でも、河合雅雄は、子供向けの童話から翻訳まで手掛ける、「サル学読書界」のスター選手というべき人で、案内したい本が山積みですが、彼が世に問うた最初の本が「ゴリラ探検記」(講談社学術文庫)でした。 100メートルも行ったであろうか、ルーベンは鼻をぴくつかせていたが、しわがれた声で「ゴリラ」とささやいた。私にはなにも見えない。かすかな音も聞こえない。ルーベンはぐいと私の手をひっぱり木立の中をさした。二、三歩進んだ私は、思わず棒立ちになって息をのんだ。10メートル先に、巨大な漆黒の手が伸びているのを見たのだ。ゴリラだ!彼は私たちに気づかず、木の葉をたべていたのである。 後ろでカシャと音が聞こえた。水原君がニコンのシャッターを切ったのだ。同時にかき消すようにその手が消え、鈍い音とともに黒い塊が左へとんだ。ルーベンは茂みの穴をさして、そこへはいっていけという。雨は相変わらず降っていて、しずくが音を立ててヤッケにあたる。不気味にあいている穴は、地獄の門のように見えた。ちゅうちょする私を、ルーベンは容赦なくぐいと押した。 茂みは分厚くもつれ、ぬれた木をおしわけて、はうようにして進むのがようやくである。茂みの中は薄暗かった。私は闇の中を手探りで、一歩一歩ふみしめて歩いていく思いだった。足跡は深い谷に落ち込むように向かっていた。とつじょ、十二、三メートル横の茂みで「グヮーッ」というものすごい咆哮がした。そして、大きく木がゆれた。そこにひそんでいたゴリラのリーダーが威嚇したのだ。しかし、私たちは身動きもできず、急ながけのツタにつかまって体を支えていつのがせいいっぱいであった。逃げようたって、このがけではどうにもならないではないか。(第1章「ゴリラの聖域」) 長々と引用しましたが、「ニホンのサル学がゴリラと出会った瞬間」というべきの場面の描写です。学術文庫で、300ページを超える大作ですが、こうして写していてもワクワクしてきて、夢中になった記憶が浮かんできます。もう、35年も昔の話です。 山積みの中から、追々、案内したいと思いますが、これからも忘れてほしくない人ですね。冥福を祈りたいと思います。 「子どもと自然」(岩波新書)
2021.06.05
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計見一雄「戦争する脳」(平凡社新書) 著者の計見一雄(けんみ かずお)という人は、裏表紙の紹介によれば1939年の生まれで、1980年代から精神科救急医療の確立に尽力した精神科医のようです。だれにも媚びないで、まっすぐに自分の意見を書く態度が気に入って、別の著書にも手を出したりして、まあ、あれこれ面白がっていた人なのですが、ネットのニュースで「新幹線の運転士 走行中に運転室離れトイレへ JR東海が処分検討」という記事を見て、この本を思い出しました。 計見一雄(けんみ かずお)「戦争する脳」(平凡社新書)です。 上記の話題は典型的な、いわゆる、「あってはならないこと」の話題なのですが、計見一雄のこの本は「あってはならないことが・・・」と、事が起こってから言い訳する「日本型思考」批判の書といっていいと思います。 「戦争はあってはならない」・「原発事故はあってはならない」・「いじめはあってはならない」。こうやって「あってはならない」ことを並べながら、ふと、世間を思い浮かべてみると、感染がこれだけ広がっても、「コロナの蔓延」は、そもそも、あってはならない現象だったようだし、どうも「ワクチンの接種遅れ」も「副作用」も、「オリンピックの中止」だか「再延期」だかも、あってはならない事態だと考えられているようなご時世で、「ほぼ、自動運転に違いない新幹線の無人運転ぐらいで騒ぐなよ」と、いい加減なことを言い出してしまいそうでしたが、計見一雄が「あってはならない」という言葉の使い方について、ナルホドそうだねという批判を、面倒がらずに展開していたことを思い出しました。 学校でのいじめ、自殺。「あってはならない」ことが起きました。命の大切さを教育しましょう。児童の動揺がはなはだしいので、カウンセラーを導入します。まことに申しわけありませんでした、で終わる。「本校ではかかる事態を根絶することを誓います」とは、絶対に言わない。 と、まあ、ありがちなシーンを取り上げて、これを、こんなふうに批判しています。(この言い方だと)「あってはならない」というのは「存在してはならない」としかとれない。 なぜおかしいかというと、それは実際に存在してしまった。出現してしまったんだから、今後も出現する可能性があります。それを防ぐ手段を考えなければいけないし、仮に出現したときにどのように対処するのかということを、今後作っていかなければなりませんというのが正しい回答である。(第1章「否認という精神病理現象」) 要するに「あったらどうするか?」という発想がないことに対する批判ですが、「精神科救急医療」の現場で実践してきた人として、実にまっとうな批判ですね。 「オリンピックが出来なかったらどうするか?」とか、「原子力発電所が事故を起こしたらどうするか?」っていうことが、実は考えられていないのではないか、という私たちの社会の現実を言い当てているのではないでしょうか。例えば、新幹線に限らないと思うのですが、ひとりで運転席いる、電車の運転手の話の場合なら「おなかが痛くなったらどうするか」ということについて、ならないための「リスク・マネージメント」とかは、やたら吹きこまれている感じがしますが、なったらどうするのかという「ダメージ・コントロール」は、案外、ないがしろにされているのではないのかと感じますね。 本書は「戦争」をめぐっての「ダメージ・コントロール」が話題のメインの論説ですが、昨今の風潮や、きっと叱られるに違いない運転手のことを思い浮かべていて、もう一つ思い出したのが、こんな記述でした。「兵士は肉体を持つ」という事実―食い物と便所が大事 戦争を可能にする病理とは、観念が実現するという思い込み、つまりウィッシュフル・シンキング、現実を否認する志向だ。その否認される現実の中に、旧日本軍の場合は「兵士が肉体を持つ」という事実が含まれていたようだ。 日本軍に体質にはそれがあった、とまでは思いたくない。でなければ日清・日露の戦役は戦えなかったろうから。昭和の戦争で、難戦・激戦になるにつれて、兵士の肉体性というのはほとんどなきに等しきに扱われた。第一次上海事変で登場した〈肉弾三勇士〉という英雄譚がその好例で、肉体をもって爆弾に代える、そうせよという命令。肉が爆弾になるというメタファー、これ以上の肉体軽視はない。肉体を軽んじ精神を高みに置く、昭和の最初の二〇年間を貫く「思想」のプロトタイプというべきものだろう。この三人の勇士を貶める意図はみじんもないが、この思想は徹底的に批判されるべきだ。(第3章「兵士の肉体性」) いかに愚かしい「観念」であれ、政治家やマスコミによって煽られ、「同調圧力」とかを笠に着て拡がり始めたときに、おろそかにされる個々の人間の「肉体性」について、目をそらしている自分がいないか、心して世間と向き合う必要を痛感する時代が、やってきているようですね。 いやはや、昭和の軍隊に蔓延した「必ず勝つ」というウィッシュフル・シンキングがそこらじゅうを覆いつくそうとしているようにぼくには見えますが、いかがでしょうね。
2021.06.04
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徘徊日記 2021年5月14日「六甲道あたり 徳井神社」 三宮から92番のバスに乗って終点石屋川車庫前までやってきました。もう少し東に歩けば石屋川公園ですが、今日はここから西向き、少し南に下ると徳井神社がありました。 神戸の神社の境内に必ずあるのがクスノキですが、ここにもありましたね。境内のいろんなものが「あたらしい」のですが、石灯籠と楠木だけは年代物という感じです。このあたりは震災の時にJRや阪神の駅や高架が倒れたところです。何となく、そういうことを思い出しました。 「箒(ほうき)の宮」とか呼ばれているそうで、ここでいただいた「箒」でおなかを掃くと、陣痛が和らぐそうです。 こういう感じで、安産の神さんのようですが、「箒」というのは珍しいですね。まあ、駐車場として稼いでいらっしゃるのが実情のようで、神さんの世界も大変です。 座っていらっしゃる「お犬」の親子も狛犬も新しいのですが、神社にやってきたら、やっぱり狛犬さんですね。「阿」さんですね。しめ縄が飾ってあるのが、これまた珍しいですが、何か由緒があるのでしょうか。そのうえ、このしめ縄はなかなか立派で、こうして写真を見ていると、ちょっと触ってみたくなりますね。ちょっと金色っぽかったのですが、触り忘れました。 「吽」さんです。なかなか愛嬌があっていいですね。きちんと見比べたわけではないのですが、お宮さんごとに、狛犬さんが、それぞれ個性があるようなのですが、石屋さんは、それぞれ違うように彫っておられるのでしょうかね。 そういえば、社殿に向かって右側が「阿」さんで、左側が「吽」さんというのも、決まっていることのでしょうか。 考え出すと面白いですが、今日はここから西向きに歩きます。六甲道の駅はすぐそこですが、もう少し歩いてみますね。じゃあつづきは道端のバラの花です。
2021.06.03
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徘徊日記 2021年5月14日「六甲あたり 石屋川車庫前」 三宮の映画館で映画を見終えて。神戸大丸あたりを歩いていると、始発のバスが動きはじめようとしている様子なので、思わず乗りました。「あっ90番台のバスや。」 そう思うと、体が反応してしまって飛び乗りました。92番系統、石屋川車庫行です。 その昔、市電が走っていたころ、石屋川に市電の車庫があったから「車庫前」というのだということを、もう市電がなくなっていた学生時代に聞いたことがあります。 その頃、90番台のバスで山手幹線を石屋川から板宿まで乗ることができました。板宿まで乗って、帰ってきて、往復200円でした。学食で「きつねうどん」が100円前後だった時代です。 マア、そういう懐かしさが、ふとこみあげて飛び乗ったわけで、見た映画が「ファーザー」だったことと、ちょっと関係があったかもしれませんね。何となく、昔に帰りたかったような気がします。 バスは新神戸駅前から雲中小学校前、熊内、上筒井、動物園前を通って阪急の西灘駅前、まあ、今は王子公園駅という名前に変わっていますが。それから水道筋、昔の金沢病院の前から、神前町、日尾町と通過して六甲口です。 神戸の暮らしを水道筋、岸地通りの下宿で始めたのが45年前です。20歳でした。車窓の町並みを見ながら浮かんでくるのは昔の風景で、今はもうないのですが、友だちが住んでいたあたりに目を凝らしてしまいます。 石屋川車庫前に着きました。上の写真は中央分離帯に咲いていた黄色い花が懐かしくて撮ったものです。コスモスみたいですが、たぶん「オオキンケイギク」とかいう外来種、アメリカ原産だったと思いますが「困ったやつ」らしいです。 大きい声では言えませんが、ぼくはこの花が好きです。1995年の震災の年の今頃、まだ焼け野原だった街かどの道路わきに、たくさん咲いていて、今でもそのシーンがときどき浮かんでくる、ぼくにとっては「思い出の花」なのです。 同じところにこんな花も咲いていました。 マツヨイグサでしょうか。もう盛りは過ぎているようですが、気になるムードの花ですね。 ここは「弓木町(ユミノキチョウ」なのですが、さて、ここからどうしましょうか。少し歩きたいと思っています。まずは「徳井神社」にでも行ってみましょう。
2021.06.02
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徘徊日 2021年5月30日「梅の実がたわわです!」 サンデー毎日暮らしのぼくがいうのも、なんか変ですが、今日は5月最後の日曜日です。 朝のコーヒーを飲んでいるとピンポーンとチャイムが鳴りました。 なかよしのお隣さんからお届け物でした。 「あのね、収穫は来週なんだけど、たくさん落ちていたから拾ってきたの。いる?なにかにできるでしょ。」 お隣さんの旦那さんは、「団地の緑」を世話をするボランティアをずっと続けていらっしゃって、今日も朝からボランティアだったのでしょうかね。ああ、それから彼は、東京弁なのです。いやむしろ「江戸風」というべきかも。お話を伺ったことがあるのですが、実は、江戸っ子なんですね、正真正銘の。 で、シマクマ君も早速カメラを持って出かけました。 初夏ですね。日差しが眩しくて、若葉が輝いています。ホラ、梅の実です。たくさん成っていますね。 緑の梅の実が輝いていて、まあるく太ってうれしそうですね。2月の始めに「春」を知らせる花が咲いて、3か月、今度は「夏」の訪れを知らせるように実っています。そのあたりが、梅の花の愛想のいいところですね。 ふらふらと、そのあたりの写真を撮って帰ってくると、チッチキ夫人が何やら嬉しそうに容器を洗ったり、お砂糖を取り出したりしていました。 とりあえず「梅ジュース」を仕込んだようです。氷砂糖もないのでザラメにしたので、お砂糖の量がいつもより多いらしいのですが、どちらにしても水と氷で割って飲むのですからいいんじゃないかと思うのですが、作る人は、いろいろと考えるようですが、見ているシマクマ君は「いつごろ飲めるのかな?」だけですから、まあ、困ったものです。 マア、それにしてもうれしいプレゼントでした。
2021.06.01
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