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週刊 読書案内 川上弘美「三度目の恋」(中央公論新社) 川上弘美の最新作(?)です。彼女はこの作品に先立つ2016年、「伊勢物語」の現代語訳を、池澤夏樹が編集して評判をとった河出書房の「日本文学全集」で、上辞しています。本を見たことはありますが、内容は知りません。 で、その仕事と、今回の「三度目の恋」(中央公論新社)という作品との関係について、本書の「あとがき」でこんなふうに書いています。 実は伊勢物語を訳しながら、どうにもすっきりしない感じを覚えていたのです。業平という男が、つかめなかった。光源氏の造形に影響を与えているだけあって、数々のまつわる恋物語もあれば、仕事人としての業平も描かれていれば、男どうしの友情も描かれている。光源氏よりも人間くさい男ではある。それにしても、女たちはなぜ、この業平という男にこれほどまでにとらわれるのだろう。そのことがどうにも解せなかったのです。(「三度目の恋」P387) ようするに、伊勢物語を精読した川上弘美は「どうして業平はもてるのか?」ということが「解せなかった」というわけで、ちょっと、自分なりに謎解きしてみましょうとこの作品を描いたということのようです。 で、現代の女性である主人公の「梨子(りこ)」さん。その梨子さんがほんの幼い頃から「ナーちゃん」と呼んで恋い慕う男「原田生矢(なるや)」さん。梨子さんが小学校の用務員室で出会う、実になぞめいた「高丘(たかおか)さん」という三人の登場人物を設定して、小説は始まります。 お話は現代っ子である「梨子さん」が「時をかける少女」よろしく、「昔」、「昔々」、「今」、と章立てされた時空を飛び交います。 ちょっとエキセントリックな少女であった梨子さんの「愛」と「恋」を巡る遍歴を経た成長譚ともいえます。江戸の遊郭とか平安貴族のお屋敷とか、結構、とんでもない世界に飛び込んでいく冒険譚でもあります。 ちょっと、ネタバレしますと、時空を超えるのですから、作品世界がハチャメチャにならないための仕掛け、まあ、ドラえもんでいえば「どこでもドア」として使われるのは、この作品では「夢」ですね。「時をかける小学生」だった梨子さんが、「夢見る子育てママ」に成長して、「三度目の恋」を夢みるというのが、まあ。ぼくなりの要約です。 川上弘美も「蛇を踏む」(文春文庫)で芥川賞を取って25年になるのですね。この作品には、彼女らしさというのでしょうか、「におい」や「気配」を描いたシーンも満載で、お好きな人にはたまらないでしょうね。 面白かったのは、あの澁澤龍彦の遺作、「高丘親王航海記」(文春文庫)を巡る展開が挿入されていることでした。作家自身も、先述の「あとがき」でその作品に対するオマージュだと書いています。 澁澤龍彦の小説は、最近では近藤ようこによって漫画化されていて、そっちの方が有名かもしれませんが、在原業平との関係で言えば、高丘親王というのは、平城帝の息子で、業平の父、阿保親王の弟ですね。業平にとっては叔父さんなのですが、在原業平を描くときに必ず登場する人物なのかどうか、「語りたいこと」と「語る人」によっては、ほぼ、登場することのない人物だと思います。 ところが、この作品では小学生の梨子ちゃんが、いきなり高丘さんという謎の人物に出会うのです。読む人によっては、「高丘・・・?聞いたことある名前なんですが!」とか、何とか、まあ、気付く人もいる名前で、その後、かなり読みすすめていくと、澁澤龍彦の作品名まで出てくると「やっぱり!」と納得するのですが、だからといって、なぜ高丘さんが登場するのかわかるわけではないのです。なんだか何を言いたいのかわからない紹介になっていますね。 おそらく、この作品に登場する高丘さんという人物と高丘親王とが、どう繋げられているのかというのは、ひょっとしたら、こちらがメインなのかもしれないという感じで、この作品の肝の一つなのはわかるのですが、まあ、何が語りたいのか、結局よくわからないのです。 作品のディテールは「婦人公論」(中央公論新社)に連載しただけのことはあって、セクシャルでスキャンダラスなシーン満載なのです。偶然、聞くことができたのですが、読み終えた数人のお知り合い(みなさん女性でした)の評価は◎と×とで真っ二つでした。 ぼく自身は、何処か、還暦を超えたおばさまがお書きになった「通俗小説」という印象で△でしたが、評価が割れるのも納得という感じでした。「伊勢物語」なんかに興味をお持ちの方にはいいかもしれません。なんといっても、有名な「芥川」のシーンの前後が実録「性愛小説」化されていますからね。 「高丘親王航海記」(文春文庫) 近藤ようこ版
2021.10.31
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ドゥニ・ビルヌーブ「DUNE デューン 砂の惑星」109シネマズハット 今、どんな映画に人気があるのか、実はあんまりわかっていなのですが、なんとなくこれは流行るんじゃないかと思っていると、話題にする知人の声が聞こえてきたりして、それならボクも!(笑) という感じで出かけたのがドゥニ・ビルヌーブ監督の「DUNE 砂の惑星」です。 やって来たのは、ハット神戸の109シネマです。この映画館が最近のお気に入りです。最寄り駅はJR灘、阪神岩屋ですが、三宮からだと30分くらい歩く必要があります。JR灘からでも10分以上かかりますが、この不便さがいいんですよね。 行きは灘までJRですが、帰り道に春日野道の「大安亭市場」とか立ち寄るのが楽しみです。それにワーナーとかディズニーとかの映画をやっているのですが、休日はともかく、普段の日にはお客がほぼいません。この時世ですから、ぼくのようなサンデー毎日暮らしには、まあ、最適の映画館ですね。 さて「砂の惑星」ですが、題名に聞き覚えがありました。原作の小説が学生時代に早川文庫だったかで出版が始まって、10年くらいかかって完結したSF大河小説だった(多分、今でもある)と思います。 「読んだのか」と言われると「面倒くさくなって投げ出した」という感じの印象しかないのですが、一度映画化もされたような気もしました。見終えて調べてみるとデビッド・リンチという有名な監督の、かなり有名な作品らしいのですが、知りませんでした。 で、映画が始まりました。文字通り「超大作SF」という感じで、超能力あり、箱型宇宙船をはじめとした、なかなか興味深い乗り物あり、怪獣あり、砂嵐あり、月が二つ浮かぶ天空ありで飽きさせません。物語の筋運びは案外古典的という気もしましたが、見ちゃいますね。 乗り物の一つがヘリコプターじゃなくて、なんでトンボなのか訝しみましたが、砂嵐のなかでの動きの面白さはこっちの勝ちですね。 ティモシー・シャラメ君(もちろん知らない人でしたが)が演じるポール少年が見る「予言夢」というか「未来夢」というかが物語を起動しているのですが、その夢を見ながら「この映画、ひょっとして予告編か?」 と思いました。 ポール君がお母さんのジェシカ(レベッカ・ファーガソン)の妊娠を見破ったところあたりで、予想の的中を確信しましたが、見終えてみると、「砂の惑星 年代記 序章」 という感じで、映画の背景世界と物語の段取りの紹介が終わり、主人公の周辺人物たちはほぼ死んで、悪役と過酷な自然(?)の中に孤独な主人公が残されてしまうとでもいう感じの、実は「はじまり」の物語でした。 大きな事件はこれからここで起きますよという、「年代記 第1章」というべき続編(あるのかないのかは知りませんが)の予告編のような結末でした。 折角、覚えた、なかなか魅力的な登場人物たちの多くも死んでしまい、「ええ、これから、また、新しいのがいっぱい出てくるの?!」 と、ちょっとイラっとしたのですが、次回作も見るでしょうね。ストーリーがシンプルなのに、そういう牽引力がある作品だと思いました。 もっとも、個人的な好みで言えば、砂虫の全貌とか、砂の一族フレメンの暮らしぶりとか、ああ、そうそう、ポールの母、ジェシカが身籠っている赤ん坊の正体とか、謎はいっぱい残っているんですよね。 物語の展開で言えば、なんといっても、ポール・アトレイデス伯爵とハルコネン男爵の戦いがどう始まり、どう決着するのかなのですが、「全宇宙」を統べるの皇帝の姿だってまだ明らかじゃないですし、なんだか一話で終わりそうもないですね。 繰り返しになりますが、ぼくが本当に見たいのは砂虫の「全貌」ですが、できればフレメン一族の住居とかも見たいですね。 この映画の映像として魅力は、結局「砂漠の風景」 だったと思うのですが、画面が少し暗かったのが、ぼくには残念でした。というわけで、砂嵐とともに迫ってくる「砂虫」に拍手!でした。監督 ドゥニ・ビルヌーブ原作 フランク・ハーバート脚本ジョン・スパイツ ドゥニ・ビルヌーブ エリック・ロス撮影 グレイグ・フレイザー美術 パトリス・バーメット衣装 ジャクリーン・ウェスト ロバート・モーガン編集 ジョー・ウォーカー音楽 ハンス・ジマー視覚効果監修 ポール・ランバートキャストティモシー・シャラメ(ポール・アトレイデス:公爵家の跡取り)レベッカ・ファーガソン(レディ・ジェシカ:ポールの母)オスカー・アイザック(レト・アトレイデス公爵:ポールの父)ジョシュ・ブローリン(ガーニイ・ハレック)ステラン・スカルスガルド(ウラディミール・ハルコンネン男爵)デイブ・バウティスタ(ラッバーン)ゼンデイヤ(チャニ)デビッド・ダストマルチャン(パイター・ド・フリース)スティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン(スフィル・ハワト)シャーロット・ランプリング(教母ガイウス・ヘレネ・モヒアム)ジェイソン・モモア(ダンカン・アイダホ)ハビエル・バルデム(スティルガー)チャン・チェン(ドクター・ユエ)シャロン・ダンカン=ブルースター(リエト・カインズ博士)バブス・オルサンモクン(ジャミス)2021年・155分・G・アメリカ原題「Dune」2021・10・26‐no100・109シネマズハットno5追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.10.30
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「湊川隧道到着!」徘徊日記 2021年10月12日 新湊川あたり 3 夢野の丘小学校から、学校の前の新湊川を覗くとこんなトンネルが見えます。洗心橋から西に歩いてきた突き当りの湊川隧道です。ここから会下山の下をくぐって房王寺町に抜けているトンネルです。 ちょっと橋の向こうに行ってみます。 赤いレンガの建物が見えますが、人が歩いては入れる隧道の入り口の建物で、その向こうの丘が会下山です。 建物や、トンネルが、案外新しいのは1995年の震災で大破したところを修繕したからですね。 これが「湊川隧道」の入り口です。毎年なのかどうかわかりませんが、年に一度くらい、ここを歩いて降りる催しがあるようです。 こちらが東の入り口なのですから、やっぱり西の出口も確認したいのですが「今日はちょっとなあ・・・」とか思っていると、会下山のほうから電車が通過する音がしました。 おや、神戸電鉄の電車です。 そういえば、神戸電鉄は新開地駅が始発で、二つめの駅、湊川駅を越えてずっと地下鉄なのですが、ここあたりで地上に出て、ここのすぐ北にある神鉄長田駅に向かう間、会下山の東の縁を走るのでした。 神戸を知らない人のために言うと、神戸電鉄というのは、新開地駅から六甲山を登って鈴蘭台駅まで行き、そこで分岐して、東はJR三田駅、途中で分岐して有馬温泉まで、西は播州の三木市、小野市を通ってJR粟生(あお)駅まで行く電車です。 車両は阪急のお古を塗り替えて使っていると評判でしたが、真偽のほどは知りません。なかなか、田舎臭い、味のある電車でぼくは大好きですが、あまり乗る機会はありません。 まあ、その電車が間近に走っているのですから、やっぱり写真ですね。 おお、上りの急行(?)電車と下りの普通電車が交差しています。こういうシーンって、写真で撮れるとうれしいですね。まあ、「何がうれしいのか?」と問われると困りますが(笑) 次にやって来た下りの急行電車です。湊川駅に向かうトンネルに入っていきます。 「そうだ、トンネルから出てくるところを撮ろう!」 まあ、そう思いますよね。 で、線路を越えてトンネルの出口まで歩きました。もちろんこの写真の少し先に線路の下をくぐる効果があってそこを通りました。まあ、ぼくの場合、渡れるなら線路を渡りかねませんが、ここは渡れません。 トンネルから出てきた、普通電車です。会心のショットですね(笑) いろんな駅とかで、電車の写真を撮っている「撮り鉄」さんを見かけて、「ようやるなあ!」とか思っていましたが、いい年をしたじーさんが、道沿いの金網によじ登り、縋り付いて電車の写真を撮っているのですから、人のことは言えませんね。 粟生行きの普通電車でした。後姿を見送って納得です。 そろそろ、兵庫駅方面に帰ろうかなというわけですが、もう少し歩いてしまいました。 じゃあ、今回はこういうことでバイバイ。実はつづきがあります。追記2021・10・30 徘徊の記事をアップしたところ、昔の教え子さんからコメントがあって、湊川隧道を歩いた写真が送られてきました。赤レンガの建物から入って隧道を歩く、昨年、2020年の企画に参加したそうです。 なんか、魅力的な写真ですね。ちょっと歩いてみたいと思いませんか。今年は応募者多数で締め切ったようですが、来年は…(笑)。
2021.10.29
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ナショナルシアター・ライブ「ウォー・ホース 戦火の馬」KAVC 先週に続けてのナショナルシアターライブ「WarHorse~戦火の馬」は数年前から、世界中で評判の舞台だそうです。 M・モーパーゴという方の原作で、「児童文学(?)」作品の舞台化だそうです。かなり意気込んでやってきたKAVCでしたが、期待を裏切らない舞台でした。 ナショナルシアターライブというプログラムは、実際の舞台の実写版の映画化で、まあ、ぼくのようなどこにも行く気のないくせに、お芝居とかが結構好きだったりする人間には絶好の企画なのですが、このお芝居は、幕が下りたときに、何とか、あのかぶりつきあたりでもう一度見たいと思ったのでした。 理由は明らかで、感動の主役が三人がかりで操っている「馬の人形」だからです。日本の古典芸能に人形浄瑠璃という、まあ、すごいものがありますが、あれと同じです。人形に命が宿り始めるのです。そりゃあ、やっぱり、すぐそばで見たいじゃないですか、とまあ、そんな気分でした。 貧しいアルバート少年の家に仔馬のジョーイがやってくる経緯を面白おかしく描く馬市のシーンから舞台は始まります。 舞台の上の人形のジョーイもまだ仔馬です。なんだか動きがぎこちないのが、少々心配です。 やがて少年アルバートの献身的な「仔馬育て」によって「ジョーイ」と名付けられた仔馬は「名馬」に育ってゆきます。ところが、その「ジョーイ」が、第1次世界大戦の戦場に軍馬として駆り出されてしまいます。 「ジョーイ」の身の上を案じる一心のアルバート少年は、年齢を偽り志願兵として出征し、戦場で馬を探します。 「馬」と少年アルバートとの出会いと別れ、そして奇跡的な再会の物語と言ってしまえば、まあそれだけのお話なのですが、舞台上では、馬が人形なのです。パペットというそうで、操り人形のことです。そこが芝居の面白さの肝だと思いました。スピルバーグが舞台に感動して映画にしたそうですが、おそらく舞台の感動とは違うと思いました。 このお芝居が始まった当初、見ているぼくはかなり冷静で、「ああ、この人形遣いたちが見えなくなったら、この芝居は成功なんだな」とか、余裕をかましていましたが、本当に見えなくなるのです(もちろん見えてますよ(笑))。 第一次大戦の戦場を舞台にしていますから、有名な塹壕を掘るシーンや、キャタピラのお化けのようなマーク1型戦車も登場します。まあ、そういう面白さもありますが、なんといってもパペットの馬が、生き物の「息」を始める舞台を、できればかぶりつきで見てみたいものです。お芝居と映画の違いについて、うまくいえるわけではありませんが、こういうところがやはり違うなと、つくづく思いました。きっと、生の舞台はもっとすごいに違いない、そう思いました。 映画の感想で言えば、もちろん、人形であることを忘れさせてくれたジョーイの演技と三人の馬使いに拍手!でした。演出 マリアンヌ・エリオット、トム・モリス原作 マイケル・モーパーゴ脚色 ニック・スタフォード主演 SIÔN DANIEL YOUNG上映時間 約175分(休憩あり)イギリス2021・10・18‐no96 KAVC
2021.10.28
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「夢野の丘小学校って?」徘徊日記 2021年10月12日 新湊川あたり 2 新湊川にかかっている洗心橋を過ぎてしばらく西に歩くと東山商店街の北の入り口あたりにやってきます。新開地通りの北の端ですね。 いつもならこのまま、東山商店街を南下して、新しくなった兵庫区役所の南、湊川公園で一服なのですが、この日は新湊川沿いに西に歩きました。 氷室橋とか熊野橋とかを越えてどんどん歩いていきました。 で、夢野橋というところまでやってくると小学校がありました。なんか昔ばなしみたいな口調ですが、なんとなく来たことがあるような記憶があります。 30年前に勤めていた職場が、この辺りの、もう少し西にありました。県立の高等学校だったのですが、教え子さんたちにはこの辺りの方もいらっしゃいます。ここの北側は夢野町という町だと思いますが、家庭訪問とかできたことがあるような、ないような。 校門に貼られているプレートを見ると小学校の名前は「夢野の丘小学校」でした。 「うん?聞いたことがないなあ。ここは会下山の東で、夢野町の南、うーん、そんな名前の小学校あったっけ?」 何となくうろたえながら、付近を見まわしていると記念の石碑をを見つけました。 30年前にここは「東山小学校」だったんです。どうも10年ほど前に地域の小学校が統合して、新しい名前になったようです。 一安心ですね。思い出巡りにの徘徊をしているわけではありませんが、なんとなくな記憶であっても、結構それを頼りに歩いているんですね。 校門の横の池では、なんだかりっぱそうな鯉が元気に泳いでいました。 最近の小学生は、こういうのを見ると、ちょっといじりたくなったりはしないでしょうかね。浅くて、いたずらには絶好なのですが。 で、この辺りの新湊川の様子はこんな感じです。 学校の前の橋から東の方を見ています。なんだかすごいビルの町みたいですが違います。どっちかというと「あたらしい」住宅地です。1995年の震災のあと増えた風景です。 で、今写真を撮っているところが、この日歩いながら、たどり着きたかったところです。新湊川の会下山トンネルの東側の入り口ですね。 ということで、次回は湊川隧道です。じゃあ、また覗いてみてください。
2021.10.27
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リドリー・スコット「最後の決闘裁判」OSシネマズミント リドリー・スコットという人は,今や巨匠と呼ばれる映画監督で、現役、映画に長くご無沙汰していたぼくでも「エイリアン」とか「テルマ&ルーズ」とかから、最近では「ゲティ家の身代金」とかでしょうか、結構見ている監督さんです。人気の監督さんなのでしょうね、今日はOSシネマズミントで上映中の「最後の決闘裁判」にやって来ました。 今回はヨーロッパの時代劇ですね。14世紀くらい、日本なら鎌倉時代くらいでしょうか。国王がいて、領主がいて、家来の騎士・従騎士がいるという時代設定で、領主の伯爵ピエール役がベン・アフレック、なんというか、伯爵に姑息に取り入る従騎士ジャック・ル・グリ役が、最近よく見かけるアダム・ドライバーで、まあ、実直な戦いの人で、戦闘の功績で騎士に昇格するジャン・ド・カルージュ役を、この人もどこかで見かけることのよくあるマット・デイモンです。 で、カルージュの美貌の妻マルグリットを演じているのがジョディ・カマーという女優さんです。意志的な表情の美しさが印象に残る女優さんで、名前を覚えそうです。 題名になっている「決闘」は、留守の間に妻を凌辱されたカルージュが、明らかに手段を弄してレイプに及んだジャック・ル・グリと「真実」を決するために闘うのですが、勝者が「神」が選んだ真実の体現者というわけです。まあ、そういう時代ということです。 見ながらめんどくさいなと思ったのは、「レイプ」に至る真相が、まあ、今風に言えば被害者である女性マルグリット、彼女の夫カルージュ、加害者ジャック・ル・グリの三者の視点から、三度繰り返されるのですが、違いが微妙でよく分からないんですよね。 要するに、加害者が主張する「合意」、まあ、双方からの「愛」なのでしょうね、があったかなかったかを描こうとしているようなのですが、この描き方の意図はいったい何なんでしょうね。 確か内田樹だったと思いますが、この監督の出世作「エイリアン」をネタにして、アメリカ映画の「ミソジニー」について論じていたと思いますが、それを思い出しました。 「愛」や「あこがれ」の心理の内面をさぐるといえば、聞こえはいいのかもしれませんが、同じレイプシーンを三度繰り返して映される被害者の、まあ、作り事とはいえ、苦痛を想像させる演出の意図に疑問を感じました。 だいたい、映画全体が妙に「マッチョ」な印象で、なんだか、めんどくさい手の込み方で、あんまりいい感じがしなかった作品でした。 とはいえ、戦闘シーンや、決闘シーンはリアルですし、アダム・ドライバーやマット・デイモンの、それぞれの「くそ男ぶり」の演技は、なかなかリアルでしたし、なんといっても「美しさ」で、哀しく、猛々しい内面を演じたジョディー・カマーには拍手!でした。監督 リドリー・スコット原作 エリック・ジェイガー脚本 ニコール・ホロフセナー ベン・アフレック マット・デイモン撮影 ダリウス・ウォルスキー美術 アーサー・マックス衣装 ジャンティ・イェーツ音楽 ハリー・グレッグソン=ウィリアムズキャストマット・デイモン(ジャン・ド・カルージュ)アダム・ドライバー(ジャック・ル・グリ)ジョディ・カマー(マルグリット・ド・カルージュ)ベン・アフレック(アランソン伯爵ピエール)ハリエット・ウォルターアレックス・ロウザーマートン・ソーカスナサニエル・パーカー2021年・153分・PG12・アメリカ原題「The Last Duel」2021・10・22‐no98 OSシネマズno12
2021.10.26
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イ・ファンギョン「偽りの隣人 ある諜報員の告白」シネ・リーブル神戸 週間限定公開とかで、すぐに終わるということでやってきたシネ・リーブルでした。実は住まいの二階あたりで改築工事中らしく、サンデー毎日の自宅ゴロゴロ生活の予定だったシマクマ君、頭上から直接響いてくる騒音に音を上げて逃げ出してきたのです。 でも、まあ、80年代からの「民主化」をテーマにした韓国映画! ということで、ちょっと期待してやってきました。 チラシにもありますが「タクシー運転手」とか、「1987、ある戦いの真実」とか、個人的な見方にすぎませんが、韓国映画の、ちょっとやりすぎで、どこか笑えて、それでいて「民主化」ということを正面から受け止めようとしているニュアンス がぼくは好きです。 今日の映画はイ・ファンギョン「偽りの隣人 ある諜報員の告白」です。 この作品もサスペンス仕立てではありますが、どこかコメディを強く意識している監督なのでしょうね、結構、シリアスでバイオレンスな展開を「笑い」で引っ張っている演出に笑ってしまいました。 やる気はあるけど、まっすぐにしか考えられない諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が旧式トイレの便壺から登場するのがスタートです。 まあ、この辺りから生真面目な「民主化」賛歌ではないことは予想できるわけで、結果的に最後まで結構笑わせてくれたところが好み映画でした。 まっすぐにしか考えられない諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が、外国帰りの大統領候補イ・ウィシク(オ・ダルス)の自宅を盗聴するとどうなるかというストーリーで、1970年代から続いた、朴正煕の政敵、金大中に対する弾圧をモデルにしているとすぐにわかるストーリーでした。 金大中が実際に交通事故を装って「暗殺」されかけたことは、今では公然の事実です。しかし、その事件の中で、彼の長女が殺されるということがあったのかどうかまではよく知りませんが、この映画の中では殺されてしまいます。 まっすぐにしか考えられない、愛国主義者の諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が、はっきりと上司に楯突き、「殺してこい」と命じられながらも、自らが盗聴している民主化大統領候補イ・ウィシク(オ・ダルス)を救うため、人間として「まっすぐ」に行動する契機になるのがその事件なのですが、この時代の後、民主化を支持した韓国の人々にとって、「タクシー運転手」の主人公がそうであったように、主人公の素朴な心情の描き方に「ほんとうの事」 を感じました。 最後のクライマックスシーンのカー・チェイスの最中、素っ裸になって路上を走り回る、主人公の「滑稽さ」と正直な「善意」の姿は、韓国の民主化の「強さ」と「弱さ」の両方を表している印象を持ちました。特にこの作品は「愛国」者が「民主」化を選ぶ姿を描くことで、「本当の愛国」を問いかけているのだろうと思うのですが、一抹の疑問が残ったことも忘れないでおこうと思いました。 マア、それにしてもシリアスと、漫才のような掛け合いの笑いを演じ、最後は裸になって頑張ったチョン・ウ(ユ・デグォン)に拍手!でした。監督 イ・ファンギョン脚本 イ・ファンギョンキャストチョン・ウ(ユ・デグォン)オ・ダルス(イ・ウィシク)キム・ヒウォンキム・ビョンチョル2020年・130分・G・韓国原題「Best Friend」2021・10・05‐no90シネ・リーブル神戸no124
2021.10.25
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「これが洗心橋」 徘徊日記 2021年10月12日 新湊川あたり その1 大倉山公園から神戸大学病院の北側を通って有馬街道に出ました。その道を渡って西に向かって荒田町の民家のなかの路地を歩いて東山商店街の北あたりにやってきました。川があって橋がありました。 「洗心橋」というそうです。名前の由来がプレートになっていました。 今はありませんが、この橋の北に「神戸監獄」があったそうです。で、そこを出所してくる人の更生を願ってこういう名がつけられたそうです。 この橋の下を流れているのは「新湊川」です。 河の上流をながめるとこんな風景です。 すぐそこに見えるのは六甲山の山並みですが、有馬街道の東の鍋蓋山あたりだと思います。川は深く掘られていて、水は案外綺麗です。烏原の貯水場を先日徘徊しましたが、水源の一つでしょうね。もう一つは有馬街道に沿って谷上あたりから流れてきている天王谷川ようです。 実はこの川は、現在ではここから西に向かって、会下山(えげやま)の下をトンネルでくぐり、JR兵庫駅と新長田駅の中間、長田神社の南を下り苅藻島あたりに河口があるのですが、その昔には、この洗心橋あたりから、まっすぐに南に下っていて、「兵庫の津」にそそいでいたようです。今の兵庫運河あたりでしょうか。 大学病院と新開地商店街のあいだに、歩いてきた荒田町という町がありますが、昔の「湊川」が繰り返し氾濫した地域なのでその名が付いたようです。 ずっと昔の話で言えば、南北朝時代の有名な「湊川の合戦」はこの川の、ここから見れば下流が主戦場だったわけです。だから、まあ、楠木正成と足利尊氏が戦った戦場の真ん中を歩いてきたというわけですね。 ここから西に流れているこの川が「新湊川」と呼ばれるようになった、大規模な治水工事は明治34年のことだそうです。 今やさびれてしまいましたが、かつて淀川長治が愛した映画の町「新開地」という繁華街も荒田町と同じく、「旧湊川」を埋立てて「新湊川」を兵庫、長田の町を大きく迂回して掘った結果生まれたようです。だから「新開地」なのですね。 「洗心橋」のこの石碑は、そういう歴史の分岐点に立っているということのようですね。 さて、下流をながめるとこんな感じです。 子供たちが水遊びをしています。川が結構深いことをお分かりいただけるでしょうか。向うに見えるのが会下山です。川沿いにもう少し歩いてみようと思います。じゃあ、また。
2021.10.24
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「秋のモスラ」 ベランダだより 10月17日 10月の10日を過ぎて、なんだか急に「涼しい」を通り過ぎて「寒く」なってきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。 ぼくは「キアゲハ」のお母さんに産んでもらった「モスラ君」です。まあ、お母さんもあせったのでしょうね、9月の下旬は秋風が吹き始めてはいましたが、まだ暖かかったですから「まだまだ大丈夫!」と思って生んでくれたのでしょうが、ここの所、朝夕すっかり冷え込んで、ぼくたちも大変です。 とはいうものの、生きるためには、ここは頑張らなくてはなりません。さいわい、このチッチキ農園には、実こそなっていませんが、大好きなミカンの葉っぱが茂っていますからね。ほら、ぼくの右下のほうで弟の蝶吉がゴソゴソしていますがご覧になれますでしょうか。この農園では、他にも10月生まれの兄や姉、弟や妹ががんばっております。ちょっと紹介しますね。 これが兄の蝶太郎です。長男なのですが、愛想がありません。写真のときぐらいカメラを見ろといつも言っているのですが、我関せずです。 並んでよじ登っているのが姉の蝶代と花代です。双子です。二人でいつも一緒に食べています。効率が悪いのですが、仲良しなんですね。 弟の蝶十郎です。やっぱり愛想がありません。暗いところでゴソゴソ暮らしています。 次兄の蝶吉です。性格は明るいのですが暗いところが好きです。 弟の蝶八郎と蝶九郎です。二人でこの植木鉢を食べつくしてしまったのですが、まだ頑張っています。夜のあいだにこっちの植木鉢へ、まあ、これが苦労なのですが、移住してくるとは思うのですが、なんといっても、移動手段はこの短い足(?)しかありませんからねえ。 あ、ぼくの名前ですか?はい、蝶助です。このベランダ農園に時々カメラなんか持ってやってくるシマクマさんとおっしゃる方は、ぼくらのことを「モスラ、モスラ」とお呼びになっているのですが、一応、親がつけてくれた名前はあるのです。 ああ、これが妹の蝶子です。よく肥えていますね。家族一の食いしん坊なんです。 それからこれは末っ子の蝶作です。お調子者ですが、要領もいいので長生きしてくれると思います。 母親ががんばって生んでくれたのはいいのですが、これからが大変です。寒さもさることながら一番恐ろしいのはヒヨドリ一家の殴り込みです。 情けないことに食べるよりほかに芸のないぼくたちには戦うすべがありません。なにせ、突然の空襲で身を隠すこともできず、相手は情け容赦がありません。一網打尽とか、ジェノサイドとか、そういう言葉があるそうですが、ぼくたちにとっては現実です。 神様がいらっしゃるならお祈りするしかありませんね。皆様も、どうか、ぼくたちの幸運を祈っていただきたいと思います。 それではまたどこかでお会いいたしましょう。さようなら。
2021.10.23
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「これが教育勅語の象徴だそうです。」 徘徊日記 2021年 大倉山公園 「教育勅語」ってご存知でしょうか。詳しくは知りませんが、正式には「教育ニ関スル勅語」というそうです。明治23年、1890年に「下賜」された、勅語ですから「天皇」の「言葉」いや「命令」というべきでしょうか。一言ではありませんから「言葉集」ですね で、この「塔」というか、「石碑」は、その30年後に立てられたもののようで、なんと、今からちょうど100年前です。大正9年のことですね。 「形がなんだかなあ」とちょっと呆れますが、中央に浮き彫りされている文字は「克忠克孝」です。勅語の中からの引用で「克(よく)忠(ちゅうに)克(よく)孝(こうに)」と読むようです。 意味は「忠、孝に励め」ということでしょうか。ちなみに「忠」は、君臣関係における、「孝」は親子関係における、まあ、儒教の徳目で、それぞれ、臣から君へ、子から親への「真心」ということです。 後ろに回るとこんな感じです。 とりあえず、この形を思いついた時代というか、社会というか、そのあたりの人びとというかに「よくもまあ恥ずかしげもなく」という印象なのですが、最近、「こういうものが必要だ」と、いけしゃあしゃあと口にする人がいるようですが、どうなっているんでしょうね。 まあ、とは言うものの、最近、女子大生さんと「論語」を読んでいたりしているのですが、「親孝行をちゃんとしたい」とか、こっちがうろたえるようなことをおっしゃるのを聞くこともあって、まあ、そのあたりに「いけしゃあしゃあ」が跋扈する理由もあるのかもしれません。 公園の公孫樹並木も、いよいよ秋です。 お年寄りのカップルが絵をかいていらっしゃいました。さすがにそれを撮るのははばかられて、黄葉した公孫樹を撮りました。ちょっと覗かせていただいた「絵」のほうがずっと良かったですよ。 さて、元町からたどり着いたのですが、今日はちょっと北の方へ歩いてみようと思っています。まあ、まだ早いので、JR兵庫駅あたりに、夕方につければいいのです。
2021.10.22
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メリーナ・レオン「名もなき歌」元町映画館 ペルーの映画でした。メリーナ・レオンという女性監督の作品だそうです。ペルーと言われても、インカ帝国とマチュピチュくらいしか思い浮かばないのですが、映画は現代のペルーを舞台にしたサスペンス仕立てでした。 1988年のペルーであった実話を描いた作品だそうです。 何も知らず産院で出産した新生児を、そのまま奪われてしまうという、今の「日本」社会でのほほんと生きている目から見れば、「なんのことかわからない出来事」 が映画の発端でした。 被害者が、いわゆる「ネイティブ」、「先住民」で、貧しく、若い女性であり、犯罪者は時の権力の向こう側に身を隠しているという構造を暴く作品でした。 1980年代というのは高度経済成長に浮かれる、たとえば「日本人」が、それはぼく自身のことでもありますが、流行りの「文化人類学」や「社会学」の報告として、旧世界の、社会のありさまにたいして、エキゾチックな関心を抱いた時代でしたが、そこに描かれているアジアやアフリカの「発展途上国」の政治的・経済的な実情については、遠い世界の「闇」として、あくまでも「他人事」ととして驚いたり同情したりしていたにすぎなかった「ほんとうの事」 が、この作品では現実の出来事として告発されていました。 子供を奪われたへオルヒナ・コンドリ(パメラ・メンドーサ・アルピ)が暮らす、ペルーという国の旧社会、先住民の貧困の描写が印象的ですが、中でも、彼女が奪われた赤ん坊を抱きしめる想像の中で歌う「名もなき」子守歌のシーン、犯罪者が隠れるドアの向こうの闇に向かって「子供を返せ!」 と叫びながら叩くシーンは圧巻でした。 モノクロでスタンダードの画面で映し出される「古典」を思わせる映像がメリーナ・レオンという監督の映画的な趣味の良さというか、教養の正統性を感じさせる作品でした。 ネット上の写真とインタビューを見ただけの憶測ですが、おそらく「先住民」の一人であり、女性である監督が「先住民に対する抑圧や差別」のみならず、「女性蔑視」や「経済格差」、「貧困」に対する静かな「告発」 の武器として映画を撮り始めた記念碑的な作品になると思いました。 「名もなき子守歌」を歌いながら、奪われた赤ん坊を思う若い母親を素朴に演じたパメラ・メンドーサ・アルピという女優さんに拍手!でした。監督 メリーナ・レオン脚本 メリーナ・レオン マイケル・J・ホワイト撮影 インティ・ブリオネス美術 ジゼラ・ラミレス音楽 パウチ・ササキキャストパメラ・メンドーサ・アルピ(へオルヒナ・コンドリ:子供盗まれた女性)トミー・パラッガ(ペドロ・カンポス:新聞記者)ルシオ・ロハス(レオ・キスぺ)マイコル・エルナンデス(イサ)2019年・97分・ペルー・フランス・アメリカ合作原題「Cancion sin nombre」2021・10・11‐no91元町映画館no88
2021.10.21
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「ここはあの映画の!」 徘徊日記 2021年10月12日 元町あたり なんだか、薄汚い通路の写真で申し訳ないのですが、シマクマ君は、ちょっと喜んでいます。このブログを始めて以来、おそらくもっとも「なんだかな」の写真です。 実は、この夏、いつもお世話になっている元町映画館の企画作品「まっぱだか」という映画を観ました。 この映画ですが、映画の主人公二人が、明け方、座りこむ場所がここなのです。で、いい年をしてアホですが、うれしがってやって来たというわけです。 まあ、神戸の方にしかわからないでしょうが、西元町のJR沿いの二本の道路を渡り、JRの高架をくぐる不思議な歩道橋の現場写真です。 南側に少し離れて見るとこんな感じで、247と番号が振られているコンクリートがJRの高架の側面です。向こうの、奇妙な塔は浄土真宗のお寺です。 北側から見るとこんな感じ。歩道橋が高架の下でいったん下がり、また階段であがっています。真ん中の暗い部分が最初の写真です。高架のコンクリートは汚れていますが、ぼくはこの風情が結構すきです。 南側から見た高架の柱です。何やら修繕の指示が書き込まれています。まあ、老朽化したコンクリートそのものです。 下から眺めればこんな感じです。JR神戸線、イヤここはまだ東海道線かな?北側の北長狭通東向きの一方通行のほうから見た写真です。高架の下はモトコー5あたりの商店街の建物です。この歩道橋を人が歩いているのを見た記憶はありませんが、なかなか味のある建造物です。追記2021・10・23 昨日通りかかったので北長狭通の西向き一方通行、JRの高架の南側からの写真を撮ってきました。神戸の元町5丁目、商店街の北側の道です。ぼくは好きでよく通るのですが、殺風景ないい風情を感じませんか。ボタン押してね!
2021.10.20
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スザンナ・ニッキャレッリ「ミス・マルクス」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていて「インターナショナル」が、ちょっとロック調な編曲で聞こえてきて「おっ、インターや」とか思ってやってきました。 この歌はフランス語では「L'Internationale」というそうですが、パリ・コミューンあたりで歌われ始めた歌だそうです。今年2021年の夏に見たのですが、スペイン市民戦争を舞台にした「ジョゼップ 戦場の画家」というアニメの中で「ワルシャワ労働歌」という歌が歌われていて、まあ、懐かしさの余りだと思いますが、思わず涙したのですが、二匹目のどじょうを狙ってやってきたというわけです。 カール・マルクス、この名前を聞いてワクワクするなんて言う人は、まあ、研究者ならいざ知らず、いくら若くても還暦ゴールを切った人ばかりだろうと思いますが、その中でも若いほうだと自賛しながら、結構ワクワクしてやってきました。「マルクスの娘かあ!?あんまり幸せな人生だった気はしないなあ」そういう関心もありました。 スザンナ・ニッキャレッリというイタリアの女性の監督の作品でした。映画の構成の骨として、ショパンのようなクラッシク音楽、インターナショナルのような労働歌、ダウンタウンボーイズが歌うロックミュージックの三通りの音楽を使っているところが独特でしたが、展開がパターン化してしまったという感じがしました。 問題の「インターナショナル」は、映画のなかでは伴奏なしで素朴に歌われていて、印象的ではあるのですがインパクトに欠けるきらいがあったと思いました。 映画は、例えば子供たちに重労働を課す、19世紀の「原」資本主義の社会に異議を唱える社会主義者「ミス・マルクス」の不幸を現代的なフェミニズムの観点から描いているところが新しいと思いました。 もっとも、彼女の周囲の「男性」たち、父マルクスから、夫エイブリングに至るまで、全員、立つ瀬なしというか、まあ、時代の人たちなのですが、そのことが、かえって1970年代の女性解放運動がすでに指摘していた問題が、何一つ解決していない「現代」を浮き彫りにしている印象でした。 ホント、どうなっているのでしょうね。 社会主義者として生きることを運命づけられているかに見える「ミス・マルクス」の孤独を美しく、気高く演じたロモーラ・ガライに拍手!でした。監督 スザンナ・ニッキャレッリ脚本 スザンナ・ニッキャレッリ撮影 クリステル・フォルニエ美術 アレッサンドロ・バンヌッチ イゴール・ガブリエル衣装 マッシモ・カンティーニ・パリーニ音楽 ガット・チリエージャ・コントロ・イル・グランデ・フレッド ダウンタウン・ボーイズキャストロモーラ・ガライ(エリノア・マルクス:マルクスの三女)パトリック・ケネディ(エドワード・エイヴリング:夫)ジョン・ゴードン・シンクレア(フリードリヒ・エンゲルス)フェリシティ・モンタギュー(ヘレーネ・デムート:マルクス家の家政婦)2020年・107分・PG12・イタリア・ベルギー合作原題「Miss Marx」2021・10・15‐no95 シネ・リーブル神戸no123Susanna Nicchiarelli 1975年、イタリア・ローマ生まれ。短編映画やドキュメンタリー映画を数本監督した後、2009年に『コズモナウタ 宇宙飛行士』で長編監督デビューを果たし、ヴェネツィア映画祭コントロカンポ・イタリアーノ部門で受賞、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で新人監督賞にノミネートされる。
2021.10.19
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「信州から秋がやってきました。」ベランダだより 9月30日 信州、松本に暮らしている、ゆかいな仲間のカガクンから秋のプレゼントが届きました。「葡萄」です。お友達の農園の作物だそうです。皮ごと食べられるとか、種なんてないとか、ブドウも進化して、夕食の後に食べながらただひたすら驚いています。 夏が始まったころには西瓜が届いたときには、 「アカンアカン、食べきられへん。」 「冷蔵庫に入りきらないわ。」 と大騒ぎでしたが、ちゃんと食べきりました。 いつの間にかブドウの季節です。もう秋なんですねえ。 そういえば、今年、我が家の夏の終わりのブームはこちらでした。 明石の朝霧堂というお餅屋さん、イヤ、和菓子屋さんの「水まんじゅう」です。ぼくにはなにでできているのかよくわからないのですが、つるんとした口当たりの冷たい、たぶん葛のおまんじゅうなのですが、何とも言えない柔らかな甘さです。 夏の終わりにはこういう来訪者もありました。 いつの間にか部屋に入ってきて、じっとしていらっしゃるので、モデルになっていただきました。アブラゼミさんです。なんか、お別れにいらっしゃったようで、もちろんこの後はベランダからサヨウナラしていただきました。静かに去ってゆかれました。 夏が終わって秋になったんですね。ボタン押してね!
2021.10.18
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「やあ、やあ、おひさしぶり!」徘徊日記2021年10月6日 太山寺あたり「おーい、お仕事帰りにコープの横のコンビニの駐車場で待ってるよお!」 おひさしぶりのお友達FUKUSIMAさんからお電話です。 どっかの高校生に算数を教えるお仕事はお昼に終わるらしくて、その帰り道、近所までお出迎えしていただいて、喜び勇んで駆け付けた駐車場で待っていた新車のアクアに同乗すると、待ってましたとスタートしました。今日はトボトボ徘徊ではありません。「ちょっと、このご時世やから、ここはエエナというとこ行くで。」「うん、ぼくは公園のベンチでもええで。」「太山寺や。」「太山寺って学園都市の向こうかいな?なんや、お寺参りかいな?」「いや、喫茶店やで。」 到着したのが上の石碑のお寺で、お寺のまえが喫茶店、イヤ、喫茶場でした。 太山寺珈琲焙煎室、コヒー豆屋さんの庭が喫茶スペースなんですね。 向かいのお寺は、おそらく太山寺というお寺のなかのお寺でしょうね。龍象院というお寺のようです。 ちょっと向こうに、三重塔が見えますが、写真を撮り忘れたのはいつものことですね。お寺の周りには、最初の石碑とか、いろいろあって、喫茶場からそれが見えます。 喫茶場のなかにも石碑なのか、ただの石なのかわかりませんがいろいろあって、鳥の巣箱とか置いてあります。 なんだかいい風情です。喫茶場の様子はこんな感じです。 お客さんの姿が写っていませんが、偶然です。自転車で乗り付ける人とか、次々とやってきて、結構、流行っていますが、この雰囲気ですから、人が集まっているからといって不安になることはありません。コーヒーは紙コップですが、お味はさすがです。 まあ、問題はお天気ですね。雨の日は無理でしょうね。この日は快晴で、日陰が涼しいのがいい心地でした。 一人徘徊だと思いつかないところですが、旧友再会にはぴったりでした。積もる話で、町の喫茶店ではありえないノンビリのおしゃべり会で、月一の再会を新たに約束して、再びアクア号でピューっと帰ってきました。自動車って便利ですね。(笑)ボタン押してね!
2021.10.17
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キャリー・ジョージ・フクナガ「No Time to Die」OSシネマズミント神戸 普段はこういう人が集まりそうな映画はあまり見ません。このご時世ですから、お客さんが多いというのがまずネックです。 ショーン・コネリーがジェームス・ボンドの頃は(古い話で申し訳ありません)、名画座でまとめてみました。イアン・フレミングの原作も一時はまって読みました。最近、そういう企画にお目にかからないというか、3本立て4本立てをやるような名画座そのものがなくなっってしまいました。原作もフレミングとはかかわりない感じで、感心もわきません。007から遠く離れた感じで、本当にご無沙汰です。 ところが、「ダニエル・クレイグのボンドはこれが最後」と聞いて、「見ておこう」と思いました。実は「スカイ・フォール」という、この人のボンドの二作目を同じOSシネマズミントで見たことを思い出したからです。 もう10年ほども前の話ですが、学生の頃から映画とかお芝居とか、いろいろ教えてもらってきた友人に誘われてみました。 で、記憶に残ったのが、始まってすぐのカー・チェイスのシーンと、M役だったジュディ・デンチという女優さん、そして、何処から見てもロシアのスパイにしか見えなかったダニエル・クレイグというボンド役の、なんというか、愛想の悪さでした。 数年前から、映画館を徘徊しはじめて、ジュディ・デンチは、すっかりお気に入りになりましたが、ダニエル・クレイグとは一度も出会いませんでした。「ダニエル・クレイグをもう一度見ておいてもいいな。」 まあ、そんな気分で、あんまり来ないミントにやってきました。 最初のサスペンス・シーンからカー・チェイス・シーンまで、やっぱり、結構どきどきしました。風景もさすがです。007の懐かしいテーマも流れてきますし、アストン・マーチンのヘッドライトの機関銃も炸裂して実に楽しい展開でした。 ヒロインのマドレーヌ役のレア・セドゥーという女優さんが案外地味だなとか、勝手なことを思いながら、一方で、ボンド役のダニエル・クレイグさんを見て「ああ、あれから10年たったんだな。」とかしみじみしながら見ました。当たり前のことですが、役者さんの生身も年を取るのですよね。 まあ、最後の作品らしいラストで、「ええ、ホントにそれでいいの?」とか思っていると、字幕かなんかで「ボンドはまた帰ってくる」とかなんとか出てきて、笑ってしまいました。 なんといっても、客を飽きさせないし、流行りの病原体ホラーだし、ホント、うまいものですね。まあ、なんといっても、ちょっとイギリスのスパイっぽくなったダニエル・クレイグに、ごくろうさん!の拍手!でした。監督 キャリー・ジョージ・フクナガ脚本 ニール・パービス ロバート・ウェイド キャリー・ジョージ・フクナガ フィービー・ウォーラー=ブリッジ撮影 リヌス・サンドグレン美術 マーク・ティルデスリー衣装 スティラット・アン・ラーラーブ音楽 ハンス・ジマー主題歌 ビリー・アイリッシュキャストダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)ラミ・マレック(リュートシファー・サフィン)レア・セドゥー(マドレーヌ・スワン)ラシャーナ・リンチ(ノーミ)ベン・ウィショー(Q)ナオミ・ハリス(マネーペニー)ジェフリー・ライト(フィリックス・ライター)クリストフ・ワルツ(ブロフェルド)レイフ・ファインズ(M)アナ・デ・アルマス(パロマ)ビリー・マグヌッセン(ローガン・アッシュ)ロリー・キニア(タナー)デビッド・デンシック(ヴァルド・オブルチェフ)ダリ・ベンサーラ(プリモ)リサ=ドラ・ソネット(マチルド)2021年・164分・G・アメリカ原題「No Time to Die」2021・10・15‐no94・OSシネマズno11
2021.10.17
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週刊 読書案内 ト二・モリスン「他者の起源」(集英社新書) 2021年の夏から秋にかけて「サマー・オブ・ソウル」とか「ビリー」といった、アメリカの黒人差別をテーマの一つにした、印象的な映画を観ました。で、市民図書館の新刊の棚で出会い、なんとなく手に取ったのが、2019年に亡くなったノーベル文学賞の女性作家ト二・モリスンの講演集「他者の起源」(集英社新書)でした。 差別やヘイトの「起源」をえぐる鋭さもさることながら、「自己」、「他者」という「ことば」の奥へ踏み込む思考の深さに目を瞠る思いでした。 姉とわたしは床に座り込んで、ふたりで遊んでいたのだから、あの人がやってくると聞いたのは、一九三二年か三三年だったのだろう。わたしたちの曾祖母ミリセント・マクティアのことだ。曾祖母は、このあたりに住む親類の家一軒一軒を訪ねる予定で、このときの訪問は後にもよく話題にのぼった。曾祖母はミシガンに住んでいて、腕利きの助産婦だった。オハイオ訪問は、みんなが待ち望んでいたことだった。というのもわたしたちの曾祖母は賢い人で、疑いもなく一族郎党の立派な要と見なされていたからだった。部屋に入ってきた途端、これまでに経験したことがないことが起き、曾祖母の威厳は本物だとわかった ― だれも何も言わないのに、男たちはみなすぐに立ち上がったのだ。 親類をひととおり訪ね終わった後、曾祖母はとうとうわが家の居間へ入ってきた。背が高く背筋はぴんと伸び、必要とは思えなかったが、杖に寄りかかりながら、わたしの母親に挨拶した。それから、遊んでいたのか、または床に座っていただけの姉とわたしを見て顔を曇らせると、杖でわたしたちを指しながら、こう言った。「この子たち、異物が混入しているね」。母親は猛烈に抗議したが、時すでに遅し、破壊行為はなされてしまった。 曾祖母は漆黒の肌の持ち主で、母親には曾祖母の言葉の意味がはっきり分かっていた。母親の子供のわたしたちの血は汚れていて、純潔ではないと。(「奴隷制度のロマンス化」冒頭) 本書はトニ・モリスンのハーバード大学での講演集ですが、そのひとつめの講演「奴隷制度ののロマンス化」はこんなふうに語りはじめられます。 本書には六つの講演が収められていますが、キーワードは、本そのものの表題にも取り上げられていますが「他者化」です。 その「他者化」とはいったいどういう概念なのか、ぼくのような読者はそこを読み取りたい一心でページを繰るわけですが、すぐにこんなふうに使用されて、納得がいきます。 科学的人種主義者の目的の一つは、「よそ者」を定義することによって自分自身を定義すること。さらに「他者化されたもの」として分類された差異に対して、何ら不真面目を感じることもなく、自己の差異化を維持(享受さえ)することである。(中略) いかにしてわたしたちは人種差別主義者や性差別主義者になるのか?生まれながらの人種差別主義者はいない。胎児のときから性差別主義的傾向があるわけでもない。講義や教育ではなく、前例によって私たちは「他者化」を学ぶのである。 最初に引用した、「この子たち、異物が混入しているね」という彼女の曾祖母の発言が内包している意識、単に、みずから「白人」だと考える人たちによる「有色人種」に対する「差別」を越えた、いわば普遍的な「差別」に対するトニ・モリスンの「視座」として「他者化」という概念が据えられています。 「私」に対して、何のこだわりもなく「あなた」や「彼女」というとらえ方を「自己と他者の認識」の思考の基準にしていたぼくが一番驚いたのはここでした。 たとえば、ぼくが、なにげなく「わたし」と、一見、個人的に自己規定するときに、その自己、「わたし」は気づかないまま「わたしたち」の上に乗っかっていて、「あなた方」や「彼ら」を排除しすることで、安定した自己認識、いわば「自尊心」をこっそり育てていたり、「わたしたち」という集団に対する「依存心」に寄りかかったりしているということを指摘した概念だと思いました。 ト二・モリスンが、曾祖母の発言に、この「排除の思想」を読み取ったところがすごいと思いませんか。 本書は、アメリカにおける人種差別を批判するにとどまらない、いわば「自己」を確認することが「他者」を捏造し続けることによって、一見、穏やかでリベラル(?)な思考のなかに「他者の排除」が潜んでいる可能性を指摘しながら、さまざまな「差別」や「ヘイト」の根源を照らし出す、まさに、鬼気迫る発言集だとぼくは思いました。 それにしても、トニ・モリスンも、もう、この世の人ではないのですね。実は、そのことだって。本書手にとって初めて気づきました。もう少し、世間に関心を持たないとだめですね。ヤレヤレ・・・・。
2021.10.16
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ナショナル・シアター・ライブ『メディア』KAVC 久しぶりのNational Theatre Liveです。コロナ騒ぎのの余波ということなのか、単にプログラムを見損じているボンヤリのせいなのかわかりませんが、1年以上見ていなかった気がするのですが、今日は勇んでやってきたKAVC、神戸アートビレッジセンターです。 演目はギリシア悲劇、エウリピデスの「王女メディア」です。怒りだか嫉妬だかに狂い、わが子を殺す王女の話ですが、そのメディアを演じるのはヘレン・マックロリーというイギリスの女優さんです。 彼女がこの役でこの映画の舞台に立って、評判をとったのは2014年です。ところが、そのヘレン・マックロリーが、今年、2021年の4月に52歳という若さで亡くなってしまったのです。で、その追悼プログラムとして再上映されたのが、今日の「メディア」です。 古典演劇なのですが、現代的な構成で、ギリシアの神話的な悲劇というよりも、現代の「家庭劇」のおもむきで展開していました。 口から出まかせで、どうも、その場の自己都合で生きている夫と、そんな男のために家族も兄弟も捨ててきた妻という関係ですが、去った夫が、今、最も愛する「あたらしい女性」と、夫との間に出来た「二人の子供」を殺すということで、裏切りに対する「復讐」を実行するという「心理」は、とても家庭劇のサイズでは収まらないですね。そこがこのお芝居の見どころの一つだったと思います。 その、「夫」の浮気に見捨てられ、凡庸な家庭不和のなかに取り残された「妻」であった女性が、一気に、復讐鬼というか、魔性の女というか、「神話」の高みへと駆け上っていくところを見事に演じたヘレン・マックロリーという女優の演技がすごかったですね。 当たり前ですが、あんまり現実的ではない、どちらかというと象徴性に満ちた「嫉妬」なのですが、本当に怒った女性の恐ろしさを堪能しました。 それは、ぼくが「おとこ」であるからなのか、単に気が弱いからそう感じたのかどうかわかりませんが、お芝居のラストあたりで「いや、これで、本当に、愛する、まだ幼い二人の息子を彼女は殺せるのだろうか」と、いぶかしんでいると、暗転した舞台に悲鳴がとどろき、血まみれのメディアが再登場した、その形相に、イヤ、ホント、震えあがりましたね。 お芝居にはカーテン・コールという挨拶の儀式がありますが、ヘレン・マックロリーが血まみれの衣装で、笑いながら登場したのを見て、もう一度、震える気分でした。 「いやあ~化けるもんですねえ。」 それにしても、いい女優さんですね。亡くなったことが、本当に残念です。あまりにも若くなくなってしまったヘレン・マックロリーという女優さんを悼みながら、拍手!演出 キャリー・クラックネル ロス・マクギボン原作 エウリピデス脚本 ベン・パワー音楽 アリソン・ゴールドフラップ ウィル・グレゴリーキャストヘレン・マックロリー(メディア)ダニー・サパーニ(ジェイソン)ミカエラ・コール(ナース)マーティン・ターナードミニク・ローワン2014年・99分・G・イギリス原題:National Theatre Live: Medea2021・10・11‐no92・KAVC
2021.10.15
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ジェームズ・エルスキン「BILLIE ビリー」元町映画館 ビリー・ホリデイーという名前を聞いて、「おっ!」 と思う人が、まあ、ジャズのファンとかは別にして、30代、40代の方でそんなにいらっしゃるのでしょうか。 1915年生まれで、1940年代、第二次世界大戦の終わりごろから、戦後のアメリカで、10数年間、ジャズボーカリストとして名を馳せた女性ですが、1959年、薬と酒と暴力にさらされて、44歳、あまりにも痛ましい生涯を終えた人だと、なんとなく思い浮かべるのが、たぶん、ぼくと同世代、60代の後半の人じゃないでしょうか。 まあ、ぼくにしたところで、学生時代、1970年代だったと思いますが、「奇妙な果実」という題で、あの大橋巨泉が訳した、たぶん自伝と銘打たれていた本が晶文社から出版されて、友だちの書棚に並んでいたその本を読んだのが出会いで、「奇妙な果実」という曲に興味を持ちました。 当時は、今のように聞きたい曲をその場で聞くことができるなんて時代ではなくて、その「奇妙な果実」を聞くために、ジャズ・マニアの下宿を訪ねてLPをかけてもらったりしたことが記憶の片隅にありますが、それっきりでした。 そのビリー・ホリデイを撮ったドキュメンタリーのチラシを見ていて、心が動きました。 映画は『BILLIE ビリー』です。「She song the truth,she paid the price.」 と副題がついていました。「彼女は本当のことを歌い、その代償を払った。」くらいの意味でしょうが、「she paid the price(代償を払った)」の所に引っ掛かりました。 チラシによれば、映画化の経緯はこうでした。 女性ジャーナリスト、リンダ・リプナック・キュールが1960年代から10年間かけて関係者にインタビューを重ね、時には何者かに妨害されながらもビリーの伝記を書き上げようと尽力した。しかしリンダも志半ばにして不可解な死を遂げてしまう。この度リンダが遺した200時間以上に及ぶ録音テープが発見され、ビリーの貴重な映像とともに構成されたのが、このドキュメンタリー映画『BILLIE ビリー』である。 で、火曜日の元町映画館にやって来たわけです。 堪能しました。「奇妙な果実」を歌うビリー・ホリデイを初めてじっくり聞くことができました。Strange FruitSouthern trees bear strange fruit,Blood on the leaves and blood at the root,Black bodies swinging in the southern breeze,Strange fruit hanging from the poplar trees.Pastoral scene of the gallant south,The bulging eyes and the twisted mouth,Scent of magnolias, sweet and fresh,Then the sudden smell of burning flesh.Here is fruit for the crows to pluck,For the rain to gather, for the wind to suck,For the sun to rot, for the trees to drop,Here is a strange and bitter crop. 字幕で翻訳がついていますから、意味は一緒に理解できます。歌っているビリーの姿の映像も、もちろん、くっきりとしていますが声の素晴らしいです。「 the poplar trees」の所で、声が跳ねるように聞こえたのが印象駅でした。 ビリーの歌唱シーンはこの1曲だけではありません。ちょっと、お宝映像の公開のように何曲も出てきます。それぞれが、何の違和感もない美しい音響と映像です。会話のシーンもですが、ビリーの声と表情のすばらしさが堪能できる作品でした。こういうところが、現代の「技術」なのだと感心しました。 そこに、リンダ・リプナック・キュールの録音したインタビューが重ねられていきます。この録音の音響も明快です。 アメリカ社会の「本当のこと」を歌ったビリー・ホリデーがどんな「代償」を支払わされたのか。ビリーの死の20年後、謎の死を遂げたリンダ・リプナック・キュールが、ビリーが生きた社会のどんな「本当のこと」に迫っていたのか。彼女をビリー・ホリデーに向かわせたのは何だったのか。この映画がイギリスの監督によって取られたのは何故なのか。 映画全体がミステリーとしてのドキュメンタリーとして構成されていることにも堪能しました。 「Don’t Explain」という名曲で映画を終わらせている ジェームズ・エルスキン監督は、なかなかやるなという印象で見終えました。 それにしても、リンダ・リプナック・キュールのインタビューに登場するのがトニー・ベネット、カウント・ベイシー、アーティ・ショウ、チャールズ・ミンガス、カーメン・マクレエといった錚々たるアーティスト、ビリーのいとこや友人、ポン引き、彼女を逮捕した麻薬捜査官、刑務所の職員まで多岐にわたっていることに唸りますが、おそらく、この映画の制作過程で掘り起こされたに違いないリンダ・リプナック・キュールのホーム・ムービーや、生存している妹の証言まで、実に丹念に作っている印象です。 懐かしのビリー・ホリデーの実像みならず、アメリカ社会のサスペンスを描いて納得の作品でした。 まあ、しかし、やっぱり歌うビリー・ホリデーに拍手!ですね。監督 ジェームズ・エルスキン脚本 ジェームズ・エルスキン撮影 ティム・クラッグ編集 アベデッシュ・モーラキャストビリー・ホリデイリンダ・リップナック・キュールシルビア・シムズトニー・ベネットアーティ・ショウチャールズ・ミンガスカーメン・マクレエ2019年・98分・G・イギリス原題「Billie」2021・10・12‐no93 元町映画館no89
2021.10.14
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週刊 読書案内 耕治人「天井から降る哀しい音」 (講談社文芸文庫) 講談社文芸文庫に「一条の光・天井から降る哀しい音」という耕治人という作家の短編集があります。特に、最晩年の妻との暮らしを書いた「天井から降る哀しい音」、「どんなご縁で」、「そうかもしれない」は、「命終三部作」と呼ばれているそうですが、最近、60代の後半になって読み返して、他人事ではなくなっていることに、ちょっとビビりました。 もっとも、これを書いた時に、作家耕治人は80歳くらいですから、何がかは分かりませんが、まだ、大丈夫です。 今回は「天井から降る哀しい音」の案内です。 台所と六畳の部屋のあいだに板の間があって、テーブルを隔て、二つの椅子が向かい合っている。そのテーブルで食事をとるが、新聞を読んだり、原稿をかいたりすることもある。 今年の夏は何十年ぶりの暑さというが、九月に入っても残暑はきびしく。昼頃になると、額にあぶら汗がにじみ出た。クーラーが故障して、使えなくなったせいもある。ところがその日は前日までの暑さが嘘のように秋を感じさせるようなさわやかな風が、朝から吹いた。「あと五日すると敬老の日だね。いろいろ行事があるようだ。今朝の新聞に出ていた。 昼食のあとで、狭い庭の方へ眼をやりながら、そんなことを言うと、家内が、「昨年の敬老の日はどうだったのかしら」「さあ、覚えていないね」「去年の夏は南瓜をよく煮たわねえ」「そう言われると、そんな気もする」「しばらく煮ないから、今日あたりどうですか。南瓜はあなたの身体にいいのよ」 遠慮がちに家内が言い出した。(p103~104) これがこの作品の書き出しです。会話をしているのは、お互いに80歳を目の前にした老夫婦です。小説は「私」の一人語りで終始する、いわゆる「私小説」の、いわば生活告白小説です。 敬老の日を1週間後に控えた、ある秋の午後、夫の健康を気遣って「南瓜を煮たい」といった妻を買い物に送り出し、帰りを待ちます。 どこの八百屋に行くのだろうか。八百屋は駅前にもあるし、そこへ行く途中にもある。何件かあるマーケットでも扱っている。忘れ物をしたり、あとから取りにいったりした家内を、八百屋の奥さんや魚屋の奥さんたちは、どう思っているだろう。言葉がすらすら出ないことがあるし、突然わけのわからぬことを言い出すこともある。そんなとき奥さんたちの顔に浮かぶ表情から、家内はなにか感じているに違いないが、泣きごとを並べたり、愚痴をこぼしたりすることは滅多にない。 それだけに帰ってくるまでが気がかりだ。(P115~116) ページの進行を見ていただければお気づきでしょうが、南瓜の買い物に出かけるまでに、たとえば買い物に出るだけでも気がかりがつのることになった「家内」に関する過去の出来事の記憶が描写され、妻(家内)と「私」の生活の実態が徐々に明らかにされています。 で、きげんよく買い物から帰ってきた妻が南瓜を料理する様子が語られ、突如、事件が起こります。鍋をかけていたガス台の周囲に引火しボヤが起こってしまうのです。 鍋の火をつけ忘れていたのか、レンジのそばに置かれていたチリ紙に引火したのか、幸い隣人の発見で事なきを得ますが、その夜、南瓜の煮つけを食べることはできません。 その夜家内が九時ちょっと前にベッドに入るとわたしは座卓の前に座り、テレビの音を低くし、見るともなく見ていた。暫くそうしていた。それから立って家内の様子を見に行くと、寝息を立てている。いつものことだが、家内の寝息を聞くと、なとも知れない安らかなが気持ちになる。(P120) 美しくも哀しい話なのですが、小説世界には「私」しかいないところが、この作家の真骨頂といっていいと思います。「私」の生活の周囲の出来事は「私」の目を通じてしか描けません。「家内」の内面については、その私小説の原理に従えばということなのでしょうね、わからないから書きません。 その上、その内面を作家がうかがう手掛かりである「家内」自身の表情や発言も、確たるものを失いつつあるわけですから、描写そのものの確かさもぐらぐらしていかざるを得ません。80歳にならんとしている老人の「何とも知れない安らかさ」は相手が寝ていることに支えられているのです。 家内を起こし、急いで朝飯をすませることにしたが、食事をしているとき、家内はふと庭のほうに顔を向け、「昨夜はすみませんでした」 低い静かな声。顔を見て、正常に戻ったことがわかった。一日のうち何回か正常の時間が訪れる。そうでない時間も、そのあいまににやってくる。双方が入りまじってっていることもある。正常な時間が訪れると、その時間が長く続くことを祈らずにはいられない。(P137) 私小説的な作家の自意識の世界が、たとえば「家庭」とか「夫婦」とかいう世界を書くときに、相手が自意識を失うことによって、作家が生きている世界、それは書かれている世界だと思うのですが、その世界の底が抜けていくという劇的な展開が、この「祈り」を書いた次の作品「そうかもしれない」でやってきますが、この作品でも、主人公の「祈り」はすでに相手を失っているかに見えるところが、この作品の描く「孤独」の凄まじさだと思いました。 40歳を過ぎたころに読んだ時には、まあ、他人事だったのですが、今読み直して、その異様なリアリティにかなりへこまされました。 80歳でこの作品を書いた耕治人は、この作品を遺作のようにして、1988年に世を去るのですが、姓の「耕」は「たがやす」と読むのだということを今回知って、胸が詰まる思いを実感しました。追記2022・12・11ちほちほという人の「みやこまちクロニクル」(リイド社)というマンガを読んでいて思い出しました。こちらは生きてきたことと、今、生きていることの「哀しみ」が、天井から響く、警報機の透き通った小さな音に重なって聞こえてきて立ちすくむという印象ですが、ちほちほさんの作品は「哀しい」小さな事件に、立ち止まり、立ち止まり、しながら、生活の笑顔に戻っていく健気さにホッとする作品でした。そちらも、お読みになってほしいと思いました。
2021.10.13
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週刊 読書案内 宇佐見りん「推し燃ゆ」(河出書房新社) 話題沸騰の宇佐見りん「推し燃ゆ」(河出書房新社)です。書店ではピンク色のカヴァーで平積みされていましたが、カヴァーをとった姿はこんな感じです。 これが派手なカヴァーです。 2020年の下半期、冬の芥川賞です。書き手の宇佐美りんさんが21歳の大学生であるということで、かなり盛り上がりました。「かか」(河出書房新社)というデビュー作が前年、2019年の「文藝賞」(河出書房新社)、「三島賞」(新潮社)をとって、二作目の「推し燃ゆ」(河出書房新社)で「芥川賞」でした。 「かか」を読んで、「あれれれ!」という感想で、「それじゃあ「推し燃ゆ」も」というわけで、友達に借りて読みました。 図書館も順番待ちが半年先の雰囲気で、通販の古本も、値段が高止まりで、ああ、どうしようかと思っていると、まあ、本読みともだち(?)である友人が「面白いよ」といいながら貸してくれました。「『推し』ってなんのこと。ああ、それから『燃ゆ』も。」「読めばわかるよ。」 まあ、あっさりそういわれて読みましたが、貸していただいた本にカヴァーがなかったので、上の写真になりました。 読み始めると、とりあえず「推し」についてはこんな風に書かれていました。 「アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、よし悪しがわからないとファンと言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、団同士の交流の好きな人。 あたしのスタンスは作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。(P17~18) 推しを始めてから一年が経つ。それまでに推しが二十年かけて発した膨大な情報をこの短い期間にできる限り集めた結果、ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほどになった。裸眼だと顔がまるで見えない遠い舞台の上でも、登場時の空気感だけで推しだとわかる。(P32) 世間の動向に疎い60代後半の老人にも「推し」という言葉の意味が「名詞」としては動詞として使われている「推す」の対象を指し、知っている言い方で言えば「アイドル」を指すことは理解しました。で、「推す」ことに熱中することを「燃ゆ」という古典的言い回しで表現したのが本書の題になっているようです。 まあ、間違っているのかもしれませんが、まずは、第1関門クリアというところなのですが、こうやって主人公のあかりちゃんがブログ上、ないしは自己告白として記している文章を写しながら、不思議なことに気づきました。 高校2年生のこの少女は、とても端正な文章の書き手だということです。これはいったいどういうことでしょう。 本当にそれがあるのかどうか、よくわかりませんが、「推し文化言語」というものがあるとして、作家はその文化の中に暮らす少女を描き、その文化の中の意識や心情、行動を書き込んでいます。しかし、彼女の文体そのものは、まあ、こういうとほめすぎになるかもしれませんが、近代文学で繰り返し書かれてきた告白体小説と、とてもよく似ているのです。 もう私は、属目の風景や事物に、金閣の幻影を追わなくなった。金閣はだんだんに深く、堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、華頭窓、屋根、頂きの鳳凰なども、手に触れるようにはっきりと目の前に浮んだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応し、音楽の一小節を思い出すことから、その全貌を流れ出すように、どの一部分をとりだしてみても、金閣の全貌が鳴りひびいた。(三島由紀夫「金閣寺」新潮文庫P30) どうです、あんまりな引用に、びっくりなさったでしょうか。三島由紀夫の「金閣寺」の第1章の末尾、主人公の青年が「金閣寺」に鳴り響く音楽を見出した瞬間の描写です。 「金閣寺」は今や古典ですが、考えてみれば1956年に書かれた「推しモユ」小説と言えないこともないのではないでしょうか。 で、上の引用は二つの作品の「推し」のありようについて「推し」ている当人の告白なのですが、なんだかよく似ていると思いませんか。 両方「推しもゆ」小説だとして、三島の作品では「金閣」が、宇佐見りんの作品では「アイドル・タレント」が、「推し」の対象です。 で、二つの作品は、本来、客体であった「推し」に対して「どの一部分」を取り出しても「全貌」が自分の主体の中に入ってくるというふうで、とてもよく似ています。 宇佐美りんの場合は対象が人間なので、その「意識」や「感受性」の主観への取り込みという形になっていますが、三島由紀夫が駆使しているい音楽のメタファーを当てはめても、さほどの違和感はありません。 ここで、もう一度、「これはどういうことなのでしょう?」と思うわけでした。 で、最後まで読んでみて、それぞれの作品の結末を比べてみると、金閣は焼けて、アイドルは普通の男性に戻ります。で、「燃えて」いた主人公はどうなるかというわけです。 私は膝を組んで永いことそれを眺めた。 気がつくと、体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷口を舐めた。 ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルモチンの瓶とが出て 来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。 別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(「金閣寺」新潮文庫P257) 有名(?)な結末です。実際に金閣に火をつけた小説のモデル、林養賢という人物は現場で自殺を図ったうえでとらえられたようですが、小説の主人公は「推し」を失いながら「生きる」ことを決意します。 で、所謂「ネタバレ」でしょうが、こちらが宇佐見りんの「推し燃ゆ」の結末です。 綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。 這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。(P125) この小説は「推し」に「燃え」た結果、高校を中退した18歳の「あかり」ちゃんの語りなのですが、その語りの文章は、ある端正さで維持されており、金閣寺の主人公の語りが作家の文体そのままの文章であることと共通しています。 この相似性のなかに、「推し」というハヤリ現象を題材にしながら、小説書くという意識において「三島由紀夫」や「中上健次」のあとを歩こうとしている匂いを感じるのですが勘違いなのでしょうか。 異様にたくさん、あちらこちらで見かけるこの作品についてのレビューのなかに、「発達障害」という病名に関わる話題がたくさんありました。主人公の少女の診断書の件りが作品の中にありますから、話題になることは予想できますが、実は三島の作品でもモデル人物の精神障害が、当時、話題になったようです。三島が作品を発表したのは、その人物が結核と精神障害の悪化で、服役中に亡くなった直後のようです。 あてずっぽうですが、「金閣寺」も「推し燃ゆ」も、病者を描いた作品ではないと思います。ちょっとたいそうないい方になりますが、思想であれ美であれ、まあ、恋愛でもあこがれでもですが、精神性の純化の結果引き起こされる「反生活」的な事象を「病気」として解釈するところに、芸術は成り立たないのではないでしょうか。 「推し燃ゆ」は、今どき珍しい、れっきとした文学だと、ぼくは思いました。
2021.10.12
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週刊 マンガ便 羽海野チカ「3月のライオン(16)」(白泉社) 羽海野チカ「3月のライオン」(白泉社)の16巻が、食卓のテーブルに置いてありました。2021年10月5日発行の最新号です。これはヤサイクンのマンガ便ではなくて、チッチキ夫人の新刊購入便です。 さて16巻、168話から177話は何年のことだかはわかりませんが、12月、年の瀬からお正月にかけて、少年棋士の桐山零君と川本家の三姉妹、和菓子の三日月堂の年末年始の有様がメイン・ストーリーです。 なんというか、バリバリの少女マンガな巻でした。多分、次の展開に向けての「充電」の巻というか、段取り仕込み中という雰囲気です。 ちょっと、笑うというか、「あのねー!?」と思ったのは孤独な宗谷名人の私生活のシーンなのです。彼はもともと、祖父と祖母に引き取られて親元を離れた人で、今は祖母一人との暮らしだったのですが、そこにピアノを弾く女性が住みついてきたというのが今回の設定です。祖母はどうもピアノの個人レッスンの先生だったようなのですが、そのあたりの話は読んでいただくとして、次のような会話のシーンに引っ掛かりました。 その祖母と宗谷名人が朝の珈琲の呑んでいるシーンにピアノの音が聞こえて来るのですが、そのセリフだけ引用します。「おはよう冷えんなぁ」「はい おはよう きょうもさぶいなぁ」「雨降りそやな」「ああ ええ耳してはるはショパンや」「何て曲?」「雨だれ」 ね、ずっこけますよね。ショパンの「雨だれ」って、雨だれやということをは「耳」の良し悪し必要ないんとちゃいますやろか?ということにすぎなにのですが、まあ、ぼくが「少女マンガしてるなあ」というのそういうところですね。 さて、ここからマンガはどっちに行くのか、そういう興味で読み終えた16巻でした。
2021.10.11
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週刊 読書案内 宇佐美りん「かか」(河出書房新社) 19歳の浪人生の女の子「うーちゃん」が「おまい」に語りかける、宇佐見りんの「かか」(河出書房新社)という作品はこんなふうにはじまります。 そいはするんとうーちゃんの白いゆびのあいだを抜けてゆきました。やっとすくったと思った先から逃げ出して、手のなかにはもう何も残らんその繰り返し。(P3) 書き出しの一文からもうかがわれますが、この作品の特徴は何といっても「ことば」です。作品の題として使われている「かか」という母に対する呼びかけの言葉に始まり、語り続ける「うーちゃん」が「おまい」と呼びかける二人称も、ある種、独特な「身内ことば」、ジジ、ババ、姉弟、親子というような世界で流通することばです。そのあたりのことを「うーちゃん」自身がこんなふうに語っています。 イッテラシャイモス。うたうような声がして、しましま模様の毛糸のパジャマに身を包み前髪を少女のようにばっつし切ったかかが立っていました。怪我した素足を冷やこい玄関の床にぺたしとくっつして柔こい笑みを赤こい頬いっぱいに浮かべています。かかが昔早朝から仕事に出ていたときのように、うーちゃんは本来であればイッテキマンモス、と答えなくちゃいけんかった、でも答えませんでした。このトンチキな挨拶はむろん方言でもなければババやジジたちの言葉でもない、かかの造語です。「ありがとさんすん」は「ありがとう」、そいから「まいみーすーもーす」は「おやすみなさい」、おまいも知ってるとおり、かかはもかにも似非関西弁だか九州弁のような、なまった幼児言葉のような言葉遣いしますが、うーちゃんはそいをひそかに「かか弁」と呼んでいました。(P10~11) わたしたちは故郷の言葉として、あるいは、一般的な始まりの言葉として「方言」を知っています。石川啄木が上野駅に聞きに行ったあの言葉ですが、実は、その「故郷の言葉」以前に、人は「家族のことば」とでもいうべき最初の言葉で世界と出会うのだという、当たり前のことなのですが忘れていたことに宇佐美りんという若い作家が挑んでいる作品でした。 生まれて最初に出会う「はじまりの言葉」の世界には人間という存在にとって、不可避の宿命のように始まってしまう、まだ形をとらない「するんとゆびのあいだから抜けてゆく」頼りない「不安」のようなものが漂っているのでしょうね。 19歳の少女が、そんな「はじまりの言葉」の世界から自立し、「自らの生の世界」を獲得するための「祈り」のような作品でした。 作品を読み始めた当初、熊野へ旅する「うーちゃん」に、横浜で暮らす19歳の少女がどうして「熊野」を目的地にするのかというところに無理やりなものを感じていたのですが、作品の後半、熊野の森にたどり着いた「うーちゃん」の姿を読みながら、1973年の芥川賞候補作「19歳の地図」の中上健次を彷彿とさせられるとは想像もしませんでした。 かつて「19歳の地図」の少年は、緑の公衆電話を武器にしていたのですが、「うーちゃん」はスマホの画面に広がるSNSの世界を生き抜くことで戦いを挑んでいるかに見えます。 「うーちゃん」にとって、ネットの世界はこんな感じなのです。 インターネットは思うより冷やこくないんです。匿名による悪意の表出、根拠のない誹謗中傷、などいうものは実際使い方の問題であってほんとうは鍵をかけて内にこもっていればネットはぬくい、現実よりもほんの少しだけ、ぬくいんです。表情が見えなくたって相手の文章のほのかなニュアンスを察してかかわるもんだし、人間関係も複雑だし、めんどうなところもそんなに変わらん、ほんの少しだけぬくいと言ったのは、コンプレックスをかくして、言わなくていいことは言わずにすむかんです。第一印象がいきなし見た目で決まってしまう現実社会とはべつにほんの少しだけかっこつけた自撮りをあげることもできるし、「学校どこ?」なんて聞いてくる人もいないし、教室でひとりお弁当を食べている事実を誰も知らないわけです。みんな少しずつ背伸びができて、人に言えん悩みは誰かに直接じゃなくて「誰かのいる」とこで吐き出すことがでるんです。(P34) 「公衆電話」であろうと「SNS」であろうと、それぞれ、時代を描く「道具」としてリアルなのですが、この作品では、ある原型的な「人間存在」の疎外を、SNSを使い今の社会に生きている人間の姿で具体的に描いているところが「あたらしい」と思いました。 ただ、そういう「うーちゃん」を描く、宇佐見りんという作家は、案外、正統派のオーソドックスな作家ではないかという気もしたのですが、どうなのでしょうね。追記2021・10・10 宇佐見りんさんは、二作目の「推し燃ゆ」(河出書房新社)で2021年の冬の芥川賞を受賞しました。面白かったのは受賞のインタビューで「中上健次」の名前が出ていたことです。「かか」の主人公うーちゃんが熊野に旅をするのは、うーちゃんにとっての必然ではなくて、書き手の宇佐見りんにとっての必然だったようです。 それにしても、久しぶりに中上健次の名前を口にする作家が誕生したことに、何ともいえず「嬉しい」気持ちになったのでした。 もうそれだけで、この作家のこれからに期待してしまいそうです。
2021.10.10
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週刊 マンガ便 魚豊「チ。 第1集」(スピリッツCOMICS) 2021年の9月の「マンガ便」に入っていた作品なのですが、なんだかちょっと違いました。マンガ便を毎月運んでくるヤサイクンが、妙に絶賛するのです。「これ、おもろいで。」 で、ページをぱらっとするとこんなページです。「あのな、ぼく、こういうの苦手やねんけど。」「いや、そういわんと読んみって。」「グロいんちゃうの?」 まあ、それだけ言うとヤサイクンは笑いながら帰ってゆきました。 置いていったマンガは魚豊「チ。第1集」と「チ。第2集」で、出版社は小学館です。 で、読み始めて、第1集の半分を過ぎたあたりではまってしまいました。 でも、まあ、話がよくわかったというわけではありません。だいたい、まず、この表紙の少年は宙に浮いているようなのですが少年の上から伸びているロープはどうなっているのでしょう。この少年がいじっている丸い円盤は何でしょう。 最初から疑問だらけですが、読み始めると、なんとなく「フーコーの振り子」のロープじゃないかとは考えたのですが、それにしても、少年が宙づりなのはなぜだろう。 うん?この世のすべてを知るための捧げものの暗喩かな?とか考え始めます。 わからないといえば、なんといっても、題名の「チ。」ってなんでしょう。「知」でしょうか、「地?」、「血?」、「千?」、「治?」それとも舌打ちの「チッ!」でしょうか。 副題に「地球の運動について」とついていて、まあ、それがヒントかもしれませんが、第1集を読み終えて、副題の意味は分かりましたが、「チ。」が意味するところがわかったわけではありません。 その上、この作者の名前の魚豊ってどう読むのでしょうと、いろいろチカチカ探してみると、これだけはわかりました。「うおと」と読むのだそうです。ウキペディアに載っていました。 そのついでに、このマンガが、今年2021年のマンガ大賞の第2位だということもわかりました。 で、マンガ大賞っていうのは、何かっていうと、単行本というか書籍のほうに「本屋大賞」というのがありますが、まあ、あんな感じらしいです。 2021年のベスト10には読んだことのあるマンガはほとんどなかったのですが、8位だかに鶴谷 香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」が入っていて、ちょっと嬉しい気分でした。まあ、そういう賞らしいです。 というわけで、内容には触れていませんが、なんだか「若々しいマンガだな。」という感想でした。一応「歴史マンガ」といっていいと思いますが、小学生には無理のようで、ゆかいな仲間のマンガ少女、コユキ姫は「ゴーモンシーンがダメ!」ということで投げ出したそうです。やっぱり、普通の目で見ればグロテスクなのですね。
2021.10.09
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アンドリュー・レビタス「MINAMATA 」109シネマズHAT神戸 アメリカで「MINAMATA]を撮っているという噂を聞いたときから見るつもりでした。あのジョニー・デップが、あのユージン・スミスを演じる。もうそれだけで興味津々というわけでした。 ところが、関西で封切られて1週間の間に、新聞紙上でも映評が載ったりして、ちょっと騒ぎっぽいのでビビリました。三宮とかの映画館はヤバそうだと腰が引けて、ハット神戸の109シネマを予約して出かけました。 映画はアンドリュー・レビタス監督の「MINAMATA 」です。 ぼくはユージン・スミスという写真家の数ある写真の中で、「楽園へのあゆみ The Walk to Paradise Garden」という、写真家の長男パトリックと長女ホワニータだそうですが、小さな子供が手をつないで森のなかを歩いている後姿の写真が一番好きです。 ところが、映画の始めの頃、その写真が、なんだか、やけくそな雰囲気が漂っているユージン・スミスの仕事場の床に散らかる一枚として画面に出てきたあたりから、ドキドキしはじめました。 ひょっとして、この映画の主役は、あの「写真」、写真集「水俣」を見たことがある人であれば、きっと誰でもが心に刻み付けるあの「写真」なのではないか。それが、ドキドキの理由です。 「あの写真の、あのシーンを映画にするのか。そういえば、最初に映ったあのシーンは‥‥。」 そう思いはじめると、なぜだかわからないのですが、意識のなかに、あの「写真」が浮かんできてしまうのです。 ユージン・スミスが水俣にやってきて、マツムラさんのお宅にとまり、確か劇中では「アキ子ちゃん」と呼ばれていたと思うのですが、マツムラさん夫婦の娘で、胎児性水俣病の少女の写真を撮りたいという希望が拒否されるのを見ながら、やはりそうだという確信に変わったのですが、繰り返しその写真が浮かんできて、なぜだかよくわからないのですが、映画の展開とは何の脈絡もなく、だらだら、だらだら、涙が流れ始めて止まらなくなってしまったのです。 あの写真というのは、ユージン・スミスの傑作写真、「入浴する智子と母 Tomoko and Mother in the Bath」です。 あれこれ言いたいことはありますが、結論を言えば、やはり、あの写真が主役でした。 最初に撮影を拒否された、「アルコール依存症」で「外人」の写真家ユージン・スミスが、誰との、どんな出会い、どんな凌ぎ合いをへて、あの写真を撮る現場にたどり着いたか。その時、彼の眼はカメラを通して何を見ていたのか。彼の写真は何を写し出しているのか。 映画は、一つ一つ問いかけ、一つ一つ答えるかのよう、実に素朴に一人の「人間」を描いていきました。そしてあの写真の場面にたどり着くのです。 彼がそこに何を写しているのか、それはうまく言えません。しかし、初めて出会ったときから、印象深く感じながらも、おそるおそる見ていたこの写真を、この先、「美しい写真」として見ることができるようになったと思いました。 この映画が、ぼくにくれたのはそういう「勇気」のようなものでした。あのジョニー・デップが、どんな思いでこの写真を撮る「人間」を演じたのか、それを思い浮かべながら、世の中、まだまだ捨てたものじゃないし、世界は広いし、ピュアな気持ちを仕事で表現している人がいることを実感しました。 なんだか「老け込むんじゃないよ!しっかりしろよ!」と励まされたような気持になる映画でした。 それにしても化け方がすごいジョニー・デップに拍手!監督 アンドリュー・レビタス脚本デビッド・ケスラー スティーブン・ドイターズ アンドリュー・レビタス ジェイソン・フォーマン撮影 ブノワ・ドゥローム音楽 坂本龍一キャストジョニー・デップ(W・ユージン・スミス)真田広之(ヤマザキ・ミツオ)國村隼(ノジマ・ジュンイチ)美波(アイリーン)加瀬亮(キヨシ)浅野忠信(マツムラ・タツオ)岩瀬晶子(マツムラ・マサコ)キャサリン・ジェンキンス(ミリー)キャサリン・ジェンキンスビル・ナイ(ロバート・“ボブ”・ヘイズ)青木柚(シゲル)2020年・115分・G・アメリカ原題「Minamata」2021・10・04‐no89・109シネマズHAT神戸
2021.10.08
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週刊 マンガ便 小梅けいと「戦争は女の顔をしていない(2)」(KADOKAWA) ベラルーシという国の、ノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの同名のルポルタージュ(岩波現代文庫)を小梅けいとというマンガ家がコミカライズした作品がこのマンガです。 第1巻は、もう1年前以上も前に「案内」しましたが第2巻が「マンガ便」で届きました、届けてくれたヤサイクンは、延々と続く悲惨なはなしに少々くたびれているようです。「もうな、おんなじ話ばっかりやねん。ひとりひとり違うけど、なんかな、おんなじやねん。」「うん、原作も、おんなじやで。」「でな、読んどると、疲れんねん。」「うん原作もそうやで。」 ヒットラーが率いるナチス政権、ドイツ第三帝国とソビエト・ロシアの戦争は、ソビエト・ロシアにとって、まさに、国家的危機であり、国家総動員の戦いであったことはよく知られていますが、男女の差別を否定した共産主義の理想は、同時代の戦争としては異例というべき数の女性を戦場に送り出したようです。 大祖国戦争と呼ばれた、ファシストにたいする共産主義防衛戦争という美名で、結果的にはソビエト・ロシアの「国家主義」を育て、「スターリニズム」を拡張する契機となった戦争でしたが、その戦争が、ロシアの労働者や、農民、そして女性たちににとって「どんな顔」をしていたのか、どなたがお読みになっても、ただ、ただ、疲れる悲惨な場面が語りかけているのではないでしょうか。 優秀な軍人や兵士となることで作り上げられていく「男女平等」という理想の、実は大前提である「戦争」が、根底から否定されている作品だと僕は思いました。女性兵士が看護兵として従軍することを当たり前のように讃えることにも、どこか引っかかるものがありますが、狙撃兵としての活躍をたたえることで、その引っ掛かりは解消されるのでしょうか。 この作品が問いかけているのは、そこなのですが、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチのすばらしさは、「戦争」という欺瞞を明らかにしたことにあるのではないでしょうか。 それにしても、読むのも疲れますが、お書きになった小梅けいとさんも大変だったでしょうね。イヤ、ホント。
2021.10.07
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ヤスミラ・ジュバニッチ「アイダよ、何処へ?」シネ・リーブル神戸 毎日お勤めに出て人と出会う生活をやめて4年目の秋にこの映画を見ました。打ちのめされました。この4年間で、最も衝撃をうけた映画といって間違いないと思います。 映画は「アイダよ、何処へ?」、ヤスミラ・ジュバニッチという、1974年、ボスニアに生まれた女性の監督の作品でした。 打ちのめされた理由には二つあります。 一つは、はっきりしています。映画がドキュメンタリー・タッチで描いていた事件に対してでした。 1995年、夏、戦後欧州最悪の悲劇「スレブレニツァ・ジェノサイド」 チラシにはこう書かれていますが、ぼくはその事実を知りませんでした。 だいたい「ボスニア紛争」と聞いても、あやふやなイメージが浮かんでくるだけですし、ユーゴスラビアという国がどこにあったのかさえはっきりわかりません。 再びチラシですが、こんな説明文が載っていました。「ボスニア紛争」とはユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴヴィナで1992年~95年まで続いた紛争。ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族による戦闘の結果、人口435万人のうち、死者20万人、難民・避難者200万人が発生した。 ちなみに、見終わった後、大急ぎで読んだ柴宜弘「ユーゴスラヴィア現代史」(岩波新書)によれば、チラシのボシャニャク人はイスラム教徒でムスリム人と表記されていましたが、この映画が描いているスレブレニツァ・ジェノサイドについての言及はありませんでした。 映画は、この紛争の末期、1995年7月11日、ボスニア東部の町スレブレニツァで起こった、セルビア軍によって、8000人をこえるボシャニャク人(イスラム教徒)の男性市民や少年を「人種浄化」を目的にして殺した経過を国連軍の現地通訳の女性アイダの視点によって追っています。 事件の発端から、数年後に町に戻ったアイダの目に映る「平和」を取り戻した町の生活の姿を映し出しながら映画は終わります。 映画が描き出した、この一連の「事実」、暴力が進行してる映像はもちろんですが、「平和」を取り戻したかに見える町の生活の姿の虚構性、「悪」がなされたことを忘れたかのように暮らしている「普通の人々」の姿を映し出す映像の迫力に圧倒されました。 二つめは「アイダ」という登場人物の描き方です。チラシの写真の女性ですが、目つきの鋭い40代の女性です。 紛争以前、彼女は小学校の教員であったようですが、戦争がはじまり、平和維持のために進駐してきた国連軍の現地通訳として働いている設定でした。中学校の校長をしている夫と十代後半の息子が二人いる母親です。 セルビア軍が町に攻撃を仕掛け始めた最初から、彼女は国連職員の特権を利用し、何とか3人の家族を救おうと苦闘します。徹底的にエゴイスティック、自分の家族だけはどんな方法を利用しても救おうとする、ある意味で嫌な女性として描かれています。しかし、「いやな女」として描かれている、この、アイダの性格設定がこの映画のもっともすぐれているところだと思いました。 彼女は、一般的な基準で言えばエゴイスティックでズルイ女性です。そして、自分の家族だけは、「国連」という第三者を隠れ蓑として利用し、特別扱いで助けようとする彼女の要望は「あなたの家族だけ特別扱いはできない」という、いかにも正しい返事によって拒否され、彼女は3人の家族を殺されてしまいます。 数年後、町に戻ってきた彼女が自分の住居に行ってみると、別の人間が暮らしています。本来の所有者がやってきたことに対して「新しい社会」の「新しい法」にしたがって合法的に所有している「新しい住民」は何の動揺も見せず、アイダの家族が残していった「忘れ物」を笑顔で手渡すのでした。 平気で人種浄化を実行したセルビア軍の「悪」は国際軍事法廷でも裁かれ、歴史的にも批判されています。しかし、人道を口にし、中立を標榜しながら、結果的に、殺されていく人間を見殺しにした国連軍という欺瞞や、和解が成立し新しく生まれた「平和」な社会で過去を忘れてくらすという欺瞞については誰がどこで批判するのでしょうか。 夫と息子たちを連れ去られる姿を見つめる妻であり母親であるアイダの眼差し、かつて、いや、本当は今も自分の住まいであるはずの住居に小さな子どもを育てながら楽しく暮らしている家族を見つめるアイダの眼差し、新しく赴任した小学校で子供たちのさまを楽しそうに見学している家族たちを冷たく見つめるアイダの眼差し、絶望、怒り、拒否、嫌悪を、そして深い哀しみをその眼差しが具現していました。 映画の始まりから最後まで、この表情を貫き通した存在として描かれた、こんなヒロインを今まで見たことがありません。 ぼくは、この映画を撮ったヤスミラ・ジュバニッチ監督の「気迫」に圧倒されたのです。 アイダの怒りこそが「正当」なのです。「あなただけ特別扱いにはできない」ではなく、「誰でもいい、一人でも救う」というべきだったのではないでしょうか。 超絶した「悪」が、わたしたちの常識的なモラルを踏みにじって登場したときに、当然のことながら「常識」は通用しないのです で、「どうすべきなのか」、映画はその問いを突き付けてきたのですが、平和ボケした老人にはこたえるすべがなく、ただ、ただ、打ちのめされるだけだったのです。 しかし、これが他人事ではないという現実感だけは失いたくないと思いながら帰り道をとぼとぼ歩いたのでした。 監督 ヤスミラ・ジュバニッチの気迫 と、すさまじい役を演じきったヤスナ・ジュリチッチに拍手!でした。監督 ヤスミラ・ジュバニッチ製作 ダミル・イブラヒモビッチ ヤスミラ・ジュバニッチ製作総指揮 マイク・グッドリッジ脚本 ヤスミラ・ジュバニッチ撮影 クリスティーン・A・メイヤー美術 ハンネス・ザラート衣装 マウゴザータ・カルピウク エレン・レンス編集 ヤロスワフ・カミンスキ音楽 アントニー・コマサ=ラザルキービッツキャストヤスナ・ジュリチッチ(アイダ・通訳)イズディン・バイロビッチ(ニハド・アイダの夫)ボリス・レール(ハムディヤ・息子)ディノ・ブライロビッチ(セヨ・息子)ヨハン・ヘルデンベルグ(カレマンス大佐)レイモント・ティリ(フランケン少佐)ボリス・イサコビッチ(ムラディッチ将軍)エミール・ハジハフィズベゴビッチ(ヨカ)2020年・101分・PG12・ボスニア・ヘルツェゴビナ・オーストリア・ルーマニア・オランダ・ドイツ・ポーランド・フランス・ノルウェー合作原題「Quo vadis, Aida?」2021・09・28‐no88シネ・リーブル神戸no122
2021.10.06
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週刊 読書案内 谷川俊太郎 選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)その2 さて、谷川俊太郎が選んだ「茨木のり子詩集」(岩波文庫)の案内(その2)の登場人物は、詩人の小池昌代です。 ぼくがこの詩集を久しぶりに手に取った理由は、小池昌代さんが解説を書いていらっしゃるということを思い出したからです。 で、やっぱり、こここでは詩集の巻末に収められた「水音たかく ― 解説に代えて」をちょっと紹介するのがいいでしょうね。 小池昌代さんの、茨木のり子の詩の解説はこんなふうにはじめられています。 茨木のり子の詩を読むのに、構えはいらない。そこに差し出された作品を、素手て受け取り、素直に読んでみるに限る。意味不明な部分はない。とても清明な日本語で書かれている。ときには明快すぎ、謎がなさすぎると、不満を覚える人もいるかもしれない。けれど、この詩人の詩が威力を発揮するのは、おそらく、読み終えたのち、しばらくたってから。言葉が途絶えたところから、この詩人の「詩」は、新たにはじまる。遅れて広がる感慨があり、それは読後すぐのこともあれば、何十年か先に届く場合もあるだろう。(P361) で、彼女の茨木のり子体験、出会いはこんなふうに書かれています。 私が最初に出会ったのは、「汲む ― Y・Yに ―」という詩だ。読んで泣いた。本書には収録されていないので、数行を拾って紹介してみたい。詩は次のようにはじまる。 大人になるとというのは すれっからしになることだと 思い込んでいた少女の頃 立居振舞の美しい 発音の正確な 素敵な女のひとと会いました その素敵なひとは、初々しさが大切なの、と言い、人の「堕落」について語る。そこから「私」が拾ったのは次のようなことだ。 大人になってもどぎまぎしたっていいんだな ぎこちない挨拶 醜く赤くなる 失語症 なめらかでないしぐさ 子供の悪態にさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣のような感受性 わたしは自分のことが書かれていると思った。赤面恐怖であがり症、思春期はとうにすぎていたにもかかわらず、自意識過剰でがっちがち。私にとって、若さというのは地獄だった。 しかし詩の要は、もう少し先にある。次の三行を、密かに心に刻んだ人は案外多いのではないだろうか。 あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には 震える弱いアンテナがかくされている きっと・・・・ 今、十分に大人になってみると、弱さに安住するのは恥ずかしいと思うし、「堕落」せずに生きていくことなんて出来るのかとも思う。でもその上で、この三行には真実があるとわたしは思う。わたし自身が成熟していくのに、力を貸してくれたと思う言葉である。(P362~P364) 教室で、十代の後半に差し掛かった少年や少女たちに、人が「文学」、たとえば「詩」と出会うということが、どんな体験なのか伝えたいと思い続けて30数年暮らしました。今、この文章を読み返しながら、こんなふうに語ることの難しさが、やはり浮かんできます。 この後は解説です。せっかくですから、その1で案内した詩集「歳月」についての解説から引用します。 引用部分は茨木のり子が49歳のとき、25年間連れ添った「夫」を肝臓がんで失った経緯、加えて、その後書きためられていた作品が「一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさい」 と生前には公表されなかった事情が記され、それらの詩編がYと書かれたクラフトボックスの中に清書されて入っていたことが茨木のり子の死後に発見されたことに触れた後、この詩集に収められている「月の光」という詩を引いて語っているところです。 ある夏の ひなびた温泉で 湯上りのうたたねのあなたに 皓皓の満月 冴えわたり ものみな水底のような静けさ 月の光を浴びて眠ってはいけない 不吉である どこの言い伝えだったろうか なにで読んだのだったろうか ふいに頭をよぎったけれど ずらすこともせず 戸をしめることも 顔を覆うこともしなかった ただ ゆっくりと眠らせてあげたくて あれがいけなかったのかしら いまも 目に浮かぶ 蒼白の光を浴びて 眠っていた あなたの鼻梁 頬 浴衣 素足 月の光に照らされて眠っている「夫」は、すでにもう、死んでしまっているように、しんとしている。うたたねからやがて目覚めるとわかっていても、読者のほうには、「死」に触ったという感触がしめやかに渡される。詩の言葉が、すべて消えてしまったあとに残るのは、月の光を浴び横たわっている、一人の男の姿である。月光という詩の神に、彼は捧げられた生贄のようだ。茨木は詩の中で自責の念にかられている。(P372~374) 谷川俊太郎が「成就」という言葉で評した、茨木のり子がたどり着いた文学的な境地を、小池昌代は「自責」という言葉で表そうとしているのではないかというのが、ぼくの感想です。もちろん「文学」に対する「自責」ですね。 小池さんはスクラップブックに残されていた「詩」と題された作品を引いて、解説を終えています。詩人の仕事は溶けてしまうのだ民族の血のなかにこれを発見したのはだれ?などと問われもせず人々の感受性そのものとなって息づき流れてゆく 私の耳には聞こえてくる。茨木のり子の詩の言葉が、ときにはさびしい笛の音で、ときにはひときは清い水音をたてて、私たちの血のなかに、ひっそりと流れていくのが。(P384) 実は、小池さんの解説は丁寧でとても面白いのですが、そこをお伝えすることがうまくできていません。まあ、しかし、一度手に取ってお読みいただくのがよいかということで「案内」を終わります。
2021.10.05
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週刊 読書案内 阿武野勝彦「さよならテレビ」(平凡社新書) チッチキ夫人が食卓のテーブルの上の「読みかけ本」、積読山の上に、新たに載せてくれていた本です。彼女が出勤して、一人で冷めたコーヒーを飲みながら何の気なしにページを開いて読み始めて止まらなくなりました。雨が続き、コロナが蔓延していた夏の終わりの朝でした。 新書ですが350ページ、著者は阿武野勝彦、書名は「さよならテレビ」(平凡社新書)です。 著者の阿武野勝彦という人は1959年生まれ、現在も(?)東海テレビのゼネラル・プロデューサーという役職にあって、テレビのドキュメンタリー番組を作っている人のようです。 書名の「さよならテレビ」というのも、製作者である著者がテレビにサヨナラするという意味ではなくて、2020年、おそらく阿武野勝彦の最新の仕事である映画化され、劇場公開されたドキュメンタリー「さよならテレビ」の題名が使われているようです。 ここまでお読みになって、ピンとこない方でも、実は彼は2017年、テレビドキュメンタリーの映画化作品としては、驚異的(?)ヒット作となった「人生フルーツ」のプロデューサなのですといえば、ひょっとしたら「ええ、そうなの?!」とおっしゃるかもしれません。 この本は、その阿武野勝彦がたずさわった23本のドキュメンタリー映画について、それぞれの作品の制作の現場で、制作者しか知らないエピソードを綴った、まあ、回想録です。 目次に見出しとして出ている23本の作品のうち、見たことがある作品は「人生フルーツ」ただ1本だけでしたが、「ああ、あの映画の人か」と思って読み始めると、その映画が2013年に企画され、カメラが回り始め、ナレーションが樹木希林にきまり、考えてみれば不思議な「タイトル」が提案される、そのプロセスにまつわる「苦労話」が回想されていくのですが、この映画の制作の「山場」は何といってもここという話が出てきました。 二〇一五年六月。私は、土砂降りの鹿児島、『戦後70年樹木希林ドキュメンタリーの旅』のロケを終え、ホテルへ戻るワンボックスカーの中だった。知覧の特攻平和会館の重い空気がまだ車中に充満していた。私の携帯が振動する。名古屋からだ。動揺がわかるような声だった。「津端さんが、亡くなりました」「そうか。お父さん?お母さん?・・・・」「あっ、修一さんです。・・・・・」 妙に間の空く会話の中で、、昼寝に行ったまま修一さんがい起きてこなかったということがわかった。敬愛していた実父をなくした息子からの電話のようだと思った。訃報を受け取る私も身内のような心持だったが、車窓の強い雨に目をやりながら、冷徹に言うことにした。「亡骸を、葬式を、焼き場を、全部撮影させてもらえるか・・・・」「はい。お願いして、お許しをいただきました」(中略) 窓の外。いつの間にか雨はやんでいた。夕暮れの錦江湾を眺めながら、「またしてもお出ましだ」と思った。作品をコツコツ拵えていると、目に見えない何かがフッと降りてきて、現実が大きく展開する。まるで、ドキュメンタリーの神様がいるかのように・・・・・。(第2章「大事なのは、誰と仕事をするか」P55~56) 映画をご覧になった方はご存知でしょうが、この作品は老年の夫婦を記録したドキュメンタリーです。で、その主人公(?)の津端修一さんが、制作過程で亡くなるという大事件です。 この事件について阿武野勝彦が「神様」という言葉を使っているところに、正直な人だと思いました。それは、記録の対象であるご夫婦にとっては「不幸」な出来事ではあるのですが、制作過程にあるドキュメンタリー作品に、降ってわいたような、絶対的なリアリティーを与える事件だったに違いないのです。 しかし、カメラが撮ってしまった「死」を、いかにテレビで放映するかという難問との遭遇でもあったようです。ドキュメンタリーが「本当の出来事」に遭遇し、それを記録することが「テレビ」というメディアとの戦いを誘引するという経験は、この映画の「死との遭遇」の記録が初めてではなかったようです。 本書を「さよならテレビ」と題した阿武野勝彦のドキュメンタリー制作者としての「ドキュメンタリー論」・「反テレビ論」は随所に述べられていて、それがこの本の「肝」でもあると思います。しかし、にもかかわらず、彼が東海テレビという会社で撮り続けたのはなぜかと、自らに、問いかけ続けながら書き上げているところに、この本の「人間的」な魅力があるのではないでしょうか。 ところで、長くなりますが、現場の裏話といえばこんなエピソードも書きつけられています。 徹夜明けの参拝。希林さんは、真新しい正殿に向かって進む。カメラが、石段の下から後姿を追う。新旧正殿の違いはあるが、初参拝と同じ構図だ。「何もお土産、新築祝い、持ってきませんでした‥‥」二拝二拍手一拝。その時、正殿の御帳(みとばり)の大きな白い布が、ファッ、ファッ~。風に大きく舞った。またらしい神様のおうちが、希林さんの眼前に現れた。石段を下りてくるその姿は少しリズミカルで、表情は少女のようだった。それがロケのクライマックスとなった。 名古屋に戻る大きなロケバス。車内は、ゆったり、希林さんと私と伏原ディレクターの三人だった。伊勢を出ると、ほどなく睡魔に落ちた。そして、目を覚ますと、高層ビル群が見えた。振り返ると、バスの後部座席で希林さんは完全に横になっていた。名古屋駅までまだ五分ぐらいあるだろうか。ぎりぎりまで寝ていただこう。ロータリーに車が入ったところで声をかけた。「希林さ~ん。希林さ~ん。」「ええ?何?」「名古屋駅です」ガバッと体を起こし、外をキョロキョロ‥‥。「え~と。あのー。名古屋駅に・・・・。」「なあに、突然、名古屋駅って。私は女優よ~」(第4章「放送は常に未完である」P110~111) 実は、彼の作品に数多く出演している樹木希林についてのエピソードは、他にもたくさん書かれていて、樹木希林についての「女優論」とでもいうべきところが本書のもう一つの読みどころだと思うのですが、中でも「これは!」というのが引用したところです。「神宮希林」という2014年に制作され作品のエピソードだそうです。 ぼくは「テレビ」をあまり見ません、だからなのか、にもかかわらずなのか分かりませんが、読みでがある「回想録」でした。今後は、彼の作品が映画館にかかるの探すことになるでしょう。
2021.10.04
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週刊 読書案内 谷川俊太郎(選)「茨木のり子詩集」(岩波文庫)その1 茨木のり子さんです。「現代詩の長女」なのだそうです。2014年ですから、もう7年も昔に出た岩波文庫の腰巻にそう書いてあって、「なんだかなあ」 という気分になりました。 ね、ご覧の通り、やたら聡明そうな写真とセットになっています。 現代詩人とか、女流詩人とかいうのは、こういう兄弟姉妹なのですよというか、新たなる誤解を招くための陰謀ですね、これは。 というのは、もちろん、冗談です。 「谷川俊太郎が選んだ茨木のり子」 ということと、詩人(?)の小池昌代の解説が気にかかって手に取りました。 まず、文庫版の冒頭に谷川俊太郎が「初々しさ」と題して書いている「まえがき(?)」のなかで、 茨木さんの詩業は、亡くなった後に公表された「歳月」によって成就したと私は考えています。 と書いている「歳月」から「駅」という詩を引用紹介します。 駅 朝な朝な渋谷駅を通って田町行きのバスに乗る北里研究所附属病院それがあなたの仕事場だったほぼ 六千五百日ほど日に二度づつほぼ 一万三千回ほど渋谷駅の通路を踏みしめて多くのひとに踏みしめられて踏みしめられてどの階段もどの通路もほんの少し たわんでいるようでこのなかにあなたの足跡もあるのだ目に見えないその足跡を感じながらなつかしみながらこの駅をを通るとき峯々のはざまから滲み出てくる霧のようにわが胸の肋骨(あばら)のあたりから吐息のように湧いて出る哀しみの雲烟(うんえん) 詩のなかの「あなた」は誰なのか。毎日、渋谷駅の通路を歩き、バスに乗って北里病院へ通った方です。詩人が「あなた」と呼びかける人はもうこの世にはいないようです。詩集「歳月」は「あなた」を亡くした詩人が「あなた」に対して呼びかけた詩を集めた詩集のようです。 本書にも十数編の詩が所収されています。谷川俊太郎の「成就」という言葉の意味をぼんやり考えながら読みましたが、この詩がこころにのこりました。 茨木のり子の出発から成就までが一冊に集められた詩集です。「歳月」から採られた詩にかぎらず、それぞれの人が「ああ、茨木のり子だ」 と感じられるだろうなと思う、胸をうつ詩もたくさんあります。通勤や通学のカバンの隅に入れていて、電車とかで座れたときに、ちょっと取り出すのにちょうどいいサイズです。 そんなふうにこの詩集を読む若いひとを想像すると、ちょっと嬉しくなる詩集です。ときどきお試しください(笑)。追記2021・10・02 本書の「初々しさ」のなかで谷川俊太郎が「倚りかからず」より、こっちが好きだといっている「青梅街道」という詩を追記しておきます。 青梅街道内藤新宿より青梅まで直として通ずるならむ青梅街道馬糞のかわりに排気ガスひきもきらずに連なれり刻を争い血走りしてハンドルを握る者たちはけさつかた がばと跳起き顔洗いたるやぐずぐずすると絆創膏はがすごとくに床離れたる くるみ洋半紙 東洋合板 北の誉 丸井クレジット 竹春生コン あけぼのパン街道の一点にバス待つと佇めばあまたの中小企業名にわかに新鮮に眼底を擦過必死の紋どころはたしていくとせののちにまで保ちうるやを危ぶみつさつきついたち鯉のぼりあっけらかんと風を呑み欅の新芽は 梢に泡だち清涼の抹茶 天にて喫するは誰ぞかつて幕末に生きし者 誰一人として現存せずたったいま産声をあげたる者も八十年ののちに引潮のごとくに連れ去られむさればこそ今を生きて脈うつ者不意にいとおし 声たてて 鉄砲寿司 柿沼商事 アロベビー 佐々木ガラス 宇田川木材 一声舎 ファーマシイグループ定期便 月島発条 えとせとら なるほど、いいな。なるほど、なるほど。
2021.10.03
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週刊 読書案内 穂村弘「にょっ記」(文春文庫) 歌人の穂村弘の「にょっ記」(文春文庫)を元町の古本屋さんで買いました。2006年に「別冊文芸春秋」という月刊誌に連載されていた「日記(?)」のようですが、果たしてこれが日記かどうかは、意見の分かれるところかと思います。2009年に出版された文庫版です。もう10年以上も前の本ですね。 ぼくは暇なうえに、これといった目的があったり、夢の実現をもくろんで努力するということが、ただただ、ない暮らしをしていますから、妙にはまりましたが、お忙しい人生を生きている人が読んだらどう思うのか、聞いてみたいような気はしますが、特にすすめません。 開巻、第一日目はその年の4月1日です。その年がどの年かはわかりませんが、たぶん、穂村弘本人も連載の初回ということで、気合とか入っているんじゃないかとも思います。引用してみますね。4月1日 おにぎり できたてのおにぎりを食べる できたてのおにぎりは、やわらかく、あたたかく、湿っていて、まだおにぎりとして「確定」していないようで、落ち着かない気持ちになる。 おにぎりを食べながら、小学校の運動会を思い出す。 お母さんとたあちゃんとたあちゃんのおばさんと一緒に、広げた茣蓙の上で、風に切れ 切れの放送を聞きながら食べた。 あれは、ひんやりつめたいおにぎり。 風の合間の青空。 遠い歓声。 草に垂れた靴紐。 未来。 僕の未来。 僕の未来は、どこにいったんだろう。 今、ここにある、これが僕の未来なのかな。 指にくっついたご飯粒をぺろぺろ嘗めながら涙ぐむ。 こんな感じですね。ついでなので、適当に、まあ、なるべく短いのを引用します。6月6日 冗談を思いつく 「きびしい半ケツは出ました」という冗談を思いつく。10月1日 真夜中の先生 真夜中に、ベッドの上でぬいぐるみたちに通知表を配る。 ぬいぐるみたちは、とってもどきどきしていた。3月18日 ライオン 口の中にあたまをつっこめば友達になれる、ってテレビで畑正憲さんが。 まあ。こんな感じですが、ちなみに最終回は3月31日です。ぼくが選んだ日付は、ぼくの誕生日には記述がなかったので、翌日の6月6日。今これを書いているのが10月1日。「終りの方で」と思ったのですが3月31は少し長かったので、高校時代の友達の誕生日3月18日。彼は「アインシュタインと誕生日が同じだ」といって、威張っていましたが、今調べてみるとアインシュタインは3月14日が誕生日らしいですから、ぼくの記憶違いかもしれません。まあ、3月14日も「にょっ記」には記述がありませんから、これでいいです。 作家の長嶋有という人が、解説の代わりとか言うことで「偽ょっ記」というのを、お終いの方に何ページか書いていますが、面白くない上に長いので引用しません。 ということで、大したことが起こらなくても、特に腹が立ったりしないお暇な人にすすめます。
2021.10.02
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週刊 マンガ便 堀尾省太「ゴールデン ゴールド(8)」(講談社) 2021年9月のマンガ便に入っていました。 堀尾省太「ゴールデン ゴールド」(講談社)第8巻 今のところ最新刊です。 このマンガの「フクノカミ」という設定は漫画家堀尾省太の卓抜なアイデアだとほとほと感心しますが、あり得ない設定で動く「マンガ世界」が、なぜこうもリアルなのかというところに、このマンガの「すごさ」があるのではないでしょうか。 「お金」の動きが「社会」の動きを決定し、「社会」の動きや「お金」を持っているとか、持っていないとかいうことが「人間の心」の動きを決定するのだという「決定論」をデフォルメしながら、実は、その考えは、やはり、疑わしいという「倫理観」に揺さぶりをかけてくるところが、まず不気味ですね。で、その不気味さが「本当はみんなこうなのではないか」という「現実」に対する疑いを増幅してゆく感じが、ますます気味の悪さをあおるのですが、読むことはやめられないわけです。 おそらく、ぼくのような、いい年をした読者に、このマンガが「リアル」を感じさせているのは、上記の「決定論」をめぐって、何となく「そうだろうな」・「そうかもしれないな」というふうに、実は思っていたんじゃないか、ということを掘り返しているところに生まれていると思います。 絵のなかに時々描かれる「無数のフクノカミ」のイメージは、無数の人間の欲望の気味の悪さを喚起しながら、すまして読んでいる読者自身のなかにある「欲望」に形を与えているのでしょうね。 さて、第8巻では、「田舎売り出しプロジェクト」の勢いに「陰り」がさし始めた祖母町子のまわりに粉飾決算とか、詐欺というような、実に現実的な要素をフォローしながら、たぶん、町子が破滅する流れを予感させるわけですが、なんと、その一方で、引きこもりだったはずの主人公早坂琉花の新しい一面が展開しはじめます。「何、新しい一面って?」ということですが、金がらみの新展開で、これまた結構リアルです。 まあ、そのあたりは読んでいただくのがいいんじゃないかということで、9巻は破局の予感がして楽しみですね。それではこれで。
2021.10.01
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