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高橋源一郎「『ことば』に殺される前に」(河出新書) 今日の案内は、高橋源一郎「『ことば』に殺される前に」(河出新書)です。2021年5月30日に出版されたようですから高橋源一郎の最新刊でしょうね。 チッチキ夫人が通勤読書で読んでいたようで、コンサートかなにかのチラシでカヴァーされた本が食卓の「積読」書の小山の上に乗っていました。カヴァーをとってみると、幅広の腰巻に作家の写真と、キャッチコピーが印刷されています。本冊は純白です。 で、コピーの文句を見て気になりました。いやはや、簡単に釣られる客ですねえ。 「《否定の『ことば』》ってなんやろう。」 腰巻の裏表紙側を見ると、こんなことが書かれていました。 かつて、ツイッターは、中世のアジール(聖域)のように、特別な場所、自由な場所であるように思えた。共同体の規則から離れて、人びとが自由に呼吸できる空間だと思えた。だが、いつの間にか、そこには現実の社会がそのまま持ち込まれて、とりわけ、現実の社会が抱えている否定的な成分がたっぷりと注ぎこまれる場所になっていた。 「ハアー、またもやツイッターか。」 ツイッターで詩を書いている詩人もいらっしゃいますが、高橋源一郎はすでに、ツイッター形式で「今夜は独りぼっちかい・日本文学盛衰史・戦後文学編」という小説を書いています。ツイッターの形式でページが埋まることに最初は戸惑いましたが、今では、左程こだわりません。それより「否定のことば」といういい方が気になりました。 ページを繰るとすぐにありました。 高橋源一郎は、開巻早々、最近はやっているらしいカミュの「ペスト」という小説からこんな引用を載せています。面白いので、全文孫引き引用しますね。 読み返すのは、ほぼ半世紀ぶりだった。最初に読んだ頃には、「ペスト」とは、この小説が書かれる直前に終わった「第二次世界大戦」、「戦争」の比喩である、そう読むのが普通だった。 しかし、今回は、もっと別の箇所が、目覚ましく浮かび上がってくるのを感じた。おそらく、著者が最も読んでもらいたかったのは、この箇所だったのだ、と思えた。 登場人物のひとりタルーが、主人公のリウーに、こう告げるシーンだ。「時がたつにつれて、僕は単純にそう気が付いたのだが、他の連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理の中に含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つなしえないのだ。まったく、ぼくは恥ずかしく思い続けていたし、僕ははっきりそれを知った―われわれはみんなペストのなかにいるのだ、と。…中略… ぼくは確実な知識によって知っているんだが、(そうなんだ、リウー、僕は人生についてすべてを知り尽くしている、それは君の目にも明らかだろう?)、誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ、なぜかといえば誰一人、まったくこの世の誰一人、その病毒を免れているものはないだろうからだ。 そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。 そのほかのもの―健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志はけっしてゆるめてはならないのだ。 りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためには、それこそよっぽどの意志と緊張をもって、けっして気をゆるめないようにしていなければならんのだ」(アルベール・カミュ、宮崎嶺雄訳「ペスト」新潮社) 人間はみんな、「ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまう」。このとき吹きかけられる「息」とは、「ことば」に他ならない。「ことば」こそが、人間たちを感染させ、殺してゆく元凶だった。(「言葉に殺される前に」P18) カミュは、国籍を問われたとき、こう答えた。 「ええ、ぼくには祖国があります。それはフランス語です」 カミュの名を世界に知らしめたのは、デビュー作『異邦人』だった。主人公ムルソーは、どこにいても、自分が「異邦人」であると感じる。 どんな国家にも、どんな民族にも、所属できない。どんなイデオロギーや倫理や慣習にも服従することができない。どんな正義も、それが「正義」であるだけで、彼は従うことができないと感じるのである。 そんなムルソー=カミュが、唯一、生きることが可能だったのは、その作品の中、フランス語という「ことば」が作り出した束の間の空間だった。その空間だけが、彼を「等身大」の人間として生きさせることができた。 フランス語という「ことば」が作り出した、束の間の、「文学」という空間。「文学」はあらゆるものでありうるが、自らが「正義」であるとは決して主張しないのである。 「ことば」は人を殺すことができる。だが、そんな「ことば」と戦うことができるのは、やはり言葉だけなのだ。(「ことばに殺される前に」P22) これらは、「ことばに殺される前に」と題されて、本書の冒頭に収められた文章の引用ですが、本書を読み終えたとき、引用したこれらの発言が、ムルソー=カミュ=高橋源一郎と自らを規定し、「日本語」を祖国とすること、「日本語」が作り出した「文学」という空間に生きることを宣言した文章だと気づきました。 本書をお読みになれば、すぐにお分かりいただけると思いますが、高橋源一郎は「正義」を振りかざしして「人を殺し」始めている国家やイデオロギーの攻撃に対して、または日常的で小さな、一つ一つの事象に広がっている戦線において、実に丁寧に、戦いを挑んでいます。この戦いに「勝利の日」が来るのかどうか、それは、いささか心もとないわけですが、しかし、誠実であることによってしかなしえない「闘争」に終わりはありません。 闘争現場については。本書をお読みいただくほかありませんが、いかんせん、闘争記録が、ほぼ十年前のものであることだけが、少々惜しまれます。
2021.08.31
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ゲオルギー・ダネリア「クー!キン・ザ・ザ」元町映画館 あっけらかんとした脱力感、、まあ、一言で言えばそういうことになりますかね。 初めて聞く名前だったのですが、ゲオルギー・ダネリヤという監督が1986年に撮った『不思議惑星キン・ザ・ザ』という実写版SF映画を、2013年にアニメ化した作品だそうで、実は元町映画館は「実写版」と「アニメーション版」の二本を同時上映するという、映画館の鏡のようなプログラムを組んでいらっしゃったのですが、二本目を見終えると終バスが怪しくなるとかなんとかいうことを理由にトンズラしてしまったというわけでした。 面白くなかったのか?というと、そういうわけではないのですが、「脱力感」溢れる、あまりにもおおらかな展開にポカンとしてしまったというのが正直な感想でした。 丁度、同じ週に「JUNK HEAD」というSFアニメーション映画を観ました。共通して感じたのは、見かけ上の「幼児性」なのですが、作り手の意識は対極にある感じがしました。 「JUNK HEAD」では「幼児性」は作り手の自己意識の内実をかなりストレートに表現している印象でしたが、この映画の「幼児性」というのは、まあ、典型的なのが「クー」と「キン」という二語だけで、コミュニケーションが成り立つところだと思いましたが、それは「表現意図」によってかなり周到に選ばれた方法だと感じました。 この映画の場合の表現意図といえば、やはり、ディストピアとしての全体主義社会批判だと思うのですが、「クー・キン」という「ことば」の使用、(まあ、これはかなり俊逸なアイデアだと思うのですが)といい、「アリャ・マア?」的なワープといい、登場する飛行体といい、キャラクターといい、「ナルホド、ナルホド・・・、イヤ、ナンデ!?」という感じで、完璧な脱力ワールドに仕立てているところが、思想的こわばりのようなものを忘れさせていて、「大人の映画」という印象を持ちました。 で、実は、「JUNK HEAD」同様、こちらの映画も妙に醒めた気分で見てしまいました。理由はよくわかりませんが、一つ考えられることは、ぼく自身の「年齢的」・「思想的(?)」こわばりを捨てきれていないというか、子供の目になりきれなかったからでしょうね。 脱力する代わりに、居眠りしてしまう(寝てませんが)感じでした。まあ、そういうわけで、こちらを見終えて、もう二時間というのは、どうも、爆睡に終わるいやな予感がしまして、しっぽをまいてトンズラと相成ったわけなのでした。トホホ。監督 ゲオルギー・ダネリア共同監督 タチアナ・イリーナ音楽 ギア・カンチェリキャスト(声)ニコライ・グベンコ(ウラジーミル・チジョフ)イワン・ツェフミストレンコ(トリク)アンドレイ・レオノフ(ウエフ)アレクセイ・コルガン(ビー)2013年・92分・ロシア・ジョージア原題「Ku! Kin-dza-dza」2021・08・20‐no79・元町映画館no84
2021.08.30
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徘徊日記 2021年8月27日「晴れた空に百日紅」 ずっと雨模様だった天気が、ようやく「晴れ」て、青空が眩しい天気になりましたが,何とも蒸し暑い夏の終わりです。 とは言いながら、自宅の前をはじめ、団地の百日紅が青空に映えて気持ちがいいです。 これは隣の棟のまえです。少し色合いが違います。スマホの写真では、こういう被写体に対してピントを合わせるのは、ホントに難しいですね。 こちらは駐車場のあたり。夏の雲と百日紅という感じ。雨が続いたので、どの木も葉が緑で、茂っているのが今年の百日紅の特徴のような気がします。ところで百日紅の花言葉って、ご存知ですか。「雄弁」と「愛嬌」らしいですね。うーん、よくわかりませんね。 こちらは、ピンク色で、今から花がふえていくようです。 これもどっちかというとピンクです。暑い時期の花のですが、ただ暑苦しいわけではないところがいいですね。 遠景で撮ればこんな感じですね。先日芝刈りが終わったばかりで、緑がすがすがしい気がしますが、これだけ撮るために、ちょっとウロウロしただけで汗だくでした。 まあ、そうは言うものの、何となく、ズーッと雨が降り続いていた気がする2021年の8月もようやく終わって、9月の風が吹き始めている気もしましたよ。ボタン押してね!
2021.08.29
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ベランダだより 2021年8月27日 「これはオクラの花です!」 夏の間、時々咲いていましたが、とりわけ今朝の花はチッチキ夫人を喜ばせて、扱い方も知らないスマホを持ち出して写真を撮っていました。これがその写真ですが、ピントがあっているところが小癪ですね。 そのあと、「これどうするの」とか何とかいいながらスマホをいじって、夏休みが延長になって一人お留守番のコユちゃん姫にラインとかで写真を送って「咲いたわよ、何の花だかわかる?」とかなんとかメッセージを送ったりして喜んでいました。 一目見て、何の花だかわかる人はエライですネ。「オクラ」の花です。この後「オクラの実」が成るわけですが、この夏にいくつか成りましたが、なんだかデカくなりすぎて硬くて食べられませんでした。 そういえば、昨日、チッチキ夫人がコユちゃん姫に送っていた写真はこれです。 はい、モスラ君の写真ですね。 夏に入るころから、あらわれては消えてしまう運命のモスラ君なのですが、8月の中旬頃から、次々と卵が産み付けられたようで、次々と出現しています。 正面の葉っぱの左寄りに転がっている白い小さな粒が卵です。で、緑に変身したモスラ君や、まだ小鳥の糞の振りをしているモスラ君が、チッチキ夫人のみかん畑の葉っぱに群がって蚕食し始めています。 こんな感じとか なかよく、こんな感じですね。 このモスラ君なんて、なかなかかわいい奴だと思いませんか。 シマクマ君には、信州の方に保育園児のユナチャン姫という、まだ、おチビさんのゆかいな仲間がいるのですが、このモスラ君を見て調子に乗ったシマクマ君はその姫のママにこの写真を送って、言ってしまいました。「なあ、なあ、かわいいやろ。ユナチャン姫に似てると思わへん?頭デカイし。」返事がすぐ来て一言でした。「サイテー!」 うーん、「愛」を伝えるコミュニケーションというのはホントに難しいですね。 夏の終わりの、愚かなシマクマ君でした。追記2021・08・28 ベランダのみかん畑のモスラ君のお母さんかなというアゲハ蝶を、自宅の前の歩道の芙蓉の花のあたりで見かけました。 蕾にとまっています。下の写真も同じアゲハですボタン押してね!
2021.08.28
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谷川俊太郎・尾崎真理子「詩人なんて呼ばれて」(新潮社) 地下鉄を降りたら新宿方面へ少し戻って右に折れ、なだらかに住宅地を下っていく。谷川俊太郎はここ、東京都杉並区成田東の住宅地の一角に、生まれたときから暮らしている。(中略)「やあ、いらっしゃい」玄関で呼び鈴を押すと、たいてい本人がドアを開け、迎え入れる。(中略) 詩人、谷川俊太郎は、あらためて紹介するまでもなく日本でもっとも有名な、ただ一人の職業詩人である。しかし人はその名から、どんな作品を連想するだろう。火星人が〈ネリリし キルルし ハララしている〉、デビュー作の「二十億光年の孤独」だろうか。子どものころに覚えてしまった〈かっぱかっぱらった〉が反射的に出てくるのか。元妻の作家、佐野洋子に捧げた愛の詩集『女に』を女性たちが思い出すのもうなずける。東日本大震災後、被災地の人々の間に次々とインターネットを通じて広がり、一人ひとりの気持ちを支えたのは「生きる」という、四十年以上も前に生まれた一編の詩だった。(以下略)(「はじめに」) こんな書き出しで本書は始められていますが、長年、読売新聞の文化欄の担当記者だった尾崎真理子による、詩人、谷川俊太郎に対するインタビューです。 ただ、並みのインタビューとは違います。本書は、計5回にわたって、詩人の出発から現在まで、かなり熱のこもった質問と、それに対する、率直で本質を突く答えで出来上がっていますが、それぞれのインタービューに合わせて尾崎真理子の、気合の入った解説がつけられており、その上、話題として取り上げられた「詩」は、本書中央に20篇収められているものに加えて、途中の引用を合わせれは100篇を超えるのではないかと思います。 読み進めていけば谷川俊太郎の代表作を、20代から、80代に至った現在まで、読み直すことが出来るという作りになっていて、まあ、それだけでも読んで損はないと思います。 しかし、やはり、インタビューですから、どんな質問に、詩人がどんな答えをしているのかということですが、父、谷川徹三との家族生活に始まって、詩人仲間との交友などはもちろんですが、「詩」や「ことば」を巡っての内容も、当然読みごたえがあるのですが、まあ、ぼくが一番興味深く読んだのは「女性関係」についてでした(笑)。尾崎 谷川さんにとって、やっぱり佐野洋子さんは特別な、別格の女性ですか?谷川 ええ。ぼくにとっては、全然、特別。でも、いろんな意味があるから。佐野さんはプライベートな批評家として別格で、彼女のお陰で女性にも人間にも理解を深めることが出来たという意味で特別だし、衿子さんは最初の女性だから、やはり別格なんです。大久保玲子さんは二人の子どもを生んでくれて、一番長い時間、一緒にいたという意味で別格だし…。誰が一番とか、言えませんね。それぞれ別の関係で、今は言葉で言い難いな。 ぼくは怨んだりする気持ちは全然なくて、感謝の気持ちしか残っていない。そう言うとまた佐野さん、怒るんだろうけど。でも、僕は少なくとも詩を書くより何よりも異性とのつきあいが大事。それだけは彼女もよく知っていたでしょう。よく言われてたもの、「あんたは女が一人いれば、友達なんか一人も要らないんでしょう。」って。(第4章 佐野洋子の魔法) まあ、何とも言えませんが、すごいでしょ。80歳を過ぎているからとか、話に出てきた女性が三人とも、もう、この世にはいないとかいうことと関係なく凄いですね。 なんか言葉が出てこないので、ここで、ちょっと、詩を紹介しますね。 素足赤いスカートをからげて夏の夕方小さな流れを渡ったのを知っているそのときのひなたくさいあなたを見たかったと思う私の気持ちはとり返しのつかない悔いのようだ(「女に」1991) いずれにしても、この本は、まず、今までの生活のどこかで谷川俊太郎の詩に触れ、その時々、共感や違和感をお感じになりながら、いい年になってしまわれた方にすすめます。 谷川俊太郎の詩に出会ったことのある人は、彼の詩が生まれ、読まれてきた紆余曲折を、詩人が、かなり正直に語っていること、そして、語られている事実にまず驚かれると思います。で、その驚きと一緒に、自分がそれぞれの詩と出会った、あの頃の有為転変を思い浮かべ、今、目の前に「初々しく」、しかし、あいかわらず「泰然自若」としてある「詩」そのものに驚くという、どうも、この年になったからできるとしか思えないおもしろい興奮をお感じになるのではないでしょうか。 まあ、加えていうなら、「谷川俊太郎の詩って?」という感じを、お感じになっている方なら、お若い方でも、是非お読みいただきたいですね。ある意味、現代詩の歩みをたどっているところもあって、とても分かりやすい入門書でもあるのです。 偉そうに言いましたが、お読みになった方が、皆さん、必ずそうなるとは思わないのですが、ぼくなんかは、なんとなく、谷川俊太郎をはじめとする、現代詩の作品を一つ一つ読んでみようかな感じる本でした。皆様、是非どうぞ!
2021.08.27
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ジム・ジャームッシュ「ナイト・オン・ザ・プラネット」シネ・リーブル神戸 シネ・リーブルのジャームッシュ特集です。6本目に見たのが「ナイト・オン・ザ・プラネット」でした。もともとの題名は「Night on Earth」です。ボクはアースの方がいいかなと思いました。 今回の特集で、最後に見た映画ですが、結果的振り返ってみると「トリを取る」にふさわしい傑作でした。出てくる役者さんを知っているわけでもないし、とりわけ声高な主張があるわけでもありません。さしたる事件も起こらないし、ドキドキするサスペンスやラブストーリーがあるわけでもありません。にもかかわらず、「まあ、よくぞここまで、好みのド真ん中にボールが来るものだ!」 と感嘆しました。 ロサンゼルス、NY、パリ、ローマ、ヘルシンキの5つの都市を舞台に、タクシーの車内で展開される、運転手と客との巡り合いをオムニバス形式で描いています。地球という同じ星の同じ夜空のもと、それぞれ違ったストーリーが繰り広げられていくという構成です。ただ、それだけのことです。 突如、話は変わりますが、谷川俊太郎の詩に「朝のリレー」という、CMで有名になった作品があります。書きあぐねている感想の代わりに、ちょっと、この映画をあの詩でモジってみようと思います。まあ、笑っていただければ嬉しいのですが。「夜のリレー」ロサンゼルスの少女が修理工の夢を見ているとき、ニューヨークの移民の老人はピエロだった思い出に遊んでいるパリのやさ男が盲目の女と連れ添っているとき、イタリア女たらしが神父の死に立ち会い、ヘルシンキの運転手は飲んだくれに手を焼いているこの地球でいつもどこかで夜が闇に沈んでいるぼくらは闇をリレーするのだ経度から経度へとそうしていわば交換で地球を守る眠りの最中、ふと耳をすますとどこか遠くでタクシーの警笛が鳴ってるそれはあなたが眠りこけている闇を誰かがしっかりと受けとめている証拠なのだ夜はやがて明けようとしている こんなふうに遊ぶのはジャームッシュにも谷川俊太郎にも失礼かとは思うのですが、でも、まあ、二人の間につながるものを感じるのです。それは、うまくは言えませんが、人間という「宇宙人」に対する「愛」のようなものですね。 映画はジャームッシュの詩的な感性がのびのびと炸裂していて、世界を独特の感覚(やさしさ(?))でつつんで見せた傑作だと思いました。拍手!監督 ジム・ジャームッシュ製作 ジム・ジャームッシュ製作総指揮 ジム・スターク脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 フレデリック・エルムス編集 ジェイ・ラビノウィッツ音楽 トム・ウェイツキャストロサンゼルス編ウィノナ・ライダー(コ―キー運転手)ジーナ・ローランズ(ヴィクトリア・スネリング客)ニューヨーク編ジャンカルロ・エスポジート(ヨー・ヨー客)アーミン・ミューラー=スタール(ヘルムート・グロッケンバーガー運転手)ロージー・ペレス(アンジェラ客の義妹)パリ編イザック・ド・バンコレ(運転手)ベアトリス・ダル(盲目の女性)ローマ編ロベルト・ベニーニ(ジーノ:運転手)パオロ・ボナチェリ(神父)ヘルシンキ編マッティ・ペロンパー(ミカ)カリ・バーナネン(客)サカリ・クオスマネン(客)トミ・サルメラ(アキ)1991年・128分・アメリカ・日本公開1992年原題「Night on Earth」シネ・リーブル神戸no112追記2021・08・26谷川俊太郎の「朝のリレー」はこんな詩です。「朝のリレー」 カムチャッカの若者が きりんの夢を見ているとき メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウインクする この地球で いつもどこかで朝がはじまっている ぼくらは朝をリレーするのだ 経度から経度へと そうしていわば交換で地球を守る 眠る前のひととき耳をすますと どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ(谷川俊太郎「谷川俊太郎詩集 続」思潮社) もちろん、谷川俊太郎の詩の良さについては言うまでもありません。お叱りを受けるのを覚悟して「戯画」化しましたが、原詩の価値を貶める意図は毛頭ないことを言い添えておきます。
2021.08.26
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オーレル「ジュゼップ 戦場の画家」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていると、スペイン市民戦争とその時代がテーマのようで、「ああ、これは見逃せない。」と思いました。 そんなことを考えていたさなか、フェイス・ブックで知り合った「おともだち」から「よかったですよ」というメッセージをいただき、朝いちばん10時45分の開始に、勇んでやってきて驚きました。 いつも閑散としているシネ・リーブルの受付が満員なのです。原因はすぐにわかりました。「ドライブマイカー」です。実は、この日、その映画と二本立てを考えていたのですが、今日は、もう、こっちだけと腹がきまりました。 劇場に入ると、こちらの客は5人でした。見たのはオーレル「ジュゼップ 戦場の画家」です。 で、映画が始まったのですが、ここから、少し恥ずかしいことを書きます。 暗い画面で動き始めたタイトル・ロールと一緒に、小さな音なのですが、演奏だか、歌声だかが聞こえ始め(歌声だったと思うのですが、どっちだったかよく覚えていません)、耳を澄ましていて涙が止まらなくなりました。 「ワルシャワ労働歌」だったんです。 ぼくより、お若い方でこの感想に同感される方はいないと思います。この歌をどこで覚えたのかよく覚えていませんが、好きなんですね。ユーチューブで聞くことが出来ますが、まあ、軍歌みたいなもんです。こんな歌、いったい何を興奮しているのだと言われてしまえばそれまでですね。実際、帰宅してチッチキ夫人に話すと鼻で笑われました。 ついでに言いますが、この映画には、もう一カ所ドキドキしたシーンがあります。 メキシコに亡命したジョゼップがトロツキーの暗殺現場を訪れるシーンです。弾痕が残る壁が赤い画面に描かれているのです。実際には、トロツキーは銃弾では絶命せず、登山用のピッケルで殺害されたのですが、ぼくはこの二つのシーンでこの映画を記憶すると思いました。 というわけで、始まりから心鷲づかみ状態だったのですが、映画にも感心しました。意識朦朧たる老人のうわ言のような話を、絵の好きな孫が聞くという設定のなかで、難民収容所のジョゼップと憲兵であった若き日の祖父との出会いと交流が描かれていきます。 祖父の思い出話は1940年代の初頭の出来事ですから、映画で語っている老人は80歳をこえた人です。 フランコが台頭するスペインでファシズムに抵抗した人たちが、ナチスに降伏する前夜の隣国フランスでどんな仕打ちを受けたのか、当時、フランスに充満していたのが、ファシズムに対する批判ではなく共産主義に対する恐怖であったことが如実に描かれていて、歴史描写としてまず納得しました。 二つ目の納得は、スペイン市民戦争を戦った「市民義勇軍」や「国際旅団」の内情と悲劇、その中で描き続けたジュゼップ・バルトリという画家を知ったことです。 三つ目が映画の画面の構成の工夫で、アニメーションだからできたことだと思うのですが、ジョゼップの原画を描き直しながら登場人物を重ね合わせていく動きや、全編を素朴なタッチの絵柄で貫いた監督の表現法にはうなりました。 四つ目は音楽です。最初の「ワルシャワ労働歌」は、おそらく「国際旅団」で歌われた歌として流れたのだと思いますが、その後のシーンでも、登場する人々が歌う民謡(?)をはじめ、特にラストシーンで流れる曲がとても響きましたが、いかんせん、曲名がわかりません。 ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェルの名前とともに知っていた「国際旅団」の悲劇に気を取られながら見ていましたが、名前も作品も知らなかったジュゼップ・バルトリという画家の生涯に現代の青年を出会わせた、オーレルという監督の、ケン・ローチやロベール・ゲディギャンと共通した、現代社会に対する前向きのメッセージに拍手!の作品でした。 監督 オーレル製作 セルジュ・ラルー脚本 ジャン=ルイ・ミレシ音楽シルビア・ペレス・クルスセルジ・ロペスセルジ・ロペス2020年・74分・G・フランス・スペイン・ベルギー合作原題「Josep」2021・08・20‐no80 シネ・リーブル神戸no111追記2021・08・25「ワルシャワ労働歌」の日本語版の歌詞は以下の通りです。「ワルシャワ労働者の歌」暴虐の雲光をおおい敵の嵐は荒れくるうひるまず進め我等の友よ敵の鉄鎖をうち砕け自由の火柱 輝かしく頭上高く 燃え立ちぬいまや最後の戦いに勝利の旗はひらめかん立てはらからよ 行け戦いに聖なる血にまみれよとりでの上に我等の世界築きかためよ勇ましく もと、新左翼の暴力学生だったかもしれない知人に感想を言うと同感されました。内田樹とか高橋源一郎と同年配の方です。そういえば、映画の音楽でその気にさせられた経験の、もっと痛烈な記憶は「地獄の黙示録」、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」です。なんか、その気になった自分が怖かったですね。 ところで、トロツキーの暗殺現場についての詳しい描写は、アイザック・ドイッチャーのトロツキー三部作の最終巻、「追放された預言者」(新潮社)で読むことが出来るはずです。スペイン市民戦争の「国際旅団」が「共和派」、「トロツキスト」、「共産主義派(スターリニスト)」の、まあ、内ゲバで瓦解したと理解しているのは謬見かもしれませんが、トロツキーを暗殺したのがスターリニストだったことは確かで、ぼくは高校三年生で出会ったドイッチャーのせいで「トロツキーびいきのスターリン嫌い」ですが、最近ではますます嫌いです。 まあ、それにしても「誰がために鐘は鳴る」を読み直さなっくっちゃというのが、この映画の宿題でした。
2021.08.25
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100days100bookcovers 59日目村山斉『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』 幻冬舎新書 遅くなりました。最初に言い訳しておきますが、2月半ばか終わり頃まで仕事関連でなかなか時間が取れません。たぶん次回も同様だと思います。どうかご了解のほどを。 前回、SODEOKAさんが取り上げた寺田寅彦の『柿の種』からどうつなげようかと最初は結構思い悩んでいたのだが、あるときにふと彼が「物理学者」であることを思い出した。ということで 以前試みて断念した「あさって」の方向へ跳ぶことにする。 『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』村山斉 幻冬舎新書 物理学は別にして、宇宙関連の話題は昔から割に好きなのである。 2010年に出た新書だが、実は読んだのは昨年。ずっといわゆる「積読」の中の一冊だったのだが、そのときに読んでいたリチャード・パワーズの『われらが歌う時』の上巻の読みにくさに音を上げて、一服しようと思って手にとったのがこれだった。 著者の村山斉は1964年生まれ。素粒子物理学の専門家。2000年よりカリフォリニア大学バークレイ校教授、2007年より2018年まで東京大学数物連携宇宙研究機構(IPMU)の初代機構長。オフィシャルサイトを見ると現在は機構長は退いて、主任研究員ということらしい。 主な研究テーマは超対称性理論、ニュートリノ、初期宇宙、加速器実験の現象論など。とはいえ、まぁ何というか、名前くらいは聞いたことがあっても大半は「何言ってんのかわかんないんですけど」みたいな感想しか持てないわけだけれど。 さらに言えば、「数物」は数学と物理のことだと「序章」に書いてあるのだが、「数物」という、愛想もへったくれもない「短縮形造語」を組織のオフィシャな名前の一部にするというセンスはどんなものだろうかと訝らないでもない。が、それは本題ではないのでここでは置く。 本書は序章を除けば、5つの章から構成されている。序章 ものすごく小さくて大きな世界第1章 宇宙は何でできているか第2章 究極の素粒子を探せ!第3章 「4つの力の謎を解く-重力、電磁気力第4章 湯川理論から小林・益川理論へ-強い力、弱い力第5章 暗黒物質、消えた反物質、暗黒エネルギーの謎 序章から第1章、第2章にかけては、わからないところはむろんあるがそういうところは適当に読み飛ばせば結構おもしろく読めたのだが、3章、4章はかなり怪しい。というよりほとんどわかっていない。5章になるとまたいくらかわかったような気になる、というところか。 それでも入門書ということもあって著者は、用語をやさしく言い換えたり喩えを使ったりと素人にもできるだけわかりやすく伝えようとしている。その姿勢はよくわかる。 ただ話が話だけにどうしても説明も専門的にならざるをえないところがあり、あとは読者次第なのだろう。 ちなみに今わかったのだが、本書、2011年度の新書大賞受賞作である。 では、ざっと内容を紹介する。 とにかくスケールの振れ幅の大きい話である。 宇宙のことを語りだす際に、著者はまず「大きさ」から始める。 東京タワーの高さを物理学でよく使う表現で表すと、およそ3X10の2乗メートル(実際は、10の右上に累乗の小さな2が乗っかっている表記の仕方)。スカイツリーは、6X10の2乗メートル。富士山は、桁数が1つ上がり10の3乗になる。 地球の直径は12000キロメートルで、メートルに直すと桁数は10の7乗。地球の公転軌道は富士山の1万倍のさらに1万倍、10の11乗のオーダー。太陽系は「天の川銀河」の片隅にあるが、この銀河は地球の軌道の約10億倍、10の20乗のオーダー。天の川銀河が他の銀河と一緒に構成する「銀河団」は天の川銀河の1000倍程度、10の23乗。 現時点で観測できる宇宙のサイズは1つの銀河団のさらに1万倍、10の27乗ということになる。 では、反対に素粒子はどれほどの大きさなのか。 「素粒子」とは文字通り物質の「素」になる粒子。かつては原子がそう考えられていた。ちなみに直径10センチのりんごを原子に分けると10の26乗ぐらいになるそう。りんご1個の大きさと原子1個の大きさは、天の川銀河と地球の軌道の大きさの比と同じくらい。 原子1個の直径は10の-10乗メートル。それが原子核と電子に分割されることがわかり、原子の直径は、電子が回る軌道の直径であることがわかる。原子核の直径は電子の軌道よりずっと小さく10の-15乗。 しかしさらに原子核が陽子と中性子、中間子といった内部構造をもつことがわかり、それらもいくつかの粒子によって形成されていることがわかる。それが「クォーク」と呼ばれ、現時点では素粒子と考えられている。大きさはどんなに大きく見積もっても10の-19乗、おそらく10の-35乗くらいだとも言われる。 宇宙の10の27乗と素粒子の10の-35乗の間の途方もないスケールの隔たり。これが私たちの世界の「幅」だということになる。これをつなげるのが「ビッグバン」宇宙論。 ご承知のように「ビッグバン」は、「宇宙は誕生直後から膨張を始め、現在の大きさになった」 という説。 私は昔からこれが不思議で、では宇宙が誕生する前は「そこ」に何があったのか、はたまたなかったのか。ただ「ない」ということがどういうことなのかがわからない。さらに「無」から「ビッグバン」がなぜ発生したのかも。ただ、「ビッグバン」説そのものには証拠も見つかっているとのこと。 話を戻すと、つまり膨張した現在の宇宙を遡れば、ビッグバン時の極小宇宙に戻る。素粒子の世界である。著者はこれを「ウロボロスの蛇」に喩える。 本書のテーマは大きく二つ。 まずは、物質は何でできているのか、そしてその物質を支配する基本法則はいかなるものか。となると、後者のほうが話が専門的で複雑になるのはわかる。先述のように、物質は原子でできているわけだから宇宙の星も原子でできている。どんな原子なのかは光によって判定可能だ。 しかし、星から届くのは光だけではない。たとえばニュートリノ。これも素粒子の一つ。2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊の研究でも知られる。宇宙から飛んできたニュートリノを世界で初めて捕まえたのが岐阜県神岡鉱山地下に設置された「カミオカンデ」なる観測装置。 宇宙から大量に降り注ぐニュートリノを見つけるのは至難の業らしいが、1987年にカミオカンデで11個のニュートリノが検出された。これは大マゼラン星雲で起きた超新星爆発によって生じたものだという。何ででそんなことがわかるのかは、むろん私にわかるはずがない。 その超新星爆発は、銀河全体よりも明るくなるほどの光を放ったが、その光のエネルギーは爆発によって生じたエネルギーの1%にすぎない。99%はニュートリノによるものだった。それほど多くのニュートリノが放出されたからこそ、カミオカンデが11個を捕まえられた。 ちなみにその爆発した超新星は地球から16万光年の距離にある。ニュートリノも16万年かけてカミオカンデにやってきたというわけだ。空間的な大きさだけではなく時間的な長さにも目がくらむ。Wikiの「地球史年表」で確認すると、ホモサピエンスが現れたのが19万から20万年前。15万年前にはマンモスがヨーロッパに現れた頃。 しかし、「大マゼラン星雲」ってどこかで聞いたことがあるなと思ったら、『宇宙戦艦ヤマト』でヤマトが向かう「イスカンダル」が存在する星雲だった。 話を戻す。 現在一つめのテーマの物質は何でできているのかについては様々な新事実が明らかになっている。カミオカンデのスペックを大幅に上げたスーパーカミオカンデによってニュートリノがすべての星と同じくらい存在することがわかったのだが、ではすべてに星は宇宙の中でどの程度の割合を占めるのかといえば、これが何と0.5%。つまりニュートリノと併せてもわずか1%しかない。ただしこれは質量ではなくエネルギーに換算した結果。でもアインシュタインの「E=MC2」(2は2乗の意)によってこれが成り立つ。 では残りは何か。星以外の宇宙にあるすべての原子をかき集めても全エネルギーの4.4%にしかならない。原子以外のものが96%ほどを占めている。これがわかったのが2003年。つい最近だ。 残りの約96%が何かはまだ判明していない。しかその一つには名前だけは付いている。「暗黒物質」(ダークマター)。この呼称はおそらくかなり前からあったはず。 いずれにしろ正体不明ではあるが存在することはわかっている。なぜなら、ニュートリノと同様、それが存在するのを前提にしないと説明できないことがたくさんある。 重力を計算しても星やその他の原子をだけでは、間に合わない。暗黒物質は宇宙全体に遍在している。それが全エネルギーに占める割合は23%。これを加えてもそれでもまだ27%くらい。 残りは何かというと、これも名前だけは付いていて「暗黒エネルギー」(ダークエネルギー)。紛らわしいネーミングだ。 暗黒物質と暗黒エネルギーの違いは何か。 暗黒物質は、正体不明とはいえ物質としての振る舞いをする。宇宙の膨張につれ密度が薄まる。しかし暗黒エネルギーは密度が薄まらない。さらにいえば、そんな不気味なエネルギーを前提にしなければ、宇宙の膨張が「加速」しているという「非常識」な現象が説明できない。 宇宙の膨張については、永遠に膨張し続けるのか、極限まで膨張してから収縮に転じるのか、いずれかで、どちらも膨張のスピードは徐々に減速することが前提だった。ところがつい最近になって、膨張が加速していることがわかった。その原因、つまりビッグバンの際に「投げ上げられたボール」が減速しないように後押ししているのがその「暗黒エネルギー」だと考えられている。その得体のしれないエネルギーが宇宙の約70%を占めている。 著者によると、宇宙に関しては、21世紀に入ってから「わからない」ことが数多くあるとわかったんだそう。 先ほどの暗黒物質と暗黒エネルギーもそうだが、反対に「存在しない」ことが不思議なものもあるという。「反物質」がそれ。 すべての物質には、性質は同じで電荷だけが反対の「半物質」が存在する。ビッグバン時には「物質」同様「反物質」も同じだけ生まれたはず。しかし現在の宇宙には自然状態で存在する「反物質」が見当たらないという。あるいは物質の「質量」がそれによって生まれると考えられる未知・未発見の粒子がある。それが莫大な量だと推測され、しかしその実態はすべてが謎だという。 実はここまででまだ第1章。せめて第2章までは紹介したいと思っていたのだが、難しそうなので後は、いくつか簡単にピックアップするだけにする。・望遠鏡は宇宙のどこまで見られるのか。スペックを上げていけば宇宙の「果て」まで見られるのかというとそうではない。それは技術的な問題ではない。約130億光年先の銀河が限界。なぜか。130億光年先の星を見るということは、130億年前の星を見るということになる。宇宙の誕生は今から137億年前と推定されるが、誕生から2億年ほどの宇宙はまだ星ができていない状況。そこには光というものがない。ばらばらの原子と暗黒物質だけ。だから望遠鏡では見られない。・太陽内部では、水素が核融合反応を起こしてヘリウムに変換され、膨大なエネルギーを生み出しているが、45億年ほど先に水素を使い果たした太陽はヘリウムを燃やし始める。その時に太陽は地球を呑み込む膨張しているはずだが、もしかしたらその前に天の川銀河がアンドロメダ銀河と衝突しているかもしれない。・「クォーク」はジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の中に出てくる「鳥の鳴き声」から採られた名前。・素粒子には、「排他原理」の働かない、同じ場所にいくらでも詰め込める性格をもつものもある。・デンマーク出身のボーアらが唱えた、量子力学における「コペンハーゲン解釈」は、観察者が「見る」まで、ある粒子の位置は決められないというもので、当初はアインシュタインやシュレーディンガーも異を唱えたが、現在は物理学のスタンダードな考え方になった。・量子電子力学では荷電粒子同士の「光子の交換」で説明する際に「ファインマンズ・ダイアグラム」で図示されるが、図では、「反粒子」は時間を逆行することになる。これはちょうどノーランの『テネット』を観て間もない折りだったので結構おもしろがれた。・暗黒物質がもしなかったら、そもそも太陽系や銀河系自体が存在せず、つまり私たちも存在していないはずである。・物質と反物質が出会うと互いに消滅する。なぜ現在、宇宙に反物質がなく物質しかないのは、最初の段階で物質が若干だけ多かったからで、その差は計算すると、10億分の2。でもなぜこの差がついたのかは、まだわかっていない。言ってみれば私たちが宇宙に存在する理由が物理的にはまだわかっていないということである。・宇宙の終わりについて。もし膨張が止まったら、その後収縮が始まり、やがて潰れる。これを「ビッグクランチ」という。ただこれは宇宙の膨張が減速するという仮定の基に考えられていた。実際は先述の通り、膨張は加速している。膨張速度が無限大に達した時には「ビッグリップ」(「rip」は引き裂く」の意)が起きる。銀河系も星もばらばらになって分子や原子になり、さらにそれらも素粒子になる。・私たちの身体は超新星爆発の星くずでできている。 中途半端な紹介になってしまった。よくわからなかった第3章、第4章についてはほとんど触れられなかった。ということで、本書は、文系の私にはわからないところも随分多かったが、読んでいる間はずっとわくわくしていた。妙な「高揚感」みたいなものがあった。 たぶん昔から、大風呂敷の話が好きだった。それが現在の日常に関係あろうがなかろうが、役に立とうがそうでなかろうが、広い見晴らしのいい風景や視野が開けるだけで何となく気分がいい。穏やかな気分になれる。 読み終えて改めて思ったのは、私たちの生存は「奇跡」的な確率の積み重ねによって初めて叶えられているということである。 では、次回、DEGUTIさん、お願いします。(T・KOBAYASI・2021・01・15)追記2024・03・25 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.08.24
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100days100bookcovers no58 (58日目)寺田寅彦『柿の種』岩波文庫 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。 さて、YAMAMOTOさんから渡されたバトン、『あなたのために いのちを支えるスープ』は、辰巳芳子さんの言葉が読んでみたくて手元に置きたい1冊でしたが、リレーの段ではたと困りました。「料理の本」と言えばうちにあるのはかんたんなレシピ集ぐらい、辰巳芳子さんの著作も読んだことがないので、どんな付け筋があるのか、なかなか思いつきません。糸口を見つけるために、辰巳さんのWikipediaを見てみましたら、ふと目が留まったのは、辰巳家のご先祖が加賀藩の藩士だった、という項目でした。 ほう、士族だったのか。そのときふと、ひとつのエピソードが頭を過ぎりました。幕末の土佐藩で起こったある事件のことです。 土佐藩の上級武士(上士)と下級武士(郷士)がつまらないことでケンカになり、郷士の池田忠治郎が上士に斬り殺されてしまいました。忠治郎に同行していた同じ郷士の宇賀喜久馬が、殺された忠治郎の兄・池田寅之進の元に駆けつけ、激昂した寅之進がとって返して仇の上士を斬り殺してしまったため、事件は大ごとになり、結局、寅之進と喜久馬の2人が切腹をすることで決着しました。 このとき、宇賀喜久馬を介錯したのが喜久馬の実兄だった18歳の寺田利正、のちに寺田寅彦の父となった人物ですが、利正は、実弟の介錯をしたことで精神を病んだ、と言われています。寺田寅彦のことを考えると、このエピソードがどうしても浮かんでしまうのです。 のっけから物騒なエピソードですみません。むりくりで、ほとんど無関係と言っていいような繋がり方ですが、どうぞご寛恕を。 『柿の種』(寺田寅彦著、岩波文庫) この本を読んでみようと思ったきっかけは、ほんの数年前、『書を読んで羊を失う』(鶴ヶ谷真一著、平凡社ライブラリー)という書物の中の「丘の上の洋館――寺田寅彦」というエッセイを読んだことでした。その後、『柿の種』を読むかたわら、寅彦の評伝『寺田寅彦 妻たちの歳月』(山田一郎著)を読みました。人物に対する興味が先行してしまうのは私の悪癖ですが、おかげで、寅彦が生きた時代や家庭環境に、少しだけ詳しくなったのです。 寺田寅彦は、東京帝国大学理科大学の物理学教授でしたが、随筆家としても多くの書物を残しました。熊本の五高で夏目漱石に俳句の手ほどきを受けて以来、生涯漱石を師と仰ぎ、漱石の人となりについても数多く随筆を残しています。 寅彦の随筆は、つまり大学教授の書いた文章というわけですが、私は、天才的な文章家がたまたま大学教授になったのが「寺田寅彦」だと思っています。寅彦は、常人とは少し離れた境涯に浮かぶ「島」に住んでいるような人です。かつて自分のブログに書いた感想をそのまま書き写しますが、寅彦の文章は「俳味なんていうスカスカしたものではない。観察から展開される思考は玄妙で、ときに面妖ですらある。そのうえ、ほんのりとさびしい」 のです。 それはもちろん、持って生まれたギフトだったのでしょうが、上に書いたように父の身の上に起こった事件、生まれる前の家系に起こった悲劇が、寅彦の人生にまったく無関係だったとも思えません。寅彦はまた、生涯に三人の妻を娶っていますが、一人目、二人目の妻とは若くして死別しています。医療が満足ではなかった時代にはよくあることだったのでしょうが、若い頃から近しい死を何度も体験していることは、文章家寅彦にとって大きな影であるとともに、書くことへのアクセルでもあったのではなかろうかと、まったく根拠のない想像を巡らしてしまうのです。 でも、というか、だから、というべきか、寅彦の書いていることは不思議なほど時代を感じさせないものが多く、普遍的です。『柿の種』は「短章 その一」「短章 その二」からなっていますが、「その一」は友人の松根東洋城が主宰していた俳句誌「渋柿」に毎号寄せていた短文を集めたもので、気楽に思いついたことを書くというスタイルが自由な発想を開花させている文章、「その二」は科学者として感じること、社会の一員として生きることへの思考なども盛り込まれたもう少しよそ行きの文章になっていて、寅彦の視野の広さを感じます。 科学者らしく、災害についての言及も数多くあります。『天災と国防』という著作もありますが、その中には「天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになる」 と書かれています(Wikipediaに教えてもらいました)。「天災は忘れた頃にやってくる」 ということですね。 『柿の種』の文章も引きたいところですが、一部を引くより、その世界を楽しんでいただきたい本です。短文ばかりですし、〈青空文庫〉で簡単に読めますので、ご興味がある方はお読みいただければと思います。 ということで、ほんのさわりだけ。「日常生活の世界と詩歌の世界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。」 の一文で始まる「短章 その一」の巻頭の文章は、ガラス板のむこうとこちらを行き来することについ て、暗喩を織り交ぜながら書かれているのですが、この喩えがなんとも意表を突く発想で、感心しながら読み進むと、最後に「まれに、きわめてまれに、天の焔を取って来てこの境界のガラス板をすっかり溶かしてしまう人がある」 と結ばれます。この一文に、寅彦の資質が溢れているような気がして、何度読んでも痺れてしまいます。 それではKOBAYASIさん、お願い致します。(K・SODEOKA・2021・01・04)追記2024・03・26 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日~80日目)のかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.08.23
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堀貴秀「JUNK HEAD」神戸アートヴィレッジ 「1時間40分の長編アニメーション映画を、たった一人で、7年の歳月をかけて作ったらしいんだけど、海ん向こうで評判になって、逆輸入されて、それが、また評判らしい。」 そんな風の便りが世間知らずな徘徊老人の、かなり疎い耳にも聞こえてきました。海外で評判になって逆輸入というところに、老人の旧式なアンテナが反応しました。 作品は、堀貴秀「JUNK HEAD」です。神戸アート・ヴィレッジで見ました。ストップモーション・アニメというらしいですが、膨大な手間暇がかかる方法で作られたらしいですね。やはり、評判なのですね、アート・ヴィレッジとは思えないお客さんで、時節柄ちょっとビビりましたが、無事見終えました。 チラシの「伝説のカルトムービー」という言い方に、ちょっと、首をかしげましたが、映画には熱中しました。 実感としては「こういう世界を作り上げて、描く人がいるのだ!」という、まあ、「驚き」がすべてだったといっていいかもしれませんでした。 「驚き」ながら、興味を引いた映像の特徴のひとつは、底流しているイメージの、これは「幼児性」といえばいいのでしょうか。突如、道端で行われる排泄シーン、天井に潜んで襲い掛かってくる怪物の恐ろしさの形、「ごちそう」と評判のキノコの形、どれも、これも、かなり直接的な「子ども」の幼い「性」の世界を強くイメージさせる形象だと思いました。なによりも「人間系」のキャラクターたちの「イノセント」ぶりは「子ども」そのものといっていいのではないでしょうか。 もう一つの「驚き」は見終わっても、なんだか何も残らない「無思想」ですね。まあ、そんなふうに映画を観てしまうからそう思うのでしょうが、いわゆる「表現」を支えている「主張」が何も感じられないことでした。「アナーキー」でも「ニヒル(虚無)」でもない、まあ、あるとすれば、ある世界を構築して見せるオタク的「情熱」ですね。 海外からの逆輸入、幼児性、無思想、こうして並べてみると、なんか、とても「現代的」だと感じるのですが、いかがでしょうか。 続編が、計画・準備されているということらしいです。ええ、もちろん見ますよ! この、意味不明の存在感がどこに向かうのか、やはり、気になりますからねえ。 久しぶりのアート・ヴィレッジの正面のガラス窓(?)には、子供たちの「お絵描き」が溢れていました。まあ、2021年8月14日で、雨でした。そういえば、それ以来、ずっと雨が降っていますね。監督・原案・キャラクターデザイン・編集・撮影・照明・音楽 堀貴秀音楽 近藤芳樹制作 やみけん2017年・99分・G・日本2021・08・14‐no76神戸アートヴィレッジ(no16)
2021.08.22
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キム・ドヨン「82年生まれ、キム・ジヨン」パルシネマ 映画と同じ題名の原作の小説が評判になったのがつい最近だったと思うのですが、あっという間に映画化されて、封切りを見損じたと思っていたらパルシネマでやってくれていました。 キム・ドヨン「82年生まれ、キム・ジヨン」です。 河島直美の「朝が来る」と二本立てで見ました。河島の作品には、なんだかうまく言えない「ウソ」のにおいがしましたが、この作品には、明るく、ストレートに言いたいという、率直な「ホント」を感じました。 新人のピッチャーが全力投球して、タマは早いけど、ちょっとストライクじゃないねという印象です。 原作小説では、主人公キム・ジヨンの担当医が、彼女の訴えを記録した「カルテ」という構成で描かれていた「社会」が、映画ではキム・ジヨンが直接出会う世界として描かれています。 結果的に、現代韓国社会で生きる女性の「ドキュメンタリー」のような体裁で、シンプルでわかりやすいのですが、「社会」も「人間」も、なんというか、分厚さというか、重層性を失っている印象でした。 まあ、その結果というわけでもないのですが、俳優さんたちの演技や、描かれている社会のリアリティに、共感したり、疑問を感じたり、「日本」も一緒やとかいうような感想に落ち着く映画になっている気もしました。それはそれで納得のいく作品なのですが、原作で、構成的要素としてしか描かれていませんが、思い浮かべざるを得ない、男性医師がカルテを記入するときの「意識」の闇については表現しきれていないのではないかという印象を受けました。 キム・ジョンが抵抗している、社会の無意識のような女性に対する抑圧に意識を支配されている男性医師による診察という構造が、女性の医師・カウンセラーに置き換えられて、この映画は作られているわけですが、その結果テーマに対する印象が、少し変わったんじゃないかと感じたわけです。 映画化が原作に対して忠実である必要は全くないと思いますが、最後のシーンで、社会と妻の板挟みになりながらも、終始、妻をいたわり、「やさしい」夫であったデヒュンが、笑顔で「子どもを作ろう!」とジョンに抱き着くのですが、「えっ?なんか解決したの?」って、思わず笑ってしまいました。 なんだか貶しているようですが、しかし、正直で率直な明るさと強さが描かれている後味のいい映画でした。なんといってもこの映画のような率直さは、日本ではあまり見かけないように思うのですが。「球は、確かに速いんですよ!」(笑)監督 キム・ドヨン原作 チョ・ナムジュ撮影 イ・スンジェ編集 シン・ミンギョン音楽 キム・テソンキャストチョン・ユミ(ジヨン)コン・ユ(デヒュン:夫)キム・ミギョン(ミスク:母)コン・ミンジョン(ウニョン:姉)キム・ソンチョル(ジソク:弟)イ・オル(ヨンス:父)イ・ボンリョン(ヘス:同僚)2019年・118分・G・韓国原題「Kim Ji-young: Born 1982」2021・06・15-no56パルシネマno41
2021.08.21
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小田香「あの優しさへ」元町映画館「小田香特集2020」のシリーズで、「ノイズが言うには」と二本立てで見ました。小田香がサラエボの映画学校で学んでいるときに撮った映画だそうです。そうそう、あの、タル・ベーラの映画学校です。 カメラを持っているのは小田香自身です。映っているのは、小田香が出会う人間たちであり、彼女が出会った風景、部屋、そして、二本立てで、一緒に見た「ノイズが言うには」を撮った時の、三脚に乗ったカメラではなく、小田自身が操作している、ハンディ・カメラの映像です。 カメラを持つ人間を、被写体によってドキュメントした映画といっていいのではないでしょうか。ぼくは、そんな風にこの映画を見ました。 一台のカメラではどうしても撮ることができないのは「カメラ」自身です。この映画を撮っている人が、どうしても撮れないのは自分自身の姿です。ならば、どうすればいいのか。 そんなことを小田自身が考え続けて撮っている映画だと思いました。 実は、人間の「眼」も、自分自身を見ることが出来ないわけですが、「自分自身を見ようとするときに、あなたはどうしているのか」、そんな問いを投げかけられていると感じた映画でした。 もう一つ感じたことは、「被写体をカメラの焦点、あるいはカメラを持っている人の『視線』の対象として、抑圧しない映像は可能か?」ということでした。多分、不可能なのですね。でも、そのことを意識して構えられたカメラと、意識せずに操作されたカメラでは、ひょっとしたら違ったものが生まれるのではないか。そういう期待感もありました。 ここから先は、言葉では言えません。小田自身が作品の中で口走る言葉の中に「やさしさ」という言葉があったかもしれません。しかし、その「やさしさ」もまたことばであって、この映画で映しだされている「被写体」、つまり人間や風景を他の方がどんなふうにご覧になったのか、ぼくにはわかりません。 しかし、ぼくには、そこに確固とした「人間」と、人間が見ている「風景」、言葉であれこれ説明する必要のない、まさに「人間」そのものが映っているように見えました。 ぼくは、それを凄いことだと思いました。映像だからではなく、おそらくカメラを構えている小田香の「技術」がそんなふうに撮っていると思うからです。 彼女が口にする「やさしさ」が、どうしてそう見えるかはわかりませんが、技術として映像に定着していると感じました。やはり、これはすごいことだと思いました。 監督・撮影・録音・編集 小田香2021・03・31-no36元町映画館no83
2021.08.20
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ベランダだより 2021年8月17日 「雨の百日紅」 雨なんですが、玄関を出たところの百日紅が「みずみずしく」て、思わず撮りました。隣の棟のまえにもあります。 百日紅といえば、残暑の日盛りの花のイメージがあります。雨に濡れて咲いている様子も悪くないですね。7月の酷暑といい、8月の大雨といい、それぞれが、なんだか極端な毎日が続きますが、考えてみれば、まあ、考えなくても8月の下旬に差し掛かっている今日この頃です。 それにしても、スマホって、どうしてこんなにピントがあわないんでしょね。おっと、こちらには、芙蓉の花が上品な風情で雨に濡れていらっしゃいましたよ。 もう一枚ね。 しかし、涼しくなっていることは事実ですね。ベランダからちょっとはみ出したベランダだよりでした。ボタン押してね!
2021.08.19
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ドロン・パズ ヨアブ・パズ「復讐者たち」シネ・リーブル神戸 ドイツとイスラエルの合作映画だそうです。1945年のドイツが舞台です。 「日本」では第二次世界大戦の終結は1945年の8月15日です。実はこの記事は2021年の8月15日に書いています。この日のことを「日本人」は、なぜか「終戦」などといっていますが、本当は「敗戦」、「無条件降伏」記念日というべき日ですね。 ぼくの浅学の結果ですが、たとえば5月8日が、ヨーロッパでは「戦勝記念日」になっていて、現在のドイツ連邦共和国では「解放記念日」とからしい、なんてことは皆さんはご存じなのでしょうか。ぼくは、よく知りませんでした。 「終戦」というふうに戦争の責任を、どこか他人事化している「日本」ですが、その同盟国だったナチス・ドイツは、ヒトラーがその年の4月30日に自殺し、5月8日が連合軍に降伏したわけで、その日は戦後のドイツ連邦共和国にとってはファシズムからの「解放」の日ということなのでしょうね。 「日本人」にとって、あの「戦争」は何だったのかという「問い」をホッ散らかしたまま、英霊の御霊とかいう言葉が政治の当事者の口から出てくるのを、異様な光景だと思っていますが、ナチス政権下のドイツ国民にとって「ナチス」とは何だったのか、「絶滅収容所」とは何だったのかという「わからなさ」が、やはり、ぼくには残りますね。 例えば、有名なアウシュビッツ収容所は、その年の1月にはすでに解放されています。 大陸の戦線では当然の時間差ですが、この映画は絶滅収容所から生きて帰ってきた男が家族全員の死を知り、ナチスに対する復讐の道を探るところから始まります。 舞台は敗戦直後のドイツの都市です。ようやく連合軍の各国の部隊が到着し始めた時期のベルリンかなとか思いながら見ていましたが、はっきりしたことはわかりません。主役のマックス役の俳優アウグスト・ディールに見覚えがありました。「名もなき人生」という作品でナチスによる徴兵を拒否して死んだ農夫を演じていた人です。こだわるタイプの顔つきなのでしょうね。 まあ、物語は「プランA」と呼ばれた壮大なテロ計画、「600万人の死に対して、600万人の死を」という、ユダヤ人による復讐計画の実行を巡ってのサスペンス仕立てでした。 連合軍のドイツ占領の思惑やパレスチナでの建国計画と絡んで、なかなか面白いのですが、計画事実があったかなったかという興味もさることながら、計画で終わったということは歴史的事実なわけで、映画としては、そのあたりの盛り上げ方が難しかっただろうなという感じでした。実際、アンチ・クライマックスで、平和的なラストで映画は終わります。 もっとも、計画に携わった人たちが、のちのイスラエルで、軍の高官とかになったことが、映画のエンド・ロールだったか、その字幕だったかで伝えられますが、何だか疲れました。 建国後のイスラエルという国の歴史について、無知と無責任を承知で言いますが、この映画が描く「復讐」の心情について、さほどの違和感は感じませんでした。例えば、解放後のフランスなどでも、そういうテロルがあったことを聞いたこともあります。 ただ、建国後のイスラエルの軍部の中に、その「心情」が流れ込んだかのようなニュアンスが語られたところに、なんだか微妙な違和感を感じました。 ドイツ・イスラエル合作とあるこの映画に、誰が金を出しているのか、そこのところを、ホントは知って考えた方がいいのかもしれませんね。監督 ドロン・パズ ヨアブ・パズ脚本 ドロン・パズ ヨアブ・パズ撮影 モシェ・ミシャリ美術 レナート・シュマーデラー衣装 グトルン・ライエンデッカー編集 エイナ・グレイザー=ザーヒン音楽 タル・ヤルデーニキャストアウグスト・ディール(マックス)シルビア・フークス(アンナ)マイケル・アローニニコライ・キンスキーミルトン・ウェルシュオズ・ゼハビヨエル・ローゼンキアーイーシャイ・ゴーラン2020年・110分・G・ドイツ・イスラエル合作原題「Plan A」2021・08・09‐no71 シネ・リーブル神戸no110
2021.08.18
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「今年の夏も咲きました!」 ベランダだより 2021年8月16日 ベランダあたり 夜の夜中、2021年の8月16日、午後11時過ぎにベランダに出たチッチキ夫人が声を潜めて叫んでいます。「ちょっと―咲いたわよー!」「ああ、やっぱり咲きましたか。でも、どうして、こんな夜中に咲くのかなあ?」「カニシャボとか、一日中咲いてんのにねえ。」 暗いので、うまく撮れませんがこれが写真です。上の写真を見ながらチッチキ夫人がいいました。「なんか、お化けみたいね。」「妖艶といいなさいよ。」「いや、なんか、マンガであったわよ、おしゃべりして動き出す花のお化け、あれみたい。」「知りません!ちょっと撮り直してみるわ。」 撮り直しましたが、さして変化はありません。扱い方がよくわからないスマホのフラッシュで撮っています。二つ咲いています。 これが全景です。どうして色合いが違う写真になっているのか、まったくわかりません。(笑) ちょっと角度を変えてみました。 午前中に「どうも咲きそうだ」と気づいて、写真を撮っておきました。 こんな様子でした。なんか、ダサい写真ですね。もう少し真面目に撮っておくべきでしたかね。(笑)それにしても、暑い最中に咲くんですね。今年は春先に一度咲いたような気もするんですが、えらいもんです。 遠くにいる、ゆかいな仲間に写真を送ると「明日はしおれるやつやろ。」って返事がきました。まあ、そうなんですが。 真夏の夜の夢っていいますが、なんとなくたのしい夜です。ボタン押してね!
2021.08.17
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藤谷治「睦家四姉妹図」(筑摩書房) 藤谷治という作家も作品も知りませんでした。読んだことのない作家や作品を「ちょっとこれどう?」という感じで、まあ、いつも教えていただく知人から差し出されました。「4人姉妹といえば、谷崎の細雪なんだけど、これも4人姉妹よ。ちょっと読んでみない?細雪は900ページだけど、これ200ページくらいで済むからね。」 なんだか、意味深な笑顔です。「はずれなの?」「さあ、どうでしょう。」 というわけで自宅に持ち帰って、いつものように食卓に放りだしているのをチッチキ夫人が見つけていうのです。「あら、この人知ってるわよ。」「えっ、なんで?」「筑摩書房の『ちくま』の連載でしょ。」 そうなんです。彼女は岩波書店の「図書」とか講談社の「本」とか、いわゆるPR誌の鬼というか、とっても熱心な読者なのです。「ちょっと。先に読んでいい?」「はい、はい、どうぞ、どうぞ。」 二日ほどして、本は食卓に戻ってきました。「ちょっと、これ、さっさと読んでみてくれる?」「えっ?なに?なにかあったの?」「いいから、読んでみてよ。」「面白かったの?」「さあ、どうでしょう。」 振出しに戻りましたね。じゃあ、読み始めましょうか。最初のページにこんな図が載っていました。 1988年、昭和63年の1月2日の「睦家」の家族写真です。「睦家四姉妹図」という作品名はこの仕組みからつけられているようですね。 この作品は8章で構成されていますが、各章の冒頭には必ずその年の1月2日に撮られた家族写真か掲げられています。記述はその日に集まった家族の様子です。なんで、1月2日なのかというと、その日が四姉妹の母、睦八重子さんの誕生日だからですね。 上の写真を撮った第1章「揺れる貞子と昭和の終わり」の冒頭はこんな感じです。 貞子が帰ると、家の中には誰もいなかった。「明けまして、おめでとうございまあす・・・・」 人の気配は全然しなかったけれど、一応、挨拶しなながら入っていった。コートを脱ぎ、荷物と一緒に応接間のソファに放り出し、台所の方をチラッと見たが、やはり無人である。「ふん・・・・・」 貞子はため息をついた。 長女貞子二十四歳、正月の二日目、毎年恒例になっている、母八重子の誕生パーティーのために帰宅したのですが、残りの家族は、なぜか留守だというシーンです。 この日から、ほぼ二十年後、平成二十年、2008年のこの日は第6章「このごろのサダ子さん」です。 まずこの写真があります。 妙に人数が増えていますが、冒頭はこうです。 もはやいちどきに全員が応接間に収まることはできない。子どもたちは年齢に差もあるし、そうしょっちゅう顔を合わせているわけでもない。男の方が多いからお互いへのけん制もあるかもしれないが、それでも応接間から食堂、奥の間や浴室に向かう廊下を、みんなで甲高い声を上げて走りまくっている。 ついでなので、最終章「楽しき終へめ」も引用してみます。(ちなみに、ぼくはこの題が読めませんでした。) 日付はご覧の通り、2020年の1月2日です。30年余りの年月が立ちました。写っているのは1988年の写真と同じ6人。ただし撮っている人が余分に一人います。場所は埼玉県のURの賃貸住宅です。 乗り慣れない電車の乗り換えに手間取って、各駅停車だけが止まる小駅にたどり着いた時には、電話で告げた予定の時間よりも一時間以上遅れていた。「電話しとこうか?今来たって」という梶本に、「いいよ」貞子は答えた。「あと五分だもん」 駅からの道は、迷いようもない。駅を背にして広々とした歩道を、ただまっすぐに歩いていくと、十字路の先に巨大な白い集合住宅が、二、三百メートル先の行き止まりまで並んでいるのが見える。 まあ、こんなふうに、さほど手間もかからず読みえたわけです。読み終えると、さっそくチッチキ夫人が聞いてきました。「どう?」「うん、まあ、おもしろいんじゃないの。」「どこがあ?」「それぞれの章の始めにある写真の図かな。これ、架空の家族でもいいけど、本物の写真だったら、投げ出していたような気がする。最初6人だった写真が、年ごとに増減すやんな。一応、長女の貞子の語りでその日のことが語られるねんけど、みんな、薄っぺらいねんな。子どものいない貞子の目という都合に合わせた、勝手な客観描写があるだけやし。でもな、その年その年の写真の名前を見ながら、だんだん、膨れ上がっていくねん。苗字が変わったり、何年か前はあったはずの苗字と一緒に男の名前が消えたり、また新しい名前がふえたり。 正月の二日に、オバーチャンの誕生会に集まる子供や、その親がどんな暮らしをしているかなんて、急にピアノ引き出した子がおったり、寝てたのに泣き出したり、もうそれでなんかわかるというか、離婚の事情とか、最後の章の書き出しでも、写真の名前見て、ああ、梶本って貞子の男で、こういう奴やんなって。」「どういうことか、ようわからへんわ。」「そやから、繰り返し8回写真の名前見て、読んでる読者は昔のホームドラマを勝手に思い浮かべるように、自分の生活とかに浸るように仕組まれてんねんって。」「地震のこととか、流行りのマンガとかのことはなんで出てくんの?」「細雪が昭和の初めの歴史やってんから、こっちは平成の歴史でっせって」「それって、インチキくさくない?」「うん、舞台背景、書割っていうやろ、それしかない。まあ、それも、通俗ちゃあ通俗やねんけど。個々の登場人物の気持ちの描写ってステロタイプやろ。その人物らしいこと、その事件らしいことだけ書かれてて、他には、ほぼ、なにも書いてへんねんけど、そやから、みんな同感できんねん。名前と年齢だけ見て読者が考えてくれる。写真には名前と年齢しかないからイメージは読み手の自前。だから、リアルやねん。」「でも、読み終わっても、何にも残らへんやん」「残ったら、ウザイやろ。この作品は読者の30年間の平和な夢なんやから。これ、かなりなたくらみや思うで。」 と、まあ、老人だから、そう思うにすぎないかもしれない意味不明な会話でしたが、なんというか、「細雪」との隔絶は近代文学の終焉どころの話ではなさそうです。ひょっとして、「文学」以外のジャンルでは当たり前の現象に過ぎないのかもしれませんね。 勝手な言い草ですが、広告会社が「感動」とか「同感」とかの「肝」みたいなもの集めて、それを、それぞれの「事件」の「リアル」として構成するためだけのアイデアをひねって生まれてくる「作品」というのが、「自然」な「情感」にフィットするという、恐るべき時代が始まっているのでしょうね。 それにしても「ちくま」の連載だったということが、それはそれで感慨深かった読書でした。お暇な方におススメです。(笑)
2021.08.16
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マイテ・アルベルディ「83歳のやさしいスパイ」シネ・リーブル神戸 見たのはマイテ・アルベルディという、多分、アメリカ(?)の監督の「83歳のやさしいスパイ」でした。 「アンナ、出てきてる人らな、ホンモノや思うねんな。もうな、ちょっとボケてはる様子とかもやけど、顔の表情とか皺とか、なんというか立ち居振る舞いが演技チャウで、あれは!ほんでな、スパイ役のジーさんが、その皺くちゃやったり、『ちょっと太めデンナ』のオバーチャンらの人気モンになんねん。それが、なんか、リアルやねん。作りごととは思われへんで。」 まあ、とか、何とかを帰宅して早速、チッチキ夫人相手にまくしたてた映画でした。 どうしてそう思い込んだのかわかりませんが、予告編から本編を見終わっても、まだドラマ、劇映画だと思い込んでいて、帰宅してチラシとかネットのレビューとかを読みながら、ようやくドキュメンタリィー作品だったことに気づきました。 確かに、「探偵」役のセルヒオさんが老人施設に入所する時の面接の場かどこかで、撮影しているスタッフとかカメラが映し出されるシーンはありましたが、展開の「面白さ」に気をとられていたのでしょうね、「まあ、そういう手法もあるよな」 とか思って、ドラマとして何の不自然も感じませんでした。 それにしても、見ながら、一番圧倒されたことが、登場する老人たちの、とても役者の演技とは思えない「リアル」な様子! だったわけですから、気づきそうなものですが、疑いもしませんでした。 で、一番「スゴイ!」 と思ったのは、この探偵さん相手にオバーチャンたちが実によくしゃべらはって、なんか、とても素直に心を許していらっしゃったことでした。 考えてみれば当たり前のことですよね、オバーチャンたちからすると、同じ年恰好で、同じ境遇の、それも男性(これもかなり重要なポイント?)が、ベッドの枕元まで来て話を聞いてくれて、なんかおしゃべりすると返事してくれる。何せ、探偵なのですから、決して無視しない。 彼女たちが毎日出会っている若い看護や介護の人は、こんな悠長な態度で、彼女たちの相手はできないでしょうし、たとえ出来たとしても、まあ、言ってしまえば「上から目線」のやさしさになりがちでしょうからね。 この作品は、セルヒオさんという80歳を超えていて、「ところで、あなたは大丈夫なの?」 と尋ねたいような人が、シーン、シーンでそれぞれの人の隣にすわって話を聞いていたり、心配げにベッドをのぞき込んで話しかける姿を一緒に撮ることで、カメラが持ってしまいがちな「上から目線」というか、テレビなんかで見かける「潜入ルポ」的な興味本位の感覚とは少し違う、自由な映像をつくりだしていると思いました。 セルヒオさんが出会う度に「自分がいろんなことを、すぐに忘れていっている.」 といって悔やむ女性がいます。数日後、セルヒオさんは、エージェント力を発揮して取り寄せた家族の写真を彼女に見せて、「我慢しないで、泣いてもいいんですよ。」 とか、なんとか、話しかけるのですが、そのセルヒオさんの前で、彼女が声を上げて泣きはじめるシーンがありました。とても他人事とは思えない印象を持ちましたが、そう感じさせたのは、ぼく自身の年齢のせいだけではなく、映画の作り方の工夫に理由の一つがあったと思うのです。 大活躍で人気者の老探偵でしたが、「やっぱり、もう、家族のところに帰りたい!」 と訴えて、仕事を終え、施設を去っていくシーンで映画は終わりました。 彼だけは役柄を演じていたわけですが、演じながら彼は哀しかったのでしょうね。老探偵の人柄が胸を打つラストでした。いやはや、ご苦労様でした。拍手!監督 マイテ・アルベルディ脚本 マイテ・アルベルディ撮影 パブロ・バルデス編集 キャロライナ・シラキアン音楽 ビンセント・ファン・バーメルダムキャストセルヒオ・チャミー(探偵)ロムロ・エイトケン2020年・89分・G・チリ・アメリカ・ドイツ・オランダ・スペイン合作原題「El agente topo」「The mole agent」(「潜入スパイ」)2021・08・12‐no74シネ・リーブル神戸no109
2021.08.15
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ジム・ジャームッシュ「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」シネ・リーブル神戸 ジャームッシュ特集第3弾は「吸血鬼」のカップルのお話でした。なんか、どこかで見たことがあるなという感じの、印象的な「美人」女優ティルダ・スウィントン演じるイヴと、まあ、「わがままで才能のある男前」がぴったりという雰囲気のトム・ヒドルストンのアダムというカップルの苦悩(笑)の物語でした。 ぼくにとって、吸血鬼といえば15世紀、ルーマニア、ワラキアのドラキュラ伯爵という、まあ、定番というか、いい加減なイメージで、エキゾチックなんですね。 このお二人も、どうも、その伯爵の同族というか、末裔というか、アダム君なんて「シューベルトに曲を書いてやった」とかのたもうていらっしゃいましたから、「あんたら幾つやねん」とお伺いしたくなる年齢のようなのですが、そこは吸血鬼ですから年なんかとらないようです。 とは言いながら、若いころのようにそこいらの善男善女の首筋にむしゃぶりつくわけにはいかないらしく、輸血用の血かなんかをこっそり手に入れて「RHマイナスO型は、やっぱりいいね」とか何とかいいながら(そんなセリフはありませんが)ワイングラスで啜ったりなさっていて、笑えます。 なんか、昔、極東の島国でも、岸田森という、まあ、今となっては懐かしい男前がやってたこともあったような記憶がボンヤリあります。あんまり「東洋の田舎」にはなじまなかった気もしますが、なんといっても、ジャームッシュという監督のこの映画にただようセンスには遠く及ばなかったような気がしますね。 たとえば、ミュージシャンのアダムが暮らしているのはアメリカのデトロイトですが、イヴが暮らしているのはタンジールというのですから、モロッコですね。地中海のアフリカ側です。そこからイヴは飛行機で飛んできて何十年ぶりかで愛し合ったりするわけです。 世界の果てで、散り散りに生きのびている吸血鬼が、夜間に、飛行機で、大西洋を飛び越えて、何十年ぶりだかに、やってきては愛し合うのです。もうそれだけで笑えるようなものですが、その結果、二人がヌードで抱き合って寝ているシーンなんかがモノクロのストップモーションで映し出されて、なんというか、映画でしか映せないというか、現実離れしていているというか、とても笑ってなんていられない美しさに息をのんだりさせるのです。監督のセンスがキラキラしていますね。 まあ、そこからは、イヴの妹らしいのですが、エヴァなんて言う跳ね返り吸血鬼娘というか、トリック・スターというか、が登場して、生きづらい「現代」を、素性を隠しながら生きる吸血鬼カップルの美しくも哀しい「愛のくらし」はぶち壊され、その結果、今度は二人してモロッコまで逃れていくの羽目に陥るというドタバタ展開が待っています。この辺りにも、見どころ満載なのですが、頼りにするはずだった吸血鬼作家マーロウ師も老衰には勝てず亡くなってしまい、取り残された二人が、すっかり行き暮れて、空腹にあえいでるところに、夜の浜辺で愛を語る人間(まあ、彼らはゾンビと読んでいるのですが)のカップルがあらわれるというラストシーンでした。 まあ、そこで起こることは、吸血鬼の行為としては、当然といえば当然の結末なのですが、笑えました。 なんというか、お話全部が常軌を逸しているのですが、そこがいいのです。現実の人間の世界に向きあいながら、少しずれている。吸血鬼の話なのにファンタジーでもホラーでもなくて「リアル」に迫ってくるものが確かにあって、それが、フワッと浮き上がっている感じですね。「面白い」といって騒ぎ立てたり、誰かにすすめる気にもなりません。でも、ぼくは、これ好きです。そんな感じ。監督 ジム・ジャームッシュ脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 ヨリック・ル・ソー美術 マルコ・ビットナー・ロッサー衣装 ビナ・ダイヘレル編集 アフォンソ・ゴンサウベス音楽 ジョゼフ・バン・ビセムキャストティルダ・スウィントン(イヴ)トム・ヒドルストン(アダム)ミア・ワシコウスカ(エヴァ:イヴの妹)ジョン・ハート(マーロウ・作家・二人の師)アントン・イェルチン(アダムのエージェント)ジェフリー・ライト(輸血用血液密売医師)スリマヌ・ダジ2013年・123分・G・アメリカ・イギリス・ドイツ合作原題「Only Lovers Left Alive」2021・08・09‐no72シネ・リーブル神戸no108
2021.08.14
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ジム・ジャームッシュ「パターソン」シネ・リーブル神戸 映画.COM ジム・ジャームッシュ特集、第2弾は「パターソン」です。「ミステリートレイン」と二本立てで見ました。 パターソン市に住むパターソン氏という名の、市内定期バスの運転手の1週間の生活の記録フィルムでした。写真は「パターソン氏」のおうちのブルドッグ「マービン君」です。本名「ネリー」だそうです。恐るべき演技力の持ち主でした。 パターソン氏を演じているのはアダム・ドライバーという俳優さんで、最近よく見かける人でした。友人には好きだという人が多いのですが、ぼくは好きでも嫌いでもありません。顔は憶えやすいと思うのですが、だからといって何かを特徴づけているわけではない印象で、「すごく」がつきそうな行為の主体にはならない気がします。 そういう意味では、今回のバスの運転手で「詩」を書いている人という役柄ははまっていました。こんなことをいうと叱られそうですが、見かけ上、「詩」を書くことが似合わない人が、それも結構ナチュラルな感性表明型の「詩」を書いているという、なんだか正体不明の男にぴったりでした。 で、画面が問いかけてくるのは「詩」って何なんだよ、「日常」って何なんだよっていうことだったりするわけです。 ところで、この映画で顔と演技がおもしろかったのはブルドッグのマービンくんでしたね。ひょっとすると、先の疑問に見事に答えている可能性すらある存在感で、ジャームッシュという人の本領がチラチラ見えてくる気もしましたね。 マービンくんはパターソン氏と、妻のローラの間柄を、どうも嫉妬しているらしいのですが、ひょっとするとパターソン氏の律義な生活や性分そのものに「イラッ!」としているのかもしれません。郵便箱をこっそり壊したり、まだ読みもしていない「詩」について、ローラが持ち上げるたびに唸り声をあげたり、とどのつまりは、パターソン氏の詩の「ノート」をかじり散らしてしまったり。 時間があると、頭の中で推敲しているらしいパターソン氏なのですが、彼の詩作ノートが、ブルドッグのマービンくんにかみ散らされてしまったことが、この映画の最大の事件でした。 思うに、パターソン氏の「詩」は、偶然出会った少女が読んで聞かせてくれた詩と同じように、ピュアでイノセントなものの結晶であって、ローラの愛や、職場のいざこざや、バーで出会う人びとのトラブルの外にある、まあ、もう一人の自分をアイデンティファイするものであって、それは、ローラが次々と生み出すデザインと、おそらく同型ですが、自己拡張型の彼女と違って、頭の中の「ことば」のすることという意味で、より深い孤独の表象だったのではないでしょうか。 マービンくんが、見ているぼくに教えてくれたのはそういうことだったような気がしますね。ノートをなくしたからといって、パターソン氏が「詩の時間」を失うわけではないことをマービン君は知っていたのではないでしょうか。 で、「こういう、何がいいたいのかわからない、何にも起きない映画って、なかなかいいな」って感じていたのですが、滝の前のベンチに座っているパターソン氏のまえに、「ミステリートレイン」ではリーゼントのオニーさんだった永瀬正敏が、黒縁メガネの「日本人の詩人(?)」になってあらわれたのには、まじで、驚きましたね。大阪から来た人だそうです。 ジャームッシュって、やっぱり変な人ですね。見ていて、なんでとかだからどうしてとかいううふうな、なんというか、「ことば」に置き換えて理解しようというか、「解釈」しようという気を失わせるのですよね。で、なんか、笑ってしまうんです。でも、見てる人、あんまり笑わないんですよね。まあ、それも変だと思うのですが、仕方ありませんね。 映画.COM この方ですね。1953年生まれらしいですから、ぼくより一つ年上の方です。 ああ、それから、ローラがいう「あなたはビールの香りがする」という言い回しですが、飲んだ後の匂いって、アルコール臭いだけなんじゃないですかね。「ビール」独特の匂いってあるんですかね。映画の中で、繰り返されることもあって、「ふーん!?」という気分で気になりましたね。しかし、ジャームッシュって、そこのところをかぎ分けたい人なのかもしれませんね。 まあ、今回はブルドッグのマービン君に拍手!でした。監督 ジム・ジャームッシュ脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 フレデリック・エルムス美術 マーク・フリードバーグ衣装 キャサリン・ジョージ編集 アフォンソ・ゴンサウベス音楽 スクワールキャストアダム・ドライバー(パターソン)ゴルシフテ・ファラハニ(ローラ)バリー・シャバカ・ヘンリー(ドク)クリフ・スミス(メソッド・マン)チャステン・ハーモン(マリー)ウィリアム・ジャクソン・ハーパー(エヴェレット)永瀬正敏(日本人の詩人)2016年・118分・G・アメリカ原題「Paterson」2021・08・07‐no70シネ・リーブル神戸no107
2021.08.13
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ルイーズ・アルシャンボー「やすらぎの森」シネ・リーブル神戸 6月の予告編の頃からねらいはつけていました。「これはいけるんちゃうか!?」そんな感じです。7月に入って上映が始まりましたが、時間がうまく合いません。いよいよラスト三日になってようやくたどり着きました。 映画は「やすらぎの森」です。カナダのルイーズ・アルシャンボーという女性の監督の作品です。客は5人でした。 カナダの美しい森のなかの湖が映し出され、ここに隠れ棲んでいるらしい3人の老人が水浴をしています。中の一人が、冷たい水のせいでしょうか、心臓発作を起こします。翌朝、彼が愛犬とともに亡くなっているシーンから映画は始まりました。 残された二人は、元郵便局員で、末期がんのチャーリー(ジルベール・シコット)とアルコール依存症から回復できない歌うたいのトム(レミー・ジラール)です。死んだのはテッド(ケネス・ウェルシュ)、森林火災で家族を失った苦しみを「雨のように鳥が降っ」ている絵を描き続けた絵描きです。 同じころ、スティーヴ(エリック・ロビドゥー)という青年の父がなくなり、父の姉ジェルトルード(アンドレ・ラシャペル)が精神障害者の施設から弟の葬儀にやってきます。彼女の突然の登場に、葬儀に集まった人々は困惑した様子ですが、彼女はいたって正気です。 葬儀を終えて、スティーヴが彼女を施設に送ります。車中でそこに帰ることを拒む伯母の顔を見ていたスティーヴは、彼女を森の棲家に連れて帰ります。ジェルトルードの表情にはスティーヴが彼女にかかわってしまうとことを納得させる、ある「深さ」がある と思いました。 ここから、ぼくはこの映画の世界に一気に引き込まれていったように思います。 スティーヴは客など誰も来ない、森の奥のホテルの支配人を名乗っていますが、本業は大麻の密売人で、その大麻を作っているのが森の3人の老人でした。 彼らは反社会的隠れ家に潜んでいる世捨て人、で、かつ、匿名の犯罪者の集団ですが、そこに転がり込んだのが4人目の老人ジェルトルード(アンドレ・ラシャペル)だというわけです。 施設に帰ることを拒否したジェルトルードが、マリーと名を変えて、森の棲家の暮らしを始めるところから「物語」が動き始めました。 三人の老人が森林と湖水の美しい風景の中で文字通り素っ裸になって暮らす光景が、ようやくたどり着いた穏やかで自由な人生の終わりのための「やすらぎ」のアジール を思わせます。 森を歩くトムが鼻歌で歌う「アメイジンググレイス」、焚火のまえでギターをつま弾きながら愛犬に歌って聞かせるレナード・コーエンの「Bird on the Wire」、死を決意した夜、酒場で歌うトム・ウェイツの「TIME」。トムが映画の中で歌っていたこれらの歌は、この映画のナレーションだったのですが、やがて、森の棲家を追われることに絶望をしたトムは、愛犬とともに自ら命を断ちます。 テッドが描き残して去った、「Il pleuvait des oiseaux(雨のように鳥が降った)」の連作は森林火災で家族を失ってしまった彼自身の心のさまに形を与えた作品ですが、映画に登場する老人たちをシンボライズしているかのように哀しく美しい絵でした。 水辺で日向ぼっこをするマリー、自分の腕で水を搔き、自分の足で水を打って浮かぼうとするシュミーズ姿のマリーを支えようとするチャーリー、水の中で抱き合う二人の老人のほほえましい姿。その夜だったでしょうか、80歳にして生涯初めて、愛の官能を経験したマリーがチャーリーに囁く言葉が「愛撫っていいものね」 でした。 精神障碍者として60年近い隔離生活を強制された人生から逃れてきた彼女の歓びを、こんなに「ズバリ」と表す言葉 が、他にあるでしょうか。彼女は80歳にして、初めて「生きる歓び」に出会い、もっと「生きる」ことを願いはじめます。「自動車が通る道が見える家で暮らしたい。」 やがて、森林火災の危険を理由に、森の犯罪者たちに官憲の手が伸び始めます。しかし、「Il pleuvait des oiseaux(雨のように鳥が降った)」の連作のなかに、一枚だけあった光の絵のように、生まれて初めて自由であることの喜びを知ったマリーは、愛するチャーリーと、彼女が夢見ていた「自動車の見える通り」に面した小さな家に逃れてゆきます。 80歳を超えて、マリーを演じた女優アンドレ・ラシャペルは、公開を待たずにこの世を去ったそうですが、施設を逃亡し、生まれて初めて「人間」の暮らしを始めたマリーの生活が、そんなに長く続くわけではないことを暗示するような女優の最後ですね。庭でサクランボを摘む「笑顔のマリー」は、女優であった彼女の生涯で、最も美しい演技の一つだったのではないでしょうか。 トム役のレミー・ジラールが「今、愛のときが始まる」と歌う「TIME」の深い歌声、アンドレ・ラシャペルの年齢を忘れたかのようなかわいらしく、且つ、官能的な演技、老俳優たちの存在感たるや、ただ事ではありませんでした。 蛇足ですが、この映画は老人たちが美しい森の奥に人生の最後のアジール、静かな逃避の場所を見つける「やすらぎ」の物語ではないと思いました。荒削りの印象はありますが、「生きる」という苛酷を最後まで、自分なりに生き抜こうとする希望の物語!だと思いました。 最後まで輝いていた女優アンドレ・ラシャペルと、若い女性監督ルイーズ・アルシャンボーに拍手!でした。監督 ルイーズ・アルシャンボー製作 ギネット・プティ原作 ジョスリーヌ・ソシエ脚本 ルイーズ・アルシャンボー撮影 マチュー・ラベルディエール編集 リチャード・コモーキャストアンドレ・ラシャペル(本名ジェルトルード・森での名前マリー・デネージュ)ジルベール・シコット(チャーリー)レミー・ジラール(トム)ケネス・ウェルシュ(テッド・ボイチョク)エブ・ランドリー(愛称ラフ=ラファエル写真家)エリック・ロビドゥー(マリーの甥・スティーヴ)ルイーズ・ポルタル(ジュヌヴィエーヴ)2019年・126分・G・カナダ原題「Il pleuvait des oiseaux(雨のように鳥が降った)」シネ・リーブル神戸no106
2021.08.12
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100days100bookcovers no57( 57日目) 辰巳芳子『あなたのために いのちを支えるスープ』(文化出版局) みなさんのお薦めの3冊の写真集は、それぞれの写真も秀逸でしたが、「写真家の文章」にも開眼の機会となりました。そしてshimakumaさんお薦めの「ゲージツ家の小説」にも驚かされました。タレントとして認識していた篠原勝之さん(クマさん)の「骨風」は、ゴジラ老人を涙させてしまうほどです。時間ができたら読みたいです。 さて、いろいろと思いをめぐらせ、写真家とかゲージツ家の文章に類するものは何かあったかな、と思って見の周りを探してみました。そうしたらこの本がありました。 辰巳芳子『あなたのために いのちを支えるスープ』(文化出版局) まずは表紙に心をつかまれます。買った時も著者が辰巳芳子さんだったこと、「いのちのスープ」の作り方を丁寧に紹介していることなども魅力的だったのは間違いないです。しかし改めて本を手に取ると、表表紙と裏表紙に使われているこの作品(ベルリンのバウハウスで出会った作品)は、スープと同じく図式化できているということで、共感したと述べています。 色は食材、並列は技法。それらのおのずからなる融合の美は、味というものの行き着くところと結びついた。 と。 あ、文章から横道に反れてしまいました。それほど表紙にも力があるということですね。私は当時「いのちのスープ」に共感し、辰巳芳子さんの本を何冊か買って読んでいました。料理研究家、随筆家で、NPO「大豆100粒運動を支える会」、NPO「良い食材を伝える会」、「確かな味を造る会」会長など、家庭料理の大切さ、安全で良質な食材を次世代に残したいという活動を続けています。染織家、随筆家の志村ふくみさんとも重なりますね。それぞれ母親から道を継ぎ、それを究めようと研鑽を積んだものだけが到達できる揺るぎない思想、実践の域におられます。 今まで生き方(哲学)と料理に気を取られ、文章そのものに注目できていなかったかもしれない…。みなさんのおかげで今日はじっくりと読み返す機会をもつことができました。 作るべきようにして作られたつゆものは、一口飲んで、肩がほぐれるようにほっとするものです。滋養欠乏の限界状態で摂れば、一瞬にして総身にしみわたるかに感じられるそうです。この呼応作用は、いつの日にか解明されますでしょう。 こう書いているのは、言語障害を伴う半身不随の病苦に苦しむ父への介護の実体験があったからです。ここで表紙と関連する「図式」をもう一度考えてみたいと思います。 父に作ったまずまずの処方と、加藤先生の手法を敷衍増幅したものは、いつしか分類せずにはおれぬほどの点数になりました。分量は分類を招く道理で、いつしか、スープの図式が頭の中で形になりました。 そのような図式ができたからこそ、読者に命のスープを作る法則が伝授されるのです。この図式は『あなたのために』というタイトルがつけられた理由も示しています。特にいのちの終わりを安らかにゆかしめるために、日本の病院食でこの本が貢献されること、母親が離乳食としてスープを作り、子どもの発達を守れること、学童や中高生の給食に安全で美味しいみそ汁を提供すること、家庭の愛と平和を守り育てることなどの願いが込められています。 辰巳芳子さんがスープの湯気の向こうに見る実存的使命は、近代資本主義に抗する風前の灯のようでもあります。しかし、辰巳さんの無限の愛はこの本の至るところにあり、読者自身とその大切な人のために「いのちを支えるスープ」を差し出してくれるのです。『あなたのために』というタイトルの意味が、ようやく今分かったような気がします。 せっかくですからスープと文章ももう少し紹介しましょう。早春 よもぎの白玉だんごの白みそ仕立て(詳細は割愛、ポイントだけ抜き出します。) 白玉粉は常備し、生麩、餅類のかわりになにかと使えば、経済的で愛らしく、心からおすすめの一椀である。 ここではみそ(白みそ8、赤みそ2の割合)、一番出汁(天然昆布とかつお削り節」(ちなみに出汁は「ひく」という。) みそを選ぶ場合の心得(これは本文のまま。ただし一部です。) 何より、日本大豆使用を選んでほしい。遺伝子組替え、ポストハーベストは、時の経過の中でしか本当の結論は出せない。皆さまの見識により、日本大豆使用のみそを買い支え、日本大豆の復権をつくり出しましょう。ガンジーは綿の種子を播き、綿糸の復権を足場にインドの独立を果たしたではないか。 水のこと(これも本文のまま。やはり一部です。) 水は、天地、火、風と同一の次元にあって、始めもなく、終わりもない御者の掌中に属する。(中略) 達人の作る汁もの、スープも水を超えることはできない。しかし水に準ずる“お養い”であるところに、汁ものを作り、すすめる意味があると思う。また、水に準じたものを作らねばならぬ意味もある。 ヴィトゲンシュタインは、哲学を、浮力に逆らって水中深く進みゆく潜水にたとえた。永井均は浮力に素直に従うためにもまた、長期にわたる哲学的努力が必要であることを、ヴィトゲンシュタインから逆説的に学んだと謙虚に書いている。 汁ものを水に準じて、生涯作りつづける力は、この両方をわが身に念ずることから、身につくと思う。 この100days100bookcoversに声をかけていただいたのも辰巳さんの本がご縁になりました。辰巳芳子さんの母である辰巳浜子さんの文章も素晴らしいと、shimakumaさんに勧めてもらいながらまだ読めていません。残念ながらスープを実際に料理するという試みも、無精のためちゃんと実現していません(あ、料理は好きですからよく作っていますが、いのちのスープの域には素材選びから簡単にはできなかったのです)。しかし、この本に出会ったことは幸せなことです。いつかは納得するスープが作れるかな~? では、SODEOKAさん、よろしくお願いいたします。YAMAMOTO・2020・12・25追記2024・03・26 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日~80日目)のかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.08.11
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ジム・ジャームッシュ「ミステリー・トレイン」シネ・リーブル神戸 線路が上から映っているところにアメリカの旅客列車がやってきたと思ったとたんに暗転して、車内のシーンになりました。客室に二人の男女が向かい合って座っていて、いかにも、作り物めいた窓外の風景が流れていくなかで、二人が日本語でしゃべり始めたのに「はあー?」って思いました。 自分でいうしかないので言いますが、第1話「ファー・フロム・ヨコハマ」に出てきた二人の日本人俳優、工藤夕貴と永瀬正敏は、おそらくかなり有名なのでしょうが、まったく知りません。だから、かえって、ただのおバカな旅行者ぶりが、妙にリアルで、そのうえ、女性の名前が「みつ子」で、連れのリーゼント男に「じゅんちゃん」とかいいながらしなだれかかる「おバカぶり」とか、オイル・ライターを曲芸のようにもてあそぶ「おニーちゃん」ぶりとか、「スゴイ!」と思いました。 二人の名前なんて、日本映画なら「年増のおネーさん」と「ウソツキのツバメ」ってことになりませんかね。 最後まで見終えて、第2話「ア・ゴースト」でもルイーザのふるまいやディディとのやり取りの、まあ、どうでもいい、ちょっとしたことが笑えました。新聞売りのおニーさんの売り込み方なんてありえないのですが、あり得ちゃうんですよね。 第3話「ロスト・イン・スペース」のドタバタのなかの小さなシーン、けが人をトラックにほりこむとか、とりあえず撃ってしまうとか、あのあたりがこの監督の持ち味の一つなのでしょうか、笑えました。 ただ、題名にも使われているらしいプレスリーについては、本人も歌もあんまり好きじゃないこともあって、ぼく自身のテンションは、今一つ上がらなかったですね。それと「アーケード・ホテル」という「場」と「時間」の設定は、なんとなくありがち感を感じてしまいましたが、フロントの二人は、これまたとても良かったですね。こういう雰囲気は、ちょっとないですね。 やっぱり、なんとなく「どうでもいい」世界を作って見せてくれるのがこの監督らしいのでしょうか。褒めていいのか、貶していいのかわからない映画ですが、ぼくはかなり好きかもしれません。 それにしても、80年代の設定とはいえ、今どきのメンフィスとかに何で日本人のおバカ・カップルが出てくるんでしょうね。どうでもいいんですが、妙に気になりましたね。 まあ、しかし、お二人をはじめとした、俳優の皆さんの「おバカぶり」に拍手!監督 ジム・ジャームッシュ製作 ジム・スターク製作総指揮 平田国二郎 須田英昭脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 ロビー・ミュラー美術 ダン・ビショップ編集 メロディ・ロンドン音楽 ジョン・ルーリーキャスト第1話「ファー・フロム・ヨコハマ」工藤夕貴(みつこ)永瀬正敏(ジュン・リーゼントの男)第2話「ア・ゴースト」ニコレッタ・ブラスキ(ルイーザ)エリザベス・ブラッコ(ディディ)サイ・リチャードソン(新聞売り)トミー・ヌーナン(ダイナーの男)第3話「ロスト・イン・スペース」ジョー・ストラマー(ジョニー)スティーブ・ブシェーミ(チャーリー)3話共通スクリーミン・ジェイ・ホーキンス(フロントの赤服)サンキ・リー(ベル・ボーイ)トム・ウェイツ(ラジオの声)1989年・112分・アメリカ・日本合作原題「Mystery Train」2021・08・07‐no69シネ・リーブル神戸no105
2021.08.10
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「須磨 源氏寺のむくげ」 徘徊日記 2021年8月6日須磨あたり 須磨の高倉台から女子学生さん数人と離宮公園に沿った東の道を歩いて下りました。「ああ、暑いねえ。」「昨日よりましよ。」「みんな須磨駅?」「私は自分の部屋」「ねえ、三宮の本屋さんに行くんやけど、いっしょに行こうよ。」「だめ、お金ないから。」「ああ、今日は、早く帰って、夕飯作らなあかんけん。」「ええ、一人暮らしやろ、夕飯なんか、そんなたいそうに作るの?カップ・ラーメンちゃうの?」「ちがう、ちがう、ちがいますよ。今日はサッカー見るけん。」「サッカーって、オリンピック?」「昨日は、日陰探してそっちの路地の方に行ったんよ。」「先生、平気で信号無視するし。」「えー、うっそー。」「炎天下やったし、誰も通らへん信号なんか、待つの耐えられへんやん。」「えー、あかんやん。まあ、わかるけど。」「アッ、これやん、これ、昨日のお寺やん。」「なに、なに?」「昨日、あっちがわの路地歩いててんよ。わっ、結構立派なお寺ですね。」「あなた、いつも歩いてる道チャウの?そうや、ぼく、ちょっと覗いてくるわね。じゃあ、ここでバイバイ。」「えー、わたしらも行こうかな。」「いや、ええって、ぼく、君らと別れてタバコ喫いたいだけやから。」「ナーンや、じゃあさようなら。」「じゃあね。」 まあ、そんなようなをおしゃべりをしながら、一服したくて立ち寄ったのが現光寺というお寺でした。 歩いてきた道に面したこの坂の横にこんな石碑がありました。 読めますかね?「源氏寺」と彫られています。 「あっ、ここやったんか。」 須磨寺の参道から山陽電車の須磨寺駅に向かう道を西にそれて、電車の高架の少し北側あたりです。紫式部の傑作「源氏物語」の須磨の巻の舞台がこのあたりだということくらいは知っていたのですが、このお寺なのですね。光源氏が暮らしたお寺 なのだそうです。何度か前を通っていたのですが、今日まで気づきませんでした。ヤレヤレ・・・・。 作られた物語のなかの話なのですから、まあ、嘘は嘘なんですが、なんだかうれしいですね。石碑の説明も掲げてありましたので撮ってきました。 ちょっと嬉しかったので、「おーい、みなさん!」という気分で振り向きましたが若い人たちの姿はもうありませんでした。やっぱり、ヤレヤレ・・・・・ですね。 少し坂を上がると鐘撞堂です。 その横に咲いていたのが女郎花です。田舎では八月のお墓まいりの花でした。写真は、残念ながらピンボケですね。 それから大きな棕櫚の株があって、その向こうには真っ白いムクゲと白い百日紅(?)が咲いていました。 棕櫚 むくげ、まあ、夕顔ですかね。 百日紅 境内には灰皿も設置されていて、まことに良いお庭でしたが、大事なことを忘れていました。まあ、実に罰当たりなことなのですが、本堂の写真を撮り忘れていたのです。 その代わりといっては、またまた叱られそうですが、松尾芭蕉の句碑があったのは撮ってきました。 このままだと、もちろん読めません。下に見える銀色のプレートに解説がありました。写してみますね。見渡せば ながむれば 見れば 須磨の秋 松尾芭蕉 なんだかよくわからないと思いませんか。三段切れとか談林風とかいわれている句ですね。わけの分からなさでウケそうですが・・・。ボタン押してね!
2021.08.09
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斎藤道雄「治りませんように べてるの家のいま」(みすず書房) 「悩む力」(みすず書房)を読み、ここで案内しました。で、続けて、同じ著者斎藤道雄の「治りませんように」(みすず書房)を読みました。 「悩む力」が出版されたのが2002年、この本が出たのが2010年です。この本では、北海道浦河のベてるの家の人たちの、「悩む力」からの、ほぼ十年の姿が報告されています。 本を開いて、最初の章の題は「記憶」でした。 かつて、ハンガリー東部のユダヤ人村に暮らしていた六人の裕福な家族は、少年ひとりを残し全員が煙突の煙と消えていった。一九四五年、解放されたとき十五歳になっていた少年は、自分だけが消えた家族の証であり、自分だけが家族の過酷な運命を記憶すべく、この世に残された存在だったことを知る。 立ち上る煙の記憶のもとで、少年はひとりつぶやくのだった。「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください」煙になった家族に、そして生き残った自分に、少年は語りかけている。「ぼくは幸福になったりしませんから。けっしてしあわせになることはありませんから」 ホロコーストを生きのびた少年は、自分だけが幸福になる、とはいわなかった。しあわせにならないといったのである。そうすることで、失われたものの記憶を自らの生につなぎとめたのだった。 しあわせにならない。 あなた方を忘れないために。あなた方の死を生きるために。そしてあなた方に対して開かれているために。 この思いが、やがて時を超え、二つの大陸を超えてゆく。 そして、もう一人の若者のこころにこだまする。 アウシュビッツもホロコーストも知らないもう一人の若者は、「幸せにならない」生き方を自らの生き方とし、過疎の町に根を下ろすのであった。そこで時代を超え、状況を超えてあらわれる人間の苦悩をみつめながら、苦悩の先にもう一つの世界を見いだそうとしたのである。 その次の第2章の題は「死神さん」で、この本の主人公(?)の一人である、「統合失調症」を生きている鈴木真衣さんという方の話に移っていきます。 この本の面白さ(?)は、鈴木さんをはじめとする、ベてるの家で生きている人たちの「病気を宝にしていく」過程のドキュメントにあると思いますが、最初の章に記されているアウシュビッツの少年の逸話の意味が、ずっと気にかかりながら読みすすめました。 気がかりを解く答えは、200ページを超えて読みすすめてきてたどりついた「しあわせにならない」と題された最終章にありました。 この章は、著者の斎藤道雄さんがベてるの家を支えてきた、精神科のソーシャルワーカーである向谷地生良さんや彼の家族と昼食を共にした時の逸話から書きすすめられています。 覚えていますか。ぼくが浦河に行きはじめてまもなく、1998年にインタビューしたときに向谷地さんから聞いたことですが、こういう話をしてくれましたね。ユダヤ人の作家のエリ・ヴィーゼルの本を読んだことがあると。その本のなかに出てくる場面です。アウシュビッツの生き残りの少年がいて、家族はみんな収容所で死んでしまったけれど、ひとり生きのびて収容所を訪れ、こういったという話です。「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください。ぼくはけっしてしあわせになることはありませんから。」 この話、覚えていますか。 もちろん。 と向谷地さんはうなずいた。横に座っていた宣明さんも、ああその話、聞いたことがあるという。 あの話ですが、ヴィーゼルのなんという本に載っていましたか? 「夜」だったかなあ。 それが、ないんですよ。(註:宣明さんは向谷地さんのご子息) エリ・ヴィーゼルという作家の「夜」三部作をくまなく探した斎藤さんが、向谷地さんは、おそらくこのシーンを読んで立ち止まったに違いないと発見した記述の部分が本書に引用されています。 この夜のことを。私の人生をば、七重に閂をかけた長い一夜えてしまった、収容所でのこの最初の夜のことを、決して私は忘れないであろう。 この煙のことを、決して私は忘れないであろう。 子どもたちの身体が、押し黙った蒼穹のもとで。渦巻きに転形して立ち上ってゆくのを私は見たのであったが、その子供たちの幾つもの小さな顔のことを、けっして私は忘れないであろう。 私の〈信仰〉を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、けっして私は忘れないであろう。 生きていこうという欲求を永久に私から奪ってしまった、この夜の静けさのことを、けっして私は忘れないであろう。(「夜」エリ・ヴィーゼル著・村上光彦訳・みすず書房・1967) ご覧の通りヴィーゼルの文章の中では、少年はつぶやかないのです。 では、誰が、なぜ「しあわせにならない」とつぶやいたのでしょう。それがベてるの家に通い続けた斎藤さんの問いでした。 斎藤さんが浦河に通い始めて間もなくの頃、ソーシャルワーカーの向谷地さんがインタビューに答えた、あの時の話に出てきた、「しあわせにならない」とつぶやいた少年は向谷地さん自身だったのではなかったか? 斎藤さんは、直接問い詰めていく中で、向谷地さん自身の少年時代の体験や「結婚してしあわせになったらどうしよう」と不安だったという人柄を丁寧に記しながら、読者に対しては、こんなふうにまとめています。「しあわせにならない」という言葉が、少年のものだったか向谷地さんの思いこみだったかは、さほど問題ではない。それより、ヴィーゼルの著作に触発され、「しあわせにならない」ということばを思い、その言葉に強く同化してゆく向谷地さんの姿こそが、私にとっては重要だったのである。それはいかにもベてるの家にふさわしい、苦労の哲学の背景をなす相貌だからだ。 斎藤道雄の二冊の著書を読みながら、ずっと考えていたことがあります。それは一言で言えば、「ぼくはどんな顔をしてこの本を読み終えればいいのだろう。」という問いです。 で、この最終章を読みながら、ホッとしました。 ジャーナリスト斎藤道雄自身も、「しあわせにならない」という生き方をする人間たちを前にして、たじろぎながらも、敬意をもって、そして執拗に「わかる」ことに迫ろうとしていたのだと感じたのです。 「悩む力」にしろ本書にしろ、下手をすればスキャンダラスな見世物記事になりかねないドキュメントなのですが、著者自身の「人間」に対する姿勢が、見ず知らずの人間が手に取り、胸打たれながら読むことを、自然に促す「名著」を作り上げていると思い至ったのでした。
2021.08.08
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「ちょっとお散歩 離宮公園」 徘徊日記 2021年7月30日 その3 須磨離宮あたり 久しぶりの離宮公園ですが、レストハウスの北側の子供広場(?)のこの「リンゴとセミ」のオブジェ(?)が、なんだか一番懐かしかったですね。 まあ、どうってことないんですが、今回も名前はわからないままで、適当にリンゴとセミとか言ってますが。 ほんと、あとから思うんですよね。「反対側からも撮れよ!」って。 で、レストハウスの滝のまえに、何をしていらっしゃるのかわからないポーズの方がいらっしゃって、ポセイドンさんなんだそうです。 なんか、後ろの壁の水が止まっているので、ホント、「海の神様が、この暑いのにごくろうさま!」って感じですね。昔は、もっとデカイと思っていましたが、そうでもないですね。 ここから見れば正面の噴水はこんな感じです。 この写真の左のほうに回っていくと、茂みの中にこんなオブジェもあります。 この横で「ロシナンテ」がこけていました。 もう、何年この姿勢でいるんでしょうね。このドン・キホーテにも見覚えがあります。で、その横の芝生の上で、たぶん、ジワジワ動いているんでしょうね、このオブジェの名前は確認しましたよ。「平行移動」っていうんです。 こちらから見えている側面だけが、スパッと「立て切り」されている感じで、あとはモグラかなんかが通って土がモコモコしているように見えるだけのものですが、もちろん、盛り土ではなくて金属製のようですよ。 ある意味、ドン・キホーテより「面白い」のですが、今日みたいな暑い日に見ると、「暑苦しいだけ」とも言えますね。 この先の木陰には、こんなのもありました。 作品の前に作品名があるんですが、きちんと撮りそこなったのでわかりません。分厚い石のなかから褶曲してはみ出している石があるのです。全体としては羊羹を立てている感じですが、結構好きです。 ここから南に少し行くとこんな見晴らし台があります。 向こうに須磨の街並みと海が見えます。マア、目立つのは高層ビルですが、その向こうの海には船が浮かんでいて、ずっと向こうに、対岸の大阪、泉州あたりの山並みも見えます。 今日は面白い徘徊でした。離宮公園には「植物園」とかもあって、面白がってうろうろすると半日以上かかりますが、また立ち寄りたいと思います。何せタダですからね。ボタン押してね!
2021.08.07
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ルキノ・ビスコンティ「異邦人」シネ・リーブル神戸 ルキノ・ビスコンティという名前を見てときめきました。「山猫」(63)「熊座の淡き星影」(65)「地獄に堕ちた勇者ども」(69)、「ベニスに死す」(71)、「ルードウィヒ 神々の黄昏」(72)、「家族の肖像」(74)「イノセント」(76)。大学生になって、やり残した宿題のように突きつけられて、いえいえ、自分でそう思っただけで誰も突き付けたりはしなかったのですが、一生懸命見て回った天才監督の作品群です。 実際に、封切りで見たのは「家族の肖像」と「イノセント」だけで、あとは、名画座巡りで見ました。見!見た! と口ではいいながら、話の筋を覚えているわけでもありませんから、どうしようもないのですが、バート・ランカスターとかヘルムート・バーガーとか、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレとかいう名前も顔も浮かんで来ますから、やっぱり見たのでしょうね。 で、シネ・リーブルのチラシ台でこのチラシを見つけて、これは見ていないと確信できたのですから、見ないわけにはいきません。だいたい、アルベール・カミュの「異邦人」が映画になっていることすら知りませんでした。そう、今回、見たのは「異邦人」です。 予審判事が弁護人の必要をムルソーに訊くところから始まりました。ムルソーは「事件の原因は一言で説明できる」とうそぶき、弁護人の必要性を否定します。 そこからムルソーによって引き起こされた、あの、あまりにも有名な「太陽がまぶしかったから」起こった殺人事件の回想シーンが始まります。 母の死と葬儀。行きずりの女性との偶然の出会いと奔放な性的関係。かさぶただらけの老犬を失う老人の悲哀。そして、衝動的に起こる殺人。 ここまで、見ていて、監督が何を描きたいのかよくわかりませんでした。一応、原作は知っているわけで、確かにムルソーの生活をなぞってはいるのですが、ある種の困惑の気分でした。 で、後半に入り、裁判のシーンのあと、死刑を宣告されたムルソーと彼のもとにやってくる司祭の会話のシーンを聞きながら、ようやくドキッとしました。 ムルソーと恋人や友人たちとの、延々と繰り返される「行きがかり上の」理由しかない日常に、どうすれば「輪郭」を与えられるのか、そう考えたビスコンティは「内省」の判断基準そのものを持たない「人間」を「神の罪人」として問い詰めながら、結局、どこまで行っても「行きがかり上」でしかないことを、「人間の普遍性」として「観客」に突きつけているかのようです。 司祭との対話の不可能性がクローズアップされる結末は、いかにもキリスト教の宗教文化の中での「内省」の在り方を示唆していて興味深いのですが、ぼくが「リアル」を感じていたのは別のことでした。ここまで、映画を観てきて「何をやっているんだ?!」と感じていたムルソーや、その友達たちの社会の描写が、あの頃の自分自身の生活を描いていることジワジワと思い出していたのでした。 カミュの「異邦人」を読んでいたあの頃、「デラシネ」とか「モラトリアム」とかいう言葉がはやっていました。当事者であったはずのぼくは、その言葉のニュアンスに「肯定的」になったことはありません。しかし、否応なく「自分たち」のことをさしていることは否定できませんでした。 1970年代に20代で、学生生活を送っていたぼく自身の「無軌道」で「無責任」な「あてのない生活」は、「デラシネ」、根無し草であり、「モラトリアム」、執行猶予そのものでした。ちょっと大げさかもしれませんが、偶然、「人を殺さなかった」に過ぎない生活だったのかもしれません。そんなふうに、カミュの「異邦人」は、あのころ、リアルでした。おもしろいことに、67歳になった今、目の前の映画の中のムルソーもリアルでした。まあ、マストロヤンニが、結構おっさんなところに、ふーん?という感じを持っただけです。40年たっても根無し草のたよりなさは、なかなか消えるものではないようです。 ところで、この映画が突き付けてくる、「殺人の罪を罪として理解する」 ということは、当たり前のようですが、実はかなり難しい問題なのだと思います。「なぜ人を殺してはいけないのですか?」 という子供の問いを巡って、NHKだったかで大騒ぎになったことがありましたが、まあ、ぼくが知らないだけかもしれませんが、誰からも確たる解答がなされた様子がなかったのではなかったでしょうか。そのうえ、話題にしている「大人」たちが「解答」を知っているから驚いていたのかどうか、かなり疑わしいというのが、ぼくの印象でした。 そういえば、機会があって、現代の女子大生たちに、その質問をしたことがありますが「法律で決まっているから」という答えが大半でした。 考えたこともないし、考えたとしても「解答」のない問題は「形式化」されていく典型のような答えですが、「大人」とか「社会人」であることの自覚を支えるのは「罪と罰」の共同幻想に馴致することだとでも言わんばかりの、まじめな女子学生たちの答えを聞きながらポカンとしながら考えこみました。 ひょっとしたら、ムルソーが「わからない」ことを凝視しながら「死」を選んだ「問い」は、あれから40年、誰もまともに答えないまま放置されているのではないでしょうか。 ビスコンティがマストロヤンニにスクリーンのこっち側を凝視させたことで、そこにあることを突き付けた「空虚な闇」は、ぼくには、相変わらずリアルでしたね。 さすがビスコンティですね。拍手!監督 ルキノ・ビスコンティ製作 ディノ・デ・ラウレンティス原作 アルベール・カミュ脚本 スーゾ・チェッキ・ダミーコ エマニュエル・ロブレ ジョルジュ・コンション撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ音楽 ピエロ・ピッチオーニキャストマルチェロ・マストロヤンニ(ムルソー)アンナ・カリーナ(マリー:恋人)ベルナール・ブリエ(弁護人)ブルーノ・クレメルブ(司祭)ジョルジュ・ジェレ(レイモン:隣人)1968年・104分・G・イタリア・フランス合作原題「Lo straniero」日本初公開:1968年9月21日2021・06・14-no54シネ・リーブル神戸no104
2021.08.06
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週刊 マンガ便 近藤ようこ・津原泰水「五色の舟」(KADOKAWA) 津原泰水という作家の作品は、ただの一冊も読んだことがないのですが、半年ほど前に、面白いよと教えられたこともあり、名前は憶えていました。 近藤ようこというマンガ家の作品は、結構好きで、あれこれ読んできました。坂口安吾や夏目漱石の原作の「マンガ化」作品は、ボンヤリ読んでいた原作の「読み方」を問い直されてるような気になる展開やシーンに、ハッとさせられることも、一度や二度ではありません。 市民図書館の返却の棚に見つけました。「アッ、近藤ようこや、新作かな?えっ?津原って確か・・・」 津原泰水の「五色の舟」という短編小説を、近藤ようこがマンガ化した作品のようです。「これはこれは、絶好の機会やん。」 というわけで、さっそく借り出して読み終えました。 感想をあれこれ言う気にはなりませんが、巻末に津原泰水さんが「ワンダー6」、近藤ようこさんが「あとがき」と題して綴られた文章が載っていました。マンガを読んで「あとがき」を案内するのもなんだか妙ですが、特に近藤ようこさんの「あとがき」には、興味惹かれました。 ぼくが惹かれたのは、「漫画とは何か」を考えさせてくれたところですが、皆さんはどうお読みになるでしょうね。あとがき 近藤ようこ 描く前から、最初と最後は柄にもなく少女漫画のようなイメージにしたいと決めていた。この物語の儚さと甘やかさを綺麗に演出したいと思ったのだ。 「五色の舟」漫画化の話は私はお願いした。原作者の津原泰水さんから承諾をいただけるか大変不安だったが、改変も許すということで、ありがたく手探りしながら描き進めていった。 小説と漫画は本質的に違うものなので、文章をただ絵解きしても漫画にはならない。原作は音も外の世界も知らない和郎が語り手になっている。それが静かに内向し、ふと踏み外せばそのまま幻の世界に入っていきそうな気配を形作っているのだと思ったが、漫画で同じことをすると浅い物真似にしかならないとわかっていた。 他者性をもって俯瞰する人物が必要で、その役ができるのは五人の中で清子さんいない。原作でもたぶん清子さんはそういう役回りなのだろうが、漫画ではより強調したおばさんキャラになり、うまく動いてくれた気がする。 原作では爆弾で消えるはずの都市としか表現されていない場所を、どう描いたらいいだろうと迷ったが、くだんに運ばれた和郎と桜が生きているのは、やはり「産業奨励館が原爆ドームにならなかった世界」であるべきだと思った。原作のファンの方々はどう読んでくださるだろう。 いかがでしたか、津原泰水さんの原作と読み比べてみたくなりませんか?近藤さんが「少女漫画のような」と書いておられる最初のページを貼っておきますが、実この写真のページは最初の次の見開きで、ホントの最初ではありません。 まあ、いらいらされた方は、実物をお探しください。 作品は原作を知らなくても、近藤ようこの作品として十分に読みごたえがありました。というのは、ぼくは「原作」を読む必要をあまり感じなかったということでもありますね。 とは言いながら、ちょっと探してみようかなというのも本音としてはあるのですが。(笑)
2021.08.05
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徘徊日記 2021年8月1日 「ちょっとお散歩 本多聞公園」 2021年8月1日日曜日、夕暮れ時の本多聞公園です。日々、横着なぼくに、そんな習慣はありませんが、今日は買い物ついでにちょっとお散歩です。 夕日が西の空にある時刻ですが、飛行機雲が今できつつあるというか、飛行機が飛んでいくのを見るのは好きです。 この公園には、まあ、はっきり言ってへんてこなオブジェが一つあります。 これです。空の写真とか撮りながら、お茶を飲んだりしていると、周りでたむろしていた少年たちが帰ったので、もう一度撮り直しました。オブジェの名前とか製作者はこちらです。 井上麦という人の作品で、「地表より Forest」というそうですが、この方は同じテーマで似たイメージの作品を作っておられるようです。1993年の作品なので、この公園にやって来た最初からあったと思い込んでいるのは錯覚ですね。 我が家の「愉快な仲間」たちがこの公園で遊んだのは1980年代の中ごろからです。オブジェは1990年代の半ば、おそらく震災の前後ぐらいに設置されたのでしょうから、その時初めて見たはずです。 「なんか、あの棘だか芽だかのようなところに上から落ちてきたら、ちょっと、サイアクやな。」 一緒に公園に来ていたはずの愉快な仲間たちやチッチキ夫人がどう思って、このオブジェを見ていたのかはわかりませんが、そんな印象を持ったことは確かで、今でも、その印象は変わりません。まあ、ヘンテコで不思議なオブジェですね。 よたよた歩いて帰ってくる途中、自宅の近所の並木でアブラゼミやクマゼミががかしましく鳴いていました。試しに写真を撮ってみると珍しくピントがあっている写真が1枚だけありました。 何年もの間、地下でじっと息をひそめて、ようやく、地表へと這い出て来て、1週間「泣き続けている」姿です。これはこれで「哀れ」ですね。 まあ、それにしても、木にとまっているアブラゼミの写真を撮って嬉しがる日がこようとは、セミ取りに興じていたころには想像もできなかったことですね。 自宅の玄関先にはこんな花も咲いていました。 いつの間にか、校名が変わりましたが、ゆかいな仲間たちが通った「本多聞小学校」の校歌に歌われていた「笹ユリ」ですね。こちらは、なかなかな繁殖力で、植えなくても増える、まあ、厚かましさが持ち味ですが、花は可憐です。 ほんの1時間ほどのお散歩ですが、汗だくになる今日このごろの神戸です。皆さんご自愛してくださいね。ボタン押してね!
2021.08.04
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週刊読書案内 シモーヌ・ヴェイユ「ヴェイユの言葉」(冨原真弓訳・みすず書房) ぼくはこの本の「ことば」の主であるシモーヌ・ヴェイユという人について、ホントはよく知りません。 横文字で書けばSimone Weilです。1909年2月3日パリで生まれて、第二次大戦末期 1943年8月24日、イギリスのサナトリュームで息を引き取ります。直接の死因は結核による衰弱だそうで、34歳でした。 彼女が書き残した「カイエ」、ノートや論文が世界的な評価を受けるのは戦後のことだそうですが、ぼくが学生だった1970年代には「世界的な哲学者」の一人でした。 あの頃、名前が挙がる哲学者や思想家について、とりあえずぺらぺらと読んでみるというお調子者のミーハー学生の例にもれない、見せかけ読書の対象として「詩集」や「工場日記」など何冊か読んだ記憶はありますが、何も覚えていません。 それが、昨年、この本の訳者でもある冨原真弓さんの「ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道」(岩波書店)というエッセイ集を読んで気にかかり始めました。マア、そのあたりの経緯はともかく、図書館の棚でこの本を見つけて借りてきました。 これなら、のんびり読めそうだという目論見です。行ってしまえば「シモーヌ・ヴェイユ事始め」の一冊というわけです。 で、10ページも読まないうちに出会ったのが、こういうノートの一節でした。誘惑の一覧表(毎朝読むこと) 怠惰の誘惑(ずば抜けて強い) 時間の流れのまえで怖気づくな。しようと決意したことを延期するな。 内的生活の誘惑 現実に遭遇する困難以外にはかかわるな。感情にかんしては、現実の交流に対応す るもの以外は、あるいは、霊感が与える契機として思考に吸収されるもの以外は、 自分自身にゆるすな。感情のなかで想像に拠るいっさいを切りすてよ。献身の誘惑 主体・主観にかかわるいっさいを、外的な事物や人びとに従属させよ。しかし、 主体そのもの―すなわち判断―は従属させるな。他者には、おまえが同じ立場な ら要求するだろう以上のことを、約束したり与えたりしてはならない。支配の誘惑退廃の誘惑 悪を増大させるような反応をもって悪に対処するな。《初期の「カイエ」(1934)》 わたしはこれら五つの誘惑のどれからも自由ではないが、まったく克服できずにいる唯一の誘惑は怠惰である。二十五歳にもなってからでは遅きに失する。二十五か月で始めるべきだった。私の場合、怠惰はなによりもまず「時間」を考えたときの恐怖心を意味する―ある期日までにある義務をはたす、これが耐えられない(工場労働は気楽だった!)。 この怠惰こそが激しい後悔や絶望の源である。「時間」とは第一の限界、いや、さまざまな様態をとる唯一の限界なのだ。ならば、この限界をうけいれよ。この点で自分自身を鍛えねばならない。《上記と同時期のカイエ》 二十歳過ぎの女性の内省の言葉です。67歳の怠惰老人は、けた違いの「人間」に興味を持ってしまったようです。マア、しようがありません。ここから、彼女がどんな10年を生きるのか、まずは冨原真弓さんによる、ヴェイユ思想のダイジェスト版である「ヴェイユの言葉」に付き合ってみようと思います。 無事、読み続けられれば、時々、引用をお伝えできればと思っています。おたのしみに(笑)。
2021.08.03
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「ちょっとお散歩 離宮公園」 徘徊日記 2021年7月30日(金) その2 須磨あたり 須磨離宮公園といえば噴水と広い洋風の庭園ですね。 何度も言って恐縮ですが、炎天下の噴水は圧巻でした。面白がって動画を撮ろうとしたのですが、「暑い!」の警告を出しっぱなしのスマホが思いどうりに作動してくれませんでした。こういう時に初心者の老人にはなすすべがありません。 そういうわけで、全景が上手に撮れていないのが残念ですが、まあ、とりあえず雰囲気はお伝えできるかと思いますので載せてみます。 これが一番大きな噴水です。反対側から見るとこんな感じです。 周りの小さな吹き出しが止まっていますね。動画で撮れていると思っていたのが大間違いでした。 下の写真は、公園を見下ろすテラスというのでしょうか、カフェになっている建物です。ガラス越しにお客さんの姿が見えます。涼しそうですが、ぼくには似合わない感じです。 まあ、とりあえず、ちょっと、あそこまで歩きましょうかね。 階段あたりで滝になっているところもありました。 ここで庭園の噴水を振り返ると、こんな感じです。 よろしいですなあ。噴き上げ方に、いろいろリズムがあるようです。 で、テラスにたどり着いて、突如、ひらめきました。ソフトクリームを食べよう! 普段、こういう思い付きは、ほぼしない徘徊老人なのですが、今日はひらめきました。いや、なんというか、スマホが「暑い!」というくらいです。持参のペットボトルの番茶もぬるいわけです。 カフェを覗くと中はチョ―涼しくて、窓際にはたくさんのアベックさんたちがいらっしゃいました。店員さんは実直な雰囲気で感じよく笑いかけてくれました。「あのーソフトクリームいただけますか。」「はい、バニラとそーだと・・・」「ああ、普通のがいいです。バニラかな。」「400円です。店内で召し上がりますか?40円高くなりますが(笑)」「いえ、外で食べます。落ち着かないんで。」「はい!ありがとうございます。」 カンドーのソフトクリームです。写真が噴水にかぶってしまってますが、一応、公園を公園を見晴らせる日陰でペロペロしてます。当たり前ですが、冷たくておいしいのでした。けっこう、幸せな気分になりましたね。 目の前に見えているのはこういう景色です。 ここからは、須磨の海が見えています。この公園は夏が近づくとバラが有名なのですが、シーズンがちょうど終わったようで、ご覧の通り全景の写真には見当たりませんね。 少し咲き残っていたのを撮りました。で、それを載せてみます。 花も暑さにくたくたな感じで、水を撒いてあげたい様子ですね。 まあ、こちらも暑そうで、かわいそうな様子です。バラの花に炎天は似合いませんね。 というわけで、今回は(その2)は離宮公園の噴水でした。 (その3)は、須磨離宮といえば、やはり、野外のオブジェ、彫刻です。かつて、ここの庭で展示されていたオブジェが、王子動物園とかにもありますが、この公園にもいくつか残されていました。そちらものぞいてくださいね。じゃあ、今回はこれでバイバイです。ボタン押してね!
2021.08.02
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「ちょっとお散歩 須磨離宮公園」 徘徊日記 2021年7月30日(金)その1 須磨あたり 2021年の7月も、もう終わりですが、夏真っ盛りです。久しぶりに高倉台あたりを歩いていて、そういえば今日は金曜日、いつもこの辺りを歩くのは、お仕事の都合で木曜日なのですが、今日は臨時なので曜日が違います。そうや、離宮公園が開いてるやん! 木曜日は須磨離宮公園は定休日で、今日は金曜日です。もう三年も、週に一度は隣を歩きながら、なんと二十年ぶり、いや三十年ぶりの離宮公園です。 夏の盛りの金曜日、「炎暑」の昼下がり、「絶好!のお散歩日和」とはとても言いかねるのですが、思いついたら百年目、なんだかワクワクしながらチケット売り場をのぞき込みました。15歳以上400円の看板があります。「あの、兵庫県下にお住まいですか?」「アッ、はい、そこの垂水区です。」「65歳以上とかでは?」「えっ?いや、はい、67歳、無職です。」「(笑)身分証明書、お持ちですか?」「はい、はい、運転免許証、えーとこれです。」「(笑)はい、ありがとうございます。無料ですので、このパンフレットをどうぞ。(笑)」「ええー。タダなんですか?やったー。じゃあ、いつでも、ちょっとでも寄れたんだ。」「はい、でも、免許証はいつもお持ちくださいね。(笑)」 自分では勝手に「徘徊老人」とか名乗っているのですが、映画館以外の、どこかの入園料とかで「老人」割引、それも、無料は初めてで、なんか、初めから「ワクワク」がクリーン・ヒットっていう気分でした。 ね、やっぱり、真夏の昼下がりでしょ。須磨離宮というのは大正時代に作られた皇室の「武庫離宮」という名の別荘を、戦後、今の上皇サンの成婚記念で神戸市に下賜されて、市民の公園になったところですね。1995年の震災で、いろいろ被害を受けたことは聞いていましたが、震災の後来た記憶がありません。 石灯篭とか、庭石の石組みとか、とにかく、まあ、すごいわけで、植木もなかなか雄大です。どこかの神社かお寺の参道を歩いている気分ですね。 写真の立木は日盛りに立っているのですが、見上げて歩いている舗道は木陰の道です。涼しいとは言えませんが、空が輝いているような日盛りに比べれば、人の歩く道ですね。 それに、この辺り、誰もいないのが、実に、爽快です。(笑)実はこの写真の右手は、塀で仕切られていますが、名谷・妙法寺、高倉台から須磨に抜ける、かなり交通量の多い一般道です。 ようやく、庭園風の場所までたどり着きました。木立の陰と、光る庭、青空のコントラストが夏ですね。この先に住まノ海を望む見晴らし台というか、お屋敷跡があるはずです。 このお屋敷跡ですね。門のところに「狛犬(?)」がいました。 こちらが、向かって左に座っていらっしゃって、右が下の写真です。 いわゆる「阿・吽」の雰囲気ではありませんが、まあ、どちらかというと、下の写真の方が「阿」かなという気がしましたが、ここは、普通のお屋敷の玄関先なわけで、「なんで狛犬か?」の疑問の方が気がかりかも、ですね。 で、塀に囲まれた中に入ると須磨の海が、一望です。 松の緑に、須磨の海ですね。ピンク色の花をつけているのは百日紅でしょうか。ちょっとここらあたりで一休み。水分補給ですが、持参のペットボトルがぬるくなっています。 ああ、そうそう、スマホのカメラで写真を撮っていたのですが、画面に「もう暑いから無理」という警告が出て、動かなくなりました。初めての経験で焦りましたが、人間の方が辛抱がいいということですかね。 さて、ここから噴水ですが、それは(その2)でどうぞ。じゃあね。ボタン押してね!
2021.08.01
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