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川上弘美「水声」(文春文庫) 久しぶりに川上弘美を読みました。「水声」(文春文庫)です。 Suiseiと表紙にルビがあります。「すいせい」と読めばいいようです。2015年の読売文学賞受賞作です。 ページを繰って最初に目に入るのは目次です。1969年/1996年ねえやたちママの死パパとママ/奈穂子家 ― 現在夢女たち父たち1986年前後1986年2013年/2014年 こんな感じです。 書き出しはこんなふうです。夏の夜には鳥が鳴いた。短く、太く、鳴く鳥だった。雨戸はたてず、網戸だけひいて横たわれば、そのうちに体は冷えてくるはずだったのに、その夏はいつまでも体が熱を持ったままだった。 「その夏」のことが語りだされているのですが、その夏とはいったい、いつの夏なのでしょう、という謎でこの小説は始まります。作中の語り手は「都」という女性で、語っているのは2014年、この作品が発表されたのは2013年から2014年の「文学界」という文芸雑誌ですから、作家が書き始めたのは2013年、ないしは2012年の暮れあたりかもしれませんが、作中人物でもある「都」が語るのは2014年でないと、結末との辻褄が合いません。 小説って、面白いですね。そういうこともできるわけです。 「都」は1969年に11歳の少女だった女性で、2014年に存命ですから、この冒頭を書いたとき(語った時(?))には55歳か56歳です。 ちなみに川上弘美は1958年生まれですから、「都」と同じ年、その事実が「作品」が描いていること、まあ、たとえば自伝小説であるというふうに関係があるかといえば、この作品では、それはありません。ただ、作家と同じ時代を生きてる登場人物という意味ではかなり大切な要素素だと、ぼくは思いました。 「その夏」という謎でページを繰り始めると、すぐ次のページにこんな描写があります。 匂いは記憶を呼びます。 アスファルトを平らにならす熱いにおいをかぐといつも、セブンアップをやたらに飲んだ1969年の夏を思い出す。 あの夏私は十一歳で、陵は十歳だった。 この引用部に出てくる「あの夏」と冒頭の「その夏」は違うようです。小説が、いや、55歳だかの作中人物「都」が、今、語っているのは「その夏」であって「あの夏」ではないからです。 ついでですから、補足すれば、「陵」というのは「都」の弟です。この小説の登場人物は目次にある「ねえや」、「ママ」、「パパ」、ママの幼なじみの娘で二人にとっても幼なじみである「奈穂子」、と、この「姉弟」で、ほぼ、すべてです。 もう一つ、ついでですが、この引用部の「匂いは記憶を呼びます。」というような描写は、「これが川上弘美です!」 とでもいうテイストですね。彼女の作品は、ストーリー云々にこだわるよりも、こういう「感覚的」表現を面白がる方がスリリングかもしれませんよ。 ともあれ、「都」が語り始めた「その夏」とはいつの夏のことで、「その夏」、語るべき、何があったのか、それがこの作品の「愛と人生の謎(裏表紙の宣伝文句)」というわけでした。 そのあたりは、まあ、ご自分で読んでいただくほかないわけですが、実はこの作品にはもう一つ「謎」があると、ぼくは思いました。 それは題名です。「水声」って何だ? ということです。申し訳ありませんが、ここで禁じ手を使います。 ふいに、水の音が聞こえた。遠い世界の涯(はて)にある、こころもとなくて、ささやかな流れの。 わたしと陵はまだその涯まで行っていない。誰もそこに行きつくことはできないのかもしれない。ママも、パパも、そこに行きたいと願ったのだろうか。 水鳥が、一羽だけ、暗い水の面にうかんでいたの。奈穂子は言っていた。一羽だけなんだけれど、ちっともさみしくなさそうだった。雪にうずもれるようにして、静かにうかんでいた。あなたたちのママは、あの水鳥みたいだったわね。 東京に戻ると、もう家はきれいに壊され、ただ平らな土地だけがあった。思っていたよりもすっと狭かった。ママが好きだったゆすらうめも、あじさいもなくなっていた。 また夏が来る。鳥は、太く、短く鳴くことだろう。陵の部屋を、今日はわたしから訪ねようと思う。 ご自分でお読みくださいなどと言いながら、小説の結末を引用するとは何事だというわけで、ちょっと反則なのは承知です。しかし、この最後の描写は小説の謎を、相変わらず暗示はしていますが、解いているわけではありません。 むしろ、「また夏が来る。」という最後の一文が冒頭の「夏の夜には鳥が鳴いた。」という一文と呼応して、語りの一貫性を、同じ人物の同一の語りであること示していると考えられる結末です。 マア、そのあたりを理由にご容赦願いたいのですが、注目していただきたいのは、ここにきて、がぜん浮かび上がってきた「水」についてです。 「水」と「廃墟」をめぐる「都」の身辺の出来事に、重ねられている奈穂子のことばが、この小説全体の読み直しを求めているように、ぼくには感じられたのです。 「時間」の往還の中で浮かび上がる「昭和」から「平成」という時代の記憶。「身体」として感受する「他者」と「孤独」。 「都」と「陵」という姉弟の「出生と愛の秘密」。 読みどころは満載ですが、もう一つ、2011の震災の「災後小説」という視点から読み解くことを、物語の終わりに暗示しているのを見落とすわけにはいかないのではないでしょうか。 小説の底に流れている「水」の声に耳を澄ませることで浮かんでくる世界があるのではないか、そして、その世界が川上弘美という作家の「現在」を暗示するのではないか、そんなふうに思うのですが、なかなかピントがあいませんね。 どうですか、一度「水の声」に目を凝らしてみませんか?
2021.04.30
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南伸坊「おじいさんになったね」(海竜社) 部屋でごろごろしていて、「無聊をかこつ」という古いいい方がありますが、こういうのを言うのでしょうかね。 チッチキ夫人もお出かけで、外のお天気はやたらによくて、でも、動く気がしない。パジャマから服だけは着替えてはみたのだけれど、畳の上に寝転んでしまって・・・、ふと棚を見ると、高野文子の「ドミートリ―ともきんす」(中央公論社)というマンガがはみ出ていて「ちょっと読んでみません?」と声をかけるので、引っ張り出してパラパラやっていると、なんだか偉い人がいっぱい出てきて、ちょっと、本格的に座り直そうかと姿勢を変えると、そこに、隣にあった本が落ちてきて、開いてみると、こっちが字ばっかりなのに、なんだか引き込まれてしまった次第で、こうして「案内」しています。 落ちてきた本が南伸坊の「おじいさんになったね」(海竜社)でした。装丁もイラストも文章も、みんな伸坊さんの仕事です。で、こんな「はじめに」から始まっています。「ゲンぺーさん、おじいさんになったネ」とクマさんは言った。「え?」と赤瀬川さんはケゲンな顔だ。そうかな、赤瀬川さんは、年齢(トシ)より若く見える方だけど・・・・・と私も思って聞いていたのだ。クマさんの言い方は、なんだか「日本昔ばなし」みたいな、のんびりした様子なのだが、正直な感想がふと洩れたという感じだ。この時、赤瀬川(原平)さんは六十二歳。ゲージツ家のクマ(篠原勝之)さんは五十七歳、私は五十二歳だった。 先程、最初に手に取った「ドミートリ―ともきんす」というマンガには、湯川秀樹、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎というビッグネームが登場するのですが、「おじいさんになったね」に登場するビッグネーム(?)は、「老人力」の赤瀬川原平、通称「クマさん」の篠原勝之です。マア、南伸坊も加えて三人ですね。 「うん?!こっちの方が面白そう。」 この気分は、本当は変ですね。両方とも、ただ並んでいたわけじゃなくて、一度は読んだことがあるはずなんですから。 で、まあ、そんなことは忘れていて、初めて読む気分でパラパラと読み始めて、笑うに笑えないことなのですが、なぜか笑ってしまったのがこの話です「メガネに注文がある」 老眼になったので、デザインをするのに必ず、メガネが必要である。ものさじの目盛がよく見えないうえに、目印に打った点がどこにいったかわからなくなる。まァ、しょうがないかと思っていたら今度は文庫本のルビが読めなくなった。そうこうするうちに週刊誌のルビも読めないばかりか、そろそろ文庫本の大きい字が、落ちついて読めない。 なんだか、字がそわそわしているのだ。小便でもしたいのだろうか。〈中略〉 仕事場で使っているメガネはつるが黒いので、こないだは、ソファ(黒)の上に置いたらどこかへ行ってしまった。 メガネがどこかへ行ったって、独自に何ができるというものでもあるまいに、一体どういうつもりかと思うけれども、しばらくすると元へ戻っているのである。 戻っているなら、私が「あれ?メガネどこ行ったかな」 とか言ったときに、「ここにおります」 と日本語で言えとまでは言わないが、「ココ、ココ」くらいのことは言えるだろう。 ちかごろ、機械のたぐいが頼みもしないのにやけに何かを言いたがるのだ。家にある電子レンジが、意味もなく「ピピ、ピピ」と言うので、ツマが、「なに、なんなのアナタ」と叱ったりしている。 コードを抜いておいても「ピッ」というそうだ。「やだね、付喪神にでもなったかね」と言っていたら、こないだから、ウンともスンともピッと言わなくなっただけでなく、何にもしなくなったそうだ。 話がズレたが、メガネは「ココ」「ココ、ココ」くらい言ってもいいと私は思う。 この辺りで、「案内」のまとめにすすもうかと思っていたのですが、ここまでお読みいただいて、あとは本をお探しくださいでは、ちょっとなあ、というわけで、とりあえず最後まで引用しますね。〈引用つづき〉 ところで、ホームドラマなんかで、ハゲ頭のオヤジが、「おーい、メガネどうしたかなあ?メガネ・・・・」 とか騒いでいて「いやですねおとうさん、ヒタイ、ヒタイにかけてますよ」 というギャグにもなってないようなシーンがあるけれども、私はこないだ、こういうわざとらしいつまんないギャグみたいなことを、実際にしてしまって忸怩たる思いだ。 カバンというのは、さがしているものが即座に出てきたためしがないけれども、私はそのカバンの中にあるメガネをさがしていたのである。さがしてもさがしても出てこない。駅で、ちょっと本が読みたくなったのでベンチにカバンを置いてメガネをさがしていたのだが、出てこないのだ。 夜店の万年筆屋みたいに、カバンの中のものを、すっかり出してベンチにならべてみたのにそこにメガネがない。 あきらめて、しかたがない裸眼で、無理やり読んでしまえ、と思って読むと、案に相違してスラスラ読める。 私はメガネをどうしたわけか、すでにかけていたのであった。 これは、おじいさんがぼけて、何度も朝飯を要求する、という定番の事態よりも、さらにひどくはないか?「よしこさん、朝ごはんまだですかねえ」「いやですねえ、おじいさん、いま食べてるじゃありませんか」というような、状況である。「さっき」食べたばっかりなのだったら、忘れたとかわかるけれども、むしゃむしゃ「朝めし」を食べながら「朝めしはまだですか」と言っているとというのでは、まるで不条理劇である。おそるべきことである。(「月刊日本橋」2013・12月) 2015年に出版された、このエッセイ集は「月刊日本橋」という雑誌に「日々是好日」と題して、2021年の今も連載が続いているエッセイをまとめた本です。 南伸坊さんは当時67歳、今のぼくと同い年で、エッセイで話題になっている「メガネの逃亡譚」はリアルな実感で理解できます。「おそるべき不条理」の世界も、笑いごとではありません。 そういえば、最近、後期高齢者の仲間入りをした知人が「毎日、新しいことばかりで、楽しいよ!」とおっしゃっているのを聞いて、「勇気づけられ(笑)」ましたが、まあ、「うれしい」ような、「かなしい」ような、恐るべき不条理の「大冒険」が、待っているのかもしれませんね。 残念ながら「はじめに」で登場した「クマさん」と「ゲンぺーさん」のエッセイ中での出番はありません。特に赤瀬川原平さん、別名、芥川賞作家尾辻克彦さんは、この本が出される前年、2014年に亡くなっておられて、まあ、残念ですが、思い出以外では登場しようがないということなのですね。 というわけで、このエッセイ集は「南伸坊とその家族」の「日常」の物語です。無聊をかこっていらっしゃる前期高齢者の方に最適かと思うのですが、いかがでしょう? こちらが「ドミトリ―ともきんす」です。お暇ならどうぞ。
2021.04.29
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フランシス・リー「アンモナイトの目覚め」シネリーブル神戸 三度目の「緊急事態宣言」が発令される直前、宣言の結果シネリーブル系列の映画館が休館してしまったので、とりあえず、シネリーブル神戸で見た最後の映画になってしまったのがフランシス・リー「アンモナイトの目覚め」でした。 題名に引き寄せられて観ました。原題は「Ammonite」らしいので、「目覚め」させたのは、この国の配給会社なのでしょうが、どうしても何に目覚めたのか? という、いわば、あらかじめに刷り込まれた関心に引きずられて観てしまった映画でした。 もっとも、題名が「アンモナイト」だけだったとして、見たかどうかということもあるわけで、難しいですね。 イギリスの海岸の岸壁と打ち寄せる波の表情が美しく印象的な映画でした。「不遇な女たち」の「愛の目覚めの物語」とでもいうべき体裁で、自然描写と心情の変化が重なり合わせられている、まあ、ありきたりな演出ですが、自然の美しさと主演の二人、ケイト・ウィンスレット(考古学者メアリー・アニング)とシアーシャ・ローナン(ブルジョアの妻シャーロット・マーチソン)による、厚みのある抑制された「愛」の表現、加えて脇役の、特に母親役の存在感が「映画」の「暗さ」を支えていて、見ごたえがありました。 個人的な思い込みですが、イギリス映画は、たぶん、風土とかのせいでしょうね、たとえばこの映画でも、海で水浴びをするシーンなんて「寒くないの?」と声をかけたくなるくらい「暗い」のですが、暗さの中のきらめくような「明るさ」を演じた主役のお二人の演技は印象に残りました。 名前を覚えることが苦手ですが、ケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンのお二人は覚えそうです。 もっとも、映画のストーリーに関係なく、興味をひかれたのは映し出された大英博物館のシーンで、まあ、時代的に重なるのかどうかよくわかりませんが、そのあたりに南方熊楠とかいるんじゃないかとか思って興味津々でしたが、映画としては、なかなかなラストシーンが待ち構えていて、「で、どうなるの?」で終わらせたところに、おおいに納得しました。こういう人間関係の描写に、結論はいらないと、ぼくは思うのです。監督 フランシス・リー脚本 フランシス・リー撮影 ステファーヌ・フォンテーヌ美術 サラ・フィンレイ衣装 マイケル・オコナー編集 クリス・ワイアット音楽 ハウシュカ ダスティン・オハローランキャストケイト・ウィンスレット(メアリー・アニング:考古学者)シアーシャ・ローナン(シャーロット・マーチソン:ブルジョワの妻)ジェマ・ジョーンズ(モリー・アニング:母親)ジェームズ・マッカードル(ロデリック・マーチソン:ブルジョア)アレック・セカレアヌ(ドクター・リーバーソン:医者)フィオナ・ショウ(エリザベス・フィルポット:隣人)2020年・117分・R15+・イギリス原題「Ammonite」2021・04・19-no39シネリーブル神戸no91
2021.04.28
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徘徊日記 2021年 4月24日「2021年 団地 黄色い花(その2)」団地あたり 山吹のあざやな山吹色が、そろそろ散り始めると、ほんわか黄色いモッコウバラの季節になりますね。バラとついているからバラなのか、よくわかりませんが、小さな花が、わんさか咲くのですが、ちょっとアップするとなるほどバラですかね。 数日前はこんな感じで、いかにもバラらしいのですが。マア、それもイメージなのですが。 小さいですがバラのようですね。中国が原産地らしいですが、中国原産といえばこれも「黄いろい花」でしたね。 サクラが満開の頃、レンギョウと「黄色」を競うようにして咲く「ウンナンオウバイ」です。漢字で書くと「雲南黄梅」のようですから、きっと中国原産種でしょうね。 さて、「黄いろい花」をを花壇で探せばまずこれですね。 これもチューリップだとおもいますが、ほんとうに、いろんな種類がありますね。 面白いのは、こうやって咲いてから茎というか、首が伸びるのですよね。 同じ花壇に咲き始めていた、こっちの、このつぼみは、オレンジ色ですが、いろんな色があるようですね。名前はご存知ですか? ガザニアという名前なのだそうです。今日(04・25)、花壇で花の世話をなさっているボランティアの女性に質問して知りました。 今日は花開いたガザニアと対面です。実は、色がさまざまある花だそうです。 下の写真の、この花も、ちょうど咲いていたのですが、ガザニアなのだそうです。何となく、地球の裏側からやってきた花のような気がしました。 もちろん、実際にどこで咲いている花なのか、よく知りませんでしたが、調べてみると、アフリカあたりの原産のようです。 そろそろ、「黄いろい花」もゴールですが、最後はやっぱりこの花ですかね。何となく一年中あるような気もしますが、やはり春の花といいたいです。 パンジーですね。ところで、この花はヨーロッパでしょうかね。時代劇にこの花が出てくると、やっぱり変ですね。イギリスあたりの時代劇なら出てくるのでしょうか? いろいろ、交配を重ねて作り出している花なのでしょうね。マア、その結果花壇はこういうふうにお花畑になるわけですね。 これで、団地の春の花の報告は終わりですが、ブログを読んだ方から、花の名前とか、いろいろ教えていただいて感激しています。 少しづつ修正していければいいなあと思っています。今回のチューリップも怪しいですね。そういえば、団地ではありませんが、元町の街路樹に面白い花を見つけました。知り合いの方が写真を送ってくれたので、「おまけ」で貼り付けます。 「イペ」というブラジルあたりの樹木らしいですね。元町駅前から大丸前に「黄いろい花」が咲いていますよ。 じゃあ、また、のぞいてください。バイバイ。
2021.04.27
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井筒和幸「無頼」神戸アートヴィレッジ 1ヵ月前に予告編を見て、井筒和幸の新作ということで気になりました。見たのは「無頼」です。緊急事態だか、非常事態だかの3回目の宣言が出るらしいこともあってあわてて出かけました。 マア、ここアートビレッジで見るときはよくあることなのですが、客は数人で、ほぼ、同年配の、見かけ上男性ばかりでした。「こんな映画、そんな若いひとが見るわけはないよな」 見る前にそう思ってすわりましたが、見終えて、もう一度そう思いました。 映画は「昭和のヤクザ」の「パッチギ」を、ええっと、「パッチギ」っていうのは頭突きのことだというのは彼の映画で覚えたのですが、一発カマス! それが撮りたかったのでしょうね。 泉谷しげるの「春夏秋冬」という1970年代のはやり歌で、たとえば、まあ、ぼくとかが歌詞なしで歌える歌がテーマソングのように繰り返し歌われ、で、「太陽の季節」に始まる、1960年代からのはやりの映画が、その時代の「空気」の象徴のように、まあ、チンピラたちが映画館で見たり、ビデオ屋の棚をあさったりする形ですが、挿入されていきます。おしまいが「ダイ・ハード」だったことに笑いました。 そのあたりに、この監督とその作品を同世代の代弁者のように感じながら見てきて、今や、徘徊老人の日常を送っている人間には、妙に染みるものがあるのですね。 「昭和」という時代の戦前、戦中、戦後の30年がパスされて、1960年代からの後半30年が描かれている印象でしたが、井筒和幸という監督が、そのように「昭和」を描いているいるのは、1952年生まれの、彼自身の半生を映画に投影したかったという理由以外には、ぼくには考えられない映画でした。 映画の後半のシーンで、右翼の論客中野俊水という人物が「死にざまを見せる」と称してピストル自殺を遂げます。その顛末の描き方に井筒の本音が露出していることは間違いないのですが、いったい「誰」に対して「死にざま」を見せたいのか、その焦点の定まらなさが、実に現代的ではあるのですが空振りだったのではないでしょうか。 いみじくもテーマソングの「春夏秋冬」が歌っているように、本当に「季節のなくなった街」で乾ききった人間が生きる社会になってしまった現代に、映画としてパッチギ一発! を、かませたかどうか、どうも、リキんだだけで、しりもちをついた印象です。 でも、まあ、ぼくにとっては、そこが井筒和幸らしくてよかったわけなのですが、キャストの一人として出ていらっしゃった、俳優隆大介さんの訃報が、今朝(2021・04・25)、ネット上に出ているのを目にし、映画を思い出して、やっぱりしみじみしてしまいました。 やっぱり「愛のある人」を井筒和幸は描こうとした映画だったと思いましたね。監督 井筒和幸脚本 佐野宜志 都築直飛 井筒和幸撮影 千足陽一照明 渡部嘉録音 白取貢美術 新田隆之音楽 細井豊主題歌 泉谷しげるキャスト松本利夫(井藤正治)柳ゆり菜(佳奈)中村達也(井藤孝)升毅(谷山)升毅小木茂光(川野)ラサール石井(橘)木下ほうか(中野俊秋)三上寛 隆大介 清水伸 松角洋平 遠藤かおる 佐藤五郎久場雄太 阿部亮平 遠藤雄弥 火野蜂三 木幡竜 清水優田口巧輝 朝香賢徹 ペ・ジョンミョン 高橋雄祐 橋本一郎和田聰宏 高橋洋 浜田学 駒木根隆介 松浦祐也 松尾潤松本大志 森本のぶ 赤間麻里子 石田佳名子 西川可奈子於保佐代子 中山晨輝 斎藤嘉樹 澤村大輔 長村航希斉藤天鼓 芦川誠 外波山文明2020年・146分・R15+・日本2021・04・23-no40神戸アートヴィレッジ(no14)
2021.04.27
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武田砂鉄「わかりやすさの罪」(朝日新聞社) 武田砂鉄が怒っています。いろいろ怒っていることをまとめると、これだけの分厚さになるだけの「怒り」があることが、なかなかすごいというか、「お元気である!」ということなのですが、ぼくは、この「お元気」な武田砂鉄が、結構、好きです。 題を見れば予想がつきますが、彼は「わかりやすい」という言葉が充満している、我々の社会の欺瞞に「怒って」いらっしゃるわけで、一つ一つ取り上げてあれこれ言うのは、ちょっと難しいですね。 で、「『コード』にすがる」の章にあるこんな話題を引用してみます。 要素を絞れ、そして、その要素を厳選せよ。その少数のトピックの種類とは、まず、「読者をひきつける大きなトピック」があり、「2番目以降のトピックは現状を脅かすような衝突wp示すものがいい」。実際に売れている例として「子どもと銃、信仰とセックス、愛とヴァンパイア」などがあげられる。 AにつづくBは、Aを脅かす存在であることが求められる。この連載で何度も繰り返してきたように、物語の連続性が途絶えているように見えたとしても、実はどこかで影響を与え合っているかもしれない、そこに物語を探る醍醐味があると信じている人間からすると、読み手をひきつける物語にはなりえない例として挙げられている「1番目がセクシャリティーで、2番目がガーデニングといったトピック」のほうにすっかりひかれてしまう。 話がガーデニングへ移行した時、先のセクシャリティーからどういう親密度を持って展開されれるのか、あるいは徹底的に乖離するのか、もしかしたらほんのちょっとだけ混ぜようとしてそれを表明しないまま進むのか、いずれにせよ、その全貌を明らかにしないまま進むのが良き小説だと思ってきたのだが、ひとまず、売れる小説とはそういうものではないらしい。 ジョディ・アーチャー&マシュー・ジョッカーズ「ベストセラーコード」(日経BP社)という本のベストセラー分析をに対しての発言のごく一部ですが、問題はこういう「ベストセラーコード」というような本の指摘が学問的分析の報告ではなくて、たとえば「小説を書いている人」に対する提言になっていて、それが、実行されているということです。「恋愛観って人によって違うから、あまり偏らないようにしている。いろんな人に意見を聞いて、平均値を見つける。それを歌にした方が共感を得やすい。恋愛ソングじゃなくても同じことをしている。自分のこだわりに固執するより、いい歌になる方がいい」(西野カナ) 「ゼストセラーコード」の指摘、そのままという印象ですね。ぼくは知らない人ですが、西野カナというポップ・シンガーの言葉だそうです。これを引用しながら、武田砂鉄による最終的な現状分析のまとめはこうです。 魅力的なフレーズを連鎖させて、短縮する、圧縮する、密集させる。 共感してもらえるための言葉、そして圧縮される音楽。とにかく、結果をすぐに出さなければならない。 ここだけお読みになってもわかりにくいかと思いますが、西野カナという人が使い、武田砂鉄もまとめの中で使っている「共感」が曲者ですね。 そのあたりを武田砂鉄はこうまとめています。「その人ならでは」の生まれ方って、慎重に模索されるべきものであるはずが、今ではそれをあきらめた産物が浸透し、受容してくれる人たちに寄り添うように言葉が選ばれている。「コード」が頒布され、その「コード」に基づいて書く。没個性をベタに変換する手続きをさっさと終え、多くの人に通用するものを提供しましょうよ、という圧が強くなってくる。どんなことでも、意味のある者の裏側に、意味のないように見えるものが大量に控えているはずなのだが、その無意味かもしれないものを、討議することなしにごみ箱に捨ててしまっている現状がある。 作品を受容する「大衆」の中には、すでに、「コード」化された感動を「共感」させる構造がまずあって、大衆的に共有されている「共感」に共振する歌を歌う。あるいは物語を描く。 それぞれの「私」の中にある「意味のないように見えるもの」は捨て去られ、なぜか「わかりやすい」と「共感」されるメッセージこそが「売れる」社会が出来上がっているというわけです。 世間の「わかりやすさ」について、世間そのものに関心を失いつつある老人はあれこれ言われても、よく知らないということになるわけですが、ここのところ所通い始めた映画館でかかる「日本映画」や、30年来読み続けている芥川賞とか直木賞とかの小説と呼ばれる表現行為にも、武田砂鉄がこの本で指摘する、まあ、ぼく的にまとめれば、スタンプ化された「共感」が充満しているのを感じます。 武田砂鉄の言い方を使うなら、「利便的なコード」を疑うことで、まず自分自身の「いいね!」中毒から足を洗うことが肝要ということでしょね。 それにしても、「しっかり怒り続けてくださいよ武田さん!」という読後感でした。
2021.04.26
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徘徊日記 2021年 4月24日「2021年 団地 黄いろい花(その1)」団地あちこち 春の終わりの「黄いろい花」といえば、やっぱり「山吹」ですかね。 4月の中旬にはこんなふうに咲き乱れて「山吹」色を堪能させてくれます。 でも、今年、最初に、2月の末から3月の上旬に咲き始めて、最近まで咲き続けていた「黄いろい花」は、まあ、いつものように、この花でした。 「水仙」ですね。白い水仙の後、3月の初めには群れを成して咲き始めて、4月の初めになっても、どうも、種類が違うらしいのですが、ぽつぽつと咲き残っていました。 ね、これが4月になって、最後に見た黄いろい水仙です。少し種類が違うようですが、ナルシスの話を思い出す風情でした。 白や黄いろの水仙が咲き始めた頃に花壇で咲いていたのがこの花です。 花壇に、「菜の花」が植えてあることが不思議な感じがするのは、ぼくが田舎者だからでしょうね。田んぼのあぜ道で見る花、もっと昔は、菜種油をとるために栽培された畑一面で見る花の記憶が、いまだにあるのですね。 「麦畑」と「菜の花畑」が春の景色だったことが、但馬の田舎にもあったのです。今は観賞用ですね。子供のころの記憶が、ふと浮かぶようになったのは、やはり、年を取ったということなのでしょうか。 この花が咲き始めるころ、藪の中ではこの花でした。 「フリージア」ですね。我が家の同居人はこの花のことを「家庭訪問の花」と呼んでいました。子供たちが新学期を迎えて、担任の先生が家庭訪問にやってくる頃の花というわけでしょうが、今年は、特に早くて、3月の下旬にはあちこちで咲いていました。 けっこう、寿命の長い花ですが、4月の10日過ぎに、住んでいる棟の前の満開の八重桜の木の下でも見かけました。 これが、今年、最後のフリージアかなと思っていましたが、こんな色の花も同じころに咲いていました。 最初見たときは水仙だとばかり思っていたのですが、たぶんこれは水仙ではなくて、フリージアの一種じゃないかと思います。マア、よくわかってはいないのですが。 思いつくことを書いていると、長くなりました。「黄いろい花」(その2)に「つづき」ということで一度終わります。よければ「つづき」も覗いてくださいね。じゃあね。
2021.04.25
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徘徊日記 2021年 4月23日「2021年 団地 白い花」団地あちこち 団地の春のおしまいに咲く「白い花」といえば、やっぱり「ハナミズキ」でしょうか。ソメイヨシノが散るころになると、同じ高木の花なのですが、梅やモモ、もちろんサクラとも、雰囲気が違う「白い花」をいっぱいに咲かせて、春風に揺れる様子がぼくはすきです。 神戸の街路樹には、木蓮や辛夷と並んで「ハナミズキ」が結構目につきますが、団地にも何本かあります。 サクラが散った若葉の緑と、緑っぽい白い花がよく合ってさわやかです。「ハナミズキ」が咲き始める4月の1日ころを過ぎると、住んでいる棟の水場ではこんな花も咲きます。 「スズラン」ですね。あちらこちらで咲いていたのですが、写真を撮り損ねていてこの二枚だけしかありません。 春の最初に、同じあたりに、先に咲くのはこっちの花です。 ハナニラですね。水仙や雪柳と同じころに咲き始めます。同じころ駐車場近くの花壇ではこんな花も咲いていました。 クリスマスローズです。春に咲くのにクリスマスのローズっていうのが面白のですが、ちっとも顔を見せない咲き方が奥ゆかしいですね。 それに比べて、みんなで咲き誇って、笑顔を見せている風情のこんな花も咲いています。 マーガレットですね。いつもは青いマーガレットもあったと思うのですが、今年は気付きませんでした。 で、そのあたりの歩道には白いこんな花が一斉に咲き始めます。 ツツジですね。もう一枚どうぞ。今日の写真です。 花が咲く時期が、例年より少し早いですね。ツツジの写真とか取り始めると「初夏」という気分ですが、まあ、温かくなってはいますが、まだ肌寒い気もします。団地の春の花も、あと「黄いろい花」を残すだけになりました。また、覗いてみてくださいね。じゃあ、さようなら。
2021.04.24
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徘徊日記 2021年 4月22日「2021年 団地 赤い花」団地あちこち 三月の終わりごろ、隣の棟の芝生で「ボケ」の花が咲き始めると気にかかるのが、団地の南のバス停の歩道沿いに咲く、この花とそっくりなあの花です。 こっちは「カリン」ですね。サクラの開花と重なるうえに、咲き方がなんというか、地味なので見過ごされてしまいますが、秋になるといい匂いの実をつけるこの花が好きです。 同じころに咲く花で、「実」がついて食べられればいいなあと思う花がありますが、「実」を見たことがないのがこっちの花です。 「モモ」ですね。我が家の「愉快な仲間」にはこの花の名前をいただいた人がいますが、「実」が好きで名付けたのか、「花」が好きで名付けたのか、でも、桃源郷はサクラじゃなくてこっちですからね、とか、今になってわけのわからないことを言っていますが、好きな花なのですね、本当は。 これも、「モモ」でしょうかね。「ハナモモ」ですかね。サクラとは違うと思いますね。そんなことを考えながら、藪の中をゴソゴソ歩いていると、ちょっと日当たりの悪いところに、こんな花が、まだ咲き残っていましたよ。「椿」ですね。今年、読者の方に教えていただいた「乙女椿」ではなくて、「藪椿」のピンク色なんじゃないかとか、いや山茶花かとか思うのですが、せっかく撮った写真がもったいないので、よくわからなけど載せますね。 三月の末から四月の上旬の赤い花といえば、ベランダでも咲いてくれましたが、それぞれの棟の前の花壇に、かならず咲いているのがこの花です。 はい、「チューリップ」ですね。向うにカキツバタが咲いています。で、これもチューリップかと思いきや、違ったりするわけですね。 アマリリスですね。マア、こんなふうにうろうろしていると、いつの間にかサクラも散ってしまって、この花の季節がもうやってきていますね。 はい、「つつじ」です。この団地の歩道の生け垣は一面「つつじ」ですから、もうしばらくは花の道ですね。 一斉に開くと面白いのですが、残念ながら、少しづつずれますね。赤、白、ピンク、色がいろいろで、サクラとは、また、違った楽しみです。上手に写真が撮れたらまた報告しますね。じゃあまた、のぞいてみてください。バイバイ。
2021.04.23
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徘徊日記 2021年4月10日「2021年 団地 青い花」団地あちこち 3月から4月の団地は、花の季節ですね。梅からサクラへと高木の花が咲き乱れる足元でかわいらしくて、可憐な花があれこれ開いていました。 「青い花」と題をつけながら「白い花」ですが、これはアネモネですね。雑木林の椿の木の下に咲いていました。 こちらは棟の前の花壇です。去年は真紅の花だったことを覚えていましたが、今年は白と青です。青といっても、青紫という方がいい色ですね。 何とも言えない「青さ」で、何ともいえない「頼りなさ」ですね。こういうのを見て女性的というと、なんか叱られそうな世相ですが、ただの女性ではない風情ですね。 「青い花」といえば、この季節ではこんな花も咲いています。 ムスカリです。それぞれの棟の前の花壇にも咲いていますが、我が家のベランダ下の芝生にもありました。お隣にはこんな花も。 はい、スミレです。マア、雑草みたいなものですが、なぜか気を引くのですよね。 こんな様子なのですがね。そういえば、雑草といえばこれも青い花です。 ツルニチニチソウっていうんですよね。そこら中に生えていますが、花は好きですね。(最初、ニオイバンマツリと書いていましたが、間違いですね。) 花壇をのぞくとこんな花が咲いていました。名前がわからないんですが載せますね。 子供のころによく見た紫蘇の花に似ている気もするのですが、よくわかりませんね。(読者の方に教えられました。「十二単衣」という名だそうです) 一方こちらは定番です。 パンジーです。果たしてパンジーが春の花なのかどうか、一年中咲いているような気がするのですが、どうなっているんでしょうね。 色にしても、ありとあらゆる色がそろっていて、いやはや、何ともすごいものです。 とまあ、今回は、2021年春に出会った「青い花」を並べてみました。次は黄色かな?追記2021・04・22青い花で群れて咲くといえばこの花を忘れていました。ネモフィリアですね。 ついでなのでもう一枚。スマホだと色が変わりますね。上のデジカメの方が実色に近い気がします。追記2021・04・23ツルニチニチソウのことをニオイバンマツリと書いていましたが間違いでした。ニオイバンマツリはこの花ですね。 去年、ベランダで咲いた写真です。今年はまだですね。
2021.04.22
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クリストフ・フィアット「フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ」(明石書店) 市民図書館で棚を見ていて目に留まりました。批評家の加藤典洋に「さようなら、ゴジラたち」(岩波書店)という評論集がありますが、あの本は、確か、東北の震災、福島第1の大事故以前だったような記憶も浮かんできて、「はてな?」という気分で手に取りました。奥付を見ると、出版年月日が2013年3月11日となっているではありませんか。なるほど、面白そうじゃないかというわけで読みました。 著者については、よく知られた人ではありません。ちょうど、訳者の平野暁人が、あとがきで著者を紹介しているのを見つけました。 著者フィアットは1966年生まれ、フランシュ・コンテ地方出身のフランス人で、本国でこれまでに出版された著作は「スティーヴン・キングよ永遠に」・「バットマンの冒険をめぐる叙事詩」他十冊を数える(2013年現在未邦訳)詩、小説、評論他多様なジャンルを手掛けるが、とりわけポップ・アイコン(大衆文化において記号的な役割を果たす人物、作品、キャラクターおよび概念その他)に現代思想を援用して読み解くスタイルを得意としている。 というわけですが、実は劇作家で演出家で、役者でもある人らしいのです。日本には、最近、兵庫県の北部の町、豊岡市に演劇大学を作った劇作家平田オリザに誘われてやってきたらしくて、2011年4月から約一か月の間フクシマやヒロシマなどを取材旅行したようです。 平野暁人は、その間、通訳として彼に同行した人のようです。平野によれば「紀行文風小説」ということになるのですが、ぼくは、まあ、普通とは言えないけれど、ただの「小説」だと思いました。 作品は、日本にやってきて、1966年ロラン・バルトが泊まった(まあ、わざわざ、そう書いてあるところが面白いのですが)日仏学院を根城に、平田オリザや平野暁人と一緒に福島県の「いわき」に出発するところから始まります。「あのねクリストフ、今日は汚染地域ギリギリまで行きます」オリザが言う。「あそこに入るのは、ジャーナリスト以外ではクリストフが初めてだよ。怖い?」 平田オリザの運転する自動車でフクシマに向かう「僕」は、「海」を見ながら、なぜか「ゴジラ」のことを思いはじめます。 とまあ、こんなふうに小説は始まります。で、被災地の海岸に佇む「僕」が「ゴジラの雄たけび」を耳にし、その場所から、フクシマ、トーキョウ、ヒロシマと、「ゴジラとの遭遇」、あるいは、彼自身の中にいる「ゴジラ」の顕現を「夢見る」旅をつづける顛末を小説化した作品でした。 ぼくが題名を見て思い出した加藤典洋との出会いも描かれていました。フィアットも作品中で言及していますが、加藤の「ゴジラ論」の肝は、南の海で生まれたゴジラが、フィリピンにも、台湾にも、モチロン、ハワイにも目もくれないで、まっすぐ「日本列島に還ってくる」という、その行動パターンに注目した所にあると思うのですが、フランス人のフィアットにとっては「放射能の申し子」であるゴジラを、宗教的な「畏怖の対象」として「不気味なもの(フロイト)」だと考える加藤との出会いが、彼自身の「ゴジラ」像を成長させ、やがて、市ヶ谷で割腹自殺したミシマへと関心を広げていく展開は、なかなかスリリングなものがありました。 図式的になぞれば、フクシマ(原発事故) → トウキョウ(余震) → ヒロシマ(原爆) → カトウ(戦後論) →ミシマ(英霊)となりますが、これをつなぐイメージとしてゴジラが想起されています。 大雑把な言い草で申し訳ありませんが、こういう発想は、やはり、「外から見ている視線」が作り出すもので、現在の日本人には見えてこない新しさを感じさせました。特に、三島由紀夫にたどりついたあたりは、ちょっと、虚を突かれたという感じでした。 作品のかなり重要なエポックであるフクシマをめぐる記述の中に、通訳であった平野暁人の父で、東電や国の原子力発電所にかかわるリスク管理の仕事をしている人との面会の場もありました。 最後に平野氏は言った。安全管理とはすなわちリスク評価に基づくものだ。けれど千年に一度来るような災害に関しては、つまり三月十一日のケースがそれだったわけだが、データを集めて数値を見積もること自体が難しい。いずれにしても、異常事態に対しては様々に異なるレベルでの介入措置があり、今回のように深刻な状況になるのは稀なのだ。 そしてこう締めくくった。「福島の原発はもう手詰まりなんです!」 2021年4月の今読み直しても、実にリアルな発言ですね。この小説の不思議な面白さは、作家が出会った人たちとの、こういう記述にあると思います。フクシマやヒロシマで出会った人に限らず、たとえば加藤典洋の発言に、揺り動かされるように、作家が描く淡いフォーカスの物語の中でゴジラが蠢動し始めるイメージは刺激的でしたよ。
2021.04.22
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ほしよりこ「逢沢りく(上・下)」(文春文庫) 2021年の1月頃のヤサイクン・マンガ便に入っていました。文春文庫のマンガです。ほしよりこという漫画家を読むのが、まず、初めてですが、エンピツ漫画というのでしょうか、表紙のような絵がエンピツタッチで書いてあって、ノートに横線を引いたとでもいう雰囲気のコマ割りで、まあ、最近では見たことがありません。 なんか昔、「ガロ」あたりで見かけたパターンかなとか思いながら読み始めて、なんとなく引き込まれました。 ほしよりこ「逢沢りく(上・下)」(文春文庫)です これが上巻の最初のページです。ト書きはこう書かれています。まるで蛇口をちょっとひねるように涙をこぼすことができる 東京の、いや関東地方のというべきでしょうか?中学生「逢沢りくちゃん」の「涙」のお話でした。 全編、このページのような、こんなかんじです。コマ割りとか描線とかに特徴がありますが、主人公は両親二人と暮らす一人っ子という設定の少女です。 父親は女性社員と浮気している、やり手の若い社長さんで、母親は、子育てが終わって、社会復帰を目指している、これまたよくできるらしい主婦です。 で、一人っ子の「逢沢りくちゃん」というわけです。 どうも、マンガの肝は、感情表現をうまく利用する少女ではなくて、「自分はよくわかっている」と思い込んでいる「親」とか「教員」はもちろんですが、その他の登場人物たちにとっても、「涙」という感情記号の、まあ、スタンプ的効果がもたらす「笑い」なのではないかと思いました。 当然ですが、本人も涙のスタンプ効果というか、他者からのステロタイプな理解、というパターンから自由ではありませんから、最後にはこうなるわけです。 ここで、読者は笑うべきなのか、同情すべきなのか、実はよくわかりませんね。 マンガの最後がこういう「オチ」だろうと、なんとなく予想していると、そのマンマの「オチ」ということに66歳のマンガ好きな老人は「疲れる」わけですが、若い読者からは「支持」されているようです。 しかし、この、なりふり構わない最終ページはいったいなんだろうとも思わけです。「涙」と同じようなパターンで、読者の「笑い」を取っているのかなというのが、「関西弁」で話されて、「関西」イメージを際立たせている会話風景です。 当然ですが、日常の会話風景で、「関西嫌い」の東京人のりくちゃんの嫌悪を際立たせるために描かれていて、日々繰り返すわけですから、内容は結構ディープです。関西人のぼくが読んでも笑える描写がさく裂しています。 でも、どこか「スタンプ」なんですね。ところが、これがウケるのでしょうね。きっとウケていると思いますね。 でも、もう一度、「でも」ですが、作品の最初から最後までが、まあ、マンガというのはそういうもんだという面もありますが、ステロタイプにスタンプ効果という印象なのですね。 そういう意味では、異様に現代的なマンガだと思いました。そこが、たぶん、このマンガのすごいところなのでしょうね。 これって褒めてるのでしょうか。多分、褒めていると思いますよ。(笑)
2021.04.21
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徘徊日記 2021年 4月5日「2021年 団地 花だより(その6)」八重桜 団地あちこち 四月の声が聞こえてくるのと調子を合わせたようにソメイヨシノが散りました。いつもの春と同じことなのでしょうが、あっけない散り方でしたが、そうなると自宅前の駐輪場の八重桜が開き始めます。マア、この順番もいつもの春と同じです。 4月5日の写真ですが、満開です。緑の立木の向こうに、もう一本あります。もう少しアップしてみますね。 スマホで撮るとこんなふうに映っていました。 自宅の前から少し駐車場の方に行ってみますね。お隣の棟の前のサクラですね。4月10日頃の写真です。 駐車場の端に、違う色合いの花がありました。 こちらの花は、咲いた時期は八重桜と同じですが、ほかの八重とも少し違います。普通のソメイヨシノとも違うと思うのですが。アップするとこんな感じです。 ほかの棟の方にも行ってみます。 緑の若葉と、薄いピンクの花の群れ、青空、天気がいい日はいいですねえ。 まだ若い木ですが、花はたくさんついていました。来年からも咲いてくれるのでしょうね。 とりあえず、桜の花だよりはこれで終わりです。でも、まあ、団地の花壇にはあれこれ咲き始めています。またお便りします。そのときはよろしく。じゃあね。
2021.04.20
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KENTARO「ターコイズの空の下で」シネリーブル神戸 日本人のおバカな青年がモンゴルを旅する映画でした。いきなり麿赤児のクローズアップが映し出されて、映画が始まりました。マア、この顔を見るためにやってきたのですから、文句はありませんが、なんと言うか、実に安易なお話でしたが、映画としてはさほど悪くないと思いました。 悪くないと感じた理由は二つです。一つはアムラという馬泥棒を演じるアムラ・バルジンヤムという俳優の好演です。韓国映画のスターにソン・ガンホという方がいますが、ちょっと雰囲気が似ていると思いました。 おおらかで、実に庶民的な表情、見ていて、なんとなくおかしくて、安心する物腰の演技でした。馬に乗るシーンも、さすが、馬の本場を思わせる乗り方で、東京のアスファルトの道を、馬に気を使いながら(わかりませんが)走らせている様子がとてもいいと思いました。 二つ目は「ターコイズの空」、トルコ石風のスカイブルーの空ですかね、をはじめとした、モンゴルの風景や人ですね。 一応、ロード・ムービーなわけで、要するに、怪友、麿赤児演じるお金持ちのオジーちゃんが、柳楽優弥君演じるバカ孫を、どんより広がる「日本」の空じゃなくて、モンゴルの草原の「ターコイズ」の空のもとで、まあ、通過儀礼的「体験学習」をしてきなさいという、のどかな設定で、送り出しわけです。 その結果、ボンクラ青年「タケシ」君が、馬泥棒のアムラが運転するバンに乗って、モンゴルの草原を旅しながら、日本では味わえない「人間的現実」や「自然」と出会うという、ロード・ムービーなわけで、「出会う」対象が風景も人間も実にいいのです。 マア、問題は、物語の「山場」の設定が甘い! というか、「落ち」だけ考えついて、そこから作った印象が残るのですが、最後に映し出された、死にかけの麿赤児の顔を見ながら、どうも、「遊び心」で作ったコメディだったようだと得心し、腹を立てても仕方がないかという結論でした。監督 KENTARO脚本 KENTARO アムラ・バルジンヤム撮影 アイバン・コバック照明 中村晋平録音 シルビーノ・グワルダ・ベセラ美術 エルデンビレグ・ビアンバツォグト 菊地実幸 安藤秀敏衣装 TAKEO KIKUCHI MACHIKO JINTOヘアメイク 須見有樹子音楽 ルル・ゲーンズブール OKI マンダハイ・ダンスレン オランキャスト柳楽優弥(タケシ)アムラ・バルジンヤム(アムラ)麿赤兒(三郎)西山潤(若き日の三郎)ツェツゲ・ビャンバ(遊牧民女性)サラントゥーヤ・サンブ(ツェルマ)サヘル・ローズ(三郎の秘書)諏訪太朗(警察署長)2020年・95分・G・日本・モンゴル・フランス合作2021・04・12‐no37シネリーブル神戸no90
2021.04.20
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「諏訪湖の夕暮れ」 徘徊日記 2021年3月20日 諏訪湖あたり(その2) 夕陽の諏訪湖です。向うの山並みの中に松本からやってきた高速道路が見えるのですが、写真で撮ってみるとよくわかりません。 諏訪湖の東の湖岸からの眺めです。3月の春分の日の連休ですが観光のお客さんも少ない、まあ、どちらかというと静かな風景です。 岸辺の芝生に面白いものがありました。なんでしょうこれは。説明のプレートもあります。 どうも、諏訪地方の観光案内用のモニュメントのようです。で、連作です。 なるほど、近くにお城があったのですね。「諏訪の浮き城」というのだそうです。 こちらは何でしょう。糸繰りの道具ですかね。 ああ、そういえば、このあたり一帯は絹の産地ですね。 網でしょうか?中に魚がかかっているようです。 泥舟って、どういういきさつで、そういう名前になったのでしょうね?まさか、泥で作った狸の船というわけではないでしょうね。そういえば、今日も、湖の中にはワカサギ釣りの筏が浮かんでいました。 四つ手網という道具の使い方が面白そうですね。船からつるして持ち上げるのでしょうか。 これが難問でした(笑)。なんだと思いますか? 近くのお寺の石仏のようです。諏訪大社下社というのは下諏訪神社のことでしょうかね。すぐ近くにあるらしいのですが、この日は夕暮れも迫って、あきらめました。 お天気も、あいにく、薄曇りから、雨模様に代わってきました。そろそろ引き上げましょうかという頃に面白いことが起こりました。 間欠泉というらしいですね。観光センターの裏にある池から湯気と一緒に噴水が吹き上げてきました。 いないと思っていた観光客も集まってきて歓声が上がりましたが、看板の時刻通り吹き上がるというのは、「これ如何に!?」という気もしました。(笑) 噴水池ではなくて「七ツ釜」という間欠泉噴出孔だったようです。近くに足湯もありました。少し熱めで、ジージのシマクマ君はすぐに我慢ができなくなりましたが、バーバとユナチャン姫とその家族はのんびり楽しんでいました。 これで、松本・安曇野・諏訪の旅も終わりですね。次は「下諏訪神社」に行ってみたいですが、さて、いつになることやら。何はともあれ、諏訪湖に来ることができて面白かったですね。 ここまで、お付き合いいただいて、ありがとうございました。じゃあ、また神戸の徘徊でお会いしましょう。バイバイ。
2021.04.19
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「諏訪大社 上社」 徘徊日記 2021年3月20日 諏訪湖あたり 諏訪湖にやってきました。松本の南、天竜川の水源の「みずうみ」ですね。中央自動車道というのでしょうか、名古屋から松本に行く高速道路のパーキングから眺めたことはありますが、岸部まで行くのは今回が初めてです。 高速道路のパーキングからの展望です。今回はここから少し南に降りて、諏訪神社 上社に参詣し、時間が許せば、湖の対岸あたりにある諏訪神社 下社にも行ければいいね、という企画ですが、自動車で案内してくれる、松本在住ゆかいな仲間「カガククン」にお任せです。 要するに、シマクマ君はカガククンの家族とチッチキ夫人の5人連れで、家族ドライブというわけでした。お天気も上々、ちょっと霞んでいますが、のどかな春の風景という感じです。 高速道路を出て、やってきたのが諏訪大社、上社です。鳥居の全景を撮りそこなっていました。鳥居をくぐると、狛犬君たちがいて、最初に掲載した「一の御柱」があります。諏訪大社といえば「御柱おんばしら」ですよね。神社の結界を示す指標として四本の御柱があるようですが、これが最初の柱です。 で、神社といえば、狛犬くんです。こちらが「阿」君、下が「吽」君ですね。 さすがです、この神社には大きな「諏訪大社本宮」と記した石碑がありました。どうも、由緒正しいというか、かなり古い神社のようです。 大鳥居をくぐったすぐそばにあって、気に入ったのはこの像です。 お相撲さんですが、江戸時代の伝説の力士、雷電為衛門さんだそうですね。手形も飾ってあります。マア、彫像自体は江戸のものではありません。矢崎 虎夫という方ですね。 で、この方角に本殿がありました。 どなたかの結婚式の最中のようです。今から、本殿参拝でしょうかね。見えているのは、本殿の門で、その門から見えるのがこんな光景です。 本殿の前が広場で、周りが回廊になっていますが、参拝者は入ることができないようです。この写真を撮っているぼくの隣には新婚さんのカップルと、そのご家族がいらっしゃいましたが、まあ、それを写真にとるわけにもいきませんね。 神楽殿とでかい太鼓です。 厩があって、大きな絵馬もあります。馬は木製ですが、信州の神社と馬というのは、どうも付き物のようですね。ぼくは、今まで気づきませんでしたが、関西の神社にもあるのでしょうか? 振り向くと大欅です。よろしいですねえ(笑)。 実は、この日の諏訪大社は工事中で、あんまりうろうろできませんでしたが、この工事の囲いのところに「二の御柱」が立っていました。 隣に立っている人と見比べていただければわかりますが、実は、大人が二人がかりでも抱えきれるかどうかという、かなり大きな木です。この柱があと二本あるらしいのですが、どこにあるのかよくわかりません。ありました! 神社の奥の木立の中に立っています。スマホで撮ったので、ピンぼけてますが、白木の柱が立っています。 何せ、大木が、文字通り林立していて、なかなか雰囲気のいい神社でしたが、一番不思議だったのが、土産物売りの店先のこの旗でした。 偶然、一緒に写っている自動販売機の「諏訪姫」キャラも、なかなか驚きですが、宣伝用ののぼり旗に書いてあるのは、開運「うなぎ財布」の絵文字ですね。「うなぎ製」の財布のようです。あるんですねえ。確かめそこないましたが、マア、ともかく次は「諏訪湖」です。今回はここまで。じゃあね。
2021.04.18
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イリヤ・フルジャノフスキー、エカテリーナ・エルテリ共同監督 「DAU. ナターシャ」シネリーブル神戸 なんというか、風の便りにのって「ナターシャはすごい。」 という評判が聞こえてきました。で、見に行ったわけです。久しぶりの18禁映画でした。 たしかに18禁映画でした。現代社会の常識では、この映画は「未成年」には見せたがらないでしょう。あけすけで過剰な「性的描写」が、欲望を充足させるためとしか思えない「愛を交わす(?)」シーンや拷問のシーンによって、延々と続きます。特に拷問シーンでは、何の躊躇もない精神的・肉体的暴力シーンが繰り返されます。 見ているぼくもまた、何とも言いようのない不安が充満する「恐怖」の部屋に閉じ込められている「感覚」に、落ち込んでいきます。それだけでも、この映画は見る価値があると思いましたが、確かに「未成年」には・・・、 とも感じました。 しかし、この映画が映し出す社会は、果たして、現代社会とは無縁な「ディストピア」であり、登場人物たちは、その世界に偶然生まれてしまった人たちなのでしょうか。 この映画を、できれば「未成年」の目からは隠したいと痛切に思うのは、とりもなおさずナターシャ自身であり、ナターシャをナターシャたらしめた「社会」で生きる人たちだろうと思いますが、ナターシャに起こったことを、他人事といえる社会にぼくたちは住んでいるのでしょうか。 ぼくにとっては、そういう、自問をリアルに想起させる力のある作品だと感じました。「人間はどうすれば壊れるか?」 普通、ぼくたちがなるべく避けて通るはずのこの「問い」を、現実化するために様々な努力を惜しまなかった政治権力が、「社会主義」という理想の衣をまとって存在したことを告知し、告発した映画だったと思います。まさに「壊されていく人間」の姿を実にリアルに、入念に描いていて、それを目の当たりにするのは、かなり「恐ろしく」、「ウットオシイ」体験でした。 が、本当に「恐ろしい」のは、「壊された人間」は、昨日までと同じように、今日からも、明るくまじめな人間として、日常に帰っていく姿を、鮮やかに描いたところだったと思います。 国家機密を扱う研究所の食堂で働く、気の強い、独り者の中年女性、ナターシャ役で「壊される人間」 を見事に演じたナターリヤ・ベレジナヤという女優さんの演技には、ちょっと鬼気迫るものがありました。 DAUという、この映画の企画は「壊される人間」を「人名シリーズ」として、連作で描こうという計画らしいのですが、見た後の「暗さ」を想像すると、少々、気が重いのですが、次は、どんな職業のどんな人間が、どんなふうに壊されるのか、目が離せないシリーズになりそうですね。 映画を見て「暗い」気分を味わいたい人にはお勧めですが、50年以上も前のソビエト社会主義体制下の「全体主義」に対する告発映画が、本来、自由であるはずの「資本主義」体制下で生きている、ぼくたちの目の前で始まっている、新たな「全体主義」を、リアルに予感させる不気味さは、半端な「暗さ」ではないと思いました。監督 イリヤ・フルジャノフスキー 共同監督 エカテリーナ・エルテリ製作 セルゲイ・アドニエフ フィリップ・ボベール制作総指揮 アレクサンドラ・チモフェーエワ スベトラーナ・ドラガエワ脚本 イリヤ・フルジャノフスキー エカテリーナ・エルテリ撮影 ユルゲン・ユルゲス美術 デニス・シバノフ衣装イリーナ・ツベトコワ リュボーフィ・ミンガジチノワ エレーナ・ベクリツカヤ オリガ・ベクリツカヤ編集 ブランド・サミームキャストナターリヤ・ベレジナヤ(ナターシャ)ウラジーミル・アジッポ(尋問官)オリガ・シカバルニャ(オーリャ)リュック・ビジェ(リュック)アレクセイ・ブリノフ(ブリノフ教授)2020年・139分・R18+・ドイツ・ウクライナ・イギリス・ロシア合作原題「DAU. Natasha」2021・03・23-no27シネリーブル神戸no89
2021.04.18
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山田史生「孔子はこう考えた」(ちくまプリマー新書) 以前、おなじ「ちくまプリーマー新書」の一冊で「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)という参考書(?)を案内したことがありますが、今回のこの本、「孔子はこう考えた」は同じ著者山田史生さんの「論語」入門書といっていいでしょう。 大学入試突破のお手伝いをする現場から離れて3年たってしまいました。その頃は、センター試験とか、そうはいっても、毎年解いていましたが、今では「問題」を見るどころか、いつあったのかすら気付きません。高校の国語の内容も大きく変わると評判になっていますが、実情についてはよく知りません。 で、今頃、なんで「論語」なんか読んでいるのか、というわけですが、そこはやはり昔取った杵柄というか、孔子先生の言葉を借りれば「学びて時に之を習う、亦、説しからずや」。という感じでしょうか。 「これって高校生にいいんじゃないの」と気づいた本は手に取る、まあ、癖のようなものはまだ残っていて、先日、市民図書館の棚で見つけたのがこの本です。 大学入試に即していえば「漢文」は、「古典」という教科の中の一科目ですが、個々の大学の入試で「漢文」を課す大学は、ぼくが、仕事を辞めるころにはもうありませんでした。かろうじて、センター試験の中の「国語」200点のうち50点が「漢文」の問題という所に残っているだけだったと思います。 ところが、公立の高校入試の場合は100点中、20点ほどの割合で、毎年、出題されていたのですが、今はどうなっているのでしょうね。 「漢文」なんて、役に立たない、お得にならない教科なのでしょうか。そのあたりを、ゴチャゴチャ議論するのはやめますが、一つだけ言えば、「論理国語」なんていう教科を新設するくらいなら「漢文」の時間数を増やした方が、目的に対しては「お得」で「役に立つ」と思うのですが、でも、まあ、すくなくとも、2020年現在の「文部大臣」や「総理大臣」といった方々は、「漢文」どころか、漢字そのものの常識も疑わしいわけですから、まあ、世の流れで「漢文」なんて見向きもされないのはしようがありませんね。 まあ、そういうわけで、本書の案内ですが、この本では「自分のことを好きになろう」というテーマを第1章に掲げて、「孔子」について語り始めています。 最近の世相を見ていて、ちょっと面白いなと思ったのは、「論語:公冶長」編にあるこんな文章を取り上げていたところです。本文では、巻末にまとめてありますが、まず、肝試し代わりに白文を引用します。読めますか?顏淵季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘與朋友共、敝之而無憾。顏淵曰、願無伐善、無施勞。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之。 マア、読めなくても大丈夫です。この文章に対して、山田先生はこんな前振りをして解説を始めます。 「空気が読めない」という言葉がある。「KY」と略したりするようである。 若者が「お前空気読めよ」といっているのが聞こえてくると、イヤな感じがする。 そういう人なんですね、山田先生は。続けて、書き下し分と、口語訳がついています。 こちらが書き下しです。 顏淵、季路、侍す。子曰く、蓋(なん)ぞおのおの爾(なんじ)の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝(やぶ)るとも憾(うら)むこと無けん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老いたる者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少(わか)き者は之を懐(なつ)けん。 続けて口語訳 顔淵と子路(季路とも)とが先生のそばにいたときのこと。先生「こうありたいという願いをいってごらん」。子路「乗り物や着物や毛皮を友達と共有したら、たとえ使いつぶされてもイヤな顔をしないようにしたいです」。顔淵「どんなに善いことしても自慢せず、ひとさまに迷惑をかけないようにしたいです」。子路「先生の望みもお聞かせください」。先生「年寄りとはリラックスしておしゃべりし、友だちとはざっくばらんにつきあい、若いひととも気がねなくやりたいね」。 かなり、くだけた調子ですが、問題ないでしょう。さて、ここからが解説です。 子路はもと遊侠の徒だったからガラがわるい。しょっちゅうドジをやらかすんだけど、どこか憎めない。 「おまえの望みをいってみよ」といわれて、「待ってました」とばかり子路はいう。オレの愛車や革ジャンをダチに貸してやって、それがボロボロにされてもはらをたてないような、そんな男になりたいっす。 孔子と顔淵とは困ったような顔をしている。いやはや、子路らしいな、と。お里が知れるといったところである。子路にしてみれば、どうしして困られちゃうのか、さっぱりわからない。子路は、果たして空気が読めない男なのだろうか? それにひきかえ顔淵の答えは、いかにも優等生である。模範的な答えで、もちろん文句のつけようはない。その文句のつけようのないところが、どうしようもなくダメである。自分の答えがつまらないことに(そして孔子も頭の片隅でつまらないとかんじているということに)顔淵は気付いているのだろうか?もし気づいていないとしたら、顔淵もまた空気が読めない男なんじゃないだろうか。 子路にせがまれ、孔子はいう。先輩からは「こいつにまかせておけば安心だ」と信頼してもらえ、同輩からは「かれといっしょならやってみたい」と仲間にしてもらえ、後輩からは「このひとのようになりたい」と慕ってもらえるような、そんな自分でありたいと。 子路は、孔子の望む人間像とは正反対の男である。先輩からは危なっかしがられ、同輩からは煙たがられ、後輩からは軽んぜられるという、どうしようもない問題児である。けれども、そんな子路のことを孔子はこころから信頼している。 と、まあ、山田先生の論は、「KY」という流行語をネタに、秀才顔淵と比較しながら、子路の発言にあらわれた「空気を読まない」、「空気が読めない」ことの正直さを考えることを読者にうながし、「自分のことを好きになろう」というテーマに向かって、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」という結論へ進むわけですが、ぼくがおもしろいと思ったのは、別のことで、「そんたく」という最近の流行語にを思い浮かべたことでした。 「忖度」と漢字で書くこの言葉が、はやりはじめた詳しい経緯は知りませんが、ここ十年、高校の教室でハヤッテいた「空気を読む」をいう同調圧力の共有による、ニヤニヤ笑いの「平和意識」が、いよいよ一般社会でもあきらかな汚職の「合法化」用語として出回り始めているのだなと思うのですが、現在の「ものわかりのいい」諸君は、少なくとも、世事は知っている、正義漢子路どころか、「理想」に対して朴訥無双の顔淵からもはるかに遠いところにいることに、思わず気づかされたというおもしろさでした。 落ち着いて考えれば、暗澹とする世相ですが、まあ、「論語」あたりから読んでみるのも面白いのかもという、思いがけない発見の書だったということです。 皆さんも「論語」とかいかがですか?
2021.04.17
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「団地 花だより(その5)」徘徊日記 2021年4月1日団地あたり4月1日の自宅前です。右に見えているのが小学校、中学校の通学路です。今回は、それぞれの棟の前で咲いているサクラがお目当てです。 下の写真は、自宅からバス停に行く、途中の階段横のサクラです。 西の駐車場のサクラ並木です。 少し並木の下を歩いて下から見上げるとこんな感じです。まあ、なんというか、極楽という感じでしょうか。 棟の前で、堂々と一本で立っている、まだ、若いサクラです。隣の立木、アメリカ・フーが彫刻みたいで、笑えます。 サクラの花には青空が似合いますね。 「どうだ、満開だろ!」 うーん。ことば遣いが違いますね。いいのを思いつきませんね。難しいですね。なんていってるんでしょうね? なぜか、今年は花のつきかたが思わしくなかった枝垂れサクラです。そいう年もあるのでしょうか? 曇り空が申し訳ない風情ですが、満開です。撮りようによれば、もっと豪華に撮れたのでしょうが、いかんともしがたいですね。 夕暮れ時のサクラです。 春の夕陽です。逆光の中のサクラです。素人のデジタルでは無理ですね。写真は便利ですが、見えているものが、そのまま撮れるというわけではないのですね。不思議です。 3月末の写真も混ざりましたが、ソメイヨシノの季節はこうして終わりました。でも「花だより」は続きます。じゃあ、また、よろしく。
2021.04.16
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「2021年 団地 花だより(その4)」徘徊日記 2021年4月1日(木)北門あたり「花だより(その3)」で歩いていた桜並木を自宅のベランダから見るとこんな感じです。写真の桜の並木を、右から左へ歩いてきました。左の端の方が北の門です。 門の外のからの眺めです。外は小学校や中学校に続く通学路です。通りかかる人が門から中をのぞくとこんな感じで、この道を抜ければバス停ですから、ちょっと時間があれば通り抜けてみようと思いますよね。今は、そうはいっても春休みです。近くの学校の先生らしき人が寛いでいらっしゃることもありました。 で、この右側には、別の花が満開を迎えていました。 箒桃ですね。サクラと青空と白い箒桃。 木蓮が咲いて、桜が咲いて、その次は箒桃、いつもならその順番だったような気がしますが、今年は、一斉です。まだ若木なのでしょうが、独特の形で空に伸びていくようです。白、赤、ピンクの木があります。 サクラと青空と赤い箒桃です。 この写真は4月5日ころです。サクラは葉桜です。少しカメラを引くと、もう少しカラフルになります。 黄色い花は雲南黄梅(ウンナンオウバイ)だと思います。すぐ近くには山吹も咲き始めていますよ。 「山吹色」という言い方がありますが、鮮やかな色合いがうつくしいですね。 アップするとこんな感じです。 梅、椿に始まって、雪柳、レンギョウ、モモ、桜、箒桃・・・・今年は、さまざまないろが、同時に競い合っている不思議な春でした。 「花だより(その5)」はもう少しサクラ自慢を続けます。またのぞいてみてくださいね。
2021.04.15
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「100days100bookcovers no51」(51日目) 山下洋輔 「ドバラダ門」(新潮社) 今回はDEGUTIさんの紹介の写真を見た瞬間に、「おっ、これは刑務所じゃないか、じゃあ、あれか、あれしかないじゃないか。」 という具合で、すぐに浮かびました。 最初の「アレ」は網走監獄を脱走した囚人たちの背中の入れ墨を集めて、アイヌ民族の金塊の山を探すという設定の人気漫画「ゴールデン・カムイ」です。 二つ目の「アレ」は奈良刑務所の門をはじめ、全国の刑務所建設の設計に携わった明治の建築家「山下啓次郎」のお孫さんである、ジャズピアノの鬼才、山下洋輔の傑作ジャズ小説「ドバラダ門」(新潮社)でした。 とはいうものの「ゴールデン・カムイ」は、もうすでに、それも繰り返し紹介している作品ということで取り消し、などと考えながらDEGUTIさんの記事を落ち着いて読んでみると、門の保存をめぐって山下啓次郎とその孫である山下洋輔にも言及されていて、「うーん、これは、ちょっとかぶり過ぎかな?」 と、ちょっと躊躇したのですが、「イヤ、いや、後半の出発点ということもある。そりゃあ、ヤッパリ「門」からyろう」 と思い直し、決定したのがこの小説です。 山下洋輔「ドバラダ門」(新潮社:1990刊) 決定して、すぐに困ったことに気付きました。本がないのです。あのあたりと見当をつけた棚には姿が見えませんし、同居人にも聞いてみるのですが、「そことちゃうの?ちがうんやったら、うーん、なんか箱の中に入っているのを見た気がする。」 全く要領を得ません。まあ、要領を得ないのはぼくの記憶の方がひどいのですが、仕方がないので市民図書館に出かけました。 親切な司書さんが倉庫から見つけて来てくれたのがこの本です。見かけがちょっと薄汚いのですが、この本です。間違いありません。ぼくの書棚のどこかにあるはずの本は、もっと汚れているはずです。文句は言いません。 で、手にとって不安になりました。今読んでも面白いのだろうか?30年前に抱腹絶倒だった記憶は確かにあります。持ち帰った本を見るなり同居人もいいました。「そうそう、これこれ、この分厚さに困らない面白さよね。」「おお、心強いお言葉!」 そうはいっても、古びてしまってるんじゃないかとページをぺらぺらして、第1章の冒頭を読んでみました。ちょっと引用しますね。 鹿児島に行くなら是非そこにある刑務所にも行ってこいと母親に言われたら誰だってびっくりする。新年早々鹿児島のジャズフェスティバルに呼ばれているという話を実家でしていた時だった。「なに、刑務所だって」藪から棒とはこのことだ。 行けというなら行くが、あいにくおれにはまだ入る資格がない。誰か知り合いが入っているのか。差し入れか。何を差し入れるのだ。どうやって面会して、何を言えばよいのだ。パンの中にヤスリを隠して渡すのか。それともピストルか。あいにくおれは安部譲二じゃないから、これ以上思いつかない。何なんだ。すると母親はそういうことではなくて問題はその刑務所の建物なのだといった。「それはあなた、綺麗で立派なものだっていうわよ」刑務所がが綺麗で立派だという言い草もよく分からなかった。そんなものをなぜおれがわざわざ見に行かなければならないのだ。そう聞くと母親は当然という態度でこう言った。「だって、あれを造ったのは、あなたのおじいさんなんですからね」「え」青天の霹靂とはこのことだ。 いかがでしょう。まあ、これなら合格でしょう。全く古びていません。テンポといい、ある種独特のリズム感といい、鬼才・山下洋輔の文章は健在でした。 ここまでお読みいただいた方には、お分かりのように「奈良刑務所」の話ではありません。鹿児島刑務所の正門、「ドバラダ門」をめぐる、想像を絶したホラ話!(笑) です。 まあ、全編、読み直しての紹介ではないので、あらすじを語ることはできません。460ページを超える大作ですが、読み始めてしまえば大丈夫です。間違いありません。 出版当時、評判になって、すぐに新潮文庫になりましたが、最近、朝日文庫で復刊しているようです。 山下洋輔トリオの音楽の楽しさと共通したおもしろさがあると思いますが、最後にお断りしておきたいと思います。くれぐれも「まじめ」な気持ちで手に取らないでください。無理だと感じた時にはすぐにページを閉じてください(笑)。では、YAMAMOTOさん、お次をよろしくお願いします。(2020・11・18 SIMAKUMA)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.04.15
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「2021年 団地 花だより(その3)」徘徊日記 2021年4月1日(木)集会所あたり この辺りが中央通路の真ん中あたり、集会所とか管理事務所があります。サクラと雪柳が満開です。藤棚の下で、お花見している人もいました。 サクラ天井というのでしょうか。見上げると花ばかり、少し角度を変えると青空です。それがいいですねえ。 この日は、写真を撮っている時間が午前中、まあ、お昼前ということもあって、太陽が、ほぼ、真上にあって、明るくて、背景になる空も青空で、下手な写真もうまく見えます。(そうでもないか?) 空から光が降り注いでくるのが眩しいのですが、天井を見上げながら歩いている人がほかにもいます。スマホのカメラをのぞき込んで写している人もいます。 こうやって、上ばかり向いて写真を撮っているのですが、並木沿いにあるベンチにはぼくより高齢のカップルが座って「サクラ天井」を眺めていらっしゃいます。 「春休み」だと思うのですが、この通路のすぐそこにある広場からも子供の声は、まだ、しません。マア、子供の数そのものが減ってしまった団地ではあるのですが、静かなものです。 先日、桜の樹齢を近所の人が心配していました。木が植えられ、棟が建てられてから50年くらいたつ団地なので、老木化している樹木もあります。 若いひとが、新しく住み着いて、この並木を喜び続ければいいなあと思うのですが、さて、どうなるのでしょうね。 そろそろ北の門です。最初の写真に写っていたバス通りに、南の門があって、北の門まで桜並木が続いています。なかなか豪華なものです。 ああ、これが北門です。別にカギがかかっているわけではありません。誰でも出入り自由です。向うに写っているのは隣のマンションです。 毎年この季節に、この桜の並木道を散策するのを楽しみにしていらっしゃる方の声も聞こえてきます。何となく、ちょっと「鼻高々」な気分です。 ようやく、わが団地の「通り抜け」が終わりました。距離にすれば200メートル足らずなのですが、今年も見事に咲いていました。 ここまでお付き合いただいてありがとうございました。ところで、今日の記事には写っていませんが、この辺りには別の花が満開なのです。それは、「花だより(その4)」でお楽しみくださいね。じゃあ今日はこれで失礼しますね。
2021.04.14
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小田香「ノイズが言うには」元町映画館 世間では「鉱ARAGANE」とか「セノーテ」の監督として評判が高い小田香ですが、この作品が彼女のデビュー作であるようです。 映画学校の卒業制作という理由で、家族を動員して作られた映画だということは見ていてわかることで、ついでにいえば、ドキュメンタリー映画ではなくて、創作ドラマであるということも見ていればわかります。たしかに、そうなのですが、これはドキュメンタリー映画だと思いました。 頭の中にある「ノイズ」がアニメーションで暗示されて、映画が始まりました。「カッチん」と呼ばれている女性が、遠くから帰ってきます。駅から友達に送ってもらった「カッチん」が、久しぶりの我が家に帰ってきて、自分の部屋にたどり着きました。帰ってきた「カッチん」は、かつての「カッチん」ではなかったというのが、映画の「ストーリー」の骨のようです。 父とは別居しているらしい母の住まいに集まり、「カッチん」の誕生会を開く姉妹と母親のまえで、チラシの言葉を使いますが、「カッチん」自身が「性的少数者」であることを告白します。 そこから、この「告白」が、家族それぞれに引き起こした「事件」を映像は映してだしていきます。その過程で、「告白」の顛末一切を映画化するという経緯も映像化されています。 母親、父親、「カッチん」自身、姉妹、友人、それぞれの表情とセリフが、現実の再度の劇化として「映画化」されているのです。 小田香という、やがてプロの映画製作者になる23歳の人物と、その家族のアイデンティティ・クライシスの現場が、あたかもそのまま「映像化」されたかのように描かれていく様子は、「私小説」という形式の「告白小説」的なニュアンスを感じさせますが、この映画を見ながら、「小説」と「映画」は違うということを痛感しました。 「映像」であれ「写真」であれ、カメラを持つ人間の「ことば」なしに「作品化」が成立することはあり得ないと思うのですが、カメラは「ことば」と違って、描写対象、すなわち、被写体に対して、隠すことを許さない、直接的な「暴力性」を、その本来の「用具性・機能性」に備えているのではないでしょうか。 「ことば」はイメージを喚起するにすぎませんが、「映像」は被写体から切り取ったイメージを、そのまま見る人に与えてしまうといえばいいのでしょうか。 例えば、この映画における母親は、「娘」との再会の「喜び」、思いがけない告白に対する「困惑」という、普通の感情を写し取られながら、映画として「演技」する「いらだち」、加えて、写されたくない内面、母親の言葉にならない、あるいは、言葉にしたくないかもしれない「存在」のあり方まで切り取られていきます。 そこから何が起こるのか、本質的に予想がつかないフィルムにくぎ付けになりながら、「映画」という方法の、二重、三重の実験をドキュメントしている現場に立ち会っているかの臨場感に、息をのむ思いで見終わりました。それが、ドキュメンタリーだといった理由です。おそらく、製作者も、何を映し出してしまうのか予想がつかなかったのではないでしょうか。 結果的に、苛烈、酷薄といえるえぐり方で、登場している人物たちを映し出したフィルムとして、あのタル・ベーラが激賞したというチラシの文句に嘘はないでしょう。たしかに、この映画は傑作だと思いました。 しかし、たとえば「私小説」の苛烈な刃は「ことば」を書いている作家自身に向かうのが常なのですが、映像はカメラを回している制作者に対してだけではなく、被写体にこそ、その切っ先が向かうということを、カメラを回した張本人で、カメラに映った一人である小田香自身はどう思っているのだろうというのが、見終わった率直な気持ちでした。 続けてみた「あの優しさへ」という作品に、ぼくの疑問への見事な答えが待っていました。そのあたりは「あの優しさへ」の感想で書きたいと思います。今日のところはここまでということで、じゃあ。監督小田香撮影 小田香とその家族キャスト小田香とその家族2021・03・31元町映画館no76
2021.04.13
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「2021年 団地 花だより(その2)」 徘徊日記 2021年4月1日(木)中央歩道あたり 満開になった3月30日から4月1日ごろ、団地自慢の中央歩道の桜並木をパチパチやってみました。団地んの玄関から少し入ったところで、南を向くとバス通りが見えています。 北に向かって歩くとこうなっています。 この写真の日(3月30日)は天気が曇りで写真が白っぽいですが、天気が良かった(4月1日)だとこんな感じ。南のバス通りからの風景です。 少し、桜の並木道の中に入ってみますね。 やっぱり青空が似合いますね。調子に乗って、同じ角度で、もう一枚どうぞ。 こうやって写真を撮って遊んでいると飛行機が飛んできました。飛行機雲が青空にくっきりというシーンを目にしました。ああ、ちょっと、」写ってますね。 おわかりでしょうか?ちょっとアップの写真で見るとこんな感じです。 当たり前ですが、飛行機は今、飛んでいるので、花と重ねて写すのが難しいのです。そのうえ、液晶画面のデジカメで、老眼にはピント合わせがつらい。よく映っていたなあ、と自画自賛です。 もっとも、この写真は、中央歩道のわきの棟の前の白い八重桜の写真です。団地には様々なサクラが植わっていますが、中央歩道沿いの、多分、30本を超えるサクラ並木はソメイヨシノだと思います。この写真の頃に、一斉に満開を迎えていました。 同居人が言うには、「いつもそうよ」ということですが、今年は桜の満開と雪柳の満開が重なっているところがあって、何とも言えない美しさでした。 いろんな花が一斉で、梅だけが少し早かった気がします。 ここの雪柳はサクラより、ほんの少しだけ早かったので、こんなふうに写っていますが、二日ほど前まで満開でした。 で、このあたりで、この団地の中央歩道の半分くらいですかね。この後ろに集会所がありますが、そこから先は、つづき(その3)でどうぞ。
2021.04.13
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「2021年 団地 花だより(その1)」 徘徊日記 2021年4月1日(木)西駐車場あたり 西の駐車場わきの枝垂れ桜も満開になりました。角度を変えてみますね。右に見えるのは小学校の校庭です。 やっぱり、曇り空の桜より、青空の桜のほうがいいですね。 振り返ると西の駐車場沿いの桜並木です。一番手前の花は、いわゆる緑の桜の一種だと思います。遠くから見ると色合いが確かに違います。 ここから左を見るとこんな感じです。 住んでいる棟のあたりが写っています。遠くで暮らしている愉快な仲間たちには、懐かしい風景かなって思います。カメラを左に振るとこんな感じです。 自宅から駐車場まで、片側だけですがサクラの並木です。 向こうに映っているのは自宅の前の小学校です。ゆかいな仲間たちが通った学校です。教室での姿が自宅の窓から見えました。懐かしい学校です。 どの桜も満開です。40年近くこの桜を毎年眺めて暮らしてきました。小学校は、あと数年で閉校なのだそうです。小学校の閉校なんて、自分が育ったような、田舎の出来事だと思っていました。 この季節は、普段は歩かない小道を団地の中に発見してうれしいものです。手前も、道の向こうもサクラの森です。 サクラと雪柳の乱舞です。団地の中央にある遊歩道の毎年の光景です。 ちょっと、「つづき(その2)」でこの道を歩いてみますね。よければお付き合いくださいね。
2021.04.12
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ジョー・ライト「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」 映画.com ボンヤリ、テレビ画面を見ていると、知った顔の女優さんが出てきて「ああ、この人好きかな!?」とか思って見始めて、二時間くぎ付けでした。 映画は「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」で、その女優さんはリリー・ジェームズさんでした。 映画.com エリザベス・レイトンという、チャーチルの秘書か、タイピストかの役なのですが、「ガーンジー島の読書会」とか「イエスタデイ」といった、最近見た映画や、ナショナルシアター・ライブの画面でもお目にかかっている女優さんですが、今回の役柄と演技(?)が一番いいと思いました。 というのは、この映画では、「ええー、この人があのゲイリー・オールドマンですか?!」という化け方で出ていた主人公ウィンストン・チャーチルの内面を照らし出す光源のような役で二人の女性が登場します。 その一人が、このリリー・ジェームズ、もう一人がチャーチルの奥さんクレメンティーンを演じたクリスティン・スコット・トーマスという女優さんでしたが、お二人に共通するのは、何ともいえない「引いた演技」だと思いましたが、それが、お二人とも、とてもいいなと思いました。この映画の陰の主役は、この、お二人だと思いました。 見終わって、クリストファー・ノーランの「ダンケルク」を見たときに、少し不満に感じた「英国社会の描き方」のことを思い出しました。 が、この映画では、それがテーマのようにクローズアップされて描かれていた印象で、これを見てから、あの映画を見れば、少し感想は違っていたのかなとも思いました。 1940年5月、対ナチス挙国一致内閣の首班についたチャーチルが、「ダンケルクの撤退」作戦までの1か月間の苦悩を描いた映画でした。 それにしても、映画の後半、クライマックスともいえる、チャーチルが民衆と出会う地下鉄のシーンに至る展開は、もう興味津々で、チャーチルの「セリフ」も「演説」も一言も聞き逃せない気分で、テレビにかじりついていました。 反ナチスのトップに立ったからこそ、政治的には追い詰められていくチャーチルを演じるゲイリー・オールドマンという俳優さんも本当にうまいですね。 政治家としての敗北を覚悟したチャーチルの私邸、それも、寝室に、国王ジョージ6世が訪問し、「逃げ出さないで、民衆とともにありたい!」と決意を語り、その結果、チャーチルは乗ったこともない地下鉄で市民と会うわけですから、たとえ、このエピソードが歴史的には作り事であったとしても、このシーンの説得力は半端ではないと思いました。 ヒットラーと戦い、勝利した国だからこその映画といってしまえばそれまでですが、イギリスの民主主義に底流する、独特な「国民意識」を鮮やかに描き出した傑作だと思いました。監督 ジョー・ライト脚本 アンソニー・マッカーテン撮影 ブリュノ・デルボネル美術 サラ・グリーンウッド衣装 ジャクリーン・デュラン編集 バレリオ・ボネッリ音楽 ダリオ・マリアネッリ特殊メイク/ヘア&メイクデザイン(ゲイリー・オールドマン)辻一弘キャストゲイリー・オールドマン(ウィンストン・チャーチル)クリスティン・スコット・トーマス(クレメンティーン・チャーチル)リリー・ジェームズ(エリザベス・レイトン)スティーブン・ディレイン(ハリファックス子爵)ロナルド・ピックアップ(ネビル・チェンバレン)サミュエル・ウェスト(アンソニー・イーデン)ベン・メンデルソーン(国王ジョージ6世)2017年・125分・G・イギリス原題:Darkest Hour2021・04・10こたつシネマ
2021.04.12
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徘徊 2021年3月19日~21日 「松本市街(その2)」松本あたり 松本って、こんなバス走っているんですよね。マア、みんなじゃないらしいのですが。それから、街路樹はこんな木でした。 「シラカシ」というそうです。マンホールのふたは、こんな感じです。 絹糸をくるくる巻いて、美しい模様にした「手まり」ってありますね。あのデザインですね。町中の民芸品のお店とかで、結構見かけました。その写真を撮っていないのが残念なわけですが、まあ、想像してください。 それから、こんな蓋もあるのです。 ちょっと面白いでしょ。なんか、やっぱり変ですよね、防火水槽の蓋にしてはデザイン凝ってますね。 ああ。それから、興味深いのがこれです。 筑摩という漢字で書くのですが、「つくま」と読むそうです。市街の中心地から少し南に行った民家があるあたりですが、道端に「道祖神」の石塔がありました。関西ではあまり見かけません。いい風情ですね。 道祖神の近くの、中林神社という小さな神社の大きなケヤキです。神社は小さいのですが、歴史は古そうです。 ゆかいな仲間のカガクンの一家はこの近くに住んでいるのですが、カガククンの家の庭先の、隣の農家の生け垣にこんなものがありました。 去年の秋の「アケビ」の実でしょうか。そのまま乾燥しています。梅も咲いていました、これも隣の農家の畑です。神戸ではさくらがチラホラし始めた時期でしたが、こちらは梅の五分咲きでした。 最終日3月21日は、あいにくの曇りでした。朝のレストランからの眺めも曇っています。 目の前のビルがJR松本駅です。道端にカラスもいました。 午前9時50分発の飛行機で「サヨウナラ!」です。 見送りのカガクン一家。ガラスの反射で顔が見えないのがいいですね。手を振ってくれているのがユナチャン姫です。じゃあね、バイバイ! 空からの松本飛行場です。それから、白い山々、北アルプスでしょうか。 あっという間に神戸の海。大風が心配だったのですが、無事着陸しそうです。 たどり着いた自宅は雨の雪柳でした。 やれやれ、久しぶりの二人旅、お互い、ご苦労様でした。カガククン一家にもいろいろお世話になりました。ありがとうございました。 ここまで覗いてくださった読者の皆様もありがとうございました。さて、今度はどこに出かけましょうか?
2021.04.11
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徘徊日記 2021年3月19日~21日 「松本市街(その1)」 松本あたり JR松本駅前に立っていた銅像です。「播隆上人」とおっしゃるそうで、槍ヶ岳3180メートルを開いた人だそうです。まあ、山を開くってどうすることなのか、よくわかりませんが、槍ヶ岳は松本市内の山なのですね。なんか、それがすごいと思いませんか。そういえば、この日の朝食のレストランからの眺めはこんな感じでした。 中央、奥の白い山のあたりが乗鞍岳だそうです。なんというか「山」の町なのですね、この町は。で、こういう時計台になるわけでしょうね。 三角柱の時計塔ですが、もう一方はこんな感じ。 なんか、かっこいいですね。そういえば小澤征爾さんが。若い音楽家たちと合宿して、演奏会を開いてきた町ですね。で、もう一方がこれです。 信州の教育、という言い方で称えられるらしいですが、ぼくにとっては北杜夫さんが「どくとるマンボウ青春記」(新潮文庫)でお書きになった、旧制松本高校、信州大学の町ですね。高校時代にあこがれて、受験までしたのですが、「コマクサの花散る」とかいう電報がその返事でした。生涯一度だけ受け取った自分宛の電報ですね。 何の縁だか、ゆかいな仲間の「カガククン」が代わりに合格して、住み着いてしまいましたね。 で、この駅前広場(?)にもありましたが、街をウロウロしていると湧き水の井戸が、あちらこちらにありました。 これが駅前の湧水です。泊まったホテルが正面に見えています。禁煙ルームだったので、早朝の喫煙徘徊の途中に撮った写真です。 町中の湧水です。 こういう感じのもありました。大切にされているようで、神さんも祭ってあります。もっと、写真を撮ったつもりだったのですが、やっぱり撮り忘れていたようで、これくらいしか見つかりません。 代わりにこんな写真を撮っていました。 なんか、カエルのようですが、「ガマ侍」とか言うそうです。上に乗っているのもカエルです。カエル大明神の像もあったらしいのですが、気付きませんでした。なんか、不思議な町ですね。 あとは「松本市街」(その2)に続きますね。じゃあ、今日はこれで。
2021.04.10
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100days100bookcovers no50 (50日目)奈良少年刑務所詩集 『世界はもっと美しくなる』(編集 寮美千子 ロクリン社) KOBAYASIさんご紹介の小池昌代の「屋上への誘惑」は、未読です。ごめんなさい。彼女のエッセイは、仕事で読んだことがありますが、その新鮮な感覚が印象に残っています。惹かれるものがあったのに忘れていました。これを機会にまた読みたい。近くの図書館には所蔵していないので、お目にかかるのは時間がかかりそうですが。 さあ、次は「屋上」かな?それとも?小池昌代は詩人だけど、私は詩がわからないなあと思いながら職場の図書室の棚を眺めていたら、この本が目に入った。 『世界はもっと美しくなる』奈良少年刑務所詩集 詩・受刑者 編・寮美千子 ロクリン社 去年までやっていたNHKラジオ「すっぴん」という番組中に「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーがあった。高橋源一郎が毎週金曜日に本を紹介する。(高橋ヨシキの「シネマストリップ」もそのあとで放送されるので、「NHKラジオアプリの聞き逃しサービス」でよく聴いていた。)お相手の藤井アナウンサーも手馴れていて金曜日以外も楽しみだった。勝手に視聴率も悪くないと思っていたのだが、去年の春に終了。今もなお「すっぴん」ロス。どうしてこんな番組を終了させるのかと今もぼやくことしきり。脱線失礼。 このコーナーに編者の寮美千子をスタジオに招いて高橋源一郎といろいろ話をしているのを聞き、心打たれ読みたいと思っていた詩集だった。いまこの詩集を手にしているのも何かに導かれたようだ。 先日来、「ことば」のことを云々してきたが、この詩集の作者の青少年たちのことばには真実があり、力がある。詩の力、言葉の力だと思う。 「帰りたい」 ほんとうに まいにちおもう かえりたい 「心の声」 窓に 鉄格子がなく 扉の内側にも ノブがある 生活がしたい 刑務所の監房の扉の内側にはドアノブがありません。自分で扉を開けるということが一切ないからです。「早く出たい」は、受刑者に共通する切実な思いです。でも、出所間近になると、外でうまくやっていけるのかどうか、たいがいの子が、不安に思わずにいられません。 と編者。 「人間」 人間という 生き物が 一番悲しい 生き物です 「刑務所はいいところだ」 刑務所は いいところだ 屋根のあるところで 眠れる 三度三度 ごはんが食べられる お風呂にまで 入れてもらえる 刑務所は なんて いいところなんだろう 育児放棄され、電気も止められた真っ暗に家に一人取り残され、コンビニの廃棄弁当を盗んで食いつないでいた少年。ほとんどの少年が早く外に出たいと言い共感されないが、本人は「みんなにいろいろ言ってもらえてうれしい。」「いろんな感じ方や意見があるんだなあって思って、勉強になりました」 という。本当に誰からもかまってもらえない人生だったのだろう。 編者が奈良少年刑務所から「受刑者のために授業をしてくれないか」と頼まれて躊躇していたとき、刑務所の先生から言われたのは 彼らはみな、加害者になる前に、被害者であったような子たちなんです。 極度の貧困のなか、親に育児放棄や虐待されてきた子。 発達障害を抱えているために、学校でひどいいじめを受けてきた子。 きびしすぎる親から、拷問のようなしつけをされてきた子。 親の過度の期待を一身に受けて、がんばりすぎて心が壊れてしまった子。 心に深い傷を持たない子は、一人もいません。 その傷を癒せなかった子たちが、事件を起こして、ここに来ているんです。 ほんとうは、みんなやさしい、傷つきやすい心を持った子たちなんです。 と。 そして編者は2007年、詩の授業をはじめ、前の言葉のとおりだと思うようになったという。 詩の授業を通して、固く閉ざされた心の扉が開かれたとき、たとえば何も語らない子が苦しかった子ども時代のことをやっと吐露したときに、共感の言葉がかけられ、「やさしさ」があふれ出てくるのを感じたという。編者のほうが「人間は、基本的にいい生き物なのだ」と信じられるようになったとも書いている。 「時流」 サンタさんはいない より おとうさんはいない を早く覚えた いつ帰っても だれもいない家には 知らぬままであるべきことが 散らかっていた ありがとう より ごめんなさい を多く使った 求められているものを 持っていなかった 母だから こんなぼくでも 許してもらえる 愛してもらえる とは限らない 自分の命を背負うには まだ若すぎた 孤独を嫌う者で 群れをなし 寝床を探して 恥さらし 腹を空かして 見境をなくした わたしは あの日から大人になった いまは 家族と呼べる人がいる わたしは どんなときでも わたしでしかない いまのわたしを 必要としてくれる人がいる だから わたしは どこでも幸せだ いま 過ちを犯しても 待ってくれている人がいるから あの日から 遠くなればなるほど おかえりなさい が聞きたくて*編者注 「母は芸妓でした。なにをしても、怒られるばっかりで、ぼくはいつもいつも謝っていました。家族って思えなかった。でも、いまは家族と呼べる人がいます」 結婚して、家族を持ったのかな、と思ったら、違いました。母子家庭の子がビルの屋上や空き地に集まり、コンビニで盗んできたお弁当を分け合って暮らしていたそうです。「そのときの仲間が、ぼくの本当の家族です」と彼は胸を張りました。「別に、母子庭だから集まったわけじゃないんです。ほんとうに偶然、そういう子が友だちだっただけなんです」彼はあえてそう強調しますが、偶然であるはずがありません。 そんな暮らしをしている子どもたちが、今の日本にいるのだと知り、胸が痛みました。日本にはストリートチルドレンはいない、のではなく、見えにくいだけなのかもしれません。 同じ少年の詩です。 「犬」 物心ついたころから 犬を飼っていた その子犬はまっ黒で 病的に痩せていた わたしには どうすることもできないのに 犬は わたしに向かって唸りつづける まるで わたしが憎い とでもいうように だから わたしは犬を隠すことにした やがて犬は 狂暴かつ狡猾に育ち わたしに唸り散らすのは やめてくれたが ろくなことをしなかった 何度も 町に捨てにいったが 犬は何度でも 帰ってきてしまう わたしは 頭を抱えこんで 唸った 犬は 能力以上のモノを欲するようになる そのために どんな汚い世界にでも踏み込んだ でも 犬がほんとうに求めているモノは 手に入らないことを わたしは知っている 犬は その生き方を選んだのにも関わらず 必死になにかに 繋がろうとした いま わたしは犬に告げる 生ある限り 生きろ そして わたしと共にあれ 愛することができるか そうでないのか 確かに その違いで 世界は異なるだろう 「犬に告げる 生ある限り 生きろ そして わたしと 共にあれ」と書くその力を持ち続けていてと願っています。 その後、「奈良少年刑務所」は廃庁されました。明治五大監獄の一つで、築100年を超えていますが、ジャズピアニスト山下洋輔の祖父山下啓次郎設計の名煉瓦建築を保存したいという有志の働きかけで残されることになり、ホテルなどに活用されるらしい。しかし、編者が関わってきた詩の授業はなくなるらしい。少年や若年層の更生教育がどうなるのか、今年のように伝染病があるときはますます滞っているのだろうと想像されます。 simakumaさん 前回 詩集を紹介してくださったのに、だぶってしまい申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(E・DEGUTI2020・11・17)追記2024・03・19 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.04.10
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徘徊日記 2021年3月29日「2021年 神戸 街の桜(その4)」下山手教会あたり 八宮神社の北あたりの桜の並木が満開のようです。川沿いの歩道の桜並木です。川は宇治川、京都では「ウジガワ」ですが、神戸では「ウジカワ」、ここに水門があって、ここから南は暗渠なのでしょうか、川が消えてしまいます。 神社から昔の市電の通り、下山手通というのでしょうか、を北に渡ったところにこんな門柱がありました。 阪神大震災で全壊した「下山手カトリック教会」の跡地です。 プレートには教会の歴史と、記念として残されている経緯が書かれています。この裏山、小高い丘ですが、が、大倉山公園です。 あたりはサクラが満開です。少し暗くてうまく撮れていませんが、こんな感じです。 こちらはスマホの画像です。上に見えるのが「大倉山公園」の緑ですね。 ここからは、石段を上らないといけないので、もう一度、南へ迂回しました。 ようやく、公園正面に到着です。この右奥が市立大倉山図書館、階段を上れば公園の運動場です。 ここに来るといつも思うのですが、なんか宮崎駿のイメージなんですよね。「天空の城ラピュタ」だったか、「ナウシカ」だったかの、ロボットの兵隊に似ていると思うんですが。 で、ボンヤリ一服していると、右向うの「神戸文化ホール」の小公園のこんな花が目に入りました。 椿ですね。いろいろあります。こちらはピンクです。 で、こちらは、色が混ざっていますね。枯れかけて、変色しているのではなさそうです。 帰ってきて調べてみると、五色八重散椿(ごしきやえちりつばき)なんていう種類があるそうですね。さあ、この椿が一本の木で、どんな花を咲かせていたのか、来年の楽しみですね。 おなじ赤でも、こんな花もありました。 写真がへたくそで、よくわからないかもしれませんが、花芯の形が違いますね。なんてことをしていて、大倉山公園に引き返すのが億劫になってしまいました。 だいたい、この日は、この後、地下鉄の上沢駅あたりで、久しぶりに家族以外の人と会う約束もありました。まあ、大倉山公園のデートスポットは、またの日ということで、ジャアまたね。追記2021・04・09下山手カトリック教会は震災で全壊したそうですが、その当時、この場所のすぐ西にある職場に勤めていたにもかかわらず、そうなっている様子に気付きませんでした。 直後の行動範囲が、校区の内側に限られていたことを、今になって痛感します。ネットで調べてみると、神戸の震災の写真が「震災記録写真(大木本美通撮影)」として公開されていました。下の写真はそこに公開されていたものです。リンクを貼っておきますので興味を待たれた方はクリックしてみてください。
2021.04.09
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徘徊日記 2021年3月30日「2021年 神戸 街の桜(その5)」地方裁判所あたり 元町映画館で映画を見て、モトコ―(元町から神戸の間のJRの高架下を、神戸ではこういうのですが)から北に上がって、宇治川の商店街を横切ると神戸地方裁判所が見えてきます。 途中の道端の植え込みでは、なんと躑躅が咲いていました。今年は何もかもがいっせいに、という感じですが、何か理由があるのでしょうか。 真っ赤がうつくしいので、アップしてみますね。 よそ様の庭を、勝手に撮るのもどうかと思いますが、まあ、花だけですから勘弁していただくとして、先を見ると、地方裁判所の前で写真を撮っている人がいます。 通りがかりの若い人に、スマホの操作を教えてもらいながら撮っているご婦人がいらっしゃいます。「ありがとう、おかげで、ちゃんと撮れたわ。うれしい。やっぱり、ここの桜は美しいですねえ。」 オープンな性格の方のようで、通りすがりのシマクマ君の方にも声をかけていただきましたが、そうはいわれても、裁判所の桜に気付いたのは今年がはじめてなわけで、まあ、だからといって、「そうなんですか?」と答えるのも、なんか変で、結局、「そうですよねえ。」とか答えてしまった。それが上と下の桜ですね。 たしかに、美しいですね。でも、ここの場合、地元の人には、もう、違和感はないでしょうが、赤レンガの上に硝子のビルを乗っけている裁判所の建物のほうが、いつみても不思議ですね。 建物の全景を撮るのを忘れましたから、もう少し若い木の写真の載せてておきます。 ね、なんか不思議な建物だと思いませんか?今日はついでに湊川神社にもよって帰ろうと思います。じゃあね。
2021.04.08
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高野文子「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」(福音館書店) マンガ家の高野文子さんがお作りになった絵本です。まあ、もうそれだけで、ちょっとどうなっているのか気になる人もいらっしゃると思いますが、知らないでページを繰ると、「なんじゃこれは」とお思いになること間違いましです。 何にも起きません。おチビさんが一人でお布団に入って寝るようになって、寝る前に「しきぶとんさん」と「かけぶとんさん」と「まくらさん」に願いごとをするだけの絵本です。しきぶとんさん しきぶとんさんあさまで ひとつ おたのみしますどうぞ わたしの おしっこがよなかに でたがりませんようにまかせろ まかせろ おれにまかせろもしも おまえの おしっこがよなかに さわぎそうに なったらばまてまてまてよ あさまで まてよとおれが なだめておいてやる これだけです。笑える人は、妙に笑えます。わが家には還暦をすぎて、「しきぶとんさん」に「ひとつ おたのみしたい」人がいます。 2才から4才とかの子ども向けじゃなくて、60才から80才とかのジジ・ババ向けの絵本かもしれません。 もっとも「そうか、そうか」とお金を払って買ったりしないで下さいね。べつにノコギリヤシ効果があるわけではありませんからね。 高野文子さん、なかなかやりますねえ。自分のために描いたんじゃないかと思ってしまいますね。 ああ、御存知ない方もいらっしゃるかと思いますが、高野文子さんはこんなマンガの方です。
2021.04.07
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「2021年 神戸 街の桜(その3)」 徘徊日記 2021年3月29日 八宮神社あたり 花隈公園から北に歩くと、県庁の西の傍あたりにでます。中山手教会の前を西に歩いて大倉山のほうへ向かいました。 道端で、面白いというか、珍しい花を見かけました。シャクナゲしょうかね。葉の形と花の形から、シャクナゲに似ていますね。どちらかというと、少し高い山で見かける花で、植木とかではあまり見かけませんね。 道の左手に鳥居が見えてきました。「八宮神社」です。ぼくは、よく知りませんが、神戸の初詣に「八社めぐり」という、お参りの仕方があって、「一宮神社」から「八宮神社」まで、生田神社を大きく取り巻いた、八つの神社を巡るらしいのですが、ここが終点「八宮神社」ですね。 実はこの神社には「六宮神社」も合祀されているらしくて、「ひとつぶで二度おいしい」神社のようですが、どうも、震災でいろいろあったようです。 これが本殿ですね。向う側にはお稲荷さんもあります。写っている狛犬さんが、犬とは思えぬ風情です。まあ、「狛犬」そのものが、もともと犬ではなくて、猫科だったような気もしますが、ちょっとアップしてみます。 こっちが「阿」くんですが、なんか、この牙の生え方には、少し無理があるような気もしますね。なんというか「オヤシラズ」がはみ出してるみたいじゃないですか。でも、なんだかアドケナイところがいいですね。 こっちが「吽」くんです。石像は、石の鳥居もそうだったのですが、けっこう新しいのですが、表情が、ちょっとお爺さんな感じですね。歯が抜けてしまって牙だけ残っている感じがしませんか。 「阿」くんは「アドケナイ」と思ったのですが、向き合っている一方は「ジジムサイ」のがおもしろいですね。 こじんまりした境内で、サクラが数本植わっています。みな満開だったのですが、気に入ったのはこちらです。楠の大木ですね。常緑樹なのだと思いますが、古い葉が落ちて若葉がうつくしいですね。 楠の大木があるという所が神戸の神社らしいと感じるのは、ぼくが但馬で育ったからでしょうか。あちらでは、楠もありますが、お宮さんといえば、欅や杉、檜の大木のイメージだった気がしますね。 ここから大倉山公園はすぐそこです。道の向こうに桜が咲いています。行って見ますね。 じゃあ(その4)に続きます。
2021.04.07
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「白木蓮が笑っていました」 徘徊日記 2021年3月30日(火)団地あたり 街路樹の木蓮や辛夷は、三月の半ばから、次々と開花して、蝶の羽のように花びらをひらひらさせ始めていますが、我が家の裏手にある白木蓮の花は、固く結んでいた蕾が、ようやく緩んだと思うと一気に「笑い」始めました。 ちょうど読み終わった、いしいしんじの「海と山のピアノ」(新潮文庫)のなかに、「咲き始めた木蓮」のように「笑う」だったか「微笑を浮かべる」だったか言う描写がありました。イヤ、あったはずなんです。読んだ時には膝を打つ気持だったのですが、今、思い出して文庫をパラパラ探してみるのですが、どこにあったのか、どうしても探し当てられません。 同時に、川上弘美の「水声」(文春文庫)と高見順という人の「いやな感じ」(高見順全集)という作品を読んでいましたので、どの作品の中だったのか、チョーあやふやで、まあ、今は探しきれないわけですが、木蓮の咲きはじめの様子を「笑う」というのは、「とてもいいなあ。」と、で、丁度、それも自宅のすぐそこの庭で開き始めた木蓮に参ってしまったわけです。 半月ほど前には、こんな様子だったのです。それが月末の30日にはこう、下の写真のようになるんです。 なんだか、学校の生徒が、新学期に集まって、お互い、ちょっと恥ずかしそうなのですけど、笑いあっているようにも見えるのです。それも、ちょっと品のいい学校ですね。 どうですか、そんな感じしませんか。 まあ、この二人なんか、大口開けちゃって、大笑いのさまですが、まあ、そこは、それ、若さということで、これもまたいいんじゃないでしょうか。 それにしても、これで、春が一つ去っていきますね。もっとも、頭上の桜は、この日あたりが満開で、その報告がまだなのですが、こうしているうちに散ってしまいそうですね。 じゃあ、次は団地の桜の満開の報告です。おたのしみに。
2021.04.06
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松岡正剛「擬MODOKI」(春秋社) 久しぶりに松岡正剛を読みました。「擬 MODOKI」というキイワードに向かって、20回にわたる講義が「第一綴」から「第二十綴」まで繰り広げられています。松岡正剛流「世界認識の方法」が、今のハヤリふうに言うなら、「千夜千冊」のアーカイブをたどりかえす様子で編集されています。 松岡正剛を初めて読む人は、あまりに大胆な展開に驚かれるかもしれませんが、「これが松岡正剛である」というか、「余はいかにして松岡正剛になりしか」というか、彼のミーハーなフォロワーにとっては「いつもの松岡正剛」であり、今や「千六百夜」に及んでいる「千夜千冊」シリーズの再編集といってもいい松岡正剛でした。 読み始めて、最初に出会う読みどころが第二綴、与謝蕪村の句の解釈をめぐるこんな解説でした。第二綴 きのふの空 蕪村に「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」 という句がある。わが半生の仕事でめざしてきたものがあるとしたら、この句に終始するというほど好きだ。ぼくの編集人生はこの句に参って、この句に詣でてきたといっていい。 正月の凧を見ていると一日前の空に揚がっていた凧のことを思い出したとか、去年の大晦日や正月のことを思い出したとか、たしか中村草田男がそういう解釈をしていたが、「きのふの空も寸分違わずこのとおりであった」などという句ではない。蕪村は凧の舞う空の片隅に「きのふの空」という当体を「ありどころ」として掴まえたのである。不確実だが、これが蕪村が掴まえた「ありどころ」だった。 空を仰いだところに「きのふの空」などあるはずはないのだけれど、一点の凧のような何かがそこにちらちら動行していれば、そこから古今をまたぐ「ありどころ」まで及べたのである。 蕪村はこの及び方に徹した。及び方は大きくも小さくもなり、「あたり」にも「ほとり」にもなった。「雨の萩山は動かぬ姿かな」「さみだれや大河を前に家二軒」 というふうにぐんと巨きくもなれば、「うぐいすの二声耳のほとりかな」「蘭の香や菊よりくらきほとりより」 というふうに手のひらや耳たぶのそばのようなサイズにもなる。(改行引用者) 引用部分だけを読めば蕪村の句についての独自の解説として読めるのですが、「擬 MODOKI」一冊を読み終えれば、ここで松岡正剛が、この句の肝として言及している「蕪村は凧の舞う空の片隅に『きのふの空』という当体を『ありどころ』として掴まえたのである。」が本書の肝だと思いました。 この言葉の意味を考え続けるのが本書を読むという作業のすべてでした。凧の舞う空に「きのふの空のありどころ」があるとはどういうことなのか。それだけですね。 目の前の世界について、ぼくたちが「わかる」とか「見える」と感じるために、ある種、無意識に、意識を操作している「統一性」や「合理性」に抑え込まれながらも、紛れ込んできたり、フト、意識の中に現れたりする「ちぐはぐ」や、「あれこれ」の「ゆらぎ」の中にこそ、世界を捉える契機が潜んでいるとでもいえばいいのでしょうか。 あとがきでこんなふうに書いてあります。 この本は少し変わっている。ちぐはぐなこと、ノイジーな現象、辻褄があわない言動、公認されてこなかった仮説、残念至極な出来事、模倣や真似する癖、おぼつかない面影を追う気持ち、借りてばかりの生活などの肩をもっているからだ。 ぼくのように、若い人たちに対して「スジだった考え方」ということを、常々、口にするような仕事に何十年も従事してきた老人には、最も苦手、且つ、不可解な主張なのですが、実にスリリングだったのは何故でしょうね。 一つ言えるのは、例えばこの国の歴史的なアーカイブをたどりながら、幕末期の「孟子受容」を巡って、野口武彦さんの「王道と革命の間」(筑摩書房)を取り上げ、維新の後の西郷隆盛のふるまいや、昭和初期の動乱、保田与重郎、三島由紀夫へと思考の射程を伸ばしていく松岡正剛の語りの面白さに魅了されながら、「きのふの空」の「ありどころ」へ思いを凝らしていく読書体験は、そうそうあることではないということでした。 しかし、それにしても、本書全体が、松岡正剛本人による、自身の思想と行動の総括を意図しているとうかがえるわけで、彼の健康を祈るばかりという心持の読後感でした。 松岡正剛は面白いですよ、是非、手に取って見てください。追記2024・09・22 この記事で話題にした野口武彦さんも松岡正剛さんも、今年の、2024年ですが、夏に亡くなりました。若いころから、歴史や文学を読む杖のようにして、それぞれの著書を読んできたお二人のご逝去は、ボクにとって、少なからずショックな出来事でしたが、時がたっていくということには抗えません。 残された読むだけ人間に出来ることは、お二人のお仕事に限らず、1冊、1冊、「読書案内」することぐらいですが、まあ、山盛りありますからねえ💦💦(笑)
2021.04.06
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「2921年 神戸 街の桜(その2)」 徘徊日記 2021年3月29日 花隈公園あたり この春、神戸では、多分、話題になっている映画「心の傷を癒すということ」で、主人公がデートする公園があります。ドラマ上は同じ公園なのでしょうが、ロケした場所は別の二つの公園でした。 一つが、ここ、元町商店街の北、兵庫県庁とか県警本部とかのある下山手通の南、室町時代の終わりごろ花熊城という御城だったということで、石垣が独特で、地下は駐車場という花隈公園です。 小さな公園ですが、JR元町駅から神戸駅の間、地上だと高架になっていて見えないJRの電車が、この上からの場所だと、よく見えるというのが特徴です。 この向うに、JRの電車が見えるわけです。 こんな感じ。ホントは全面サクラの下を走ってほしいのですが、実はカメラを構えている、マニアっぽい人が結構いて、近づくのを遠慮したのです。 映画の二人が座っていたのは、この景色が見えるベンチでしたね。 石垣があって櫓というのでしょうか、石段を上るようになっています。下の写真は、この石段を上った、少し高い場所からの公園の様子です。小学生くらいの子どもたちが元気に遊んでいます。 反対側をのぞいてみると、おや、皆さん揃って何をしているのでしょうね。 鳩ですね。みんなで線路というか、街の方を見ています。で、この櫓から石垣を北に降りるとお地蔵さんが祀ってありました。 社の中には、お一人ですね。横には、こんなふうに並んでおられました。 こちらは、お地蔵さんではなくて、それぞれ石塔なのですが、赤い涎かけがかけてあるところが、なんか、いい感じですね。 公園の北側では木蓮が満開でした。 ぼくは、ここから、あの映画の、もう一つのロケ地、大倉山公園に向かって、ウロウロしようと思っています。続きは八宮神社の桜です。
2021.04.05
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「四柱神社の狛犬」 徘徊日記 2021年3月19日(その6)信州・松本あたり 安曇野から松本の市街に戻ってきて、松本に住んでいる愉快な仲間のチビラちゃん、「ユナチャン姫」が七五三のお祝いにお参りしたという「四柱神社」にやって来ました。 こういう感じ。でも、狛犬君たちがなかなかの迫力でした。 ネッ、こっちが「あ」君で、「うん」君はこれです。 もう、ヒョウキンというか、「アンタ、もともとなんやったん?」と尋ねたくなる風情ですね。 四柱というのは、四人の神さんのことですね。「天之御中主神」、「高皇産霊神」、「神皇産霊神」、「天照大神」ですね。全部読める人はなかなかいないと思いますので、読み仮名写真を張っておきます。 あれ、小さすぎて読めませんか?仕方がないですね。「あめのみなかぬしのかみ」・「たかみむすびのかみ」・「かみむすびのかみ」・「あまてらすおおみかみ」ですね。「古事記」の最初のあたりに出てくる、まあ、オールスターですね。 ところで「四柱推命」というときの「四柱」は、神さんのことではなくて「年」「月」「日」「時刻」の四つの時を指していると思いますね。ややこしいですが、読み方が違うのですね。 この翌日は、諏訪湖あたりを徘徊しました。また報告しますね。じゃあ。 今、調べていて驚きました。「古事記」にもいろいろあるのですね。普通は「岩波文庫」版でしょうが、ちょっと気になるのは、池澤夏樹の現代語訳ですね。なんか、面白そうですね。ボタン押してね!
2021.04.04
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仲正昌樹「《日本の思想》講義」(作品社) 最近ボケ防止のために読んでいる本がいくつかあります。たとえば、今読んでいる仲正昌樹という人の「《日本の思想》講義」という本がありますが、この本は戦後民主主義といえば、必ず名前が出てくる丸山眞男という政治学者の、あまりにも有名な「日本の思想」(岩波新書)という本を、詳しく講義、講読しましょうという、多分実際の市民講座かなにか仲正昌樹さんがおやりになった八回分の「講座」を本にしたものです。 この本ですね。あまりにも有名な本ですが、この本についての講義です。何時間かの講義ということで、当たり前の話ですが、「100分でわかるなんとか」とは少しおもむきが違いますが、でも、まあ、似たような本です。 ぼくは戦後民主主義であろうが、現代の日本社会であろうが、この国で「社会とは何か」と考える時に、丸山眞男とかから始めるのが常識だと教えられた学生時代を過ごしたからでしょうか、亡くなって、著作集とかが出た時に、勤めていた高校の図書館にそろえて並べたのですが、日本史だか世界史だかを教えている同僚に「あの、これ、誰が読むんですかね?」と問われて、「そういうもんか」と思いました。まあ、そうはいっても、この新書の中の「であることとすること」という文章は高校の国語の定番でしたから、反応の率直さに、ちょっと驚きました。もう、誰も読まないのですね。 で、その誰も読まない丸山眞男を、わざわざ講義しているところが、まあ、「100分で」の類の本とは少し違うのかもしれません。 目次はこんな感じです。前書き 丸山の“お説教”をもう一度聞く―「3・11」後、民主主義ははたして“限界”なのだろうか?と思う人々へ講義第1回 「新しい」思想という病―「なんでも2・0」、「キャラ・立ち位置」、「人脈関係」という幻想講義第2回 「國體」という呪縛―無構造性、あるいは無限責任講義第3回 フィクションとしての制度―「法」や「社会契約」をベタに受けとらない講義第4回 物神化、そしてナマな現実を抽象化するということ講義第5回 無構造性、タコツボ、イメージ支配―ネット社会で「日本の思想」という“病”を考える講義第6回 “『である』ことと『する』ということ”を深読みしてみる後書き “即効性”の思想など、ない 大きなお世話かもしれませんが、読み終えて思うのです。高校で「であることとすること」とかを、まだ授業なさっている国語科の教員の皆さんは、第6回くらいはお読みになられたらいいんじゃないでしょうか。 ボケ防止と、最初にいいましたが、20代から30代に、読んだ丸山眞男なのですが、かなりきちんとした復習になりましたよ。「国体」や「ナチス」がどうのとか、そういえば、また流行っているかもというカール・シュミットやミッシェル・フーコーがどっちむいているとか、なかなか、リフレッシュしました。 で、この講義は、面白い講義の常ですが、ちょっと横道というか、今、目の前の現実にオシャベリが拡がるところが、ぼくには面白かったのですが、一つ紹介しますね。 その共通の像というものが非常に広がっていきますと、その化け物のほうが本物よりリアリティを持ってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそういうイメージを頼りにして、多くの人が判断し行動していると、実際はそのイメージがどんな幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実をつくりだして行く―イリュージョンの方が現実よりも一層リアル意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。(「日本の思想」第3章「思想のあり方」) 学問をしている人たちでも、学派や学会という「仲間内」で、実際に起こる、丸山用語でいう「タコつぼ化」について述べているところが話題になっているのですが、ここを引用して仲正先生はこんなふうにおしゃっています。「イリュージョン(幻想)」と「リアリティー(現実)」の逆転ということですね。これは間主観性論や共同幻想論の前提になっていることですね。現実とは違う事でも、当事者たちの間でその錯覚が「現実」として通用するのであれば、その人たちの間でそれが「現実」になってしまうわけです。 ミクロなレベルで言えば、先ほどの、サイバー・カスケード化したネット共同体―実際には、ミニ・サークルであることの方が多いのですが、―の内部で、「本当の話」として通用するのであれば、出鱈目な話でも構いません。というより、仲間内で通用するものが「本物」で、それが本当に『ホンモノ』かどうか、サークルの「外」に出て確かめようなどとは思はない。当人たちは、ネット上で自分たちと「同じ意見」を発見することによって、確認しているつもりになっているわけです。 もっとマクロなレベルで言うと、国家と下方とか道徳とか常識とか世論とかは、どこかに実在しているのではなく、みんなが信じていることによって「存在」しているわけです。みんなが、「法なんてない!」と思うようになったら、実際、法は消滅します。 丸山眞男がこの話をしたのは1960年代だと思いますが、仲正先生は現代の「日本社会」の現象を語っていらっしゃると思いますが、実は10年前2012年ことです。 で、仲正先生の解説で、ぼくがキーワードというか、ここがカギだと思ったのはここでした。「当人たちは、ネット上で自分たちと「同じ意見」を発見することによって、確認しているつもりになっている」 丸山眞男の1960年の「現代」には、もともと「閉鎖的」な学問の世界で起こっていた、真理の「幻想化」、「タコつぼ化」が、仲正先生の2010年の「現代」ではミニ・サークルの中で進行しているという指摘ですが、この講義から10年たった2021年の「現代」においては、ミニサークルどころか、マスコミも一緒になって、大衆的な大「タコつぼ」化しているように見えます。 「ヘイト」な言葉を吐き散らす人たちの「歴史」や「社会」に対する認識の危うさに限らず、例えば「コロナ」に対する政策への理解のような、ある意味、人々にとって、直接的には「命懸け」になりかねない社会認識においても「幻想的」な理解の「妄想性」について、気づく手立てさえもを失いつつある現実が目の前にあるのではないでしょうか。 マスコミが「共同幻想」の大量生産装置であることは、20世紀の常識であったはずなのですが、ネットやSNSという加速装置を手に入れた「幻想力」は、仲正先生がこの講義をなさってから10年、想像以上のパワーで「巨大サークル化」して、世界を変えつつあるように感じるのは「幻想」でしょうか。 もうこうなったら、ボケ防止どころか、正気でいることの「不可能性」の時代という感じがしますね。 仲正先生は、この後、「社会生活」をする個人に襲いかかっている「キャラ化」の問題についても触れられていて、丸山眞男はともかく、現代社会について、「ああ、なるほど」と納得する講義でした。なんか、興味湧いてきませんか?まあ、「授業」とか「講義」とかいうものの常で、めんどくさいですが。
2021.04.03
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徘徊 2021年3月28日「2021年 神戸 街の桜」 王子公園あたり 2021年3月最後の日曜日は、あいにくの雨模様でしたが、シマクマ君は王子公園にやって来ました。ここの登山研修所で「本を読む会」の集まりがあったせいですが、ついでに雨のお花見でした。 こんな感じですが、アメリカン・フットボールの競技場の東側の通りです。阪急西灘、いや違う、王子公園の東口から歩いてすぐです。 原田児童館から北に少し歩くと、こんな風景が見えてきます。 向かって右側の桜と左側の桜が違う種類だということはすぐにおわかりだと思いますが、この公園の、この辺りは「緑の桜」の名所です。 この通りの、すぐ東に西郷川という小さな川が流れていますが、川端の桜が「御衣黄」というのでしょうか、「緑の桜」です。 まあ、好き好きですが、ソメイヨシノのようなピンクの花に比べると、ちょっと違う迫力があります。 話が飛びますが、京都の今出川あたりに「雨宝院」という「御衣黄」桜の大木で有名なお寺がありますが、あそこの桜は八重でしたが、ここの桜は八重ではありません。名前が違うのかもしれませんね。 こんな感じですね。よくいえば「さわやか」、悪くいえば「寒々」としています。「雨宝院」の御衣黄は、満開の時に、一度だけ、見たことがありますが、すぐに幽霊が出てきそうでした。ここの花は、それほどでもありません。 もちろん王子公園のこの辺りにもピンクの桜はあります。 向うに見えるのが、岩登りの練習用の壁ですね。建物が登山研修所で、中に集会所があります。まあ、それが今日の目的地ですね。 今日読んできた本は宇佐美りんさんの「かか」(河出書房新社)と高見順の「いやな感じ」(共和国)ですが、その話はまた書きますね。そのときは、また覗いてください。
2021.04.02
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リー・アイザック・チョン「ミナリ」シネリーブル神戸 なんだかチラシに書かれているコピーがまず凄くて、いったいどんな映画なのだろうと煽られました。よく考えてみると、3月くらいになると「アカデミー賞最有力」とかは決まり文句みたいなもので、内実が確かなわけではないのですが、そうはいっても、ついついという気分でした。 そのうえ、「A24」とか「PLAN B」とか、根拠はないのですが、「なんだなんだ」と誘惑されるミーハー気分まで煽られて観たのでした。まあ、こういうパターンには落胆が待っているとしたものなので、それはそれでしようがないという気分まで準備済みです。 結果は、予想に反して拍手!でした。もう、そういってしまえば、それでいいような気分の映画だったのですが拍手の理由は二つです。それについて、ちょっとおしゃべりしようと思います。 拍手の理由のひとつめは祖母、母、娘という女性の描き方でした。 主な登場人物は1980年代、ちょっと時代遅れの「アメリカンドリーム」を夢見てアーカンソー州の高原に移住して来た韓国系移民ジェイコブ。荒れた土地と古びたトレーラーハウスを目にして不安に駆られる妻モニカ。しっかり者の長女アンと心臓を患う好奇心旺盛な弟デビッド。やがて、韓国から娘家族のもとにやって来る祖母スンジャの5人の家族と、手伝いの農夫ポールです。 夫婦が、なけなしのお金をはたいて手に入れた農場での、この五人の家族の暮らしが、この映画のすべてでしたといってもいいでしょう。 「家族」を幸せにすると叫び、「少年の夢」に向かって走るジェイコブに対して、この三人の女性たちが、それぞれ、リアルな現実の体現者としてスクリーンに存在していました。 唐辛子と炒り子と現金を土産に娘のもとにやってきた祖母スンジャの「毒舌」と「破天荒なふるまい」は、1980年に60歳を超えている半島の女性が、その人生で手に入れたに違いない、ある種、アナーキーで自由な「生き方」を感じさせるものでした。 母として息子の心雑音を自ら聴診し、妻として家族の生活の危機から目をそらすことのないモニカは「愛」の夢に溺れることのないリアリストでした。 体の弱い弟をかばい、両親の不和の現場から目をそらすことなく見据えるアンは忍耐の少女といっていいかもしれません。 そして、三人に共通するのは、祖母スンジャが、孫のデビッドと共に近くの水辺で育てる「ミナリ」そのものでした。 彼らの祖国の料理に欠かせない芹ですね。清流の水辺で育ち、料理の味をこわすことなく自らの存在もしっかりと主張する、あの芹のような「女性」の存在感がこの映画には底流していました。 ぼくは穀物小屋が燃え上がるクライマックスの炎にスンジャをはじめとする、過酷な現実を生きながら「やさしさ」を失わなかった「女」たちの哀しみが燃え上がっていると感じました。 拍手の理由の二つ目は、様々な人間が生きている「アメリカ」が描かれていたことでした。 一番象徴的だったのは、手伝いの農夫ポールの姿でした。周りの人たちからは変わりものとして排斥される原理主義的なキリスト教の信者であるこの男の、「心の広さ」を描いたところに、ぼくは、ぼくたちが生きているこの国にはない「アメリカ」らしさを感じました。 現実のアメリカが「ヘイト」や「差別」が横行する国であるらしいことや、原理主義的キリスト教徒の黒人差別について、ぼくでも知らないわけではありません。しかし、いや、だからこそ、自らの信仰にこだわる人こそが、広く他者を受け入れるという姿を描いている映像を目にするのは感動的ですらありましたね。 ぼくには「人間」が「人間」と出会う、こういう映画の制作が「プランB」という会社によってなされていることが、何よりも驚きでした。 別の日にこの作品を見てきたチッチキ夫人が帰って来ての第一声がこうでした。「プランBって、ブラピの会社でしょ。あのブラピが、こういう映画を作っているっていうのは、やっぱりすごくない?」「うん?」「あれだけ、ドンパチと男前でスターになった人でしょ。ドンパチなんてなんにもないし、男前というのもほとんどいないのに、ちゃんと納得させてるじゃない、この映画。ヤッパリ、アメリカはすごいわよね。」 とまあ、こんな会話でしたが、この映画のよさは、実はもう一つあって、それは子役のデビッド君ですね。なんというか、トリックスターのような役柄なのですが、実に愛嬌があって可愛らしい。「お前、案外やるな」っていう感じでした。 スンジャを演じるユン・ヨジョンさんは有名な俳優さんらしくて、チッチキ夫人はテレビのほかの番組で知っていました。他の俳優さんたちも、ぶきっちょなジェイコブを演じるスティーブン・ユァンはじめ、なかなかいい味でした。 アカデミー賞的な派手な映画ではありませんでしたが、納得した作品でした。監督 リー・アイザック・チョン製作 デデ・ガードナー ジェレミー・クレイマー クリスティーナ・オー製作総指揮 ブラッド・ピット ジョシュ・バーチョフ スティーブン・ユァン脚本 リー・アイザック・チョン撮影 ラクラン・ミルン編集 ハリー・ユーン音楽 エミール・モッセリキャストスティーブン・ユァン(ジェイコブ)ハン・イェリ(モニカ)アラン・キム(デビッド)ノエル・ケイト・チョー(アン)ユン・ヨジョン(スンジャ)ウィル・パットン(ポール)スコット・ヘイズ(ビリー)2020年・115分・G・アメリカ原題「Minari」2021・03・22‐no26シネリーブル神戸no88
2021.04.02
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「2021年もいよいよサクラです!」徘徊日記 2021年3月26日(金)団地あたり お彼岸の頃に、信州、松本あたりをウロウロして帰ってくると、神戸ではサクラが咲き始めていました。まずは、住んでいる団地の桜自慢です。住んでいるだけで、団地の植栽、樹木や花の世話などのお手伝いさえしたこともないのですが、この季節になると「うちの団地のさくらは!」 と自慢したくなるサクラです。 2021年3月の24日から26日くらいの写真で、まだ五分咲きという所でしょうか。 いつもそうだというわけではないのですが、今年は自宅の棟の前のサクラが最初に咲き始めました。 そろいもそろって、遠くに行ってしまった、我が家の「ゆかいな仲間」たちに今年の花の便りを送りたくて、こうして写真を撮っているという気持ちもあります。我が家に限らず、子供たちの声が聞こえなくなった団地のサビシイ春というわけですが、花は元気で美しい(笑) 30年暮らすと、ここで育った人たちには故郷のサクラなのですね。子どもの頃から彼らが、毎年見ていたサクラが、今年も咲いたという便りのつもりです。みんな元気でいるのでしょうか。 今年は、この枝垂桜の向こうに見える小学校が廃校になるそうです。自宅から1分、教室で叱られている様子まで見える学校でしたが、子どもたちの声が消えて、工事の人たちの音が朝からしています。 あの頃、連れられていたのは、新一年生だったのでしょうか、団地の中の通学路に咲いた花々を、子供たちに教えていらっしゃった先生いらっしゃいました。「これはレンギョーオ!、そっちはユキヤナギイー!」 あの大きな、明るい声のせんせーが、懐かしいですね。もう、きっと退職なさっているのでしょうね。 サクラの花を見ていると、何だかしみじみしてしまうこともありますね。 もちろん、花だよりはしばらく続きます。ボタン押してね!
2021.04.01
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Q.B.B.「中学生日記」(新潮文庫) 今日の週刊マンガ便はヤサイクンの配達マンガではありません。平成14年ですから、2002年、今から20年前に新潮文庫になった、古い古いマンガです。何で、そんなマンガが出てくるのかというと、ぼくはあまりテレビを見ないのですが、この冬ハマっていたのが「孤独のグルメ」という一話完結のグルメドラマでした。もともと谷口ジローのマンガだったと思うのですが、テレビでは主役の「井之頭五郎」を無愛想な松重豊という俳優さんが演じていて、まあ、これがはまり役なのですね。 仕事で、お得意を回っていて、突如、腹が減って昼飯を食うという設定で、東京周辺の町の食べ歩きが、多分、けっこう受けたという、これまた古いドラマです。 で、その番組で、ドラマが終わると、原作者の久住昌之という人が、ドラマで紹介した実在のお店を訪ねて、ニヤケながらビールを飲むというパターンなのですが、先日、やっと気づきました。「おいおい、ニコニコ、ニヤケ笑いで、真っ昼間からビールを飲んでいる原作者久住昌之って、あのマンガの作者じゃないか。」「そうよ、知らなかったの、最近も新しい本出てたわよ。」 というような会話がありましたが、あのマンガというのがQ.B.B.「中学生日記」(新潮文庫)です。 Q.B.B.なんていうユニット名で記憶していたからわからなかったのですが、久住昌之、久住卓也の兄弟マンガユニットで、正式には「久住・バカいってんじゃないヨ・ブラザーズ」という名前の略なのですが、今はなくなってしまった文春漫画賞までとった傑作(?)マンガです。 ちょっとページを繰ると、こんな感じです。 4コマの組み合わせで、それぞれの主人公を描いているのですが、このページは山田君です。 とりあえず、ニヤニヤしながら読むのですが、担任の体育の先生が、最後に絶叫するところで、まあ、ぼくの場合は、そういう業界を知っていることもあって、一人笑いということになります。 右のページをご覧ください。トイレのシーンですが、まあ、ありえないとは思うのですが、ジャージの裾のチャックを「社会の窓」だと勘違いした少年の「オシッコ」シーンです。「ションベンモモにつきそう」なんだそうです。なんか、妙な既視感があるんですよね。ありえないのに。 女性には理解できないシーンだとは思うのですが、このマンガをぼくに教えたのは同居人の女性ですからね。 まあ、もうひとつだけ載せてみますね。 見てほしいのはキャッチコピーの「一生で一番ダサイ季節:中学生日記」という所ですね。綿入れを生きて座っている中学生の男の子の「もっとカッコイイ家に生まれたかった」という独り言がのが笑えますね。たしかにダサイ! パラパラ読み直していて、止まらなくなりますね。究極の「バカバカしさ」です。しかし、それにしても。65歳を超えて、このマンガが、相変わらずうれしいぼくは大丈夫なのでしょうか。 この文庫版の後、「新中学生日記」と題して、朝日中高生新聞とやらに10年以上連載していたそうですから、案外知られているマンガなのかもしれませんね。そっちは青林堂から単行本が出ているそうです。
2021.04.01
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