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なかのひろたか「ぞうくんのあめふりさんぽ」(福音館) チッチキ夫人が、お仕事から帰ってきてテーブルに、ひょいと置いて、いいました。「こんなのあったから、買ってきたよ。」「あれ、これって『ぞうくんのさんぽ』やな。」「そうそう、きょうはいいてんき、ぞうくんはごきげん、でしょ。」「どれどれ、さんぽにでかけよう」「うわーっ、ばっしゃーん!暗唱できるやんね。そのへんにあるんちゃう?」「こっちは、雨ふりの散歩か。きょうはあめふり ぞうくんはごきげんやって。」「一番上にぞうくんが乗ってるやん。」「なるほどな、今度はかめくんが一番下やで。ああ、よう出来てるは。」「終わりは、やっぱり、ばっしゃーんなん?」 おはなしの結末は、どこかで手に取っていただきたいですね。雨降りでもゾウくんがごきげんなのがいいなあと思いました。 懐かしい絵本ですね、それにしても、家にはチビラくんたちはいないのですが、この絵本どうするつもりなんでしょうね。 あっ、こんなのもあるようです。 なんか、集めちゃいそうですね。困ったもんです。
2021.05.31
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浦沢直樹「20世紀少年(全22巻)」・「21世紀少年(上・下)」(小学館) 15年ほども昔のことですが、高校の教室で配っていた「読書案内」の復刻です。時間がズレています。浦沢直樹の傑作マンガ「20世紀少年」が完結したころのおしゃべりです。※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 二学期の教室で浦沢直樹の「20世紀少年」(小学館全22巻)が廻し読みされていましたが、この秋(2008年)、「21世紀少年」(小学館上・下)が出版されて完結しました。僕は浪人していた一昨年の卒業生さんに譲ってもらって、いっき読みしました。 浦沢直樹といえば「YAWARA」(小学館全29巻)で登場したのが20年以上も前のコトだったと思います。女子柔道の柔ちゃんのニックネームはこの漫画の主人公から取ったものですね。僕自身は「モンスター」(小学館全18巻)で気に入って、「20世紀少年」、「PLUTO」(小学館、只今5巻発売中)と読み続けています。この学校の図書館にも「MASTERキートン」・「モンスター」はそろっています。 この高校の図書館のいいところは漫画もれっきとした文化として閲覧している所ですね。もっとも、新しい作品が「のだめカンタービレ」(二の宮知子)、「リアル」(井上雄彦)くらいしか置いてないことや、渋めの作者は見当たらない所が残念なのですが。 ところで、「20世紀少年完結編」は、よくわかりませんでした。まぁ話が長くなりすぎて、最初の頃、子どもだった登場人物が大人になったどの人なのか、それから子どもの頃にあったどの事件が今の事件と関連しているのか、ごちゃごちゃしてくるんですね。 読んでいない人にちょっと説明すると、「オールウェイズ・三丁目の夕日」という映画が流行した事は知っていると思います。職員室でも観てきた人が話題にしていました。映画を見もしないでいうのも変ですが、西岸良平という1947年生まれの漫画家がビッグコミックというマンガ週刊誌に今も連載している「夕焼けの詩-三丁目の夕日」(小学館)という漫画の映画化です。1950年代から60年代のいわゆる昭和の戦後社会が舞台です。というわけで「団塊の世代」、ああ、これ「だんかい」って読みます、まあ、そのあたりの人びとが映画館に押し寄せたんじゃないかというのが勝手な推測です。 漫画のほうは「ほのぼの」としたタッチが貧乏臭いノスタルジーをくすぐって、地味に人気があります。ほっぺの赤いあどけない少女とか、鼻を垂らした少年がのんびりと昭和30年代を暮らしています。 現在の高校生には、わかりにくいかも知れないけれど、1964年、昭和38年にこの国では誰もが覚えているような歴史的イベントが二つありました。一つは東海道新幹線の開通、もうひとつは東京オリンピックの開催。この二つのエポック・メイキングな出来事を境にして、ある時代が終わったといわれているのですが、ぼくは小学校4年生でした。 「三丁目の夕日」には、この時に下ろされた幕の向こう側の世界が描かれています。この国の戦後社会の世相を「活写」した作品と言われています。 そういう受け取り方で「20世紀少年」を読むと、こっちは世紀末世相史と読めないこともないわけです。題名がT・レックス―グラム・ロックなんて知らないよな?!―という1970年代に爆発的に流行したロック・バンドの「TwentyCenturyBoys」という曲名をそのままつかっているのですが、「三丁目の夕日」のほぼ10年後くらいの世界からはじまっています。 アポロ11号が月面、「静かの海」に着陸したのが1969年。アームストロング船長という名前が、"That's one small step for a man, one giant leap for mankind."という名言と共に記憶され、1970年の大阪万国博覧会にアメリカが「月の石」を出展して大行列の騒ぎになり、科学者や宇宙飛行士が子どもたちの「将来の夢」の上位にランクされた時代に育った小学生達の物語です。ちなみに浦沢直樹は1960年生まれですね。 ぼくは1970年に高校一年生でした。「三丁目の夕日」の子ども達より年下で、「20世紀少年」の子ども達より年上です。どっちを面白がってもいいようなものですが、ぼくには「20世紀少年」が断然面白かったですね。 理由ははっきりしていて、「三丁目の夕日」の世界の時間は止まっているのですが、「20世紀少年」たちは現実の時間の中に生きて登場してしまう感じがあるからだと思います。 漫画の描き方にはいろいろあります。例えば朝日新聞の朝刊の「ののちゃん」(いしいひさいち)や「サザエさん」(長谷川町子)、傑作の誉れ高い「じゃりン子チエ」(ハルキ悦巳)や「天才バカボン」(赤塚不二夫)の主人公達は誰も年を取りません。「三丁目の夕日」の人たちもそんな感じですね。漫画には時間を止めることで描ける「笑い」や「哀しみ」があるのかもしれません。 しかし「20世紀少年」の登場人物たちは21世紀に向けて同時代を生きているように感じるのです。その結果、読者の中で、描かれている出来事がフィクションであるにもかかわらず、現実の事件とシンクロしはじめます。なかでも、宇宙旅行を夢見たり正義の味方を信じていた少年達が、あの「オーム真理教」事件を思い起こさずにいられない「ともだち教」事件に巻き込まれていくストーリーが、妙にリアルで面白かったですね。 マア、そのあたり、浦沢直樹が、この国の世紀末世相史を描こうとしているんじゃないかと勘ぐる所以です。 21世紀の平和が、主人公ケンヂの歌う「スーダラ♪スーダラ♪」で始るのも悪くないですね。これは歴史の書ではなく予言の書かもしれないと、ふと思わせてくれます。はははは。大げさすぎますかね?
2021.05.30
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鶴見俊輔・佐々木マキ「わたしが外人だったころ」(福音館) 本棚をのぞいていて見つけました。福音館書店が今も出しつづけている「たくさんのふしぎ」という月刊の絵本がありますが、その傑作集の1冊、「わたしが外人だったころ」です。2015年に出版されているようですが、この棚にいつからあったのか、トンと記憶がありません。 「月刊たくさんのふしぎ」の方は、ゆかいな仲間がまだ小さかったころ定期で購読していました。数年分のバックナンバーが今も並んでいます。 で、「わたしが外人だったころ」ですが、ご覧のように、あの、佐々木マキの絵の上に、哲学者の鶴見俊輔の文章がのっかっています。小学校の高学年向きの絵本ということらしいです。 1938年、16歳の秋に渡米し、17歳でハーバード大学に入学し、19歳の年に「敵性外国人」として移民局の留置場に留置され、留置場の中で卒業論文を書いたこと。日米交換船に乗って帰国したいきさつ。帰国して海軍に志願し、ジャワ島に通訳として派遣され、病気になって帰国したこと。病床で敗戦を迎えたことなど、1922年生まれ、80歳を超えた哲学者が時代を追って思い出しながら書いています。こんな感じです。 1945年8月15日がきました。私は病気でひとりねていて、ラジオの放送で日本の敗戦を知りました。 どうして自分が生きのこったのか、その理由はわかりません。わたしが何かしたために、死ぬことをまぬかれたというわけではないのです。なぜ自分がここにいるのかよくわからないということです。そのたよりない気分は、敗戦のあともつづいており、今もわたしの中にあります。今ではそれが、あたしのくらしをささえている力になっています。 16歳から19歳の終わりまで英語を使ってくらしたので、敗戦までわたしは心の中では英語でかんがえてきました。日本にもどると、「鬼畜米英」(アメリカ人とイギリス人とは人間ではなくて鬼かけものだ)というかけ声がとびかっていて、それはわたしのことだと、いつもおびえていました。負ける時には日本にいたいと思って帰ってきた結果がこういうことでした。 不良怠学で、日本の小学校高等科を退学になり、英語もできない16歳が「外人」としてアメリカで暮らし、日米開戦のために帰国した日本では、敵国から帰ってきた「外人」として扱われて暮らした。それが子供たちに、哲学者、鶴見俊輔が語った、70年以上も前の思い出話で、絵を描いているのが、不思議な絵柄の佐々木マキです。 小学生に限らず、若い人たちが、こういう話をどう読まれるのか、想像するのも難しい世の中ですが、誰かが手に取ってくれるとうれしい絵本です。
2021.05.29
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ちばてつや「ちばてつや追想短編集」(小学館) 今回の「案内」はヤサイクンが2021年の5月のマンガ便で届けてくれました。「ちばてつや 追想短編集」(小学館)です。 現在4巻まで進行中の「ひねもすのたり日記」もそうですが、80歳をこえて、なお健筆をふるっていらっしゃるご様子は、さすが「あしたのジョー」の人! ですね(笑)。 この作品集は、「追想短編集」という題でもわかりますが、一作一作、ちばてつやにとって、来し方を振り返り、どうしても忘れられないエピソードが「自伝マンガ」として描かれています。 で、この作品集が出来上がった経緯をちばてつや自身がこんなふうに書かれています。 齢を重ね少し時間のゆとりもできたこともあって‥‥ふと立ち止まった時、せっかく戦中戦後を生きてきた体験と記憶をこのまま埋もれさせてはいけないのではないか。大陸からの引き揚げ、飢えと病気、焼け野原の日本国に帰国したあとの超貧乏生活、「漫画」との出会い、そしてプロのマンガ家になっていく過程の喜びや苦しみ、戸惑い等、同じ時代を生きてきた人たち、あるいは同じマンガの道を歩む後輩たちのためにも、少しでも参考になってくれれば‥‥と描きはじめたのがキッカケいつの間にか四本もの作品がそろうことになりました。 それぞれ描いた時は全く意識していなかったのですが、自然に若いころから最近に至るその時その時のエピソードや、記憶を順番に語るようにリアルに描いています。 読み返してみると、たくさんのマンガ家の友人や編集者、弟子、家族に恵まれて、思った以上の幸せな充実した人生を歩んできたことに気付き、しみじみ有難いことだと感謝でいっぱいになります。(「あとがき」) 本書には「家路1945-2003」、「赤い虫」、「トモガキ上下」、「グレてつ」の四つの短編が収められています。 「家路」、「赤い虫」は「ひねもすのたり日記」にも描かれていたエピソードで、それぞれ、満州からの帰国の様子、戦後の生活や、マンガ家になった当初の神経症の体験が描かれている作品です。 「トモガキ(上・下)」は、昭和のマンガ好きには必読です。あの「トキワ荘」のマンガ家たち、石森章太郎や赤塚不二夫とちばてつやとの出会いと、その時生まれた絆が、現場の証言として描かれていて、トキワ荘とかに興味をお持ちの方には見逃せない作品だと思いました。 「グレてつ」は、最初は読み切りマンガとして描かれ、やがてビッグコミック連載で人気を博した「のたり松太郎」という作品の、誕生の裏話ともいうべき作品です。ぼくは興味津々で読みました。 マア、少年時代の思い出に浸りながら「ちばてつや」を楽しんでいるぼくからすると、絵柄も、ストーリーも安心なのですね。これからも、こういう新作を、長く書き続けてほしいと切に願う気分です。
2021.05.28
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フラレ・ピーダセン「わたしの叔父さん」元町映画館 デンマーク映画だそうです。おそらく脳梗塞か脳内出血で倒れ、マヒの残る老いた叔父の、身の回りの世話をし、数十頭はいるのであろう乳牛の飼育を黙々とこなすクリスという20代の女性の生活を、淡々と描いた作品でした。 クリスがなぜ、この農場で黙々と暮らしているのかということも、父と兄を、ほぼ、同時に失ったらしい過去についても、叔父と獣医ヨハネスの会話から何となくは知られますが、詳しい経緯はわかりません。 教会の合唱の声に耳を澄ませたり、恋人らしき青年マイクとの出会いもあります。しかし、父の死で断念したらしい獣医の勉強も再開するかなと見えた、泊りがけで出かけた大学での講義の聴講という留守に、叔父が再び倒れます。 叔父の再入院という事件は、映画が始まって以来、少しづつ明るい世界に向かって開かれ始めていた窓のシャッターを、一気に引き下すかのように、全てをご破算にして、叔父と二人の生活が、再び始まり、映画は終わりました。 映画を見終えた、ちょうどそのころに読んだいた本の中にこんな話が書かれていました。 アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」第四巻に、とても印象的なシーンがある。 大魔法使いゲドの「伴侶」であるテナーという女性は、テルーという里子を育てている。テルーは、まだ小さな子供だが、言葉では言えないような陰惨なことをされて、顔の半分がケロイドのようにただれている。テナーは、心に難しいところをたくさん抱えるテルーを心から愛している。もちろんその顔の傷も一緒に愛を注いでいる。 しかし、こんなシーンがある。ある夜テナーは、ぐっすりと寝て居るテルーの寝顔を見ているうちに、ふと、手のひらで顔のケロイドを覆い隠す。そこには美しい肌をした子供の寝顔があらわれる。 テナーはすぐに手を離して、何も気付かず寝ているテルーの顔の傷跡にキスをする。(岸政彦「断片的なものの社会学」) 読みながら、ふと、思ったことなのですが、映画では、このお話の「美しい肌」と「ケロイド」が、ちょうど逆の構造になっていたのではないでしょうか。映画は、美しく、働き者のクリスの、普段は隠されたケロイドを、ただ、一度だけ露わに映し出します。しかし、そのシーンが暗示するケロイドの正体が、どういう経緯のものであるか、今後どうなるのかについて語るわけではありません。 観客であるぼくたちは当然ですが、叔父も、獣医のヨハネスも、恋人のマイク青年も、ゲド戦記のテナーのように、クリスの傷跡に静かにキスをして、彼女の生活を見守るほかすべはない、そういう作品だったのではないでしょうか。 デンマークの若い監督らしいですが、美しく、哀しい、しかし、人間の本当のありさまを描いたいい作品だと思いました。監督 フラレ・ピーダセン製作 マーコ・ロランセン脚本 フラレ・ピーダセン撮影 フラレ・ピーダセン編集 フラレ・ピーダセン音楽 フレミング・ベルグキャストイェデ・スナゴー(クリス)ペーダ・ハンセン・テューセン(叔父さん)オーレ・キャスパセン(獣医ヨハネス)トゥーエ・フリスク・ピーダセン(青年マイク)2019年・110分・G・デンマーク原題「Onkel」2021・05・10‐no45元町映画館no77 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.27
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上田義彦「椿の庭」シネ・リーブル神戸 若き日の藤純子さんが、「緋牡丹のお竜」こと「矢野竜子」、を演じて一世を風靡した「緋牡丹博徒」シリーズが終わり、「関東緋桜一家」で東映を引退したのが1972年だったそうですが、ぼくが都会の街に暮らすようになって映画に夢中になったのは1974年ですから、ぼくにとって藤純子さんは、初めて見たときから「かつてのスター」でした。 なぜだかよくわかりませんが、こういう感覚はいつまでたってもぬぐえないものですね。当時、彼女が山場で見えを切る仁侠映画は、名画座では繰り返し上映されていましたから、当然、そのほとんどの作品を見ているはずなのですが、ずーっと過去の人でした。 それなのに、いや、だからこそでしょうか。オバーチャンになっているはずの彼女の姿が見たくてやってきた映画が「椿の庭」です。 この映画には、最近のお気に入り、シム・ウンギョンさんも出ているということで、ワクワクしながらやってきました。 「椿」、「紫陽花」、「藤」、「山笑う」という季語があるそうですが、刻一刻と表情を変えるかのような風にそよぐ「若葉の木立」、掃き寄せられる「落ち葉」、そして、再び「椿」、最後は「梅」だったでしょうか。なぜか「サクラ」は出てきません。 それから、「夕立」、「炎天の青空」、「時雨」、眼下に広がる「青い海」、庭木の陰にある「水鉢」と、そこで泳いでいる「金魚」。 夫の四十九日を済ませ、遠くから帰ってきた孫の「渚(シム・ウンギョン)」と暮らす「絹代(富司純子)」の世界が、実に丹念に映し出されていました。家屋の暗がりについて、その独特さを讃えた作家がいたことを思いだしましたが、室内の様子も、庭の植え込みの様子も、その場に差し込んでくる光が作り出す陰影が懐かしく印象的な映画でした。 娘の陶子(鈴木京香)が持ってきて父と姉の遺影に供える白いユリの花が、見ているぼくには、なぜか異物のように感じられ、一方で、遠い国で娘が生んだ渚のために用意したにもかかわらず、とうとう贈られなかった「小さな靴」が、絹子の遺品のように映し出されたとき、彼女の心の「陰影」が浮かび上がってくるようで胸を突かれました。 絹子と渚の心の陰影を、重ねるように描きながら、「庭」の花や木立、「部屋」の調度や間取りのシーンを丁寧に映し出す様子に、映画を撮っている人のこだわりを印象深く感じた映画でした。 それにしても、清水紘治といい、藤純子と言い、なんだか老けない俳優っているのですね。いや、それ相応の老人ではあるのですが。着物を着るシーンの藤純子の姿なんて、まあ、ほれぼれしましたね。 ああ、それから、シム・ウンギョンさん、今回もとてもよかったですね。彼女の表情というか、そこにいる姿が醸し出す不思議な「遠さ」、今回も健在でした。 庭のシーンが感じさせる視線のありどころなんて、自分自身の日々の暮らしそのものという気がしました。スクリーンに映し出される、何気ないシーンが、妙に心にしみる映画でしたね。監督 上田義彦脚本 上田義彦撮影 上田義彦撮影補 佐藤治照明 八幡高広録音 橋本泰夫整音 野村みき衣装 伊藤佐智子ヘアメイク 赤松絵利 吉野節子編集 上田義彦音楽 中川俊郎音楽プロデューサー ケンタローキャスト富司純子(絹子)シム・ウンギョン(孫:渚)鈴木京香(次女:陶子)清水紘治(旧友:幸三)チャン・チェン(税理士黄)2020年・128分・G・日本2021・05・24・no49・シネ・リーブル神戸no95追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.26
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D・W・ヤング「ブックセラーズ」シネ・リーブル神戸 毎週、月曜日は「シネ・リーブル」系の映画館の料金が、60歳以上の老人にお得になっています。まあ、ただでさえ、大人料金に対して老人料金はお得なのですが、この日は1000円ですから、どうせ、今週中に見たい映画が、もう1本、2本あるなら複数見て帰ろうという気分になります。自宅から三宮の交通費を考えると当然ですね。 で、5月24日の月曜日は8時55分開始の「ブックセラーズ」に駆け付けました。自宅からは高速バスで三宮直行です。三宮の駅前で朝の通勤の風景を見るのは久しぶりでしたが、映画館も思いのほか混んでいました。 映画はニューヨークの古本屋さんたちのインタビューで構成されたドキュメンタリーでした。 インターネットがあらゆる情報を管理し、紙で製本される本はそろそろ「絶滅危惧種」として保護されなければならないだろうというような「うわさ」がどこからともなく聞こえてきて、「キンドル」だかいうサービスで購入したり読んだりする方が、「ゴミも増えないし、いつでも読めていいよ。」という時代になっているようなのですが、紙の本、モノとしての本に執着する「本好き」という「人種」は、まだ、まだ、生息しているようです。 かくいうぼくも、教員生活の最後の数年間、数万冊の古い蔵書に、毎日、毎日、バーコード・ラベルを貼って、棚に並べ直すのが「うれしい」という、まあ、いわゆる「本好き」なわけですが、そういう「人種」に属すると自負なさる方には、この映画は退屈しなくていいのではないでしょうか。 何しろ、やたら本棚が出てきて、なんとか背表紙を読み取りたいという、意味のあるような、無いような誘惑に揺さぶられるだけでなく、「不思議に国のアリス」のルイス・キャロル自筆本とか、「グーテンベルグの聖書」とか、とどのつまりは「人皮装丁本」の実物とか、「あわわ」と声を上げそうな映像がいっぱい出てきて、結構、興奮しましたよ。 ただ、稀覯本の価値とはまず縁もゆかりもないうえに、本の所有に関しても、持っているはずの、あの文庫本、この文庫本が、どこにいったかわからなくなりつつある、日々の現実に直面しているせいもあってか、興味を失いつつあるわけで、今一つ乗り切れない面もありましたね。 映像に登場していた、ある本屋さんがいっていましたが、「死んだ後のことは知らない」という趣旨の言葉が心に残りました。 その本屋さんが集めた本の価値はただ事ではないにしても、ぼくの書棚の雑本などは、あとに残されて片づける人には「ただのゴミ」でしかないわけで、「ステイ・ホーム」とかが叫ばれる時節柄でしょうか、「増え始めている我が家のゴミ」に警鐘を鳴らしながら映画館のエスカレーターに乗ったまではよかったのですが、「いや、捨てるのは、読んだ本全部の感想を書いてからだな」などと、わけのわからない妄想を、再びたくましくしたようなわけで、ほんと、「本好き」というのは困ったもんですねというのが、最後の感想でした(笑)。監督 D・W・ヤング製作 ジュディス・ミズラキー ダン・ウェクスラー D・W・ヤング製作総指揮 パーカー・ポージー撮影 ピーター・ボルテ編集 D・W・ヤング音楽 デビッド・ウルマンナレーション パーカー・ポージー2019年・99分・G・アメリカ原題「The Booksellers」2021・05・24‐no48シネ・リーブル神戸no94
2021.05.25
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ちばあきお「ちばあきおのすべて」(集英社) 5月のマンガ便に入っていました。懐かしいマンガ家の特集本です。「ちばあきおのすべて」(JUMP COMIC SEREKUTION)です。1994年、ちばあきおさんが亡くなって10年後に出版された本のようです。 懐かしいといったのにはわけがあります。ちばあきおをいうマンガ家は、ちばてつやの弟で、兄のアシスタント、まあ、仕事の手伝いからプロのマンガ家になった人で、そのあたりのことはちばてつやの「ひねもすのたり日記」(小学館)とか「追想短編集」(小学館)に詳しく書かれていますが、ぼくにとっては「キャプテン」、「プレイボール」という野球漫画の作者で、「谷口くん」という、「ただの中学生をヒーローとして描いた」、ぼくが知る限りたった一人のマンガ家です。 ぼくは、この二つのマンガを、学生時代の終わり、二十代の後半に読みました。月刊ジャンプとかの掲載誌ではなくて、20巻を超えていたと思いますが、ジャンプ・コミックスの単行本です。読みながら、「この主人公は、きっと、普通の大人になるのだろうな」と思ったことを覚えています。 「スポコン」という言葉が生まれたころだったでしょうか。そのころ、長い学生生活を終えて、教員になって、最初の仕事の一つが硬式野球部の顧問でした。生まれて初めての野球の試合で、ベンチに入ってヤジっているとキャプテンから「先生、相手をけなすような、品のないヤジはだめです!」とダメ出しされたのを今でも覚えていますが、35年以上も昔のことです。 そのチームでの話ですが、顧問の仕事の一環だったのでしょうか、部室の片づけの「指導」とかだったのでしょうか、彼らの部室をのぞく機会がありました。すると、着替えとかが散らかっている、汚い部屋の棚に「キャプテン」、「プレイボール」が揃っていました。なんだか、場違いなものを見つけたような、「へー、こういうのを読むんだ!」と、考えてみれば的外れなことを感心しました。しかし、今思い返してみれば、部室の棚に並んでいた「墨谷二中」と「墨谷高校」の物語が、公立高校の弱小(失礼!)野球部の生徒諸君のバイブルだったわけです。 なるほど、行儀の悪い顧問を、キャプテンが叱るのも当然だったと、今になって、納得した次第です。そういえば、本書の中に、この方も、もう、今は亡き天才マンガ家なのですが、赤塚不二夫がこんなことを書いていました。 私は、あくまで自分独自の作品を描いていたいという気持ちから、他の漫画家の作品はほとんど読まないのだが、それでもあきおちゃんの作品には、何か親しみのようなものを感じていた。彼の作品はあだち充の作品に似た面があったが、もっとあたたかさを感じさせるところがあり、大先輩の寺田ヒロオ氏に通じるものがあった。(赤塚不二夫「作品の底に流れるあたたかさ」) 「あたたかく」、超まじめな野球少年「谷口くん」が、丸井君、五十嵐君、近藤君と続く「墨谷二中」のキャプテンを育てながら、無名の公立高校のキャプテンも育てていたことは今でも忘れられない懐かしい思い出なのです。 実は、最近、その頃のエース・ピッチャーやマネージャーさんとFBを通じて再会するといううれしい経験をしました。なんと、50歳を過ぎたおやじに変身してしまっていましたが、不思議なことに電話の声は昔のままでした。 生まれて初めて務めた、あの高校の狭いグランドが思い浮かんでくる、懐かしい響きの声が、スマホの中から聞こえてきて、おもわず・・・・・。 それにしても、ヤサイクンの世代が、いつごろこのマンガに出会ったのか、ちょっと気にかかりますね。今でも読まれているのでしょうか?
2021.05.24
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ちばてつや「ひねもすのたり日記4」(小学館) ヤサイクンの5月の「マンガ便」に入っていました。ここの所読み続けているちばてつやの「ひねもすのたり日記」の第4巻です。 執筆時期が、現在と重なっているので、マンガ家ちばてつやも「コロナの時代」を生きていらっしゃいます。 1939年の1月生まれですから、82歳ということですね。埼玉県にある芸術系の大学の先生もなさっているようで、現役ですね。マンガでは、あまり触れていらっしゃいませんが、感染に不安を感じざるを得ない後期高齢者ということで、感染の蔓延が笑いごとでは済まないストレスフルなお年といっていいと思います。 というわけなのかどうか、そこはわかりません。しかし、今回は病気の思い出話集となっていまして、「首の骨の捻挫」に始まって、「極度な眼精疲労」、「網膜剥離」、「耳鳴り」、「心筋梗塞」、「脊椎狭窄症」、「狭心症」、「大腸がん」、それから、「喫煙と禁煙の苦しみ」と、まあ、笑って書くのには抵抗のありそうな病名も、複数あるわけで、生まれてこの方、病院とは縁遠い暮らしをしてきた当方としましては、どっちかというと「元気が出ないなあ・・・」 という第4巻でした。 「マンガ便」を届けてくれたヤサイクンが、荷物を手渡すときにいっていました。「なんか、世の中や自分の体に対する不安がにじんでいて、ちょっとダルイ!」 その通りでしたね。でも、若いヤサイクンとは違って、ちばてつやの次の世代に連なる人間の目には、ある意味、実に正直な作品だともいえるわけで、そういうファンの一人であるシマクマ君には、それはそれで楽しめる内容なのでした。追記2024・08・22 第1巻・第2巻・第3巻・第5巻・第6巻の感想はこちらをクリックしてくださいね。
2021.05.23
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フロリアン・ゼレール「ファーザー」シネ・リーブル神戸 久しぶりのシネ・リーブル神戸でした。 2021年の4月25日に、5月11日までの予定で発令されていた兵庫県に対する緊急事態宣言が、先の見通しは立たないまま延期され、閉館している映画館はどうなることかと思っていましたが、なんと、シネ・リーブルをはじめOS系、松竹系、ああ、それからアート・ビレッジも再開しました。ほんと、よかったのですが、このタイミングも、微妙といえば微妙ですね。 マア、いろいろ気にかかることはありますが、早速やってきたシネ・リーブル、復活の最初の作品が「ファーザー」でした。今年、2021年のアカデミー賞でアンソニー・ホプキンスが主演男優賞をとった映画です。 アンソニー・ホプキンスといえば、トマス・ハリスの小説「羊たちの沈黙」(新潮文庫)の連作の登場人物、レクター博士の印象が焼き付いている名優ですが、目が怖いという印象ですね。 で、今日は、その「まなざし」を、見に来たわけです。先日見た「ノマドランド」のフランシス・マクドーマンドは、まあ、言ってしまえば「強さ」の「まなざし」を演じていたと思いましたが、アンソニー・ホプキンスはどんなふうに演じて、主演男優賞をかっさらったのでしょう、というわけです。 映画が始まって、最初にギョッとしたのは、映画の作り方、観客を引き込んでいく演出というのでしょうか、スクリーンに映し出されたのは空間と時間のミステリアスな「ずらし」 でした。 アンソニー・ホプキンス演じる老人アンソニーの「意識が見ている世界」と「現実の世界」との「ずれ」 の中に、観客として映像を見ている、ぼくならぼくを実に巧妙に引き込んでいく手法は、実に見事で、異様にリアルな現実喪失感 を映像を見ている人間の意識に作りだしていくカットの組み合わせの工夫はただ事ではありませんでした。 しかし、ぼくは、正直、少々やり過ぎじゃないかという印象を持ちました。ぼく自身は引き込まれていく自分にあらがって、もう少し、この老人を離れて見ていたいという気持ちでした。 どうでしょう、こう思った、この気分さえ、作られた意識の反応かもしれないところが、この映画のすごさかもしれないわけで、だから、ココが評価されるのは当然でしょうね。 で、ちょっと引いた感じで見ていて興味ぶかく感じたのは、アンソニーが音楽を聴くことでした。音楽は彼の中で生きているということが、どういうことを意味しているのかは分からなかったのですが、とても気になりました。ただ、残念だったのはラジオのような小さな装置で聞いている音楽は、歌曲だったと思うのですが、その曲名と歌詞の内容が分からなかったことです。 もう一つ気にかかったのが、彼が部屋の窓から外を見ているシーンですね。向かいに見える公園や、下に見える通りをじっと見ているのですが、何を見ているか、どういう「意識」で外の世界は見えているのかが、妙に引っ掛かりました。 このチラシに写っていますが、いかがでしょう。この時アンソニーは何を感じながら何を見ていたのでしょう。人格の崩壊をサスペンスフルに畳みかけてくる映画の時間の中で、彼の、この表情に、もっとゆっくり見入っていたいというのが、ぼくの率直な感想でした。 やがて、映画は、老優アンソニー・ホプキンスの「演技」の真骨頂! ともいうべき哀切きわまりないラストシーンを映し出します。 しかし、そのあとに本当のクライマックスがやってきたのでした。ぼく自身にとっても他人事とは思えないそのシーンをゆっくり撮り続けるだろうと思っていたカメラが、窓から外へ向かい、窓辺に佇むアンソニーの日ごろの視線をたどるように、通りを映し出し、最後に、繁茂した緑の葉を風にそよがせている木立を映したところでカメラは停止ししました。スクリーンには緑の木立が風に揺れ続け、やがて、音もなく暗転し、映画は終わりました。 すばらしいラストシーンでした。 風に揺れる緑の木立が、こんなにも懐かしく、美しいことに気付かないまま、67歳を迎えようとしている老人がボンヤリ映画館の椅子に座っていることの哀しさが一気に押し寄せてきました。 教えてくれたのは、窓辺に佇む老優アンソニー・ホプキンスの、眩しげで、やさしいまなざしでした。監督 フロリアン・ゼレール製作 デビッド・パーフィット ジャン=ルイ・リビ サイモン・フレンド製作総指揮 オリー・マッデン ダニエル・バトセック ティム・ハスラム ヒューゴ・グランバー原作 フロリアン・ゼレール脚本 クリストファー・ハンプトン フロリアン・ゼレール撮影 ベン・スミサード美術 ピーター・フランシス衣装 アナ・メアリー・スコット・ロビンズ編集 ヨルゴス・ランプリノス音楽 ルドビコ・エイナウディアンソニー・ホプキンス(アンソニー)オリビア・コールマン(アン)マーク・ゲイティス(男)イモージェン・プーツ(ローラ)ルーファス・シーウェル(ポール)オリビア・ウィリアムズ(女)2020年・97分・G・イギリス・フランス合作原題「The Father」2021・05・14‐no46シネ・リーブル神戸no93
2021.05.22
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山形梢 編「赤ちゃんと百年の詩人 八木重吉の詩 神戸・育児編」(ほらあな堂) 赤ん坊が わらふ 八木重吉 赤んぼが わらふ あかんぼが わらふ わたしだって わらふ あかんぼが わらふ この「読書案内」で、以前、八木重吉の詩の、ちいさなアンソロジー詩集「六甲のふもと 百年の詩人」(ほらあな堂)を手作りした山形梢さんのことを紹介したことがあります。 その山形さんが続編、「赤ちゃんと百年の詩人 八木重吉の詩 神戸・育児編」(ほらあな堂)を作られました。 山形さんは、おチビさんが1歳の誕生日を過ぎたころ、小さなアンソロジーを手作りして届けてくれました。その手ぎわというか、勇気というか、心もちにとても感動したのですが、今度は、日々成長していくおチビさんの笑顔を見ながら作った詩集のようです。 ようやく歩きはじめたらしい、おチビさんの手を引いて、旧御影師範の跡地を訪ねて写真を撮ったり、石屋川公園あたりで水遊びをしたりしながら選んだ詩を編集した冊子のようです。 先日、山形さんのお住いの近くでおチビさんと半年ぶりに再会しました。目をぱちくりさせた驚きの表情がとてもかわいらしかったのですが、怪しい徘徊老人はお友達にはしていただけなかったようで、うってかわった渋面から涙かあふれる前に退散と相成りました。おどろきのかたまりよ、わたしのちいさなむすめうまれてからまるひとつのもも子おまへの からだはたましいのように おどろいてゐる草のように おどろいてゐる「欠題詩群(二)」1924年10月 詩人の薄幸な人生の、つかの間のよろこびを断片のように書き残した詩のことばの中に名をのこした長女桃子ですが、4歳で父を亡くした彼女もまた、父の不幸を追うように14歳で他界したことが解説に記されていました。 山形さんが、幼い命の輝きに目を見張る暮らしの中で、新たに見つけた、八木重吉の詩の喜びと悲しみが伝わってくる詩集だと思いました。 なかなか手に入れることが難しい冊子だと思いますが、どこかの古本屋の店先で見つけたら、手に取ってみてほしい、気持ちのこもった「小さな本」だと思います。
2021.05.21
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筒井武文「ホテルニュームーン」元町映画館 日本人の監督がイランで撮った映画だそうです。よくわかりませんがイラン人の女優さんや男優さんの演技とイランの生活や住居、学校の教室のシーンを興味深く見入りました。 カット一つ一つの映像は、映像として悪くないのですが、物語が成立するために、本来描かれなければならないはずの、「イランという社会」、「日本とイラン」といった背景について、一切、触れない作り方に、とても違和感を持ちました。日本・イラン合作とあるのですが、映画の底にあるのが、「日本」からの気持ちの悪い「上から目線」なのではないかと疑いを抱かせる作品でした。 話は変わるのですが、映画を見ながら黒川創という小説家に「明るい夜」(文春文庫)という作品があったことを思い出しました。もう十数年前の作品ですが、京都の町で暮らす二十代の若者の話で、主人公がバイト先で出会う「イラン人」が描かれていました。 作品全体の中では、エピソード的登場人物なのですが、その人物が日本に来た経緯や、考え方などが丁寧に書かれていて、作品の中に「人間」として存在している様子がとても印象深かったことが浮かんできました。 この映画でも、主人公であるハイティーンの少女モナの母ヌシンが日本に来て働くという、かなり重要なプロットがありますが、「事故」でなくなった男性との間に、のちのモナを身ごもった体で、なぜ、日本に渡ったのかが何も描かれず、善意の日本人と出会ったことだけが、大げさに描かれています。 映画はモナと母ヌシンの間にある「出生の秘密」が、観客をサスペンドして展開しているにもかかわらず、そうした背景が描かれないまま、とどのつまりには「再生」と謳っているのは不思議です。まあ、少なくともぼくには、ただの「なし崩し」にしか見えませんでした。 映画の出来不出来でいえば、それで終わりかもしれませんが、「日本映画」「イラン映画」の枠を超えた新たな名作などとあおられると、東洋の東の果ての国の、無反省な「オリエンタリズム」のニュアンスまで感じ取られて、むしろ、「不気味」でさえありました。 なんだか、けなしまくっていますが、それぞれの社会で生きている人間の、お互いの、わかりにくさを棚上げにして、チラシにあるような「母と娘の愛」という紋切り型でまとめて作品化するのは、映画に限らずこの国の「文化的表象現象」に共通しているのではないのかといういらだちを掻き立てる映画でした。 何となく元気が出ないまま「来週また来るわね」とあいさつして、「待ってますよ!」と返事をいただいて映画館を後にしましたが、コロナ騒ぎがまたまた燃え上がってしまいました。 さいわい、元町映画館は上映を続けるようです。マア、あんまり人とは合わないように工夫して出かけようと思っています。映画に当たりはずれがあるのは仕方がありませんが、映画館が閉まってしまうのは、もうどうしようもないわけで、「ミニ・シアターがんばれ!」いや、「アートハウス、ファイト!」かな、と心からエールをおくりたいと思います。監督 筒井武文脚本 ナグメ・サミニ 川崎純撮影 柳島克己美術 サナ・ノルズベイギ編集 ソーラブ・ホスラビ音楽 ハメッド・サベットキャストラレ・マルズバン(モナ)マーナズ・アフシャル(ヌシン:モナの母)アリ・シャドマン(サハンド:モナの恋人)永瀬正敏(田中タケシ)小林綾子(田中エツコ:タケシの妻)ナシム・アダビマルヤム・ブーバニ2019年・93分・日本・イラン合作2021・04・16-no38元町映画館no78
2021.05.20
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松居大悟「くれなずめ」シネ・リーブル神戸 若い友達が監督の名前を口にしているのを小耳にはさんで観に来ました。松居大吾という30代の劇作家で、かつ、映画も撮っているというということでしたが、ぼくは名前も映画も知りませんでした。 映画は松居大吾「くれなずめ」でした。案の定、いつも見ているプログラムに比べて、明らかに若い方たちが客席にはいらっしゃって、上映は月曜日の夕方でしたが、結構込み合っていました。 ウルフルズという、今ではおじさんの(トータス松本君は54才だそうです)グループの「それが答えだ」という歌を「答えが明かされていない所が良いのだ」と、気に入っている主人公、吉尾くんと、残り5人の男の子たちが、友人の結婚披露宴で5年ぶりに再会して、12年前、高校の文化祭の出し物でやった「それが答えだ」の「赤ふんダンス」とやらを披露宴で披露して、客からドン引きされ、会場からの帰り道、5人で何やかやと思い出に浸りながら「暮れなずむ」夕陽がスクリーンいっぱいに広がるというラストで、映画は終わります。 チラシにもありますから書きますが、5年前に5人が会ったのは、25歳で急死した吉尾君の葬儀の時だったというのが、この物語の骨格で、亡くなった高校時代の友人と共有できる、思い出の「物語」を演じることで、「青春」とやらに「くれなずめ」と命じている、まあ、今風なのか、今風ではないのか、30目前の青年たちの、「それが答えだ」という映画だったと思いました。 こういう、ありがちなストーリーを、客を揺さぶる映画として作り上げるのは大変ですね。正直、高校生だったころのシーンも、30歳前のおにいさんたちのシーンも、赤ふんダンスのシーンも、映画としてはお粗末だと思いました。 「テンポよく」が条件ですが、舞台で「生」でやると受けるだろうなと感じるシーンは多いのですが、映像にすることで生じる客とスクリーンとの「距離感」のようなものに、この監督は無頓着だというのが感想です。 なんだか、ボロカスですが、不思議なことに見終えた印象はそう悪くないのですね。「笑わせてやる!」とウルフルズが主題歌で絶叫していましたが、ちょっと、笑えないのが、まあ、どうしようもないのですが、「答」がないことに「時代」がうろたえている感じは、妙にリアルでしたね。 もっとも、そこが監督の描きたいところだったかどうか、それはわかりません。でもね「答」なんて、いつの時代にも、どの年齢にもないんじゃないですかね。監督 松居大悟脚本 松居大悟撮影 高木風太音楽 森優太主題歌 ウルフルズ振付 パパイヤ鈴木キャスト成田凌(吉尾)若葉竜也(明石)浜野謙太(ソース)藤原季節(大成)目次立樹(ネジ)高良健吾(欽一)飯豊まりえ(弘美)都築拓紀前田敦子岩松了パパイヤ鈴木2021年・96分・G・日本2021・05・17‐no48シネ・リーブル神戸no92
2021.05.19
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トマトスープ「ダンピアのおいしい冒険1・2」(イーストプレス) 5月の「マンガ便」に入っていた「新しい」マンガです。何が新しいといって、この本は「マトグロッソ」という、出版社イースト・プレスが運営するWebメディアに掲載されているマンガの書籍化なのですね。こういうパターンは初体験ですね。 「マトグロッソ」というのは「多種多様なコンテンツが生息する森」という意味で名づけられているようですが、その原義はポルトガル語で「深い森」という意味で、哲学研究者の内田樹によって名付けられたそうです。 イースト・プレスの広告を兼ねたサイトのようですが、「ダンピアのおいしい冒険」はここで、1巻から、すべて読むことができるようです。 マンガは、ウィリアム・ダンピアという、17世紀イギリスの、実在の人物が主人公です。で、ウィキペディアによれば「William Dampier(1651年 - 1715年3月)」は、イングランドの海賊(バッカニア)、船長、作家、博物学観察者。ニューホラント(オーストラリア)、ニューギニアを探検した最初のイングランド人。世界周航を3回成し遂げた最初の人物である。 だそうで、彼の世界の海をめぐる冒険が、「マンガ世界の歴史」ふうに描かれている、結構まじめなマンガです。 このマンガで初めて知りましたが、ダンピア自身に『最新世界周航記』 (平野敬一訳・岩波文庫)という著作があるようで、その内容にかなり忠実に書かれているようです。 下に貼りましたが、要所、要所に、歴史用語や、歴史的事件の解説が、丁寧にのっていて、冗談ではなく、勉強になります。 マンガ家のペンネームは「トマトスープ」さんで、正体不明ですが、絵柄こそ、ちょっと子供向けというか、好き嫌いが分かれそうですが、描かれている内容は結構ハイレベルだと思いました。 まあ、題名にわざわざ「おいしい」と銘打っていて、レシピも詳しく書いているのですが、絵柄のせいですかね、さほどおいしくなさそうなところがちょっと残念ですね。 受験のお手伝いとは言いませんが、「へ―そうだったのか」的な面白さは高校生レベルでしょうね。ぼくが高校の図書館の購入係なら、きっと購入しますね(笑)。 第2巻はこんな表紙です。夢見る少女みたいですが、もちろん、ダンピア男の子ですよ。
2021.05.18
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岸政彦「断片的なものの社会学」(朝日出版社) 岸政彦という社会学者が、ちょっと流行っているらしいことは、なんとなく知っていましたが、読むのは初めてです。 読んだのは「断片的なものの社会学」という、おそらく一番流行っている本です。手に取ってみて、書名にある「断片的」に、まず、引っかかります。 腰巻にも引用されていますが、「イントロダクション」、まあ、「まえがき」ですね、そこで著者自身が書いていますが、「聞き取り調査の現場」では、「唐突で理解できない出来事」が、無数に起きていて、それは「日常生活」にも数えきれないほど転がっているのだけれど、それをどうするのかというところから出来上がった本のようですね。 社会学者としては失格かもしれないが、いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。 要するに、意味不明な「断片」をうっちゃってしまわないで、ちょっとコレクションしてみますね、ということらしいです。 で、一冊読み終わってみて、印象的だった例を挙げてみますね。 あるとき、石垣島の白保で潜っていた。台風の後で、風が強く、波も高く、流れも速かった。海も濁って、見通しも悪かった。 リーフの手前、五メートルほどの水深のところで素潜りしていると、もやのかかったような沖合の深い海の底から、一メートルを超えるような大きな海亀が現れた。 沖縄の海で海亀や鮫に出会うことは珍しくなく、私もそのあと何度も遭遇しているが、そのときは初めてだったので、心臓が高鳴った。海亀はゆっくりと旋回してふたたび沖合の深い方へ戻っていったが、私はそのあとを、無意識のうちについていった。 かなり沖合にまで行ったところで、その海亀がふと、こちらを振り返り、目が合った。私は我に返った。もう少しで二度と戻れないところまで行くところだった。 死にたくなくて、懸命に岸に戻ってみると、最初にいたビーチからはるかかなたまで流されていた。 同じころ、夜中にひとりで散歩するのが好きで、何時間も何時間も、大阪の街を歩いていた。大阪の街中は明るくにぎやかだが、当時住んでいた淀川の川べりあたりは、夜になると静かで、真っ暗だった。 そういうところをよく歩いていたのだが、ある時、真っ暗な路地裏で、前方の方から、ひとりの老人が近寄ってくるのが見えた。 ぽつんぽつんと離れた街灯に照らされながら、少しずつお互いの距離を縮めていった。すぐ目の間に来たときに気付いたのだが、その老人は全裸だった。手に小さな風呂桶を持っていた。 今から考えれば、全裸で銭湯に行くことは、これ以上ないほど合理的なことなのだが、そのときは心臓が止まりそうになった。 あの時は、もう少しで、どこかへ連れていかれて二度と戻れないのではないかと、わりと本気で感じた。(「出ていくことと帰ること」) 人間の「居場所」に関して、沖縄で働くフィリピン人の女性や、奄美大島出身のタクシー運転手からの「聞き取り」の報告が語られている「出ていくことと帰ること」と題されたエッセイ(?)の結びとして、最後にのせられている話です。 引用の中にある二つの話は、社会学者としての聞き取りの報告ではありません。岸政彦自身の経験、まあ、思い出の紹介です。 社会学という学問のフィールド・ワークというのでしょうか、たとえば、「聞き取り」とかいう方法については全く知りませんが、他人から話を聞くという時に、聞いている人が、何を聞き取る「耳」を持っているのかというのは、聞き取りの内容に影響しそうな大切なことで、たとえば、この1冊の本の面白さは、まず、岸政彦という人の「耳」の面白さといっていいと思います。 「耳」から聞こえてくる話に、感応する、こういう記憶を持っている岸政彦という人は信用していいんじゃないでしょうか。 それにしても、海亀との遭遇の話はともかくも、この老人との遭遇は、読者のなかにも「唖然」とした気分と、意味のわからない「不安」が残りそうですね。 マア、似たような話といえなくもないのですが、その場にいたわけでもないのに、思わず笑ってしまった話を、もう一つ紹介します。 あるとき、夕方に、淀川の河川敷を散歩していた。一人のおばちゃんが柴犬を散歩させていた。おばちゃんは、おすわりをした犬の正面に自分もしゃがみ込んで、両手で犬の顔をつかんで、「あかんで!ちゃんと約束したやん!家を出るとき、ちゃんと約束したやん!約束守らなあかんやん!」と、犬に説教していた。 柴犬は、両手で顔をくしゃくしゃに揉まれて、困っていた。(「時計を捨て、犬と約束する」) ね、人が身の回りの物を「擬人化」する話について考えている「時計を捨て、犬と約束する」という章の中で紹介されているのですが、もう、これだけで映画の1シーンになるように思いました。 いかがでしょう、、全体としては、ちょっとくどくどおっしゃっている部分もありますが、驚くべき「断片」の集積、読んで損はないと思いますよ。
2021.05.17
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雲田はるこ「昭和元禄 落語心中(全10巻)」(講談社) テレビのドラマやアニメも見ないし、週刊漫画誌も買わない、当然、世のはやりすたりにも疎い。頼りは愉快な仲間のヤサイクンが届けてくれる月々の「マンガ便」ですが、「5月のマンガ便」に10巻揃いで入っていて、とっつきは悪かったのですが、5巻を超えたあたりから一気に読んだのがこのマンガです。 雲田はるこ「昭和元禄 落語心中」(講談社)「ええー、それってもう古いわよ!何を今頃そんな古い漫画を読んで喜んでんの!?」 マア、そういう声が聞こえてきそうですね、連載が始まったのが2010年で、掲載された『ITAN』(イタン)というマンガ雑誌などはもう休刊しているようですが、2014年の講談社漫画賞とか、2017年の手塚治虫文化賞とか、軒並みかっさらって、2014年には、すでにテレビアニメ化され、そのうえ、2017年には、あの、NHKで実写版のテレビドラマにもなっているんだそうですが、シマクマ君は何にも知りませんでした。「マンガ便」を運んできたヤサイクンによると「第1巻はだるいですが、2020年のベスト3に入るマンガでした。」ということですが、考えてみれば、彼もかなり遅れているのですね。 というわけで、今更、話の筋を追うのもなんですから、マンガの副題になっている「昭和」に絡めて感想をちょっと書いてみたいと思います。 上に貼ったのがその表紙ですが、第1巻~2巻は「与太郎放浪篇」と題されていて、ムショ帰りのチンピラ強次くんが、名人有楽亭八雲のもとに押しかけ入門します。 で、「与太郎」と名付けられ、落語家になるという、いわば、このマンガ全体の「前フリ」ですが、八雲師匠の家に同居している「子夏」ちゃん、世話役の松田さんがまず登場します。 2巻の途中から3巻~5巻と「八雲と助六編」と題して、若かりし日の八雲師匠、芸名は「有楽亭菊比古」といいますが、同門で、子夏ちゃんのお父さんの「助六」、お母さんで芸者だった「みよ吉」の絡みの場です。マア、生きるの死ぬのという世話物風ドラマが展開しています。 3巻の表紙は「有楽亭助六」です。1巻から時間が20年ほどさかのぼった場面です。 4巻の表紙は「みよ吉」です。子夏の母ですが、子夏の父親が「助六」だったのかどうか、そのあたりはどうも「なぞ」だったように思います。気になる方は、マンガで確かめていただきたいと思います。 5巻の表紙は、両親に先立たれた、幼い日の「子夏」とその手を引く若き日の八雲、「有楽亭菊比古」です。この時から「子夏」は八雲の家で養われます。 6巻からは「与太郎再び編」で、表紙は与太郎の高座姿です。ここから、1990年代にはいったような感じですね。 7巻の表紙は、一人目の子供を出産して、与太郎くんと一緒になるころの小夏ちゃんです。お母さんの「みよ吉」さんによく似ています。 8巻の表紙は、右上の老人が松田さんで、おチビさんが小夏ちゃんの長男で「信之助」くん。手前が、落語研究家の「樋口」君で、着物を着ているのが医者で落語家の「萬月」君です。新しい人間関係が始まっています。 9巻の表紙は、夫婦になった与太郎君と小夏ちゃん。真ん中にいるのは信之助君。 これが、第10巻です。第1巻の表紙を飾った有楽亭八雲師匠の20年後の姿です。第1巻から主役としてに登場したのは「与太郎くん」ですが、もう一人の「子夏ちゃん」と二人が似たような年回りで、あの頃、二十歳過ぎです。あの頃というのは、漫才ブーム云々という設定ですから、昭和50年代の後半、西暦でいうと1980年代の半ばを舞台にマンガは始まっていたわけですが、この時、20代の半ばらしい二人は2010年現在には還暦に手が届く年齢ということで、実は、こうやって紹介を書いているシマクマ君と同世代です。このマンガに惹かれた理由がそこにありましたね。 有楽亭八雲と助六、この二人の男の間で揺れ動く芸者みよ吉、それにマネージャーのようなポジションで、すべてを見てきた松田さんというのは、生きていらっしゃれば80代から90代の方ということになります。要するに、シマクマ君にとっても親の世代ということです。このマンガを面白いと配達してくれたヤサイクンは「信之助」や「小雪」の世代です。 「昭和」という物語を世代で語ると、そういう年恰好になるということなのですね。でも、まあ、これだって、昭和20年から後のことですから、大変です。 すべてを見てきた松田さんは第10巻でもご健在で、子夏ちゃんの二人の子供、長男信之介くんは二十歳を過ぎて落語家を目指し、与太郎との間に生まれた長女「小雪」ちゃんも高校生で、めでたい事限りなしの結末でした。「昭和」と「落語」を掛け合わせたお芝居なのですが、主役のお二人が「同世代」ということだからなのでしょうか、芸道噺としては、まあ、ありきたりといえばありきたりですが、メイン・ストリーである人情噺としては、最後までネタをばらさない工夫には感心しましたね。まさに八雲師匠は、彼だけが知る「秘密」と心中したようです。 マア、それにしても、「この顔で落語家の話の登場人物をやらせるの?」といぶかった人物たちのキャラクターというか、絵柄にも、最後は慣れて楽しみました。拍手!
2021.05.16
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「100days100bookcovers no53」(53日目) 鬼海弘雄『ぺるそな』(草思社) 前回YMAMOTOさんのチョイスされた樋口一葉は、懐かしい作家でした。今よりずっと多くの本を読んでいた中学生のころに、現代語に訳された一葉をひととおり読んだからです。けれども、あの当時の自分に、一葉の書いた機微や哀切が分かったはずはなく、今読むと、いろんなものがどっと押し寄せてくるような気がして、改めて読んでみたい気分が高まっています。 余談ですが、24年の人生の大半を貧困に苦しんだ一葉が五千円札の肖像画に選ばれたときは、皮肉な運命を感じて、できればそっとしていて欲しかったような、複雑な気持ちになりました。 さて、次は、地縁でリレーを繋ごうと思います。一葉が内職をしながら小説を書き始めた文京区本郷菊坂、駄菓子屋をしながら『たけくらべ』を書いた台東区下谷竜泉町。どちらにしようかと迷うほど所縁の人が多い土地ですが、今回は、竜泉に近い台東区浅草の浅草寺内のある壁を背景に、1973年から浅草を訪れる人物の定点撮影を続けた写真家・鬼海弘雄さんのこの写真集です。 『ぺるそな』鬼海弘雄(草思社) 書棚にある『ぺるそな』はサイン本で、2006年の3月、鬼海さんの写真展におじゃましたときにその場でサインをしていただいたものです。私はこのとき初めて鬼海弘雄という写真家を知り、同時に、鬼海弘雄さんご本人にお会いして会話をしました。写真を見ることは好きですが、自分は記憶代わりにスマホのカメラを使う程度、写真を語るような知識も感性も武器もありません。ただ、鬼海さんの人物写真は、これまで見たことがないような濃密さと、面妖さ、物語、そしてひそかなさびしさをたたえていて、目が離せなくなってしまったのです。 この写真展に誘ってくれたのは、いつもお世話になっている句会の人々でした。もともと鬼海さんと知り合いだったメンバーがいて、そのおかげで、人見知りな私でも、初対面の写真家と話をするという機会に恵まれたわけです。鬼海さんは、この本に先駆けて出版された同じ趣旨の豪華本『Persona』(草思社)で土門拳賞を受賞していました。 けれどもその数日後、さらに印象深いできごとがありました。句友と行った日は初日だったのか人が多く、ゆっくり写真を見ることができなかったので、改めてひとりで、もういちど写真展を訪ねました。仕事帰りの時間帯だったせいか、ほかには誰もおらず、鬼海さんがひとりで受付に座っておられました。もちろん私の顔を覚えておられるわけはないので、先日、句友と一緒に来た旨を話すと、鬼海さんは笑顔になり、くつろいだ雰囲気で迎えて下さいました。そして、こうおっしゃったのです。「すみません、ちょっと留守番してもらってもいいですか?ぼく、朝から何も食べていないので、コンビニでおにぎりを買ってきます」 このとき、鬼海さんの中にある、あの句会に対する厚い信頼を、全身で感じました。たぶんただそれだけの理由で、親戚でも友だちでもない、まだ二度しか会ったことがない私に留守番を頼まれたのです。私もビックリしましたが、鬼海さんの頼みならきいてしまいます。しばらくしておにぎりとお茶を提げて帰ってきた鬼海さんは、受付に座ると、美味しそうにおにぎりを召し上がりました。無邪気といってもいいような姿に、でも、私は、目の前の写真との齟齬を感じることはありませんでした。奥まで見通しているようなまなざしで人や世界を見る人だから、この行動があるのだろうと思ったのです。 それからも何度か鬼海さんの写真展におじゃまして、ときには句会のメンバーとのお酒の席で鬼海さんの話を聞く機会がありました。その中で印象に残っている言葉が、たまたま『ぺるそな』のあとがきにありましたので、引用します。「浅草にでかけると、境内の近くを三、四時間ほどうろついている。だが、実際にファインダーを覗くのはほんの十分にも満たないだろう。ほとんどの時間は、ただ待つことだ。 だが、カメラは出会いがあれば一瞬にして写し取れる「魔法」なので、待つことができる。そんな無聊な時間は、見慣れたはずのものをただただ繰り返して見続けることの面白さをそっと教えてくれたりする。ふと、日常の時間の襞に潜む驚きやふしぎを見つけたり感じたりすることで、生きることの謎を浮かび上がらせるからだ。」 鬼海さんは、このあとがきの中で「人が他人にもっと思いを馳せていたり、興味を持てば、功利的になる一方の社会の傾きが弛み、少しだけ生きやすくなる」のではないかと書いて、写真家として人を撮ることの意味を探りながら、「もっと人を好きになればいいのだと……。」と結んでいます。 鬼海さんには東京の街を撮った写真集や、放浪の果実として出来上がったインドやトルコの写真集もあります。どの写真集にも『ぺるそな』と同様、鬼海弘雄の写真だとすぐに分かる独特の世界があります。それから、そう、鬼海さんの文章の素晴らしさも忘れてはいけません。以前、Web草思で連載されていたエッセイが『東京夢譚』という写真集にまとめて掲載されています。どの写真集にも少しずつエッセイが掲載されていますが、極端に言うと、「あとがき」だけでも読み物として高いクオリティだと思います。そこには、鬼海さんの発する静かな熱と、正直だけれど開けっぴろげではない含羞と、「日常の時間の襞に潜む驚きやふしぎ」 があります。小さな灯が点るような温かさと、同時にきらりとさびしい光を放つ鬼海さんの文章を、私はときおり開いて読むのです。 最後にお顔を拝見したのはいつだったか。鬼海弘雄さんは今年の10月19日、亡くなりました。 それではKOBAYASIさん、よろしくお願い致します。(K・SODEOKA・2020年11月28日)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.15
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ジェシカ・ブルーダー「ノマド 漂流する高齢労働者たち」(鈴木素子訳・春秋社) 2021年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞をとった「ノマドランド」という映画の原作(?)ノンフィクション「ノマド」(春秋社)を読みました。 現代アメリカで広がり始めている高齢の車上生活者の社会の実情を、なんというか、社会学的なフィールド・ワークを方法としたドキュメンタリーでした。 映画はフランシス・マクドーマンドが演じる、車上生活を余儀なくされたばかりの初心者ファーンを視点人物、主人公として描かれていますが、このドキュメントでジェシカ・ブルーダーが焦点化している人物は、映画にも本人が登場しますがリンダ・メイという女性でした。 ファーンを主人公にすることによって、「ノマドの世界」を「映画」化して見せたクロエ・ジャオという監督は、文句なくすぐれた監督だと思いますが、原作では、映画では描き切れなかったアマゾンやビーツ農場、国立公園の管理といった低賃金で、肉体的にも精神的にも過酷としかいいようのない労働現場の実情や、町ごと廃墟化する「企業城下町現象」の実態、ノマド社会のコミューン化の思想史的過程、車上生活をしている人たちの社会的権利や人生観を、丁寧に、しかし「乾いた」文体で描いたところが本書の「肝」だと思いました。 土地付きの家が欲しいのはどうしてかと訊かれたら、私はこう答えます。独立するため。社会の競争から身を引くため。地場産業を支援するため。輸入品を買わないため。そして、好きでもない人たちを感心させるために、必要でもないものを買うのをやめるためです、と。 今、私は大手オンラインショップの巨大倉庫で働います。扱っている商品は、すべて、どこか外国で―児童労働法もなく、労働者が食事もトイレ休憩も与えられず、一日十四時間~十六時間働かされているような国で―つくられたもの。二万八〇〇〇坪の広大なこの倉庫に詰め込まれた商品は、ひと月ももたないようなものばかり。すぐに埋立ごみになる運命です。この会社にはそんな倉庫が何百もあります。 アメリカ経済は、中国、インド、メキシコなど安価な労働力の第三諸国で働く奴隷の上に成り立っているんです。私たちはそういう人たちと知り合うこともないまま、その人たちの労働の成果を享受しています。 「アメリカ」という私たちの会社の奴隷保有数は、たぶん世界一でしょう。 (リンダ・メイのFB投稿記事) 過激だと思うけど、アマゾンで働いていると、こんなことばかり感ちゃうの。あの倉庫の中には重要なものなんて、何一つない。アマゾンは消費者を抱き込んで、あんなつまらないものを買うためにクレジットカードを使わせている。支払いのために、したくもない仕事を続けさせているのよ。あそこにいると、ほんとに気が滅入るわ。 (リンダ・メイからのメール) これは本書に引用されている、リンダ・メイがフェイス・ブックに投稿したコメントと、その時ブルーダーに送ったメールです。 映画の中で、その「死」が暗示されたリンダ・メイですが、本書に登場するリンダ・メイは、「労働の価値」、すなわち、「働くことの喜び」という、あらゆる「人間」にとっての根源的自由の一つが、いよいよ、奪われていきつつある「後期資本主義社会」の様相を呈し始めた現代社会と、まっすぐに向き合い批判することができる、文字通り「自立的」な女性であることが、この引用で理解していただけるのはないでしょうか。 実在する彼女は、生活のシステム全体の自給自足を目指す「アース・シップ」方式での暮らしを夢みていて、ニューメキシコの砂漠の真ん中の1エーカーの土地に、彼女がたどり着いたところで、本書は終わります。謝辞 三年間にわたる二万四〇〇〇キロの旅で、たくさんの出会いがありました。今この本があるのは、出会った人たちの協力のおかげです。知恵を授け、悪い冗談を教え、キャンプファイヤーやコーヒーをともにしてくれたすべての人に感謝します。 なかでもリンダ・メイにはだれよりも感謝しています。人を信じて自分のことを話すのは、簡単なことではありません。とくに、その相手がメモ帳に何か書きなぐりながら三年もの間周りをうろつき、娘の家の外で車中泊をし、キャンプ場の整備中にゴルフカートの後ろを走ってついてくるような場合は。 リンダのしなやかな強さ、ユーモア、心の広さが私の心を打ったように、読者の心を動かしてくれることを願っています。 最後にジェシカ・ブルーダーのこんな言葉が載せられていますが、リンダ・メイという「勇気ある女性」と出会い、彼女の心を開くことで、現代アメリカの真相をビビッドに描いて見せた、とても優れたドキュメンタリーだと思いました。 車に乗って、廃墟になった町から出て行ったファーンやリンダの姿は、拝金主義に堕した現代社会を生きるあらゆる人間にとって、他人事ではないことを教えてくれる好著でした。 最後に、蛇足ですが、車に乗って暮らし始める人たちの多くが「高齢者」であることに加えて、この本では触れていなかったと思いますが、いわゆる「有色人種」の姿がほとんどないという事実の中には、「アメリカ」、ひいては、「現代社会」の、もう一つの真相が潜んでいるのではないかという予感を感じたことを付け加えておきたいと思います。
2021.05.14
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マウロ・リマ「マイ・バッハ」パルシネマ ブラジル映画、まあ、映画の前に国の名前を入れるとその国の映画になるというのも、わかったようで、本当はよくわからないのですが、ともかくも「ブラジル映画」です。加えて題名が「マイ・バッハ」ですから、なんだこれはと思いながら、まあ、きっと音楽映画やろうなと思って出かけました。 2021年の連休ですが、神戸は「緊急事態」が宣言されていて、空いている映画館はパルシネマ、神戸シネマ、元町映画館の3館だけです。1000㎡という、わかったようなわからないような基準で「営業自粛」の線引きをしたそうですが、去年の5月には根拠不明なバッシングで狙い撃ちされていたパチンコ店の前では、結構たくさんの人がたむろしていて、お昼前ということもあって、立ち食いそば屋さんの店先には並んでいる人もいました。 一方で、時々立ち寄るラーメン屋さんなどは当分休業の張り紙でした。なんか、チグハグですね。 パルシネマは、とても連休のさなかとは思えない客数で、まあ、いつものパルシネマだったわけですが、支配人を始め、頑張っておられたので、ちょっと嬉しい気分になりました。 で、「マイ・バッハ」ですが、「Joao, o Maestro」、が原題で、おそらくブラジルの人は、この題名で「ピン!」とくるのでしょうね。さしずめ、日本なら「マエストロ・征爾」で客が入るような気がするのですが、ブラジルの音楽好きの人は20世紀で「もっとも偉大なバッハ奏者」ジョアン・カルロス・マルティネスというピアニストで指揮者を、その演奏も人柄も知らないということはない、そういう人の伝記映画でした。 内気で孤独な天才ピアノ少年が国民的指揮者としての老年を迎えるまでの、文字通り、波乱万丈な生涯をたどる、ある意味で、ありきたりな映画ですが、圧巻は演奏シーンでした。見ていて息が止まってしまうというか、サスペンスドラマを見ていてドキドキするような、そんな超絶技巧の映像と音楽がこの映画の肝だったと思いました。 まあ、実に勝手な言い草で申し訳ないのですが、演奏のシーンが、どうしても、山場の切り貼りと、さわり集というふうになってしまっていて、それが、ちょっと、残念でしたね。 とはいうものの、映画の後半、指を失い、やがて、手そのものを失ってしまったピアニストの執念の演奏は、やはり感動的で、ただの音楽映画ではない味わいを残してくれましたね。 自宅に帰って、映画で使われていたGoldberg Variations, BWV 988: Ariaの演奏をユーチューブで探しましたが、これがなかなかすばらしい。新しいピアニストの発見でした。こういう、楽しさを残してくれる映画もあるのですね。拍手!監督 マウロ・リマ製作 パウラ・バヘト ホムロ・マリーノ・Jr.脚本 マウロ・リマ撮影 パウロ・バイネルキャストアレクサンドロ・ネロホドリゴ・パンドルフォカコ・シオークレフフェルナンダ・ノーブルアリーン・モラエスダビ・カンポロンゴ2017年・117分・R15+・ブラジル原題「Joao, o Maestro」2021・05・03-no44パルシネマno37
2021.05.13
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佐藤通雅「うたをよむ 宮沢賢治の青春短歌」(朝日新聞・5月9日朝刊) ゴールデンウィーク最後の日曜日の朝、食卓で新聞を読んでいたチッチキ夫人が何かいっています。「ちょっとォー、アルカリ色とかなんとかいう本の宮沢賢治の短歌とか、いうてへんかったァー?ここにも、宮沢賢治の短歌とかいうて、のってるよ。新聞の短歌のとこ。」「だれ?」「佐藤とかいう人。」「あ、その人やで、あの本の編集というか、著者というか、さとうみちまさいう人やろ。」 朝日歌壇というページの真ん中にその記事はありました。 佐藤通雅という人は、先日案内した『アルカリ色のくも』(NHK出版)という本の著者です。1943年のお生まれらしいですから、シマクマ君より10余り年長です。東北は宮城県の高等学校の教員だった人です。歌人ということですが、この方の短歌を読んだ記憶はありません。ただ、学生時代に『宮沢賢治の文学世界 短歌と童話』泰流社(1979)という評論集を読んだ記憶がありました。 「ふーん、賢治の短歌を話題にする人もいるんだ」というふうなことを考えたのでしょうが、内容も買ったはずの本の所在もどこにいったのかわからないのですが、著者の名前だけは憶えていて、「アルカリ色のそら」(NHK出版)という本を図書館でみつけたときに、「ああ、あの人だ」と気づいて、手に取りました。黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなりちばしれるゆみはりの月わが窓にまよなかきたりて口をゆがむる対岸に人、石を積む人、石を積めどさびしき水銀の川 記事に引用されている、この三つの短歌は、つい先日、目にしたばかりですが、「黒板」、「ゆみはりの月」、そして「水銀の川」が流れる世界そのものに「歌」の主体を読み取る紹介を読み直して、「なるほど」と感心することしきりです。 確かに宮沢賢治の世界が、ココにもありますね。今から、もう一度賢治の世界をたどり直す元気はありませんが、こうして教えられると嬉しいですね。どうですか、一度、「賢治の短歌」。新しい発見があるかもしれませんよ。
2021.05.12
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クロエ・ジャオ「ノマドランド」OSシネマズミント 感想を書きあぐねていたら2021年のアカデミー賞を取ってしまって、ますます書きにくくなってしまいました。 主役の女優さんが見たい一心で、普段はあまり行かないOSミントに出かけました。思ったほどの客数ではなくて、ちょっとホッとしましたが、映画は、中国系の女性監督クロエ・ジャオの撮った「ノマドランド」です。 住居の倉庫から、当面必要な荷物と、大事な食器のセット取り出し、自動車に積み込んでファーンが出発します。そこから、ただひたすら、ファーンを演じるフランシス・マクドーマンドという女優の表情を見つめ続けていた映画でした。ぼくは、この人が見たくてやってきたのです。 ちょっとした目の動き、首の傾げ方、話すときの口の動き方から目が離せない映画でした。どうしてそんなふうに見てしまっていたのか自分でもよくわからないのですが、映画の後半、もう終わりに近づいたころだったでしょうか、ファーンがかつて暮らした「家」に帰ってきて、だれも暮らさなくなった部屋を一つ一つ確認するようにのぞき込み、やがて、裏口のドアを開けて外に出ます。今まで生きてきた人生の大半、数十年という年月の間、毎日眺めて暮らした風景が遠くに映し出され、それを眺めるファーンの、いや、俳優フランシス・マクドーマンドの表情に見入りながら、涙が止まらなくなってしまいました。 このシーンに至るまで、ぼくには、ノマドの社会の「本物」のノマドたちと出会い、語り合うマクドーマンドの表情が、たとえば、明日からどこに移動して行くのかを語り、夜明けなのか、夕暮れなのか、薄暮の中で立っているリンダの表情には、とても及ばない「素人」に見えていました。 ドキュメンタリーなタッチで、ドラマを成立させようとしている映画のスリリングな冒険のようなものを感じ続けていたということかもしれません。 しかし、この帰郷のシーンでマクドーマンドの表情が変わりました。このシーンで、彼女はファーンの「我が家」であった建物に入り、荒れ果てた「生活の痕跡」 その一つ一つと再会し、裏庭にでて、遠くの山並みに向かって歩き出すかとみえて、しばらく佇みます。そこにはファーンの人生の風景がありました。 スクリーンには、その時、彼女が見ているものが映し出されていきます。 再び、カメラがマクドーマンドの表情に戻ってきたときに、はっとしました。そこには、臆することのない、ぼくが見たかったマクドーマンドがいました。もちろん、涙の痕跡などありません。彼女だからこその、思慮深く強気の表情がそこにありました。 そのとき、ぼくは俳優フランシス・マクドーマンドが、本物の「ノマド」になった、これは「スゴイ!」と感じていたのでした。 マクドーマンドはその時、「資本主義」という、得体のしれない怪物がファーンから奪っていった、一つ一つを見ながら何をしていたのでしょう。 哲学者の内山節という人が、「戦後思想の旅から」(草思社)という本の中で、こんなことを書いているのを読んだことがあります。 現状の社会の与える自由が、自由の本当の姿であるのかどうかを疑う勇気、そして新しい人間の価値を発見していこうとする意志が、自由を発展させる生命力ではなかったか。ラスキも次のように述べていた。「あらゆる自由を全うする秘訣は依然勇気である。」 ファーンを始め、この映画の登場人物たちは、「現状の社会」からすべてを奪われた人たちだといっていいと思います。しかし、リンダがそうしているに違いないように、たとえすべてを奪われてしまったにしても、生きている限り、「新しい人間の価値を発見しようとする意志」だけは捨てない、自由を希求する人間! であることをやめない人々の姿を映画は撮ろうとしていたと思いました。 その中に紛れ込んで、ここまで揺らぎ続けてきたファーンを演じていたマクドーマンドは、あのとき「過去」を捨てて、「未来」を向く、「帰ってゆくところ」を捨て、「出かけてゆくところ」を見つめる目をして立っていました。 ファーンは内山節の言う「自由」を奪い返さない限り「ノマド」にはなれません。あの意志的な表情で、自由を奪い返す、生き方は自分で決める「勇気」を、さりげなく演じきったマクドーマンドは、やはり、すばらしい俳優でした。彼女の表情を見つめ続けていた甲斐があったというものです。すばらしい!拍手!監督 クロエ・ジャオ原作 ジェシカ・ブルーダー脚本 クロエ・ジャオ撮影 ジョシュア・ジェームズ・リチャーズ編集 クロエ・ジャオ音楽 ルドビコ・エイナウディキャストフランシス・マクドーマンド(ファーン)デビッド・ストラザーン(デイブ)リンダ・メイ(リンダ)スワンキー(スワンキー)ボブ・ウェルズ(ボブ)2020年・108分・G・アメリカ原題「Nomadland」2021・03・26-no31 OSシネマズno10
2021.05.11
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金子都美絵「一字一絵」(太郎次郎社エディタス)後ろから乗りかかるように抱きつき・・・ 漢字一文字に一景の挿絵が描かれています。たとえば第七場のこのページでは、こう書かれていて、篆刻というのでしょうか、隷書以前と思われる字体が判で押してあるようです。 上品なピンク色の挿絵で、男と女が、簾ごしに見る影のように描かれています。 ページを繰れば、こんな字形があります。 漢字は「色」です。 「篆書」(?)の形がシンプルに描かれていて、解説が添えられていますが、文言は白川静の「字統」のもののようです。 隣のページに著者の言葉があります。〈人〉と〈卩〉(せつ)からなる字。ひざまずく人(卩)の後ろに人がいて、乗りかかるように抱いている形の字。 つまり、人が人と交わることをあらわしている。 「字統」には「顔色などという字ではなく、男女のことをいう字。飲食男女は、ひとの大欲の存するところ」とある。 同じように人が後ろから乗りかかる形でも、獣の上に人が乗る形に作られている字は〈犯〉だ。 もちろん、面白がってこのページを紹介したのは、シマクマ君の趣味というか、品性のなせる業なのですが、面白がった理由は「色」から「犯」への連想のながれでした。 ところで、今回、この本にたどりついたのには訳があります。話すと長くなりますから端折りますが、コロナ騒動二年目に突入する春の関心が「論語」、「春秋戦国時代」、「白川静」という、ぼくなりには一連なりの興味が湧いてきて、とりあえず、絵本で確認という感じです。 大人向けの「絵本」というか、金子都美絵さんがフェイスブックに「漢字の物語《一字一絵》」と題して投稿していらっしゃる記事の書籍化のようです。見くらべてみて、ぼくはこっちの方が気に入りましたが、リンクを貼っておきますからどうぞ。 金子都美絵さんは「絵で読む漢字のなりたち」(太郎次郎社エディタス)が10年ほど前に評判になった方ですが、白川静が読み解いた、漢字の、もっとも初期の「字形」の紹介者で、子供向けの「漢字かるた」とかのデザインもなさっているようです。 本書にのっているのは二十八場、二十八文字ですが、のんびりページをめくっていて篆書の象形の形が、だんだんと自分の頭の中にうかび始めてくる経験が、なかなかスリリングです。「常用字解」や「字統」などのような辞書だけ見ていても、こんな感じにはならない気がします。 最後に、二十八文字の「絵」の中で、「うーん、そうか!そうだったのか!?」とうなったのがこの絵です。 この絵を見て「漢字」はわかりますか? 答えは、ご覧のように「究」です。 真ん中の「九」は竜が身を屈めている形だそうです。穴の中で身をかがめる竜は何をしているのでしょうね。 やがて「究める」と使われた漢字です。そこにあるイメージは著者によれば上の絵ですが、どうも、それだけには収まりきらない気もしますね。 時々、こういう場所に戻ってくるのも悪くないですね。いかがでしょう。
2021.05.10
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磯崎憲一郎「鳥獣戯画」(講談社) 磯崎憲一郎という作家は2007年、「肝心の子ども」という作品で文芸賞をとって登場した人で、三井物産かどこかのサラリーマン作家と聞いたことがあります。 「肝心の子ども」をすぐに読んで、なんだかわけがわかりませんでした。そう思いながら、なぜか、「終の棲家」とか「赤の他人の瓜二つ」とか、なんとはなしに読み続けて、さすがに「電車道」という長編(?)を読み終えてダウンしました。 文章が難解でわからないとか、「て、に、を、は」がおかしいとか、そういうことではありません。ただ、ひたすら、作家、ないしは文章の書き手として登場する人物が、なぜ、「こんなこと」を延々と描いているのだろうという、ほとんど「いらだち」に近い「わからなさ」に翻弄されてしまったからです。 で、本作はどうだったのか。これが、異様に面白いのです。作品の題は「鳥獣戯画」、読み終えて、なぜこんな題がつけられ、装丁にも、やたらと有名な絵が使われているのか、実はわかりません。 そうは言いながら、「題」があれば「題」に引きずられて読むのが読者というもので、頭の中で、ちらちらそういうことを考えながら読み始めたわけです。 私は道を急いだ、ある人と待ち合わせをしていたのだ。ある人というのは高校時代からの古い女友だちだったが、二十八年間の会社員生活を終えた、ようやく晴れて自由の身となったその第一日目に会う相手として最も相応しいのはその女友達であるように、私には思えたのだった。「凡庸さは金になる」 ここは都心の一等地に一軒だけ奇跡的に残った昭和の喫茶店だった、白塗りの壁は煤で汚れ、杉材の柱も黒い光沢に覆われている、薄い、しかししっかりとした一枚板を使ったテーブルと椅子は細かな傷だらけで、交互に組み合わされた寄木の床も靴跡と油で黒ずんでいる、古い暖炉には本物の薪が焼べてある、季節は春だったが、まだコートの手放せない気温の低い日が続いていた。「凡庸さは金になる」 というわけで、ココから「物語」が始まるわけですが、で、男は、その「女友達」に会ったのかというと、なぜか、「若い女優」と遭遇し、あろうことか、その女優と「京都で落ち合う約束」までするという所で「凡庸さは金になる」という、意味深な、あるいは意味不明な第1章が終わります。 書き手の作家は、その女優とどうなるのかという興味に引きずられそうですが、いや、もちろん、引きずられますが、ここでは、最初の興味の「題名」に戻りましょう。 「鳥獣戯画」はどうなった、どこにいったのだということですが、第1章から70ページ後、第6章「明恵上人」という章で、ようやく出てきました。こんな書き出しです。 先斗町で湯葉料理を食べた翌朝、私と彼女は京都駅前から栂ノ尾行きのバスに乗った、「鳥獣戯画」で有名な栂尾山高山寺は、もともとは奈良時代の終わりに天皇の勅願によって建てられた寺だが、その後荒れ果てて粗末な草庵が残るばかりになっていたのを。鎌倉時代に、明恵上人が再興した、国宝の石水院は後鳥羽上皇から学問所として贈られた建物で、現在まで高山寺に伝わる経典、絵画、彫刻の類も全て明恵上人の時代に集めあられたものだ。バスが京都駅前を出発してものの五分も経たないうちに、またしても、窓から見える景色が昭和の町並みに変わってしまっていることに私は動揺した、床屋の入り口では赤・白・青三色縞模様のサインポールが回っているし、八百屋は店先のキュウリやトウモロコシを笊に盛った生姜を初夏の日差しから守るため、簾を人の背の高さまで下げている、「谷山無線」というトタン板の大きな看板を下げた電気屋はまだシャッターを上げていない、雨で汚れた漆喰壁に無数のひびが入った釣具店の中では老いた店主が立ち上がって、誰かに向かって怒鳴っているのがガラスの引き戸越しに見える、しかしこんな大都市の真ん中にどうして釣具店が必要なのか?商売として成り立つのか?こういう昔の町並みはもはや東京では決して見ることはできない、それとも本当はまだ見ることができるのに、私がただ単に、見て見ぬ振りをしているだけなのだろうか?大宮松原という停留所から赤ん坊を抱いた若い母親が乗ってきた、座席は空いているのだが寝ている子供を起こしたくないからだろう、吊革に掴まって立ったままでいる、白い半そでのブラウスから覗いた二の腕が細い、まとめ髪の下の襟首も痛々しいほどに細い、若い母親は抱っこ紐の背中側のロックを締めようとするのだが指先が届かない、バスが揺れると身体も揺れてますますうまく行かない。手伝ってやりたい気持ちが、懐かしさと性欲の入り混じった感情とともに私の中に沸き起こったのだが、隣に座る女優に不審に思われることを恐れてぐっと堪えた、穏やかな、楽しげな表情で京都の商店街を見る彼女の横顔は、午前中の銀青色の粉のような光を浴びてますます美しかった、昨晩と違い、しっかりとした化粧が施されていた。「明恵上人」 写し出したら止まらなくなったので、ここまで写しましたが、なんか変だと思いませんか?「句点」がほとんどないのです。「改行」もありません。男はバスに乗っています。隣には女優が座っていて、窓の外や、社内の様子が描かれています。書き手の、おそらく意識を刺激することの連続が、句点なし、改行無しで書き綴られていきます。辛抱して読んでいただいて、そのうえ、質問なのですが、「綴っている」この瞬間、書き手がどこにいるのか、気になりませんか? 第1章の文章が、なんとなく過去を振り返っているのに対して、引用した部分は、今、現在を思わせるのですが、この後、高山寺に到着して始まる明恵、文覚に関する記述は、「明恵上人」「型のようなもの」「護符」「文覚」「妨害」「承久の乱」「入滅」と全部で七章にわたり、明らかな過去であるにもかかわらず、不思議な時制で、延々と、ほぼ100ページにわたって続きます。 で、それが、まず異様に面白いのです。意識の臨場感の赴くままに1000年近くも過去にさかのぼり、やがて、自らの少年時代、高校時代から、会社員時代へと、実に自由に記述は帰ってきます。 その間「鳥獣戯画」はどこにいったのでしょうか。さあ、どこにいってしまったのでしょうね。相撲を取るウサギや、走って逃げるサルたちの面影が兆したような気はするのですが、果たして、この作品とどう結びついているのか、そのあたりはお読みいただくほかありませんね。 句点のない、長々しい文章を自在に操りながら、とどのつまりは、肌寒かった春の日の半年後、再び、あの「昭和の喫茶店」のドアに手をかけるところで小説は終わります。 作品の中で流れる半年の時間の中で記述されていく、あるいは、1000年前に起こった出来事が、あるいは、作家自身が何年も前に経験したはずの出来事が、果たして本当に起こったことなのかどうか、そして、今、再び、作家自身が昭和の喫茶店のドアに手をかけていることは事実なのかどうか、それは何とも言えませんが、作品の中では確かに起こっていて、その1000年とか、何年もの年月とか、そして、半年とかの時間は作品の中に、確かに流れていることは、お読みになれば実感していただけると思います。 いやはや、これは、ちょっと、すごいことだと思うのですが。わからないのは、その実感がどこから来るのかということと、「鳥獣戯画」という題名は、一体何だったのということで、はい、なにがなにやらさっぱりわからない、にもかかわらず、異様に面白いという結論でした。うーん、何がこんなに面白いんでしょうね。やれやれ。
2021.05.09
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佐藤通雅(編・著)「アルカリ色のくも」(NHK出版)屋根に来てそらに息せんうごかざるアルカリ色の雲よかなしも(作品番号73)巨なる人のかばねを見んけはひ谷はまくろく刻まれにけり(74) 定型には当てはまっている、しかし既成の考えからは、なにかがずれている。ズレて今ガラ、不思議な魅力もある。これはどういうことなのだろうか、どのように読んでいったらいいのだろうか。(佐藤通雅) 2016年4月号から2020年3月号「NHK短歌」誌上で「宮沢賢治の短歌」と題されて連載された、現代歌人たちによる「鑑賞」「解説」がまとめられています。 宮沢賢治といえば「詩」なわけですが、賢治が学生時代から読み始めていたらしい短歌が700首を超えて残されているそうで、一首一首、解釈と鑑賞が綴られています。全部というわけではないようですが。で、それが300ページを超えるとなると、まあ、正直、退屈というか、途中を端折ったり、投げ出したりということになるわけです。 それでも、やはり、相手は宮沢賢治で、ギョッとするところに出会って、もう一度引き返してしまうことがあるのは仕方がありません。ああこはこれいづちの河のけしきぞや人と死びととむれながれたり(680)溺れ行く人のいかりは青黒き霧とながれて人を灼くなり(684) ところで、「春と修羅 第二集」の「序」には「北上川が一ぺん氾濫しますると百万疋の鼠が死ぬのでございますが」と書かれており、大洪水が起こるたび、北上川流域の多くの人命が流され、失われた事実を賢治が念頭に置いていたことが分かる。(後略)あるときは青きうでもてむしりあう流れのなかの青き亡者ら(685)青人のひとりははやく死人のただよへるせなをはみつくしたり(686)肩せなか喰みつくされししにびとのよみがへり来ていかりなげきし(687)青じろく流るる川のその岸にうちあげれられし死人のむれ(688) 壮絶なスケッチである。溺れ、流れゆく人々のあまりに理不尽な死。生への激しい執着を抱えて亡くなった方々の凄まじい憎悪の魂が出現させる亡者同士の壮絶なバトルを、賢治は恐れおののきながら見ている。しかし、九首目(688)に冷静な目が一瞬入る。この一種のリアリティを引き寄せる。幻視だが、我に返った賢治が掴んだ現実であり、その有り様に非情が伝わる。(大西久美子) こんな短歌を詠んでいたことがあるという、事実を知るだけでも、賢治の世界の「いろどり」が、少しかわる気がします。 「わからない」宮沢賢治に対する、気がかりにつられて読みましたが、ますます、気がかりの種がふえてしまいました。マア、そういうもんですかね。 ちなみに、引用は前略、中略でいい加減です。他意はありませんが、気になる方は本書にあたっていただきたいと思います。
2021.05.08
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アグニエシュカ・ホランド「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」シネマ神戸 邦題は「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」となっていますが、原題は「Mr. Jones」です。この題が実にしゃれているのです。 この映画は、誰かがガラス戸のこちら側の部屋で、何か書いているシーンから始まります。何となく意味深なのです。その、最初のシーンから、ジャーナリストであるジョーンズの行動に沿って、そのシーンが時々挿入されます。 それぞれの挿入シーンでは書かれている文章が読み上げられて、それが字幕に映るのですが、途中で、「なんか変だな、この文章は、どこかで聞いたことあるような気がするけど」 とは思ったのですが、誰の文章だったのか、なかなか気付けませんでした。 映画も後半に差し掛かり、主人公のガレス・ジョーンズが、資本主義諸国の大恐慌の中、スターリンが社会主義の勝利と大成功を宣伝した、農業国有化の悲惨な失敗というスキャンダルを目撃し、モスクワからイギリスに帰国して、偶然、ブレアという名の人物と出会いますが、その人物のペンネームがジョージ・オーウェルだという会話を聞いて、思わず、ひざを打ちました。(まあ、打ってはいませんが。) 映画は「アニマル・ファーム」(邦題「動物農場」)を書いているジョージ・オーウェルの書斎で進行していたのです。ああ、ぼくは、こういうの好きですねえ。 挿入されていた文章は、それぞれ、あの「アニマル・ファーム」の一節! で、その小説中の一節、一節がスクリーンで展開する、ガレス・ジョーンズが目撃するウクライナの想像を絶した飢餓の真相や、偽りのソビエト・レポートでピューリッツァー賞をうけたニューヨーク・タイムズ・モスクワ支局長ウォルター・デュランティのただれた生活、ジョーンズに「真実」を示唆するニューヨーク・タイムズの女性記者エイダの苦悩に重ねられて、なかなか興味深く進行していたのですが、「そうか、この部屋にいるのはオーウェルだったのか!」 と気づいたことがうれしいぼくは、すっかり落ち着きを失って、あるいは、ワクワクしてしまって、歴史的事件とは別の、映画的なオチを期待したのですが、その件に関しては、さほどのことは起こらいというオチで、ちょっとがっくりの結末でした。 で、しゃれていますよと、書き出しに申し上げた理由は、スターリンとかトロツキーを戯画化したブタ諸君が乗っ取った、あの「動物農場」の農場主のお名前は何だったかということですね。 それがミスター・ジョーンズさんだったことを、皆さん覚えておいででしょうか。この映画の原題「Mr. Jones」というのはガレス・ジョーンズさんのことではなかったわけです。だから、どうせなら、邦題は「ジョーンズさんの農場の怖い話」(笑) くらいにしていただきたかったというお話なのですが、まあ、それでは、果たして、ぼくが見に来たかどうか、なかなか難しいですね。 ところで、「アニマル・ファーム」は1945年に発表された作品ですが、この映画が告発しているスキャンダルは1930年代初頭の出来事で、実在したガレス・ジョーンズさんは1935年に満州でなくなっているらしいのですね。オーウェルの創作と事件との間の時間差は、ちょっと気にかかりましたが、まあ、ぼくには、いろいろ、面白い映画でしたね。やれやれ。 監督 アグニエシュカ・ホランド製作 スタニスワフ・ジェジッチ アンドレア・ハウパ クラウディア・シュミエヤ脚本 アンドレア・ハウパ撮影 トマシュ・ナウミュク美術 グジェゴジュ・ピョントコフスキ編集 ミハウ・チャルネツキ音楽 アントニー・ラザルキービッツキャストジェームズ・ノートン(ガレス・ジョーンズ)バネッサ・カービー(エイダ:ニューヨーク・タイムズモスクワ支局記者)ピーター・サースガード(ウォルター・デュランティ:ニューヨーク・タイムズモスクワ支局長)ジョゼフ・マウル(ジョージ・オーウェル)ケネス・クラナム(ロイド・ジョージ)クシシュトフ・ビチェンスキーケリン・ジョーンズフェネラ・ウールガーミハリナ・オルシャンスカ2019年製・118分・PG12・ポーランド・イギリス・ウクライナ合作原題「Mr. Jones」2021・04・30-no41 シネマ神戸no4追記2024・07・26 古い投稿記事を整理していて、ようやく気付きましたが、この映画の監督アグニエシュカ・ホランドは、1948年生まれ、ポーランド出身の女性で、70年代にアンジェイ・ワイダの映画ユニット「X」に所属していた人だそうです。何だか興味がわいてきましたよ(笑)。
2021.05.07
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徘徊日記 2021年5月1日「もう少し団地の春を!」 4月の末に、もう夏ですよ、というわけで春の花シリーズを終えたつもりでしたが、写真が残っていて、残念なので、もうちょっと続けます。 団地の「ひまわり花壇」ではバラが満開です。 ツツジの道も満開です。こういうふうに、天気の良い日に咲きそろうのって、残念なことに、ほんの一瞬なんですよね。 ベランダでは鉄線がまだ頑張っていました。 もう一枚どうぞ。もう少し咲き続けてくれそうです。 ベランダから、「皐月の風」を写したつもりです。若葉がうつくしくそよいでいます。写真は4月の末ですが(笑)。 こうやって、いかにも風にそよぐというか、揺れるというかの写真を撮りたくてベランダで一人苦心しているのを人が見るとなんというのでしょうね。 まあ、残念ながら、この団地では「鯉のぼり」は見かけませんが、本当に夏が来たようです。それではまたね。
2021.05.06
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アレクシス・ミシャリク「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」パルシネマ 2021年の3月だったでしょうか、ナショナルシアター・ライブで「シラノ」を見ました。その時は気にしなかったのですが、今回、この映画「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」を見て、このお芝居がフランスではだれもが知っている定番というか、まあ、日本でいえば「忠臣蔵」みたいなものであるらしいと実感しました。 映画は、「鼻の男」のお芝居の成立過程を、作者エドモン・ロスタンと大物役者コンスタン・コクランの間で勃発するドタバタ事件をネタに、コメディー・フランセーズの舞台の上で芝居が出来上がっていく場に重ねて、工夫に工夫を凝らして作っているのですが、ぼくには、かえってそれが、こういうのも失礼ですが、どうもクド過ぎる気がしたのです。 まあ、たとえば、我々の社会で「忠臣蔵」という映画や芝居についてはよく知っている人達が、芝居とそれが成立した社会の結びつきを書いた丸谷才一さんの「忠臣蔵とは何か」(講談社文芸文庫)とか、その解説を書いていらっしゃる野口武彦さんの「忠臣蔵―史実の肉声」(ちくま新書)に夢中になることを想像すれば、向こうの人には、こういう映画がウケるのだろうということは何となくわかります。わかるのですが、やっぱり「向こうの人向けなのかなあ?」という気もするわけでした。 もう一つ、向こうの人といえば気になったのは、原作にもいえることですが、「詩的な名文句!」 に女性が口説かれるというところです。 マア、そんな経験をしたことがないといえばそれまでですが、古典的なお芝居というのは、「セリフの妙」ということがあるわけで、特にこのお芝居は「鼻の男」が「セリフ」で女性の心をつかむという、お話なのですから、シラケていてもしようがないのですが、根本的な何かが違っているのでしょうね、どうもピンと来ないのでした。 映画の筋書きとしては、なかなか、ひねりにひねったドタバタぶりや、フランスの劇場の舞台の光景は、それはそれで面白かったのですが、まあ、題名で「Edmond」と見ただけで、映画館に行く人のようには、やはり、見ることはできなかったのだろうなということを感じた映画でした。マア、しようがないですね。監督 アレクシス・ミシャリク製作 アラン・ゴールドマン原案 アレクシス・ミシャリク脚本 アレクシス・ミシャリク撮影 ジョバンニ・フィオール・コルテラッチ美術 フランク・シュワルツ衣装 ティエリー・ドゥレトル編集 アニー・ダンシェ マリー・シルビ音楽 ロマン・トルイエキャストトマ・ソリベレ(エドモン・ロスタン)オリビエ・グルメ(コンスタン・コクラン)マティルド・セニエ(マリア・レゴーマ)トム・レーブ(レオ・ヴォルニー)リュシー・ブジュナー(ジャンヌ)アリス・ド・ランクザン(ロズモンド)イゴール・ゴッテスマン(ジャン・コクラン)クレマンティーヌ・セラリエ(サラ・ベルナール)ドミニク・ピノンシモン・アブカリアン2018年・112分・G・フランス・ベルギー合作原題「Edmond」2021・05・03-no43パルシネマno36
2021.05.05
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イェンス・ヨンソン「ソニア ナチスの女スパイ」シネマ神戸 あまり出会うことのないノルウェー映画でした。シネリーブルで去年(2020年)封切っていた記憶がありますが、見損ねていました。 イェンス・ヨンソン監督の「ソニア ナチスの女スパイ」という映画です。シネマ神戸で「スパイ映画」二本立てのプログラムで見ました。シネマ神戸に来るのは二度目ですが、館内に喫煙コーナーがあるのがうれしいですね。お客も、ぼくを含めて「おっさん」系ですが、バイオレンス、アクション系で、面白そうな映画をやっておられます。 映画の題になっているソニア・ビーゲットという女性は、1940年当時から戦後にかけてノルウェーでは、かなり有名な歌手で女優さんだったらしいのですが、戦後、ナチス協力を暴かれ、非難された方のようです。 この映画は、2005年に公表された彼女の「ナチス協力」の真相を描いた作品で、おそらく、原題である「Spionen」=「スパイ」という題名と、ソニアという登場人物の名前で、ノルウェーの人には「ピン!とくる」話なのでしょうね。 そのあたりが「ピン!とはこない」ぼくでも、ナチスに侵略されたノルウェーと、中立国という政策を、かろうじて、維持し続けたスウェーデンという、国と国の「つばぜり合い」のはざまに生きた女性を、イングリッド・ボルゾ・ベルダルという、まだ若い女優さんが、「歌手・女優」であり、「ジャズピアニストの恋人」であり、「対独パルチザンの父」の娘であるという「三つの顔」と、ノルウェーを侵略していたナチスと中立国スウェーデンの間で働く「二重スパイ」であるという、合計五つの顔!を好演していました。 誰もかれもがスパイであるような不気味な社会を描いた映画の筋書きもさることながら、ノルウェーとスウェーデンという北欧の二つの国の、独特な外交の歴史にも関心を持ち直す映画でした。 映画はナチスの侵略にさらされていた当時のノルウェーを描いていますが、そのノルウェーが第二次世界大戦末期、連合国の一員として対日宣戦布告したことや、現在のEUには加盟していないことなんて、この映画を見て初めて知りました。(ああ、映画で、そんなことを解説しているわけではありませんよ。気になったからウィキを読んだ結果ですよ。) マア、当たり前のことですが、知らないことって、まだまだ、いくらでもあるんですよね。イヤ、ホント。監督 イェンス・ヨンソン脚本 ハーラル・ローセンローブ=エーグ ヤン・トリグベ・レイネランド音楽 ラフ・クーネンキャストイングリッド・ボルゾ・ベルダル(ソニア・ビーゲット)ロルフ・ラスゴード(トルステン・アクレル)アレクサンダー・シェアー(ヨーゼフ・テアボーフェン)ダミアン・シャペル(アンドル・ゲラート)2019年・110分・G・ノルウェー原題「Spionen」2021・04・30-no42 シネマ神戸no3
2021.05.04
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小林まこと「JJM女子柔道部物語10」(EVENING KC 講談社) 2021年、5月の「マンガ便」の目玉はこれでした。小林まこと「女子柔道部物語」(講談社)の第10巻です。2021年1月22日発売です。 ヤサイクンは、どうも、これを「マンガ便」に入れることを忘れていたようです。マア、週刊誌とかの連載漫画の単行本化は、半年周期のようですから、別にこだわりません。読めれば満足なのですから。 「表紙の顔」の少女、神楽えもちゃんの活躍と、おバカな登場人物が好きなのですが、彼女も高2になって、春の全道大会が始まっています。正式には全国高等学校柔道選手権北海道大会です。 彼女は「カムイ南高校」の選手ですが、顧問の花山先生(写真下、中央のへんな髪形の方ですね)の「迷(?)コーチ」もあって大躍進、えもちゃんの61キロ級決勝はカムイ南高校対決!ですね。相手は1年生才木和泉ちゃんです。 なかなか名シーン連発で、勝負の行方は・・・、ええー、ここでおわるのー!? マア、漫画の連載は「週刊誌」上でも、単行本でも変わらないといえば変わらないのですが、決勝戦の最中に、次号へのお楽しみだそうです! カーッ!がっくり! ここまでの展開だと、まさかえもちゃんが負けるということはないとは思うのですが、いや、こういうことはどうなるかわかりませんからねえ。 11号の発売はいつなんでしょうねえ。イヤ、ホント、イライラしますねえ。
2021.05.03
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ベランダだより 2021年4月28日 「ベランダで鉄線咲きました!」 団地の「春の花」の相手をしてウロウロしているうちに、もう、ゴールデン・ウィークです。あっというまに夏ですね。マア、世間では前代未聞の「事件」が起こりそうな予感に満ちた今日この頃ですが、我が家のベランダでは鉄線がノンビリ開花しました。 ちょっとアップしてみます。 そういえば団地の花壇にも咲いていましたよ。 さあ、これも鉄線なのか、クレマチスなのか。ぼくにはよくわかっていませんが、いずれしても。花の形はほよく似ています。 花壇ではこんな花も咲いていましたよ。 そういえば、去年も名前がわからなくて困りましたが、今年は花壇の世話をなさっている方に教えてもらいました。「オダマキ」だそうです。 こちらの花壇では、こういう花も満開です。 カキツバタですね。花札なら5月の花ですが、4月の半ばに、もはや満開です。 ああ、そうそう、ココはバラの花もきれいに咲くんです。今年は満開の時期を逃してしまいましたが、とりあえずこんな感じです。 ついでなので、春の終わりの近所の風景もちょっと載せてみますね。で、つつじの歩道はこんなふうになりました。 お隣の小学校の前もこんな感じです。 今は昔、「本多聞小学校」っていう名前で、ゆかいな仲間たちが通っていたのですが、「多聞の丘小学校」という名前に代わっていました。 今年で廃校になると聞いていたのですが、統合する学校の工事とかで、今年はまだ子供たちの声がしています。 それにしても、新しい名前に、ちょっと引いてしまいました。腹を立てたりしているわけではありませんが「そんな丘、どこにあるねん?」という気分です。 時は移りますね。今年も、もう、夏です。
2021.05.02
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「100days100bookcovers no52」(52日目)樋口一葉『たけくらべ』川上未映子訳(「日本文学全集13」 河出書房新社) DEGUTIさん紹介の『世界はもっと美しくなる』(奈良少年刑務所詩集 詩・受刑者 編・寮美千子)、Simakumaさん紹介の山下洋輔の傑作ジャズ小説『ドバラダ門』(新潮社)と来ました。 山下洋輔の祖父・山下啓次郎氏が担当した「明治の五大監獄」(千葉、長崎、鹿児島、奈良、金沢)の画像を見て、赤煉瓦の西洋風の外観に魅せられるとともに、懸命に西洋化近代化を果たそうとした当時の日本を感じたりもしました。 さて、監獄と言えば、ハンセン病の療養所も監獄だな…と、10年以上前に岡山県瀬戸市邑久町にある長島愛生園に、在日朝鮮人ハンセン病回復者でらい予防法国賠請求訴訟原告となられた金泰九(キムテグ)さんを訪問したことを思い出しました。また、日頃お世話になっている黄光男(ファングァンナム)さんはハンセン病家族訴訟原告団副団長です。世界の医学の流れに大きく後れを取り、この国の非科学的で人権を無視した政策と私たちの無知無関心による誤った偏見は、根拠なくハンセン病患者やその家族を監獄のような収容所(収容所だけでなく、社会も含む)に閉じ込めます。新型コロナウイルス感染者に対する不当な差別や攻撃も同じで、学習能力のないこの国の情けないこと(涙) そんな監獄つながりでハンセン病回復者の文学を最初は考えていたのですが(たまたま19日は金泰九さんの命日、20日は長島愛生園開園から90年でした)、昨日の午後、ふと思い立って姫路文学館の特別展「樋口一葉 その文学と生涯 貧しく、切なく、いじらしく」に行きました。今月23日までなので、3連休は来館者が多いかな、その前の平日に行かなくちゃ、と思ったわけです。樋口一葉は文学史で説明できる程度で、その文学と生涯を十分知っていません。井上ひさしの演劇「頭痛肩こり樋口一葉」は面白そうだな…でも観ていないという、その程度でした。 今回印象的だったのは、なにより女性として日本ではじめて職業作家を志したこと。比較的裕福であったころ、主席という優れた成績にもかかわらず、母の意見で学校高等科の進級をせず退学し、兄や父が亡くなり、実家が破産する中で家督相続人となり、裁縫や洗い張り、果ては荒物・駄菓子の店を開きながら小説家として生計を立てます。24才の若さで肺結核のため亡くなった…。 ああ、明治の時代の転換期の過酷な運命は、さながら監獄のように彼女を苦しめただろうと思ったのです。経済的にもう少しでも余裕があったならば、病で早く亡くなることもなかっただろうに…と。 特別展は見応えがあり、多くの作品、自筆原稿や書簡、日記などもありましたが、ここでは川上未映子訳『たけくらべ』を挙げます。一葉の『たけくらべ』が雑誌に連載されて120年という2015年に、川上未映子が現代語訳を出したことは頭の片隅にあったけれど、その本を実際に手に取ったのは初めて。姫路文学館に並べてある川上本は、川上未映子自身をイメージさせる素敵な装丁で、買いたかったけれど、お金の遣り繰りをしながら生活している私には勇気が出なかったのです。帰りに寄った図書館で、なんと「池澤夏樹個人編集日本文学全集13」に、夏目漱石、森鴎外とともに樋口一葉の『たけくらべ』を川上未映子訳で収録してあったのです! さすが、池澤夏樹!!と、ちくま日本文学全集「樋口一葉」とともに借りました。 『たけくらべ』の中の美登利は心惹かれる真如に想いを伝えられません。雨の降る日の、真如の下駄の鼻緒を切った場面や、美登利が突然不機嫌になる場面、真如が修行のために家を出る場面など、文章だけでなく映像がうかぶほど親しまれている作品ですが、今回は美登利の嘆きの箇所を比較してみます。「厭、大人になるのは厭なこと、どうして、どうして大人になるの。どうしてみんな大人になるの。七ヶ月、十ヶ月、一年、ちがう、もっとまえ、わたしはもっとまえにかえりたい。」(川上訳)「ええ厭や厭や、大人になるのは厭なこと、なぜこのように年をば取る、もう七月八月、一年も以前(もと)へ帰りたいにと老人(としより)じみた考えをして、…」(一葉) 直接話法、間接話法、その他すべてを無視して一葉の文語を口語文にするという方法で、一葉のほとばしる作品をリズミカルな川上小説にしています。(ちなみに松浦理英子も現代語訳をしているんですね!知らなかった。) このたび樋口一葉の『たけくらべ』(ちくま日本文学全集)とその年譜も読み、一葉が援助の交換条件に妾となることを求められて拒否したこと、借金を申し込んで断られたことなども知りました。また川上未映子も歌手や文学上の華やかな経歴が良く知られていますが、今回注目して調べたところ、「高校卒業後は弟を大学に入れるため、昼間は本屋でアルバイト、夜は北新地のクラブでホステスとして働いた。」 というたくましい経歴を知りました。樋口一葉は、社会の底辺を生きる遊女から上級官僚の妻までの女性たちの姿を描きましたが、川上未映子も同様に「地べた」(byブレイディみかこ)からの視点が定まっているということで、一層樋口作品川上訳の値打ちを感じました。 世の中はますます格差も分断も進んでいます。その象徴が感染者数の増加とGo Toなんとかの矛盾です。あまり報じられませんが困窮している弱者は多く、また自殺者に女性が多いなど心痛むばかりです。明治からずいぶん時は経つけれど、「見えない監獄」はあらゆるところに巧妙に生き残っているのでしょう。 明治の樋口一葉、そして現代の川上未映子の作品と生涯に触れる機会を得ることができ、しみじみとしています。ではSODEOKAさん、よろしくお願いします。(N・YMAMOTO・2020・11・21)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.01
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