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「生きる」 谷川俊太郎生きているということ いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ(詩集『うつむく青年』 1971 年刊)
装幀家の 菊地信義
の 「装幀の余白から」(白水社)
というエッセイ集を読んでいると、 谷川俊太郎
の 「生きる」
という詩の最初の 4
行が出て来て、さて、残りはどうだったかと書棚から探し、ページをくっていると、いろいろ思い出した。
この詩は、ぼくが学生の頃にすでに書かれていて、 「うつむく青年」
という詩集に入っていたらしいが、発表された当初には気づかなかった。そのころぼくは詩集 「定義」
の中に収められているような詩に気を取られていた。
一緒に暮らすようになった女性が持っていた、上に写真を乗せた詩集 「谷川俊太郎詩集 続」(思潮社)
は 900
ページ
を超える、分厚さでいえば 5
センチ
もありそうな本だが、この詩、 「生きる」
のページには、学生時代の彼女の字体で、あれこれ書き込みがしてあった。今でも残っている書き込みを見ながら、実習生として子供たちを相手にこの詩を読んでいる彼女の姿を思い浮かべてみる。
我が家の子どもたちが小学校へ通うようになった頃、この詩は教室で声を合わせて読まれていた。詩であれ歌であれ、様々な読み方があることに異論はないが、声を合わせて読み上げられるこの詩のことばに違和感を感じた記憶が浮かんでくる。
今、こんなふうに書き写していると、 「働く」
ということをやめてから、さしたる目的もなく歩いている時の、のどが渇き、日射しが眩しい瞬間が思い浮かんでくる。
一緒に詩のことばの異様なリアリティが沸き上がってくる。記憶 の中に
残っていた子供たちの声の響きが消えている。公園の垂直に静止したブランコに、ふと気を留めながら、のどの渇きに立ちどまる。誰も乗っていないブランコのそばにボンヤリ立っている老人がいる。その老人がぼくなのか、別の誰かなのかわからない。でも、その老人を肯定する響きがたしかに聞こえてくる。
いま遠くで犬が吠えるということ 三十代でこの詩を書いた詩人のすごさにことばを失う。
追記2020・03・03
菊地信義「装幀の余白から」(白水社)
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