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「弟子の条件」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、14章25~35節 さて大ぜいの群衆がイエスといっしょに歩いていました(25節)。この大ぜいの群衆は、心からイエスに従おうとする人だけでなく、ただイエスにあこがれている人やイエスのファン、また好奇心や面白半分でついて来た人など、様々な動機や目的をもって群がっていた人たちの集まりでした。イエスは、彼らのほうに向いて次のように言われました。 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(26、27節)。 イエスは、ご自分についてくる大ぜいの群衆に冷水を頭から浴びせて、彼らをふるいにかけられました。なぜならイエスに従う弟子は、烏合の衆であってはならないからです。 一、弟子の条件(25~27節) イエスが言われた26節と27節の言葉は、主の弟子の条件を教えています。それは、何よりも神を愛し、神を重んじ、神を第一にして生き、そのために受ける苦しみを負うということです。 世の人々は、次のようなものを第一にして生きているのではないでしょうか。1.富や金銭を第一にして生きている。2.名誉や地位を第一にして生きている。3.快楽や楽しみを第一にして生きている。4.仕事や事業を第一にして生きている。5.夢や理想の実現を第一にして生きている。 人はだれでも、何かを最も愛し、最も重んじ、その事を第一にして生きており、そのために受ける苦しみを負っています。まして主の弟子が神とその栄光を第一にして生きるとともに、そのために受ける苦しみを負うことを求められるのは、当然ではないでしょうか。 二、弟子の心構え(28~33節) この箇所には塔を築くという「建築のたとえ」と、ほかの王と戦いを交えるという「戦争のたとえ」が記されています。主の弟子の生涯は、「うちにキリストが形造られる」という霊的な建築であり(ガラテヤ4章19節)、それを破壊しようとする敵の王(悪魔)との霊的な戦争です(エペソ6章12節)。 人はだれでも、建築においては完成の見込みがなければ、戦争においては勝てる見込みがなければ、それを始めないものです(28、31節)。しかしそれを始めるのは、完成の見込みや勝てる見込みがあるからであり、しかもその目指すものが、どんなにすばらしく、価値があるのかということを知り、そのためには、どんな犠牲を払うこともいとわないということが当然の前提になっています。 キリストの弟子は、パウロのように、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思」い、「キリストのためにすべてのものを捨て」る心構えが必要です(ピリピ3章8節)。 三、弟子の任務(34、35節) 塩には、腐敗を防ぐとともに、良い味をつけるという二重の働きがあります。キリスト者は地の塩であり、腐敗(すなわち社会の堕落)を防ぐとともに、良い味をつける(すなわち、人々に良い感化や影響を与える)ものです(マタイ5章13節)。 もし、塩(すなわちキリストの弟子)が、塩け(すなわちキリストの弟子としての条件や心構え)をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか(34節)。社会の堕落を防ぐとともに、人人に良い感化や影響を与えるという二重の任務を果たすことができないで、「土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしま」うのです(35節)。拙著「キリストの生涯の学び」124「弟子の条件」より転載
2010.06.29
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「盛大な宴会」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、14章15~24節 イエスは、婚礼の披露宴のたとえと祝宴を催す場合の心構えを話されました。すると、イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりが、これを聞いて感激し、イエスに「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言いました(15節)。 彼が、このように言ったのは、自分は神の国で食事する人の中に加えられていると思い込んでいたことを表しています。 それでイエスは、盛大な宴会のたとえ話を通して、「あなたは、当然のように自分は神の国で食事する人の中に加えられていると思い込んでいます。しかし、あなたも、あの三人の人のように、主人の用意した食事を断る者の一人となって、神の国にはいれなくなってしまうことがあるのです」と警告されたのです。 一、招待を断った理由 ここには、招待されていたにもかかわらず、主人が用意した食事を断った三人の人の姿が記されています。 1.最初の人は、「畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません」と言って断りました(18節)。買った畑を見に出かけるのは、それを誇るためです(R・C・トレンチ)。彼には、「暮らし向きの自慢」がありました(第一ヨハネ2章16節)。 2.もうひとりは、「五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです」と言って断りました(19節)。買った牛をためしに行くのは商売のためです(R・C・トレンチ)。彼には、「この世の心づかいと富の惑わし」がありました(マタイ13章22節)。 3.別の人は、「結婚したので、行くことができません」と言って断りました(20節)。結婚したので、行くことができないのは、世の楽しみのためです(R・C・トレンチ)。 二、三種類の人たちの姿 この個所において、「ある人(主人)」は神を、「盛大な宴会への招待」は福音への招きを、「しもべ」はキリストを表しています。そして招かれた三種類の人たちは、それぞれ次のような人たちを指しています(R・C・トレンチ)。 1.食事を断った招待されていた人たち 真理を受けるのに最適だと思われたユダヤの祭司長や長老また学者やパリサイ人です。 2.貧しい人や体の不自由な人や目の見えない人や足の悪い人人々から軽蔑されていたユダヤの取税人や遊女また罪人です。 3.街道や垣根のところにいた人たちユダヤ人から軽蔑されていた異邦人です。福音は、ユダヤの祭司長や長老また学者やパリサイ人が拒んだので、ユダヤの取税人や遊女や罪人が受け入れ(7章29、30節)、さらに異邦人にまで伝えられたのです。 三、神の国で食事する人 このたとえ話は、「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです」という言葉で終わっています(24節)。それでは、神の国で食事する人は、だれなのでしょうか。 それは、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って」、うぬぼれている人、また、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任している」人ではありません(黙示録3章17節、ローマ2章19、20節)。 神の国で食事をする人は、「自分がみじめ、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知」って、へりくだり、救い主の必要を深く自覚して神から離れない人、すなわち「心の貧しい者」なのです(黙示録3章17節、マタイ5章3節)。拙著「キリストの生涯の学び」123「盛大な宴会」より転載
2010.06.26
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「宴席での教え」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、14章7~14節 「招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話され」ました(7節)。 「また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話され」ました(12節)。 一、婚礼の披露宴に招かれた人々に対するイエスのたとえ話(7~11節) 当時のユダヤの披露宴では、招かれた人々が少しでも良い席にすわろうとして、上座を選ぶ光景が見られました(7節)。これに対して現在の日本の披露宴では、このような光景を見ることはできないでしょう。 しかし、現在の日本で披露宴の席順を争うようなことがないのは、その前の段階における争いによって、初めから席次が決められているからではないでしょうか。 すなわち現在の日本では、受験戦争をはじめ、様々な競争に勝ち抜いて、社会的な地位(席)を獲得した者は、初めから良い席順が確保されています。 このたとえ話は、世の婚礼の披露宴の座席にすわろうとしている人々の姿を通して、神の国の食事の席にすわる--すなわち神の国にはいる--ためには、どうすればよいのかということを教えています。 この世の披露宴の座席でさえ、自らの身分も地位もわきまえず、尊大にふるまう者は、末席に着かせられ、自らの身分と地位をわきまえて、謙虚にふるまう者は、上席に進められます(8~10節)。 「パリサイ人と取税人のたとえ話」の中の取税人のように、神の前に心が貧しくて、へりくだっている者は、神の国にはいることができます。しかしパリサイ人のように、ほかの人々を見下して、高ぶっている者は、神の国にはいることはできません(18章9~14節)。 二、昼食や夕食のふるまいに客を招く人に対するイエスの教え(12~14節) 当時のイスラエルでは、一般の民衆は、罪人と交際していませんでした。ですから昼食や夕食のふるまいをする人は、「友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼」び(12節)、「貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たち」(13節)を招くことは少なかったのでしょう。 イエスは、自分を招いてくれた人に、祝宴を催す場合は、お返しする前者の人たちを呼ばずに、むしろ、お返しのできない後者の人たちを招くように話されました。イエスはなぜこのようなことを言われたのでしょうか。 イエスは、人が施しや祈りや断食をする時、自分の前でラッパを吹いたり、会堂や通りの四つ角に立って祈ったり、やつれた顔つきをしたりするなら、すでに自分の報いを受け取っており、神からの報いも天上における報いもないことを教えられました(マタイ6章2、5、16節)。 またイエスは、次のように話されました。 「返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。......返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます」(6章34、35節)。 この話は、地上において昼食や夕食のふるまいに客を招いた人が、お返しを受けるかどうかということを通して、私たちに天上における報いがあるかないかということとともに、私たちが罪人と同じことをしている者であるか、それとも神の子どもになっているかということを教えているのです。拙著「キリストの生涯の学び」122「宴席での教え」より転載
2010.06.23
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「水腫をわずらう人」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、14章1~6節 イエスは、「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめてい」ました(1節)。「そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がい」ました(2節)。 四つの福音書には、イエスが安息日に病人をいやされたことが5回も記されています。それを時間的な順序に従って述べるなら、次のような5人の人のいやしです。1.ベテスダの病人(ヨハネ5章1~15節)2.片手の不自由な人(マルコ3章1~6節)3.生まれつきの盲人(ヨハネ9章1~41節)4.腰の曲がった女性(ルカ13章10~17節)5.水腫をわずらう人(ルカ14章1~6節) 「水腫をわずらう人」のいやしは、5回も記されている安息日におけるいやしの中で5番目のものです。 一、変わらないパリサイ人たちの罪深さ 「みんながじっとイエスを見つめていた」のは(1節)、イエスが安息日に水腫をわずらっている人を直すかどうか、うかがっていたことを教えています。 聖書は、片手の不自由な人のことについて、「律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」と同じことを記しています(6章7節)。 イエスが安息日に病人をいやされたことは、過去において4回もありました。これまでにイエスは、安息日に病人をいやすことは、まちがったことではなく、正しいことであると何回も弁明して来られました。 それにもかかわらず、パリサイ人たちは、またまた同じことを繰り返しています。私たちは、このような姿の中に、少しも変わらないパリサイ人たちの罪深さを見るのです。 二、変わらないイエスの愛の深さ イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われました(3節)。これは片手の不自由な人のことで、「安息日にしてよいのは......いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた言葉と意味は同じです(マルコ3章4節)。 イエスは、病人を直された後、彼らに「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか」と言われました(5節)。これは腰の曲がった女性をいやされた時に、「あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか」と言われた言葉と意味は同じです(13章15節)。 イエスは、罪深いパリサイ人たちを見捨てずに、何回も彼らを説得されました。私たちは、このような姿の中に、少しも変わらないイエスの愛の深さを見るのです。 三、変わらないパリサイ人たちのかたくなさ ところが、イエスの最初の質問に対して、「彼らは黙ってい」ました(4節)。次の質問に対しても、「彼らは答えることができ」ませんでした(6節)。片手の不自由な人の時も、「彼らは黙っていた」のです(マルコ3章4節)。 答えは、明白であるにもかかわらず、彼らは、何回も答えることを拒んでいます。私たちは、このような姿の中に、少しも変わらないパリサイ人たちのかたくなさを見るのです。 彼らは、神の「豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじて......かたくなさと悔い改めのない心のゆえに......御怒りを自分のために積み上げているのです」(ローマ2章4、5節)。拙著「キリストの生涯の学び」121「水腫をわずらう人」より転載
2010.06.19
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「エホアハズとヨアシュ」 甲斐慎一郎 列王記第二、一三章 主は、エフーの子孫が四代目までイスラエルの王座に着くと仰せられました(10章30節)。この章には彼の子エホアハズと孫ヨアシュが王として治めたことが記されています。 一、17年間治め、先祖たちとともに眠ったエフーの子エホアハズ(1~9、22~24節) エフーの治世の時、アラムの王ハザエルは、ヨルダン川の東側の地方を打ち破りましたが(10章33節)、エホアハズの治世になると、ヨルダン川の西側のイスラエルの領地まで征服しました(10章32節)。それはエホアハズがヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかったことに対する神の刑罰であり(2、3節)、その結果、「エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されてい」ませんでした(7節)。 エホアハズは、アラムに惨敗したので、激しく動揺し、心から悔い改めて、主に叫び求めました(4節)。すると「主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて」(23節)、祈りを聞き入れ、「イスラエル人にひとりの救い手を与えられ」ました(5節)。その救い手とは、第一にヨアシュであり(25節)、最終的にはヨアシュの子ヤロブアムであることは言うまでもありません(14章25~27節)。 こうしてイスラエル人は、以前のように平穏な毎日を送りましたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺のようにヤロブアム家の罪から離れなかったのです(5、6節)。 二、16年間治め、先祖たちとともに眠ったエホアハズの子ヨアシュ(10~13、25節) ヨアシュが代わって王となりましたが、彼もヤロブアムの罪から離れず、彼の子孫の王たちに同じ罪を犯させるという不名誉な役目を果たしたのです(11節、14章24節、15章9節)。 三、アラムに対する三回の勝利をヨアシュに預言して死んだエリシャ(14~21節) ヨアシュは死の病をわずらっていたエリシャを見舞いに行きました。その時、彼が叫んだ言葉は(14節)、エリヤが昇天した時のエリシャの言葉と全く同じです(2章12節)。 しかしこれを口にした時のエリシャとヨアシュの精神は、決して同じではありません。ヨアシュの言葉は、エリシャを尊敬していることがよく表れていますが、同時に不信仰が見え隠れしています。なぜならエリシャが去って彼らの間にいなくなってしまうなら、イスラエルに対する助けと力はともに失われるという感情がはいっているからです。 案の定、ヨアシュは、エリシャに命じられて矢を射る時、三回打ちましたが、それでやめてしまい(18節)、神の人にその不信仰を厳しく叱責されているのです(19節)。 「多くの罪に汚され、真の神、主への礼拝に不忠実な王朝に対する主のしもべの関係、特にエリシャの関係は、どのように説明したならばよいのでしょうか。......第一に預言者たちは、常に神の命令の実行者にほかならず、事件や個人に対して独立した個人的な関係によってこれに臨んだことは一度もないということです。第二に神の命令は、刑罰に関するものも救いに関するものも、ただ行為および事件に適用するものであり、その人またはその生命に通用するものではなく、預言者の務めも同じです。第三に預言者の最終的な目的は、一面は主の秩序正しい統治を弁護することで、もう一面はイスラエルの霊的な衰退とともに国民的な衰退をも阻止することにありました」(A・イーダーシャイム)。 「エリシャは死んで葬られ」ました(20節)。しかし聖書は、後日談としてエリシャの骨に触れた人が生き返った出来事を記しています(21節)。この後日談は、新約聖書の光に照らして読むなら、十字架につけられたキリストに触れる者は新しく生まれることができることを教えているのではないでしょうか。 「エリシャは、ヨアシュの治世に死んだのであり(14節)、その務めは四王朝以上にわたり、五十五年から五十七年間、継続したのです」(A・イーダーシャイム)。拙著「ソロモンと王たちの生涯」33「エホアハズとヨアシュ」より転載
2010.06.15
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「エリヤの昇天とエリシャ」 甲斐慎一郎 列王記第二、2章 アハズヤの死後、「アハブの子ヨラムがサマリヤでイスラエルの王となり」ました(3章1節)。このヨラムの治世の初めにエリヤが昇天し、エリシャが後継者になりました。 一、エリヤから離れず、ギルガルからヨルダンまでついて行ったエリシャ(1~8節) エリヤは世を去る時が近づいたことを知ると、エリシャを連れ、ベテルとエリコとヨルダンへ行こうとする時、彼に「ここにとどまっていなさい」と言いました(2、4、6節) どうしてエリヤは、エリシャに自分から離れることを求めたのでしょうか。これをよく似ている聖書の事例から推測するなら(ルツ1章8、11、12節、ルカ9章57~62節、ヨハネ21章15~17節)、その忠誠を試みるための手段であると言うことができます。 エリシャは、3回とも「私は決してあなたから離れません」と答え、決意をかためていることを表し、預言者のともがらにも決意のかたいことを示しました(2~6節)。こうして彼は、神と人の前において公にエリヤに代わる預言者とされたのです(7、8節)。 二、天へ上って行ったエリヤと、彼の霊を受けて後継者となったエリシャ(9~14節) エリシャは、世を去ろうとするエリヤに預言者として必要なものを求めるように言われた時、エリヤの霊の二つの分け前を要求しました(9節)。聖書の律法は、長子の権利について「二倍の分け前を彼に与えなければならない」と命じています(申命21章17節)。ですからエリシャがエリヤの霊の二つの分け前を求めたのは、相続の権利を求めたことにほかならず、これに対するエリヤの答えもこれと一致しています(10節)。 エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行きました(11節)。「エリシャは、去って行った師を尊敬し、彼から離れたことを憂いて、『わが父。わが父』と呼び、またエリヤが去っても神は常におられるとの信仰の教訓を認めて、『イスラエルの戦車と騎兵たち』と叫びました。......別離と悲哀は、私たちの神である主が生きておられることを私たちに忘れさせるものではなく、かえってこれを思い出させるものです」(A・イーダーシャイム)。 エリシャは、エリヤの外套を取って水を打つ時、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか」と言いました(14節)。これは決して疑惑やためらいから生じたことばではありません。神からの任命とこれに含まれているすべてのことを確信して発したことばです。エリシャは、エリヤと同じ奇蹟を行ったので(8、14節)、預言者のともがらは、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」ことを知ったのです(15節)。 三、預言者のともがらと一般の民に主の預言者として公認されたエリシャ(15~25節) その後、エリシャに三つの出来事が起こりました。第一は、エリコの預言者のともがらがエリヤを捜してもエリシャが忠告したとおりに徒労に終わったこと(15~18節)、第二は、主がエリシャを用いて悪い水を良い水に変えられたこと(19~22節)、第三は、エリシャをからかった42人の子どもが二頭の雌熊にかき裂かれたことです(23、24節)。 二頭の雌熊にかき裂かれた42人の「子ども」(24節)は、原語ではレハブアムに仕えていた「若者たち」(第一列王12章8節)と同じことばで、「若者」と訳すこともできます。「この嘲笑は、死んだ預言者と生きている預言者の両方をあざけるだけでなく、主の大能の力をもあざけることでした。ですからこれは実に神に対する公然たる挑戦であり、全くゆえのない挑戦になるので、決して赦されないのです」(A・イーダーシャイム)。 第一は預言者のともがらに主の預言者として公認され(15~18節)、第二は恵みのゆえに(19~22節)、第三はさばきのゆえに(19~22節)、それぞれ民に主の預言者として公認されました。「こうしてエリシャは、すでに権威を確立したので、その後、直ちにイスラエルの諸事において神の名代としての地位に就いたのです」(A・イーダーシャイム)。 拙著「ソロモンと王たちの生涯」24「エリヤの昇天とエリシャ」より転載
2010.06.12
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「人間関係の教え(3) 赦しについて」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章21~35節 ペテロは「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか」と言いました(21節)。イエスは、「七度を七十倍するまで」と言われました(22節)。また、譴責と赦しの関係について、次のように教えられました。 「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章3、4節)。 譴責して悔い改めれば、赦すのは当然です。しかし、イエスが言われた「七度を七十倍するまで」、すなわち、どこまでも赦しなさいという言葉は、たとえ相手の人が悔い改めなくても、赦さなければならないことを私たちに教えています。 一、神に対する罪(23~26節) このたとえ話の中の「王」は神を、「しもべ」は罪人を、「借金」は罪を、「借金の免除」は罪の赦しを表しています。 イエスは、このたとえ話を通して、罪は単に人に対するものではなく、神に対するものであることを教えられました。あの姦淫と殺人という大罪を犯したダビデが、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」と告白している通りです(詩篇51篇4節)。しかもすべての人は、神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者なのです。 二、神から与えられる赦し(27節) このように罪は、人に対して犯したものであっても、それは人を通して神に対して犯したものです。そして聖書は「神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」と教えています(ルカ5章21節)。ですから私たちは、神が私たちの罪を赦してくださらなければ、人に謝罪して罪を赦していただいても、それでは本当に罪が赦されたことにはなりません。 三、人に対する罪(28~34節) このたとえ話は、神に対する罪を一万タラントの借金に、人に対する罪を百デナリの借金にたとえており、その比率は、実に六十万対一です。 このように聖書は、人に対する罪が、どんなに大きくても、神に対する罪は、それとは比較にならないほど大きなものであることを私たちにはっきりと教えています。 四、人に対する赦し(35節) なぜ私たちは、人の罪をどこまでも赦さなければならないのでしょうか。私たちが、人の罪を赦すとか赦さないとか言っている間は、自分が罪を赦す権利を持っているかのように錯覚しているにすぎません。神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者である私たちは、「赦しについて何の権利もないのです」(R・C・トレンチ)。言い換えれば、人の罪を赦すとは、人を罪に定める権利を放棄すること、いや人を罪に定める権利を持つのは神のみであり、私たちは、初めから人を罪に定める権利など持っていないことを認めることです。 ですから、私たちが人の罪を譴責するのは、罪を赦さないからではなく、その人を悔い改めに導くことによって、その人の罪が赦されることを願うからなのです。 人間関係の教えをまとめてみましょう。 ◇謙遜は、まず自分がつまずかず、また人をつまずかせないようにするものです。 ◇譴責は、まず自分が悔い改め、また人が悔い改めに導かれるようにするものです。 ◇赦しは、まず自分の罪が赦され、また人の罪を心から赦すものです。 この3つは、二人とも神と正しい関係を持つために最善を尽くす信仰の営みです。そして二人とも神と正しい関係を持つ時、互いの人間関係も正しくなるのです。拙著「キリストの生涯の学び」94「人間関係の教え(3)」より転載
2010.06.09
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「人間関係の教え(2) 譴責について 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章15~20節 イエスは、謙遜について話された後、譴責について語られました。イエスは、山上の説教において謙遜と譴責の関係について、次のように教えられました。 「なぜあなたは、兄弟の目の中のちり(小さな罪)に目をつけるが、自分の目の中の梁(大きな罪)には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7章3~5節)。 このように私たちは、まず自分自身が悔い改め、謙虚になって罪を犯さない人になる時、ほかの人を悔い改めに導くことができます。 一、譴責の方法(15~17節) イエスは、罪を犯した兄弟に対して次のような三段階の譴責の方法を教えられました。 1.「行って、ふたりだけのところで責めなさい」(15節)。--相手の人の言い分も聞かずに、いきなり公衆の面前で譴責してはならず、まず個人対個人で、しかも内密にしなければなりません。 2.「もし、聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい」(16節)。--ふたりだけでは感情論や水かけ論になって、らちがあかない時は、信頼のおける第三者が証人として加わり、すべての事実を確認しなければなりません。 3.「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい」(17節前半)。--これは教会が裁定を下すことであり、この段階では公にされます。 「この三重の規則を厳密に守る者はすべて、ほかの者をつまずかすことは少なく、自身がつまずくことは全くないであろう」(ジョン・ウェスレー、ウェスレー著作集、新約聖書註解、上、85頁、新教出版社)。罪を犯した兄弟への譴責は、人をつまずかせないためにも必要なのです。 二、教会の対処(17、18節) イエスは、「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と言われました(17節後半)。 これは、教会はその人を除名処分にし、キリスト者になる前の罪人に戻った者として扱わなければならないことを教えています。その人は、世の人々と同じ救われなければならない罪人なのです。 病院は、病人が健康な人になるところです。ですから、ほかのところよりも衛生的で、病気が感染しないようにしなければなりません。そのように教会は、罪人が聖徒になるところです。ですから世の中よりも聖く、罪が伝染しないようにしなければなりません。 そのために、このような譴責の方法と教会の対処が必要なのであり、神は、これらのことが、とどこおりなく行われるように、教会に権威を授けられたのです(18節)。 三、祷告の必要(19、20節) イエスは、罪を犯した兄弟に対する教会の対処について話された後、祈りについて語られました。それは、譴責の方法や対処の仕方は、形としては世の会社や団体において似たようなことが行われていたとしても、教会は世の会社や団体と異なり、聖なる神の臨在される場所ですから、その精神は全く違っていることを教えるためです。 教会は、罪を犯した兄弟(姉妹)が神に立ち返るために、心を一つにして、神が「彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださる」ように祈らなければなりません(第二テモテ2章25節)。そして神は、そのような祈りに答えてくださるのです(19節)。拙著「キリストの生涯の学び」93「人間関係の教え(2)」より転載
2010.06.05
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「人間関係の教え(1) 謙遜について」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1~14節 マタイの福音書の5章から7章までの山上の説教が「神との正しい関係」について教えているのに対して、この18章は「人との正しい関係」について教えています。この章には次のような3つのことが記されています。◇人間関係の教え(1)--謙遜について◇人間関係の教え(2)--譴責について◇人間関係の教え(3)--赦しについて この3つのものは順序が大切です。正しい人間関係の基礎は謙遜であり、これがなければ正しい人間関係を持つことはできません。この謙虚さがある時、譴責、すなわち悔い改めの勧告ができます。そして最後に、私たちは、相手の人が悔い改めれば当然ですが、悔い改めなくても赦さなければなりません。 ここには、何のために、またなぜ謙虚さが必要なのかということが記されています。 一、天の御国にはいるため(1~5節) イエスは、「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」と言われました(3節)。「子どものように」なるとは、「自分を低くする」こと、すなわち謙遜です(4節)。しかし、謙遜には、次のような3段階があります。 1.身を低くする謙遜--これは「出る杭は打たれる」ので、「能ある鷹は爪をかくす」という謙虚な行動をとることです。 2.心の謙遜--これは、神の前に無一物であり、何の良いものも持っていないことを意識することです(黙示録3章17節)。 3.霊の謙遜--これは、神の前に返済不可能な罪という借金を背負った債務者であることを認めて(24、25節)、救い主の必要を意識することです。 この第三番目の人こそ、「心(原語は霊)の貧しい者」であり、「天の御国はその人のもの」です(5章3節)。 二、人をつまずかせないため(6~10節) イエスは、人をつまずかせることが、どんなに恐ろしいことであるかを語られましたが(6、7節)、それとともに自分自身が、どんな代価を払ってもつまずかないように教えられました(8、9節)。「つまずく」という言葉には、次のような意味があります。◇つまずき--罪に誘惑するもの。◇つまずく--(自分が)罪を犯す。◇つまずかせる--(人に)罪を犯させる。 イエスは「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」と言われました(10節)。謙虚でなく、また自分が罪を犯す(つまずく)人こそ、人に罪を犯させる(つまずかせる)のです。 ですから私たちは、人をつまずかせないためにも、まず自分自身が悔い改め、謙虚になって罪から救われ、どんな代価を払っても罪を犯さない人にならなければなりません。 三、神のみこころであるから(12~14節) イエスは、「迷い出た一匹の羊」のたとえを通して、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます......父のみこころではありません」と教えられました(14節)。 ペテロは、その手紙において、「主は......ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と述べています(第二ペテロ3章9節)。 神のみこころは、私たちが謙虚になって罪を犯さず、また人に罪を犯させないことです。ですから私たちは、「人との正しい関係」を持つために、まず「神との正しい関係」を持つことが必要なのです。拙著「キリストの生涯の学び」92「人間関係の教え(1)」より転載
2010.06.01
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