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「ヨセフの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、45章1~8節 「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求め、答えられた信仰の人として、ヨセフの生涯から学んでみましょう。彼には、三回の信仰の転機がありました。 一、神によって育てられたヨセフの信仰 ヨセフは、だれよりも父に愛されましたが、17歳まで、その身に思いもよらないことが次々と起こりました(創世記30~36章)。 1.ヨセフは、ヤコブの最愛の妻ラケルの長男として生まれ、両親にこよなく愛され、すくすくと育ちました。 2.六歳の頃、家族とともに夜逃げも同然に帰郷し、ラバンの襲撃を恐れましたが、危機一髪のところで救われました。 3.ヤコブの家族は、カナン人とペリジ人の襲撃を受けて根絶やしにされそうになりましたが、神は彼らを守ってくださいました。 4.ヨセフは、エフラテへ行く途上において母の死に直面しました。 5.彼は、一夫多妻の複雑な家庭の中で兄たちの悪い姿を見て育ちました。 6.彼は、父ヤコブとその家族の身に及んだ様々な出来事を通して神を知り、その神への信仰が心に芽生えていったのでしょう。 これがヨセフの信仰の第一の転機です。 二、神によって試みられたヨセフの信仰 ヨセフは、神を愛し、罪を憎む青年でしたが、十七歳の時、その身にまたもや思いもよらないことが次々と起こりました。 1.ヨセフは、父に特別に愛されていたので、兄たちに憎まれました(37章4節)。 2.彼は、夢の話をしたので、兄たちにねたまれました(37章11節)。 3.彼は、兄たちのたくらみによって殺されそうになりました(37章18節)。 4.彼は、ルベンやユダのことばによっていのちだけは助かりましたが、エジプトに奴隷として売られました(37章28節)。 5.彼は、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられました(39章20節)。 6.彼は献酌官長の忘恩によって2年間も忘れられました(40章23節)。 聖書は、この時のことを「ヨセフは鉄のかせの中に入った。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」と記しています(詩篇105篇18、19節)。 ヨセフは、エジプトに奴隷として売られましたが、「主がヨセフとともにおられ......主が彼のすることすべてを成功させてくださ」いました(創世記39章2、3節)。 これがヨセフの信仰の第二の転機です。この信仰によって「鉄のかせの中」から救い出されました。神は、ヨセフの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 三、神によって祝福されたヨセフの信仰 エジプトに奴隷として売られてから13年後に、その身にまたもや思いもよらないことが次々と起こりました(41~50章)。 1.ヨセフは、献酌官の進言によって夢の説き明かしを求めるパロの前に出ました。 2.彼は、パロの夢を説き明かし、それに対する有効な政策を打ち出しました。 3.彼は、エジプトの宰相になり、パロの前に示した政策を実行に移しました。 4.彼は、穀物を買いに来た兄たちを試し、彼らを悔い改めさせました。 5.彼は、兄弟たちに名前を明かし、父と全家族をエジプトに呼び寄せました。 6.彼は、エジプトにおいてイスラエルとその子孫を大いなる国民にしました。 ヨセフは、パロの前に出て、パロの夢を説き明かし、兄たちが穀物を買いに来て、自分を伏し拝んだのを見た時、神の遠大なご計画を知り、その後、「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」と兄たちに言いました(5節)。 これがヨセフの信仰の第三の転機です。神は、ヨセフの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2010.07.30
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「ヤコブの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、35章1~8節 聖書には、しばしば「ヤコブの神」ということばが記されており(詩篇46篇7、11節)、また神は、御自身のことを少しも恥じることなく、「わたしは......ヤコブの神である」と仰せられました(出エジプト3章6節)。 ヤコブは、その名前の通りに「押しのける者」であり、見かけは優しそうでも心のねじけた陰険な人、また貪欲で疑い深い人間、狡猾で人を欺く策略家、卑劣な陰謀家でした。 このような邪悪なヤコブと愛と正義に満ちた神の組み合わせは、なんと不釣合いなことでしょうか。しかしこれは私たちに人を変える驚くべき神の恵みを教えているのです。 ヤコブの生涯にも、三回の信仰の転機がありました。 一、ベテルでのヤコブの信仰(28章) ヤコブの押しのける悪い性質は、まず人を欺くことから始まりました。ヤコブは兄エサウと父イサクをだましましたが、このことによって家にいることができなくなり、ひとり旅に出ました。その孤独な旅の中で、今さらのように自分の行ってきたことの間違いと罪の恐ろしさを知ったことでしょう。このような時、神は、ベテルにおいてヤコブに現れ、「地上のすべての民族は......あなたの子孫によって祝福される」と語ってくださったのです(28章14節)。 ベテル--自分の罪のためであれ、苦難のためであれ、労せずして与えられていた良い環境や恵まれた境遇が取り去られ、孤独にされて、自分の行ってきたことの過ちを教えられ、人を欺いていた罪を示されて、神のお取り扱いを受け、神に祝福されるところです。 神は、ヤコブの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 二、ペヌエルでのヤコブの信仰(32章) ヤコブの押しのける悪い性質は、次に自分を欺くことに表れました。ヤコブは、伯父ラバンの所で働いていましたが、このラバンは、ヤコブに輪をかけたような悪賢い人でした。そのために、さすがのヤコブもラバンには何回もだまされています(31章7、41節)。しかしヤコブも決して負けてはいませんでした。知恵と力を尽くして多くの妻子と家畜を手に入れて、ラバンのもとを去り、故郷に向かいました。けれども知恵と力を尽くして得た多くの妻子と財産をもってしても、一人の兄エサウの前に立つことができず、恐れ戦いている自分を発見しました。このような時、神は、ペヌエルにおいてヤコブに現れ、神の祝福を受けたのです(32章29節)。 ペヌエル--知恵と力を尽くして得た多くのものに囲まれても、孤独であり、自分自身の過ちと無力さをいやというほど教えられ、自分を欺いていた罪を示されて、神のお取り扱いを受け、神に祝福されるところです。 神は、ヤコブの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 三、エル・ベテルでのヤコブの信仰(35章) ヤコブの押しのける悪い性質は、神を押しのけ、神を欺くことでした。ヤコブは兄エサウと無事に再会することができたので、すっかり安心して神との初めの約束を反故にしてしまいました(28章20~22節)。その結果、実に恐ろしい事件が起きたのです(34章)。このような時、神はヤコブに現れ、ベテルに行くように命じられました。彼は、すべての偶像を捨てて身を聖別し、真剣に神に立ち返りました。「神は再び彼に現れ、彼を祝福され」、その名をヤコブ(押しのける者)と呼ばず、イスラエル(神は戦士)でなければならないと仰せられました(35章9、10節)。 エル・ベテル--すべてのものを捨てて孤独になり、神の前に間違っている姿を教えられ、神を欺いていた罪を示されて、神のお取り扱いを受け、神に祝福されるところです。 神は、ヤコブの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2010.07.27
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「イサクの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、26章17~22節 イサクは、あまりにも良い環境のために温室育ちの青年で弱さがあり、父アブラハムが厳しい環境という嵐の中で鍛えられたために持っていた強さに欠けていました。 しかし、このような弱いイサクでしたが、「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求めるために、その生涯において、何回も思いもよらないことが起こっています。 イサクの生涯にも、三回の信仰の転機がありました。 一、神によって育てられたイサクの信仰 イサクは、神の目に尊いアブラハムに約束された約束の子である(21章1節)とともに、両親の目にも尊い掛け替えのない最愛のひとり子でした(22章2節)。彼は、境遇の上で物質的にも霊的にも恵まれた家庭の中で育った人です。これは、「人知をはるかに越えた」神の愛によるものです。このようなすべての点で恵まれた環境の中で、イサクの信仰は芽生えていきました。 ところが、このイサクに思いもよらないことが起こりました。父アブラハムが神の言葉に従って、自分を全焼のいけにえとして神にささげようとしたのです。それは、父によって殺されることを意味しています。これは全く理解に苦しむことでした。しかしイサクは、理解することができなくても、神を信じ、父アブラハムに身を任せました。イサクをささげた出来事(22章)において、私たちはアブラハムの信仰と献身を賞賛しますが、イサクの従順と献身も、アブラハムに優るとも劣らないものであったことを見逃してはなりません。イサクは、信仰と敬虔に満ちた恵まれた環境の中で、その信仰が育てられました。 神は、イサクの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 二、神によって試みられたイサクの信仰 イサクは、全焼のいけにえとしてささげられるという試練を乗り越えましたが、さらに思いもよらないことが起こりました。 1.家庭の問題(24~25章) イサクは晩婚であり、また妻は不妊の女性でした。さらに腹の中でぶつかり合うような仲の悪いふたごが生まれたのです。 2.ききんの問題(26章1節) アブラハムだけでなくイサクも同じようにききんにあっています。このききんは、霊的には様々なものの欠乏による試みであると言うことができます。 3.外敵の襲撃の問題(26章14~21節) これはイサクが成功したことをねたんだ人たちによるものです。私たちは、成功することによって、また別な試みがあることを知らなければなりません。 しかしイサクは、祈りによって子どもが与えられ、ききんの年にも百倍の収穫を得、また成功しても高ぶらず、人と争わないで、これらの試みを乗り越えて、温室育ちの信仰から不動の信仰へと成長していきました。 神は、イサクの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 三、神によって祝福されたイサクの信仰 イサクが始めは良い環境の中で、次に困難な環境の中で、その信仰が成長していったのは、ただ神の祝福によるものです。イサクは、「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった」と、感謝しています(22節)。26章には、「主に祝福される」ということが五回も記されています(3、4、12、24、29節)。 この神の祝福は、主がイサクに現れた時に与えられたものですが、この主の顕現は、第一回目は、ききんの最中に(2~5節)、第二回目は、外敵の襲撃の後であった(24節)ことは、誠に興味深いものです。「人の窮地は神の機会である」ことを教えているからです。 神は、イサクの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2010.07.23
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「アブラハムの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、12章1~9節 「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求め、その祈りが答えられた信仰の人としてアブラハムの生涯から学んでみましょう。彼には、三回の信仰の転機がありました。 一、神の言葉を聞いて、相続財産として受け取るべき地に出て行ったアブラハム(創世記12章1~4節、ヘブル11章8節) アブラハムは、偶像の町であるカルデヤのウルに住んでいた「さすらいのアラム人で」(申命記26章5節)、「この世にあって望みもなく、神もない人」でした(エペソ2章12節)。ところが、このアブラハムに思いもよらないことが起こりました。「栄光の神が彼に現れて」、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け」、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と仰せられたのです(使徒7章2、3節、創世記12章2節)。 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11章8節)。これがアブラハムの「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、すべての民族の祝福の基となる第一の信仰の転機です。 二、神の言葉を聞いて、無から有を生むことがおできになる神を信じたアブラハム(創世記15章5~7節、ローマ4章17節) アブラハムは、神の召命を受け、生まれ故郷を出て、長い間、カナンの地に住んでいました。その間、家畜と銀と金とに富み、多くのしもべたちを所有するようになりましたが、まだ子どもがなく、足の踏み場となるだけの地も与えられず、すべての民族の祝福の基となっていませんでした(創世記15章2節)。 神はアブラハムを外に連れ出し、彼に無数の天の星を見せて「あなたの子孫はこのようになる」と仰せられました。まだ子どもも与えられていない時に、神は、人知をはるかに越えたことを彼に約束してくださいました。「彼は主を信じ......主はそれを彼の義と認められ」ました(同15章5、6節)。アブラハムは「無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じました(ローマ4章17節)。これがアブラハムの「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、すべての民族の祝福の基となる第二の信仰の転機です。 三、神の言葉を聞いて、神は最善のものを備えてくださると信じ、最愛のイサクを神にささげたアブラハム(創世記22章10節) 「地上のすべての民族は、アブラハムによって祝福される」という約束が成就するために、さらに思いもよらないことが起こりました。神は、アブラハムに「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて......全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と仰せられたのです(同22章2節)。 神は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(ヘブル11章18節)と言われたのですから、もしイサクが死んでしまったなら、この言葉は成就しません。この神の命令は、全く思いもよらないことで、アブラハムにとって理解に苦しむものでした。しかしアブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」(ヘブル11章19節)、イサクを全焼のいけにえとしてささげました(創世記22章10節)。 アブラハムは、先に何が起きるかのかを全く知りませんでしたが、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」ことを信じていました(同22章8節)。しかしこの摂理を信じる信仰を持ち、神の摂理の道を歩むためには、最愛のイサクを神にささげるという全き献身が必要です。これがアブラハムの「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、すべての民族の祝福の基となる第三の信仰の転機です。 神は、アブラハムの信仰と全き献身に応えて、彼の願うところ、思うところを、はるかに越えて、かなえてくださったのです。
2010.07.20
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「願うところを越えてかなえてくださる神」 甲斐慎一郎 エぺソ人への手紙、3章14~21節 「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(20節)。 「豊かに施す」という言葉は、口語訳と新共同訳は「かなえる」と訳されています。 一、私たちの願うところ、思うところをはるかに越えたことが起きるのが人生です フランスの文学者が「ある赤ん坊が母親のおなかから出てくると、まわりをキョロキョロ見回し、『なんだ、人生とは、こんなものか』とひとこと言って、おなかの中に引っ込んでしまう」という即興劇をつくりました。 しかし実際は「事実は小説よりも奇なり」という言葉のように、この世に実際に起きる出来事というものは、作り話や小説以上に不思議な巡り合わせや、まさかと思われるような事件、また作家の空想も及ばないような意外なことが多いものです。 聖書は「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること、それは後の事を人にわからせないためである」と教えています(伝道者7章14節)。 二、私たちの願うところ、思うところをはるかに越えたことをなさるのが神です パウロは、「人知をはるかに越えたキリストの愛」、またキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と述べていますが(19、18節)、神および神のわざは、愛だけでなく、すべてにおいて「人知をはるかに越えた」ものです。 1.空間的なスケールの大きさ--無限 私たちの知る限りにおいて最も大きなものは、果てしもなく広がる大宇宙です。しかし「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません」(第一列王8章27節)とあるように、神は大宇宙よりもさらに大きな方です。 2.時間的なスケールの大きさ--永遠 科学者が用いる時間の単位は、どんなに長くても何十億年、または何百億年です。しかし「とこしえからとこしえまで、あなたは神です」(詩篇90篇2節)とあるように、神は初めもなく終わりもない永遠の方です。 3.実質的なスケールの大きさ--無限 このように神は、空間的には無限、時間的には永遠であるだけでなく、知識においては全知、能力においては全能であり、聖さ、愛、正しさ、憐れみ、真実さなど、その性質や属性のすべてにおいて無限の方です。 私たちの思考の範囲は、どんなに広くても、この宇宙の中に限られていて、その外側の世界を考えることは、到底不可能です。しかし神は、この宇宙の外におられると同時に、この宇宙のどこにでもおられるゆえに、神のなさることは、人間の目には、私たちが到底考えることができない不思議なことに見えるのであり、また私たちの思いや考えの外にある実に意外な出来事に映るのです。 三、私たちの願うところ、思うところをはるかに越えて叶えてくださる神を呼び求めることは私たちの義務であるとともに特権です 神は、エレミヤに「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」と仰せられ(エレミヤ33章3節)、パウロが述べている「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる」神を呼び求めるように勧めています。ですから私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を告げられる神を呼び求めることは、私たちの義務であるとともに特権です。 ダビデは、「私の時は、御手の中にあります」と記し(詩篇31篇15節)、ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています。 新しい年、「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを」(20節)はるかに越えてかなえることのできる神を呼び求め、その神に新しい事を期待して歩もうではありませんか。
2010.07.16
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「神の国と世界観」 甲斐慎一郎 黙示録の黙示録、11章15節 「この世の国は、私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(15節)。 一、思想(物の考え方)について 1.近代的な思想や物の考え方 近代は明治維新以後、第二次世界大戦終結までです。これは不変的な正義や真理、すなわち偏見や先入観を捨て、客観的で合理的な知識や正義を追及した時代です。デカルトは、すべてのものから自由になった「個」というものを考えました。すなわち神からさえも自由で縛られない自律的な個人というものを追及しました。しかしこのような近代合理主義は不可能であるという批判が出て来ました。すなわち中立性、不変性、客観性を否定しました。近代合理主義の死滅、行き詰まりです。 2.現代的な思想や物の考え方 現代は第二次世界大戦以後、現在までです。これは中立的、客観的、不変的なものを徹底的に批判し、人間は必ずある枠組みから物を見ているのであって、神や伝統や権威から自由になることは不可能であり、このような抽象的な人間は存在しないという考え方です。 パラダイムとは前提となっている理論的な枠組みのことで、人間はこのある枠組み(パラダイム)を基準にして、物を見たり、考えたりしているのです。現代哲学は近代哲学を否定し、人間は必ずある視点に立っていると教えています。すなわち万人に共通した中立的な考え方など存在しないというのが現代哲学の教えです。 ですからパラダイムを変更することは、宗教を変えるという「改宗」の問題なのです。 二、人の行動を決定する世界観について 冒頭の図は、一番外側の円が「行動」、その内側が「価値観」、さらにその内側が「信念」、最も奥の円が「世界観(歴史観)」を教えています。その人の「世界観(歴史観)」が「信念」を決定し、その「信念」が「価値観」を決定し、その「価値観」が「行動」を決定します。人の行動を決定するのは、世界観です。 三、おもな世界観(歴史観)について 1.キリスト教世界観(歴史観) 神は天地万物を創造されたが、人間は神に背いて堕落したので、神はイスラエル人を起こし、その民族を通して救い主キリストを遣わし、十字架において罪の贖いを成し遂げ、その救い主を信じる者を罪から救い、世の終わりにご自身のみこころが行われる神の国を建設されるという世界観(歴史観)です。 2.イスラム教や仏教などの異教(他の諸宗教)の世界観(歴史観) 3.無神論的世界観(歴史観)または進化論的世界観(歴史観) 宇宙は大爆発(ビッグバン)によって誕生し、人間は、最も単純な単細胞生物から少しずつ進化して現在の姿になり、未来に向かって限りなく進歩していくという神の存在を信じない人たちの世界観(歴史観)です。 4.皇国史観 5.共産主義の世界観(歴史観) ほかにも様々な世界観があるでしょう。いずれにしても人間は、必ずどれかの世界観を持ち、それがその人の行動を決定し、それに基づいた国家を形成していくのです。
2010.07.12
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「聖書が教える国家(3)王政以後の国家の建設」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、11章15節 イスラエルは、初代の王サウルから王国時代にはいりましたが、ここから神の国が始まったということができます。神の国、一般的には「天国」と呼ばれていますが、これは神の支配される国のことで、聖書は、神の国には三つの段階があることを教えています。 一、地上の王国としての神の国 第一の段階は、イスラエルの初代の王サウルから最後の王ゼデキヤまでの王国時代のことです。これは神が民を統治(支配)された「地上の王国としての神の国」です。これは第二の段階の神の国と第三の段階の神の国のひな型(模型)です。その後、イスラエルは聖霊降臨節において教会が誕生するまで大祭司が統治する国になりました。 二、信仰者の心にある神の国 第二の段階は、イエスを信じる者のただ中にあるという「信仰者の心にある神の国」です。神がキリストを信じる者の心を支配されるならば、そこは神の国です。キリストは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べ伝えられただけでなく(マルコ1章15節)、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われました(ルカ17章21節)。この「信仰者の心にある神の国」は、教会のことです。 人間は、健全な国家の中でしか生きていくことはできません。それで心の中に神の国を持ったキリスト者は、この世において健全な国家を建設するために働き始めました。このことを初代教会から現代まで、特にヨーロッパの国々の歴史から学んでみましょう。 1.国家と対決した教会の時代--初代教会からミラノの勅令(313年)まで 初代教会が飛躍的に成長するに従って、ローマ帝国はキリスト教を迫害するようになりました。なぜなら教会は「国家の中の国家」のように見えたからです。これは教会が国家と対決した時代です。 2.国家と協力した教会の時代--ミラノの勅令からフランス革命(1789年)まで ローマ帝国による激しい迫害にもかかわらず、教会は成長を続け、遂にコンスタンティヌス皇帝は、ミラノの勅令によってキリスト教を公認しました。ここから教会は国家と協力する時代になりました。しかしこれは、教会と国家の主導権争いを招き、国家も教会も世俗化するという弊害を生み出したのです。 3.国家から自由とされた教会の時代--フランス革命から現代まで 教会は、国家が世俗化し、政治目的のために教会を利用するという弊害に気づき、「政教分離」と「信仰の自由」を求め、それを勝ち取ることができました。しかしこれで健全な国家が建設されたわけでも、すべての問題が解決したわけでもありません。第三の段階である「新しい天と新しい地という神の国」がつくられるまで戦いは続くのです。 三、新しい天と新しい地という神の国 第三の段階は、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」とあるように(黙示録11章15節)、世の終わりにつくられる「新しい天と新しい地という神の国」です(黙示録21章1節)。 キリスト者は、この世において健全な国家を建設するために働くことが必要です。しかし何よりも大切なことは、キリスト教会という「信仰者の心にある神の国」の民になることです。そうするなら、「新しい天と新しい地という神の国」にはいることができます。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来、地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(J・ウェスレー)。
2010.07.08
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「聖書が教える国家(2)王政以前の国家の建設」 甲斐慎一郎 創世記、12章 ヘンリー・H・ハーレイは、「旧約聖書は一つの民族について記している。新約聖書は一人の人について記している。その民族は、この世界に『その人』が来るために神が始め、育てられたのである」と述べています。 この「一人の人」というのはイエス・キリストであり、「一つの民族」というのはイスラエル人であることは言うまでもありません。新約聖書は、この救い主キリストがイスラエル民族からお生まれになり、人類の罪を贖う十字架の救いが成就したことを記しています。旧約聖書には、キリストが救い主としてこの世界に来られるために、神がイスラエル民族を起こし、教育された過程が詳細に描かれているのです。 一、族長時代について 「創世記」は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという4人の族長の生涯について記し、イスラエル人の先祖として神がアブラハムをお選びになり、その子孫が周囲のカナン人の悪習に染まらず、イスラエル民族を形成するためにエジプトへ行かなければならなかったことについて教えています。 二、出エジプトからカナン入国まで 国家を建設するためには、多くの民が特定の地に住まなければなりません。それで「出エジプト記」から「ヨシュア記」までは、エジプトでおびただしく増え、強くなったイスラエル人がモーセに導かれてエジプトを脱出し、ヨシュアに率いられてカナンの地に入り、その地に定住したことについて書いています。 アブラハム、イサク、ヤコブの生涯は、個人の歴史を記し、ヨセフの生涯は、イスラエル民族が形成される前の段階として、家族および部族の歴史を教えていますが、モーセの生涯においては、それが民族および国民の歴史に変わっていく過程が描かれています。 三、王の前身である士師の時代 「士師記」と「サムエル記」は、カナンの地に定住したイスラエル人が、ヨシュアとその同世代の者たちの死後ただちに堕落し、その後、王の前身である士師が国を治めたことについて記しています。しかし士師が治めた時代は暗黒でした。イスラエル人が周囲の国と同じように王を求めた時、神はそれを許し、サムエルに王政を敷くように命じ、イスラエルは、王国時代にはいりました。 四、神が王政を許された理由 神は、アブラハムから王たちが出ることを約束され(創世記17章6、16節)、また王の条件や規定については、申命記に記されています(17章14~20節)。ですから王が立てられることは、初めから神のみこころとご計画の中にあったことなのです。 世俗的な王や専制君主は論外ですが、王政自体は必ずしも悪いものではなく、王と民が心から神を信じて従うなら、王政によって理想的な神政政治を行うことができます。 そして最も深い理由は、将来において来たるべきメシヤは、預言者、大祭司であるとともに王でもあるので、そのことを民に教えるために、主は王政を許されたのです。 五、預言者、王、大祭司であるキリスト 「メシヤ(これはヘブル語で、ギリシャ語はキリスト)」とは、「油を注がれた者」という意味で、旧約時代に油を注がれて、その職に就いたのは預言者と王と祭司です。メシヤは、この三つの職分を備えているのです。 「神政政治の国、すなわち神の統治される国であるイスラエルの歴史は、次のような三つの時代に分けられます。第一は、預言者の指導のもとにあった時代で、これはモーセからサムエルまでです。第二は、王たちの政治のもとにあった時代で、これはサウルからバビロン移住までです。第三は、大祭司の統治のもとにあった時代で、これはエズラからイエス・キリストの誕生までです。そしてこの神政政治の国は、このような三つの段階において、完全にその予表的な発達を遂げた時、その予表された神の国の預言者、王、大祭司であるイエス・キリストが来られたのです」(A・イーダーシャイム)。
2010.07.06
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「聖書が教える国家(1)宗教と国家の建設」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、11章15節 「この世の国は、私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(15節)。 一、健全な国家が建設されなければ、国民は安心して暮らすことができません 私たち人間は様々な生活をしています。すなわち衣食住の生活をはじめ、学生が送る学校生活、社会人が送る社会生活、そして仕事をしなくてもよい時間に行うすべてのこと、たとえば休息や保養、旅行や娯楽(レクリエーション)、趣味や運動、音楽や芸術等々の余暇の生活です。 私たちは、このような日常生活を送るのは当たり前と思っているかもしれません。しかしこれは、社会の治安が維持され、戦争のない平和な日本に住んでいるからこそ可能なのです。もし社会の治安が乱れたり、外国との戦争や国内での内乱が起こったりするなら、日常生活を送ることはおろか、生きていくことさえできなくなります。私たちは、改めて健全な国家が建設されることがどんなに大切であるかを知らなければなりません。 二、健全な国家を建設するためには、外的規範と内的規範の両者が必要です 「法律」は、個人の権利と利益、また公共の福祉と安全、そして国家の秩序と平和を守るために制定されたもので、人間の外側に表れた行為を取り締まります(外的規範)。その「法律」を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その「倫理・道徳」を守るようにさせるものが「思想・信条・宗教」です(内的規範)。冒頭の図は、この三つの関係を教えています。 三、国家と外的規範、内的規範の関係には、基本的に三つのものがあります 1.国粋主義(右翼)の国家 国は法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために内的規範(思想や信条や宗教)を定めます。これは政教一致です。 2.共産主義(左翼)の国家 国は法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために、宗教を否定し、思想や信条を定めます。これも政教一致です。 3.民主主義の国家 国家は法律(外的規範)を制定するだけで、思想や信条や宗教(内的規範)は国民が自由に選ぶことができます。すなわち信教の自由があり、これは政教分離です。国家は内的規範には一切干渉しませんが、国民は法律(外的規範)を守る義務があり、それを犯せば罰せられます。 この三つは基本的なものであり、実際には1と3の中間や組み合わせ、また2と3の中間や組み合わせなど様々な形態があります。 四、聖書は、この世の国家とともに来るべき神の国の大切さを教えています 旧約聖書は、イスラエル民族の歴史が記され--政教一致の神政政治ですが--この世におけるイスラエルの国の建設について教えています。しかし新約聖書を学ぶなら、旧約聖書におけるイスラエルの国は、来るべき神の国のひな型であることがわかります。 キリストは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言われましたが、新約聖書は、神の国(神が支配される所)はキリストを信じる者のただ中にあるという霊的な神の国について教えています(ルカ17章21節)。そして世の終わりには有形の神の国が建設されるのです(黙示録11章15節)。
2010.07.02
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