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「枯れたいちじく」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、11章12~21節 イエスは、受難週の月曜日に、葉が茂っているだけで、実のないいちじくの木をのろわれました(12~14節)。その翌日の火曜日、「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れてい」ました(20節)。 この「枯れたいちじく」の話は、昔から難解な個所として様々な疑問がありますが、おもなものは、次のような三つです(R・C・トレンチ)。 1.イエスは神として、葉が茂っているだけで実のないいちじくの木であることを知りながら、何かありはしないかと、なぜ知らないかのように見に行かれたのでしょうか。 2.イエスは、いちじくのなる季節ではない時に実がないからといって、なぜこの木の責任であるかのように言われたのでしょうか。 3.イエスは、なぜいちじくの木をのろって、枯らすようなことをされたのでしょうか。 一、第一の疑問に対する答え イエスは、真の神であるとともに真の人です。この個所にも「イエスは空腹を覚えられた」と記されていますが(12節)、イエスは、人として様々な制約の下に行動されました。しかしイエスが、「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれた」のは、深い意味がありました(13節)。 「いちじくの木」はイスラエル人を、「茂った葉」は、彼らの外側の宗教的な儀式(すなわち信仰の表れ)を、「いちじくの実」は、彼らの内側の霊的な救い(すなわち信仰の実質)を表しています。 イエスは、茂った葉のように盛んなイスラエル人の外側の宗教的な儀式を見て、それならば、内側の霊的な救いという実があるにちがいないと期待されました。これが、見に行かれたということの象徴的な意味です。 二、第二の疑問に対する答え 受難週の頃(三月か四月)は、いちじくのなる季節ではなく、その頃は、葉も実もありません(マタイ24章32節)。ところが、イエスがご覧になったいちじくの木は、変わっていて、葉だけが茂っていました。葉が茂っていれば、実を期待するのは当然です。 この実がなくて葉だけを茂らせている変わったいちじくの木は、イスラエル人を表しています。すなわち実(信仰の実質)がないのに、葉(宗教的な儀式)だけを茂らせ、「あたかも実があるかのように装って、あざむいていたのです」(R・C・トレンチ)。 「葉も実もないいちじくの木」は異邦人を、「葉だけが茂ったいちじくの木」はイスラエル人を表しています。イスラエル人は、実がないにもかかわらず、あたかも実があるかのように装っていました。ここに彼らの罪があったのです。 三、第三の疑問に対する答え イエスの奇蹟は、このいちじくの木を枯らせたのだけは刑罰の奇蹟ですが、ほかの病をいやしたりされたのはみな愛の奇蹟です。イエスは、聖なる神は罪を憎まれる方であることを教えるために、人命を滅ぼすような奇蹟はなさらず(ルカ9章54、55節)、人格のないいちじくの木をのろって枯らせました。 イエスは、この奇蹟を通してイスラエル人のように実がないにもかかわらず、葉だけを茂らせて、あたかも実があるかのように装うならば、救われることはできず、罰せられることを教えようとされたのです。 しかしこの葉だけが茂ったいちじくの木は、イスラエル人を指しているだけでなく、恵みの手段(聖書拝読、祈祷、集会出席、奉仕)を守っていても、真の信仰と救いを持たない形式的なキリスト者を表しているのです。拙著「キリストの生涯の学び」156「枯れたいちじく」より転載
2010.05.29
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「聖霊降臨節の意味するもの」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章32~36節 キリスト教の教会暦において最も大切で代表的なものは、次の三つです。◇キリスト降誕節(クリスマス)◇キリスト復活節(イースター)◇聖霊降臨節(ペンテコステ) この中でクリスマスとイースターは有名ですが、ペンテコステは、ほとんど知られていません。それで聖霊降臨節の意味するものについて学んでみましょう。 一、三位一体の神にいのちの息を吹き込まれ、永遠に存在する霊として造られた人間 人間の本質は何かということについては、おおよそ次のような三つの考え方があります。 1.人間は、結局は物質である(唯物論者)。 2.人間は、結局は動物である(進化論者)。 3.人間は、神の像に似せて造られた不滅の霊 を持つ者である(聖書、キリスト者)。 聖書は、神は「われわれに似るようにわれわれのかたちに、人を造ろう」と仰せられ、「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」と教えています(創世記2章7節)。「われわれ」とは三位一体の神を教えています。人間は単なる物質でもなければ、動物でもなく、三位一体の神の像に似せて造られた不滅の霊--永遠に存在し、消滅することのない霊--を持つ者なのです。 二、三位一体の神がいのちをかけて救おうとされるほど愛された罪人である人間 人は、いのちの息(霊)を吹き込まれたことによって「生きもの」となりましたが、この人の霊は、神の霊(聖霊)がともにおられることによってのみ生き続けることができます(創世記6章3節)。ところが人間は、罪を犯し、堕落してしまいました。 人が堕落したということは、人の霊から神の霊(聖霊)が離れて、人の霊が死んだということです(同2章17節)。それで神は、人に聖霊(神の霊)を与えて、人の霊を再び生き返らせることを計画されました。 使徒パウロは、救いに関する神の働きについて、私たちを罪から救う贖いのわざを「父なる神が計画され」、それを「子なる神が実現され」、「聖霊なる神が執行される」(H・オートン・ワイレー)と教えています(エペソ1章9~14節)。これは、難病の治療を厚生労働省が計画し、医学者が実現し、臨床医が執行するということにたとえることができます。三位一体の神は、これほどまでに罪人である人間を愛してくださったのです。 三、三位一体の神がいのちを与えて買い取られたので、罪からの救いを受けた人間 五旬節の日にペテロは、ヨエルの預言を引用した後、イエスのわざ、また十字架の死、さらに復活、そして昇天について述べています(使徒2章22、23、24~32、33節)。しかし最後に「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と言って、この説教を締めくくっています(同2章33節)。この最後の言葉には三位一体の神のわざが記されています。 パウロは、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるため」と述べています(同20章28節)。この箇所にはキリストのことは記されていませんが、実際に血を流されたのはキリストです。父と子と聖霊なる神は、ご自身のいのちを捨てるほど私たちを愛し、私たちの救いのために贖いのわざを成し遂げてくださったのです。 イエスが真の神でありながら真の人としてこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって「罪のきよめを成し遂げて......大能者の右の座に着かれ」るためでしたが(ヘブル1章3節)、それは、すべての人々に聖霊をお注ぎになるためでした。 実に「キリスト降誕節(クリスマス)」は、罪の贖いを成し遂げる「キリスト復活節(イースター)」のためであり、その「キリスト復活節(イースター)」は、私たちに聖霊を注がれる「聖霊降臨節(ペンテコステ)」のためなのです。
2010.05.25
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「きよめの歩み(3)」 甲斐慎一郎 1.私のきよめの体験 私が神学院在学中に愛用した聖書の裏表紙には新生日、受洗日、きよめの日、そして召命の日が記されています。新生日は1961年3月19日、受洗日は同年4月23日、きよめの日は翌年の1月3日、召命の日は同年12月15日です。 主を信じて罪を赦された私は、喜んで神に仕えていましたが、心の中の罪との戦いに悩んでいました。しかし翌年の新年聖会に出席した時、恵みの座が開かれ、そこで神にすべてをささげ、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1章7節)という御言葉を信じました。これが「私のきよめの体験」です。 その後、生涯を神にささげるという直接献身へと導かれ、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」(ヨハネ12章26節)という召命の御言葉が与えられ、4年後に神学校に入学しました。 2.私のきよめの歩み 私は、罪をきよめられたと信じたものの、ひとりのキリスト者として、いやひとりの人間としても極めて未熟な者で、いわゆる「青二才」でした。このような者が「きよめ」にふさわしく歩むためには、あらゆる面で神のお取扱いを受けなければなりませんでした。どのような神のお取扱いを受けたかを述べるなら、4つにまとめることができます。(1)人の評価を必要以上に気にすること(2)他の人の過ちや失敗を赦せないこと(3)自分の知識や能力や経験に頼ること(4)十字架を避けて、楽な道を選ぶこと 私が「きよめの体験」をしてから気がついたことは、自分の姿が、ほんの一部分しか見えていなかったことです。自分は、とても未熟で、至らない者であると思っていましたが、他の人はそれ以上に私のことを低く評価していたのです。自分では一生懸命に神に仕え、それなりに奉仕もできると思っていましたが、他の人から見れば、そうではないことが分かり、大きな衝撃を受けました。 このことを素直に認め、神の前に砕かれませんと、自分のことを低く評価する人を赦せないことになります。 また自分では無知で、無力で、未経験であると思っていても、そのことを他の人に言われると、それを素直に認めようとしないかたくなな心を発見しました。キリストを「離れては」私は「何もすることができない」(ヨハネ15章5節)にもかかわらず、あたかも何かできるかのように錯覚していたのです。それは神のみに信頼せず、自分の知識と能力と経験に頼っていることでもありました。 そして苦しいことに直面すると、そこから逃避し、楽な道を選びました。それは十字架を避けて栄光に至るという誘惑でした。 このような4つの誘惑を受ける度に、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)という御言葉を信じ、主を仰いで新しい歩みをして行きました。 3.私のきよめの整理 (1)きよめられたことは「内なる反省」では分からず、「内なる御霊の証し」によって分かります。「内なる反省」では、きよめられた後にも残る「人間的な要素(すなわち無知や過失や弱点や誘惑を受けること)」があるために、それにもすべて合格しなければ、きよめられたと確信することができないからです。御霊の証しこそ、きよめられたことの証拠です(ローマ8章16節、使徒15章9節)。 (2)現在の時点で神から示されたすべての罪を悔い改め、神にすべてをささげたなら、見るところがどのようであれ、罪がきよめられたと信じて歩み出すことです。そうすればきよめられます。もし将来より高い光が与えられて、今まで罪と思わなかったことが罪であると示されたなら、その時点でその罪を悔い改め、すべてをささげて信じることです。このように、より高い光に従って光の中を歩むなら、きよめられ続けていくのです(第一ヨハネ1章7節)。
2010.05.21
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「きよめの歩み(2)」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、5章16~18節 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(16~18節)。 メソジストの創設者のジョン・ウェスレーは、この聖句を注釈して「これがキリスト者の完全(すなわちきよめ)である」と述べています。 この三つの聖句に共通しているのは、「すべて」ということです。きよめられた人は、すべての時に喜び、すべての時に祈り、すべての事を感謝するのです。ですから、きよめられていない人は、ある時は喜んでも、ほかの時は喜べません。ある時は祈っても、ほかの時は祈れません。ある事は感謝しても、ほかの事は感謝できません。すなわち百パーセントではなく、これを妨げているものが心の中の罪、すなわち罪性です。 一、喜びを妨げる不信仰 この喜びは、世の楽しみ、世の宝、世の名誉から来る喜びでありません。これらは決して長続きしません。それは、「義と平和と聖霊による喜び」です(ローマ14章17節)。この喜びは、変化する世のものに根拠を置かず、不動の神を土台としているので、逆境や苦難に左右されません。 しかし実際は、不信仰のために常に喜ぶことはできません。喜びというのは、因果関係があり、喜ぶ原因があってこそ、結果として喜ぶのであり、喜ぶ原因がないのに、喜ぶことはできず、自分の思い通りにならないものです。きよめられない前は、結果である喜びにばかり目を向けて、原因である信仰を見失ってしまい、いつも喜ぶことができないことを悩みます。しかし不信仰を示され、ただ神を喜ぶことに目を向け、全く神に信頼するなら、きよめられて、心に絶えざる聖霊による喜びが与えられるのです。 二、祈りを妨げる高慢 ここでいう祈りとは、一日中、ほかのことをせず、ひざまずいて祈ることではありません。絶えず祈ることができる心の状態、または祈りの姿勢のことです。言い換えれば、絶えず神に向かい、神に期待している心のことです。私たちは、いつも神に期待し、神から供給を受けなければ、すなわち、神を「離れて」しまうなら「何もすることができない」のです(ヨハネ15章5節)。 しかし実際は、高慢のために何かできるかのように思い、神に祈らず、神に期待しません。その結果、散々、失敗し、自分の無力さをいやというほど示されます。そこで祈って恵みを受けますが、するとまた高ぶり、この繰り返しがきよめられていない状態です。この高慢を示され、全くむなしくなり、神に自分を明け渡して、神の御手の中に陥る時、きよめられて、自分に何かを期待することをやめて、ただ神にのみ期待するのです。 ジョン・ウェスレーは、「私たちが神の愛以外の対象を持たず、神を喜ばせようとする願いだけを持っている時には、神について考えたり、神に対して語ることも、あるいは神のために行動したり、神のために苦しむことも、すべては祈りである」と述べています(ジョン・ウェスレー著、竿代忠一訳、「キリスト者の完全」173ページ、日本ウェスレー出版協会、1963年)。 三、感謝を妨げる自我 この感謝は、自分の思い通りに事が運ぶことによる感謝ではありません。もしそうならば、決してすべての事を感謝することはできないでしょう。この自分の思い通りにならないことによって、感謝せず、神と人につぶやく心こそ罪深い自我(エゴ)です。 私たちは、この自我を全く明け渡し、砕かれて、神に全幅の信頼を寄せる時、きよめられて、自分の思い通りに事が運ばなくてもよいのだ、いや、ただ神の思うようになればよいのだ、すなわち「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と言うことができるようになります(ルカ23章42節)。言い換えれば、私たちがきよめられて歩むなら、すべての事は神のみこころのとおりになるので、すべての事を感謝することができるようになるのです。
2010.05.18
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「きよめの歩み(1)」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、1~6章 この手紙は、「割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ救われない」という誤った教えを説くユダヤ主義の教師たちに惑わされたガラテヤの教会の人々を、正しい福音に立ち返らせるために書かれたものです。 ですから、この手紙には、信仰によってのみ救われ、御霊によって始まったキリスト者は、その後の歩みも御霊によって完成される(3章3節)という正しい福音が明白に記されています。キリスト者の歩みは、初めから終わりまで御霊によるものなのです。 一、御霊と肉との関係 この手紙には、鋭く対立している二つの言葉、すなわち「御霊」という言葉が17回、「肉」という言葉が16回も記されています。 御霊によって歩むためには、「肉」について正しく理解することが必要です。 1.物質的な意味--これは動物の肉や人間の肉体のことです(4章13、14節)。 2.人間的な意味(1)自然的な生命のこと(ローマ1章3節)。(2)有限な人間性のこと(ローマ6章19節)。(3)人間的な要素のこと(ピリピ3章3節)。 3.倫理的な意味--これは、神に逆らう罪の原理のことです(ローマ8章4~8節)。 人間を三つの部分に分け、三重丸にたとえてみましょう。一番中心の円が三番目の肉とするなら、中間の円である人間性は罪のために汚染され、一番外側の円である肉体は罪を犯す「不義の器」(ローマ6章13、16節)となります。しかし一番中心の円が御霊であるなら、中間の人間性は健全になり、一番外側の肉体は正しいことを行う「義の器」(同6章3、16節)となるのです。 二、御霊とキリスト者との関係 この手紙には、「私のうちに」働かれるキリストの姿が実に鮮やかに描かれています。 1.「私のうちに啓示」されるキリスト(1章12、16節)。 キリストが私たちのうちに啓示されるのは、「人間によるものでは」なく(1章11節)、ただ私たちのうちに働かれる聖霊によるのです(第一コリント12章3節)。 2.「私のうちに生きておられる」キリスト(2章20節)。 キリストが私たちのうちに生きておられるのは、信じた時に与えられる御霊が(3章2節)、その後、自我に死んだ私たちのうちに働かれることによってなされるのです。 3.私の「うちに......形造られる」キリスト(4章19節)。 これは、私のうちに生きておられるキリストの品性が私たちの品性となることで、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(5章22、23節)という御霊の実を結ぶことです。 三、御霊とキリスト者との関係 御霊が私たちのうちに生きておられ、うちにキリストが形造られためには、次のようなことを守らなければなりません。 1.「聖霊に逆ら」ったり(使徒7章51節)、「聖霊を悲しませ」たり(エペソ4章30節)してはなりません。 聖霊は、私たちが罪を犯さないように、私たちのうちにあって執り成しをしてくださる方ですから、私たちが聖霊に逆らって罪を犯すと、聖霊は悲しまれるのです。 2.「御霊を侮っ」たり(ヘブル10章29節)、「御霊を試み」たり(使徒5章9節)、してはなりません。 私たちは、罪の誘惑を受けやすい所や危険な所にわざわざ出掛け、そのような中でも神は私たちを守られるかどうかを知ろうとすることは、御霊を侮り、御霊を試みることです。 3.「御霊を消してはなりません」(第一テサロニケ5章19節)。 私たちは、継続的に御霊を悲しませたり、試みたりするとともに、私たちを悔い改めさせようと働かれる「聖霊に逆ら」ったり(使徒7章51節)、「御霊を侮」ったり(ヘブル10章29節)するなら、御霊を消すことになるのです。 私たちは、御霊とともに歩んでいるでしょうか。
2010.05.12
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「きよめの体験(3)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、15章9節 三、きよめられるための条件 罪の赦し(救い)を受けるためには、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰(使徒20章21節)が必要なように、罪からきよめられるためには、神に対する全き献身と主イエスに対する信仰(ローマ6章19節、使徒15章9節)が必要です。「罪の赦し」も「罪のきよめ」も直接的な条件は「信仰」ですが、その信仰がほんとうのものとなるためには悔い改めや全き献身が必要です。 1.きよめの直接的な条件 (1)神が、それを聖書の中に約束しておられると信じなさい。 (2)神は、その約束されたことをなさることができると信じなさい。 (3)神は、それを今なさることができるだけでなく、なさることが みこころであると信じなさい。 (4)神は、今それをなしてくださると信じなさい。 (J・A・ウッド「全き愛」より) 2.きよめられたことを知ること 罪がきよめられたことは、「内なる反省」では決してわからず、「内なる御霊の証し」によって分かります。「内なる反省」では、きよめられた後にも残る様々な「人間的な要素」があるために、それにもすべて合格しなければ、きよめられたと確信し、証しすることはできないからです。ですから「内なる御霊の証し」があるなら、「私は、きよめられました」と証ししてもよいのです。 3.きよめられた後にも残る人間的な要素 「きよめ」は、「キリスト者の完全」とも呼ばれますが、これは次に述べるような完全ではありません。 ◇「神の完全」ではありません。◇「天使の完全」ではありません。◇「堕落前のアダムの完全」ではありません。◇「栄光の完全」ではありません。 (1)知識的な完全を期待することはできません。 知識が不完全ですと、判断において過ちを犯します。 (2)過失から免除されないことではありません。 救いと実質的に関係のない事柄については、きよめられたキリスト者といえども、しばしば過失に陥ります。たとえば、行われたことを行われていなかったかのように錯覚したり理解したりすること、行ったと思ったことがしていなかったり、行っていなかったと思っていたことが実はしてあったりするような過ちはあり得るのです。 (3)弱点(人間的な弱さ)を持つという意味で完全ではありません。 聖書が教えている弱点は、道徳的な性質を帯びたものでなく、道徳と関係のない、内的、外的な不完全さです(肉体的なものだけではありません)。知識の足りなさや判断力の過ちからくる場合は弱点です。また、生まれつき物分かりが遅い、思想が一貫しない、共鳴性を欠いている、その結果として、非常に弁が遅い、ことばの選び方が不正確である、ことばの使い方が下手である、発音がきたない、態度が粗雑である、身ごなしがなっていないなど、です。 (4)誘惑から免れ得ないという完全ではありません。 「誘惑は最初に知性に訴えられます。瞬間のひらめきをもって、思いに訴えられます。これは誘惑の最初の段階です。それから誘惑は感覚のほうに移されます。そこで誘惑は、官能、肉欲、情欲、情感に働きかけるのです。これらが満足を得たいと刺激される危険があります。今や誘惑の危険な段階に来ているのですが、必ずしも罪責を生じるわけではありません。心が罪から全くきよめられていない人の場合は、誘惑は多かれ少なかれ内面の共鳴を得ますが、その悪の暗示を大事にし黙認しない限り、罪責を招くには至りません。今度は意志が挑戦を受ける番です。誘惑者が成功を収めるかどうかは、全く意志の決断にかかっているのです。もし、意志が誘惑に対して『ノー』と言えば、誘惑者は失敗し敗北します。そして、たましいは圧倒的な勝利者になるのです」(トマス・クック著、渡辺勝弘訳、「新約のきよめ」22、23ページ、イムマヌエル綜合伝道団出版局、1988年)。
2010.05.10
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「きよめの体験(2)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~11節 二、きよめられることの意義 それでは、罪がきよめられるとは、どのようなことなのでしょうか。 1.私たちに聖霊を与え、罪をきよめるために十字架にかかってくださったキリスト イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天は、私たちに聖霊をお注ぎになるため「御父から約束された聖霊を受け」る準備であり、条件でした(2章33節)。イエス・キリストは、この箇所において三回も聖霊を与えるという約束をしておられます(4、5、8節)。しかし弟子たちは、地上の王国を夢みて、イスラエルの国の再興のことを質問しています(6節)。その時、イエスは、今すぐ知らなくてもよいことと、緊急に知らなければならないことを教えられました。後者は、聖霊が与えられることです。 イエス・キリストは、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、天に上って「すぐれて高い所の大能者(神)の右の座に着かれ」たと聖書は教えています(ヘブル1章3節)。言い換えればイエスの昇天は、贖いのわざの完成です。そして聖霊の降臨は、その結果です。イエスが昇天されなかったならば、聖霊の降臨はなかったのです(ヨハネ16章7節)。 弟子たちは、目に見える頼みの綱であった主が取り去られたので、約束の聖霊を待ち望む以外になすすべがなかったのですが、これは私たちにとっても同じです。だれが一番偉いのかと争っていた弟子たちが、心を一つにして祈りに専念することができたのは、聖霊が必要であると深く自覚していたからです。 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた時、聖霊が弟子たちの上に臨まれました(1、4節)。この時、ペテロがエルサレム会議において述べているように、「神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たち(ユダヤ人)と彼ら(異邦人)とに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」(15章8、9節)。 聖書は、「御霊に属する人」と「肉に属する人」について教えています(第一コリント3章1~3節)。「御霊に属する人」とは、きよめられた人、「肉に属する人」とは、ねたみや争いがある、きよめられていない人です。 2.キリストの救いには、罪の赦しと罪のきよめがあります。 ヨハネの手紙、第一の1章には、二種類のことが記されています。 (1)二種類の罪--罪の行為と罪の性質「罪を犯し」(10節)--罪の行為「罪はない」(8節)--罪の性質 (2)二種類の条件--悔い改めと全き献身「罪を言い表す」(9節)--悔い改め「光の中を歩」む(7節)--全き献身 (3)二種類の約束--罪の赦しと罪のきよめ「その罪を赦し」(9節)--罪の赦し「罪から......きよめ」(7節)--罪のきよめ それでは、罪をきよめられた人とは、どのような人なのでしょうか。 「きよめられた人とは『キリストの心を心と』し(ビリピ2章5節、文語訳)、『キリストが歩まれたように歩』む人(第一ヨハネ2章6節)、『手がきよく、心がきよらかな者』(詩篇24篇4節)、『いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ』られた人(第二コリント7章1節)、その中につまずきがなく、罪を犯さない人を意味する。これをもう少し具体的に述べるなら、私たちは『きよめられた人』という聖書的表現は、『あなたがたは、すべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ』(エゼキエル36章25節)という神の誠実な言葉がそのうちに成就された人を言うと理解する。従って神が『霊、たましい、からだ』を『全く聖なるもの』(第一テサロニケ5章23節)とされた人とは『神が光の中におられるように......光の中を歩』んでいる人、『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ』た人であると理解する(第一ヨハネ1章7節)」(ジョン・ウェスレー著『キリスト者の完全』43、44頁 )。
2010.05.06
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「きよめの体験(1)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~14節 一、きよめられることの必要性 聖書は、信仰生活というものを競走にたとえています(第一コリント9章24~26節)。このヘブル人への手紙の12章もその一つです。競走ですから、出発点(スタート)があり、競走路(コース)があり、決勝点(ゴール)があり、規則(ルール)があります。 信仰生活の出発点は救いです。競走路は、私たちの家庭生活、学校生活、社会生活、教会生活、伝道や奉仕の生活です。決勝点は天の御国であり、栄化です(ピリピ3章14、20、21節)。規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません(第二テモテ2章5節)。信仰生活の規則は何でしょうか。この12章1、2節には、四つの規則が記されています。この四つの規則(ルール)の中に、きよめられなければならないことが、明確の述べられています。 1.いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる(1節) 走る時に必要なことは、身軽になることです。私たちは、思い煩いという重荷を捨てなければなりません。重荷の中で最大のものは罪です。まつわりつく罪とは、しつこくからみついて、なかなかとれない罪の意味で、罪の性質を表しています。罪がきよめられなければ、からまりついて、身動きがとれなくなり、身軽に走ることはできません。 2.忍耐をもって(1節) ヘブル人への手紙の10章35~39節には、信仰と忍耐とがほとんど同じ意味で用いられています。真の信仰は、必ず忍耐を伴うもので、信仰がなければ、忍耐することはできません。どんなに苦しくても「もうだめだ」と言って、さじを投げないのが信仰であり、忍耐です。そしてこの忍耐は、懲らしめのためであり(7節)、懲らしめは聖さにあずかるためにあります(10節)。また「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とあります(4節)。血を流すまでというのはたとえ死んでもとか、命がけでということです。これもきよめられなければ不可能です。 3.私たちの前に置かれている競走(1節) 私たちは、右と左に白線のある自分の競走路を走らなければなりません。ペテロは、ヨハネがイエスのあとについて来るのを見た時、「主よ。この人はどうですか」と言いました。するとイエスは、ペテロに、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハネ21章22節)。私たちは、きよめられなければ、他の人の競走路に入ったり、他の人を自分の競走路に引っ張り込むことになり、失格者になってしまいます。私たちは、罪がきよめられて隣人と正しい関係を保ちながら、摂理の細道を走ることが必要なのです。 4.イエスを仰ぎ見ること(2節) この競走は、障害物競走です。困難の山、苦難のトンネル、悲哀の谷、誘惑という迷路があります。この障害物競走を完走するための秘訣は、次のような三つのことです。 (1)イエスから目を離さないことです。 私たちは、イエスから目を離してはなりません。なぜならイエスこそ信仰の創始者であり、完成者であるからです(2節)。 (2)イエスのことを深く考えることです。 しかし何も考えずに走るなら、イエスから目を離してしまうので、ご自分の前に置かれた喜びにゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたすばらしいイエスのことを深く考えなければなりません(2、3節)。 (3)イエスに期待することです。 私たちが障害物競走を走らなければならないのは、主が私たちを愛する子として扱い、私たちを懲らしめ、訓練して、私たちの益のため、また私たちをご自分の聖さにあずからせるため、そして平安な義の実を結ばせるためであることを知って(7、10、11節)、イエスに期待することです。 この四つの規則(ルール)のすべてに、きよめが必要であることがわかります。
2010.05.04
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