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「父の訓練」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章5~13節 「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(7節)。 子どもは、「母の愛」によって育つものであることは、言うまでもありませんが、それとともに「父の訓練」にもよることを決して忘れてはなりません。 そこで「父の訓練」について聖書から学んでみましょう。聖書には、次のような三者の父が記されています。 一、肉の父とその訓練 ヘブル人への手紙の著者は、「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのです」と記しています(10節)。聖書に記されている父の第一番目は、普通の父親を表す「肉の父親」です。 十戒の第五番目の戒めは、「あなたの父と母を敬え」です(出エジプト20章12節)。この戒めは、両親には、神より委託された権威があることを私たちに教えています。この両親の権威は、家庭の秩序を保つためであり、その秩序は、家庭の平和や幸福に欠かせないものです。権威のないところに秩序はなく、秩序のないところに真の平和も幸福もあり得ないからです。 私たちが肉の父親から訓練を受けるのは、私たちが父親の中に神から委託された権威を認め、その父親に愛と尊敬をもって服従することによって、真に平和で幸福な家庭をつくるためです。個々の家庭において、このような平和や幸福がなければ、社会において、それを望むことはできないでしょう。 二、偽りの父とその訓練 ヨハネは、「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。......彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」と述べています(ヨハネ8章44節)。聖書に記されている父の第二番目は、悪魔を表す「偽りの父」です。 悪魔は、人間の「敵」(第一ペテロ5章8節)であり、また「この世の神」(第二コリント4章4節)として「この世を支配する者」です(ヨハネ16章11節)。 悪魔は、その働きによって次のような五つの名称をもって呼ばれています。1.偽り者(ヨハネ8章44節)2.惑わす者(黙示録12章9節)3.試みる者(マタイ4章3節)4.告発者、訴える者(黙示録12章10節)5.妨げる者(第一テサロニケ2章18節) 偽り者であり惑わす者である悪魔は、私たちが善と悪、真理と偽り、正義と不義を見分けるかどうかを試す(訓練する)のです。 試みる者である悪魔は、私たちが神と正義の側につくか、悪魔と不義の側につくかを試す(訓練する)のです。 告発者であり訴える者である悪魔は、私たちを弁護者また救い主であるキリストのもとに追いやるのです(第一ヨハネ2章1節)。 妨げる者である悪魔は、私たちが神と真理のために戦う信仰者また神のわざを成し遂げる建設者になるかどうかを試す(奮起させる)のです(第二コリント10章5節)。 三、霊の父とその訓練 聖書に記されている父の第三番目は、天にいます私たちの父を表す「霊の父」です。 1.訓練の方法について 霊の父は、苦難や試練また悪魔の誘惑さえをも用いて、私たちを訓練されますが、それは、私たちを「私生児」ではなく、「ほんとうの子」として扱われる愛の懲らしめです(8、7節)。 2.訓練の目的について しかし霊の父が私たちを懲らしめるのは、私たちから神に喜ばれない不純物を取り除いて、「私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせ」るためです(10節)。 3.訓練の結果について そして「これによって訓練された人々」は物質的また現世的な祝福にまさる「平安な義の実を結」ぶようになるのです(11節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.06.27
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「聖霊降臨の必要」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章32~36節 聖霊降臨節(ペンテコステ)は、人々に聖霊が注がれた記念すべき日ですが、なぜ聖霊が注がれる必要があったのでしょうか。 一、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って、歩んでい」る人間 聖書は、人は、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者で......この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って、歩んでい」る者であると教えています(エペソ2章1、2節)。 人は、罪を犯したことによって、罪過と罪との中に死にましたが、それは、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って、歩んでい」るということなのです(同2章2節)。 二、「この世の神」である「悪い者(悪魔)の支配下にある」世全体(全世界) パウロは、サタンのことを「この世の神」と呼び(第二コリント4章4節)、ヨハネは、「世全体(全世界)は悪い者の支配下にある」と述べています(第一ヨハネ5章19節)。 第三の天は、「雲のように私たちを取り巻いている」「多くの証人たち(信仰偉人列伝の人たち)」のいる所、「生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会......天に登録されている長子たちの教会」のある所ですが(ヘブル12章1、22、23節)、「天にいるもろもろの悪霊」(エペソ6章12節)とあるように、悪霊も、天(第三の天)にいるだけでなく、悪霊のかしらである悪魔は、「空中の権威を持つ支配者として」君臨しています(参照、黙示録12章7~9節)。 三、御父から約束された聖霊を受けて全世界の人々に聖霊をお注ぎになった--神の右すなわち第三の天に上げられた--イエス 罪を犯した人間が罪から救われるためには罪を赦され、きよめられることが必要ですが、そのためには、悪魔の支配から救い出され、聖霊の支配の中に移ることが必要です。 悪魔は、第三の天にいて「空中の権威を持つ支配者として」、第二の天と第一の天をも支配していますが、神は、その上にあってサタンさえも支配しておられる方です。 ですから罪を犯した人間がサタンの支配から救い出されるためには、第三の天におられ、第二の天と第一の天をも支配しておられる神の支配の中に移ることが必要です。そのためにキリストは、真の神でありながら真の人として、この世にお生まれになり、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座(第三の天)に着かれ」(ヘブル1章3節)、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(33節)。 私たちは、聖霊を受け、聖霊に満たされて、聖霊の支配の中に移ることによってのみ、サタンの支配から救い出されて、罪を赦され、きよめられることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.06.20
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「三つの天」 甲斐慎一郎 第二コリント、12章1~4節 私たちは、主の祈りにおいて、「天にいます私たちの父よ」と祈りますが(マタイ6章9節)、「天」とは、どこなのでしょうか。 パウロは「第三の天にまで引き上げられました」と記していますが(2節)、「第三の天」とは、どこなのでしょうか。 「『天』ということばは、三重の意味に用いられ、聖書は、第三の天のみを語っている。天ということばは、大気圏、これが新約聖書で言う第一の天、その上方に、広大な星の世界、これが第二の天である。そのかなたが第三の天で、聖徒や御使い(セラフィム)の住む所である。第三の天は、第二、第一の天を包み、そこに行きわたっていると考えることができよう」(G・C・モルガン『祈りの実行』64~66頁)。「雲のように私たちを取り巻いている」「多くの証人たち(信仰偉人列伝の人たち)」のいる所、「生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会......天に登録されている長子たちの教会」のある所こそ第三の天です(ヘブル12章1、22、23節)。因みに英語では、第一の天は、「エア」、第二の天は、「ファーマメント」、第三の天は、「ヘブン」です。 聖書は、聖霊降臨について「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と教えています(使徒2章33節)。地上で起きた出来事、そして第一の天、第二の天、第三の天で起きた出来事の影響や感化の違いは、何でしょうか。 一、地上で起きた出来事の影響や感化 雨が降らず、ほこりが立つので、水をまいて、ほこりをしずめること(良い例)、火事や爆発などで被害を受けること(悪い例)など、地上で起きた出来事の影響や感化は、その周辺の狭い範囲にしか及びません。 二、第一の天で起きた出来事の影響や感化 雨が汚れた空気をきれいにし、空気中の成分を含んだ水滴によって大地を肥沃にし、生物を育てること(良い例)、原子爆弾や水素爆弾が上空で爆発すること(悪い例)など、第一の天(大気圏)で起きた出来事の影響や感化は、それぞれの国や地域に及びます。 三、第二の天で起きた出来事の影響や感化 太陽の光と熱が地球のあらゆる生物を生かしたり、育てたりすること(良い例)、地上で排出されたフロンがオゾン層を破壊し、有害な紫外線によって皮膚ガンなどの重い病気を引き起こすこと(悪い例)など、第二の天(広大な星の世界)で起きた出来事の影響や感化は、地球全体に、そして長期間に及びます。 四、第三の天で起きた出来事の影響や感化 「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて......この聖霊をお注ぎになったのです」(使徒2章33節)という聖霊の傾注は、第三の天で起きた出来事です。第二の天で起きた出来事でさえ、その影響や感化は地球全体に、そして長期間に及ぶとするならば、第三の天(聖徒や御使いの住む所)で起きた出来事の影響や感化は、全世界そして全時代に及ぶのではないでしょうか。拙著「聖書の中心的な教え」43「三つの天」より転載甲斐慎一郎の著書→執筆活動東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.06.13
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「人間観と神観と信仰」 甲斐慎一郎 創世記、2章4~7節 人間の本質は何かということについては、およそ次のような三つの考え方があります。▽人の究極の実在は物質である(唯物論)▽人の究極の実在は動物である(進化論)▽人は、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(聖書) 一、人の究極の実在は物質である(唯物論) 唯物論は、究極の実在は物質であるというもので、史的唯物論は、マルクスによって提唱されたもので、マルクス主義とも呼ばれ、共産主義国家の哲学的教条となっています。 二、人の究極の実在は動物である(進化論) 進化論は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したというものですが、唯物論者は、進化論を受け入れています。 「社会主義・共産主義・無政府主義、その他多くの『左翼』運動の科学的で理論的な根拠として進化論が使われてきました。その一方で『右翼』の哲学者は、『闘争』と『適者生存』というダーウィン進化論の概念を用いて、ナチズム・人種差別・帝国主義・自由放任的資本主義などの多くの有害な体系を正当化しようとしてきました。前者に属するマルクス、レーニン、スターリンは熱烈な進化論者でしたが、後者に属するヘッケル、ニーチェ、ヒトラーもやはり熱烈な進化論者でした。 世俗ヒューマニズムの教義として有名なヒューマニスト・マニフェストが一九三三年に宣言されましたが、その第一条と第二条では、宇宙と人類が進化したことを事実としています。どんな形であれ、無神論・汎神論・神秘主義は必然的に進化論に基づいてしまいます。 決定論・実存主義・行動主義・フロイト主義、その他同様の非道徳的心理学体系も進化論に基礎をおいています。......実質、進化論は、無神論やヒューマニズムだけでなく、汎神論(あらゆるものを神として崇拝)・神秘主義(霊との接触やそれへの帰一融合)・アニミズム(あらゆる事物に霊魂や精霊を認めてそれらを崇拝)などさまざまな宗教の根幹をなす前提です。 広く信じられている民族宗教(道教・仏教・儒教・ヒンズー教・他同様の信仰)はすべて、本質的にある形式の進化論に基づいています。......進化論の哲学は、ほとんどの反キリスト教的な社会哲学・経済哲学・宗教哲学の基礎であるだけではありません。今日世界を荒廃させている多くの反社会的で不道徳な行為(妊娠中絶、麻薬、同性愛、動物的不道徳など)に対して、進化論という疑似科学が理論的根拠を提供しているのです」(ヘンリー・M・モリス『科学は聖書を否定するか』68~70頁、CRJ出版、2006年)。 三、人は神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(聖書) 人は、いのちの息(霊)を吹き込まれたことによって「生きもの」となりましたが(7節)、人の霊は、神の霊(聖霊)がともにおられることによってのみ生き続けることができます(創世記6章3節)。ところが人間は、罪を犯し、堕落してしまいました。 人が堕落したということは、人の霊から神の霊(聖霊)が離れて、その人の霊が死んでしまったということです(同2章17節)。 そこで神は、人に聖霊(神の霊)を与えて、人の霊を再び生き返らせるように計画し、そのことを実行されました。これがイエスの十字架による罪の贖いとその結果である聖霊の降臨です。「神はこのイエスをよみがえらせました。......神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(使徒2章33節)。 「人の究極の実在は物質である」という唯物論も、「人の究極の実在は動物である」という進化論も、人を罪から救うことができないだけでなく、いくつかの思想は人を罪に陥らせるものです。これに対して「人は神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である」という聖書の教えは、聖霊によって霊が生き返り、罪から救われることができるのです。 緑の文字は、ヘンリー・M・モリス『科学は聖書を否定するか』からの引用ですが、まえがきに以下のような謝辞を述べています。 本書の原稿は正確を期し、以下の専門家に査読して頂きました。◇マルコム・A・カッチンス博士(オーバーン大学航空宇宙工学教授)◇カール・B・フライヤーマンス博士(デュポン株式会社微生物生態学者)◇ドナルド・D・ハマン博士(北カロライナ州立大学食物技術教授)◇デイビッド・メントン博士(ワシントン大学/セントルイス解剖学準教授)◇ジョン・R・メイヤー博士(バプテスト聖書大学生物学教授)◇ジョン・D・モリス博士(創造科学研究所地質学準教授)◇ジョン・W・オラー博士(ニューメキシコ大学言語学教授)◇ジョン・C・ウィットコム神学博士(グレース神学校大学院学長) これらの方々の多数のすぐれた提言に感謝します。その大部分は本書の中に取り入れましたが、本書の最終責任はすべて私にあります。 ヘンリー・M・モリス東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.06.06
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