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「神の思いと人の思い(1)」 甲斐慎一郎 イザヤ書、55章8、9節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)。 冒頭のみことばには、神の思いは人の思いと異なり、神の思いは人の思いよりも高いということが記されています。 神の思いと人の思いが異なっていることには、様々なものがありますが、代表的なものは、次のような三つではないでしょうか。(1)神の思いは人の思いとは反対である。(2)神の思いは人の思いよりも遥かに大きい。(3)神の思いは人の思いにはないものである。 まず神の思いと人の思いとは反対であるということについて学んでみましょう。 一、時間的な相違 神は永遠に存在する方ですが、地上に住む人間は、有限な者です(詩篇90篇1~3節)。ですから永遠の目をもって目標点から出発点を見ることができる神の思いと、有限な目を持っているために出発点からしか目標点を見ることができない人間の思いとが反対になるのは当然ではないでしょうか。 もし私たちが将来に起きることを予め知っていたなら、どうなるでしょうか。良いことに関しては安堵し、悪いことに関しては恐怖を抱き、どちらにしても勤勉に働くことができなくなるでしょう。かといって将来に何が起きるのかを全く分からないのも不安です。これが人の思いです。 人生の旅路は、障害物競走のようなものです(ヘブル12章1~7節)。神は、私たちが信仰によって歩み、その信仰が試されて、純粋なものとなるだけでなく、その信仰に成長するために、私たちが最も必要としているあらゆる障害物を予め備えて私たちを訓練されるのです。これが神の思いです。 二、空間的な相違 神は高い天に住んでおられる方であり(イザヤ57章15節)、人間は低い地上に住んでいる者です。ですから天から地上を見下ろしておられる神(詩篇53篇2節)の思いと、地上から天を見上げている人間の思いとが反対になるのは当然ではないでしょうか。 多くの人々は、この世には様々な矛盾があり、不可解なことが多々あるので、神を信じません。それは、人が地上から天を見上げ、神によって織られている美しい織物を裏から見ているようなもので、入り乱れて、とても汚く目に映るからです。これが人の思いです。 これに対して神は、天から地上を見下ろし、人の地上における生涯をご自身が織っている織物を表から見ているので、何の矛盾も不可解なこともなく、美しく織られていることを知っておられます。これが神の思いです。 三、本質的な相違 神は聖なる方であり(イザヤ6章3節)、人間は、罪深い者です(ローマ3章10~18節)。ですから「善にして善を行われ」る(詩篇119篇68節、口語訳)神の思いと、「悪を善、善を悪」(イザヤ5章20節)というような罪深い人間の思いとが反対になるのは当然ではないでしょうか。 生まれながらの人間の本性は、自分の思い通りに何でも物事が運ぶ時、自分の欲しいものが何でも手に入る時、自分がどんなに偉大な者であるかを知る時、最も幸福であると思います。これが人の思いです。 しかしもしすべてのことが私たちの思い通りになるなら、どうなるでしょうか。私たちは、努力する必要がなくなるために怠慢になるだけでなく、思い上がって高慢になり、ついには堕落してしまうでしょう。それで神は、私たちが勤勉さと謙虚さを失わずに向上し、成長していくために、様々なことが私たちの思い通りになるようにはされないのです。これが神の思いです。 私たちは、この神の思いにすべての問題の解決の鍵があり、人の思いには何の解決も救いもないことを知っているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.08.30
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「神のことばによって生きる」 甲斐慎一郎 へブル人への手紙、4章12、13節 「神のことばは生きていて、力があり......心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4章12節)。 「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』」(マタイ4章4節)。 一、私たちに光(真理)を与えてくださる神のことばによって生きる 神が天地万物を創造された時、最初に造られたものは光です(創世記1章3節)。これは物質の光ですが、私たちにとってまず必要なのは、真理を知る光です。 「神のことばは......両刃の剣よりも鋭く......刺し通し」、人の心を照らし、隠れている罪を暴き、私たちが何を考え、何を感じ、何をしようとしているかという「たましい」の状態も、そのたましいの奥にある「霊」の状態も「判別することができます」(12節)。 もし私たちが神のことばという光に照らし出されなければ、真の神がどのような方であるのかということも、また人は何者であり、どこから来て、どこへ行くのか、さらにそのありのままの罪深い姿も、そしてその罪から救われるためには、どうすればよいのかということも何も分からず、暗闇に閉じ込められてしまうことでしょう。 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と記されているように(詩篇119篇105節)、私たちは、暗闇を照らすともしびである神のことばを信仰をもって読むなら、人間にとって最も大切な真理を知ることができるのです。 二、私たちに愛と力(熱)を与えてくださる神のことばによって生きる 太陽は光とともに熱を発しています。熱は愛であり、また力です。「神のことばは......力があり」ます(12節)。エマオという村に行く途中のふたりの弟子は、イエスと出会い、別れた後、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていた(すなわち愛と力に満ちていた)ではないか」とルカは記しています(ルカ24章32節)。 詩篇の著者は、「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」と述べています(119篇11節)。 イエスは、荒野に象徴される悪い環境の中でも、また断食に象徴される肉体の弱さの中でも、神のことばによって悪魔の誘惑に打ち勝たれました(マタイ4章4、7、10節)。 私たちは、神のことばを心から信じる時、聖霊に満たされ、神の愛と力が与えられて、勝利の生活を送ることができるのです。 三、私たちに生命(結実)を与えてくださる神のことばによって生きる 「神のことばは生きてい(文語訳は、生命があり)」ます(12節)。ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは......朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」と述べています(第一ペテロ1章23節)。 「種」は、良い地に蒔かれるなら、「芽を出して育ち」、「人手によらず実をならせるもので」す(マルコ4章27、28節)。イエスは、種蒔きのたとえにおいて、「良い地に落ちた」種は、「芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」と教えられました(同8節)。すなわち種には、生命の力と発育する力と結実する力があります。 パウロは、ミレトでの説教においてエペソの教会の長老たちに、「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と語りました(使徒20章32節)。 私たちは、神のことばの光に照らされて真理を知り、みことばを心から信じて聖霊に満たされ、愛と力を受けるなら、それは必ず行為と生活、奉仕と働きにおいて豊かな実を結び、「教えと戒めと矯正と義の訓練」を受けて、「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となる」ことができるのです(第二テモテ3章16、17節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.08.21
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「神のことばと人のことば」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、2章13節 「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは信じているあなたがたのうちに働いているのです」(13節)。 「人間以外の動物にことばはなく、またそれを教えることもできない。ことばを語り、またそれを理解する能力は、ただ人間だけが先天的に与えられている」というのが現代の通説です。ですから人間の人間たるゆえんは、ことばの存在にあるということができます。 それで、ことばとは何かということを聖書から学んでみましょう。 一、三種類のことば 新約聖書の中で「ことば」と訳されている原語は、いろいろありますが、代表的なものは、次のような三つです。 1.ロゴス――これは、ことばの実体または実体としてのことばです。 2.レーマ――これは、ことばの表現または表現としてのことばです。 3.グロースサ――これは、ことばの音声または音声としてのことばです。 この三つのことばを人間の三つの要素である「霊」と「たましい(心)」と「からだ」に対応させるなら、次のようになります。 1.霊――実体としてのことばが宿るところで、人間の本質的な部分です。 2.たましい――表現としてのことばを思索し、また組み立てるところ(脳)です。 3.からだ――音声としてのことばを語り(口)、また聞くところ(耳)です。 人間は、霊にことば(ロゴス)が宿っているので、そのことば(ロゴス)を脳(たましい)において思索し、組み立てて、表現としてのことば(レーマ)となり、口(舌、顎、喉、声帯)によって音声としてのことば(グロースサ)を発声するのです。ですからことばの意味がわからず、思索できなければ、音声として発声することはできないのです。 二、人のことば 人がことばによって励まされたり、傷つけられたりするのは、なぜでしょうか。なぜことばには力があるのでしょうか。 1.「ことばは第二の人格である」と言われるように、それは私たちの心の表現です(マタイ12章34節)。私たちは、ことばの遣り取りによって心の交際をしているのです。 2.ことば以外の音は意味がないので、耳で聞いても、私たちの心に直接はいることはありませんが、ことばは、すべて意味があるので(第一コリント14章10節)、耳を通して私たちの心に直接はいってくるのです。 3.ことばは、人の心から出て、人の心にはいるので、それは私たちが考えている以上に、互いの心に大きな影響や感化を与えているのです。 私たちは、自分のことばが周囲にどのような影響や感化を与えているのかを知って、どれだけ注意深く語っているでしょうか。 三、神のことば 聖書は、「神は霊」(ヨハネ4章24節)であるとともに、「ことば(ロゴス)」(同1章1節)であると教えています。神のことばには、次のような働きがあります。 1.人のことばが人の心から出て人の心にはいり、その心に影響や感化を与えるのに対して、神のことばは、神の霊から出て人の霊にはいり、その霊を生まれ変わらせるのです。 2.しかし、そのためには、神のことばを人のことばとしてではなく、信仰によって事実どおり神のことばとして受け入れることが必要です(13節)。 3.人の霊を生かすのは、神の口から出ることばだけであり(マタイ四章4節)、人のことばは人の心にまでしか届かないのです。 私たちは、神のことばを信仰によって受け入れ、その霊が生かされているでしょうか。それとも人のことばとしてしか受け入れず、その霊が「罪過と罪との中に死んで」いるでしょうか(エペソ2章1節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.08.17
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「創造論か進化論か」 甲斐慎一郎 創世記、1章26、27節 聖書は、人間は神によって創造されたと教えています。これに対して多くの人々は、人間は猿から進化したものであると考えています。前者が「創造論」であり、後者が「進化論」です。 一 創造論と進化論の前提について 多くの人々は、人間がどのように生まれたのかということについて、「創造論」は、信仰的または宗教的なとらえ方であり、「進化論」は、科学的なとらえ方であると思っています。しかし事実は、どちらも信仰的なとらえ方なのです。なぜでしょうか。 二、科学には二種類あることについて 1.観察科学・実験科学(Observational / Operational Science) 繰り返し実験することによって検証が可能です。 2.歴史科学・起源科学(Historical / Origins Science) 過去の出来事に関する仮説を立てる科学で、実験して検証することはできません。 研究の対象と方法が異なる二つの「科学」があるにもかかわらず、多くの人々は、「進化論は、観察科学であり、科学的事実」であると考えています。実際には、「進化論」も「創造論」も、歴史科学の範疇にあって、観察科学のように検証し、証明することはできません。「観察できるものの仕組みを調べ、その仕組みを用いて技術を発展させよう」とする営みは、観察科学の分野ですが、「観察できるものがどうして存在するようになったか」という起源を知ろうとする営みは、歴史科学の分野であることを知る必要があります。 ところが「歴史科学・起源科学」の範疇にあるもの--人類の始祖は、だれなのかということは、過去の出来事に関することですから、繰り返し実験することによって検証することはできません--が「観察科学・実験科学」によって証明されたのです。それは「ヒトゲノム計画」です。 三、ヒトゲノム計画について 「ゲノム」とは、ひとつの生物が持つ「遺伝情報全体」のことで、ヒトならヒトゲノム、イヌならイヌゲノム、大腸菌なら大腸菌ゲノムがあります。 1989年に一億ドルの予算でアメリカの国立保健研究所を中心とした「ヒトゲノム計画」をスタートさせました。さらに一年間の準備期間を経て、1990年に本格的に国際的なプロジェクトとしての活動が始まりました。プロジェクトの中心となっているのはアメリカ、日本、フランス、イギリス、ドイツといった国々です。これらの国をはじめ世界各国が協力し、膨大な情報量を持つヒトゲノムの解析に励み、2003年に完了しました。 全世界の人々のDNAを調べ、遺伝子の地図(ヒトゲノムマップ)を作りました。ベンター博士(セレラ・ジェノミクス社の社長)と国立保健研究所の科学者たちは、ヒトゲノムのすべての配列を完成させたと発表しました。彼らは、満場一致で、「人種は、ただ一つしかない」と宣言したのです。 四、ヒトゲノムマップの公開 2006年(平成18年)4月14日に文部科学省が平成18年度(第47回)科学技術週間にあたり、一家に一枚ヒトゲノムマップ「ここまでわかった!! ヒトゲノム」を作製し、インターネットで公開しています。「一家に一枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)」をクリックすると、見ることができます。 五、ヒトゲノム計画によって証明された人類の始祖 ベンター博士(セレラ・ジェノミクス社の社長)と国立保健研究所の科学者たちが満場一致で宣言した「人種は、ただ一つしかない」ということは、言い換えれば、「すべての民族は、一組の夫婦(アダムとエバ)から生まれた」ということであり、人類の始祖は、一組の夫婦であることが、21世紀の「観察科学・実験科学」によって証明されたのです。 一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)東京フリーメソジスト昭島キリスト教会 甲斐慎一郎の著書→説教集
2011.08.11
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「神のことばである聖書」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 私たちは、「聖書は神のことばである」と安易に語ったり、伝えたりしていますが、このことばのほんとうの重みを知っているでしょうか。聖書は、なぜ神のことばなのでしょうか。私たちは、このことをしっかりと心に銘記しなければなりません。そうしなければ、どんなに聖書を読んで、その内容を知ったとしても、それは普通の書物を読んでいるに過ぎず、その結果、永遠のいのちや救いに関係がないばかりか、私たちの心と生活に何の変化も起きないからです。 一、神よりの啓示の書である聖書 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1、2節)。 ここには「神は......語られました」と明白に述べられています。聖書は、人間に対して神が語っておられることを記した書物です。このことを専門的なことばで「啓示」と言います。 「啓示」ということばは、もともと「おおいをとる」とか「ベールをはぐ」という意味があります。ですから「啓示」とは、人間の理性や人の探求では分からない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです。 私たちは、この神より啓示された聖書によってのみ、真の神とその神のみこころや神のご計画、また人間の窮状とその救い、さらに世の終わりや次に来る世(来世)について知ることができるのです。 二、神の霊感を受けた書である聖書 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益す」(16節)。 「聖書の預言はみな......決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(第二ペテロ1章20、21節)。 聖書は、神の語りかけを記した神より啓示された書物ですが、その神の語りかけを人間がどのようにして誤りなく記すことができるでしょうか。それで神は、聖書の記者たちが聖書を書くにあたって、間違いなく神の啓示を記すように働かれました。このことを専門的なことばで「霊感」と言います。 「霊感」ということばは、もともと「神の息や神の霊を吹き込まれる」という意味があります。H・オートン・ワイレーは「霊感とは、その書き記すところが、神の意志の表現となり得るために聖書の記者たちの上に与えられる聖霊の働きである」と述べています。 三、神によって必ず成就する書である聖書 「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」(使徒1章16節)。 「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55章11節)。 聖書のことばは、必ず成就します(ルカ1章20節)。すなわち信じる者には、聖書に記されているすばらしいことが必ず成就し、信じない者には、聖書に記されている恐ろしいことが必ず成就するのです。 なぜ聖書のことばは、必ず成就するのでしょうか。それは、聖書は神から啓示され、さらに誤りなく記されるように神によって霊感された正真正銘の神のことばだからです。 聖書は、神から啓示されたことばです。ですから私たちは、神のことばを聞かなければなりません。聖書は、神によって霊感されたことばです。ですから私たちは、神のことばを信じなければなりません。聖書は、神によって必ず成就することばです。ですから私たちは、神のことばを実行し、人々に宣べ伝えなければならないのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.08.01
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