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「永遠の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇、90篇1~17節 ある人は、「過去のない人は、動物に近い。そうして未来のない人は、まさしく動物である」と言いましたが、「伝道者の書」の著者のソロモンは、神の霊感を受けて、次のように述べています。 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者3章11節、新改訳二版)。 このみことばは私たちに、人間だけが「永遠」とか「永遠の世界」、そして「永遠なる神」を思うことができるということを教えています。そこでこの詩篇90篇から永遠について考えてみましょう。 一、神について(1、2節) モーセは、「まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」(2節)と記していますが、永遠とは、どういうことなのでしょうか。 このことに関しては、R・A・トーレーの次のような定義が最もよいのではないでしょうか。1.始めがなく終わりがない(無始無終)2.常に同一で全く変わらない(不変性)3.何にも依存せず独立している(自存性) 神は、モーセに対してご自身を啓示された時、「我は有りて在る者なり」(出エジプト3章14節、文語訳)と言われましたが、これこそ「無始無終」にして「絶対不変」なる「自存者」を表しています。 この定義に従えば、永遠なるものは神以外には存在しないことがわかるでしょう。ですから神は信じるが、永遠は信じないとか、永遠は信じるが、神は信じないということはありえないのであり、神を信じるということは、必然的に永遠を信じるということを含んでいるのです。 聖書は私たちに、「永遠の罪」、「永遠のさばき」、「永遠の刑罰」、「永遠の火」、「永遠の国」、「永遠の栄光」、「永遠の支配」、「永遠の贖い」、そして「永遠のいのち」について大胆に教えているのです。 二、人間について(3~11節) この箇所には、「人のいのちのはかなさ」(3~6節)と「人の心の罪深さ」(7~9節)と「人生のむなしさ」(10、11節)が記されています。もし私たちが永遠なる神と永遠の世界を信じなければ、いのちのはかなさと心の罪深さと人生のむなしさは、避けることができないことがわかるでしょう。なぜなら永遠を信じないことは、必然的に次のような人生にならざるを得ないからです。 1.刹那の人生 「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という刹那的な人生です(第一コリント15章32節)。 2.流転の人生 移ろう草のように、人生の土台も善悪の基準も定まらず、世と時の流れに流されている放浪の人生です。 3.盲目の人生 人生の目的も目標もわからず、どこに行く着くのかも知らないで、さ迷っている真っ暗やみの人生です。 三、救いについて(12~17節) このように、はかなく、罪深く、むなしい人生から救われるためには、永遠なる神を私たちの住まいとするほかにはないことがわかるでしょう。それは、永遠なる神を私たちの心の中に迎え、その永遠の神のいのちに与かることです。まさに使徒ヨハネが「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と述べている通りです(ヨハネ3章16節)。 聖書が教えている救いは、この世において、すでに「永遠のいのち」が与えられて、「永遠の世界」に生きることです。それは、具体的には永遠の観点から物事を見、また考え、そして判断して、永遠に有益なことだけをすることです。それは、主イエス・キリストが言われたように「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働」くことを意味しているのです(ヨハネ6章27節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.12.28
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「マリヤへの御告げ」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章26~38節 救い主の母に選ばれた「マリヤへの御告げ」について学んでみましょう。 一、神からの使命を果たすために今の悪の世界から救い出されたキリスト者 バプテスマのヨハネの母に選ばれたエリサベツがみごもってから、「六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来」て、驚くべきことを告げました(26節)。これが、「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」とマリヤに告げられた「受胎告知」です(31節)。 マリヤが救い主の母に選ばれ、イエスを産んで育てたのは、それが彼女に与えられた神からの使命であったからです。 主は、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と父なる神に報告されました(ヨハネ17章4節)。イザヤは、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」と記しています(イザヤ43章7節)。 私たちがこの世に生まれ、この地上に生かされているのは、神から与えられた使命を果たし、この地上で神の栄光を現すためです。私たちは、それぞれ神から与えられた使命があり、それを果たして、地上で神の栄光を現すために「今の悪の世界から......救い出」されたのです(ガラテヤ1章4節)。 二、神からの使命を果たすために神のことばと祝福を受けるキリスト者 御使いガブリエルは、マリヤのところに来ると、「おめでとう、恵まれた方」と彼女を祝福し(28節)、受胎を告知する時も、「あなたは神から恵みを受けたのです」と祝福のことばを語りました(30節)。マリヤは、救い主の母になるという神から与えられた使命を果たすために神のことばと祝福を受けました。 受胎を告知されたマリヤは、婚約者のヨセフに前代末聞の処女懐胎を理解されず、離縁されそうになったり(マタイ1章19節)、ヘロデの虐殺の手からのがれたりしています(同2章13節)。マリヤは、神のことばと祝福を受けなければ、とてもこのような苦難を乗り越えることはできなかったでしょう。 そのように私たちも今の悪の世界から救い出されたのは、それぞれ神から与えられた使命を果たし、地上で神の栄光を現すためですが、それは決して容易なことではなく、神のことばと祝福を受けなければ、とてもその使命を果たすことはできないのです。 三、神からの使命を果たすために自分自身を生きた供え物としてささげるキリスト者 初めにガブリエルがマリヤを訪れた時、彼女は、「ひどくとまどって......考え込」みました(29節)。しかし御使いの受胎告知を聞いた時、そのことばを信じ、ただその方法に答えて、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」とその方法を説明して、彼女の信仰を励ましました(35~37節)。 するとマリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って、神に対して身をささげて服従しました(38節)。救い主の母に選ばれたマリヤも、初めは、ひどくとまどい、考え込みましたが、主のことばを信じた時、神に身をささげて、神に従い、主のみこころを行う人に変えられたのです。 私たちが今の悪の世界から救い出されたのは、神が私たちになさせようとしておられるわざを成し遂げて、地上で神の栄光を現すためですが、そのためには私たちの「からだ」、すなわち、その目と耳、口と舌、手と足、いやすべてのものを「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ」なければなりません(ローマ12章1節)。このようにする時、私たちは、主のみこころを行う人に変えられ、神から与えられた使命を果たして、地上で神の栄光を現すことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.12.18
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「ヨセフへの御告げ」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、1章18~25節 救い主の法律上の父に選ばれた「ヨセフへの御告げ」について学んでみましょう。 一、ヨセフの離縁の決心(18、19節)--人に対して真実に生きる ヨセフは婚約者であるマリヤが自分と「まだいっしょにならないうちに......身重になったことがわかった」時(18節)、どんなに驚いたことでしょうか。彼は、あのザカリヤとエリサベツのように、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行ってい」ました(ルカ1章6節)。 ヨセフは、、自分といっしょにならないうちにマリヤが身重になったことがわかった時、次のような三つの対処の方法のうちのどれか一つを選ばなければなりませんでした。 1.人を恐れて、その場をつくろい、マリヤの子を自分の子であると偽って認知することです。 2.「婚約中の処女の不貞または辱しめを受けたことに関する律法」に従って、石打ちの死刑にして彼女をさらし者にすることです(申命記22章23、24節)。 3.内密に離縁することです(19節)。 第一の方法は、良心の呵責を感じる偽りであり、第二の方法は、律法としては正しくても愛のないやり方であり、第三の方法は、マリヤに対する愛と真実に満ちたものです。 神の御前に正しい人であるヨセフは、自分の子ではない子を宿した「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」のです(19節)。 私たちも自分は正しく、相手が間違いを犯したと思った時、人に対する愛と真実に満ちた方法を選ぶことが必要です。 二、主の使いの受胎告知(20~23節)--自分に対して真実に生きる ヨセフがマリヤと離縁することを心に決め、「彼がこのことを思い巡らしていたとき」、主の使いが夢に現れて、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と彼に告げました(20節)。 ヨセフにしてみれば、婚約者であるマリヤが自分の子ではない子を宿した事実を認めることも、またその事実をうやむやにしないで、離縁の決心をすることも、心を引き裂かれるほどつらく、苦しいことであったにちがいありません。しかし、どんなにつらく、苦しくても、現実から目をそらしたり、逃避したりせずに、最善の方法によって対処しようとしました。ヨセフがマリヤに対して愛と真実に満ちた第三の方法を選ぶことができたのは、自分に対して真実に生きたからです。 このようなヨセフに対して神は、聖霊による処女懐胎という全く新しい事実を示し、ヨセフが妻マリヤを迎えるという思いもよらない全く新しい道へと導かれたのです。 私たちも、たとえ自分は悪くなく、相手が間違いを犯したと思ったとしても、どこまでも自分に対して真実に生きることが大切であり、このようにする時、神は、私たちを最善の道へ導いてくださるのです。 三、ヨセフの服従と節制(24、25節)--神に対して真実に生きる 眠りからさめたヨセフは、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」ましたが、「子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく」自制しました(24、25節)。 このようなことは夫婦の間でしかわからないことですから、もしヨセフが人の前に生きる人であったなら、自制することはなかったでしょう。しかし彼は、神の前に真実に生きた人でした。ヨセフがこのように神に全く服従して自制することができたのは、彼が最初にマリヤに対して正しく対処し、また神がそれにこたえて彼を正しい道へと導かれたからです。たとえ人にはわからなくても、神は、すべてを見ておられるのですから、その神の前に真実に生きることが大切であり、そのようにする時、神は私たちを正しい道へ導いてくださるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.12.11
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「三つの現実」 甲斐慎一郎 創世記、37~50章 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」(50章20節)。 一、悪い計略の現実 「あなたがたは、私に悪を計りましたが」とは、どのようなことでしょうか。 (1)ヨセフは、父に特別に愛されていたので、兄たちに憎まれました(37章4節)。 (2)ヨセフは、夢の話をしたので、兄たちにねたまれました(37章11節)。 (3)ヨセフは、兄たちのたくらみによって殺されそうになりました(37章18節)。 (4)ヨセフは、ルベンやユダのことばによっていのちだけは助かりましたが、エジプトに奴隷として売られました(37章28節)。 (5)ヨセフは、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられました(39章20節)。 (6)ヨセフは、献酌官長の忘恩によって二年間も忘れられました(40章23節)。 五番目と六番目は、直接的には兄たちの計略ではありませんが、彼らがヨセフをエジプトに売らなければ、このようなこともなかったはずです。ともかくこれらが悪い計略の現実であり、ヨセフは、このことのためにどんなに苦しんだことでしょうか(42章21節)。 二、良い計画の現実 「良いことのための計らい」とは、どのようなことでしょうか。 ヨセフの生涯は、兄たちの憎しみとねたみによる悪い計略が現実であることを教えていますが、この中にもう一つの現実があります。それは、ヨセフがエジプト全土の統治者となることによってエジプトとイスラエルの家族のいのちを救うという神による良い計画の現実です。 ヨセフが兄たちに憎まれてエジプトに売られたのも、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられたのも、献酌官長の忘恩によって二年間も忘れられたのも、彼がエジプトの統治者となって人々のいのちを救うためでした(45章5、8節)。 三、神の摂理の現実 冒頭の図のように「悪い計略の現実」の中に、もう一つ「良い計画の現実」が組み込まれており、この二つの現実を正しく支配しているのが「神の摂理の現実」です。摂理とは、「窮地に陥り、困難に直面している人間に対して、神がその無限の知恵と愛によって、その必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、また配慮してくださること」です。 ですから私たちは、悪い計略の現実を直視して神の前に砕かれることが必要であり、それから目をそらしてはなりません。なぜなら悪い計略の現実から目をそらすことは、その中に含まれている良い計画の現実を見失ってしまうからです。 私たちは、神の摂理を信じる時にのみ、悪い計略の現実の中にあっても、それに打ち勝ち、それを乗り越えて、良い計画の現実の中を生き抜いていくことができるのです。拙著「聖書の中心的な教え」43「三つの現実」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.12.05
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