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「今は恵みの時、今は救いの日」 2021年4月25日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年8月3日放映「微生物の存在とその驚くべき働き」 「今は恵みの時、今は救いの日」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙巳、第二、6章2節 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(2節)。 一、二種のこれからの時(類未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来および「到来」と呼んで区別しました。 ◇未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ◇将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) ハイデガーは二種類のいままでの時を「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ◇過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ◇由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、古代ヘブル語の時制 旧約聖書の原語である古代ヘブル語の時制には「完了形」と「未完了形」しかなく、旧約聖書は、神の視点から、また神を中心に記されています。それで古代ヘブル語の時制は「神にとっては過去と未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」(J・ウェスレー)という神概念を基にしているので、「過去形」や「未来形」はありません。人間も、過去のことは今さらどうすることもできず、未来のことは不確かで、来るか来ないかわかりませんから、神の前においては、「過去」や「未来」というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 四、過去―現在―未来という生き方 もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 世の人は「過去は変えられないが、未来は変えられる」と考えていますが、聖書は「過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。 五、由来―今―将来という生き方 もし私たちが今、神を信じて、今まで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられた今までの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。人は罪深い過去を拭い去ることなどできません。しかし神は、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」と仰せられたのです(イザヤ44章22節)。 六、現在的な信仰――過去に信じたとしても今、信じていなければ罪から救われない 聖書は「今は恵みの時、今は救いの日です」と教えています(第二コリント6章2節)。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(J・ウェスレー『神学論文・根本を撃つ』)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.04.24
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「復活された主により頼む」 2021年4月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年7月13日放映「根拠に基づいて神と福音を信じる」「復活された主により頼む」 甲斐慎一郎 コリン人への手紙、第二1章8~10節 「人の命は万宝の第一」とか「命に過ぎたる宝なし」また「命あっての物種」等など、生命の尊さを教える諺は数多くあります。 聖書は、「生きている犬は死んだ獅子にまさる」と記し(伝道者九章4節)、主は、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と教えられました(マタイ一六章26節)。 キリスト教は、十字架の宗教であるとともに復活の宗教です。復活は、生き返ることですから、それは生命を意味しています。そこで「生」という観点から、聖書が教えている人間のありのままの姿およびキリストの驚くべき救いについて考えてみましょう。 一、神が与えられる生命の尊さ 私たちが生命の尊さや神聖さ、また厳粛さを教えられるのは、次のような時ではないでしょうか。 第一は、何と言っても一人の人間がこの世に誕生する時です(生命的な面)。 第二は、電子顕微鏡などで微生物の世界を垣間見る時です(生物学的な面)。 第三は、病気や怪我が自然治癒力によって治っていく時です(医学的な面)。 第四は、人間がその一生を閉じ、この世を去る臨終の時です(人生的な面)。 このようにどのような面から見ても、生命ほど尊く、また生きているということほどすばらしいことはありません。しかし私たちは、この生命の尊さと生きていることのすばらしさをどのくらい自覚しているでしょうか。 もし私たちがほんとうにこのことを知るなら、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配」する必要はありません。なぜなら「いのちは食べ物よりたいせつなもの」だからです(マタイ六章25節)。 二、この世で生きることの苦しさ しかし私たちは、次のような時には、生きていることが苦しく、また辛くなるのです。 第一は、肉体的な苦しみで、これは重い病気や重症の怪我などによって、非常に激しい痛みと苦しみがある時です。 第二は、精神的な苦しみで、これは人間関係や様々な苦難によって、失意と挫折と孤独の中に置かれ、お先真っ暗になる時です。 第三は、霊的な苦しみで、これは迫害のように、神に従うことによって、かえって事態が悪くなり、苦しめられる時です。 このような時、私たちは生きていること自体が何と苦しく、また辛いことであるかを痛感するでしょう。この根本的な原因は、こ世に罪がはいったからですが、それ以来、この罪は、私たちからきる喜びを奪い、それを苦しみに変えてしまったのです。 三、キリストによる復活の望み この、生きていることの苦しみから救われる道はあるのでしょうか。だれでもすぐに考えることは、死ぬことです。しかし死ぬことは、安息でもなければ勝利でもありません。死んだきりでは完全な敗北です。 それでは、どうすればよいのでしょうか。救いの道は、ただ一つ、死んでまた生き返ることです。生きることが苦しいのは、頼りにならない自分により頼んでいるからではないでしょうか。パウロは、「アジアで会った苦しみ」、すなわち、「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟し」た時、「自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼」んだのです(8、9節)。 死んでまた生き返る復活以外に救いの道はありません。この救いは、この世(現世)における霊的な復活だけでなく、次に来る世(来世)における肉体の復活をも意味しています。キリストは、私たちが死んでまた生き返るために、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ」たのです(第一コリント一五章20節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2021.04.17
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「私たちの人生と復活」 2021年4月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年6月2日放映「心(思い)の一新」「私たちの人生と復活」 甲斐慎一郎 第二コリント1章8~11節 キリストの復活は、キリスト教の福音において最も大切で中心的なものです。しかし世の中においても、一般的な意味における復活や復興ということは、非常に重要なことではないでしょうか。それでキリストの復活および一般的な意味における復活を問わず、復活について考えてみましょう。 一、復活――それは人間本来の願望です キリストの復活はともかくとして、私たちは、一般的な意味における復活というものを切に求めているのではないでしょうか。 からだが常に健康で、若々しく、生き生きとしていることを願わない人がいるでしょうか。不老不死は人間の悲願です。科学、特に医学は、このために少しでも貢献しようとしているのであり、体育やスポーツも同じではないでしょうか。 また精神的にも生きる喜びや希望に満ちていることを願わない人がいるでしょうか。文明の発達や文化の向上は、このような心の願いの当然の結果であるということができます。 そして霊的な面において、清く正しく生きることが人の道であり、もしそこから逸脱していれば、更生しようとするのが人のあるべき姿ではないでしょうか。道徳や倫理また宗教は、このことを私たちに教えています。 このように人間は、肉体的にも精神的にもそして霊的にも、復活や復興また更生を切に求めているのです。 二、復活――それは正真正銘の事実です キリストが復活したというと、多くの人々は、「死んだ人間が生き返るはずがない」と一笑に付してしまいます。しかしルカの福音書の24章には、キリストの復活が事実であることを証明する根拠が3つ記されています。 1.第一は、死体のない墓です この箇所には、3回も墓の中には主イエスのからだが見当たらなかったことが記されています(3、23、24節)。 2.第二は、キリストの顕現です この箇所には、エマオという村へ行く途中のふたりの弟子たち(15節)とシモン・ペテロ(34節)と11使徒(36節)にキリストが現れたことが記されています。彼らは、よみがえられたキリストを目撃した証人なのです(48節)。 3.第三は、聖書の証言です この箇所には、3回も聖書という言葉が記されており(27、32、15節)、キリストは聖書の預言の通りに死んで復活されたことを私たちに教えています。 三、復活――それは起死回生の秘訣です パウロは、アジヤで非常に大きな苦しみに遭った時、「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」と告白しています(第二コリント1章8、9節)。これは復活を信じる信仰です。 私たちのからだは、疲れたり、病気になったりすることがあります。しかし再び元気になったり、病気が治ったりすればよいのです。また様々な問題のために失望したり、落胆したり、挫折したりすることもあるでしょう。しかし再び立ち上がればよいのです。さらに信仰が死んだような状態になることがあるかも知れません。しかし再び生きた信仰を持てばよいのではないでしょうか。 キリストは、十字架の上で死なれましたが、よみがえられた方です。聖書は、「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」と教えています(ローマ6章5節)。 キリストの死と復活を信じる人は、たとえ倒れても、打ちのめされても、また死んだようになっても、再び起き上がり、生き返ることができます。キリストの死と復活を信じる信仰は、私たちに起死回生の力を与え、私たちが苦しみに満ちた人生を歩んでいくために不可欠なものなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2021.04.10
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「キリストの復活」 2021年4月4日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年5月23日放映「豊かないのち」「キリストの復活」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙第一、15章 キリスト教(聖書)は、「霊魂不滅」だけでなく、からだの復活による「肉体の不滅」をも教えています(ヨハネ5章29節)。そこで聖書が教えている復活に関する大切な真理を学んでみましょう。 一、過去におけるキリストの復活の事実について(1~11節) パウロは、キリストの復活は、誤って伝えられた根も葉もない架空の話ではなく、まことしやかに捏造された作り話でもなく、実際に起きた出来事に基づいた確かな実話であることを述べています。キリストの復活が事実であることを証明するものが三つあります。 「第一は、キリスト者のたましいの経験であり、その証拠はキリスト教会である。第二は、聖書は復活の真理の証明となった。第三は、復活の証人である」(G・C・モルガン『コリント人への手紙』324、327頁)。 もしキリストが復活されなかったなら、信じて罪から救われるキリスト者もキリスト教会も存在しなかったでしょう。実にキリストの復活は、キリスト教会の存在という確かな証拠があり、聖書の預言という確かな証言があり、主の復活を目撃した確かな証人のいる事実なのです。 二、現在におけるキリストの復活の意味について(12~49節) ところがコリントの教会の中のある人たちは、次のような三つの疑問のゆえに、死者の復活を信じていませんでした。 1.死者は、どうして復活するのか――復活の原因や理由に関する疑問 2.死者は、どのようにして復活するのか――復活の方法や手段に関する疑問 3.死者は、どのようなからだで復活するのか――復活の結果や様態に関する疑問 これに関してパウロは、簡潔に、しかもきわめて適切に答えています。 第一の疑問には「キリストが復活されたのだから、死者の復活があるのは当然である」(13節)と答え、第二の疑問には「からだの復活といっても、死んだ種粒から新しいからだが生じるという秘義以上に大きい秘義ではないのである」(36~38節)(前掲書345頁)と答え、第三の疑問には「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(44節)と答えています。 このようにパウロは、疑問に答えながら、過去におけるキリストの復活は、現在の私たちにどのような意味を持っているかについて述べています。 1.主の復活は私たちの救いの基礎であり、根拠です(14~22節)――キリストの復活によって罪からの救いが成就するからです(第一ペテロ1章3節)。 2.主の復活は神の支配の基礎であり、根拠です(23~28節)――キリストの復活によって神のご計画は完成するからです。 3.主の復活は私たちの希望の基礎であり、根拠です(42~49節)――キリストの復活によって私たちも復活することができるからです。 三 将来におけるキリスト者の復活の奥義について(50~57節) 最後にパウロは、世の終わりにおけるキリスト者の復活について、次のような三重の表現によって述べています。 1.私たちの完全な変貌です(51、52節)――私たちは、永遠に眠ってしまうのではなく、終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに変えられるのです。 2.神の与えてくださる完全な住まいを着ることです(53、54節)――私たちは、天から与えられる住まいを着るのであり(第二コリント5章1~4節)、それは永遠に朽ちず、不死です。 3.死に対する完全な勝利です(54~57節)――死ぬべきものがいのちにのまれ、もはや死はなくなるのです(黙示録21章4節)。 ですから私たちの労苦は、主にあって決してむだになることはないのです(58節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.04.03
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