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『 いきなり蛙です 特別な意図はありません 「蛙鳴蝉噪」なんていう四字熟語があります カエルやセミがやかましく鳴き騒ぐこと つまらない議論ばかり多くて 実際には何の効果もないことにも 喩えられるようですが 蛙というのはどこか愛嬌がありますね そこで今日のテーマは蛙です どうぞ 』 『蛙のパーソナリティーについて述べたい (ここで会場 侃々愕々~騒然) エエー 蛙に人格というのもおかしいのですが 紀元前5世紀に書かれた イソップ物語には 蛙の寓話がよくでてまいります 王様をくださいと神様にお願いする蛙とか 牛の真似をしてお腹がパンクしてしまう蛙とか それから 童謡のマザーグースにもでてきますね 蛙の求愛 こんな調子です ”はつかねずみのお姫さま わたしゃそなたにあいにきた お気にめしたか めすまいか” 蛙を擬人化しているのです これは日本の文化にはなかったことでは ないかとおもうのですが』 『 いいえ いいえ 鳥羽僧正の鳥獣戯画では 蛙や兎が相撲してますよ』 『 ウーン 鳥獣戯画の蛙 兎 浦島太郎の亀 桃太郎の犬 猿 雉 猿蟹合戦の蟹 鶴の恩返し どれも 人間世界に擬制されて登場しますが パーソナリティーが与えられているのでしょうか イソップやマザーグースの蛙 その他もろもろの動物とは ちょっと扱いが違うような雰囲気がある』 『 日本の民話やお伽噺の世界では 動物は主役にはなれなかったのです 人間のご都合主義に付き合わされた脇役 ですから 主体性がないのです』 『 なるほど 蛙を唄った草野心平 河童の芥川の時代になって 動物社会の下層の住民にも ようやく主役の座が廻ってきた』 『 それは面白い意見ですね ぼくは古典を覗いてみたい かをる香をよそふるよりは時鳥 きかばや同じこゑやしたると (和泉式部) (返し) 同じ枝に鳴きつつをりし時鳥 こゑはかはらぬものと知らなむ (敦道親王) ここでは時鳥は点景としてあるだけ 時鳥そのものにわが身を仮託することはなかった 自然は物思う<ながめ>の姿勢の中 心の象にふさわしい情景にみつめられ 風情として存在させられた そういう王朝時代の自然とのかかわりが 日本の伝統としてずっと続いてきたのです』 『 ということは 草野心平や芥川を境として 現代では 人間の世界に 蛙や河童も存在感を発揮しだしたと?』 『 はたしてそうだろうか 人間が 蛙を含め 犬や猫の パーソナリティーの獲得に目覚めたころ 自然界をめぐる環境が悪化している これは皮肉な現象です』 『 蛙もゆめゆめ安心できないわけだ』 <司会者のコメント> 蛙さん ゴメンネ きみに関する討議はどうやら悲観的な 結論だった でもまったく不毛という訳 でもなかった 次回のために もっと 勉強しておくからね
2006.11.30
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別れの情景はいつもいっしょだ 『さよなら』とひとこときみが言い ほんのしばらく間をおいて 『さよなら』とぼくが応える そのとき きみの「さよなら」とぼくの「さよなら」に 一瞬の空白がある <何を考えているというわけでもなく> ありふれた日常の言の葉は まるでシュレッダーにかけられて すべてが解体され意味を喪うかのようだ 解き放たれた沈黙の空間に 「さよなら」だけが通い合う 再会のときが来れば 解体された ありふれた日常の言葉たちは また甦って 昨日今日の瑣末やら音信やら とめどもなく 小鳥の囀りのように 撒き散らされる そして 秋の夕暮れ 別れのときはいつもいっしょ 『さよなら』ときみが言い 一瞬の沈黙の余韻のなかで 『さよなら』とぼくが応える
2006.11.29
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ぼくが もし先生だったら 日本史の時間には 武士道についても話してみたい 「惻隠」ということを語ろうか あわれに思うこと いたわしくおもうことが 美徳であった時代について いっしょに学びたいものだ 卑怯が切腹に値することを学びたいものだ 数学の時間には あの「博士の愛した数式」を みんなで輪読してみよう 「友愛数」や「完全数」の話は きっとみんなの興味をかき立て 文系の子でも 数学を好きになってくれるだろう 紀元前6世紀のピュタゴラスにまで 思いを馳せてみてほしい 数学を通じて愛について 思いをめぐらせてもみてほしい さー 美術の時間は 「解体心書」にしようか 『きみの胸のうちにあるこころの実体を 腑分けし画像に表現したらどうなるか』 画用紙いっぱいに ピンクのハートを書き散らすのはだれかな とげとげしい野茨の蔓を描いたのはどの子 いずれにしろ今日は採点無しにしよう 国語の時間には 先生の独断と偏見によって 馬琴の「南総里見八犬伝」に 若干触れてみたいものだ 仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌 八つの徳目について学んでみよう 勧善懲悪・因果応報とは何なのか 古いもののなかにも 新しい理念を発見できるかもしれない 体育の時間は ちょっと苦手だよ でも こんなテーマはどうだろう 柔術や剣術や弓術は 柔道や剣道や弓道になり得たのに 野球やサッカーは何故 球道や蹴道になり得ないのだろう 考えてみようではないか 脱線続きの授業は いくら補習しても追いつかないだろうが 生徒はきっと 授業を愉しんでくれるだろうし 広い視野からものごとを考える習性が つくと思うよ
2006.11.28
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言葉が ときにより 透明な記憶として 甦ることがある 企業の目的は何ですか? 十数年前 きかれても 明確に答えられなかった 「利潤の追求です」 お金儲けは悪いことですか 誰かも言っていたっけ でもどこか抵抗感は拭えない 「労働者の福祉です」 「株主への利益還元です」 「地域に対する貢献です」 ウーン なるほど でも どれをとっても 必要にして十分な条件とは言えないのでは? 企業の目的は Eternal Prosperity! ある経済学者の言葉が 透明な記憶として いま 甦ってくる トヨタ自動車の『改善』運動 英語では Daily Continuous Improvement と表現しているそうだ いま 二つの言葉が互いに連環するとき わたしたち個人個人の 生活信条としても通用し得る 思想のベクトルを持つではないか
2006.11.27
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「女優の浅丘ルリ子は 38キロしかないんだって」 何気ない話題として言ったつもりだったが・・・ けして肥っているとも思えないのに 娘はいたく傷ついたようだった 女性に向かって 体重の話はタブーと自覚した あのときから ずっと気になっている 娘が 食事の代わりに サプリメントを摂ったりしているのは あの話題以来のことだろうか 父はいま ウエストのサイズと 重ねてきた年輪のサイズが 同じになった ウエストが痩せ細ったのか 加齢が過ぎたのか 喜ぶべきか 嘆くべきか いづれにしろ 娘よ 健康がなにより大事 しっかり食べて 元気でいてほしい 祈っているよ
2006.11.27
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けぶるとばかりの夕やみに 匂いのハーモニーが聴こえる エンジェルトランペット 天使の喇叭
2006.11.24
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納得=よく了解しもっともだと認めること。 得心すること。 (広辞林より) いまの世の中 納得がいかないことが多いのは よくわかるけど <今日のピッチングは 自分としても納得がいかない> なんて言うのはいかがなものか 言葉が違うのでは? 今日の試合を投げたのはあなた コントロール不調で負けたのはあなた すべての責任はあなたにある 納得がいかないのは アンパイアの判定? 相手チームのプレイ? 観客のマナー? いいえ いいえ 自分の気持ちに反して 不本意な結果に終わっただけのこと 力を出し切れなかったというなら 潔く負けは負けとして認めよう あなたの力が足りなかったのです 次の機会にまたリベンジすればよい 昔の武将たちは勇敢だった 卑怯を最大の恥とした あの山崎の合戦で敗北した 明智光秀でさえ 『納得がいかない』 なんて言ったろうか 北京オリンピックも近づく 『日本選手に告ぐ!』 納得がいかないなんて 決して口にしてほしくない
2006.11.24
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何を見ていたのだろう くもりガラスの向こう側に 羽化した秋の蝶が 色鮮やかな変身をとげて いましも翔んでゆく 過ぎた歳月 よぎる思い出のなか 思春期を迎えた 少女たちは とある一瞬 とある日 みごとに 彩なす蝶に変化(へんげ)して 翔び去った くもりガラスの向こう側に 何を見ていたのだろう ゆるゆると舞う 小春日和の陽射しの翳 それでも 急ぎ足で季節は移ろうというのに
2006.11.24
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街にはもうクリスマスのデコレーション 「年賀状印刷」の広告が出たりして にわかに気ぜわしくなるこのごろだ 理髪店の電飾もクルクル回ってご苦労さん それはそうと きみの それ 赤と青の縞模様って 動脈と静脈を表わすんだってね 昔 外科医は理髪と兼業だったらしい その名残だというから面白いよね かの ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルの お父さんも サクソニアの公爵に仕える 理髪師兼外科医だったらしいよ そう 年末恒例の「メサイア」公演も近いことだ 出演者は「アーメン・コーラス」の 練習に余念がないことだろう 街中の喧騒がだんだん高潮する季節 音楽の素養とてないぼくは そっと口ずさんでみたりするのだ < Michael row the boat a shore Hallelujah Michael row the boat a shore Hallelujah Michael help to trim the sail Hallelujah Sister help to trim the sail Hallelujah > 漕げよ マイケル ハレルヤ そっと 口ずさんでみる
2006.11.22
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アリラン (朝鮮民謡) 赤とんぼ (日本) 1 アリラン アリラン アラリヨ ゆうやけこやけの赤とんぼ アリラン峠を 越えてゆく 負われて見たのはいつの日か 私をすてて ゆく人は 一里もゆけずに 足が痛む 山の畠の桑の実を 子籠に摘んだはまぼろしか ・・・・・ ・・・・・ 5 アリラン アリラン アラリヨ 十五で姐やは嫁にゆき 金持のどん欲を 憎んだあまり お里のたよりも絶えはてた アリラン峠を 越えてゆく NHK放送の韓流ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」が11月18日 終了した。 舞台は16世紀、朝鮮は李氏王朝中宗王(1506~1544)の時代。 日本では、種子島に鉄砲が伝来(1543)したころの物語。 陰謀や派閥抗争など、様々な困難のなかで知恵を絞りながら自分 の信念を貫いて、国王の厚い信頼をかち得た女性チャングムの生き ざまを描いた作品だった。 恋をからませたストーリーは、それなりに感動的、抒情的なのだが、 その情感、情念に底流するものは、どこか日本的抒情とは異なるの ではなかったろうか。 韓国では、不幸な境遇に対する強い恨みを「恨(ハン)」と呼ぶ。 努力して運命を切り開き、恨を解消することこそが、美徳とされる。 「チャングム」は、そうした韓国文化の象徴でもあった。 同じく、苦難を乗り越えて成長する女性を描いたドラマでも日本の 「おしん」とは異質である。 自らの境遇を受け入れつつ、辛抱を重ねた「おしん」の姿は、チャ ングムとは重ならない。 こんな話もある。 日本映画の「学校の怪談」をヒントに韓国で制作された「女高怪談」 の比較では、日本版は小学生向けのファンタジーに近いのに対し、 韓国版は教師や同級生にいじめられて死んだ女子高生の復讐劇に なっているのだという。 恨みに対するこの情緒的な違いはどこから来るのだろうか。 「チャングムの誓い」を視ていて気がついたことは、「医食同源」と いう言葉は出てきても、食の源である自然への同化、自然への畏敬 の想いは現れては来ない。日本人が感ずるであろう自然への畏敬の 念は、やがては宗教的なものに昇華し、祈りにも通ずるのだろうが、 ここでは、人間同志の相克が終始する。日本の王朝、宮廷では祈り や祭祀が重要な精神的支柱であったと思われるけれども、このドラマ では、そういうシーンは見られない。 韓国の文化が「恨」の文化であるとすれば、 日本の文化は「もののあわれ」の文化ででもあろうか。 このことの差異は冒頭の二つの歌にも現れている。 しかし、心の中にもある日韓の境界を越えてゆくことは重要である。
2006.11.21
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柿食えば また 遥かフランスの芳醇 うまし葡萄の美酒を味わえば ときは豊穣の秋 自然の摂理は 季節の循環を忘れない <天然の恵みに ひとが忘恩の驕りを 持ったとき 自然の摂理も いつか ガラガラ音立てて 崩壊することもあろうか> 秋 ひとは加齢し わたしという個体は 循環することはないというのに かくも天然自然の恵みに 凭れていていいものだろうか 巡るもの 加齢するもの 生きてあるもの 生かされてあるもの いま 生かされてあることに 感謝したいものだが ひとつしかない 己がいのちを 絶つ少年 そんな少年が後を絶たない 今日も哀しい秋の一日になるのだろうか
2006.11.20
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交錯するおとなの目線とこどもの目線 <教育基本法> 遥か宇宙の果ての星雲のようです いつ 煌く五ツ星となって ぼくたちを照らしてくれるのでしょう <しばらく学校へ行くの控えてみては> いいえ いいえ 猫は犬にはなれません トンビは鷹になれません いじめられっ児は いじめられても いじめられても それでも学校へ行くのです <自虐 ?> いいえ いいえ 世の中がこしらえた習性です <お母さんに話したらどうなの> 母は大きくて優しい哺乳瓶です 暖かくくるんでくれるオムツカバーのようです でも・・・ <でも ?> 社会の仕組みは バイアスのないコンピューターです 余裕も許容範囲も狭すぎるのです 母にはコンピューターは制御出来ません <先生には相談しないのですか ?> 先生も気の毒です 一匹のスケープゴートには 目をつむりたいのです 教室を混乱させたくないのです 勤務評定には弱いのです 学校では先生も行政のスケープゴートです <神様にお祈りしましょう> はい ときどき 救ってくださいと 神様にお祈りします お祈りそのものが そのときだけ こころを癒してくれるから でも <でも ?> 神様の手が いじめの現場にまで届いたことはありません だから <だから ?> 死にたいです 前に進もうにも活路がないのです 後に退こうにも退路がないのです 四面楚歌なのです
2006.11.17
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ゆうべ 菊の薫りは雨に溶けていた 雨が上がった今朝 湿った土に 猫じゃらしの穂に 黄や紅の落ち葉に 菊の薫りは染み込んで そこら一帯に 静謐な結界をしつらえたようだ わたしは わたしで 古い辞書を 繙いてみたりするのだが 古い辞書には 古い言葉しか見当たらず 新しい辞書を買うことにした 澄み切った秋の空に 銀色の飛行船 ゆっくり 南へと 漂うふうでもなく 風に追われるふうでもなく しかし わたしには 危うい逃亡者かとも思えたのだが こうして 秋は 言葉のない物語を抱え 急ぎ足で 旅立つのだろうか
2006.11.16
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こんなこと、あんまり言いたくないけど、言わずには居られない。 麻生太郎外相は、永田町NO1の漫画オタクなのだという。 そこで、外相の諮問機関が11月9日、日本製のアニメや漫画 など「ポップカルチャー」を通じ、世界的に日本をアピールしようと する報告書をまとめたそうだ。 「ポップカルチャー勉強会」の開催や「アニメ文化大使」・「漫画 大賞」の設置が提案されたという。 その麻生氏の諮問機関は、「海外交流審議会」と称し会長は 張富士夫トヨタ自動車会長。 麻生氏は週に十数冊の漫画雑誌を読み、9月の自民党総裁選 のおりには、「オタクの聖地」東京・秋葉原で『歌舞伎よりサブカル チャーの方が、よほど日本のイメージだ』とぶち上げ、アキバの オタクから拍手喝采を受けたのだそうな。 小泉前首相は、『官にできることは官で、民にできることは民で』 というのが持論だったが、官がやらねばならぬことは何かについ ては、ついぞ、論議を深めることがなかったし、官がやってはいけ ないことをやらかしたりもした。 さてさて、困ったことだ。 政府が音頭を取るまでもなく、芸術・スポーツ・伝統芸能あらゆる 分野で、民間主導の海外交流は、ずっとずっと以前から活発に行 われて来た。 政冷といわれるなかにあって、政治への不信を民間の文化交流 がどれほどカバーしてきたことか。 そのことに対する評価を差し置いて、今更何を言い始めようという のだろう、このひとは。 少年ジャンプの(こちら葛飾亀有公園前派出所)を、自身のホーム ページで「こち亀」と題して熱く語る外相。 ほんとに大丈夫なのかしら、国民は心配になる。 だって、そうでしょう。「こち亀」だろうが「そち亀」だろうが、好きで読 むのは勝手だが、他人に価値観を押し付けるほどの代物だろうか。 ましてや、「歌舞伎よりサブカルチャー」などというにいたっては不謹 慎の極み。 もし本当に、外相のいうようにその方が「よほど日本のイメージだ」 というのなら、そんなレベルでしかない日本のイメージの方が問題な のであって、そんな日本のイメージをレベルアップすることこそ肝要 なのではないのですか。 とにかく漫画やアニメに一国の外相が口出しすることはない。 どうしてもやりたいというのなら、そんなレベルのことは部下に任せ ておいて、もっと文化交流全般に目配りが欲しい。 助成すべきものには助成し、つまり大所、高所から采配を振るうの が大臣たるものの仕事でしょう。 核保有論議容認の発言をしたり、あなたの思考、発想の奥行きは 浅うはないですか麻生さん。
2006.11.15
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(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;8 大津皇子の胸のうちに、謀叛の思いはあったろうか。 あったとも言えるし、なかったとも言える。 もし、謀叛を実行するとすれば、その機会は殯宮の儀の行われる 場であろう。 そこで、皇太后と草壁を斬る。 しかし、父の遺骸を血で汚したくないという意識もあったろう。 右せんか、左せんか。安全に生きる道を択ぶべきか、たとえ死と 隣り合わせであったとしても、決然として起つべきか。 迷いのなかで、いま大津にとって最も確定的に執り得る、いや実行 しておきたいことといえば、伊勢にいる姉に会っておくことだった。 大津12歳のときに、姉大伯と別れて以来、すでに13年の歳月が 流れていた。 大津は密かに伊勢に赴いた。 眼前にある姉は、その美貌は昔のままにおもかげを残しているが 表情からは往時の生彩を喪っていた。 13年もの間、ずっと神に仕えるということが、どのようなことか、恐 らくは自分の想像を超えたことに違いないと思うと、大津は姉が辿っ てきた運命がただ悲しかった。 そのときも、大津の気持ちのなかでは、まだ謀叛への思いは判然 とした形を持ったものではなかった。 言葉は少なくても、姉と弟は会話を交わしているうちに、自然とお互 いの胸のうちの氷塊が融け、暖かい情念が蘇ってくるのを感じた。 埴輪にも似た姉の表情にも、ようやく往時のように血が通ってきたと 思って大津は安心した。 そして大津は、何故に自分が危険を冒してまで姉に会いに来たのか に思いあたった。むろん謀叛についての相談のためではない。斉宮に 仕える姉になにかを期待することなどできよう筈がない。 身に迫る危険、明日をも知れない身を思い、今生の訣別のために、 ただ一人の姉のもとを訪ねたのだった。 大津は、飛鳥に、よしや、どのような運命が待ち受けているとしても、 それに、敢えてあらがうことなく己の進退を決することを、この時、漸く 胸に刻み込むことが出来たのだった。 <大津皇子ひそかに伊勢の神宮に下りて 上り来ましし時の大伯皇女の御作歌二首> わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (万葉集 巻二) 朱鳥元年(686年)9月24日、大津皇子の、皇太子を倒そうという 計略が発覚したとされる。 一説には、河嶋皇子が大津を裏切ったのだと。 一説には、沙門行心が大津に反逆をすすめたのだと。 10月2日には、謀叛の科で、大津は他の30余人とともに逮捕。 大津は数十人の兵士たちに囲まれ、屋形を出、磐余の訳語田(お さだ)の屋形に連行された。 磐余の池の傍を通った時、大津はたしかに鴨の鳴く声を聞いたと 思った。 <大津皇子、死をたまはりし時に磐余の池の 堤にして涙を流して作らす> ももつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (万葉集 巻三) 大津は、翌10月3日、皇太后により死を賜り、従容として首をくくられ て死んだ。 時に皇子は25歳。 その悲惨さを、「日本書紀」は妃の山辺皇女の痛ましい姿に表現する。 『髪を被(くだしみだ)して徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて 殉(ともにし)ぬ。見るもの皆嘆く』 と。 大伯皇女は、即座に斉王の任を解かれ、11月16日、都に戻って来た。 漸くスケープゴートの身を解き放たれた言えようか。 しかし、そのときすでに弟大津はこの世の人ではなかった。 <大津皇子薨(かむあが)りましし後、大伯皇女 伊勢の斉宮より京に上る時の御作歌二首> 神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに 見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに (万葉集 巻二) いずれも非業の死を遂げた、ただ一人の弟を想う哀傷を奥深い表現 につつんで詠ったものだった。 (この項 おわり)
2006.11.14
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(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;7 天武天皇は、天智が制定した近江令の修訂、古事記・日本書紀二つの 修史編纂事業、氏姓と官人制度の整備等の事業に着手した。 しかし、事業は完成することなく、天皇は病に臥せった。 伊勢神宮への崇敬の念が厚い天皇は、皇女らを神宮に赴かせ天皇の 平安を祈らせた。 また、諸寺の堂塔を清掃させ、天下に大赦令を発し、囚獄は空になった という。 天皇の病を占ったところ、宮中の草薙剣に起因するとのことで、即日こ れを尾張の熱田神宮に送達したりした。 僧正、僧都らは宮中に参内して、病気平癒のための仏事につとめ、とき には100人の僧を招いて金光明経を宮中で誦読させた。 しかし、すべての営みも効き目がなく、天皇は重大な決意のもとに詔を 発した。『天下の事、大小を問わず、悉(ことごと)に皇后及び皇太子に 啓(まう)せ』 と。 本来ならば、皇太子である草壁がひとり、大権を行使すべきはずだが、 それが不可能であった。二人が大権を引き継ぐといっても、内実は皇后 があとをうけ、皇太子を将来の後継者として擁護するという形態であった。 それほど天皇、皇后は、草壁太子の力に対して危惧の念を抱いていた。 衆望を一身に集める大津皇子の存在があり、それとの対抗上、皇后が 前面にのり出さざるを得なかった。 皇后、太子の二人が大権を握ったことは、共治体制から大津を決定的 に疎外したことにほかならない。 大津は、不安と不満を抑えつつ、父帝の病状を見守り、ひたすら回復を 念願していたであろう。 大津は、父の危篤のなかにあって、権力の中枢から追われて、かれの 存在、力量を買ってくれていた父との密接な関係を絶たれた。 それは、排他的な古代専制王権のおぞましい非情性であった。 皇后、太子は、白雉の元号以来とだえていた元号をたてて、朱鳥(あか みとり)とした。それ以前にどこかからに朱い鳥が現れたとの報告があり、 それを祥瑞として取り扱ったもので、天武の延命を願望しての改元だった。 しかし、薬石効なく、9月9日天武天皇は飛鳥浄御原宮で死去した。 この時点において、皇太后は即位することなく称制の形で執政し草壁 の即位をはかったが、もはや称制の皇太后と草壁太子には、天武という 絶大な力をもつバックが失われた。 9月11日、宮の南庭に、天武の遺骸を安置するための殯宮の建設が 始められたのだったが・・・ (つづく)
2006.11.13
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想い出の歌があればこそ人は 想い出のうちに生きることができる 歌う歌があればこそ 人のこころに太陽は交響する 泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ あの娘(こ)と別れた哀しさに 山のかけすも鳴いていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ 戦後の経済復興が進み「神武景気」と呼ばれた昭和30年(1955)。 仕事を求めて地方から出てきた男が故郷に残してきた恋人をしのぶ 思いをこの歌は描いている。 昭和の歌謡界の代表的存在である、船村徹氏(74)の出世作で、終 戦後の貧しい時代に、ともに創作に励んだ”戦友”故高野公男さんの詞。 無名の作家二人のコラボレーションを、キングのプロデューサーは スター歌手故春日八郎さんに歌わせることを決めた。 春日八郎は、昭和27年に「赤いランプの終列車」でデビュー。 29年には「お富さん」で空前のヒットをとばした。 「別れの一本杉」も、田舎から出てきて都会で働いている若者の共感 を呼び大ヒットとなった。 しかし、肺結核にむしばまれ、病床にあった高野さんは、大ヒットを記録 するなか、翌昭和31年9月、26歳の若さで亡くなった。 春日八郎は、その後も、「あん時ゃどしゃぶり」「山の吊り橋」「長崎の女」 などのヒット曲を含む1000曲にも及ぶ歌を吹き込んで活躍したが、平成 3年10月に死去している。 高野さんが亡くなって50年、春日八郎さんが亡くなって15年。 キングは「別れの一本杉」が多くの歌手たちに歌い継がれていることに 着目し、歌謡史上異例のアルバムを完成させた。 それは、「別れの一本杉は枯れず」というすべて同一曲で構成された 史上初のアルバムである。 春日八郎さんの「別れの一本杉」を故美空ひばり・故三橋美智也・故 村田英雄・北島三郎・・五木ひろし ら時代を代表するそうそうたる顔ぶ れがカバーした豪華版である。 春日さん以外は、シングル発売されたものはないという。 船村さんは、毎年高野さんの命日には故郷の茨城県笠間市を訪れて いるというが、今年はこのアルバムを高野さんの墓前に持っていきたい ということである。 10月22日、キングレコードから発売されるこのアルバムぜひ聞いて みたいものである。 2) 遠い 遠い 想い出しても 遠い空 必ず東京へ ついたなら 便りおくれと言った娘(ひと) りんごのような 赤い頬っぺの あの泪 3) 呼んで 呼んで そっと月夜にゃ 呼んでみた 嫁にもゆかずにこの俺の 帰りひたすら待っている あの娘はいくつ とうに二十(はたち)は 過ぎたろに
2006.11.10
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(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;6 天武8年(679年)、大津皇子17歳のとき、皇后、草壁皇子を はじめとして、大津、高市、河嶋、忍壁、志貴の6皇子を率い、 群臣を従え、天武天皇は吉野の離宮に向かった。 そこは、「千歳の後に、無事なからしむ」ことを誓う吉野の盟誓 の場ではあったが、同時に草壁皇子を第一等に据えることにより 皇位継承についての争いなきよう神に宣誓する場でもあった。 そして、二年後に草壁皇子は立太子したのであったが、それは もっぱら天武と皇后の強力な支持によるものだった。 しかし、天武12年、大津皇子21歳のとき、「大津皇子、初めて 朝政を聴こしめす」と日本書紀は記す。 天皇を継ぐ位置にある皇太子が存在するにもかかわらず、大津 皇子が政治を執ったということは、大津の声望が、それだけ宮廷の 内外で高かったからに外ならない。 その年10月、天皇は群臣を従えて倉梯(くらはし)の地へ遊猟に 赴いた。 ここは、十市皇女が入る予定だった斉宮が設けられた所である。 十市皇女の、いたましい自害事件からすでに6年の歳月が流れて いたが、一行のなかにいた高市皇子の十市への追想は、暗く切実な ものがあったであろう。 『懐風藻』に「遊猟」と題する大津皇子の詩篇が収載されている。 朝(あした)に択ぶ三能の士 暮(ゆふへ)に開く万騎の筵(むしろ) に始まるこの詩の大意は < 朝には有能な官人を選りすぐって猟に出 夕べには多数の騎馬の勇士を集め酒宴を開く 獲物の切り肉を食めば みなともにこころは豁として開け 酒盃を傾けてはともに陶然となった 弓は谷間に輝き 雲のようにたなびく旌旗は 嶺の前に張り巡らされている 日の光はすでに山に隠れたが 狩の壮士たちよ 今しばらくこの場に留まろうではないか > でもあろうか。 集団の雰囲気を、生彩に富む筆致で詠う、白眉ともいうべき 一編であった。 宮廷人の前に披露されて、万雷の喝采を博したに違いない。 (つづく)
2006.11.09
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団栗や 倶利伽羅峠 ころげつつ 松根東洋城 庭の落ち葉を掃いていると 小さな団栗がいっぱい落ちている 団栗ってこんなに小さかったかな かの木曾義仲が 火牛の術で平家を打ち破った倶利伽羅峠を 転げ落ちるのだもの 情緒的風景としても この団栗は そこそこ大きくなければならないのだが 庭におちている団栗はどうも ウラジロガシの実らしい ブナ科のシイやカシなどのなかまの果実を総称して団栗という クヌギ・アベマキ・カシワ・コナラ・ミズナラ・アカガシ・シラカシ アラカシ・ウバメガシ・マテバシイ・スダジイ etc etc 団栗もいろいろ なかでもクヌギやカシワの実は大型だ 倶利伽羅峠をころげつつあるのはこっちの方だろう <どんぐりコロコロ> どんぐりコロコロどんぶりこ お池にはまってさあ大変 どじょうがでてきてこんにちは 坊ちゃんいっしょに遊びましょう どんぐりコロコロよろこんで しばらくいっしょに遊んだが やっぱりお山がこいしいと 泣いてはどじょうをこまらせた (大正10年 詞;青木存義 曲;梁田貞) どじょうが 坊ちゃん遊びましょうというくらいだもの このときの団栗は きっと あまり大きくなかったに違いない かといって シイの実のように細長くてもコロコロ転げにくい 丸くて中型 コナラかミズナラがふさわしい 団栗さんありがとう 今日は団栗さんに遊んでもらった
2006.11.08
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(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;5 漢字に関する日本的碩学であり、先日亡くなられた故白川静さんは、 甲骨文字、金石文字を渉猟しつつ『愛』という字について説明されてい る。それによれば、『愛』という文字は<後ろを振り返りながら立ち去る 人の体から心臓が飛び出している形>なのだそうである。 大津皇子と、父天武天皇の間に、或る日こんな会話がかわされたこと であろう。 <天皇、伊勢神宮の斉王(いつきのみこ)、大伯皇女のことでございま すが、皇女は、わたくしと同じく、早く母を亡くしました。この国にとって 大事な伊勢神宮にお仕えするのは、たしかに姉にとっては大きな誇り でございます。ただその反面、人恋しさもより深くなることと思います。 姉は淋しがりやです。もしできることでしたら、将来姉を都に呼び戻し てやってほしいのです> <皇子よ、大伯は斉王の大役を全うできないと申すのか> <いいえ、そうは申しておりません。姉は大役を全うするでしょう。ただ わたくしは姉に人並みの女人としての幸せの時も持ってほしいのです> <橘豊日大王(用命天皇)の皇女、酢香手姫は、厩戸皇子(聖徳太子) が亡くなるまで37年間斉王であった。吾等が近江朝の軍に勝てたのも 伊勢神宮のお力があったればこそだぞ> そして、多くの人命も喪われた。だからその償いにスケープゴートとして 姉は神に遣わされるのか。大津はそう思わざるを得なかった。 大伯が泊瀬斉宮に住むようになってからは、父は殆ど大伯と会っていな かった。そして翌年10月に大伯は泊瀬斉宮から伊勢神宮に向かったの だった。大伯はまだ14歳だった。 その時、大津は父と一緒に大伯を見送った。 まだ13歳だった大津は、ただ姉と別れるのが淋しく、姉の後を追って駈 け出そうとし父に腕を掴まれた。 ここには、文字どおり姉弟に通いあう『愛』の姿があった。 大伯が斉王になったのには、天皇の意思よりも皇后の意思の方が強か った。もし、大伯が高市皇子あたりの妃になったら、大津には天皇以外 に有力な庇護者が出来る。皇后はそれを恐れた。 わが子、草壁皇子の立太子のための布石であった。 (つづく)
2006.11.07
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デスノートは軽くない きみは決してデスノートを書いてはいけない 憎しみ・怨み・蔑み・嫌悪 きみが今胸に溜め込んでいる よくない感情のすべては きみの人生ではいっときのもの しばらくは思考停止しておけばよい 戦争・テロ・紛争 あれはゲームだろうか 人のいのちは いや 犬のいのちだって 猫のいのちだって 兎のいのちだって すべてのいのちは ゲームのように弄んではならない だからきみはデスノートを書いてはならないのだ もちろん自署捺印などとんでもないはなし 弱い人には手をかしてあげよう こころが傷ついた人にはいっしょにがんばろうねと 病気の人がいたら神様に祈ってあげるよと 言葉をかけてあげようよ 死にたい人がいたら 自殺したい人がいたら いじめに遇ってる子を見つけたら それこそ きみに書いてほしいのは 記入された人が 生きる喜びを取り戻す そんなノートなのだ 取り敢えずはライフノートと名付けておこう きみはデスノートを書いてはいけない きみはライフノートを書かなければならない
2006.11.07
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(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;4 大津皇子の母 大田皇女が死没後、その妹である讃良皇女は 大海人皇子の嫡妻と遇されるようになっていた。 天智天皇には、皇后倭姫王(やまとのひめみこ)との間に男子 がなく、皇子は卑母(伊賀采女宅子娘=いがのうねめのやかこ のいらつめ)所生の大友皇子しかいなかった。 このため、大海人は、天智の弟である自分こそが次期大王と 期待して来た。 しかし、天智は天智10年(671年)大友皇子を太政大臣」に 任命し、より大王家の血を濃く引いているかどうかではなく、 前大王からその直系男子へという単純明快な権限委譲の原則 をうち立てようとしていたのである。 天智が病を得て重態となり、政権交替が近づくとさらに緊張感 は増し、大海人には抹殺の危険が迫った。 大海人は出家・遁世を宣言し、讃良皇女と草壁皇子を連れて 吉野に逃れたのであった。 天智10年12月、天智が崩御するや、天武元年(672年)大海 人は兵を挙げた。 天武元年6月、高市皇子と大津皇子は大津の宮から脱出した。 高市は19歳、大津は10歳であった。伯父天智にか可愛がられ た大津ではあったが、天智が亡くなったいま信頼出来るのは、天智 の子大友ではなく、やはり父であったろう。 そして、鈴鹿の関で父と再会し戦いに勝った父と共に飛鳥に戻って 来た。 壬申の乱といわれる一ヶ月の戦闘で勝利した大海人は、飛鳥浄 御原で天武天皇として即位、讃良皇女は天武の嫡妻として皇后に 立てられた。 一方大津の姉大伯皇女のこのころの状況はどうだったろうか。 父が吉野から東国に脱出する前から、このことあるを予期して いた額田王に連れられて、大伯は山背の葛野にいたのである。 戦いの後、大伯が父と再会したのは、673年の2月、この時 大伯は13歳であった。 大伯は、母によく似て、嫋嫋とした容姿で、女性らしい気性の 持ち主だった。その点大田皇女の妹讃良とは対照的だった。 大伯が伊勢神宮の祭神天照大神に仕える斉王に任命され、 まず身を潔めるために泊瀬(はつせ=初瀬)の斎宮に住むよう になったのは673年4月であった。 父と再会して2ヶ月とはたっていなかった。 スケープゴートのような役割を担った大伯のこの先の運命 は、果たしてどんな方向に向かおうというのだろうか。 (つづく)
2006.11.06
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「ティファニー」でモーニングのコーヒーを飲んでいる カポーティーのティファニーは高級宝飾店だけど ここはオードリーにあやかって名付けた喫茶店 コーヒーの香りに沿って想いめぐらしが湧いてくる そうそう 龍さんはどうしているだろう 「やあ やあ やあ」 「どうも どうも どうも」 が懐かしい 黒いチューリップハット 小柄なからだに 長いトレンチコート 誰にでも気さくに手を差し出す あれは握手を求めているのではない 握手をプレゼントしているのだ 詩人の永瀬清子さんが亡くなったとき おいおい泣きながら 岡山の草深い田舎まで わざわざ弔問に出かけたそうだ ああ 明け方に来る人よ ででっぽっぽーをも一度聞きたいな <さあ 今日のブログに何を記入しようか> 「郭公」という喫茶店もあったっけ 同級生の友達とよく通ったっけ 文科の学生にもかかわらず 友達は医学部生といつも自己紹介する癖があった その方がもてると思ったのだろう 名曲喫茶の「郭公」でクラシック曲をリクエストするときは 『 モーツァルトのピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 ケッヘル466 をかけてください』 といった調子だったっけ あいつは <ケッヘル番号だけは余計だと思うけどなあ> そんな衒いももうお互い捨ててしまった 喫茶店で想いをめぐらし さあ今日のブログに何を書こうか
2006.11.06
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(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;3 このへんで一度大津皇子をめぐる情報を整理しておかなければならない。 古代には、天皇をはじめ、貴族、地方の豪族は一夫多妻の結婚形態が 一般的で、その子女は多かった。 大津皇子の父天武には、10妻があり、皇子が11人、皇女が6人いた。 その系譜はおよそ次ぎのようだった。 1 讃良皇女 (天智の女、 妃) 草壁皇子の母 2 大田皇女 (天智の女、 妃) 大伯皇女、大津皇子の母 3 大江皇女 (天智の女、 妃) 長皇子、弓削皇子の母 4 新田部皇女 (天智の女、 妃) 舎人皇子の母 5 氷上娘 (藤原鎌足の女、夫人) 但馬皇子の母 6 五百重娘 (氷上娘の妹、夫人) 新田部皇子の母 7 オホヌノ娘 (蘇我赤兄の女、夫人)穂積皇子、紀皇女、田形皇子の母 8 額田王 (鏡王の女) 十市皇女の母 9 尼子娘 (胸形君徳善の女) 高市皇子の母 10 カヂヒメノ娘 (宍人大麻呂の女)忍壁、磯城、泊瀬部皇子、託基皇女の母 天智天皇は、自分の皇女を4人も弟天武に与えたのだった。 そのうちの讃良がのちに天武の皇后、さらには持統天皇となる。 大津皇子をめぐる時系列的な動きは、つぎのとおりだった。 天智2(663・1歳) 女那大津で出生。2歳上に同母姉大伯。 天智6(667・5歳) 母大田皇女没。 天武1(672・10歳) 壬申の乱で高市と共に大津宮を脱出。 鈴鹿の関で父天武と再会。 天武2(673・11歳) 姉大伯皇女、伊勢斉王に卜定される。 大津皇子の母大田皇女は、大津を生んで間もなく亡くなった。 大津は母の顔をよく覚えていない。しかし、大津の胸奥には、亡き母に 対する思慕の情が消えることはなかった。そんなこころの代償行為として 姉大伯への愛恋の想いもまた強かった。 姉も大津も、大田皇女の早逝を憐れんだ天智に愛されて育った。 天智は二人を不憫に思い、近江の宮に屋形を建てて寵愛した。 宮廷人の話によれば、大田皇女は天智の娘たちのなかでも、とりわけ 美しかったらしい。父がまだ皇子の時代熱愛していた額田王をあっさりと 兄天智に譲ったのも兄から大田皇女を貰ったせいらしい。 父がまだ大海人皇子のころ、天智に疎外され、生命の危険を感じ、髪 を剃り、吉野の宮滝の離宮に隠棲したのは、天智10年の10月で、大津 が9歳の時であった。 そして、この年の12月に天智帝は近江の宮で没するのであるが・・・・ (つづく)
2006.11.02
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野菊 遠山の紅葉をよそに 凛として ひっそりと野菊は咲いている よしや 霜 天に満つことあっても * 野菊 文部省唱歌 詞;石森延男 (昭和17年) 一、 遠い山から吹いて来る こ寒い風にゆれながら けだかく きよくにおう花 きれいな野菊 うすむらさきよ 二、 秋の日ざしをあびてとぶ とんぼをかろく休ませて しずかに咲いた野べの花 やさしい野菊 うすむらさきよ 三、 しもがおりてもまけないで 野原や山にむれて咲き 秋のなごりをおしむ花 あかるい野菊 うすむらさきよ
2006.11.01
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