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2006年は果たして”電子ペーパー元年”となるのか?過去のニュースの通りに事が進んでいれば、元年となるはずである。そうした状況の中、その電子ペーパーを利用したサブノートが欲しいと思うのは自分だけじゃないはず。既に述べたように、マルチメディアを扱おうとすれば重装備が必要になる。しかし、それを切り捨てればシンプル・イズ・ビューティフルなサブノートが出来上がるのではないか。活字中毒者の為の携帯用(サブノート・ハンドヘルド・ポケット)PCの発売を心待ちにしているのだが、それは今の時代ではメーカーとしては”大きな冒険”になるのだろうな。書くことであれ読むことであれ、そこに活字を求める人間にとっては、動画は邪魔者である。動画は動画を操作できるPCや家電で見ればいい。ポータブルDVDが販売されているが、その機能がノートPCにあれば便利だろうと考えるのは、間違いである。便利+便利=もっと便利もっと便利+便利=もっともっと便利とメーカーは考えているのかもしれないが、実際には便利+便利=全て中途半端となることが多く、全て中途半端+便利=(自分の用途にゃ)使えねぇ~~という結果になってしまっている。もちろん上記はテキスト好きな人間の目から見た場合だ。マルチメディアを持ち歩くということを望んでいた人間には、現在のPDAやハンドヘルドの方向性は正しいのだろう。昔はロールスロイスやベンツといえばステータスシンボルになりうる車だった。しかし、どんなに素晴らしい車であっても、狭い路地を通って近所のコンビニに出かけることには使えない。大通りを行くにしても、自宅からほんの100メートルほどの店にそんな車で出かけるのは無駄以外のなにものでも無い。近くの店に出かけるのならママチャリで十分だ。原付バイクなら万々歳だ。サブノートというジャンルがある。最近ではモバイルノートとも呼ぶ。携帯性を考慮して小型化され、使用可能時間も随分延びた。だが、自分のような人間にとっては、どこか方向違いに思える。やっぱり”ベンツでコンビニ”は変わらず、そのベンツが小さくなっただけといった気がするのである。原付やママチャリのようなモバイルPCは無いものかと思う。大きさはA4サイズ以下なら、どんなのでもかまわない。単3乾電池2本で動作するのなら、低スペック・サブノートでいい。動画や音楽をきびきびと操作できるような能力はいらない。テキストの入出力が迅速であれば十分なのだ。お遊びでPC-DOSを載せられますなんて話があれば、無茶苦茶嬉しいだろうが(笑)IBMもといレノボはやってくれんかなぁ。PC-DOS2000が快適に動く低スペックノート…。
2006年01月31日
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昼休みに512メガのDDRを買いに出かけて、一番安いのを買ってきた。まともに動いているので”良し”である(笑)仕事補助マシンが復旧したので、気持ちよく仕事の再開だ。今回の支出は3980円の中古マザー+4280円の新品メモリー。とりあえず1万円以内で収まってよかった。こういう時ってのは精神的に危なくて、ええぃ、面倒だ。まとめて叩き切ってやる~、なんて気分になると全部新品になってしまうおそれがある。幾らバカでも過去の学習の積み重ね(笑)で、そういうマネをすることはなくなったが、もとより衝動買いの好きな人間であるから、いつ何時PC一式全部新品なんてことを思いつくか解らない。少なくとも、これで2,3年保ってくれると嬉しいなぁ。メール環境も復活し、特に重要な連絡等入ってないことを確認したが、昨日故障してからおよそ24時間は、何となく長く感じたなぁ。ともあれ、復活だ。
2006年01月31日
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昨日は少し早めに仕事場を離れ、パソコンショップ巡りをしてきた。もちろん壊れたアスロンマシン復旧の為にマザーボードを探しての東西行脚である。しかし、こちらの期待に添うものがない。とりあえず中古のSL-KT600-RLを購入し、帰宅したが、購入の後で気づいた。メモリーが無い!!そうだった。今までのマザー(K7S5A)は昔のSD-RAMだったのに、KT600-RLはDDRじゃないか。こんなことなら、メモリーだけ新調して自宅に眠っている478のセレロンマシンを事務所に抱えてきた方が良かった…。後の祭りである。無駄遣いをしてしまった……。仕方ないので昼休みにでもエモリーを購入しに出かけるつもりだ。こうなったら、そのうちに時間を見つけて、K7S5Aのコンデンサ張替えをして、復活させちゃる……と一瞬だけ思ったが、HDDやら何やら新たな出費を増やすだけなので廃棄した方がいいな。時間と経費を天秤にかけた結果だ。ああ、懐が寒い…。
2006年01月31日
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たった今だ。事務所に置いたアスロンマシン…。これじゃ、仕事に支障をきたす。急遽、手持ちのノート(DELL L400)を動かして急場をしのいでいるが、不便この上ない。筐体を開いてアレコレやったが無駄。よくよく見ればマザーボード上にあるCPU近くのコンデンサの頭が見事に膨らんでいる…。6本中4本がプックリだ……OTZ.久しくコンデンサなんぞ購入してないので価格が判らんが、1本辺り2~3百円だと思う。問題は購入に出かける暇が無いということだ。いっそ新調するか、と思わないでもないが、修理できそうなものを修理にチャレンジもせず捨ててしまうのは、貧乏人としてのプライドが許さない(笑)しかし、まいったなぁ…。
2006年01月30日
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朝である。眠いのである。外でちょっとしたメモを取ることがある。メモを書き付ける先は、その時に持っている本のカバーだ。EDP処理用の連帳の白紙(ストックフォーム)の最初の1枚が必ず余るので、それをブックカバーにしている。白紙は汚れやすいが、元々ラインプリンター用の紙であるから、ボールペンのインクの”乗り”も良い。昔はビジネス手帳を持ち歩いたこともあったが、スケジュール管理は”進捗表”だけで十分だ。やがわさんがコメント下さったが、以前HPの200LXという携帯PCが流行ったことがある。その頃はまだ自分は98HAを使っていたこともあり(主な理由は資金不足)手を出さなかったのだが、熱狂的なファンが多かった。今でも愛用している人は少なくない。しかし、時代はマルチメディアの方向へ大きく傾いていた。これはマイクロソフト社とPCメーカーの思惑によるところが大きい。”より派手に””より多機能に”といった方向で、その流れが”テキスト処理マシン”を葬り去ったと言っていい。WindowsCEマシンが多く出されるようになり、自分は後にHITACHIのPERSONAを入手して使うようになった。最終的に手元に残っているのは”ハンドヘルドPC"HPW-600JCである。このマシンを選ぶ決め手はATOKが標準で搭載されていたことと、長時間使用できたことである。だが、WindowsCEマシンであるから、グラフィック処理にCPUパワーを奪われて、もっさりとした動作にイライラさせられた。疑似グラフィック搭載のテキスト処理マシンであってくれたらもっとテキパキ動くのだろうなぁ、と思い続けて、やがて使わなくなった。ZAURUSに浮気したこともある。だが、自分にはスタイラスペンを器用に使うことは出来なかった。もともと自分の字が汚いことは自覚している。入力の段階でイライラは募るばかりだった。手書きメモを使った方が便利だしストレスも少ない、と感じたものだ。今、メーカーの努力でWindowsXPでも気持ちよく動くノートPCが発売されている。だが、気軽に使うには高価すぎる。たかだか紙のノート替わりに使う為に20万も30万もかけるのはどうかと思う。今こそ、PC-DOS搭載のテキストベースの携帯PCを出してもらえないかと思う。blogの隆盛で個人がhtmlを作成する必要性は減った。blogに書き込む文章だけであれば、テキストが書ければ十分だ。様々な効果をテキストに付加するには、それを行う為の母艦があれば良い。つまりは下書き専用マシンが欲しいということだ。重厚肥大なマルチメディアは母艦PCに任せておけば良い。こう願っている人は決して少なくないと思う。適材適所という言葉がある。PCにも適材適所があってしかるべきだと思うが、如何?絶対にあり得ないだろうなぁ、と思ってはいるのだが、NECが昔の98シリーズの技術資産を活かして”ポケット98”でも出してくれないかと思う。サイズは200LXサイズでもいいし、98HAサイズでもいい。過去のソフト資産は腐るほどある。死蔵させるのはもったいない。つい夢想してしまう。自分が欲しいのは次のようなスペックだ。CPU内に2メガバイト程度の2次キャッシュを載せ、PC-DOSがその2次キャッシュの上で動き、メモリは外部に10メガもあれば十分。データ記録用には64メガ程度のフラッシュメモリが内蔵され、外部記憶としてフラッシュメモリ用スロットがあればいい。そしてバックライト無しのVGA程度の反射型液晶(モノクロで十分)こんなことを考えていると、ファミコンの世界に思いが至る。任天堂が公認しているかどうかは知らないが、多くのファミコン互換機が今現在も発売されている。中には液晶付で携帯できるタイプのものまである。過去のハードウェア資産を切り捨ててしまった国内PCメーカーには、何故未だにファミコン互換機が発売されているのか、理由がわかるだろうか。確かにPCとゲーム機の市場は異なるが、現在の重厚肥大なゲームだけでなく、過去のシンプルなゲームをプレイしたいユーザーが数多く存在しているということではないのか。テキスト処理専用マシン…。昔の携帯タイプのワープロ専用機が懐かしく思い出される今日この頃である。
2006年01月30日
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省エネ・モノクロノートが欲しいのである。実に切実に感じている。本当のノートのように、手軽に使えるノートPCだ。重厚肥大は時代の要請であるかもしれないが、そんな今だからこそ、自分にはNECがかつて出したPC-98HAのようなマシン(当時のキーボードは激しく改善を要求)を、とてつもなく欲しく感じるのである。紙のノートの替わりに使えるノートPCが欲しい。ハードディスクも要らない。メモリーカード用のスロットさえあればいい。画面はカラーである必要など全く無い。モノクロ液晶で16階調も出せれば十分である。256階調もあれば涙流して喜ぶぞ。手書きメモ用にフリーハンドで絵が描ける環境さえあればいい。それが省エネとコストダウンを妨げるのであれば、テキスト処理専用であってもいい。バックライトも要らない。明るいところで視認性が良ければ、反射型の方がいい。マルチメディアなんて要らないのだ。動画や音楽を扱う機能は一切いらない。紙のノートで動画を見る必要なんてない。あくまでも紙のノート替わりを目指して欲しい。液晶サイズは10.4インチあれば十分だ。できればxga以上の広さが欲しいが、無理ならVGAでも我慢する。キーボードはもちろんフルキーボードだ。但し、テン・キーは我慢することもできる。できれば英語キーボードであって欲しい。MS-Windowsな世界を離れれば、キーは少しでも減らすことができる。漢字フォントは第4水準までROM内蔵してくれればいい。それをテキスト専用VRAMに書き込む形でもいい。と、書いてきて思ったが、要するに、今の技術でNECのPC-98HAや富士通のIntertopの少しマシなヤツを再現してもらいたいわけだ。今の技術力で再現するとすれば、つまり今風に重厚肥大なマシンスペックを全て忘れて、紙のノート替わりを目ざしてくれないかなと思う。本当の意味でのサブノートで、PC母艦とテキストのやりとりができるLANの口さえあれば問題ない。こんなシンプルな製品を、どこかのメーカーが出してくれないかと思う。文章書き専用サブマシン…。サブマシンであるから、清書できる環境さえいらない。パワーを必要とするワープロなど無くて良く、小気味よく使えるエディターと気持ちの良い日本語入力環境さえあればいい。以上のような極限まで機能を絞り込んだサブノートを、気軽に持ち歩けれる文章のエントリーマシンを、どこかのメーカーが出してくれないかなと思う。出して欲しいと思うと同時に、無理だろうなぁとも思う。暮れのW-ZERO3発売を見て、欲しいと思うと同時に、上記のようなことを思った。MP3プレイヤーは持っている。PHSも持っている。足りないのはテキスト・エントリー・マシンだけ。今更286や386というわけにもいかないだろうが、気軽に買えて気軽に持ち運べるサブノートがあってもいいじゃないか、と思う。上記の構成なら、実売2万円以下で出せるはず。ひょっとしたら自分はワープロマシンの再生を望んでいるのかもしれない。
2006年01月27日
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省エネ・モノクロノートが欲しいのである。実に切実に感じている。本当のノートのように、手軽に使えるノートPCだ。重厚肥大は時代の要請であるかもしれないが、そんな今だからこそ、自分にはNECがかつて出したPC-98HAのようなマシン(当時のキーボードは激しく改善を要求)を、とてつもなく欲しく感じるのである。紙のノートの替わりに使えるノートPCが欲しい。ハードディスクも要らない。メモリーカード用のスロットさえあればいい。画面はカラーである必要など全く無い。モノクロ液晶で16階調も出せれば十分である。256階調もあれば涙流して喜ぶぞ。手書きメモ用にフリーハンドで絵が描ける環境さえあればいい。それが省エネとコストダウンを妨げるのであれば、テキスト処理専用であってもいい。バックライトも要らない。明るいところで視認性が良ければ、反射型の方がいい。マルチメディアなんて要らないのだ。動画や音楽を扱う機能は一切いらない。紙のノートで動画を見る必要なんてない。あくまでも紙のノート替わりを目指して欲しい。液晶サイズは10.4インチあれば十分だ。できればxga以上の広さが欲しいが、無理ならVGAでも我慢する。キーボードはもちろんフルキーボードだ。但し、テン・キーは我慢することもできる。できれば英語キーボードであって欲しい。MS-Windowsな世界を離れれば、キーは少しでも減らすことができる。漢字フォントは第4水準までROM内蔵してくれればいい。それをテキスト専用VRAMに書き込む形でもいい。と、書いてきて思ったが、要するに、今の技術でNECのPC-98HAや富士通のIntertopの少しマシなヤツを再現してもらいたいわけだ。今の技術力で再現するとすれば、つまり今風に重厚肥大なマシンスペックを全て忘れて、紙のノート替わりを目ざしてくれないかなと思う。本当の意味でのサブノートで、PC母艦とテキストのやりとりができるLANの口さえあれば問題ない。こんなシンプルな製品を、どこかのメーカーが出してくれないかと思う。文章書き専用サブマシン…。サブマシンであるから、清書できる環境さえいらない。パワーを必要とするワープロなど無くて良く、小気味よく使えるエディターと気持ちの良い日本語入力環境さえあればいい。以上のような極限まで機能を絞り込んだサブノートを、オープンハードウェアとして販売してくれないかと思う。
2006年01月27日
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やっと金曜日だ。明日はやっと競馬の日だ(笑)競馬と言えば賭け事である。賭け事、すなわち、勝負事。調教師は調教し、騎手は腕をふるい、馬は走る。観客は己の馬券を握りしめ、自分の応援する馬の走りに全神経を注ぐ。勝ちたいと思うのは、馬主も調教師も競馬ファンも同じだ。昨今、勝ち組・負け組という言葉が使われる。便利なキャッチフレーズなので、様々な分野で使われるようになった。しかし、ふと疑問に思うことがある。そうやって二項対立的価値観は誰が求めているのだろう。ひねくれものを自認する自分としては、世間が声高に勝ち負けを唱えるようになると、どうしても疑問を抱かざるを得ない。陰謀論に与(くみ)するわけではないが、”勝ち”と”負け”とに分類する見方は浅薄に過ぎるように思われる。そしてその煽りのあざとさに嫌気を覚えてしまう。「あなたは勝ち組と負け組のどちらになりたいですか」心くすぐる営業トークだ。自分ならどちらを選ぶか、ちょっと考えてみて欲しい。積極的に”負け組”を選ぶ人はいないだろう。二つの選択肢を目の前に出されれば、大半の人間が”勝ち組”を選択すると思う。”負け組”には、どこかしら惨めなイメージがつきまとう。負け組などという言葉が作り出される前は、敗者のことを負け犬と呼んだ。喧嘩で負けた犬は尾を丸めて逃げ出す。尾を丸めて、というのは、自分のしっぽを自らの股間に挟むようにして、勝ち犬に対するおびえを表し、相手の縄張りから逃げ出す。そんな存在には、誰しもなりたくはない。だから”勝ち組”たらんとすることを望む。しかし、気をつけねばならないことは、相手の差し出した二者から選択することの危険性だ。「あなたは勝ち組と負け組のどちらになりたいですか」と問われた時に、第三の選択肢がないのか、結論を急がずによくよく考えた方がいい。根底にあるのが悪意であれ善意であれ、世間にはこれと同様の営業トークがあふれている。勝ち組と負け組とどちらに入りたいか…。言葉は違えど、同様の質問を受けたことがある。自分は相手に更に二つの選択肢を付け加えることを求めた。”勝たない組”と”負けない組”の追加だ。相手は顔を歪めて「同じでしょう」と言った。”勝ち組”と”負けない組””負け組”と”勝たない組”それぞれが同じであるとしか考えられないのなら、それは思考力の麻痺である。単純な二値感覚のみで自分を取り巻く世界を割り切ることができる人は実に幸せであると思う。これは半分以上皮肉だが(笑)。歌手の水前寺清子さんが昔歌って大ヒット(昭和41年)した歌の一節に、”ボロは着てても、心の錦、どんな花より綺麗だぜ”という歌詞がある。ある程度の年齢の人間なら、ああ、あれかと思い出すに違いない。すらすらと次の歌詞を思い出すことができる人も少なくないだろう。これは自分の親父達の世代が好んで聞いた歌だ。当時の”人生応援歌”である。子供の頃さんざん聞かされたので自分もよく覚えている。この歌詞を少し考えてみると、ボロを着ているのだから、二値で問えば”勝ち組”ではない。しかし、その心意気は決して”負け組”ではなく、”負けない組”なのではないかと思う。さて、自分に問うてみよう。アナタは、”勝ち組””負け組””勝たない組””負けない組”の4つのうちのどれ?自分は……”ダラダラ怠けたい組”である(笑)
2006年01月27日
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というわけにもいかんので、ちょこっとだけ根回しも必要かなと思っている。当社にとっての基幹システム…と言えばカッコイイが要するにデータ処理のメインシステム…要してないか(笑)…の入れ替えに関する稟議を、既に取得済みの見積書と一緒に提出した。さすがに7年過ぎると、ハードウェアに危うさを感じてしまう。一度本体内蔵のMOが壊れたくらいで、これまで特にトラブルは無かったが、今となっては古い。処理スピードに不満は無いが、古いコンピュータなのでガタがきていても不思議ない。あの地震を経験してもいるし。24時間稼働するものでもないから、何かあれば仕事時間内に対処することは可能だが、それでもハードウェアの故障ばかりはどうしようもない。PCサーバーならショップに走ってHDDを買ってくる、という手もあるのだが。PCサーバーへの置換は取りやめになった、ということを以前に書いた。一つには”お守り役”の自分に時間が無いという現実がある。時間があれば、数百本のPGの書き直しを含めて、PCサーバーに移行することも不可能じゃない。少し前までは久しぶりにCでPGを書くか、なんてことも考えていた。現状の処理システムはCOBOLで書かれたものだ。データエントリの部分を除けばバッチ処理が中心なので、仮に言語処理系が何であろうが、画面周りと印字出力の設計に気をつけておけば、移植はそれほど難しくない。何故COBOLでPGが書かれているかといえば、20数年前のEDP分野では、それが当たり前だったからだ。問題は、数百本のPG移植を自分一人で全てをやらねばならない、ということだ。それのみに専念できるのならとうにやっているが、日頃の職務の傍ら、それに時間を割くことは困難だ。移行の為のスケジュールを考えていて、それに気付いてしまったのだ(悲)当初はそれでも”暇を見つけてコツコツ構築するか”という気持ちだったが、雑多な事情の為に、とても時間がとれそうにない状況になってしまった。その事情の中には”私的な事情”というヤツも入っている。でもまぁ、どこかでプログラマの血が騒ぐという、何というか未練があったりもするのだが(笑)実をいえば、全てを真っ白な状態から作り直してしまいたい、という欲求がある。その為の時間は無い、ということは解っている。今かかえている仕事を全て放り出して、それのみに集中できれば幸せだろうなという思いだ。それが完成したら辞表出してもいいや、てな気分もあったりする。家計を思えば、そうすることはあり得ないが(笑)そんなこんなを考えていると、”よぉし、次の宝くじは通常の倍の枚数買っちゃうぞ”と意を決したりしている自分に気付く。第三者の目から見れば、やっぱりバカなんである。とりあえず、バカはバカなりに今日も仕事に励むのだ。
2006年01月26日
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といいつつ現実逃避するのだが(笑)事務処理については各社いろいろあろうとは思うが、当社の某部門の経理を含めた事務処理はなかなかに複雑だ。昨年、その部門の女性が退職した後、新人さん二人で頑張ってくれているのだが、さすがにミスが出る。そこで、事務改善に向けてあれこれ討議しているが、満足のいく方法が見つからない。業務処理と経理処理の分離を自分としては提案し、総務責任者と話し合いを続けている。こちら(電算処理)に直接関係してくる部分もあり、一筋縄ではいかないのである。ただ、放っておけば危険(処理ミスが増えるおそれ)は大なわけで、大幅な変更が必要になるかもしれない。元々、その部門を任されてきた人員は、他の部門で業務処理を経験し、経理もきちんと解っている人間達だった。だが、人員不足の為に、今は新人さん二人が扱うことになってしまっている。他の部門から人員を回すことができればいいのだが、そちらも手一杯で、人手が足りない状況だ。おかげで皆、サービス残業をするはめになっている。営業についても頭数はギリギリで、できれば営業の中から優秀な人間を総務部の方へ引き抜きたいが、そうすると営業の頭数が足りなくなる上、全体のバランスも悪くなる。営業の頭数はギリギリと書いたが、人員は足りないわけではない。人員の数と人材の数が一致しないのは、どこの会社でも同じだろうが、当社では深刻な問題だ。以前にも愚痴をこぼしたが、ひと言で言えば”老害”が発生している。年寄りはダメだと言っているわけではない。この厳しい時代に、自らの頭を使おうとせず、面倒なことは他人に押しつけて己の職責を全うしていない古株達がいる、ということだ。会社としては、よほどの悪行がない限りクビにすることもできず、まさしく獅子身中の虫である。経営状況がもう少し改善されれば増員が可能だが、それには営業部門へのテコ入れが必要だ。テコ入れするには増員が必要、増員にはテコ入れ…。出口の無い迷路である。現在、営業職には挙績報酬が支給されている。新年度に向け、それを廃止するよう上に働きかけていて、上もその気になっている。営業部門での個人成績主義は、その時その時の契約増には役立った面もあるが、結果として関係企業・団体とのコミュニケーションを薄くし、組織営業力を低下させてしまった。中堅の営業達は、それを改善する為に会議を持ちコミュニケーションを取り、新しいやり方を模索している。古株さん達からは何も出てこない。いや、それは正確ではないか。古株さん達から出てくるのは批評のみである。他人の考えを批評するのみで、自ら何かを作り上げていこうとする気概など、何処にもない。こうなると例の高齢者の雇用に関する法律がネックになってくる。中堅以下の社員にとっては、高給取りの古株さん達に止めてもらって、その給料で優秀な若手を雇いいれたいという願望がある。人件費のみの話でいえば、古株2人につき20代の若手3人を入れることができる。もちろん古株さん達には積み重ねてきた経験があり、古くからある部門については知識もある。しかし、新しい部門については、新たなに覚えようとする気は無さそうだ。古い部門で業績を上げれば、それがたとえジリ貧の部門であれ、個人の挙績報酬は得られる…。結果として組織はダメになっていく。いや、既にダメになっている部分もある。上意下達・下意上達の仕組みは、途中のパイプが詰まっていては、うまく働かないのだ。ああ、愚痴ばかりになった。仕事に戻ろう。
2006年01月25日
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日頃は夜更かしばかりの自分だが、このところは流石に当日のうちに布団に入っている。昨夕は、少しばかり熱が出たので、早めに帰宅し、風呂・飯の後は自分の部屋でうつらうつらして、12時前には布団に入った。布団に入ると相変わらず”家庭内暴力”状態だが、夏場と違って我が子の寝相も少しはマシだ。コイツも風邪から完全復帰してないようで、意外におとなしかった。おとなしすぎると逆に心配にもなるのだが。流石に7時間近く眠ると、少しは気分もマシになる。今朝の目覚めはそれほど悪くもなく、顔を洗って自分の朝飯が食卓に並ぶ前に、2階の小さなベランダでタバコを一本くゆらした。仰角70度ほどにうっすらと下弦の月が見えた。東には朝焼けにまでは至らない赤いモヤが地上の住宅群をうっそりと包み込んでいた。夜明けというにはあまりに爽やかさが足りない。空を見上げれば、やせこけた動物のあばらを思わせるような雲が静止しているように見えた。何秒か何十秒か、微動だにせぬ雲を見つめていたような気がする。長く伸びて落ちそうになったタバコの灰を、慌てて灰皿に落とし込み、再度空を見上げると、今度は間違いなく雲は動いていた。自分は現実の雲ではなく、妄想の雲を見ていたのだろうか。動く雲を見て、何やら少し安心感を覚えたのは事実である。
2006年01月25日
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6時半か…残業の予定だったが、今日は早めに帰ることにする。どうやら熱が出てきたらしい。何となくダルさも感じて、椅子に座っているのが少しツライ。寒気は無いので、早めに帰って身体を休めれば大丈夫な気がする。気がするだけなので、まぁ、これは希望的何とやらだが(笑)少し息も荒くなっているので、あまり希望も持てんけれどね。
2006年01月24日
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パチンコは紛れもなくギャンブルである。本来なら日本では違法である。日本では私営のギャンブルは禁じられているからである。だから潰してしまえ、とは言わない。きちんと法整備すべきであり、”パチンコ業界と警察の癒着”などという噂が出ないよう、しかるべき管理をするべきである。仮にパチンコが公営ギャンブルになったとしても、自分はやるつもりは無いが(笑)ただ、このままの状態で、パチンコのようなギャンブルが存続していくとすれば、あらゆるギャンブルが成り立つことになる。以前に、幾度かゲーム賭博の摘発が行われたが、パチンコのようなやり方で運営しておけば、摘発されるようなこともなかったろうと思われる。同じやり方であれば、カジノであろうと見逃されることになる。やり方は簡単だ。間に景品を介在させればいい。カジノ内でのみ利用可能なチップを、その内で現金に換えると違法であるから、景品と交換できるようにすればいい。その獲得した景品を、別の店舗で売ることさえできれば、パチンコ型カジノの出来上がりだ。この仕組みを使えば、どんな賭け事であろうと可能だ。丁半賭博であっても可能になるのではないかと思う。例えばの話、暴力団が開催する賭場であっても、現金の授受がそこで行われない限り、認められることになってしまう。仮に警察が情報を察知して踏み込んだとしても、誰も大金を持っておらず、ゲーム用チップがあり、そのゲーム用チップを高額な景品と交換できるだけ、ということであれば、本来なら違法である賭場であっても、警察は取り締まることができない。もちろん、賭場で稼いだ…ではない、景品を獲得した人間は、買取所で景品を売るだけで済む。個人所有の物品の売買は、個人の自由である。この先、”パチンコの換金の仕組みが違法である”という法的判断が行われないままであれば、上記のようなことは十分にありうる話だ。想像すれば大爆笑である。パチンコ業界と警察の癒着、という噂がある。パチンコ業界と裏組織の資金源、という話もある。それらが事実であるか、自分には解らない。ただ、最初に景品買取の仕組みを考えたやつは偉いな、と思う。しかし、獲得者が実用するとは考えられない”買取専用の景品”というのは、何ともなぁ……。
2006年01月24日
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少しはマシになったなんて、甘かった。これがもうなんというか、シツコイ風邪で、だらだらと不調感が続いている。少しずつ快方に向かってはいるものの、まだまだ全快とはいかないようだ。知り合いから”デイ・トレードはやらんのか”と言われた。”真っ当なサラリーマンにやれるわけはなかろう”と答えたが、社内でそれとなく噂を拾い集めると、どうやら社内にもデイ・トレードをやっている連中がいるらしい。仕事に支障がない限り問題にするつもりなどない。その仕事にもよろうが、仕事時間中に雑談をするのは悪いことではない。雑談は職場の雰囲気を和ませることにも役立つし、また、コミュニケーションをはかることは必要なことでもある。或いは、ちょっとオヤツを口にしたりお茶を飲んだりということも同様であろう。当然のことながら、緊急の仕事をほったらかしにして雑談に興じるというのは論外である。忙しい仕事の合間に自分なりの気分転換を図ることは有用だ。人間の集中力はよほどの訓練を経ない限り、長くは続かないものだ。更に言えば、会社は軍隊ではないのだから、立派なオトナが自分の受け持った仕事を万全に行う為の補助行為は、たとえそれが他者の目から見て疑問符が付くようなものであろうとも、常識の範囲内という限定は付くものの、肯定されるべきだ。さて、仕事中のデイ・トレードというのは、果たして是か非か。ここでは個人的な意見は差し控えておこうと思う。デイ・トレードもギャンブルと同様、きわめて個人的な行為である。もちろん、その為に仕事が手につかないというのは問題外だが、それが仕事の励みにもなるというのであれば、当人にとっては有用であろう。自分の場合は、仕事が手に付かなくなるおそれがあるので、やらない。昨日のように、平日に中央競馬が開催される場合には、同僚と競馬の雑談をしたり予想を書いたりすることもあるが、賭けることはしない。その辺りは自分なりのルールである。土日以外はギャンブルはしないと決めている。自分はギャンブル全般が好きなわけではない。競艇や競輪は昔やったが、今は興味を失ってしまった。もちろん、私営ギャンブル(パチンコ)も個人的賭け事(麻雀等)もしない。学生時代から興味は無かったし、今も無い。たぶん、これからも興味を持つことは無いだろう。むしろ嫌っているし(笑)競馬、とりわけ中央競馬が好きな理由は、自分なりのリスク管理である。幸いなことに、中央競馬は原則として土日の開催しかない。残りの5日間は、したくてもできない。意思の弱い人間にとっては最善の状態であり、週末に向けて気分を盛り上げていくことができる。また、仕事上のメリットもある。オトナ社会というやつは、真面目一方ではコミュニケーションが取りにくい面もある。付き合いというのは結構厄介なもので、その昔はゴルフ・麻雀というのがサラリーマンの標準ツールであった。自分は双方ともにやらないが、”競馬一本です”という言い訳は実に役に立った。言い訳と書いたが、事実であるから、結果的に言い訳になったということだ。ギャンブルはサラリーマンの共通の話題でもあるし、自分の小遣いの範囲内で遊んでいる以上、悪いイメージがつくこともない。以前にも書いたが、週休二日の時代になり、”土日が暇で仕方ない”とこぼすサラリーマンも出てきた。特に趣味がないので、連休で家にいるより、会社に出て仕事をしていた方がいい、という人もいた。今でも時折、”自分は無趣味で”とこぼす人に出会うことがある。”本も読まないし、テレビを見て適当に二日間過ごす”という人さえいる。もったいないな、と思う。土日に暇をもてあましている人達に言いたい。せっかく民放で競馬放送をしているのだから、メインレースの予想だけでもしてみるといい。ギャンブルだからといって、お金をかける必要はない。スポーツ競技として、誰が(どの馬が)優勝するのか、あれこれ推理してみることは、頭の体操にもなる。家族で推理合戦するのも楽しいかもしれない。楽しみ方はいろいろだ。無駄にだらだら過ごすよりは、随分マシじゃないかな、と、そう思うのである。
2006年01月24日
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出勤した。しかしまぁ、都合のいいことに、風邪は土曜日がピークだったようで、日曜日には少しマシになり、本日(月曜日)には出勤する算段となった。おかげで病欠することもなく、まさしくサラリーマンのカガミ……OTZ目の奥がまだ痛い感じが残っている…身体の芯が重いとでもいうのか…そんな不調感があるので、正直、早引けして帰宅し、さっさと布団に潜り込みたかったりもする。とりあえず、まったりと仕事をするか(笑)
2006年01月23日
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週末の二日間、半分以上寝て、起きてる時は鼻水をふきながら競馬(笑)心身ともにリラックスできて、どうやら風邪もマシになったみたい。何せ、二日続けて各10時間以上寝たのは、本当に久しぶりだ。でも、まだ眠気が残っているから、身体は眠りを欲しているのだろうなぁ。しかし、ずいぶんマシになった。まだまだ本調子とはいかないけれど、明日は休まずにすみそうだ。いや、本音で言えば休みたいのだけれど、休むわけにはいかない理由がある。仕事のサイクル上、第3週がもっとも有給休暇を取りやすいのだが、それを逃すと、なかなか難しい。どうにか暇を見つけて(というか、暇を作って)休暇を取るつもりだが、果たしてうまくとれるかどうか…。風邪のせいか、胃が弱っているので、いつもならコーヒーをがぶ飲みしているのだが、今日はさすがにコーヒーを飲むきにならない。しかし、喉は渇くから、水を飲んだりお茶を飲んだり、ホットレモンを作ったり…。口寂しくなるとタバコに火をつけるが、あまり美味しくは無い。幸いなことに、食欲はあまり衰えていないので、しっかり食事はとっている。明日は中山競馬が代替開催だ。テレビ中継は無いだろうし、出勤の予定だから馬券購入はできないが、予想だけは競馬専用blogに書き込んでおいた。賭けてなくても予想は楽しいのだ…頭の体操にもなるしね(笑)さてさて、もう少し遊んでから寝るか(笑)
2006年01月22日
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”物語のカタルシス”に進む前だった………。面倒だから、もうイイや(笑)鼻水、ズルズル出てくるし、身体も妙にポカポカするし…。さっきは軽い目眩もあったし、右の鼻は完全に詰まっちゃったし…。
2006年01月20日
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講談師見てきたような嘘を言う。そんな言い回しがある。講談師”一龍斎貞水”師の怪談は本当に怖い。現物(失礼)を拝見したことはないが、ラジオで始めて聞いた時には空恐ろしくなって、夜中にトイレに行くのがためらわれた。随分昔の学生時代のことだが、そのおかげで、自分が心に抱いた”恐ろしさ”を自分なりに分析する気になったのだ。師の怪談を聞いていると、まさしく情景や怨念が目に見えるようで、本当に怖かったのである。おそらく今聞いても怖いと思うだろう。ところが講談師でもないのに、見てきたようなウソを言いたがる輩がいる。いや、先ほど書いた精神科の方の人の話じゃないですよ(笑)話の流れからそう思う人がいるかもしれないが、そいういうふうに考えるというのは、これはもう邪推というものです。人間の記憶というものは実にいい加減で、自分をさえ騙すことができる。ウソも言い続ければ本当になる、とは誰が言った言葉だったか、とんと覚えていないが、他人を騙す為に言い続けたウソがいつの間にか自分を騙してしまっていた、なってケースは山ほどにある。ウソは意図して吐くウソと意図せぬウソがある。後者は勘違いや覚え違いといったものだが、真実と思いこんでしまったウソを他人に伝えたとたん、それはウソとして実体化する。しかしながら、その実体化したウソは、真実として思いこんでしまった当人を既に騙しているから、実体化したウソへと成長する前の胎児のようなものである。実体化していない”胎児のような”ウソは、どのような人間でも多かれ少なかれ宿している。”俺はダメだ”という劣等感も、この”胎児のようなウソ”の一種である。逆に”俺ってスーパースターになれるはず!”というような自我肥大も、同じく”胎児のようなウソ”の一種である。ただ、それらが当人の人生にどのように影響するか(或いは、したか)は、当人が死ぬ間際になってもなかなか解らないのだろうと思う。貴種願望というものがある。学術的な用語ではなく、自分が勝手にそう名付けているのだが。簡単にいえば”俺って本当はすごい出自なんだぞ”という思い或いは、そうあって欲しいという思いを指している。物語の世界では貴種流離譚と分類されるものがある。簡単に言えば、行方不明であった王子の物語とでも言えばいいか。自分の出自を知らずに育った主人公が、物語の中で真実の出自を知り…といった感じだ。”ウチは代々武家で…”なんて言い出すオヤジは、どこかに、貴種願望を持っている。今はサラリーマンなんてやってるが世が世なれば、なんてことを時折思ったり、或いは酒の場で口に出す。罪はないが、繰り返されると”たまには違う話をせぇよ”と…いやいや、これは愚痴だ。幸か不幸か、自分の場合、貴種願望は中学入学前に終わった。人類の歴史は1万6千年なんて話を聞いてしまうと、昔は武家だったなどと話す大人(オジサン達)の言葉を聞いても、”ずっと遡っていきゃぁ、スッポンポンで棍棒振り回してたい時代に、みんな遡れるんだよ”なんて思うようになってしまったからだ。人に話す時はもっと簡単に”所詮、祖先は猿”ということもある。科学的でないのは百も承知だ(笑)猿で思い出した。以下、私信……”次に生まれ変わる時は美人女子大生の飼うネコになりたい”A君、最近会ってないけど、元気?……以上、私信。更に言えば、オカルト好きな人達が立派な前世を欲しがるのも、貴種願望の一種だろう。或いは心霊の世界で”高級な守護霊が…”などと言い出すのも貴種願望の変形であるような気がする。更に考察を続けていけば、権威に弱いのも貴種願望の裏返しのような気がする。”本当は立派な出自の…”という考えの中には、間違いなく社会の階層構造を前提とする考えが潜んでいるからだ。当たり前の話だが、縦の序列の中でしか貴種(本当は立派な出自)は存在しえない。縦の序列を意識してであれ無意識でであれ認める者にとっては、権威は受け入れざるをえないものである。この辺りは宗教の中にも同様の構造を見て取れる。セールスマンの話法がある。よく知られている話法は、目の前の顧客がイエスと言いやすい質問を繰り返していくことだ。イエスと言うことに抵抗感が無くなれば、契約締結にもイエスと言わせやすくなる。我々の暮らす社会は、嫌も応もなく階層社会である。善し悪しについては言うべき論拠を持たないので、自分は何も言わない。最終的にはメリット・デメリットのバランスの問題であると思うから。その階層社会の中で、ある分野の権威は別の分野においてもハロー効果を享受できる。それは我々が無知である故である。メクラがメクラの手を引く、という言い回しがある。同じく、無知が無知の手を引く、という事態もありうることを肝に銘じておきたい。かつての奴隷は暴力によって奴隷にされた。今、我々は己の無知によって、自ら望んで奴隷となってはいないだろうか。流石に風邪でボーッとしているせいか、内容が二転三転してまとまりが無い。書きながらまとまりがないと感じるのだから、これはもう、平常時に読み直すと支離滅裂になっていようなとも思うが、まぶたが重く感じられる今だから、後で読みなおすというようなことは考えず、ポチッと”登録する”ボタンを押しちゃうぞ(笑)ポチッとな(笑)
2006年01月20日
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科学的に見せかけた空想本がまたまた発売されちゃったらしい。帰りに立ち読みするか、場合によっては購入するか、いずれにせよ、内容を確かめてみるつもりだ。何のために内容を確かめるのか、と問われれば、話のネタとして面白そうだからである。自己脳内完結した文章というのは、とっても面白くて、そのうち話のネタに使えるからである。著者の岡田尊司氏は精神科医であるらしい。まだ本を読んでおらず、ネット上の毎日新聞の書評を読んだのみであるが、その書評に引用された部分だけ読んでも(いや、それ故にか?)はっきりと論理破綻しているのが解る。書評なさっている鹿島茂氏は、どういう魂胆でこの書評を書いたのだろう。まぁ、書評そのものが書評の体を成していないので、やる気が無かったんだろうなぁという気がしないではない。したくない書評をしなければならないのはツライものだろうと想像する。そこにはきっと、余人には解らぬオトナの事情というヤツがあったのだろう。もしそうでなければ…いやいや、そんなことはないだろうと思いたい(笑)帰りに書店に寄るのが楽しみである(笑)
2006年01月20日
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会社を出たのが9時半で、帰り着いたのが10時半。いつものように風呂に入り、飯を食い、今に至る。毎週毎週、同じことの繰り返しだ。それがイヤだというわけじゃない。とりあえず、今夜と明日を乗り切れば、楽しい(笑)競馬の週末だ。仕事を忘れて、世間のしがらみを忘れて、競馬の予想にのみ没頭する。土曜と日曜合わせて48時間の中で、その為の時間を確保する自由はある。結果がついてくれば言うことはないが、結果がついてこなくとも、自分にとっては欠かせぬ”癒し”の時間だ。データを調べ、あれこれ頭の中でシミュレーションし、この馬と決めて馬券を購入する時、その時こそが至福の時と呼べる。その時間があるからこそ、月曜からの仕事の日々を再び乗り切ろうという気持ちにもなる。競馬で身を持ち崩したヤツがいる…という話、聞いたことはあるが、身の回りにはいない。そういう人間は競馬が無ければ競艇で、或いは競輪で、或いはパチンコで、或いは色事でいずれ身を持ち崩すのだと思う。自らの分限を知らぬ人間が、そうした目にあう。身から出たさびである。自分の小遣いはしれたものであるから、イチかバチかの勝負はしない。小遣いがしれたものであるという現実が、何よりも自分とお金との縁が薄いことを物語っている。そういう人間に一攫千金の夢など実現するはずがない。仮に100円で100万馬券が当たったとて、世間の金持ちから見れば、それこそしれたものである。公営ギャンブルが宝くじと違うのは、自分なりに研究していけば、必ず見返りがあるというところだ。宝くじは研究のしようが無い。たとえばロト6好きな人間は、一生懸命に出目の統計をとっていたりするが、それは全く何の役にも立たない。自分はロト6などは買わない。1等の的中確率は計算したくない程に低い。ジャンボ宝くじは購入するのが習慣になっているので買うが、全く期待していない。当たる気がしないし、事実、当たらない(悲)公営ギャンブルには予想の楽しみがある。的中するかどうかは、その後の楽しみだ。宝くじと違って、楽しみは2倍だ。健全な公営ギャンブル・ファンが更に増えてくると嬉しいが、なかなかそうもいかぬ。デイ・トレーダーは増えているというのに、公営ギャンブル・ファンは一向に増えない。デイ・トレーダーという言葉の響きはカッコイイが、一気にゼロになる場合が少ないだけで、ギャンブルの一種である。とかくと、投資と投機は違うという声が聞こえてきそうだが、お金でお金を稼ぐという意味においては大差ない。ああ、こんなことを書いてる場合じゃなかった。さて、気合いを入れ直して頑張るか。
2006年01月19日
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喉はヒリヒリ、目はショボショボ。その上、寝違えて首が回らんし、仕事も山積み。心身共に絶不調一歩手前である。とりあえず週末の競馬をあれこれ考えるなどして現実逃避してみるが、そうしたところで何が好転するものでもない。再びアマゾンから入荷見込み無しのメールがやってきた。昨年夏に注文しておいた本だ。”だったら注文できるようにすんなよ!”と言いたい気持ちが無いではないが、アマゾンが在庫管理しているわけでもなかろうから、そこはそれ、オトナの対応というやつで、きっぱりあきらめることにしよう(笑)。とはいえ、おかげで精神的に落ち込んだ面もわずかながら、ある。理性と感情は時として相容れぬのである。ところで、この文章、仕事の合間の3分、5分といった隙間を利用して書いている。書きながら目下の難題や緊急でない案件について考えていたりするが、これが結構、頭のリフレッシュに役立ったりする。脳の中で、仕事に使う部分と、こうした雑文を書く部分では別の部位が使われているのかもしれない。もし同じ部分を使っているとしれば、脳も疲弊するに違いない(と思う)。定型処理であれ非定型処理であれ、組織の中で行う仕事には、パターンがある。そのパターンから外れない作業であれば、脳に新たな刺激を与えることは少なかろうと思う。少なくとも無から有を生み出すような作業ではなく、どちらかといえば有を別の有に作り替える作業であり、そこに新しいものは、ほとんど無い。しかしながら、文章を書くという作業は、まさしく無から有を生み出す作業だ。記憶という混沌の中から材料を得て一定の秩序を与え、文章という形を生み出している…大げさに言えば小規模な天地創造である。仕事と、仕事には無関係な文章を書くことの間には、大きな違いがありそうだ。それは片方向だけかもしれないが、良い影響を与えているような気がする。朝9時頃に最初の2行を書いて、今は11時半だ。と書いた後に、ちょっとゴニョゴニョと仕事があって、52分になってしまった。昼飯まであとわずかである。今の今までそれほど腹も減っていなかったのだが、昼飯までわずかと知って急に腹が鳴り出すとは、我が腹の虫は全くげんきんなヤツである。たまにはパンでもかじるか…。
2006年01月19日
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気づけば午後11時半を過ぎている。9時前には帰宅し、風呂・飯・家族団らんのひととき・他をこなし、ボーッと考え事をしていたら、もうこの時間だ。本当に時間がたつのは早い。メールチェックを行った後で、今、こうやって書き込んでいる。とりあえず緊急の用件は何もないので、今夜は少しのんびりムードだ。久しぶりに職場のPCの1台についてMS-Windows と MS-Office のアップデートを行ったのだが、これには疲れた。以前に購入しておいた中古PCのセットアップを行い、インターネット接続用に構築したLANにそれをぶらさげたまではいいが、使用者の為を思ってアップデートを始めたのが運のツキ。幾度再起動をかけねばならなかったか、ここに回数を書くつもりはないが、linux でyum update を利用するってのは本当に便利だなぁ、とlinux界で開発に携わる全ての人に多大な感謝を声高に叫びたくなった。次のWindows Vistaでは、再起動無しのアップデートを実現して欲しいよなぁ…。
2006年01月18日
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今はほとんど使っていない”捨てメアド(=一時的な利用の為に取得したフリーのメールアドレス)”にはスパムがボロボロ来るのだが、それにやっとこさフィッシング詐欺メールが届いた。そのメールアドレスに届くのは100通あれば80通がワン・クリック詐欺誘導系メールで、残り12通はソフト不正販売系で、残りの8通がアレコレだ。アレコレというのは、フリーメール提供元のお知らせであったり、提携業者からの広告メールということ。そこは合法な部分である。フィッシング詐欺メールが流行ったのは1年以上前だと思っていたが、まだまだ現役なのだなぁ。いきなりの英文メールであるから、日本人で騙される人間は少ないとは思うが、再流行しているのかもしれないので、一応”皆さん、気をつけて”と書いておこう。自分は基本的にテキストメールしか見ない。HTMLメールも、そのテキスト部分だけしか読まない。HTMLメールなど百害あって一利無し、とまでは言わないが、自分の意志とは別に何らかのプログラムが動くのは、正直、気持ちが悪すぎる。さて、そのメールの文面に綴り字のミスがあったので、詐欺師の皆さんは、笑いものにならないよう気をつけておいた方がいい。reply の過去形は自分が知っている限り、replied であって replyed では無い(はず)。大手企業が顧客に対して正式に出すメールに、こうした小さなスペルミスを残しておくことは、通常、あり得ない。その企業の恥になるからだ。ああ、そう言えば、某知人とknoppixを使ってネットサーフしていた時、ワンクリック詐欺サイトに繋がって大爆笑したことがあった。良い加減に酔っぱらっていたので最初は?という感じだったが、よくよく考えてみると気持ちよく笑えた。ワンクリック詐欺サイトというのは、アダルトサイト等で”会員登録したので金を振り込め”といきなり出る、アレである。商取引の原則は相互の意思確認である。一般社会の中では、口頭契約がアテにならない(証拠とならない)ので契約内容を文書化し、契約を結ぶ両者が相互に確認して(証拠となるよう)押印等の意思表示を行うわけだ。ところがワンクリック詐欺では、間違えてクリックしようが関係無い、そのワンクリックをもってクライアントが意思表示をしたものと無理矢理に解釈し、その結果債務が発生したとするわけである。要するに”金を払え”と。何故に爆笑したかと言えば、knoppix 上のmozilla でワンクリックしたにもかかわらず、ポップアップウィンドウで、あたかも****.EXEのプログラムが実行に移されたかのように見せる動画が素早く流れ、次の瞬間には、その”金を振り込め”という画面に変わったからだ。もちろん、お定まりのごとく、接続PCのISP情報が画面に表示されている。もう少しで酒(ブランデー)を口から吹き出すところだった。knoppix と言えば、もちろんlinuxである。にもかかわらず、MS-Windows用のプログラムが勝手にダウンロードされてインストールされ、その結果特定のMS-Windows用プログラムが動いたかに見えた点だ。おお、本当ならすげぇよな…と思わずつぶやいた後に爆笑である。MS-Windows用プログラムはMS-Windowsの上でしか動かない。当たり前の事実である。エロサイト好きなオジサン方、その為のネットサーフィンをする場合には、linuxを使いましょう(笑)…とさりげなくlinuxを勧めておく。ウィルスにやられる心配はほとんど無いし(笑)おお、エロサイトブラウズ専用のlinuxディストリを作ったら、売れるかな!?馬鹿な物言いで始まった火曜日、今日中に印刷帳票の設計を1枚片づけねばならん。古き良きスペーシングチャートというヤツを使って…。老眼の進むオジサンにはツライ作業だが、するヤツが他にいないから仕方がない。昨日は次年度導入(画策中)予定のオフコンの見積もり書を受け取った。相手は当社の内容をだいたい把握しているから、大きな誤りは無い。だが、外部通信系のハード/ソフト共に外してもらうことにした。ン万人の顧客データを管理するホストであるが、当初は関連上位とのデータやりとりを考慮したシステム設計だったが、これを廃して、完全にクローズドな社内LAN にのみ開く形にしてしまう。理由はいろいろあるのだが、やはり電算管理者としては個人(その他)情報漏洩防止とコスト削減の2つが大である。不便な面もあるが、”運用における臨機応変な対応”というやつでカバーするしかない。以前に考えていたPCサーバーによるコスト削減については白紙に戻した。それとは別に次年度の予定として、社内の文書管理等も含めて、満杯状態になりつつある現在のWindowsNTサーバーの替わりに、linux + samba でファイルサーバーを設置することに決めた。単純なファイルサーバーであるから、わざわざライセンス料の高いMS-Windowsサーバーを入れるメリットが無い。…さてさて、仕事をするとするか。こうやって書いているのは、自分の頭の中を整理する為でもある。書くことで論理的な思考を取り戻そうとしているわけだ。感情は仕事を嫌がっているのだから、理性で押さえつけるしかないのである…合掌。
2006年01月17日
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てなことをタイトルで書いてみたが、どう話を切り出せばいいか、ちょっと迷ってたりする。そもそも単語帳ってのは役に立つのか??なんて根本的疑問はあるのだが、現実に使っている人もいるし、他の方法よりソレの方が良く覚えられるという人もいるわけで、まぁ、好きずきだろうと(笑)なんでこんな書き出しかと言えば、その原因はコレ(コクヨのmemoribo)(1月10日発売予定)だ。単語カードを手書きで作るのは面倒くさいし、何より自分の下手くそな字を見るのはイヤだ、という人には最適かもしれない。こういう怪しいガジェットが好きな自分としては、使うかどうかは別にして、店頭で見かけたら買ってしまいそうで怖い(笑)ただ、仕様を見ると少し不満がある。カラー液晶なら、もっと楽しかったろうに。でも、そうなると使用時間が短くなってしまうかな(本機はCR2032が2個で300時間使用可)。しかし、この商品、売れ行き次第では第二第三が出てきそうな気もする。何せ価格が税込み7140円である。親としては子供に何気なくプレゼントできそうな価格だ。これが1万円を越えると、やっぱりためらってしまう…自分だけかもしれんが。5000円をきれば飛ぶように売れる…かもしれん。我が家には子供が二人いるので、実売5000円を切ってくれると2人に買ってやっても、大きいお札1枚で済むので、手を出しやすい(笑)販売店情報を見るとヨドバシに売っているようなので、ちょっと実機を見てみるかな…いかん、買う気になっている(笑)同様の(というよりもっと高級な)タカラの脳サピエンスという機械もあるが、こちらは2万6250円である。衝動買いするにはツライ。2つとなると一層ツライ(笑)のである。その上、専用ソフトが必要となる。さて、どっちが得かとなると難しい。自分で単語(文章)リストを作るのがイヤで且つ金銭面に余裕がある人なら後者であろう。その上、PDAとフリーウェアで一部の機能を除いて模倣可能な面もあるので、PDA等をいじくるのが好きな人には選択しづらい機械かもしれない。また、詳しくは調べていないが、電子辞書で暗記ゲーム付きのものが発売されているかもしれない。もし未発売なら、メーカーさん、一考を。売れますぜ、きっと。もちろん、エビングハウスの忘却曲線という殺し文句は入れなければならない!脳サピエンスの機能と同様な暗記支援機能を持ったものは、パソコン用には既にフリーウェアとして多くが発表されている。持ち歩ける軽いノートPCを所有しているのなら、そちらを利用する方がいい。ともあれ、帰りにはヨドバシに立ち寄るぞ(笑)
2006年01月16日
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月曜日が休みで、今週は本当に忙しかったなぁ。おかげで競馬に回す頭の余裕が全くなかった。その上、子供は熱を出すし、公私ともに多忙であった。疲れと睡眠不足で、昨夜は何もせずに子供と一緒に寝て、今朝起こされたのは10時半である。10時間以上寝た計算だ。起こされなかったら、まだ寝ていたろう。たっぷり寝たおかげで、今日は心身に少し余裕がある。それにしても、休日はいい。実にいい。通勤せずにすむというのが、何よりいい。今日は、子供の様子を見つつ、まったり過ごすつもりだ。
2006年01月14日
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あやうく遅刻しそうだったが、駆け込み乗車で勤務時間に間に合わせたのは、サラリーマンとして当然の行為である(笑)出勤し、一つ仕事を片づけて、今、少し手を休めている。多少の眠気はあるが、仕事に支障が出るほどではない。問題は昼飯の自国が近づいてきているということだ。飯を食えば眠くなるのは必定。まして、睡眠時間が1時間半ほどでは、間違いなく居眠りをするハメになる。社内は禁煙で、喫煙組は非常階段の外に灰皿を持ち出して、そこでタバコをふかしているが、本日は雨である。風も強い。普段ならツライと感じるところだが、本日は自分にとって都合がいい。雨風にさらされてタバコを吸っていれば、眠気なんぞとんでしまうに決まっている。今日は普段以上にタバコの本数が増えそうだが、神経を使う仕事(作業)を早めに片づけてしまえば、今のところ緊急の案件も無く、精神的にはゆとりが持てそうだ。昨日、SIMON & GARFUNKEL の時代の音楽話で、同僚と盛り上がった。自分より年下だが、自分よりずっと音楽については詳しく、聞いていても楽しい。今や音楽が消費される時代である…とは以前にも書いた気がするが、毎日のように新しく売られる歌の中で、世代を超えて生き残る曲は、どれ程の数だろう。いずれ自分が還暦を迎えた時に、聞いていたいと思わせる曲は、どれだけあるのか…。迷うほどに多くあればいいなと思う反面、多くは増えないだろうなとも思う。今日の残業のBGMはSIMON & GARFUNKELのベスト版からになる予定だ…。
2006年01月13日
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何でこんな夜中に起きてベーグルを食ってるかといえば、やらねばならない事があって、且つ腹が減った上に、まだ片づきそうにないからだ。浮き世の義理と個人的な楽しみと諸々あって、ラテンミュージックをBGMに、せめて気分だけでも盛り上げつつ頑張ってるわけだ。夜更かしばかりして”身体をこわさないよう気をつけろ”と優しい言葉をかけてもらうこともあるが、楽しんで仕事をしている分にはツラさは無いし、肉体疲労は癒えやすいものだ。しかし、楽しめない仕事は精神的苦痛を伴う。そして、精神的なツラさはなかなか癒やされない。肉体疲労は癒やされれば終わりだが、精神的疲労は癒やされたかにみえてフラッシュバックすることが多い。目に見えない傷の方が後々まで残るのだ。自分は、こうやって思いつきの文章を書き留めていくことが精神疲労回復の役に立っている。疲弊しきると頭も働かなくなるので、その段にまでは行かないよう気をつけてもいるが。一日が48時間あれば、と思うことは多い。48時間あれば、自分のやりたい事、やり残している事、やりたくはないがやらねばならない事が十分に片づくような気がする。しかし、仮に1日が48時間になったとしても、次は72時間あればいい、と考えるような気もする。少年老い易く学成り難し。やりたい事は学ばかりではないが、人生は短い。時間はいくらあっても足りない。さぁ、明るくなる前には片づけることが出来るかな……。
2006年01月12日
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先ほど書いた文章の中に、ちょっと誤解を招きそうな内容があったが、面倒なので放っておくことにする。まぁ、いいや(笑)ここから仕事の愚痴だ。市町村合併には苦労している。簡単に市町村名だけが変わるのは、対処のしようもあるが、新たなに町名が作られて地番まで変わると、これはもう対処の手間がひたすらかかることになる。住所管理ということで言えば、ただただ”ややこしく”なるだけだ。とりあえず現場の人間としては、合併日の都度、頭を悩ますことになる。今月、福岡には築上郡築上町ができた。旧椎田町+旧築城町だ。2月には宮若市、3月には福智町・朝倉市・みやこ町・飯塚市・嘉麻市が出来たり変わったりする。”ああ、もう”である。ところで、行政関係の資料はどうしてPDFを使うんだろう。ネット上で一般公開しているのはいいとして、大半の文書がPDFである。一部だけ見たい場合でも、そのPDFファイルを全てダウンロードするハメになる。その辺りが少しばかり無神経に感じる。PDFはプリントを考えた場合、それなりに便利だが、ちょっと参照するには向かない。全ての人間に”ちょっと参照”ではなく”印刷して読め”とでも言うのだろうか。と言ってる間に、もう6時半を過ぎてしまった…orz.残業だ~~~~!!!
2006年01月12日
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と口走ったのは、今日もカミさんに起こしてもらいつつ、布団を出た時だった。ほっときゃ何時に寝ようと10時前に目を覚ますことのできない自分である。子供時代からそうだったし、今もそうだ。”ああ、もう少し暗闇の中にいたい…”と思いつつも仕方なく目を開け、布団から出て着替えをする。洗面で顔を洗い、飛び跳ねた髪の毛を濡らして手櫛で整える。自分の部屋からPHSを取ってきて、朝飯を食い、出勤だ。その通勤途中、ラジオからサイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンスが流れてきた。Hello darkness, my old friend,I’ve come to talk with you again,思わず頬がゆるむ。「俺もそう言いたい」こっちは暗闇に一時の別れを告げたばかりであるというのに、その気持ちを茶化すような歌い出しである。自分を笑うしかないじゃないか(笑。40年以上前の歌で、いまも世界中で愛されている。んで、ふと疑問に思った。"the sound of silence"ってのは何だろうって?この歌を自分が初めて知ったのは30年以上前だが、ずっと気にすることもなかった。ラジオ等で幾度も耳にしてきているから、メロディラインは頭に残っている。歌詞はそらんじることできる程に覚えているわけではないものの、中学高校時代のギターを片手にフォーク少年であった頃は、何度も口ずさんだものだ。今や歌えと言われても歌いきらんが。言葉を使うってのは危うい部分があって、”理解できる言葉”+”理解できる言葉”=”理解できる言葉”と思いこんでしまう…というか、理解したと思いこんでしまう…けれど、それなりに理解したつもりになっていても、実はさっぱり解っていないということが多い。silence という単語の意味は解る。sound という言葉の意味も解る。the は、sound of silence が話者(作者)の意識の中で特定できている(ひょっとして唯一の)ということを示している。だから、"the sound of silence"の意味も解る……と、普通は考えてしまう。でも、本当にそうか?解っているのか?解っているつもりになっているだけではないのか?改めて、この歌の歌詞を眺めてみると、自分の中の変化を感じることができる。学生時代の自分の感じ方と今の”疲れたサラリーマン”としての自分の感じ方の違いだろうとは思うが、確かに変化している。使用前と使用後みたいだが、使用後の”今の”自分としては、the sound of silence という言葉が、昔よりも重く響いていることに気付く。この曲が作られた60年代の大きなトピックはケネディ暗殺とベトナム戦争である。Because a vision softly creeping, left it’s seeds while I was sleeping, and the vision that was planted in my brain still remains within the sound of silence.vision というのは幻影という言葉をあてることが多いのだが、聖書に慣れ親しんだ人間なら、幾つかの預言書を連想する。幻影や幻というよりも天啓に近いイメージがある。ポール・サイモンがどう思っていたかは自分には解らないが、旧約聖書の預言書から言葉を借りていそうな感じだ。In restless dreams I walked alone narrow streets of cobblestone, beneath the halo of a street lamp, I turned my collar to the cold and damp when my eyes were stabbed by the flash of a neon light that split the night and touched the sound of silence.the vision がどのようなものであったかが、ここから語られる。"narrow streets of cobblestone"と言われると、自分は、凸凹のある石畳の狭い裏道を想像する。左右の壁が歩く者に覆い被さるような、そんな狭い道で、少なくとも大通りではない。街灯があるというのだから、それほど狭くもないのだろうが、寂しさ満載(笑)の道だ。寒さに震えつつ歩いていると、突如天啓が訪れる。my eyes … touched the sound of silence.正しく神秘体験的表現だ。無音の響きは耳には聞こえないから、見るしかない。この辺りはドラッグ体験者の体験談を読み聞きすれば、それほど奇妙とは言えない。And in the naked light I saw ten thousand people, maybe more.People talking without speaking, People hearing without listening, People writing songs that voices never share and no one dear to disturb the sound of silence.light が光であるのか灯火(つまり電球)であるのか自分には判別できないが、naked と言うからには具体的な物と考える方がしっくり来るので、むき出しの電球(裸電球)としたいが、当時の街灯がどのようなものであったのか解らないので、何ともいえない。但し、当時の映画を見ればガス灯も電球もあるから、いずれにせよ、そのような明かりを発する物のような気がするが…自信は全くない。それはともかく、ここに現れるイメージはかなり恐ろしい。色々な人の姿が描かれて、あえてthe sound of silence を邪魔する者はいないと最後に言う。ヒトラー台頭時のドイツの民衆も、そうではなかったか。この曲が書かれたのは、ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領の時代だ。1965年からアメリカはベトナムに本格的な介入を行うことになる。国内に反戦の声はあったろうが、政府や世論を動かすほど多くはなかったのではないか。その状況を、ここでは批判しているのではないか…。"Fools" said I,"you do not know silence like a cancer grows. Hear my words that I might teach you, Take my arms that I might reach you."「私」の口振りはまさしく預言者のそれである。そしてその警告は、ミヒャエル・エンデのネバーエンディングストーリーを思い起こさせる。ファンタージェンを襲ったものは何であったか。But my words like silent raindrops fell, and echoed in the wells of silence And the people bowed and prayed to the neon God they made.しかし、、人々は耳を傾けることもなく、ただ自らが作り出したneon God を崇め祈っている。何だかまるで、大本営発表を大人しく受け入れている民衆の姿に思える。と同時に、人々が頭を垂れneon God に祈る姿は、故ケネディ大統領に対する国民の黙祷のようにも思えるが、この歌詞はそれを批判しているようにも読める。この文面から想像できるneon God とは、テレビやそれに映るニュース映像…マスコミや政府の国民向けのメッセージ全て…の隠喩であるのかもしれない。先ほどジョンソン大統領の時代にベトナム本格介入と書いたが、それはケネディ大統領の対外施策の継続でもあった。大統領に就任してすぐ、ケネディ大統領はベトナムへの軍事支出拡大を行っている。善し悪しはともかくとして、現代の小泉政権下の日本と少しばかり似ている面がある。小泉教と揶揄されることもあるが、当時のアメリカにケネディ教と呼んでも良いような雰囲気があったのではないか。And the sign flashed out its warning, in the words that it was forming.And the signs said, "The words of the prophets are written on the subway walls and tenement halls." and whisper’d in the sounds of silence.この文も預言者が天啓を得る時の様子を描写しているようだ。sign という言葉はネオンサインのサインを思い起こさせると同時に、天啓としてやってくる”しるし”をも同時に示しているような気がする。聖書をひもとめば”しるし”という言葉が預言と共に使われているのが解る。その”しるし”が伝える内容もまた、非常に面白い。預言者の言葉は、地下鉄の壁やら家のアパートの玄関に書いてあると言う。通常、そうした場所に書かれる言葉は現状への憤懣であり、社会的弱者の愚痴である。政府への不信の言葉であったりもする。大本営発表の中には無い民衆の言葉だ。歌詞の全てをざっと眺めてきたわけだが、果たして”沈黙の音”とは何であるのか。少しだけだが、漠然と見えてきたような気がする。歌詞の話者”私”がその存在を警告する the sound of silence に、現代日本に暮らす我々も実は気付いているのではないかと思う。しかし、今や、on the subway walls and tenement halls ではなく、The words of the prophets are written in Internet. なのかもしれないと、個人的には思っている。the sound of silence … 美しいが恐ろしい言葉だ。
2006年01月12日
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以前にダイエットのことを少し書いたことがある。ダイエットは単純な”足し算引き算”である。それが判っていながら、様々な”ダイエット方法”にチャレンジし、大半の人間は失敗して別の方法を探す。ダイエット産業は衰えることなく、巨大な市場を維持している。単純な足し算引き算と言ったが、これは誰もが認める事実だ。痩せたいと思えば、摂取カロリーを減らし消費カロリーを増やす。そうすることで、とりあえず健康な人間なら自然に痩せることができる。むしろ痩せている人間こそ、医療行為を取り入れたダイエットが必要なのだが、そこら辺はダイエット産業にとって旨みのある話ではないので、大きく取り上げられることはない。それどころか周囲から”痩せてていいわね”などと言われる。大きな間違いである。人間もまた動物である以上、本能の奥底に飢餓に対する恐怖が生きて活動している。野生の時代の名残が意識に根を張っているのである。それ故、太ることは本能が命じていると言える。健康的に太ることは、とりたてて気にする必要のない自然な状態なのである。問題は”健康的ではない”太り方である。これをこそ肥満と呼ぶべきであって、”健康的に太ること”は肥満と呼ぶべきではない。では、その二者をどの線で区別するのか、ということになるが、それは個人差があって、年齢・身長・骨総量・脂肪蓄積率等々、様々な要因を考える必要がある。単純に、身長何センチで体重何キロだったら肥満、とは言えないのである。人間の身体は本来健康維持するように出来ているから、”太っておけ”という本能的命令が正しく発せられていれば、健康を害するほどに太ることはない。まずいのは、その本能的命令が正しく発せられない場合である。さて、腹が減れば食べ物が欲しくなり、飯を食えば眠くなる。このプロセスは人間の身体にとって自然だが、生活環境がそれを許さない。飯を食えば眠くなるのは、動物の行動の第一目的が食料を得ることであるからだ。食料を得れば、更に得ようとする必要がないので、活動は鈍る。人間も動物としての部分で、同じ流れが起きる。しかしながら、自然の流れとは無関係に、生活があり仕事がある。その環境にあって、一個の人間の中でヒトとドウブツが争いあっている。ヒトはドウブツを管理しようとするが、時には自分の中のドウブツを自由にさせてやることも必要ではないかと思う。自分自身の身体を管理しようなどとせず、身体に問いかけ、身体の声に真摯に耳を傾けることが必要なのではないか、と思う。そこのアナタ、自分の身体の声に耳を傾けてますか?
2006年01月11日
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素直な感想である(笑)通勤途中に見かけるお姉ちゃん(お嬢ちゃん)達は、実に元気である。今日は寒さも比較的緩やかだが、寒風吹きすさぶ中でさえ堂々と素足を晒し、ミニスカートで闊歩している。他人事ながら、寒くはないのかと心配になる気持ちも無いではない。オジサンとしては、そうした若い娘さん達の姿が目に入ると、何となく得した気分になるから、世の中の若い女性達にとりあえずエールを送っておこうと思う。元気にミニスカートで歩き回ってくれ(笑)しかし問題はある。パンツが見えるとか見えないとか、という話ではない……見えるかどうかは、数学的な計算で出せる…本当だよ(笑)ヒールの高いブーツを履いた女の子達よ、君たちの大半は歩き方を間違えている。ハイ・ヒールは”かかと”から足を降ろしてはならない。ハイ・ヒールは”つま先”を先に地面に降ろすようにして歩くものなのである。そうしないとみっともない歩き方になる。ハイ・ヒールの格好良さは、つま先から降ろすことによる、ふくらはぎの筋肉の緊張が主因となる。スネからつま先に至る表の直線の美しさと、その裏側の緊張した曲線の美しさが、ハーモニーを奏でるわけだ。(少し大げさか?)そのことを知らずに歩いている女の子が多い。初めて履いたのか、或いは足にまめでもできて痛いのか、不格好な歩き方を見かける。その不格好な歩き方というのは、まぁ、若い女性に限ったことでもないが。老若男女、世代も性別も靴の種類さえも飛び越えて、大雑把に言ってしまえば、みっともない歩き方とは”膝を曲げたまま”の歩き方だ。個人的には”猿歩き”と呼んでいる。最近は”猿歩き”の人が目に付く。靴底の形に合わせて歩き方を考えないと、不格好になると同時に危険でもある。例えば靴の前後の高低差が少ない運動靴は、かかとから足を降ろして歩くのが筋というものだ。かかとが降りた時には、膝がほぼまっすぐ伸びていると格好が良いし、バランスもとりやすい。上で述べたようにハイ・ヒールはヒールより先につま先が地面につくようにすると良い。ヒールから先につけば、バランスが不安定になり、場合によっては足首の捻挫の原因となる。また、歩き方に気をつけると、姿勢もまっすぐ伸びる。猿歩きになると重心移動がうまくいかないので、バランスをとろうとして上半身が揺れる。これは、やはり見栄えのいいものではない。わざと猿歩きしてみれば、上体が揺れることが良く判ると思う。背を伸ばし颯爽と歩く女性は美しい。そんな女性達が増えることを、心底祈っているのである。背を伸ばし颯爽と歩くオジサンもまた格好良い。ブランド物で身を飾らずとも、ほのかにダンディズムが香ってくる。猿足や猫背で歩くのは、猿や猫だけに任せておいて、みんな、背を伸ばして足を伸ばして歩こうよ。
2006年01月11日
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片づかねぇよ~~といっても、もう手詰まりになってしまった面があるので、データのバックアップをとって帰宅することにするつもりだ。まだ事務所内には自分の他に2人残っている。もちろんサービス残業。ご苦労様なことだ。済まんが、俺は先に帰るぞ……明日の朝、屍だけは拾ってやる(笑)と言いながら、バックアップの終了を待っているのだが…いずれにせよ、夕飯は11時過ぎになるだろうなぁ……腹が減ったぞ!!帰りにコンビニでパンでも買って、歩きながらかじるかなぁ…。
2006年01月10日
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ただ今、脳味噌が加熱中…。連休明けともなると、まぁ、いろいろあるわけで。その割にさっぱり頭が働いてないどころか、夕方近く16時を過ぎて眠くなってくるという、実に自堕落な体調(笑)仕事は山ほどあるので、残業は仕方ないとして、精神的に保つかどうかが不安のタネだ。頭が働いてないということは、普段なら1時間で片づくものが2時間、3時間とかかり、この段になっても予定の半分も終わっていないという。とはいえ、自分のところで仕事を止めてしまうと、他の部署が苦労することにもなるので、歯車の一つとしては、自分自身に発破をかけつつ、目に見えない重石のついた足を引きずっているのである。ふと窓の外を見れば、遠くの山は厚く黄砂が降っているかのように霞んでいるし、かといって曇っているわけでもないので、横殴りの夕日が近くのビルを照らし付けている。一見すれば寒くなさそうだが、実際に外に立てば我が懐と同様、凍てつくようである。目の前の一つ一つは着実にこなしているはずなのだが、何とも中途半端な気分が去らないのは、たぶん自分のワガママなのであろう。…愚痴を言う気分さえ起こらない、そんな気分の今日である。
2006年01月10日
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最初に”認知論も係わってくるので、個人的に面倒くさい。”と書いておきながら、2でそちら方面に行ってしまい、少し反省している。今度は”名詞・出エジプト記”である。ごめん、違う。冗談だ。この考察は実は、言葉がまず名詞から始まったとすれば、名詞こそが、より根源的な記憶(この辺りはユングに傾倒)との親和性が高いのではないかと想像したことに始まっている。記憶がネットワークであることは知られている。新しい言葉は既存の意味のフレームの中に取り込まれ定着する。それが”成人”が言葉を記憶する場合の脳の仕組みである(らしい)。幼少時には、その意味のネットワークが構築されていないが為に別の記憶の仕組みが働いているらしい、ということも判っている(らしい)。それ故に、成人が”赤ちゃんが言葉を覚えるように”言葉を覚えることはできない、というのも事実である(らしい)。何故”成人”という言葉を使うかといえば、脳における”記憶の仕組み”の転換期が明確ではなく、個人差があるだろうことも想像できるからだ。少なくとも”成人”と言っておけば間違いはないし、そもそも自分としては学生に語学を学ぶことを勧めるつもりはない。疲れたオジサン(ご同輩)達にこそ勧めたいのである。閑話休題。語学の学習は、ほとんど”語彙の学習”といってもいい。しかし、語彙の学習について、どの品詞から行えば効率が良いか、という議論は無いように思える。そんな議論は必要がない、というのだろうか。いや、それはたぶん、語学教育のターゲットの大半が学生であり、人生経験を積んだ大人を第一に考えた語彙学習というものが、これまで考えられなかったせいではないかと思う。今、英語学習ということに限ってみれば、義務教育をうけた日本人なら全て”英語の基礎”を学んでいる。そこに出てくる語彙と文法は基礎中の基礎である。同時に”中学英語”+”英会話”という教本が相当数出版されている現実もある。ならば、その先を目指す”大人”は、やはり高校生や大学受験生と同じように、彼らの為に作られた学習本を手にとるべきなのだろうか。自分はそうは思わない。人生経験を積んで、それなりに母語(日本語)の力を蓄えた大人は、まず”名詞”の語彙を充実させるべきであると思う。大人の為の語彙学習は、名詞から入るべきだと思うのだ。単純な例を挙げよう。自分は小説を読むのが好きだ。この日記でも書いているように、ペーパーバックを手にすることも多い。そうした英語で書かれた本を読む場合、ストーリーを追う場合にもっとも重要なのは、名詞である。極論すれば、ペーパーバックの1頁の中に印刷された単語のうち、中学卒業程度の語彙と文法規則と、そして全ての名詞の意味が把握できれば、その他の未知の動詞や形容詞や副詞などは、その意味の推測が不可能ではない。しかし、その逆は、より困難である。今回の3つの書き込みの目的は、”オジサン(ご同輩)達よ、語彙学習は名詞の記憶に集中しよう!”である。何?それに適した学習書があるか?って??ブックオフに行けば、105円で辞書が売ってるよ(笑)それがもったいなければ、学生時代の古い辞書を引っ張り出してくるのもいい。そこで、最初から名詞だけを覚えていけばいい。もちろん、自分も(時折)やっている。やってないと忘れちゃうもんで(笑)学習用の良書をお勧めしたところで、後はこの論に興味を持った人だけが”出エジプト”すればいい。最後に…。思いつきだけで書いてるもんで、間違ってたら、ご免なさい(笑)
2006年01月06日
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名詞…、ああ、なんて甘美な響き…。というようなことを街中で声高に言うと、危ない人になるので、さらりと聞き流してもらうとして(笑)。西洋哲学的な考え方として、主客二元論という言葉がある。簡単に言えば、自と他である。見るものと見られるもの、思い切り拡大解釈すれば”私=観察者”とそれ以外だ。では、”私”は更に主客に分けることが出来ないか、と考えていくと、総体としての”私”は冷肉もとい霊肉伴う一個の人間であるから、”私”意識と、それ以外ということになる。(高いお肉を買えないから、冷肉なんて言葉が出てくる……ああ、悲しひ)さて、あらゆる事象は”私”の外にある。外にあるからこそ”名付ける”必要が出てくる。あちら(西洋)世界の神様が"I am that I am."という時、畏れながらも今ここにいる自分は"I am (a man) who is here."と言い切ってしまおう。神様と違って偏在などしていないからhereと言うしかない。神様のように偏在していない個(霊肉)としての”私”が肉の部分を他として徹底的に切り離し、意識の奥底まで分け入り、更に意識から精髄としての”私”以外の部分を切り離していくと、最終的に主客で表される”私(主)”は”私(主)”以外の全て(客)から切り離され、そしてついには無限に縮小していくメビウスの輪を形成することになる。言い方が判りづらいか。”私”を”私”として認識している部分の”私”は、すなわち”私”に属してはいても肉体と同様に客体であるということだ。これを突き詰めていけば、”私”を認識するという意識を持つ”私”を認識するという意識を持つ”私”を認識するという意識を持つ”私”を認識するという意識を持つ”私”を認識するという意識を持つ”私”を…と無限に続くことになり、その都度”私”を認識するという意識を持つ”私”をそぎ落としていくから、無限に縮小していくとうことになる、ということだ。もっとわかりにくくなったかもしれない(笑)とりあえず、無限に縮小された結果、最後に残り得た(論理矛盾についてのクレームは却下)”私”が最初の認識を持つ時(その前には”私”という意識・認識さえ無いはず)、そこで客体を客体として認める為の名付けが必要となってくる。そうすると、宇宙最初の胎児として存在しえたばかりの”私”は、そこから猛然と名付けを始める…名詞を産み落とし始める(かなり強引…笑)のである。(一歩間違えばニヒリズムに行って、絶望の果てに自殺する人がいるかもしれないので、ここは名詞の話だと、再度書いておこう)そして、最初に名付けられた客体が生まれた瞬間、”私(主体)”と”客体”との”関係”が生じ、そこで初めて”名詞”以外の品詞が生まれるわけである。…だからね、幼い子供達、君たちが何かをみて自分自身で名前を付けた時、君はその瞬間に宇宙の創造を行っているのだよ、すごいよね……って、この文章を読んで理解できる幼い子供達がいたら、ちょっと怖いが(笑)…このように考えていくと、最初に創造される言葉はおそらく感嘆詞ではないかと、想像される。現代の感嘆詞は複雑になりすぎているが、それは先に書いたように修飾された結果である。その修飾を取り除けば、意味のない音声…誤解を避ける為に言い換えると、意味はあるが言葉ではない音声へと還元される。意味はある、といったのは、それが認識の発露であるからだ。つまりは、原初の感嘆詞は言語のアダムである。それも知恵の実を食した後の。一度”主客”の認識が始まれば、後は”産めよ増やせよ地に満ちよ”だ(笑)そこから無限ともいえる”名詞”の増殖が始まる。”名詞”の増殖が始まると同時に、それよりも緩慢なスピードで”名詞”以外の品詞が生まれ続けることになる。後はもう”やりっ放し”な世界だ…いや、イヤらしい意味ではなくて(笑)…続く。次は”名詞・出エジプト記”か??
2006年01月06日
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前にも書いたが、外国語学習についてのアレコレを考えることが、自分の趣味の一つである。この連休の間は、名詞と動詞についてアレコレ考えた。いろいろな考え方はあるが、語彙という言葉で一括りにしてはいけない決定的な違いが、名詞と動詞の間にある。英文法で八品詞といえば、名詞Noun・代名詞Pronoun・感嘆詞Interjection・形容詞Adjective・副詞Adverb・動詞Verb・接続詞Conjunction・前置詞Prepositionの八つだ。乱暴に言ってしまえば、前三つが単独で存在しうるもので、後の五つは、それ自体では存在しえないものである。…関係詞はどうする、というクレームは却下(笑)さて、品詞を大きく二つに分けてしまったわけだが、前半グループで、名詞については言うまでもなかろう。まともに考察すれば、むしろ哲学的な領域に入ってしまうし、理論言語学方面に行けば認知論も係わってくるので、個人的に面倒くさい。よって、代名詞と感嘆詞について考えてみる。代名詞は名詞の特殊な形である。イヤ、逆だ。名詞は代名詞の特殊な形である、と言った方がいい。つまりは、正方形や菱形といった個々の特徴を持つ図形の総称だと考えればいい。縦2センチ横20センチの長方形であれ、上底二キロメートル下底1ミリメートルの台形であれ、一メートル四方の正方形であれ、すべて”四角形”という言葉で括られるように、代名詞は名詞を括っている。要するに、代名詞を使う時は、”面倒だからくだくだしく説明はしないけれど、それって四角形の仲間なので、四角形って言ってるのよ”てな感じだと思えばいい。まとめて言えば、代名詞は”具体的にもしくは心理的に指を向けることのできる名詞”の総称なのだ。そのように考えれば、形式主語としてのitも、そこに”指を向けられるもの”があると考えた方が判りやすい。例えば、"It rains"という時、そこには指を向けることのできる天がある。強調構文と呼ばれる形式で用いられるitも、心理的に強調したいものを指さしているわけだ。ここには話者の意識が”指さす”ソレがある。itと同様にthisであれthatであれ、heであれsheであれ、或いはoneであれ、全ての代名詞は、文脈の中で特定できる名詞の総称なのである。であるからこそ、例のLast Christmasの訳詞についてアレコレ考えた際、英語の先生であるkarateka-santaさんがコメント下さったように、”先ず、代名詞はいわゆる、仮主語や仮目的語、仮補語というように、本来そこに位置するべきものが同一文内で後から登場することがない限り、必ず、前の文で既に出てきているものを指します。次の文で初めて出てくるものを指すことは、通常有り得ません。”と言える。しかし、小説において、説明もなく人称代名詞が出現することは、よくある手法の一つである。今、自分は”文章の中で”と言わず”文脈の中で”と言った。文章は言葉の流れであり、文脈は意識の流れである。さて、代名詞が名詞の総称であると、説明した。名詞の総称であれば、名詞がそうであるように、それは独立して存在しうるものである。”自在性を内包している”とでも言っておこうか…博多の人間からは”ツヤつけるな”と言われそうだが(笑)。感嘆詞は、元をただせば、ため息や怒声など、本来は意味のない言葉というよりは音声である。本来は意味のない音声であるから、人間の繊細な感情を明確化する為に、本来の音声に他の品詞がプラスされて出来上がる。これは、文章の構成要素とは成り得ないが、独自に存在しうる言葉だ。このように、名詞・代名詞・感嘆詞は、”それ自体で独立して存在しうる”品詞(言葉)なのである。…続く。
2006年01月06日
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競馬ではトヅボってしまった(涙)まぁ、平日でもあったので、今朝のスポーツ新聞で結果を見たのだが、これがまぁ、見事にマル外れ(笑)。いっそ気持ちがいいと言えるくらいである。東西の金杯については”100円買いで運試し”くらいの気持ちだったので、実害は少ないが、精神的には(落ち込みが)大きいぞ。運試しの結果が惨敗じゃ、運もツキも無いってことだからなぁ。仕方ない。今年も”運”には期待せず、自力頼みで地道に暮らすか…。そういや、年末の宝くじの結果さえ見てないわけだが、三が日明けるまで気にもしてなかったのは事実だ。どうせ当たってないだろうし(笑)来月にはちょっとした振り込み(労働報酬)があるので、その時に、DELLの例の液晶ディスプレイを発注しようかと思っている。それまで2ヶ月近く、ボケボケのCRTを使わざるを得ないのは厳しいが、世の中、貧乏人は損するように出来ているのだ、と自分を無理矢理に納得させている。……納得なんてしたくはないけどなぁ。
2006年01月06日
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ウィークデーでもあり、さすがに仕事始めから2日目であるから、有給休暇をとって競馬場に出向くわけにもいかん。仕方なく仕事をしつつ、合間にアレコレ想像して楽しむにとどまる、ということになる。まぁ、昼休みにでも電話投票して明日の新聞で結果を確認、ということになろう。そんなこんなで浮かれ気分な正月5日。日課以外に緊急の仕事も無いし、それなりに平和である。
2006年01月05日
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何がメデタイかはともかく、新年、仕事始めだ。自分の頭はいつもメデタイので、暦年が+1されたとて、特にめでたさを感じることはないが、体調もそれほど悪くなく仕事始めの日を迎えられたのは良しとしよう。個人的な仕事を元旦の夜にやっていたことは、知る人ぞ知るところではあるが(笑)2日と3日が実質的な休日で、例年ならば”久々に独身の日”なのだが、今年は我が子が受験生で、それもままならなかった。一生懸命勉強しているようだが、それがなかなか結果に表れないのは、正直不憫ではあるが、勉強なんてのは一粒ずつ砂をを積み上げて山と成す作業であるから、そうやって積んでは崩れ、崩れては積み上げたものが、いつか人生の大きな支えとなる日が来ると(お父ちゃんは)信じている。年をとると昔の事が思い出されるようになる、というのは事実のようで、何かのおりに昔の記憶がフラッシュバックする。スペイン語の文法書を読んでいる最中に30年近く前に聞いたロシア語のレコードの最初の文言が頭に蘇ったりする。まだ十代半ばの10回程度聞けば音を記憶できた時代だ。情熱が能力を上回っていた時期と言える。今や100回聞いても、ザルから水がこぼれるように音も言葉も記憶から抜け落ちていく。それでもカタツムリの歩みで、少しずつ前に進んでいくつもりだが、ただ、目的地に到達する前にひからびてしまわないことだけを願っている。ともあれ、今年も悲喜こもごもの日常に戻ってきた。そして、(唐突だが)明日は東西の金杯だ。競馬オヤジにとっては、とぉっても大切な日なのである。本日の夕方には専門誌を購入して、明日の出社前には馬券購入しておく予定だが、楽しい競馬始めになればいいなぁと思っている。今日は早めに帰宅することにしよう…たとえ何があっても(笑)
2006年01月04日
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