全19件 (19件中 1-19件目)
1

人間は、人とのかかわりの中で生きています。職場、学校、家庭、地域社会・・・様々なところで人と人とのかかわりがあり、その中で自分自身を磨いていきます。それは決して平たんな道ではなく、楽しいこともありますが、つらいこともありますし、悲しいこと、怒ること、様々です。でも。。。 私達は、多次元的にみれば、そういう場での学びを「自分自身で」選んで今ここにいます。全て忘れてしまったかもしれませんが、自分自身で決めたことなんですよ!(笑)対象に埋没して自分自身を磨く選択をしたわけです。だからこそ。。。 現実から目をそらさずに、今ここにフォーカスしなければならないのです現実逃避のためにヘミシンクや他のスピリチュアルに走るのが進化から逆行する理由はここにあります。「いや、わたしは違う。現実逃避なんかじゃない。望み通りの生活を実現するためにヘミシンクをしているのだ~」でも(笑)。。。 本当にそうでしょうか?自分自身の可能性を切り開くためには、現実世界で意図してそれを実現していくプロセスを学ぶ必要があります。いわば、わざわざ望み通りにならない世界を選択して自分自身を磨く選択をしたのですから、真っ先にやるべきなのは、自分自身の認識を変えることであって、そのためにこそ、今ここに強くフォーカスして、現実世界という対象に埋没して自分自身を磨く必要があるのです。私は最近、精神的な心のゆとりが大切なのだということを何度か説いてきました。 それは、決してどこか遠くの理想郷からもたらされるのではなく、「最初から」自分の心の中にあります。そこに気づくためには、自分自身の心のもっとも根源的な部分にアクセスする必要がある。でも、それは何も大それたことが必要ではなく、変性意識に入る必要などもなく、ごく当たり前の感謝想起によってもたらされる、これだけをひたすら説いてきました。もちろん、強制はしません。共感できる方だけ参考程度に聞いていただければそれで十分だと思っています。 話を戻します。人とのかかわりの中で生じる変化を楽しむこと。これには、深い意味があります。進化のプロセスは一直線ではなく、らせん形を描きながら上昇していくイメージで言われることが有りますが、私達の日々の生活の中でもこれは頻繁に起こっています。現実世界の中で、様々な人と出会い、時には楽しみ、また時には喧嘩をし、共に喜びを共有していく中で当たり前の生活をしていくことにこそ、我々が今ここに存在する意義があります。 なぜ私達がこの地球にいるのか、その意味を考えてみてください。我々は、共に喜びや悲しみを共有し、共に切磋琢磨していく中で経験を積んでいくプロセスを楽しんでいるのです。このように考えれば、現実から遠ざかることがいかにもったいないことか、あるいは進化のプロセスから遠ざかることかお分かりになられるかと思います。日常生活の中において、人とのかかわりの中で変化を楽しむ、今日はこのことを提言したいと思います。 (Creative commons: some rights reserved by Ernst Vikne)
2010.10.30

毎日の生活をしていく中で、その単調さや、あるいは忙しさの中で、自分を振り返ってみる余裕を失いそうな時があります。それでも、自分の本当の気持ちに素直になっていれば、希望を失うことはありません。でも、何かに失敗したり、目標を失ったり、病気になったりして、希望を失いかけたときにはどうすればよいのでしょうか。 まずは、心の平安を取り戻すことが大切です。もっとも気持ちの安らぐもの―それは人によって違うと思うのですが―それをやってみるのがいいのだと思います。できれば、自然に触れられるといいでしょうね。 以前、ある存在に、こんなことを言われたことがありました。物事の認識力を高めるためには、自然をよく観察することが大切なのですよ、と。我々の進化にとって必要なものというのは、今ここにおいてすべて手に入れることができます。変性意識に入ってはるかかなたの高次まで行く必要はありません。それは、まさに我々がかんながらの道に生きているからです。 あるいは、こう言えるかもしれません。それを望めばそういう生き方もできるのだと。ここでいうかんながらの道とは、自分の魂に素直に生きる道だとお考えください。自分の中にある最も神性な部分、それとともに私達は今この瞬間も生きているのだということに気づけるか。そこにこそ、心の平安、幸せを手に入れる鍵があります。 それは決して、お金では買えないものです。セミナーに参加する必要もなく、ただ「気づく」ことができれば誰にでも手に入ります。私達は常に、平和と共にあります。心の中の奥にある、絶対的に安全で満たされた領域です。 もちろん、私達は「今ここ」に存在して自分自身の可能性を表現しているわけですが、同時に神のような神性さの「目」によって、自分自身の可能性を体験しています。つまり、私達は、多次元的にみれば、神でもあり人間でもあるのです。日常生活の中にあふれているささやかな喜び、それに気づくだけで、人生がより豊かになります。それは、物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさです。心の平安であり、心のゆとりです。 今大切なのは、物質的価値観によってゆがめられた自分自身の心のゆとりを少しでも取り戻すことです。そのためには、だいそれたことは一切不要です。自分自身の神性さに気づけるか、そこにかかっています。たとえば、私の住んでいるところでは、今紅葉の真っ盛りなんですが、道端の木々の紅葉に目を向けるだけで心が洗われるような気がして、満たされていくのを感じます。他にもそういったささいな喜びはたくさんあるはずです。人や動物、植物との触れ合い。。。そういった中に、神の姿を見ることができます。ワンネスの視点からみれば、それは実は、自分自身の持つ神性さに他なりません。 自然と共に生きること、それは、田舎だけではなく都会であっても十分に可能です。心の平安を取り戻して、希望にあふれた生活をしたいですね。それは、遠くにあるものではなく、すぐ足もとにあります。日々の生活の中にある、ささやかな喜びに目を向けること。。。それは、ひいては、自分自身の可能性に気づくための扉となり、また、今この瞬間に命を与えられて生かされていることへの気づきにつながります。
2010.10.27

過去生・未来生を見たり、ガイドと対話したり、ハイアーセルフと会ったり。あるいは自己ヒーリングをしたり。あるいは、太陽系や銀河や宇宙を探索したり。それらは一見、華々しい感じがして魅力を感じられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そんなものは取るに足らないことです。この現実世界での体験に勝るものはないからです。 もちろん、上で述べたようなことも、プロセスの一環だととらえれば(本来そのような体験をする必要はないという点では迂遠なものですが)全く無意味かといえばそうとも限りません。ただし、上で述べたような体験の数々の真の意味を理解してはじめて意味のあるものとなります。では、真の意味とはなんでしょうか? それは、それらの体験の数々は、煎じつめれば自分自身を見つめていることにほかならないということです。そのことに気づけて初めて、この現実世界で生かしうる糧となる糸口が見つかります。この現実世界において男性または女性として生まれ、職業を持ち、あるいはなんらかの役割を与えられ、ある「役」を演じているということ。どんな状況下においても、それは所詮、この世だけのその状況下だけに当てはまる限定的なものであって、魂の視点から見たより広い視点からみれば、大した問題ではないのだということに気づけるか。そのときはじめて、現実世界にのめり込みつつ、同時に達観した生き方ができるようになります。つらいこと、悲しいこと、様々な思いに翻弄されなくなります。常に自分の軸をしっかりと持ち、嬉々とした心持ちで日々の生活を送れるようになります。 繰り返しますが、このC1現実世界での体験に勝る体験は他にありません。過去生や未来生を知る必要もありません。ガイドは自分自身です。自分自身の直観力を高め、その叡智に従うことがすなわち、ガイドからのメッセージです。自己ヒーリングは、感謝想起によって行うことができますから、ヘミシンクを使って無理に変性意識に入る必要もありません。つまり、ヘミシンクは、霊的見地から見た必要論からいえば、不要なのです。 もっとも、趣味でなさる方はご自由にどうぞ。それ自体を否定するつもりは毛頭ありません。ですが、私自身があらゆるヘミ体験、今巷で言われているような体験の数々のほとんどを体験してみて感じ取ったことは、この現実世界での体験に勝る霊性進化の道は他にはないということです。今目の前に出現している世界、これこそが、私達のレベルに最もマッチした、理想的な修行の場なのです。修行という言葉が大げさだと思われる方は、他のお好きな言葉に置き換えていただいて結構です。 もちろん、私は日々感じたことを不特定多数の人に向けて発信しているだけであって、誰に対しても強制するつもりはありません。何十時間、何百時間もヘミシンクや瞑想に費やす時間が有れば、この現実世界において「実際に多数の人とかかわりながら自分自身の内面を見つめる」ことのほうが、霊的見地から見てより多くの実りを得ることができます。 では、なぜこういったメッセージがスピ業界では言われないのでしょうか?それは、「つまるところ、自分自身を見つめる以外には不要なんですよ。」というだけでは、商売にならないからです。ものを買わせる。セミナーに来させる。依存関係を生み出す目的でヒーリングをさせる。オーラ診断をする。退行催眠を施す。すり込みによって何らかの教義をたたき込んで暗示をかける。超能力を売りにして外面のみに目を向けさせ内面を見つめることから遠ざける・・・ 何が真実かを見破るのは簡単です。つまるところ、自分と自分の源(神我)との関係をただひたすら説くこと。霊的見地から見てまともな人は、必ずこのスタンスをとっています。真実とは常に、自分自身の中にあります。現実世界を大事にしつつ、日々の体験の中で、外的環境の中に自己を見出しましょう。ネガティブな部分から目をそらさず、それらを言霊の力を使って手放すことによって、自己浄化をはかりましょう。 その上で、日々の生活の中で、感謝想起を心がけます。何に対する感謝でしょうか?自分自身に対する感謝です。今この瞬間に存在出来ることの喜び、これを感じ取るには、自分自身を大切にすることが大事です。 ここでいう自分自身とは、ちっぽけな自分だけではなく、より大きな視点からみた自分です。つまり、今ここに存在できているのは、つまるこころ、自分自身のおかげなのです。そのことに気づくためには、なによりも自分自身を見つめ直すことが必要なのです。この当たり前のことから遠ざけるための、巧妙な罠があちこちにあります。 本物かどうかを見破るにはただ一つ、そのメッセージが自分と源との関係を説いているか、これにつきます。自分自身を見つめてください。あなたの中心深くで光輝いている希望の光を見出してください。現実世界から目をそらさないでください。現実とは今ここにしかないという観点では、あなたは、今ここにしか存在しないのですから。今ここの積み重ねこそが、あなた自身を形成していくのですから。(Creative Commons: some rights reserved by TANAKA juuyou(田中十洋))
2010.10.23

人生は、浮き沈みの連続です。楽しいことばかりではありませんね。つらいことや苦しいことがあります。昨日から今日にかけて、メールで過去の思いを引きずってしまい前向きになれないというメッセージをいただきました。もしかしたら、そういう方は割と多くいらっしゃるのではないでしょうか。 私の場合は、つらいことや苦しいことも楽しく過ごすというよりは、静観する態度をとります。嵐が過ぎ去るのを待つのです。心を穏やかにして、日々のやるべきことをたんたんとこなしていきます。人間は、普通は一度に一つしか意識を向けられませんから、たとえつらい状況であったとしても、つらいことにとことんフォーカスするのではなく、心ではできるだけ前向きになれるようなことにフォーカスするように心がけます。 物事には、それ自体に意味はないとされています。それに意味付けを行うのは、他でもない、人間自身です。その意味では、つらい・楽しいとか、物事の善し悪しとかも、相対的なものでしかありません。もちろん、ひどい嵐のときなんかは、不安になることもあるでしょう。私達は、自我(小我)で普段物事を考えますから。小我で考えると、なんでもないことが不安に駆られたりしますから。でも。。。 ここで言いたいのは、それがすべてではないということなんです。ある現象に対して意味付けをしているのはほかでもない、自分自身なのだということに気づくことができれば、ひどい嵐も静観していられるようになってきます。この世という舞台の上で、ある役柄を演じている仮の自分というものが見えてくるからです。つまり、神我(大我)の視点から物事を観察できるようになります。そのためには。。。。 まずは、自分だけで生きている、自分さえよければいいという気持ちではなく、自分がいろいろな存在に支えられて生かされていることに「気づく」ことが大切です。朝日を浴びながらコーヒーを飲んでいると、太陽意識とつながる瞬間があります。ハートチャクラに、生かされていることの喜びがあふれるように流れてきます。それこそが、本当の自分自身を「垣間見る」瞬間です。 私達は、自分というものがまるでわかっていません。本当の自分自身というのは、深淵で、あふれるような愛に包まれています。というか、実は、愛そのものであるのです。その全貌を見通すことなど、到底できません。ですが、その一端を垣間見ることができます。その出発点となるのが。。。 感謝想起です。命を与えられて、今ここに存在していることをかみしめてみてください。それは素晴らしいことです。その素晴らしさに気づけば、どんな嵐が来ても静観できます。 前向きに生きてみてください。感謝想起をしつつ日々の生活を大事にしていくことで、必ず物事は改善されていきます。 (Creative Commons: some rights reserved by ajari)
2010.10.21

物事には、どんなものにでも味わいというのがあります。そこには、素朴さを追求したものや、工夫を凝らしたものなど様々です。ですが、大切なのは、それらを存分に味わうということです。具体的には、人生の様々な場面で生じる出来事に対して、感動して、喜んで、時には怒ったり、悲しんだり、・・・そういった、体験の中で生じる喜怒哀楽を十分に発揮して、体験そのものを味わうことが何より大切なんだと思います。 人生で生じる出来事は様々ですから、時には失敗したりもしますし、逆に成功したりもします。ですが、そういった浮き沈みのある出来事そのものよりも、その中で喜怒哀楽を通じてつかみ取った経験そのものこそかけがえのないものであり、私達の財産となるものです。金銭的な財産や地位は、あの世に持ち帰ることはできませんが、上で述べた喜怒哀楽を通じてつかみ取った精神的な財産は持ち帰ることができます。そのような貴重な体験を得るためにこそ、私達は今ここに存在しているのです。過ぎ去った出来事に必要以上にとらわれる必要などありませんし、また、まだ来ていない将来の出来事をあれこれ模索する必要もありません。必要なのは、瞬間瞬間に訪れる体験の数々、それらを思う存分満喫することが大切なのだと思います。 人生には、いろんな「役」があります。そのどれもが貴重な役です。人生という舞台の上で、どんな役を演じるにしても、そこで得られる体験こそがかけがえのない、次の生につながる糧なのです。 ちょっとスピリチュアルな感覚から話してみたいと思います。トータルセルフに帰還する過程を観察してみると、いくつものエネルギーの流れが観察できます。自分もたくさんある流れの内の一つに所属しているようです。トータルセルフへの帰還を自分は目指しているようなのですが、その過程では、自分は他のメンバーを、自分から見て他人だと認識しています。ですが、だんだんと上のほうに行くにつれて、自分と他人の境目がなくなっていきます。 言い方を変えれば、自分とは今の自分だけでなく、もっと大きなエネルギー体としての側面を持っていて、すべてのエネルギーの流れを含んだより大きなエネルギーそのものが自分です。そのより大きな自分としての感覚を細部まで味わうことは今の私にはまだできませんが、全体としての自分は感じられます。それが、スピリチュアルな視点から見たより大きな自分です。 今日お話ししたのは、最終的にその大きな自分の貴重な糧となる体験を、今私達は地球上で積んでいるのだということです。今この瞬間を存分に楽しみましょう。 (Creative Commons: some rights reserved by George Lu)
2010.10.20

みなさんは、「夢」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。「将来の夢」などと言ったりしますね。あるいは、「夢のような世界」という表現で使われたりもします。このように、夢というのは、今の現実に満足できない状態で何か素晴らしいものを求めるときに使われます。 この世的な世界観からすれば、夢(目標)を失ったら悲しいな~と思われる人もいるかもしれませんね。いくつになっても夢(目標)は失いたくはないものだなと。でも。。。夢(目標)を失わずに現実を重視して生きる方法があります。それは、夢=現実として生きる方法です。別の言い方をすれば、今この瞬間に夢(生きる希望)を見出す生き方です。 そんなことできんの?と思われるかもしれません。でも、できます。朝、窓を開けた時に感じた空気の新鮮さ。あるいは、ふと空を見上げた時に見えた真っ青な空。あるいは、夕方、帰宅途中で偶然見た夕焼けの美しさ。 人間自身の持つ「美」というのは、このように自然界のカタチとして現れてきます。我々はどうしても自分とそれ以外という形で切り離して考えてしまいがちですが、スピリチュアルな観点からみれば、そうではないのです。スピリチュアルの本質からみれば、外面とは内面の表れです。つまり、我々が今いる世界というのは、我々の心の表れとしての特質を持っています。 まずは、自分自身=外的環境(の表れ)を素直に見つめてみましょう。あなた自身の心の美しさというのは、必ず外的環境としてこの現実世界に現れています。また、美しさというのは、外的環境のどの部分にフォーカスするかによっても違ってきますし、外的環境を見て自分がどのように認識するかによっても異なってきます。空の雲を見てそこに美を認識するか、なにも気に留めないか。この違いは大きいです。 自分が理想とする世界は、最初から心の中に美の象徴として存在しています。あとは、そのことに「気づいて」、その美を外的環境に投影していくだけです。その鍵となるのは。。。 感謝想起です。自分が今いる世界がいかに素晴らしいか、これに気づくためには、何よりもまず謙虚になる必要があります。謙虚な心で見てみると、自分には無限の可能性があると気づく瞬間があります。その感覚こそ、内在する神的部分とのコンタクトなのです。それは何も不思議なことではなく、人間=自然の一部なのですから、当然のことです。人間の言葉にすると限界がありますが、「感謝想起」という言葉の視点からも内在する神的部分にたどりつけます。つまり、表現ではなく、核心部分が重要なのです。 謙虚な気持ちで自分の心に目を向けて、命が与えられ、この素晴らしい現実世界に存在できることに感謝すること。それによって、たとえどんな状況に置かれていたとしても、内在する神的部分からみれば、自分が今ここに存在できることだけで幸せが身にしみて感じられるようになってきます。その発心こそが、自分の存在する環境に対する認識を少しずつ変えていきます。 夢とはどこか遠い世界にあるのではなく、「今ここ」に存在しています。あとは、心の中にある「美」に気づき、それを次の瞬間に現実世界に投影していくだけです。生かされていることに感謝できる、これほど素晴らしいことはないです。そこからすべての可能性は開けていくように思います。そしてそのチャンスは、すべての人に平等に開かれています。 夢を「いまここ」に見出せたら、自分自身の現実世界の目標も次第に近づいて行くように思います。エゴ(小我)の視点ではなく、神我(大我)の視点から見ると、現実世界の様相はずいぶんと違ったものに見えてきます。物質的世界観のニセのすばらしさが透けて見えてきます。本当の素晴らしさは遠い未来にあるのではなく、「今ここ」にあります。あとは、それに気づけるかどうかです。それこそがまさに、夢=現実となる瞬間です。
2010.10.17

魂の整列とはなんでしょうか。それは、心と心の共鳴です。仮の自分の心と、真の自分の心との共鳴です。 人は生まれながらにしてある特質をそなえています。それは、人間であると同時に、万物を生み出す法則と一体であるということです。かつて、アインシュタインはこんなようなことを言っていました。 「私達に知られていないことが確かに存在するということ(それは、もっとも高い叡智として、あるいはもっとも輝かしい美として現れるのですが)。それは、私達の鈍い能力によっては、この知識、この感覚、こういったもっともシンプルなかたちでのみ理解できるものなのですが、それこそが宗教的信念の中心にあるものなのです。この意味において、そしてこの意味においてのみ、私は宗教的人間であると言えるのです。」 人間に知らないことなど、無数にあるのだと思います。それは、アインシュタインのように理論を徹底的に研究してみると理屈でも感じられるのかもしれませんね。その意味で、人はまずは謙虚になる必要があるのでしょうね。見えない力によって生かされているのだということ。そしてそれは、他でもない、広い意味での「自分自身」という叡智によって生かされているのだということ。その意味での、「魂の整列」なのだと思います。スピリチュアルな視点からみれば、人間の本質とは、この今の自分の肉体だけではありません。意識、エネルギーとしての本質こそが我々自身なのです。 ですが、何も難しく考える必要はなく、我々がすべきことは、今ここに強くフォーカスすることと、上でお話した魂の整列に従った生き方をすることです。本来の自分が求めているもの・・・それは、素直な心になることによって見えてきます。心の奥底にある、平和で安定した場所から出る一筋の光です。それは、人それぞれなのでしょうが、それこそが、その人が求める生き方です。 では、どのようにそれを現実世界にフォーカスしながら見出せばいいのでしょうか。たとえば私のように、何かの転機を迎えてそれまでの生き方を大きく自分の意志で変えたような場合、それはもうその時点で心の安定に根差した選択をしています。ですが、いろいろな事情から必ずしも自分の気持ちに素直になれない場合も多いかと思います。そんな場合でも、魂の整列は可能です。それは。。。今この瞬間に命が与えられていることに感謝することです。 人間というのは、たとえどんな苦境に立たされても、乗り越えられない苦難はないとされています。むしろ、困難を極めれば極めるほど、嵐が強ければ強いほど、内在する神我はますます光輝きます。その輝きこそが私達の真の姿です。生きる希望そのものであり、魂から欲する喜びです。それは、なにものにも代えがたいものであり、そのような生きる希望を見出すために、我々は今ここに存在しています。ですから、あらゆる苦難は、人生における喜びを見出すためのきっかけにすぎません。 魂の整列した生き方を求めること。それは、感謝想起から始まります。生きる希望はそこから生まれてきます。
2010.10.15

みなさんは「心の自由度」というものを考えたことがありますか?心には制限というものがないんです。自分の想像の及ぶ限り続いていきます。つまり、唯一の制限は、自分の想像力ということになります。 人は生まれた時から様々な制限の中で生きていきます。まだ言葉をしゃべれないとき、なんとか自分の気持ちを伝えようと本能で言葉を習得します。言葉という制限の誕生です。学校に入ると、様々な勉強をします。それらは、生きていくうえで最低限必要なものから始まります。社会で順応していくための制限です。社会人になると、様々な経験を積みながら能力を磨いていきます。ですが、ある意味それも、社会で順応していくための制限です。このように、人間というのは、生きていくうえで様々な経験を積み重ねていくわけですが、それはある意味、この世の中に順応していくための制限としての特質を持っています。 でも。。。そんな制限から、私達は一瞬で自由になる能力を潜在的に持っています。それが、「心の自由度」とかかわっていきます。たとえどんなつらい状況に追い込まれようとも、自分の神性な部分(神我)だけは絶対に汚されませんし、常に光喜にあふれ、燦然(さんぜん)と輝いています。私達は、たとえどんな状況に置かれようとも、このように、自分自身(小我)と神性な自分(神我)との二面性から成り立っているのです。 自分自身で作り上げた様々な制限を破れるか。それがまさに、自分自身の可能性を切り開いていく突破口でもあります。そしてそれは、いついかなるときにも、自分の中に開かれているチャンスです。自分で課している制限を打ち破れるのは自分以外にはいません。しかもそれは、今たとえそうではなくても、次の瞬間には変える力を我々は持っています。 自分の人生ですから。いかなる人生を送るか(物質的価値観だけに縛られるか、それとも、精神的に充実した人生を送るか)は、自分次第です。 この世というゲーム舞台で、自分がどのような役を演じるのか。それは、自分自身の意識の持ち方で随分と変わってきます。自らの中にある制限を打ち破り、本当の自分が求めているものに気づき、それに少しずつでも近づけていけたらいいですね。(Creative Commons: some rights reserved by Atsushi Kase)
2010.10.13

たまにはへミシンクの話でもしようかなと思います。みなさん、へミシンクはどのように活用されているでしょうか。リラクゼーション、集中力を高める、瞑想する、様々な変性意識体験をする、体外離脱をする・・・等、様々だと思います。目的、用途は様々ですし、きちんとした使用法を守って使用するのであれば、それ自体は危険なものではありません。ただ、どのような体験をすることができるかは千差万別ですし、体験それ自体に優劣はありません。派手な体験であろうと、地味な体験であろうと、それ自体はその体験をした人にとってかけがえのないものです。ここを取り違えてしまうと、へミシンクの目的と手段が逆になってしまい、現実世界を有意義にするためのものであるのに過ぎないにもかかわらず、いつの間にかへミシンクをすること自体が目的のようになってしまいます。 ヘミシンクはあくまで数多くある手段の一つにすぎず、それ自体はやってもやらなくてもどちらでもよいものです。たとえば私の場合、最初のころは特に明確な目的などもなく、ただなんとなく聞いていた時期がありましたし、日常生活が忙しくて、疲れを癒すためにヘミシンクをしていた頃もありました。また、縁あってブログを公開し始めてからは、ブログを書くために強制的にヘミシンクをして体験を残していたこともありました。最近ではそういったこともなくなり、ヘミシンクは主にリラクゼーションのために聞く感じです。メタ・ミュージックを音楽として聞く程度です。記事を書くときには、「The Return」をよく聞きながら書いています。 そろそろここらへんで本音で語りたいと思います。最近私は、ヘミシンクをする必要性をそれほど感じなくなりました。ヘミシンクは不要だということに気づいたのです。それは、私がいままでのヘミシンクの体験を通して学んだ、現実世界での学びこそが最重要であるということともかかわってきます。ヘミシンクをして何時間も費やすのはもったいない。そうするくらいならば、もっと多くのことを現実世界での体験から学べるはずだ、そのように考えています。ヘミシンクをして最終的にたどり着いたのは、自分と自分の宇宙(その中でも特に神我)とのかかわりの大切さです。いつもお話している、自分と神我との関係についてです。それに至る最も簡潔で有効な手段は感謝想起にあり、そこから出発すれば、ヘミシンクをして変性意識に入らなくてもよいのです。 言いかえれば、ヘミシンクをして遠くばかりを見ずに、日々の生活の中で感謝想起をして自らの足元を見つめ直すことが重要だということです。感謝想起によって自分自身(神我)を見つめることが出発点であり、最終的に至るのが自分自身の神なる存在との関係、すなわち、神我です。つまり、出発点と終着点は重なるわけです。それ以外の枝葉の部分に走る必要などはないのです。枝葉の部分とは、この文脈ではへミシンクワークのことを指しています。私は今、現実世界での学びこそが最重要なのだという視点からお話しています。他の考えをとれば、別の見解もありうるのかもしれません。あくまで私はこう感じるというお話をさせていただいています。これが、私がヘミシンクワークを通して学んだ結論です。 現実世界での学びこそが最重要であり、そのためには、ヘミシンクをあえてする必要はない。むしろ、人間として当たり前の感謝想起こそが、自分と神我とを引き合わせるきっかけになるのだということです。もちろん、ヘミシンクを聞きたければ聞いたって構いません。ただ、どうしても聞かなければならないかというとそんなことは決してない。そういう話をしています。ヘミシンクをして素晴らしい世界を求めたがる気持ちはわからなくはありません。でも、このC1現実世界に勝る素晴らしい世界は他にはありません。 我々のフォーカスすべきポイントは常に、「今ここ」にあります。「今ここ」を生き抜くことこそ、もっともかけがえのないものであり、身(ミ)になるものです。過去を悔いず、また必要以上にとり越し苦労をせず、今を淡々とそれでいて嬉々として生き抜くことこそ、もっとも意義深いものです。現実世界にフォーカスする意味は、ここにあります。現実世界で得られる体験こそがかけがえのないものです。その意味では、霊的真実に根差して考え抜けば、非物質界に目を向ける必要はないといえます。本音で語ればです。 商売をしている人であれば、本音だけでは語れないものですが、あえて本音だけで語ればそうなります。少なくとも、霊的真実を深く追求できる人なら、その方向性に行きつくはずです。今回は少し、本音で語ってみました。 (Creative Common: some rights reserved by kainet )
2010.10.10

現代社会では癒しを求める人が増えてきているように思います。それは、社会全体がある意味の転機を迎えつつある前兆でもあります。一人一人が自分の魂に素直になりつつ、個が全体の一部であるという意識を取り戻していく時代への前兆です。そういった背景における「癒し」です。 一般に癒しを求めるというのは、与えられることを指します。「自分が」癒してもらうのだ、と。しかし、スピリチュアルな見方からすれば、これでは全体像を示していません。癒しとは、自らが癒しつつ自らも癒してもらうというセットになっているのが実情です。なぜなら、そういった相互関係こそがこの宇宙全体の実相であり自然法則だからです。ですから、自分が「癒してもらいたい」と思うのであれば、まずは「自分が」癒すのです。そこになぜ?とか余計な理屈は不要です。 シルバーバーチは依然、何事も動機が大切だと言ったことがありました。何かの行為をする前提となる心の内、動機の部分です。もちろん、それはそうだとは思うのですが、上の文脈で言っているのは、与えればそれがめぐり巡って自分に返ってくるのだという因果律について述べています。 みなさんも、人生の中で思わぬ好転がしたことがある人がいるかもしれません。私なんかもそうです。スピリチュアル的にみれば、それらは決して偶然ではなく、与えた分だけ幸福が返ってきているのだという見方が十分に可能です。ただしそれは、物質的な価値観における幸福だけではありません。その人の人生において、トータルな視点からみてプラスとなるものすべてが含まれます。ですが、全体としてみれば、その人自身にとってみても、確かに人生が好転していると感じられることでしょう。怪我の功名なんていうことわざもありますしね。人間万事塞翁が馬、なんていう故事もあります。 しかし、その根底には、日々の生活におけるものの考え方や心の持ち方に人生好転の秘訣がありそうです。一言でいうとそれは、感謝想起、これに尽きるように思います。 物質的な幸せを求めても限界があります。いくら金を持っていても、精神的に貧しい人もいれば、お金がなくても精神的に裕福な生活をしている人がいます。感謝想起というのは、そういった最も根本的な精神状態にまでさかのぼって、その人なりの幸福感を導くことができるものだと思います。 癒しを求める時代だからこそ、逆に自分自身に還る必要があります。自分自身の内面を見つめそこに神我を見出し、また他人とのかかわりの中で日々生活をしている時には、他人の行為の中に神我と見出します。他方で、自分が今ここにいるだけで幸せなのだという基本的価値観を感謝想起によって呼び起こします。その「思い」から生じた波動は、自分に伝わり、他人に伝わり、世界全体へと広がっていきます。たとえそれがどんなに希薄に思えたとしても、確かにそれはどこまでも伝わっていくのです。自分が認識できる世界というのは、そうやって形造られていきます。どこか素晴らしい世界が自分とは別にあって、そこに頑張れば移行できるというのではなく。 自分にとっての幸せというのは、最初から自分の心の中にあるというのが真相です。それを現象世界に投影してみて認識します。そのような認識のもっとも根幹部分にかかわってくるものが、感謝想起なのです。自分が与えたものがめぐり巡って自分にかえってくるという法則も、それと密接にかかわってきます。 癒されたい方。自ら癒してみてください。それこそが、あなたの求める癒しなのですから。 (Creative Commons: some rights reserved by MShades)
2010.10.09

私の住んでいる地域では、太陽の温かみを感じる季節になりました。窓から差し込む太陽光のやわらかい温かみを感じると、身も心も温まる思いがして癒されてきます。太陽は古来から世界中で信仰の対象とされてきました。それは、太陽がすべての生物を育む存在であり、また癒しの力を持っているからなのだと思います。その太陽光の温かみを感じていますと、仮に嫌なことがあったとしても吹き飛んでしまいそうです。 試しに、休みの日なんかに公園を散歩してみてください。やわらかい太陽光が差し込む中、木々や草花に囲まれていると、癒されますよ~あるいは、太陽に語りかけてみてもいいかもしれません(笑)。すると、こんな答えが返ってくるかもしれません。「太陽は愛そのものです。あなたに愛と希望と知恵を授けます。」と。スピリチュアルな世界では、太陽と地球は密接な関わりを持っているとされています。母なる地球といわれるように、地球が人類にとって母親だとしたら、太陽は父親かもしれませんね。そうやって、私達は、太陽と地球によって育まれつつ、今ここで生活をしています。 このように、普段意識していなくても、私達はいろんな存在の力によって支えられながら生きています。認識していないことというのは、ある意味見ていないのと一緒ですから、私達は見えない力によって常に支えられて生きているといっていいでしょう。母なる地球、父なる太陽がなければ、我々は生きていけませんからね。太陽光を受けて育つ植物や動物。それらがあって初めて私達は生きていけます。つまり、生きていくために必要な食物をいただいているわけですね。我々は、お金さえあれば何でも買えるし食べられると勘違いしそうですが、実はそうではないんですね。我々は生かされている存在なわけです。そして、必要があって今ここに生きています。 もし今、悩んでいる人や苦しんでいる人がいたら、今私が述べたことを思い出してみてくださいね。私達が人間として今ここで生きているということは、それだけで素晴らしいことなんです。いろんな人に支えられて今ここにいます。つらい時や苦しい時は、太陽光の温かみを思い出してみてください。いつでも私達を見守ってくれていますから。そして、美しい地球で生活していけることの喜びを感じてみてください。美しい自然や大地の恵みを堪能してみてください。それは素晴らしいものです。そうすれば、自然と心の底から生きていることの喜びが湧きおこってくるはずです。それこそが、私達の本来あるべき姿なんです。 悩みや苦しみは幻想です。生きる喜びや希望こそが、本来の実質を備えた生命そのものの象徴です。希望を持って生きましょう。
2010.10.08

私はいつも、朝起きるとすぐに、「今日は素晴らしい日だ。」という言霊を心の中で言うようにしています。あるいは、何か嫌なことがあっても、「今日は~がある。うれしいな~ 幸せだな~」という言霊を使います。そうすると、たとえ何事もなかったとしても物事は悪い方向には行きません。このように、自分の気持ちの持ちようで物事が好転するということが実際にあります。もちろん、普段から感謝想起によって魂(自我)と魂(神我)の整列を図るよう意識していることはいうまでもありません。そうすることによってはじめて、意図したことが実現しやすい状況になっていけるからです。つまり、すべては連動しているように思います。普段から、「ありがたいな~ 幸せだな~」という気持ちを出来るだけもつということが、人生における運命を好転していけるのです。このような運命の好転はなぜおきるのかという分析をする必要はありません。なぜか?というよりも、実際に好転する事実が重要だからです。 まずは、否定しないというところからはじめてみましょう。否定すると、否定したとおりの疑念が現実化するような方向に自分で向かっていきます。内在する神的な自分自身を否定すると、否定的な自分が作り上げられていき、自分の意図とは正反対の方向にいったり、物事がうまくいかなかったりするかもしれません。すべては現代科学を超えた自然法則なのです。 私達は、自然法則の枠の中から逃れられませんから、まずは、それに素直に従ってみるのが得策かと思います。その第一歩が、いわゆる感謝想起にあります。あとは、これに加えて肉体や魂の霊線を日々浄化されるといいと思います。やり方は様々です。他の方も推奨されていますし、私のやり方も以前ご紹介したことがありました。 大切なのは、「思い」だと思います。かつてマザーテレサは、「どれだけ多くのことをしたかよりも、どれだけ心をこめたのかが大切なのです。」と言ったそうです。 日常の些細なやり取りの中に、幸せの種はいっぱい転がっています。あとは、私達がそれをつかみ取り、水をやり、お日様にあてて、育んでいくだけです。その鍵が、広い意味での自分自身を慈しむこと、すなわち、感謝想起と霊線の浄化にあるように思います。 私たちは、本来は、日常生活の中で、「愛」や「美」や「健康」をいかんなく発揮できるという本質を備えて生まれてきています。あとは、それを実際に実現するかどうかは、私達が決めることです。このブログをお読みくださっているすべての方にとって、実りある生活となりますように。 (Creative Commons: some rights reserved by Pardesi* )
2010.10.07

以前、ガイドとのやり取りのときこんなインスピレーションが降りてきました。「旅には2種類ある。ひとつは、自分の内面への旅。もうひとつは、自分の外面への旅だ。自分と一緒にいる僧侶は、内面への旅をするために坐禅をするのだと言う。あなたはどうするのかと聞かれたため、私は沖の方のヨットを見ながら、自分は外面への旅をしたいのだと考えている。」 ここでいう旅というのは、広い意味でして、狭いところではへミシンクワーク、広いところでは人生の生き方そのものまで含まれているように感じられます。へミシンクワークにおける内面、外面の旅とは、内観とへミシンクワークそのものを指しているように思います。 では、人生における内面、外面の旅とは何なのでしょうか。これについては、内観と日常生活と分けて考えることもできるでしょうし、多くの方は忙しい生活をしていますから、内観と日常生活が融合している人も多いかもしれません。ここでいう内観とは、自分自身を見つめることです。これも簡単にいえば、物思いにふける行為なんかを想定してもらえばわかりやすいです。深い変性意識に入らなければ内観できないということではありません。 私達の生活は、微妙なバランスのもとで成り立っていて、その多くは「自然体で」なされますから、普段自分がしていることを意識して考えてみたことがないのですが、実は我々というのは、一人の例外もなくスピリチュアルな本質というものを最初から持っていて、普段の生活においてもそれを様々な場面で活用しながら生活しています。一番わかりやすいのは、直観ですね。よく、あの人は直観が鋭いとか、そういう人を見たことがあるかもしれません。たいていそういう人というのは、現実世界においても物事の観察力に優れていたりするんですが、それだけではなく、無意識のうちにスピリチュアルな能力も使っています。ただ直観を磨くだけならそれを悪用しだす人が出て困りますが、精神的な成長も伴っているのであれば(霊性進化の道をきちんと歩んでいるのであれば)、こういった直観というのは、我々の生活を有意義なものにしてくれるように思いますね。 そうかといって、何か特別なことをしなければいけないかというと、そんなことは決してありません。気づきというのは、日常生活の中にあふれていますから、ちょっと仕事の手を休めて、それを感じ取るようにする心のゆとりが、人生をより豊かで実りあるものにしてくれるように思います。このように、スピリチュアルな能力というのは、人間に本来的に備わっているものですから、本来は誰からも学ぶ必要がないのです。 だからこそ、こういった能力を自然に使わっていた時代がありました。たとえば、今から約2000年くらい前の卑弥呼がいた時代なんかですね。当時はまだ、スピリチュアルな能力が現代人よりも残っていたように感じます。簡単に言うと、それは「自分と太陽神とのつながり」という形で無意識レベルで感じ取っていました。これは、現代人の多くが失ってしまった感覚ですね。 ですが、これからは、再びこのような根源的な自分自身(神我)との結びつきが強化されていきます。そうかといって、高い金をかけるなど何も特別なことはする必要はありません。普段通りの生活をしながら感謝想起をすればいいんです。自分を生かし、他人を生かし、土地を生かす道。これからは、こういった時代(道)に入っていくように思います。
2010.10.06

桜の花というのは、咲いている時間がわずかですよね。でも、満開になったときの美しさといったらありません。人間もこうありたいものです。人生80年といえども、終わってしまえばあっという間です。でも、その短さの中に美しい花をどれだけ咲かせられるか、それによって自動的に進化の過程が決まるといえます。人間も自然界に生きる生物ですから、自然法則に反することはできません。もちろん、進化の過程は自らの意志によって決められます。ですが、大切なのは、その方向性と中身です。究極的には、どれだけ神性を発揮できるかに鍵があります。つまり、神性の花をどれだけ咲かせられるかです。 確かに、短い人生とはいえ、その間には嵐のときもあるでしょう。ですが、それも一時のことです。私達は、自然界の嵐は時がたてば過ぎ去ることを経験として知っています。それと全く同じことは、人生においても言えます。神我の視点からみれば、何のことはない、ただの嵐です。ただ静観してみていればいいだけです。 もちろん、人間ですから、目の前に苦難や障害が現れたら、それに苦しむ自我がいるのが感じられます。それはそうなのですが、同時に、そのような苦難や障害をいとも簡単に乗り越えて嬉々として過ごしている自分も手に取るように感じられます。このように、いかなる苦難も、自ら魂の試練に必要なものとして自分自身でお膳立てをしているという側面があります。ですから、何も心配せず、ただ嵐がすぎさるのを静観して待てばいいわけです。長い冬が過ぎれば、暖かい春が来て、やがて桜が咲きます。その時に、思いっきり神性の花を咲かせましょう。私達は、楽しむために今ここに存在しています。あらゆることに対して自らの可能性を開き、人生を楽しみましょう。すべては、自分次第なのですから。 まずは、否定をするのをやめて、静かに自分自身の内面を見つめてみてください。自分の内面に意識を向けるだけで、ひしひしと喜びが感じられますか?もし感じられたら、それはほかでもない、あなたという存在の本質を表しています。それが、神性の表れだからです。神性とはほかでもない、あなた自身なのです。自らの可能性の扉を開いてみてください。そして、自らの中に神性な部分を見つけてみてください。それによって、他人や自然にも、神性さを自ら投影し始めます。それこそまさに、アセンション(霊性進化)の第一歩といえます。アセンションは、依存から生まれることは決してありません。それは、魂の整列とも深くかかわってきます。依存から自立へと進む道が、アセンションへの一つの指標になると言っていいように思います。 そして、あらゆる瞬間に訪れる生命の喜びを感じてみてください。日常生活のあらゆる瞬間にそれを感じるチャンスはあります。そして、日常生活にどっぷり浸かるなかで、出来る限り神性の花を咲かせてみてください。そうすれば、自動的に魂の整列、自立、アセンションへと向かいます。アセンションとはほかでもない、自分自身の成長そのものなのです。どこか別の世界があって、そこに自分が行けるわけではなく。世界というのは、自分自身の内面の表れなのです。神性の発現そのものと深くかかわってきます。ぜひ、神性の花を咲かせてみてください。 (Creative Commons: some rights reserved by joka2000 )
2010.10.04

私達は普段、潜在意識下で様々な不安や恐れを抱いて生活しています。その最たるものは、「死」に対する恐れです。様々な点で厳しい生存競争下にさらされているのは、突き詰めていけばそこにたどり着くように思います。仕事をしてお金を稼ぐのも、「生きるため」ですよね?現段階では、自己実現のみのために働いている人というのは、ほとんどいないように思います。もちろん、トータルな視点からみれば、我々は自分でそういった世界を「選んで」今ここにいるということになります。つまり、熾烈な環境の中で自己を磨くという決断をしたわけです。 しかし、ここに一つの問題があります。多くの人は、自分がなぜ今ここにいるのかわからないで日々の生活を送っています。それどころか、人間死んだら終わりだと思い込んでいるがために、あくせく働き、私利私欲に走り、自我(エゴ)の思うがままにさせています。つまり、スピリチュアルな点からみた死後の世界を否定してしまっていることに、エゴの暴走や死に対する不安観を助長させる原因があるように思います。 ですから、大切なのは、まずは死後の世界を素直に受け入れ、自我だけではなく、神我の視点から物事を見られるように意識していくことが大切なように思います。なぜなら、それが本来の私達のあり方に通じる道だからです。私達というのは、自分が考えているよりもずっと深淵で、尊いものであり、潜在的には無限の可能性を秘めているのです。つまり、神我の私達です。そこに気づくだけで、いわゆるこの世的な悩みや不安から必要以上にとらわれなくなりますし、今まで以上にずっと楽に生きられるようになります。 先に他界した人もちゃんと別の世界で生き続けているのと同様に、私達もこの世を去った後も、生き続けます。ですから、大丈夫です。スピリチュアル的には死は存在しないのですから、自分の私腹を肥やしたり、地位や名誉を維持するために悪あがきするよりも、ほんの僅かでもいいですから、他人のためにできることを考えてみませんか? もちろん、我々は自我と神我の総体ですから、そこにエゴが混じっていてもかまわないですし、それはむしろ当然です。それよりも、この現実世界では、行為が大事なのです。口先だけなら誰にでも出来ます。実際に実行してはじめて思いが現実化したと「みなされます」。今日思いついたささやかな提言でした。共感できる人は考えてみてくださいね~(^0^)/
2010.10.04
携帯からご覧の方へ 「いみみの癒しルーム」http://ameblo.jp/imimin/についてです。記事の最後にブログランキングのバナーがありますが、それがどうやら携帯からアクセスできないようなのです。そこで、今後、携帯からご覧の方は、下記http://blog.with2.net/link.php?1083608 のアドレスを載せますので、クリックしてくださいね~(上のURLにアクセスすれば、バナーをクリックするのと同様の効果があるみたいです。) よろしくお願いしま~す(^0^)/ 追記です。ブログランキングのバナーをクリックしていただいても、携帯からでもアクセスできるようになりました!これから書く新しい記事で有効となります。よろしくお願いしま~す
2010.10.03
>自分の心に素直になる。。。というのは、我が儘、自己中心的、周りの人間を傷つける、というのとは、どのように違うものでしょうか?手放す。。という意味がよく解りません。。エゴ(小我)と神我(大我)との違いです。ご指摘の行為はエゴの働きによって生まれます。私が言いたかったのは、そういったエゴにしたがうことではなく、神我(本当の自分)の「声」に耳を傾けてみるということです。どうやってするかというと、感謝想起です。ただ、生きている実感を感じてみてください。自分の力で生きてるのではなく、自分は生かされているのだという謙虚な気持ちで。そこが、神我と向かい合うため出発点だと私は考えています。また、手放すというのは、自分にとってマイナス想念となっているものからの依存ないしはとらわれの状態から意識を開放するということです。手放してくださいというのは、そういったことです。
2010.10.02

生きていることの喜びは、目に見えません。しかし、確かにその存在は心の動きとして感じられます。そして、スピリチュアル的にみれば、生きる喜びとは私そのものだと言っていいように思います。なぜなら、それは神性の表われにほかならないからです。魂には、本来一切の拘束はありません。拘束があるのは(あると感じているのは)、他でもない、自分自身で作り出しているからです。だから、自由に生きたらいいんだと思います。誰の人生でもない、自分の人生なんですから。人に何かを伝えるとき、私達は「ことば」を使います。ある「ことば」を人に投げかけ、それを相手が受け取り・・・そうやってコミュニケーションが成立していきますね。ですが、コミュニケーションの手段はこれだけではありません。思いやり、慈愛、やさしさ、そういったものを行為を通して投げかける。これもコミュニケーションなんだと思います。 それはまさに、本来の私達のあるべき姿です。私達は、究極的には愛そのものとしての本質を持っています。愛とは生きるエネルギーです。生命の喜びです。 生きているということは、そのような神性の発現を通したコミュニケーションをするということです。それは理屈ではなく、心の奥底からの衝動によって行われます。どんな小さな思いやりでも、それは人としてかけがえのないものです。私達は、そうやって生きてきました。そして、これからもずっとです。
2010.10.02

自分の方向性に沿って物事が進んでいる時、たとえば仕事の大変さとは無関係に充実した、すがすがしい心境になることがあります。私は今まさにそんな感じなんです。心が軽くなったというか、胸のつかえがとれたというか・・・別の表現をすれば、「魂の整列した生き方」とでもいうんでしょうか。 あるいは、こうも言えるかもしれません。本当の自分自身が求めている生き方をしているのだと。それは決して物質的価値観で計れるものではありません。その人にとっての、その人にしかわからない充実感というものがあります。ぶっちゃけた話、他人の評価はどうでもいいんですね。自分自身が充実した心持ちで日々を過ごせるかどうかがとても大事な気がします。仕事においても(あるいは学校生活においても)、あるいはプライベートにおいても。 人間というのは、本当に素直なものです。表面的には何でもないつもりでいても、どこかで心の中で無理をしていると、必ず精神的・肉体的にひずみが出てきます。かつての私もそうでした。でも、今は違います。とにかく、心が軽くなりました。以前よりずっと楽に生きれるようになりました。やっと手放すことができました。正直、ほっとしましたし、よかったです。ふと自分の内面を振り返ると、感謝の波動で満ちてくるのがわかります。素朴な生きる喜びです。 様々な人とのかかわりの中で、人は誰しも転機を迎えることがあります。それは、自分で意識的に転機を望むこともあるでしょうし、そうでない場合もあるのでしょう。でも、どんな時でも、自分の心の素直になってみると、最善の道筋ができてくるように思います。自分の置かれた環境で、自分とかかわりのある様々な人に思いを馳せてみると、とても偶然の出会いとは言えないと純粋に感じられることがあります。私はそんな時は、何かしら魂のレベルで結ばれた縁を感じます。それは、言葉にならない感覚なのですが。 そして、魂の整列が進めば進むほど、とても偶然とはいえないほどの「お膳立て」ができてくることがあります。言いかえれば、自分が意図したとおりの現実が実現しやすくなってくるのです。今、私は感謝の気持ちでいっぱいです。私と縁のある人すべてに対して。 (Creative Commons : some rights reserved By Jesslee Cuizon)
2010.10.01
全19件 (19件中 1-19件目)
1