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人はどうしても目先の大変さにとらわれてしまいがちです。それで、あ~でもない、こ~でもないと悩むわけです。その多くは、もしかしたら取り越し苦労かもしれませんが、悩んでいる本人にとっては真剣です。あ~どうしても避けられない、自分にはできないなどと「考えすぎて」悩むこともあります。 ですが、たとえ何があろうとも、絶対的に影響を受けない部分があります。それが、神我の部分です。人の心の奥深くにある、いわば神のように進化した意識の部分です。一人の例外もなくこの部分とつながっています。ここは、絶対安全・安心の境地ですから、この世的な悩みとは無縁の領域です。 大切なことは、たとえ表面的にどんなに悩んだとしても、この神我の部分は決して傷つかないということです。傷つくどころか、小我が試練を直面すればするほど、輝きを増してきます。ある意味、人間とはダイヤモンドの原石のような特質を備えていますから、小我の部分の原石を磨けば磨くほど、中心部分のダイヤモンドそれ自体が光り輝いてくるわけです。ですから、シルバーバーチなんかは、人間をダイヤモンドの原石に例えるんでしょうね。 我々が現実社会でどんな困難にぶち当たろうとも、それを乗り越えるだけの力を我々は持って生れてきます。ですから、そのような真の自分に気づくためにも、現実社会でもまれつつ、生活の中で内在する神的部分を見出すことが大切となってきます。真の魂の衝動にしたがいつつ、現実生活という荒波のもまれながら、嬉々として困難を迎えましょう。よく見ると、それは困難ではありません。困難に見えるのは、実は未来へ向けた希望なんです。希望をもって生き抜きましょう。 あなたにはいつでも強い味方がいます。神我です。神我がいつでもあなたをやさしく見守っています。あなたはただ、その優しさに気づくだけでいいのです。 苦難を苦難として見ず、ただ生かされていることに希望を見出してみてください。チャンスが与えられているだけで幸せです。そして、真実、希望は常に自分の内に秘められています。ありのままの自分を受け入れ、自分の内に希望を見出してみてください。その際、あなたの神我があなたにとっての灯台となります。内なる叡智の導きにしたがってみてください。 (Creative Commons: some rights reservrd by ktylerconk )
2010.09.30
今まで、「imimiのリトリーバル日記」と、mixiの2本立てでブログをやってきましたが、最近「いみみの癒しルーム」というブログを新たに立ち上げました。http://ameblo.jp/imimin/こちらは、主に癒し系の内容にしてあります。そして、スピリチュアル以外の方にも読んでいただけるように配慮した内容となっています。記事自体は「imimiのリトリーバル日記」やmixiとほぼ一緒なんですが、スピリチュアルの専門的な部分は削ってあります。というのも、あまりそういったスピ系の話は好きではないという方もおられるからです。あと、新たな試みとしては、ブログランキングというものに参加してみました。これは、まだブログを立ち上げたばかりなので、購読者数が少ないということもあり、初試みで参加してみようと思い立ったわけです。ぜひ皆さん、遊びにいらしてください。
2010.09.30

憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。分裂のあるところには一致を。疑惑のあるところには信仰を。誤っているところには真理を。絶望のあるところには希望を。暗闇には光を。悲しみのあるところには喜びをもっていくことができますように。慰められることを求めるよりは慰めることを。理解されるよりは理解することを。愛されることよりは愛することを求める心をお与えください。わたしたちは自分を忘れ去ることによって自分を見出し許すことによって許され、死ぬことによって永遠の命をいただくのですから。
2010.09.30

今日、うれしいメールをいただきました。以前、人間関係で悩まれている方に言霊を併用した感謝想起の方法をお話したんですが、その方がそれを真剣に実践されたところ、職場での雰囲気ががらっと変わったというのです。思いがけない展開になったのだとか。 これは、スピリチュアル的にみれば、感謝想起によって周りの現実世界が好転した例だといえます。もっといえば、実際に変わったのは、周りではなく、自分自身なのです。自分自身の振動数(波動)が感謝想起によって上昇したために、それにふさわしい環境が周りの現実世界に出現してきたということなんだと思います。 このように、スピリチュアル的な考えでは、常に自分自身を軸にして考え、また自分と他人(周りの環境)を切り離して考えるのではなく、一体であるという風に考えます。これをバシャールなんかは、パラレルワールドの理論を用いて説明するわけですね。無数に可能性レベルで存在しているパラレルワールドのうち、自分にとってふさわしい世界に自らが移行していくと考えるわけです。あるいは、セスのように、瞬間瞬間に世界を創造していると捉えても一緒だと思います。つまり、別の見方をすれば、今我々の目の前に出現している世界というのは、我々の今現在の振動数(意識レベル)にとって最もふさわしい世界なんだということです。 今、スピリチュアルの世界では、あらゆる人がアセンションがすぐそばまできていると考えていますが、実際には、アセンションとは、個々人の振動数の上昇に伴って周りの現実世界が移行していくように見えるということにすぎません。つまり、他力本願ではなく、あくまで自分自身による自己変革が求められるのです。つまり、自分自身が感謝想起を軸にした強い光を放つという意図が大事だということです。つまり、自分自身が変わろうという強い決意です。 ところが、今の現実世界における罠(わな)は、依存心を促すようなバラエティのあるスピリチュアル業界で目白押しです。スピリチュアル・カウンセリング、スピリチュアル・ヒーリング、パワースポットめぐり、占いによる人生相談、有名な人がデザインしたというパワーの出る石やお守り、超能力による前世相談、退行催眠による前世ヒーリング、気功師によるヒーリング、~の生まれ変わりだと主張する人による団体への勧誘、・・・等々。 信頼できる高次からの情報によれば、自分にとっての真理とは外的環境にはなく、自己の内面にあります。その自己の内面に気持ちを向かわせるのは、他でもない、「感謝」です。実は、感謝というのも、言葉にならない感覚であって、一番近い表現を当てはめているにすぎません。命を与えられていることを素直に喜べるような体験をされた方ならわかると思いますが、生きているだけで有難いことです。 どんな失敗をしても、また一からやり直せばいいんです。命ある限り、いつだってやり直せますし、自分自身が感謝の波動で包まれていれば、先ほどご紹介した方のように、幸運が向こうからやってきて、自然と現実世界の状況が改善していきます。物事がうまくいっている時はいいですが、何かでつまづいた時、こう考えてみてください。「俺(私)は、今まで命が与えられていることに感謝してきただろうか。当たり前だと思って生きてきたのではないだろうか。」と。 命が与えられ、いつだってやり直せるチャンスがあるということに気づいた時、初めて人は、自分自身の内面に目が向かい始めます。何かに対する感謝は、また別の何かに対する感謝へと連動し、連鎖反応のように自分自身の振動数の上昇をもたらしていきます。それによって、巡り巡って現実世界の思わぬ好転へとつながっていくのです。 人間関係で悩まれている方は多いと思います。どんな瞬間でも、改善のチャンスは石ころのように転がっています。あとは、それに気づくかどうかです。真理は外ではなく、内にあります。ぜひ謙虚な気持ちで、自分自身を振り返ってみてください。きっと何か、あなたなりの新たな糸口が見つかるはずです。
2010.09.29

物事を始めるときややめる時には、決断力等を含めた勇気が必要なことがあります。今日思いついたのは、スピリチュアル的にみた「勇気」の持つ意味についてです。 勇気について思い当たると言えば、ドイツの詩人ゲーテの言葉です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86彼の言葉で次のようなものがあります。「財貨を失ったことは僅かを失ったことだ。気を取り直して新しく手に入れなければならない。信頼を失ったことは多くを失ったことだ。再び得るには多くの努力が必要だろう。勇気を失ったことはすべてを失ったことだ。もはや埋葬されるしかないだろう 。」ゲーテが言いたかったのは、たいていのことは、いつだってやり直せるのだから、まずは決断し、行動しなさい、そうすれば道は開かれるだろうということなのかもしれませんね。 ゲーテとほぼ同時代に生きた芸術家で、まさに勇気を象徴する人物に、ベートーベンがいます。ベートーベンは、人生のある時期に、音楽家にとって死に等しいともいえる難聴(なんちょう)の病にかかりました。Wikipediaによれば、「20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことにな」ったとされています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3そして、40代になると難聴が悪化しほぼ耳が聞こえない状態になったようですが、日本で非常に有名な交響曲第9番(第九)をはじめとする数々の傑作が生み出されたのだとか。すごいですね。耳が聞こえないのにどうやって音楽を生み出せるのでしょうか。想像を絶します。 ベートーベンの残した交響曲第五番「運命」にまつわる話でこんなものがあります。あるとき、弟子の一人がベートーベンに、「先生、出だしのダダダダーンは、何を表しているのでしょうか?」と尋ねると、ベートーベンは、「それは、運命が扉をたたく音だ。」と答えたそうです。つまり、その当時、ベートーベンは、作曲家にとって致命的ともいえる耳の聴力を失いつつある感覚を「観察しながら」、それを曲にしたのです。なんともすさまじい精神力ですね。真っ先に目をそむけたくなるような部分に自ら焦点を当てて、困難をばねにして逆に傑作を生みだすんですから。 現代人にとっても、ベートーベンの生き方に見習うべきところは多い気がします。ベートーベンだけでなく、この当時出現した作曲家の中には、人生においては苦難の連続を経験しつつも、たぐいまれなる作曲を続けた人が多いです。たとえば、モーツァルトなんかもそうです。ある意味、苦難という「闇」を曲という「光」に変えたのだと見ることもできるように思います。セスのいうように、これらのたぐいまれなる作曲家が多次元的能力に精通していたということはあったにしても、苦難に満ちた人生において、それをものともせずに数々の楽曲を残し続けたという点は、今の私達からみても生きる希望を与えてくれるように思います。ましてや、死後200年近くを経てもなお、我々に曲を通して生きる希望を与え続けているわけですから、霊的にみても人類に対するその功績には計り知れないものがあるように思います。 魂に根差した行動には、勇気が含まれているように思います。それは男性・女性を問いません。そして、その勇気は時には、他の人にも生きる希望を与えてくれます。これも一つの神性の表れといっていいと思います。 人生においては、新たな決断を迫られることがあります。それは、ベートーベンが直面した勇気の数百分の1にすぎないかもしれませんが、ある意味において勇気が必要となります。そして、そこには、その人にとっての神性さが表れているように思います。そうやって人は生きていくんですね。ゲーテの残した「勇気」の詩をきっかけに、ふとそんなことを考えてみました。 (Creative Commons license:Some rights reserved by jrossol)
2010.09.28

久しぶりにヘミシンクの話でもしようと思います。以前、ヘミシンクの上達には共同探索をして体験の比較をすることが重要だという話をしました。今日はその上級編です。 体験の比較と言うと、普通、共通点を探ると思います。それが、実際に非物質界での体験であることの傍証につながるからです。ですが、体験をより一層深めるためには、体験者間の体験の「違い」に着目することも有益です。 体験というのは、何度かお話してきたように、個々人に与えられた特徴(霊媒体質か否か)だけではなく、それまでの人生で培ってきたものの考え方や信念等、またそれらの総体として生み出されるものの認識の仕方にまで、幅広く影響を受けながら現れてきます。ですから、非物質界の体験というのは、本来まちまちであるのが普通なのです。 では、なぜ体験が一致したり、また一致するとうれしくなったりするのでしょうか?それは、私達は、無意識のうちに、あらゆる事象において暗黙のうちに合意を作り上げており、それに基づいた生活を何十年も続けているからなのだと私は考えています。ですから、現代社会で生きていると、客観性というものを非常に重視します。自然科学などはその最たるものですね。 我々は、非物質界を探索しているときにおいても、この暗黙のうちの合意に従うという「クセ」を持ちこんでしまうがために、無意識のうちに体験の一致というものを求めてしまうのです。ですから、体験が一致したり、また一致するとうれしくなるのです。もちろん、私はこれが悪いといっているのではありません。自分自身の探究を続けていくためのプロセスとして、この体験の一致を求めるというのはだれでも起こりうることですし、また私自身、体験の一致を求めていた時期もありました。 ただ、さらなる自己探求を続けていくためには、これだけでは不十分なのです。実は、信念体系や我々が作り上げた合意というのは、共通の体験をもたらすというメリットがある半面、それ自体がいわば足枷となり、自分自身の可能性を制限してしまう可能性を秘めています。さらなる自己の可能性を開いていくためには、常識という壁を打ち破る必要があります。そこには、上で述べたような様々な信念体系や合意が含まれてきます。 ですから、さらなる自分自身の可能性を追求していくということは、すなわち、常識にとらわれずに、信念体系の壁を一時的に打ち破り、自分自身の未知の内面世界へ入っていくことに他なりません。そうすると、体験の一致というものが起こることはまれになります。なぜなら、自己の内面を深く探索すればするほど、その人物の持つ個性がより一層強くなっていくからです。 このように、ヘミシンクの上達には、共同探索が重要なのですが、それには2段階あって、第一に、体験の一致を求める段階があります。第二に、体験の違いに着目して、自分自身の持つ個性や認識の仕方の特徴をつかみ取る努力をすることが大切となってきます。それを、共同探索のときに、他人との知覚の違いを見て、自分の知覚のくせをつかみとる努力をすることで、自己の持つ認識、ひいては自分自身をより深く知ることができます。 つまり、体験を深めるためには、自分自身をより深く知ることが大切なんだということです。共同探索において、共通点をさぐるだけではなく、違いにも着目してみる。もしよろしければ参考になさってみてください。
2010.09.27

以前、救出活動を盛んに行っていた時のことです。ある日、電車に乗ろうと駅の階段を降りて行こうとしましたら、中年の女性が、「すみません、3日くらい何も食べていないんです。それで、少しお金を貸していただけませんでしょうか?」と言ってきました。身なりが汚いわけでもなく、見た目普通な感じです。私は断るのもどうかと思い、その時の所持金のうち出来る限りその女性に手渡しました。 私は、そういったことはそれまで経験したことがなかったので、正直驚きました。ですが、スピリチュアルの世界では偶然はないと言いますし、きっとこれも何かの巡り合わせなのかなと、その時は考えた覚えがあります。それ以来、その女性は見かけていません。今日、ふとそのことを電車に乗っているときに思い出しました。 人間というのは、本当にわからないものです。日本では浮浪者は見かけることはあっても、物乞いは見かけないように思います。もしかしたら、それは日本人の精神性の高さからくるのかもしれませんが、正直よくわかりません。スピリチュアルな見方からすれば、偶然の出会いはないといえます。例えば、今回の物乞いの女性との出会いにしても、前世や来世において自分が逆の立場だった(になる)かもしれないのです。女性も、人に対して無心をしてはいけないと思う気持ちはあったと思います。でもそれでもそうやって無心をしたことからすれば、何かよっぽどのことがあるに違いないと私はその時考えていました。スピリチュアル的にみれば、ある意味、非物質界で救出活動をしていた当時の状況からすれば、いわゆる「転写」が起きたとも見れなくもありません。転写とは、非物質界での救出活動の状況と似た状況が、物質界でも引き起こされてしまったということです。こういった、非物質界と物質界とのリンクは、時々あったりします。物質界と非物質界は我々の知らないところで相互に影響し合っているからです。他方で、因縁の法則からすれば、人助けのチャンスが与えられたとみることもできます。その善行は、巡り巡って自分に返ってくるからです。何もなければ進化も起こりえませんが、たとえわずかであってもそういったアクションを起こせる(起こす機会がある)ということは、自分の霊性進化にとってプラスの方向に働くと考えることができるからです。このように、一つの現象も様々な見方によってとらえることができますが、最終的に言えるのは、やはり今ここに生きていることでそういった体験を通した学びができることへの感謝につきます。 運命というのは、決まっているようで実はこういった些細な行為の積み重ねによって自ら作り上げているのだという見方も可能なように思います。自分の努力を尽くしたとしても、あと一歩のところでダメだった、あるいは、たまたま運が良くて成功した、といった話は、わりと良く聞くのではないでしょうか。 そのあと一歩のところで左右するのが、日頃の行いではないかと私は真面目に考えたりします。仏教的に言えば、隠匿を積むということです。それは、だれも見ていないというのではなく、ちゃんと内なる神が見ています。人間一人一人の心の中にある進化した自分自身です。自らが播いた種は、自らで刈り取らなければならないのと同様、自らがした善行は自らに他の善行としていつか必ず返ってくると私は考えています。なぜなら、それが広い意味での自然法則だからです。 何か他人の役に立てることをしてあげられたら、それは素晴らしいことではないかと、素直に思います。仮にそこにエゴが混じっていたとしても、人間とはエゴ(小我)と神我(大我)とのバランスで生きています。エゴだけで生きている人もいませんし、また神我だけで生きている人もいません。ですから、人間として当たり前の思いやりや優しさに根差した行為を実際にできるということは、やはり尊いものだと私なら考えます。 人間は誰でも自分の力で生きなければならない時があります。ですが、様々な事情から、それができない場合もあります。そんなときは、お互い様なんですから、助け合ったらいいのではないかと思います。もちろん、人としての礼儀はわきまえる必要がありますが。 この記事全部を書き終えたとき、直観的に降りてきたインスピレーションがありました。それは、ひと続きの思いやりで出来た光の珠です。思いやりというのは、良い意味で伝染します。それは、まるで光の珠が連なっていくように見えます。その光の珠は、神我を表しているのだと考えることもできます。一人の思いやりは、別の人に届きます。その届いた思いは、また別の人へ・・・このようなかたちで、まるで数珠のように、無数の光の珠が連なっていき、それらは、らせんを描きながら上へ上へと上昇していきます。そのようにして、どんどん連なっていくのです。そして、それはたった一人の思いやりから始まります。なんでもない、ささやかな人としての思いやりです。それは、ある時はすぐに、またあるときは時代を超え、次の世代へとつながっていくかもしれません。でも、必ずどこかに届いています。その強い結びつきは、すべてが幻想であると気づいた時、実は自分自身への思いやりだったと気づきます。そんなインスピレーションを得ました。 気づきというのは、どこで得られるかわかりませんね。他人の中に自分(の神性さ)を見出すというのは、なかなか気づきにくいです。でも、それはささやかな人としての思いやりから始まる気がします。 (Credit & Copylight by By K?vanç Ni? )
2010.09.26

去年の7月19日の過去記事からなんですが、「タオ」とは何かについて高次に聞いてみたことがありました。私としては「タオ」については全くの初耳でしたので、正直何がなんだかさっぱりわからないという感じでしたが、こんな内容でした。「物事には常に二面性がある。 男性と女性、陰と陽、プラスとマイナス、正と負、転じて人生においても、常に男と女がいて、戦争があれば平和がある。楽しみがあれば悲しみがある。希望があれば絶望がある。そういった二面性から、人生もそうだし、この宇宙全体が成り立っている。陰陽対極図を思い浮かべてみるとよい。あれが宇宙の実相を表している。」どうやら、このことを伝える手がかりとして、本来の自分があえて女性の姿で現れてきたみたいなのです。 本来の自分によれば、「タオ」とはすなわち「(宇宙の)実相」をいうのだそうです。言い換えれば、物事には常に二面性があるということに気づき、それを認識すること、もしくはそれらすべての存在そのもの、これが「タオ」なのだそうです。・・・ ・・・話がなんとなく抽象的でしたので、もっと具体的に聞いてみることにしました。「なぜ世の中にはつらいことがあるのでしょうか?それに対してどう向き合っていけばよいのでしょう?」すると、次のように言われました。 「物事は常に中立的である。それ自体がつらいわけではなく、つらいと自分がおもっているからつらいのだ。つまり、今置かれている環境に対してどう受け取るかという問題なのだ。取り越し苦労をしないこと。何も考えずにただそれをやればよい。それなのに、ぐたぐたといろんな取り越し苦労をするから不安になったり、心配したりするのだ。なぜ自分がいまそのような環境に置かれているのか、もう一度考えてみるとよい。すべては自分自身で選択した結果なのだ。」 もちろん、これはトータルな意味においてです。人によっては、家柄とか生まれながらにして置かれた環境とかは自分で選んでないぞと思われる方がいらっしゃると思いますので。 「タオとは人生そのものですか?」「タオが人生そのものというより、君自身がタオそのものなのだ。人生で何かをやらされるというのではなく、君自身が人生を主体的に生きるという姿勢こそが大切だという意味だ。やらされているのではなく、君自身が選択してやっている。」 これは、日々の生活で物事に対してどう対処していったらよいのか、その精神面というか、気持ちの面について言っています。どういう心持ちで日々過ごしていけばよいのか、そういった点です。 「取り越し苦労をせず、今置かれた環境をどう自分が受け取るのか、君自身の認識が問題なのだ。あらゆる人生において自分にとってプラスになることを得ることができる。たとえどんな環境に置かれていたとしてもだ。その環境自体はあくまで中立的な意味しかない。そこから君が何を学ぶかが問題なのだ。そうやって、主体的に人生を生きること。人のせいにしないこと。取り越し苦労をせずに今を精一杯生きること、そうすれば、おのずから道は開けてくるのではないかな。」このように言われました。 要するに、私の高次の存在、そして本来の自分はこう告げたかったようです。タオとは物事の諸相すべてを表したものであり、特に物事の二面性にその本質が現れている。タオに従った生き方をするには、自分自身の神我(=創造主としての部分)であることに気づくことが重要だが、それは何もへミシンク中や瞑想中だけではなく日々の生活そのものがタオに従った生き方の舞台であるのだと。しかも、自分がやらされているという感覚ではなく、自分が選んだ人生であるのだという自覚を持って、取り越し苦労をせずに日々楽しく今を生きていけばよい、こういったことみたいです。」あくまで私がリーディングで得た情報によれば、タオの思想はちょっと前にお話したブッダの思想に通じるものがあるように感じます。一言でいえば、ありのままの自然体で生きるといったような感じでしょうか。この、ありのままの自然体というのが、簡単なようで難しいのかもしれませんね。しかし、もしこれができれば、たとえどんな環境に置かれていようとも(都会であろうと田舎であろうと)、ある意味達観した生き方ができる気がします。 最近私は、自分らしい生き方であるとか、ありのままの自然体とか、そういったことにひかれるようになりました。それがいいとか悪いとかではなしに。現代社会で生きていますと、たとえば北海道で生活していても、常に自然に根差した生活をしているかというと必ずしもそうではなく、社会生活をする中においてはむしろ、せわしさの中に身を置くことが多いです。ですが、たとえどんな環境に置かれようとも、超然とした生き方ができれば、周りの喧騒にのまれることもなく、自分の軸をしっかり保った生き方ができる気がします。つまり、困難が来ても右往左往しない生き方です。ですが、他方で、思いっきり悩んだり、慌てふためいたり、狼狽したり、不安になったり、・・・人間ですから、そうなることも絶対ないとは言い切れません。でも、それもまたありなんだと思います。もちろん、神我の奥深くに入っていけば、常に静寂とした雰囲気に包まれていて絶対的な安心感が得られます。たとえそうだとはわかっていても、やはり人間ですから、いろんな困難にぶつかったときに、その時々の感情に振り回されてしまうこともあります。 でもきっと、それでいいんでしょうね。すべては、その時々で最善を尽くせばそれでいい、そんな気がしています。ですから、たとえどんな結果になったとしても、それはそれで受け入れる。それが、ありのままの自然体なのかなと。タオについて過去記事を読み返しながら、ふとそんないろんなことを考えてみました。
2010.09.25

今年はとにかく暑い夏でしたね。地域によってはまだ暑いところもあるのかもしれませんが、私が住む北海道は夏はもう終わった感じですね。というか、もう肌寒いですね(笑)。あんなに暑かったのに、喉もと過ぎればなんとやらで、もうすっかり良い思い出です(笑)。人間というものは不思議なもので、どんなにつらい出来事でも、済んでしまうとよい思い出に変える力を持っています(笑)。「あのときは本当に大変だったな~」とか、「もう二度とごめんだ」などと思っても、そこから何らかの成長が得られたり、心機一転気持ちを入れ替えてその後に頑張れたりすると、つらかった思い出も、あとになってみればよい思い出です。きっと、だからこそ、楽しい出来事はより楽しくなりますし、人生をエンジョイできる気がします。楽しいことばかりだと、楽しみも半減します。楽しみとは、楽しくないこととセットで登場するからこそ、より鮮烈な感情としての体験ができるわけですね。ですから、ある意味、不幸は幸福の延長だと捉える事が出来ます。やがてくる幸福を味付けするスパイスのようなものですから。そして、どんなに長い不幸(猛暑)も、やがて終焉(夏の終わり)を迎えます。その後には、穏やかな紅葉の季節が待っています。そして、冬が来て、さらに春が来て・・・このように、自然界というのは、うまい具合にできているんですよね。ですから、トータルで見れば、人生とはすべて楽しみだと考えることができます。苦しみは、楽しみのためのスパイスにすぎません。そうやって、一人ひとりが、思い思いの料理(人生)を創っていく、これがC1現実世界で我々が生きているということなんでしょうね。思い思いの料理(人生)を作っていきましょう。そのために生まれてきたんですから。どんな体験でも無駄なものはありません。しかし、一瞬でもいいですから、閃光のような花火を打ち上げたいですね。人と動物の決定的な違いは、自らの意志で神性の花火を打ち上げることができることにあります。これはすばらしいことです。1日24時間、1年365日、いつでも美しい神性の花火を上げることができるんです。それは、自分自身が輝き、周りを輝かせ、周りの人を癒します。たとえどんなにわずかな灯(ともしび)であったとしてもです。スピリチュアル的に見れば、これはとてつもない貢献といえます。自分自身が内在する神性さに気づき、他人にもそれを気付かせることができる。それによって、全体の進化に貢献できるからです。ともあれ、どんな神性の花火を上げるかは、その人その人の自由です。様々に人生を楽しみ、一瞬でもいいですから、輝きを放ちたいですね。 (Credit & Copylight by Mr Magoo ICU)
2010.09.24
>今日は霊感商法についてのお話でしたが、ちょうど霊能者を探そうかなど思っていたのでメールします。マンションの下の部屋に住んでいる人が、振動がするのでやめてほしいと、何回も夜遅く来たのですが、(今夜も12時に)今夜私は寝ていたのと、先回はビデオを見ていただけでした。ここに引っ越してから、息子が電子ドラムを数回やったらすぐうるさいといわれてやめたのですが、以後一切そういう振動を出してないのに、「どんどんというわざと叩くような振動がする」といわれて、何回も言われて、ちょっと困っているのですが、これはラップ音かなと思い始めたのです。いみみさんは信じますか?霊能者に聞いたほうがよいのでしょうか?差し支えなければ、お答えください。お忙しいのにすみません。(どうもうちの部屋の床からするようなのですが、不思議です) 気にされる必要はないと思います。 私にも昔経験がありますが、1階というのは多少音が響くものです。 たとえば足音ですとか。 霊的なものではないように思います。 人間には「思いぐせ」というのがあります。 一度、たとえば電子ドラムをたたいたことがあるという話をすると、もう、上からの音が気になってしまうわけです。 その1階にいる方とよく話をすることだと思います。 あと、仮に霊的な問題であった場合、霊能者を呼ぶと逆に悪化することがありますから、注意が必要です。 商売をしている霊能者というのは、眷属(式神)を飛ばして客に霊を憑依させて自分のところに継続的に来させるということを平気でやったりしますから。 たとえば家族の方に霊媒体質の方がいることが分かっている場合には、ご自分で供養されることをおすすめします。 一番良いのは、「感謝想起」による方法です。 今住んでおられるところで、行ってください。 具体的には、「この命を与えられて生かされていることに感謝する」、これです。 線香供養なども必要性を感じなければ特にする必要はないように思います。もちろん、やりたければやってもかまわないと思います。あと、部屋に霊を呼び寄せそうなものをできるだけ置かないことです(お札やお守り等)。 あと、パワースポットなども要注意です。人の想念が渦巻いていますから。妙な所に行って変なものを引き連れてこないことです。 まずは、霊の問題だとは考えずに、1階の方の「思いぐせ」だと思って、よく話し合ってください。 それでも解決しない場合に、上で述べた感謝想起の方法をとるといいと思います。 もっとも、感謝想起は、特に害はないので、今からでも毎日行ってもかまわないと思います。 場合によっては、ご家族の方にも感謝想起を行ってもらってください。 ご家族の方で霊媒体質の方がおられた場合は、特にです。 また、感謝想起は、一人でやるより、複数の人でやるほうが強い力になります。 ポイントは、ただ純粋に、今生きて生活出来ていることに感謝すること、です。 これを、ご家族の方がそれぞれ毎日行うといいと思います。 あと、霊線を浄化する方法というのがありますが、これも人によっていろいろやり方があるようです。私なんかは、ルシアさん式に言霊を使います。以前ご紹介したものですね。ハートチャクラのあたりから光が四方八方に放射されているようにイメージしながら、「肉体の霊線を浄化します。」と心の中で唱えます。同様にして、「魂の霊線を浄化します。」と唱えます。これだけです。 今まで何度かご紹介してきた光の柱建て、あれは、自分自身が光の柱となることによって、自分と縁のあるご先祖様や霊的なつながりのある意識すべてに良い影響が及んでいきます。それこそが、巡り巡って自分のためにもなっていくんですね。必ず自分のところに良い影響が返ってきます。たとえばそれは、守護霊や指導霊によるご加護であったりします。へミシンク的にいえば、ガイドですね。 このように、感謝想起に根差したより広い意味での自己浄化こそが、もっとも基本的かつ有効な浄霊となっていきます。別に霊障などなくても、普段からこれを実践してみてください。そうして隠匿を積んでおくことで、人生すら好転し始めると思います。 くれぐれも、お金を払って霊能者に安易に頼まないことです。 商売の餌食にされますからね。
2010.09.24

ある意味、私の原点となった言葉をご紹介したいと思います。人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行ないをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。 気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。けり返されるかもしれません。 でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです。マザーテレサ (写真はWikipediaからです。Credit & Copylight by Túrelio )
2010.09.24

みなさんはご自分の「認識」というものを意識されたことがあるでしょうか?例えば、目に見える世界、これは目で見て脳が判断した結果として「認識」しているわけですよね。私は、認識というのは、一通りじゃないと思っています。我々人間の持つ認識についてです。セスによれば、我々の三次元空間というのは、「作られた空間」だという趣旨のことを述べています。具体的には、脳、さらには遺伝子レベルで人類全体に共有された「作られた空間」です。例えば、物と物との間には、通常、空間が存在しています。その空間には、何もありませんね。空気を除いて。ですが、この認識自体、絶対的なものではないとセスはいうのです。もっと言うと、物と物との間になにもない空間があるのは、ある種の錯覚なのだと。実は、これと同様のことを、以前ヘミシンク中に情報として得たことがありました。それは、去年の秋のことで、海王星あたりで非物質的な探索を行っていた時のことでした。その時の説明は「移動」に関するものでした。物体が移動して見えるのは、錯覚なのだと。我々が自宅から最寄りの駅まで空間的に連続性を保ちつつ移動していると感じるのは、錯覚なのだと。実際には、物の移動とは、物と物を引き寄せるのに近いのだと言われました。ここでは、内容がどうのと言うよりも、あの当時も高次は私に、物の認識の仕方、ひいてはものの価値観は一通りではないということを伝えようとしていたんだと思います。価値観の転換は、限界を超えるためのさらなる可能性を引き出すチャンスだからです。セスのいうものの認識の仕方が一通りでないというのも、同じように私たちの認識力、価値観の転換を図るためなのだと思います。より多次元的なものの見方・考え方ができるようにするためです。それは、地球規模でなく、宇宙規模で人類がこれから活動していくために必要なことかもしれません。物理的にも人類はこれから火星や他の惑星に進出していく可能性がありますが、まずはその前に、精神面から霊的成長を遂げる必要があります。環境というのは精神面の反映に他ならないからです。それらは我々が普段考えている以上に密接に連動しています。我々は普段の生活の中で、自分の認識を疑うことはしませんし、その必要性もまたないかもしれません。ですが、ふと休日なんかにリラックスしているときに、自然の風景なんかを観察しながら、自分自身の認識について考察してみると、ヘミシンクワークにも役立ちうるより深い洞察力、直感力に結びついていくかもしれません。つまり、五感を超えた知覚力の強化法についてお話しています。認識力の向上は知覚力の向上にも結び付いていきますからね。あるいは、こう考えてもいいかも知れません。考え方を柔軟にすることで、以前制限されていた信念体系の壁を超えて、さらなる知覚力拡大につながっていくのだと(これはとても大切な点です)。リラックスしているときに行うというのが味噌です。その時、自分と他人(もしくは自分と目の前にある物)との関係を考えてみるのです。あるいは、自分自身を物の中に投影してみたり、あるいは、フォーカス10くらいの意識状態で、物と物とを区別している外縁を注意深く観察してみるといいかもしれません。それは、知覚の反転と言ったより進化した認識力の獲得につながる可能性があるからです。あるいは、空(そら)の、何もない空気中を眺めてみるとか。常識的には空間には何もないと思っていても、実はそうではないということが往々にしてあったりします。 我々は自分の認識を普段疑うことはありません。ですから、普段のくせをそのままヘミシンクワーク中にも持ち込んで、たとえば左脳をフル回転させて落ち着かない自分がいても何とも思いませんし、雑念に覆われている自分に気付かずに、「何も見えないし、知覚できない。」と嘆くのです。もちろん、リラックスすることは大前提として必要ですが、それよりももっと前に、ご自分の認識までさかのぼって考察してみると、普段のへミシンクワークにおいても何かご自分なりのブレークスルーがあるかもしれませんよ。普段は誰も考えない認識論の部分です。ですが、そこに知覚力拡大に役立つヒントがあるように思います。ぜひ一度お試しください。
2010.09.23
>今、精神世界において「○○のチャネリングができる」と言ってる人たちの多くが、かなり高額な料金でセミナーや対面セッションなどをしてますよね。私の感覚だと苦しんでる人たちから1時間7万円とかよく取れるなあって思ってしまうのですが・・・どうしてそういう人たちは能力が無くならないのか不思議だったりします。 能力的な問題は、能力がないのにあるフリをしている人も中にはいます。実際、私がへミシンクをする前にかかわったことのある人物の中には、まともにガイド拝見すらできないのに法外な金銭を要求してくる人もなかにはいました。まあ、ひどいのがいます。まともな人も中にはいますが、そうでないのもいる、そんな状況だと思います。能力に関しては、100%断言できるわけではありませんが、金の亡者に高級神霊が降りてくることはまずあり得ません。類は友を呼ぶ法則からです。以下、関連して、記事として書いたものを一緒に掲載させてください。 C1現実世界では、あらゆる物事を利益第一主義に考える傾向があります。それは、スピリチュアルな世界においても同様です。どの世界でも、「相場」と呼ばれるものがありますが、スピリチュアルな世界では、スピリチュアルな能力を対価に法外な金銭を要求してよいという雰囲気があります。その理由は、「みんなやっているから」です。ですから、スピリチュアル・カウンセリングと称して、1時間に数万円以上請求したり、ひどい人なんかは一回で数十万円請求したりするわけです。ある意味、相場があるようで無い世界、それがスピリチュアルな業界と言っていいと思います。昔から、霊能力や超能力を餌にした詐欺事件が後を絶たないのは、上で述べたような相場のない世界において、人の良心を食い物にする連中が必ずと言っていいほど存在するからです。気の毒なのは、善良な市民ですね。なけなしのお金をそういった連中に食い物にされてしまうからです。怖いのは、「スピリチュアルな能力によって得られる満足というのは人それぞれなんだ」ということを逆手にとって、「本人が満足しているんだから、それでいいじゃない?」という論法が平気で使われることです。これはもう、法的には処罰しきれない部分ですから、倫理的な問題と言っていいのではないかと思います。私が疑問なのは、倫理面をまず第一に考えていいはずのスピリチュアルな業界の人達が、倫理面を真っ先に踏みつけているという点です。なぜなんでしょうか?いわゆるビジネスなんかでは、能力第一主義と言いますか、能力に対して正当な金銭が支払われるのは当然だという考えがあります。問題は、この考えをスピリチュアルな世界にも当然のように持ち込んでしまっていいのかということです。しかし、これをやってしまうと、倫理観の歯止めなんてものはなくなりますよ。たとえばですが、現代において法外な金銭を対価に霊感商法をビジネスにしたらどうなるでしょうか。法的に問題ありの可能性がありますよね。それ以前に、倫理的にも問題が大ありですよね。スピリチュアルな能力を対価に金銭を要求するというのは、これと大差ない気がします。要するに、現段階では、倫理面における社会的成熟性が十分ではないために、平気でスピリチュアルな能力を商売にしてしまうのです。 霊感商法で数十万も要求しなくなる時代は、一体いつになったら来るのでしょうか。まず、我々にできることは、自己防衛です。見えない能力に対する他人への依存から脱却し、自分自身を見つめ直すことによって自分自身の真の強さ(神我)を見出す以外にないような気がします。
2010.09.23

この世は「うつしよ(現世)」と言われます。対になるのは、「とこよ(常世:あの世のこと)」です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96おそらくは、この世は「とこよ(あの世)」の「うつしよ(写し世)ということなんでしょうね。つまり、この世はあの世の「転写」なのだと昔の人は考えたのかもしれませんね。でも、我々から見れば逆なんですけどね。我々C1現実世界に生きる人間にとっては、この世がメインですから、写しではなくオリジナルなわけです。この辺の価値観の逆転(反転)というのがこの世とあの世ではあるようです。たとえばそれは、生と死に対する価値観についてなんかがそうです。我々にとってみれば、生は新たな生命の誕生ですから喜ぶべきことですし、逆に死は別れを意味しますから悲しむべきことですよね?ところが、シルバーバーチなんかが説明するには、死後世界の人からすれば、死は仲間のところへの帰還を意味しますから喜ぶべきことであり、逆に生は仲間との隔たりを意味しますから悲しむべきことなんだそうです。我々とはまさに真逆な価値観ですよね。ここでいう仲間というのは、ヘミシンク的に言えばI/Tメンバーなんかを想定してもらうとわかりやすいかもしれません。いわゆるこの世で生きている期間というのは平均的にみれば70~80年程度ですが、魂(意識)に死は存在しませんから、この世での70~80年というのは、あの世の期間も含めて考えればほんのわずかな期間であるということができます。向こうの世界では時間が存在しないということを考慮しても、体感覚としての時間的な流れは存在するそうですから、この世での体験というのは、全体としてみればあっという間の出来事であると言っていいと思います。人生がもし永遠に続くとしたら、C1現実世界での体験というのは、ほんのはじまりにすぎませんね。(シルバーバーチやセスによれば、パーソナリティ(個別意識)が誕生するのは、受胎時または出生時とされています。)永遠の時間からすれば、私たちはまだ、生まれたばかりに等しいわけです。どこまでいっても進化に応じた現実世界が用意されているとしたら(実際そうなわけですが)、大切なのはやはり、今を見つめて生きる以外にないということになります。取り越し苦労をせずに、日々たんたんと喜々として生きていけたらいいですね。「すべてなるもの」(創造主)が「とこよ(常世:あの世)」だけではなく「うつしよ(現世)」も用意したことの意義は大きいです。それはきっと、ここでしか学べないことがあるからなんでしょうね。現世は、様々な意識レベルの人が一堂に会する場だという大きな特徴があります。これはあの世にはない特徴だとされています。あの世では皆、同じ意識レベル(パーソナリティ:個別意識)のものが寄り集まって世界を形成するらしいですから。 雑多な意識レベルの中でもまれることによって、魂全体(トータルセルフ)のステップアップが可能となる、だから何度も生まれ変わってくるんでしょうね。そのために、我々のトータルセルフ(より大きな「自分」)は何度も地球上に自分の魂の一部を送り込んでくるわけです。(もちろんこの送り込まれた一部も自分自身です。本来は「自分」というものに境目はないとされていますから。)そういった魂のステップアップのチャンスを生かしたいですね。 (写真はWikipediaからです)
2010.09.22

いつだったか、こんな話を聞いたことがあります。ある存在(地球外生命体)が地球を見て、なんて美しい惑星なんだろうと思ったそうです。感動しつつ地上まで降りて行きました。すると期待通り、これは美しいと感動しました。しかし、次の瞬間、ある異変に気付きました。その存在は、スズメバチを目撃したそうなんですが、そのどう猛さに驚いたと言います。なんて凶暴なんだろうと(笑)。おそらくは、その存在がいた惑星では、そのような凶暴な生物など存在しなかったんでしょうね。つまり、我々の惑星・地球にあるような、生存競争をかけた生物の生き様です。しかし、地球ではそういったことがいたるところにはびこっています。それはもう、もしかしたら遺伝子レベルで組み込まれているのかも知れません。でも、そういった惑星を、私たちは選んだんですよね。自らの霊性進化のステップのために。 バシャールがこんなことを言っていました。「地球人ほどタフな環境で生きている存在はいない。しかし、そういったタフな環境に追い込まれている分だけ、逆に高く飛躍できるのだ。」 私はこれを聞いてちょっと感動しましたね。何に感動したかというと、あえてそういったタフな環境を集合意識レベルで選んできたということです。つまり、タフな環境であるからこそ、逆に貴重な学びがたくさん用意されているのだということです。私たちには記憶がありませんが、私たちは自分の意志でこの地球上に転生してきています。何百回も、場合によっては何千回もです。そうやって、タフな環境を自ら設定して負荷をかけることで、自らの霊的成長を促しているんですね。 以前、『ハトホルの書』というのをご紹介したことがありましたが、ハトホル意識が次のようなことを本で述べていました。「地球人は、厳しい状況下におかれているが、無意識のうちにその神性さに気付いている。これは驚くべきことだ。私達は、地球人のそのような点に感動するのだ。」と。 我々人間というのは、非常に高度なバランスを保って生きています。生存本能と神性さのバランスです。生きていくうえでは、ある意味生存本能はなくてはならないものです。生きるためにお金を稼ぐことなんかはそうでしょうね。あるいは、もっと基本的に、食べたり、寝たり、運動したりといった人間として基本的なことです。 でも、それだけでは、霊性進化の点では十分とはいえません。それは、なぜこのような熾烈な環境下に何度も生まれてくるのかを考えてみるとわかります。それは、熾烈な環境だからこそ、より神性さを発揮しやすいからです。 たとえるならば、暗闇の中に光る線香花火のようなものです。線香花火が輝いている間、あの刹那が我々の人生です。ですが、あの輝きを得るために(神性さを発揮するために)、我々はあえて熾烈な環境に生まれてきます。バシャールは言います。「多くの人がネガティブなことや暴力的なことが急増していることに気が付いていることでしょう。でもこれは、『制限がある世界』が終わることを意味しているのであって、それらすべてをさらけ出して今これらに取り組まなくてはならないのです。もう時間がないのです。あなた方のすべてのネガティブな部分をさらけ出して直面していかなければならなのです。そうすることによってどんな世界を望んでいるのかを意識して迎えることができるのです。だから、出来る限り早くこれらのシステムをさらけ出す勇気を持たなくてはならないのです。究極の問題が浮上するということは、あなたにはそれに取り組めるだけの強さがあるからなのです。あなた方に知っておいてもらいたいことは、このことなのです。 あなた方の惑星の多くの方が長い間考えてきていることの中に、この地球に人間として肉体を持ってやってきていることは、他の惑星に生まれるのと比べて、低レベルの幼稚園並みのことだと思っている人が多いのですが、それは全く事実からかけ離れた考えです。地球はレベルの高い学校なのです。今あなた方は博士号を取得しようとしているのです。あなた方が幼稚園レベルだなんてことは全くありえません。全くの反対で、博士号取得のためのプログラムをとっているところなのです。ですから私たちは、あなた方のことを、「制限世界専攻の博士(マスター)」と呼んでいるのです(笑)。 あなた方は何千年もの時間を『究極の制限』を経験してきたのです。限りないネガティブエネルギーの思考と、限りない深い暗闇に生きてきたのです。でも、今!それらをすべて光に変換しようとしているのです。それをするには、強い意識が必要なのです。その深い暗闇の現実に飛び込んでいくためには、強い魂でなければならないのです。すべての暗闇・ネガティブな思考・制限をこれでもかと見つけ出しては光に送り込み、これでもかという暗闇をこれでもかと光に変換させるのです。それは、博士号を取ろうというあなた、想像の限りの強いあなたでなければ出来ないことなのです。 あなたがたはこれを、自分達のためだけに学んでいるだけではありません。他にも変換しようとしている他の文明人にも教えているのです。地球というのは、私たちが見た中で最も罪がない制限を体験している星の一つなのです。地球だけではありませんが・・・他の文明人もそれなりの変換をしていますが、地球のあなたほどは制限を体験していないのです。彼らの制限は、あなた方が地球で体験しているものほど強烈なものではないのです。ですから、彼らはあなたがたを見て、それも私たちが彼らに見るように言っていることで、私たちはあなたがたがしていることを彼らに話しているのですが・・・彼らがあなた方を見たときに、『地球人ができるくらいなら自分たちには楽勝だ』と思ったわけです。ですから、あなた方はしっかりと学んでいるだけでなく、しっかり教えることもしているのです。」「バシャール ニューヨークイベント ~パート1~ 『過去と未来の歴史』2009年9月19日 日本語訳 平山由紀子」http://www.youtube.com/watch?v=RRAAhx5Z7uU&feature=related バシャールのものの言い方を誤解して、地球人を馬鹿にしていると思われる方もおられるかもしれませんが(笑)、それはバシャールのざっくばらんなものの言い方や単刀直入な表現から生まれた誤解です。上でバシャールは、多次元的に見てそれほど地球人というのは特殊な環境に今おかれているのだということが言いたいようです。まさに、神性さの発揮により闇を光に変えているという点において、その様相が他に類を見ないほど鮮烈だと言っているわけです。それがあまりに劇的なので、他の文明にとっても大いに参考になるからそのことを他の文明にも教えているのだと。 余談ですが、以前私はバシャールのリーディングをした時、バシャールという存在は、ディセンション組担当の救出者的地位にあるということを申し上げたことがありました。さらに、セスとバシャールとの興味深い関係もお話したことがありました(簡単に言うと、セスとバシャールは集合意識レベルで通じているが、役割分担が異なるのだという点)。加えて、別のブログで偶然目にとまった「私はあなたがたの集合意識と深い関係にある」といったバシャールの発言や、今回の上の「他の文明に教えている」という発言等から考えると、バシャールはどうやら、セスのいう「語り手」のような地位にあるように思われます。「語り手」にも様々なレベルがあるらしく、イエスやブッダ、セスといった高度に進化した存在もいれば、バシャールのように我々に比較的近い存在もいるんでしょうね。さらには、地球上で生活している「語り手」もいるようです(笑)。それらの活動はすべて一貫していて、人類の霊的成長を促すようなメッセージや影響を「ある時期まで」ひたすら送り続けるということです。ですから、私は様々なことをバシャールをめぐって発言してきましたが、他方ではあくまで「バシャールはやはり信頼出来る存在だ」と言い続けてきました。当然、私に知らされていることはごく限られたことだけですが、こうやってバシャールのメッセージを紹介しているのも、決して偶然ではない気がします。たまたま今回の記事に関係するからというのではなく。我々は美しい惑星、地球に住んでいます。その星は、熾烈な生存競争に象徴されるような「闇」の部分を抱えています。ですが同時にそれは、神性さの発現のための絶好の機会でもあります。「光」だけではなく、「闇」の部分も見つめて、自分なりに有意義な人生を過ごせたらいいですね。進む未来は自分で決められるのですから。 (写真はWikipediaからです)
2010.09.21

以前、盛んにへミシンクをしていた頃、とにかく私は高い境地というのを求めていました。いわゆる、「すべてなるもの」(創造主)とはどのような存在なのか。また、その存在は、いかなる目的を持って万物を作り出したのか。その答えは意外なものでした。万物を創造した目的は、自分自身を知るためだったと言われたのです。これは確か、どのへミシンク本においてもそういった情報がもたらされる前に独自に私に降りてきたメッセージでした。万物を創造した目的が、自分自身を知るためだったなんて、意外だと思いませんか?我々は、どこまでいっても、自分自身を見つめる旅をしていくのかもしれませんね。もちろん、今この瞬間においてもです。そのことを意識する、しないにかかわらず。でも、考えてみると、我々は今見ている世界が、自分自身の内面世界の投影だと信じられないのと同様に、自分自身を見つめる旅人であることに気づくことは非常に難しいといえます。ある意味。ですが、大切なのは、それに気づくと気づかないとにかかわらず、「今を生きる」ことではないでしょうか。どんな人生であろうと、その人の人生です。他人が口出しできるものではありません。また、どんな体験であったとしても、それはその体験した当の本人にとっては真実です。現実世界においても、非物質界においても。もっとも、普通の人は、夢での体験以外では非物質界での体験を覚えていませんけどね。ですが、信頼できる高次からの情報によれば、一人の例外もなく、私達は今この瞬間においても、多次元的に存在しています。つまり、現実世界で生きるのと同時に、非物質界や、過去生、未来生において存在しています。つまり、我々にとっては常に、「今ここ」しか存在しないわけですが、あらゆる合意された信念体系の影響によって、過去、現在、未来という時間軸という幻想にとらわれています。ですから、場合によっては過去、未来への思いにとらわれることによって悩むわけです。我々は、自分自身を知るために「今ここ」に生きているわけですが、自分の気持ちにできるだけ素直になって、今を生きられたら最高だなと思いますね。自分をいつわって生きるということに我々は時として慣れてしまっています。自分の気持ちを欺いて、様々な自分自身で作り出したルールに縛られながら。あるいは、他人のルールに同調しながら。もちろん、社会生活を営む上では、ある程度そういったルールに乗っかることは必要だとは思います。ですが、たいていの人は、感覚が麻痺してしまっていて、それが行き過ぎてしまえば、過労によってうつになったり体調を壊したり、自殺したりする人も中はいます。今はもう、すべてが分離から統合へと向かいつつある時代です。それは、地球だけではなく、宇宙規模において。そして、人間だけではなく、動植物や、他の知的存在にとって。新たな時代は、どこか別のところにあるのではなく、我々の心の中にあります。あとは、我々自身が、その世界を望むかどうかにかかっています。すなわち、調和の世界へと進むか、それとも、破滅の世界へとすすむか。すべては我々の選択次第です。我々の意識の自由度は、我々の予想以上に大きいです。意識の自由度は、即座に認識の変化をもたらします。内面の変化によって、世界の美しさが実際に変化します。我々の認識によって、世界が変化して見えるのは、世界は我々の認識次第で実際に変わっていることを意味しています。少なくとも多次元的視点から見れば。ですから、自分自身を見つめる作業というのは、とても重要なわけです。神前に向かう、普段通りの日常生活の中で人とのやり取りの中で自分自身の神的部分を相手に見る、自然の中に浸る・・・いろいろあると思います。そのどれもが貴重な体験の場であり、どれもが真実への道につながっていきます。そして大切なのは、今を生きること。これに尽きるのではないでしょうか。「すべてなるもの」に思いを巡らせながら、そんなことを考えていました。 <写真はWikipediaからです(Credit&Copyright 663highland)>
2010.09.20
>もし本当に釈迦の意識との対話であるなら、これは奇跡です。過去に釈迦と直接対話が出来た人間は皆無に近いでしょう。昔、源蔵法師は”釈迦の教えを直接受ることが出来たならたとえ、めしい(盲目)になっても後悔しない”と言っています。それは、たとえ悟りを開いた高僧であっても釈迦と同レベルに近い波長で無けれ不可能なことなのでしょう。天上界であってもフォーカスレベルの下位の場合、上のフォーカスレベルの存在とは交信が出来ないと言われています。しかしimimiさんは悟りを求める高僧でもなく、また三次元の存在でありながら釈迦やイエスの意識とも対話が出来る。このことはimimiさんが釈迦やイエスと同じ位の霊性進化をを遂げていると考えざるえません。それを今こうしてブログで接する事が出来る事はなんと幸運なことでしょう。しかし一方では失礼ながら果たした真実なのか?という疑問も生じてきます。この辺の見解を教えていただければ幸いです。おそらく、様々な点で誤解されているように思います。最大の点は、「真実とは相対的なものにすぎない。」という点についての誤解です。ですから、精神世界においては、客観的な検証というものは不可能なんです。私は確かにブッダに会って話したと言いましたが、あくまでそれは冒頭で話したように、客観的事実ではなく、主観的事実にすぎません。ですから、私にとっては真実であったとしても、あなたにとっては真実とは限らないわけです。普段から、あくまで参考程度になさってくださいというのは、そういう意味です。むしろ、誰と会って話したのかが重要なのではなく、その伝えられた中身が重要なんだと考えてください。内容面に着目して、ものの考え方が参考になるかどうかを見てください。 第二に、昔、それも紀元前頃や釈迦が生きていた時代には、今よりももっといわゆる霊格者がたくさんいたみたいです。実際、イエスの12大弟子の中には卓越した霊能力を持っている人物もいたとされていますし、そういった有名な人物ではなくても、すぐれた多次元的能力を持った人は今とは異なりたくさんいたんだということです。ですから、ご質問にあるように、イエスやブッダだけが特別な存在であったということではないと思います。彼らも、多次元的能力を持った人物ではありましたが、一人の人間としてこの地球上に存在したのだということです。我々と同様、人間でした。神ではなく。ですから、そういった聖人には限られた人間しか会えないということではありません。いわゆる宗教的な要因もありますが、キリスト教なんかでは多数の人がイエスにあっていますし、シュタイナーもこれから先人類が進化していくにつれてそういった人は増えていくだろうと予言しています。まずは、この点を押さえていただければと思います。イエスやブッダは特別な存在ではないですし、それに会える人物も特別な存在ではないのだという点です。 第三に、そういった聖人というのは、自分自身の別側面の顕現であるということを理解する必要があります。つまり、どの人についても、いわゆる聖人というのは、我々一人一人の神的部分の象徴としての役割をもって実際に地球上に存在し、また我々の記憶に残っているのだということです。いわば、聖人は内在神の象徴なわけです。たとえばこんな風に考えられてみてはいかがでしょう。私達人類は今、地球上で生活しています。その地球自体にも意識というのが宿っています。地球意識です。我々人間は、霊的にみてその地球意識の一部でもあります。これは私だけが言っていることではなくて、スピリチュアルな世界では割と多くの方が言っておられます。 そして、シュタイナーによれば、ブッダもイエスもキリスト意識の一部を宿して地球上に誕生したんですが、そのキリスト意識というのは、通常太陽意識だと考えられていると言っていいと思います。実際、ブッダもイエスも太陽意識のメンバーだという人もいます。あるいは、地球意識のメンバーだと考えてもいいかもしれません。あらゆる存在はワンネスに向かうにつれて、上のほうでひとつに融合していきますから。太陽意識の一部とみても地球意識の一部とみてもそう大差ないと思います。 大切なのは、我々自身も、そういった太陽意識あるいは地球意識の一部なんだということです。つまり、いわゆる聖人と呼ばれるような人物というのは、より広い意味では自分自身なわけです。霊的にみてより進化した自分自身、こういえるのではないかと思います。 あと、波長の話をされていますが、通常、高次の存在が地球圏にメッセージを下してくる場合、波長の高い存在は何段階かにわけてバイブレーションを下げて地球圏までおろしてきます。多くの場合は、間に介在者をはさんでメッセージを伝えてきます。私の場合には、何人かの専属の高次の存在がおりまして、その高次を介在者として、極めて高いレベルにある存在(たとえばサナンダやブッダ)からのメッセージを取り次いで地球圏までおろしてきています。それは、何も私が特別な存在だからではなく、アセンションに近づいた今の時代において、全世界で多数そういった人がいます。一昔前とはもう時代・状況が大きく異なっているとお考えください。高僧だけがそういった情報を得られると考えるのは大きな誤解です。むしろ、全く無名の人にこそ、そして平凡ではあるが私利私欲に走らない人にこそ、そういった高次のメッセージは降りてきます。 逆にいうと、今の時代、私利私欲に走らない人は非常に少ないと言っていいと思います。だから、メッセージが降りてこないんです。というより、波動が違いすぎてメッセージを降ろせないんです。向こうから波動を下げるには限界がありますから、ある程度までは我々のほうから波動を上げる努力が必要です。そのための最低限の条件が、私利私欲に走らないということです。ですが、その最低限の条件すら守れない人がいかに多いことか。 以上、「真実とは相対的なものにすぎない。」という点(むしろ客観的検証が不可能だという前提で、その語っている内容を参考にしていただければ幸いであるという点)。霊格者は昔はたくさんいて、イエスやブッダは別に特別な存在ではなかったという点(また時代の変化で霊格者に会える人物もこれから時代が進めば増えてくるであろうという点)、だから、そういった聖人にあったからと言ってとりたてて問題にする必要はないのだという点。聖人は自分の別側面の現れに過ぎず、広い意味で自分自身なのだという点。この3点を理解していただければ幸いです。
2010.09.20
今日はブッダとの対話からです。以下で話す内容は、客観的事実ではなく、リーディングによって得られた主観的事実です。ですから、内容は現代仏教の教義に基づいたものではありませんのでその点ご注意ください。 ブッダは、かなり高いレベルに到達していると感じます。たとえるならば、つかみどころのない雲のような存在です。我々のようなパーソナリティのレベルをはるかに超越して、集合意識としての「自分」を見出しているようです。ですから、以下の対話においても、以前何度かお話してきたような個別意識と集合意識の区別をつけた上でお読みいただければと思います。(簡単に言うと、私は個別意識の視点に立脚して話しているのに対し、ブッダは集合意識の視点に立脚して話しています。)会話はすべて変性意識下で行われていますが、途中に挿入してある注釈は、コンタクト終了後にネットで調べたものを付け加えたものです。 「あなたが生前、中心的に教えた手法は?」「弟子の家に招かれたそこで直接説法をした。」「大勢の前で教えるということは?」「あまりなかった。多くは弟子との問答だ。」「あなたの中心的な教えとは?」(ここでブッダは、三法印もしくは四法印と思われるような印象を投げかけてきました。)三法印についてはこちらを、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%95%E5%8D%B0四法印についてはこちらをご参照ください。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%B3%95%E5%8D%B0「具体的には?」「移ろいゆく世の中で現実を見つめて生きること。」「今の仏教の教えはあなたの伝えるところからすればどうですか?」「当たらずとも遠からずだ。ダンマパダいう名の聖典を参照するとよい。」(一般的には、「ダンマパダ」という聖典は、「法句経」という呼び名らしいです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8F%A5%E7%B5%8Cなお、ダンマパダをわかりやすく訳した文章を紹介したブログがありました。http://76263383.at.webry.info/) 「人はなぜ悩むのでしょうか?」「悩んでいる自分を見出すからだ。悩みではなく、喜びを見出しなさい。」「ここのフォーカスレベルは?」「F49」(このF49というのは、ブッダのパーソナリティが到達したレベルだと感じます。集合意識としてのブッダは、これよりはるかかなたまで認識力が及んでいるようです。この辺のパーソナリティ、集合意識の言葉の意味がわからない方は、過去ブログをご覧ください。)http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200902180000/http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/201008210001/ 「あなたは今何をしているのですか?」「修行している。」「どこで?」「君と同じように、私にとっての現実世界だ。」「あなたと私のレベルの差はどのくらいですか?」「レベルの差はない。レベルの差が有ると感じるのは、レベルの差が有ると考えるからだ。本来はレベルの差なんかはない。私も君と同様に、現実世界で生きる人間なのだ。」 「人生を思い通りに過ごす方法は?」「ありのままの自分でいること。」「しかし、それは難しいのでは?」「難しいと思うから難しいのだ。ありのままを受け入れて真実となる。これがすなわち仏法である。仏法とは、釈迦牟尼仏のことである。釈迦牟尼仏とは、仏法のことである。」(釈迦牟尼仏というのは、後世の人がつけた釈迦の別名のようですが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6上の文脈では、単に「悟った者」くらいの意味で言っているように思われます。なお、言葉使いをあまり問題にせずに内容にご注目ください。) 「もう少しわかりやすく言うと?」「つまり、ありのままを見つめて初めて真実となる。『真実』とは、有ってなきがごとき空虚なもの。そこに真実を見出しても無駄だ。今を見つめなさい。そこにこそ真実味がある。移ろいゆくものの中に自らを置き、その中で様々な体験を積むことこそ最も価値のあることである。そこにこそ真実がある。」「瞑想や引き寄せの法則など不要だと?」「不要だ。それ自体に特別な意味はない。意味があると思うのは、そこに意味を見出すからだ。」 「あなたはなぜ弟子に対して説法をするという手法をとったのですか?」「それが最も(自分の考えを)伝えやすかったからだ。物事は常に二極性を持っている。極端であってはいけない。中庸を目指すことだ。」「中庸とはなんですか?」「中庸とは空である。」 「空とはなんですか?」「空とは実相である。」「実相とはなんですか?」「実相とは真実である。」(「実相」とは、「現実のありのままの姿」という意味のようです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6の「成道」を御参照ください。) 「真実とはなんですか?」「真実とは自分自身である。」「そうすると、中庸とは自分自身ということですか?」「そうだ。いかなる手法をとったとしても、真実にたどり着くには自分自身を見つめる以外にはない。」 「自分自身を見つめるとはどういうことですか?」「あなた自身を見つめることだ。あなたの心だ。」「心とはなんですか?」「あなたの精神だ。肉体ではない部分だ。」「それは日常生活の中でも可能ですか?」「可能だが、あえて苦行に走らないことだ。」「なぜですか?」「苦行は本質から遠ざける。」「本質とはなんですか?」「悟りだ。」 「悟りとはなんですか?」「真実への道だ。」「真実とは相対的なものではないんですか?」「もちろんそうだ。だが、あなたにとっての真実を求めることが大切なのだ。」「私にとっての真実?」「そうだ。それはあなたにしかわからない。だから、自分自身を見つめなさいと言っているのだ。」「わかりました。」 「あなたの意識レベルはどのくらいですか?」「大日如来と同レベルだ。人類の集合意識全体と同化しつつある。」「この会話は真実ですか?」「そなたは私自身なのだ。真実も何もない。」「私はあなた自身?」「そうだ。」つまり、ブッダは、「真実」という空虚なものを最初から追い求めるのではなく、移ろいゆく現実世界の中で生き抜きなさいと言っているのです。そこにこそ、本当の真実があるのだということが言いたいようです。限りある人間世界での言葉に変換されていますから、真意が伝わりにくいかもしれませんし、私自身十分にわかっているわけではありません。ですが、そのような趣旨の会話であるとご理解いただければと思います。(もちろん、内容自体は私の主観的事実にすぎません。) ダンマパダを読んでいてあとで思い出したことがあります。それは、リーディングをしてみて感じたんですが、仏陀は死後の世界についての話を生前しなかったということです。ですから、ダンマパダを素人なりに拝見いたしますと、なるほど釈迦が言いそうなことだと思えるものも確かに含まれてはいますが、はたしてブッダがそのようなことを言っただろうかと思えるものも少なからずあります。おそらくそれは、残されている仏典のすべてがブッダの死後数百年を経て編纂されているという事情によるのかもしれません。つまり、弟子のそのまた弟子の、そのまた弟子の・・・言ったことが、あたかもブッダの言葉として伝えられているという事実です。 そうはいっても、確かにダンマパダを読むと、ブッダの香りが伝わってきます。ぜひ興味ある方はお読みください。なお、ブッダのいう、瞑想や引き寄せの法則それ自体に意味を見出さないという姿勢は、近い考え方とすれば、セスの考え方に似ているかもしれません。どんなに言葉を尽くしても語りつくせるものではありませんし、真意は伝わらないがゆえに、瞑想や引き寄せの法則は、言葉だけが独り歩きをしている印象を受けます。あるいは、引き寄せの法則の代わりに、セスのように現実創造のプロセスを詳細に説明する手法を用いたとしてもです。その原因は、我々の理解力不足にあります。 だからかもしれません。ブッダはそれらについては何も語らず、現実世界をいかにして生きるかという点を重視したわけです。死後世界についても語らなかったと感じます。また、ブッダは、弟子に対して説法をするという手法を主にとっていたらしく、瞑想を指導したことはなかったと言われました。ただし、ブッダ自身は、自らの修行時代に瞑想を確かにしていました。その様子(光景)も知覚しました。それは、一人ではなく、複数の人々と共に瞑想に励んでいる様子です。もしかしたら、この点が誤解されて後世に伝わっているのかもしれません。
2010.09.19

ふと、「ありがとう」という言葉は、漢字にしてみると「有難う」、「有難い」からきているのではないかと思い、その意味についてネットで調べてみました。すると、次のような説明がありました。「原典は法句経というお経に『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』とあるように、今生きている私達は、数え切れない偶然と無数の先祖の計らいで生を受けて誕生したのだから、命の尊さに感謝して精一杯生きましょう。と言う教えから生まれた言葉です。やがてそれが、当たり前の事を当たり前と思わず、当たり前と思える事にでも感謝の気持ちを表す言葉として『有り難し(ありがとう)』になったのです。」http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1744208.htmlつまり、束の間の人の生のように、有ることが難しい、有難い、こういうことのようです。 我々はつい、物事の多くを当たり前だと思いがちです。先日、私は左足のふくらはぎを痛めてしまいまして、歩いたり、特に階段を下りるのがつらくなりました。もしかして肉離れかとも思ったんですが、しばらく様子を見ようということになりました。普段、なにげなくしている、歩くという動作や、階段を上り下りするという動作をするのに不自由を感じてしまうと、逆に治った時に、あ~歩けてよかった、階段を上り下り出来てよかったと素直に思えます。ただ足のすじをちがえたような場合であっても、歩くのに支障をきたすような痛みを伴うような場合、不安になるものです。ですが、治ってみると、なんだ・・・ということになります。言ってしまえば、とり越し苦労なわけですが、ここで言いたいのは、普段何気なくしている「歩く」という動作ですら、「有難い」ということもあるのだということです。 歩くことですら有難いことなんです。ですが、我々はそのことを気にも留めていないばかりか、普段の生活で不平不満ばかり漏らしています。金銭のこと、家族とのやり取りでのこと、病気がちなこと、老後のこと・・・等々。ですが、そういったことをいったんわきに置いて、もっとも「有ることが難しい」ことは何か考えてみましょう。 それは・・・生きることそれ自体です。私達は以前お話したように、生物学的にはものすごい確率でこの世に生まれてきています。霊的にみても、大変多くのスピリットが地球上に誕生するのを待っている状態だといわれています。一説によれば、地球上にいる人類の総人口の十倍は誕生を待っているのだとか。つまり、生きることそれ自体が最も「有ることが難しい」、すなわち「有難い」ことなのです。 人生において大きな試練にぶつかったとき、深呼吸して、このことを思い出してみてください。生きていること自体が有難いことなのだと。ですから、何度でも命ある限りやり直せばいいわけです。当たり前の生活ができることは、すばらしいことだと思います。多くの当たり前のことが、日常生活の中にはごろごろと転がっています。日常の一コマ一コマに、有難いことがあふれています。 少しスローペースになってみて、そういった有難いことを振り返ってみてはいかがでしょうか。当たり前のことが当たり前ではないと気づけた時、小さな喜びの目が生まれます。ほんのわずかでも、生きる喜びが生まれます。それが積もり積もっていけば、人生が喜びに満ちていくはずです。
2010.09.18

以前から思うのは、ヘミシンクで見る映像というのは、例えば太陽系の惑星なんかもそうですが、実際に見る映像と非常によく似ている場合があります(もっとも、これは個人差がありますからご注意ください)。1年以上も前に盛んに私がルシアさん達と共同探索を毎週していた頃は、私達の体験が非常に「まれ」な体験の連続でしたので、唯一の検証方法は仲間うちでの互いの体験の比較ぐらいでした。 ところが、時間がたつにつれ、様々な他の方々、特に最近では伊勢白山道さんやKagariさんを知るようになり、そのブログを拝見させていただくと、体験当時は空想だと思っていたことがまんざら的外れでもないと分かってきました。こういったことは、最近のムー大陸・邪馬台国の話や、卑弥呼の話なんかでもそうです。 私は、自分でヘミシンクで体験してから、あとで他の方の情報と比較するという作業を徹底して行ってきました。ですが、後日の検証でとても偶然とは思えないような体験の一致がみられるのです。ちなみに、伊勢白山道さんやKagariさんのブログを読み始めたのは、今年の春からです。ヘミシンクで共同探索なんかをされたことがある方なら分かると思いますが、体験の一致というのは、たいていは同じような服装の人や物を見たとかその程度の一致だけであることが多く、それ以上の高度な情報の一致というのは、ほとんどありません。ですが、今までの私のブログの特に日本神界のところと、たとえば伊勢白山道さんのブログとを比較させていただくと、大変に興味深いことがわかってきます。全く別の人間が、同じようなことを語っている部分が少なからずあるからです。 先日の伊勢さんの記事にも大変驚きました。レイラインの話です。http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20100915最近私がお話している出雲から奈良を経て伊雑宮へと続くアマテラスの神気の流れの移り変わりと、伊勢さんが重要だとおっしゃる、北京から朝鮮半島を経て出雲を通り、奈良の三輪山を経て伊雑宮へと通じるレイラインがぴたりと一致していたからです。しかも、北京から始まっているというのが重要だと感じます。太古の神気の流れというのは非常に複雑でして、もともとは日本で生まれたものが中国に伝わり、それが逆輸入のような形で日本に伝わってきていた時期があったと感じられるからです。加えて、最近思うのは、そういった外見的な情報の一致も興味深いですが、それ以上に重要なのは、伝える中身なのではないかということです。私の場合特に、メッセンジャーとしての役割に徹することが重要だと考えています。ですから、建前としては、すべての内容は私自身の見解として書いていますが、実はそうではなく、最近のブログに顕著なのは、高次からのメッセージを「書かされている」という側面です。もちろん、私は自分で記事を書いているという感覚ですが、実は高次からのメッセージを降ろしている場合が少なくないということです。それがいいか悪いかではなく。特に最近は、自分のためだけにブログを書いていません。自分のためだけならほぼ毎日ブログを書くなんてことはしませんし、だいたい高次からのサポートなしには、ここまでネタが尽きることなく続けられない気がします。でも、これからも、私に何らかの役割が与えられている限り、ブログを書いていきたいと考えています。今回都合3回にわたってお話してきた伊勢の記事において、何かを感じ取っていただければ幸いです。特に、神社に行ってカタチだけ参拝することに終始するのではなく、「その内奥にある部分」にご注目ください。それは、「神前に向かうことは自分自身の神性な部分と向き合うことに等しいのだ」ということです。すなわち、神前に向かうことは、自分自身を見つめることほかなりません。ぜひ皆さんも、伊勢神宮あるいはお近くの神社に行かれてご自分の内面を見つめてみてください。神性な神気にふれてみてください。ご自分の内にある神性な部分を感じてみてください。 神性さを発揮することは、大それたことではなく、日常生活の中にあります。日常生活における人と人との触れ合いの中で、喜怒哀楽を発揮し、生かされていることに感謝してみてください。それがどんな生き方であっても、神性さを発揮できることであれば、それはその人にとってかけがえのないものです。 自分のために生き、他人のために生き、日々の生活の中に喜びを見出してみてください。喜びだけでなく、慈愛、思いやり、やさしさ、直観的な創造性、英知、ユーモア、好奇心・・・日々の生活の中には、そういった神性さの発揮へのチャンスがあふれています。そしてそれらは、生かされていることへの感謝から始まります。それは「感謝行」が他人を評価すること(自分でなく他人ばかり見つめること)から抜け出す最も有効な方法だからです。最も強力に内在する神性な部分に目を向けさせます。相手とのやり取りの中に、神性さを「鏡」として見出せるか。そういった瞬間瞬間での気づきは、すべてを変容させる可能性があります。「今ここ」での気づき、その積み重ねこそが、未来の自分を創っていくのですから。楽しんで生きましょう。
2010.09.17
以前、伊勢神宮に降りてきているエネルギーだけが高天原と呼ばれる高次の領域を通過してC1現実世界に降りてきているという話を以前したことがありましたが、それについて新たな印象が得られたので少しふれておきたいと思います。いわゆる高天原と呼ばれる高次の領域は、高次のエネルギーの関所のようなもので、そこを通過しないと高次のエネルギーは地球圏まで下りてくることはできません。(便宜上「高天原」と呼んでいるにすぎず、その名前が絶対的な意味をもつものではないことは言うまでもありません)いわば、地球圏と高次の神界とをつなぐ関所としての役割を果たしているのが、高天原のようなのです。その意味では、高天原も非物質領域において実在すると言ってよいように思います。 別の視点からみれば、高次のエネルギーがいわゆる万世一系システム(創造主からつらなる高次のエネルギーの系譜)の根源的なエネルギーかどうかを見極めるための一つの目安になるように思います。私が見た限り、伊勢神宮だけが唯一、その万世一系システムの根源的なエネルギーの関所を通過したエネルギーが降りてきているように感じられました。昨日の記事の最後の話を踏まえると、多次元的観点からみてホログラムとしての意味をもつ現実世界において、伊勢神宮の所在地にエネルギーが降りてきているというよりは、伊勢神宮が唯一、万世一系システムの根源的なエネルギーの「象徴」としての意味を持っている、こういうことになるように思います。言いかえれば、場所が重要なのではなく、伊勢神宮の持つ「象徴」としての意味こそが重要なのだということです。ですから、伊雑宮についても、伊雑宮という「象徴」それ自体に根源的なエネルギーにつながるための重要な意味を内在されているのだということです。 話は前後しますが、二見浦(ふたみがうら)にある神社内の本殿に向き合っていた時、本殿の正面に据えてある大きな鏡が印象的でした。その鏡を、なぜか伊雑宮の本殿と向き合っているときに思い出したのです。神殿と向き合うというのは、自分自身と向き合うことに他なりません。「無心でただ感謝の気持ちをもって神殿(自分自身の神的存在)と向き合うことこそ、もっとも尊いことなのだ」という直感を、伊雑宮で無心になって神殿に向かっている時に得ました。伊勢神宮の外宮や内宮や伊雑宮は、そういった誰もがもつ自分自身の神的部分の象徴としての意味を持っているのだということです。 あるいは、こういう言い方もできるかもしれません。たとえ日本最高の神気が流れる伊勢神宮といえども、本質的には内在神の象徴にすぎないのだと。それは、自分自身の内在神と向き合うための、いわば「鏡」なのだと。そのことを、今回の伊勢神宮の参拝と通してあらためて学ばせていただきました。あるいは、こうも言えるかもしれません。「カタチ」よりも、日本人としての神前に向き合う「心」が大切なのだと。 他方で、高次には高次の別の見方があるのかもしれませんが、3次元に生きる私には、やはり伊勢神宮という場所には特別な神気が降りてきているように感じられたのも事実です。ですから、やはり行って良かったと思っていますし、一度はできるだけ多くの方に参拝していただきたいと思いました。そして、伊勢神宮は、日本人が忘れかけている礼節を重んじるということの大切さを教えてくれる貴重な場だと感じました。内宮の参拝時に警備の方にそういった話をしていただいたのは、本当にありがたいことだと感謝しています。礼節を重んじてきた日本人が、日本全国の神社等の聖地で礼節をわきまえない人が増えています。そういった意味でも、日本人としての原点に帰る意味でも、一度は伊勢に足を運んで、神職や神宮に仕える人の話を聞くだけでも価値があると、今回の旅を通じて感じました。 余談ですが、今回初めて伊勢神宮を参拝してみて、びっくりしたことがありました。それは、内宮についてです。私は今回が初めての伊勢神宮への参拝で、以前は写真集等いっさい見たことがなかったのですが、内宮の光景が1年以上前に非物質的に見た伊勢神宮の雰囲気にそっくりだったのです。こんな感じでした。過去記事からの引用です。 「伊勢神宮へと向かいました。アマテラス様はしきりに、(伊勢神宮は)我々の本来の居場所だ、みたいな印象を投げかけてきていました。非物質界の伊勢神宮についてみると、思ったよりも荘厳な雰囲気が漂っています。神聖な空気が流れている感じです。一目でただの神社でないという印象が伝わってきます。アマテラス様がここが我々の住みかだと言ったわけがなんとなくわかりました。多くの神職の方々が神社の境内で働いている印象があります。特に念いりに境内の手入れをしています。我々が中へ入っていくと、神々が一斉にアマテラス様におじぎをし始めました。正面の拝殿には、一人の女性の宮司?と思われる方がたってらっしゃいます。なんとなくこの神社のトップの方の印象があります。その方がアマテラス様を神殿に案内し、アマテラス様が本来のアマテラスオホミカミの霊力を降ろし始めました。すると、上空からものすごい量の光が神殿内にまで入ってきて、マルチロケーションで見てみると、伊勢神宮全体が光り始めているのがわかりました。「これで当分は大丈夫じゃろう。」そうアマテラス様に言われると、私は別の場所に連れていかれました。場面が変わり、森の中に小川が流れている所へ連れて行かれました。そこでアマテラス様が履き物をお脱ぎになり、小川に中へ入られました。次の瞬間、アマテラス様が消え、上空に巨大なアマテラス様が出現しました。より大きな意識のアマテラス様になられたようです。私はアマテラス様のもとへ行き、空を一緒に飛びながらいろいろ話をしました。アマテラス様によれば、伊勢神宮というのは、日本神界にとって極めて重要な場所らしいです。「我々の本来の居場所じゃ。」というようなことを何度か言われました。そして、何かに促されるように、富士山と伊勢神宮との関係についても聞いてみました。すると、富士山からの霊力は、伊勢神宮にそのままダイレクトに流れるような位置に伊勢神宮が置かれてあり、ここはいわばエネルギースポットなのだと言います。」http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200904110000/ 伊勢神宮の内宮には、五十鈴川(いすずがわ)が流れていてそれは、まるで内宮の森に囲まれるようにひっそりとした感じで流れています。http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Mitarashiba_of_Naiku01.jpg内宮を本殿方向に歩いていくと、途中で川岸のすぐ近くまで寄れるところがあるのですが、まさにあのあたりの感じにそっくりの光景を1年以上も前に見ていました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Isejinguu.JPGしかも、その時私は、アマテラスと思われる存在と一緒に伊勢神宮にやってきて、アマテラスは神殿内でアマテラスオホミカミの霊力を神殿内で降ろし、その上空に巨大な柱が立ったんですが、その場所というのも、まさにアマテラスを祀った内宮の正宮であることと一致しますから、なおさら驚かされます。
2010.09.16

伊勢神宮に行ってきました。今回、以前から伊勢に行くならこの時期をおいて他にないと強く感じていましたので、参拝しに行って参りました。具体的な経緯は差し控えますが、霊的な内容という点では、最近の私のブログの内容すべてにかかわってくるとお考えいただければと思います。 前日、二見浦(ふたみがうら)に宿泊して、翌朝に朝日を見た後、7時半頃外宮に到着しました。私は伊勢神宮は初めての参拝だったんですが、外宮、内宮、伊雑宮を参拝した中で、もっとも感動したのは外宮でした。 早朝参拝ということもあって、すがすがしい参拝でした。また、外宮の雰囲気はとても厳かな感じでした。神宮内の雰囲気は素晴らしかったです。 エネルギー的には、外宮の正宮あたりからガラッと雰囲気が変わりました。今回は、正式参拝をさせていただいたんですが、正宮の本殿内を見ている内に、ハートチャクラからハイハートにかけてすごいエネルギーがやってきました。外宮はアマテラスを祀っていないはずですが、確かにアマテラスのエネルギーを感じました。 その後、正式参拝に移りました。記帳を済ませた後、神官から清めの塩をまかれるんですが、私は丹精込めて作られたであろうその塩に思いを馳せていました。神宮で使われる塩は特別な御塩殿(みしおでん)というところで作られるのだそうです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A1%A9%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE その後、神官を先頭に正宮の中へと入って行きました。正宮の中で参拝させていただくことを御垣内(みかきうち)参拝というのだそうです。神官を先頭に中に入っていき、本殿の正面を向いたときのことでした。第3チャクラから下の地球意識からくるエネルギーの強さと、ハートチャクラから上の太陽意識からくるエネルギーの強さが、ほぼ同じくらい強く感じられてきました。私は普段から、第3チャクラから下のエネルギーは感じにくいんですが、伊勢神宮は特別でした。太陽のエネルギーはハートチャクラで感じますが、アマテラス(太陽意識)のエネルギーはそれに加えて第8のチャクラといわれるハイハートセンターで感じます。他方で、地球意識(国常立太神)のエネルギーは、第3チャクラから第1チャクラにかけて反応します。この両者のエネルギーが初めて融合する感覚を得ました。本殿内に実際に入って見ると、上だけではなく、下からくるエネルギーも同じくらいの強さとなり、融合したのです。これが明確に起こったのは、今回の伊勢参拝を通じて外宮だけでした。今までいろいろな神社を参拝させていただきましたが、これはいまだかつてなかったことです。 その後、外宮の別宮を参拝させていただいた後、内宮へとむかいました。内宮は、印象としては外宮よりエネルギーは弱く感じられました。はじめそれは、内宮のほうがエネルギー的に精妙なせいだと思っていたのですが、高次によれば、それは、内宮のエネルギーのほうが精妙だからではなく、「感応力の問題」なのだと言われました。エネルギーの受容能力とでもいったらいいのでしょうか。 たとえるならば、光のスペクトルのようなものかもしれません。光にも波長があって、波長ごとに帯域が決まっています。どの光が見えるかは、その帯域の波長に合わせられるによって決まる、そんな感じです。ただ、内宮で正式参拝をした時には、エネルギーがちょっと強まりました。外宮と同様、神官に案内されて本殿の正面に向いたときに、おそらくは、ハートチャクラから上のエネルギーが強まりました。 その後、内宮の警備の方に面白い話を伺いました。内宮の本殿内の最奥に入れるのは、世界で天皇陛下だけなのだそうです。あとは、どこまで奥に入れるかは、諸事情によって決まるのだといいます。詳しくお話していただいたが、ちょっと?な印象を持ちました。社会的地位や勲章、玉串料の金額によってどこまで奥に入れるかが決まるのだと言われた点にです。それはさておき、内宮の雰囲気は、外宮に劣らず素晴らしいものでした。 内宮とは対照的に、もっとも伊勢神宮らしい精妙かつ強いエネルギーを感じたのは、伊雑宮でした。 伊雑宮は、神社まで近づいても鳥居をくぐってもエネルギー的な変化をはじめ感じませんでした。しかし、本殿が見え始めた時に状況が一変しました。ハートチャクラからハイハートにかけて強いエネルギーに感応し始めたのです。本殿の正面に向いたとき、その強さはさらに増しました。10分以上にもわたって、アマテラスのエネルギーと完全につながる感覚がありました。言葉にならない感覚で、ただ高次のエネルギーにしばらくの間共鳴しているような感じでした。アマテラスのビジョンなども一切見えませんでした。ただ、強いエネルギーの存在だけをしばらくの間、本殿に向かいながら感じていました。外宮も感動しましたが、伊雑宮はまた別の感動がありました。神気の精妙さやそれに触れた時の持続力は、伊雑宮が群を抜いていました。ただその心地よいエネルギーにしばしの間、時を忘れて浸っていました。 伊雑宮で感じた神気の特徴をまとめておきたいと思います。前述したように、伊雑宮の神気はただ強いだけではなく、精妙で、かつ体感した時に持続力があります。それは、先ほども書きましたが、他の神社とは一線を画しています。エネルギー的には、外宮、内宮のいずれよりも精妙でした。力強さという点では、外宮もかなりのものがあったのですが、外宮のエネルギーの特徴は、天(太陽意識)と地(地球意識)の融合と言い表すことができるのに対し、伊雑宮のそれは、天のエネルギーそのものと言った感じでした。感じるチャクラのポイントとしては、ハートチャクラからハイハートにかけて強烈に感じるアマテラスのエネルギーそのものでした。伊雑宮の参拝の翌日、別の地方でアマテラスと国常立太神を祭っている他の神社でも御柱を建てさせていただきましたが、伊雑宮のエネルギーとはやはりエネルギーの強さが違いました。強さと言いますか持続力と言いますか。伊雑宮の直後でしたから、はっきりとその違いを感じ取ることができました。やはり伊雑宮はエネルギー的にいて別格と言っていいと思います。そんなことは微塵も感じさせないあの質素なたたずまいとのギャップがすごかったです。 ひと段落して、ちょっと離れたところから正殿を見つつ、この日は風が強かったせいか、稲の良い香りが漂ってきてとても心地よかったです。(下の写真は、伊雑宮の隣の敷地にある御神田です。)強い日差しにもかかわらず、風があったことは幸いなことでしたし、何よりも心地よい稲の香りに一層癒される思いがしました。伊勢神宮の内宮、伊雑宮は、アマテラスの象徴としての意味を持つ場所で、そこにエネルギーが降りてきているというよりは、例えば伊雑宮なら伊雑宮の神殿(アマテラスの象徴)を実際にみることによって、実際にアマテラスのエネルギーにアクセスしつながることができる、そういった印象でした。
2010.09.15
久しぶりにへミシンクを聞きました。ひとつの物語として読んでいただければ幸いです。 見えてきたのは、島のようでもあり、大陸のようでもあるところです。海に浮かぶ円形の形に見えました。島か大陸か区別がつかないのは、どの程度の規模なのかわからないからです。 超古代のようです。 広い土地を進んでいくと遠くのほうで巨大な祭殿で何か祭祀をしている集団がいます。祭壇の一番高いところには、巫女さんがいるようです。場面が変わり、目の前に小さな男の子と女の子がいます。しばらくして、一人の女性と男性の姿が見えてきました。女性の髪形が印象的で、以前お話しした卑弥呼の髪形に似ています。髪を結ってあって、頭の両脇でくるっと丸まっているような感じです。ふと気がつくと、私は先ほど見えた男性と一体化して女性と一緒に歩き始めていました。 これから私たちが住んでいる家に向かうみたいです。高床式倉庫のような建築物が見えてきました。http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/5/51/%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85.JPG(写真はWikipediaからで、三内丸山遺跡の高床式倉庫の復元です。)ここは太古の日本だといわれてもおかしくない、建物の感じからいってそんな印象があります。 今見ている場所を現代の地形に照らして特定するのは難しいですが、しいて言えば、今の群馬、岐阜あたりだという印象がありました。太古のムー大陸の一部をなしているような感じでした。家の中に入ってみると、大家族です。20~30人は軽くいる感じです。当時はこれが普通だったのだといいます。 私は、ムー大陸と現代の文明とのつながりを探っていました。すると、突然、「海女族」の印象が浮かび上がってきました。(海女族というのは、太古の日本に存在した、高度な文明をもった航海術に長けた集団、くらいの意味で考えてください。)現代でも残されている海女族の家系としては、「丹波国造」すなわち、二ギハヤヒにゆかりのある籠神社との関係があります。これが現代において残されている唯一の家系らしいです。 実は、これ以外にも海女族の系譜はいくつも存在していて、そのそれぞれが霊的にみてムー大陸に由来するものだったようです。卑弥呼は「丹波国造」に由来するものが海部氏の系図によって存在したことが伝えられていますが、卑弥呼は他にもいくつかの家系において存在していたのだそうです。それらはすべて、海女族の系譜に所属する人物でした。つまり、卑弥呼とは、古代ムー大陸の流れをくむ海女族出身のシャーマンだったのだということのようです。 天孫降臨について。現代において伝えれられている天孫降臨は、「高千穂」と「丹波」ですが(高千穂よりも古いとされる丹波の天孫降臨伝説については、先日お話しました)、「高千穂」「丹波」共に、海女族が降り立った場所だったということです。それを「天孫降臨」と呼んだのだそうです。ちなみに、高千穂のあたりは、昔は海だったそうです。おそらくは、幣立神宮のあたりもそうだったのでしょう。ですから、高千穂に伝わる天孫降臨伝説とは、当時のあのあたりの海岸に海女族が上陸したことを指しているということのようです。 幣立神宮は、今の天皇家の流れと深いかかわりがあるのだそうです。古来の海女族の流れで重要なのは、海部氏と、物部氏だそうです。そのうち、物部氏の一部から今の天皇家の流れは派生しているのだとか。(歴史的事実ではなく、あくまで私のヘミ体験にもとづく情報です)つまり、幣立神宮(海女族?) → 物部氏(出雲系?海女族?)→ 天皇家こうなります。 まだはっきりしないのですが、伊勢神宮の背後には、太古の出雲の流れがあり、それは太古の海女族、ムー大陸につながっていくみたいです。へミシンク終了後に面白い記事をネットで見つけました。http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1209.htmlそれは、物部氏と天皇家とが密接な関わりがあるのではないかというものです。 また、伝説上の神武天皇率いる天孫族と大和地方にすでに存在していた出雲系の古代王朝が、同じ起源をもつのではないかと思わせる伝承がありました(神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)にまつわる話です)。その辺についてもご紹介したURLに詳しく載っていましたので、興味ある方はぜひ読んでみていただければと思います。ちなみに、そういった事情については全く私自身は知りませんでしたし、物部氏という一族がどういう一族なのかも全く知りませんでした。
2010.09.14
携帯、ミクシィからご覧の方へ ブログトップページを変更しました。今回は、マザーテレサの言葉にしました。 親切で慎み深くありなさいあなたに出会った人がだれでも前よりももっと気持ちよく明るくなって帰れるようになさい親切があなたの表情にまなざしに、ほほえみに温かく声をかけることばにあらわれるように子どもにも貧しい人にも苦しんでいる孤独な人すべてにいつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい世話するだけでなくあなたの心を与えなさい ― マザーテレサ ―
2010.09.12
>imiminさんは幽体離脱されてますが、imiminさんの場合についていえば、地上にいるときのような覚醒した感覚なのでしょうか? 一般的な意味合いからすればそう言っていいと思います。しかし、別の次元にいる自分というものをその意識レベルを超えた「外部から」正確にモニタリングできないという宿命的な問題がひそんでいます。つまりここにも「認識」が深くかかわってくるんです。 わかりやすくいうと、夢を見ている時には、夢の中ではリアルな体験そのものだと通常は思っていますが、夢から覚めてみると、「あ~夢だったのか(現実ではなかったのか)」とこうなります。体外離脱とはまさにこういうものなんです。つまり、体外離脱は「認識」そのものと深いかかわりがあるのです。 もう少し厳密に言うと次のようになります。体外離脱というのは、ある意味それを体験した人にとっては真実ですが、あくまでそれは当該意識状態にある当該意識レベルにある「自分」にとっての真実です。その当該意識状態においては、体外離脱は紛れもなく現実であって、現実世界と同様のリアリティをもっています(と私自身の体験からは言えます)。しかし、現実世界の意識状態からみれば、それは別の意識状態でのことであって、いわば「夢の世界」の体験と似ています。その世界にいるときには紛れもなく「現実」であるのに、現実世界にいるときには体外離脱の世界が「夢」のようなものであるというのは、自分の持つ「認識」と深くかかわっています。そこには、「認識」とは常に相対的にしか把握できないという問題と深くかかわっています。 冒頭で「一般的な意味合いからすれば」と言ったのは、別の意識状態にいる自分を正確には把握できないためにこのような言い方をしました。多次元的にみれば、現実世界も非物質世界も夢の世界もすべて同じです。違うのは、その状態に入り込んだ時の意識状態や意識の拡大の仕方、物事の認識の仕方等です。ある意味、この現実世界が別の次元からみれば夢の世界のように感じられる可能性があります。(たとえば最近の量子物理学で言われているような、銀河系コアのブラックホールから抜け出して別宇宙に入り込んだような場合を想定してください。) おそらく、私が言わんとしていることがいまいちわかりにくいのではないかと思いつつこのようにご説明しているのですが、つまりところ、あらゆる世界におけるあらゆる体験の根底には、いわゆる「認識」がかかわってきます。自分の「認識」というのもは絶対的なものではないのです。それがわからないがために、いわゆる「感覚」というものにこだわってしまいます。あくまで一般論として申し上げています。 なぜ現実世界での「感覚」を多くの方は唯一絶対的なものであるかのように把握されるのでしょうか。それは、この現実世界がより広い意味での「自分」との間での様々な合意によって生み出された、そして、自分のもつ「感覚」によって生み出された幻想であるということがわからないからです。 私は自分の考えを押し付けるつもりは毛頭ありません。証明できないことを扱っていますからね。ただ、今申し上げていることは、いわゆるチャネリングによってもたらされた高次の意識存在達が伝えてきている事実に基づいていまして、それを受け入れるかどうかは、読者の皆様の自由です。 私は常々、現代科学がすべてではないと考えています。現代科学はまだ発展途上にありますから(到達点というのは制限がありませんから)、証明できない事実など無数にあるはずです。私は、そういった証明できない事実でも(たとえば引き寄せの法則等)、それを受け入れることによって、この現実世界をより有意義に過ごすことができるのであれば、受け入れたほうがいいのではないかと思っています。実は、こういった「心の柔軟性」も、上でお話した「認識」と深くかかわってきます。 ですから、ご質問に対するお答えとしましては、一般的な意味合いからすれば体外離脱も地上にいるときのような感覚だと言ってよいと思いますが、本当にそうなのかどうかは「認識」という問題が含まれているがゆえに、よくわからない、こうなります。
2010.09.12

以前、よくAさんと共同探索を週に1度させていただいていたんですが、古代の遺跡を訪ねていて興味深いと思った出来事がありました。それは、ストーンサークルのような環状列石と呼ばれる遺跡を訪ねていた時のことです。あれは、古代の祭祀場として用いられていたみたいなんですが、そのような場所には必ずと言っていいほど、エネルギーの供給源となる山がありました。そこからエネルギーを引き出して利用しつつ、ストーンサークルで祭祀を行うといった感じでした。 (写真はWikipediaからで、英湖水地方のスウェインサイド・スリーンサークルです。)http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200909070001/http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200905170000/ 古代では、自然との結びつきが現代以上に強かったみたいです。同時に、自然に対する畏怖心も古代人は持っていました。ですから、山や川、木、森、海、などといった自然そのものを崇拝していたみたいです。俗にアニミズムなどと言われることもあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0スピリチュアルな考え方では、こういった自然にも意識が宿っていることはほぼ常識ですが、このような感覚というのは、現代ではすでに失われてしまっています。ですが、日本では神社などを通じて、文化として自然崇拝が残されていることは驚くべきことだと言えます。神社でも、本殿がなく御神体である山を本殿として参拝させるところもあったりしますし。 木や森、山、島などに集合意識が宿るということは普通にあります。おそらくそれは、地球意識の表れなんだと思います。我々人間の体が数多くの細胞でできているように、地球意識も個々の意識が多数集まってできていて、木や森や山、島などに宿った意識は、地球意識の部分としての機能を持っています。へミシンク中にこのことを初めて学んだのは、亡くなった祖父からでした。 「植物というのは、「一部」が「全体」に対して貢献しているという意識が強い。植物は、たとえば木をみればわかるように、ひとつの太い幹にいくつもの細い枝がつき、その細い枝には無数の葉っぱがついている。葉っぱは光合成をしてエネルギー源を木全体に送り届けているが、そのように「一部」が「全体」に対して貢献しているということを、一枚一枚の葉それぞれが意識している」http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/20000 このよう祖父から説明を受けました。つまり、葉っぱは木全体の部分であり、たった一枚の葉っぱが木全体のために貢献しているのだということでした。 古代人も、自然との結びつきが強かったがゆえに、一部が全体に貢献するという観念を失っていなかったのかもしれません。だからこそ、靄(もや)山での探索でご紹介したように、いわゆる生贄のような儀式があったのかもしれません。人間も自然の一部なんだという意識を持つことによって、自然環境を保護しようという意識は高まりやすくなりますから、より自然に自然環境を大切にしようという意識につながりやすくなる気がします。どうも人間というのは、自分のために地球が回っている、世界が存在していると誤解しがちです。実際には逆で、人間は地球に居させてもらっています。「仮住まい」なのです。 以前、マザーテレサはこのように言いました。「青い海、緑の森、これらを絶やしてはなりません。これらは母なる地球のものだからです。あなた方のものではありません。あなたがたは、やがて天へと帰るのです。束の間だけ母なる地球にいさせてもらっているだけなのです。」http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/18000 我々は、自分自身がどういう状況に置かれているのかを知る必要があります。自分中心に世界が動いているのではなくて、自分というのは、地球によって生かされている存在なのだということです。地球は何もしなくても私たちに恵みをたくさん与えてくれますね。新嘗祭に象徴されるようなコメの収穫の儀式は、カミ(地球意識)からコメ(命をつなぐもの)を与えられたことへの感謝を示しているように感じます。自然はあらゆる恵みを我々に与えてくれますが、我々はそのことに全く気付いていません。 2012年に向けて、人類はアセンションに向かいつつあるといわれていますが、今我々に必要なのは、自然を見つめなおし、大切にし、そこから自然によって生かされていることに感謝することではないかと思います。当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではない、このことに気づくことは、とても大きな意味を持っています。 自分と自然は分離しているように「見える」が、本来は一体であることに気づくことができるか。そこに、分離意識から統合意識(アセンション)へと向かうカギがあるような気がします。 (写真はWikipediaからで、神宮神田です)
2010.09.11
朝方、二ギハヤヒという人物に促されるようにコンタクトをとってみました。 この人物は、先日お話した籠(この)神社という非常に古い神社に代々伝えられていた最古の天皇家の系図に出てきます。この神社のすぐそばにある有名な天の橋立(あまのはしだて)は、もともとは籠神社の参道だったらしいです。以下、ご紹介したURLから引用します。http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai08.html 「この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。」 上で述べられているように、二ギハヤヒは丹波に天降ったとされているんですが、「天の磐船で天から降り、河内や大和のあたりを支配していたらしい」とされています。http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai09.htmlつまり、人間として古代において近畿地方に存在していた人物のようです。あとは、これを考えるもとになっている籠(この)神社の系図の信用性の問題になってきます。籠神社の神主は海部氏によって一子相伝のような形で代々継承されてきたことや、籠神社は伊勢神宮とのかかわりも深く、伊勢神宮とほぼ同じ唯一神明造りが本殿でつかわれていたりします。(http://www.motoise.jp/main/houmotu/suedama.html、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kono-jinja_Honden.JPG)また、籠神社がもともとあった場所には、伊勢神宮の外宮に祭っている豊受大神を本来祀ってあった場所があったりします。(籠神社の奥宮である真名井原と呼ばれた場所です。現在この地には真名井神社という神社があるそうです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE) さらに、籠神社の祭神の中に海神(わたつのかみ)がいたり、籠神社を代々神主として守る「海部」氏という名前、さらには、伝説として残る、古くから海女族(あまぞく)とも深いかかわりがあるとされていることとも関連してきます。実はこれが、伊勢神宮と深いかかわりのある二見浦で竜宮伝説が残されていたり、伊雑宮の宮司が語る「うちの神社は海女と深いかかわりがあるんです。」という言葉とも密接に関連してきます。籠神社と伊勢神宮とのかかわりはもっとあるんですが(位置関係等)、上で述べたことでもわかるように、様々な観点から伊勢神宮と密接な関係にあり、しかも代々伝えてきた海部氏の系図であることから考えても、二ギハヤヒという人物のある程度の裏付けは取れるように思います。 前置きが長くなりましたが(笑)、私はふと今朝、二ギハヤヒとコンタクトをとるようにという神示を受けました。内容的には大したことがないのですが、二ギハヤヒが仮に人間だったとしても、私にはもう神のように進化していると感じられました。その雰囲気もさることながら、話がほとんど通じないのです(笑)。私のガイドを通して伝えられたのは、以下のようなことでした。 実は、アマテラスという人格神が登場したのは、わりと最近になってからのことなのだとか。最近といっても2000年くらいは経っているのですが(笑)、少なくとも二ギハヤヒが生きていた時代には、アマテラスという人格神は存在しなかったのだそうです。人格神は存在しなかったのですが、太陽を神として崇める信仰(太陽信仰)は常に存在していたそうです。その辺の説明が奇妙かつ面白くて、当時の人々の心の中には、「常に」太陽に対する崇拝の念があったのだそうです。自分の心の中に常に太陽神がいるのだと心の底でだれもが思っている、そんな感じです。それは普段、口に出して言わなくてもです。どこか私には、当時の人がまだ太陽神とのつながりを物質レベルだけでなく非物質レベルでも感じ取っていたのだということを直感的に感じ取っていました。二ギハヤヒの説明を受けながら。 ですから、当然二ギハヤヒも太陽神に対する畏敬の念を持っていたわけですが、現代の私たちがアマテラスに対して持つ畏敬の念とは微妙ですがちょっと違っていたわけです。古代の人々は、太陽神を人格化せずに、ストレートに太陽に宿る神の存在を感じ取っていて、それを心の中で無意識に敬っていた、こんな感じだからです。 あとは、禁足地(きんそくち)についての説明も受けました。いわゆる聖地とよばれるところで人間が立ち入ってはならないとされている場所です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E3%81%AE%E8%97%AA%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9A 二ギハヤヒから得た説明は意外なものでした。伝わってくる印象では、二ギハヤヒがいた時代には禁足地という概念は存在しなかったらしく(もちろん、身分的な事情で立ち入れなかった場所も人によってはあるとは思いますが)、どうやらそれは、古代の聖地を後世に残し伝えるために後世の人が考え出した概念のような印象を受けました。こんな印象を私に伝えてきました。「許可された者は自由に入っていいのだ。」 ただ、この「許可された者」というのが微妙で、要するに二ギハヤヒが現代に生きる私たちに言いたいのは、そのような聖地に入れるだけの霊格を備えたものならば入ってもよろしいという意味だと私は受け取りました。つまり、やはり普通の人は入れないわけです。誤解を招くといけませんので、これ以上は言葉を控えたいと思います。 聖地を後世に残し伝えるというのはとても重要なことです。それを無条件にすべての人に公開してしまうのは、現段階の人々の意識レベルを考慮すれば、やはりマイナス面のほうが大きいということは言えると思います。多くの人の想念にさらされれば、それだけその場が汚れますしね。それを上回るだけの真剣な神祭りを多くの神官によってなされているところなら別です。あくまで個人的な考えを述べさせていただくとすれば、この聖地を敬うという姿勢はとても大切な気がします。聖地を敬うというのは、自分自身を敬うことにほかなりませんから。以上が二ギハヤヒとの交信結果です。 とても興味深いことを2点聞かされました。太陽信仰の本来の姿と、禁足地についてです。現代の私たちにとってとても重要な話だと思います。
2010.09.11
悩んでいるときには、誰かに頼りたくなるものです。ましてや、それが本人にとって解決不能なことに思えることならなおさらです。病気、職場・学校・家庭での人間関係、その他もろもろの悩み、等々。 そんなとき、何十万を払って占いをする人に頼ったり・・・あるいは、耳触りがいい「スピリチュアル・カウンセラー」と名乗る人のところに行ったり・・・あるいは、何か素晴らしい力で癒してくれるというヒーリングを受けに行ったり・・・とにかく、人間というものは、弱いものです。でも、それでは根本的な解決にはならないことに気付くことが大切だと思います。 釈尊いわく、「悩みとは期待と現実とが食い違うことからくるのだ」と。あるいはこうも言えるかもしれません。悩んでいるときは、現在ではなく、過去や未来ばかり見つめているのだと。現在を見つめましょう。「いまここ」に生きられるだけでも幸せです。隣にいる人に巡り合えただけでも幸せです。その小さな(本当は小さくない)幸せを、私たちは当たり前のことだと考えてしまいます。 でも違うんですよね。今の生活というのは、自分で選んで決めたことです。たとえそれがどんなに小さなことでも。必ず誰にでもあると思います。自分で選んで決めたことなのですから、そこに必ず幸せがあると思います。未来ではなく。 今ここに生きましょう。なぜなら、今ここに生きるために生まれてきたのですから。過去を振り返ったり、未来を夢見たりではなく。「今があるから」未来があるのであり、「今の積み重ねが」過去になるのですから。私たちのフォーカスすべきポイントは、つねに「今」にあります。 ためしに、ご自分の両手を見つめてみてください。生きているから、そうやって手を見つめることができ、生きているから、そうやって手を動かせるのです。手だけではありません。自分の体を動かすことができます。自分だけではなく、他人のためにも。他人のために働くというのは、自分のために働くことにほかなりません。 その昔、人類の個別意識がまだ未分化だった時、我々にとっての他人とは自分であり、自分は他人の一部だという意識がありました。現代ではそのような感覚はすでに失われていますが、やがて人類は、今の高度な社会を維持したまま、感謝想起をきっかけにして、深い愛に根差した行為に目覚めるといわれています。今がその分かれ目なのです。分離のままでいくか。それとも、統合の道へと進むか。そういった統合への道こそ、アセンションにほかなりません。 今ここに生かされていることに感謝すること。それをきっかけにして、強力に内在する神的部分に目が向かいます。「その目で」、他人を見つめてみてください。周りを見つめてみてください。自分を見つめてみてください。 与えられるのを待つだけでなく、自ら与えられる人間になりたいですね。それこそが、巡り巡って自分に返ってくる唯一の方法なのですから。因果の法則です。その自然法則に一切の例外はありません。 「今ここ」に生きましょう。今ここに生きられる幸せを感じてみてください。自分だけではなく、他人のためにも生きましょう。与えられるのを待つだけではなく、自ら与えましょう。何を与えるのでしょうか?神性さに根差した行為―やさしさ・慈愛、喜び―です。たった一人にでも喜びを与えられたら、それは素晴らしいことだと思います。それが、結局は自分のためにもなるのですから。
2010.09.09
今日の夜の入浴中のことです。あるビジョンを見ました。それは、静かで広い原っぱのようなところに、縄文時代のような家がぽつんぽつんと立っていて、人々が外で何かをしているような光景でした。非常にのどかで平和な空気が漂っています。ちょうどこんな感じでした(画像に矢印を合わせた状態で左クリックで拡大してご覧ください。)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/f/f4/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1.JPG 直観的に私は、そこが現代の伊雑宮(いざわのみや)周辺に相当する場所であることがわかりました。伊勢神宮の別宮と呼ばれているところです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Izawa-no-miya_01.JPGこのあたりは、縄文時代の古くから人々が生活していたようです。幣立神宮の探索でみたように、次元的な断絶がある可能性はありますが、すくなくとも霊的にはムー大陸の流れをくむ人々であると感じます。ムー大陸時代には、今の日本はまだ存在していなかったようですが、部分的には存在していました。その一部に人が住んでいたようです。深い情報取得はできませんでしたが、ほぼ瞬間的なインスピレーションという形でその光景を感じ取りました。太陽信仰の名残りは、超古代日本においてすでに存在していたのかもしれませんね。 それからかなりの年月が流れて日本列島が誕生し、そこで様々な文化が生まれ、新興勢力が誕生し、様々な栄枯盛衰がありました。それは、歴史を見てもわかります。私は知らなかったんですが、最近の古代史、特に邪馬台国や卑弥呼をめぐる歴史学上の研究は進んでいて、邪馬台国では畿内説が有力なんだそうです。私も全くの予備知識なしで自力でリーディングした結果、邪馬台国は畿内、それも今の奈良だという結論を導き出していました。卑弥呼については、私自身は明確な結論を出せなかったんですが、紀元前100年頃において、全国(畿内から九州あたりを多数の赤い点で示されました)で150名くらいの巫女さんがいたという情報を得ました。これに関して、最近の考古学上、畿内の歴史は予想以上に古く、以前言われていた紀元後ではなく、紀元前100年頃にすでにかなり栄えていたという研究結果があり、しかも、当時は、小さなクニが約100くらいあったのだそうです。 当時の政治が宗教的祭事と密接だったという点も裏付けが取れましたから、もしかしたら100あまりあるクニそれぞれに重要な巫女がいた可能性もあります。その中でも最も権力をもっていたのが、いわゆる卑弥呼と呼ばれる女性です。最近の調査では、卑弥呼の墓として有力な古墳まで特定されているそうです。これについても、私は独自に、卑弥呼の墓が前方後円墳であると聞かされていました。 あと、前回お話した天孫降臨の場所が葦原中津国であるということについても、興味深い事実がわかりました。これも事後的にネットで調べたんですが、1975年に、籠神社(このじんじゃ)というところで、最古の天皇家の系図が発見されたそうなんですが、その中で、実は天孫降臨にはもう一つあって、高千穂以外にも丹波(京都の北)もそうだというのです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kono-jinja_Haiden.JPGそこでアマテラスの子孫が天降ったという記述があるそうです。私自身はリーディングで天孫降臨の地を「アシハラノチ」と聞いたんですが、Wikipediaによれば、葦原中つ国にも諸説あって、その範囲は非常に広大らしいですから、もしかしたら丹波もそこに含まれている可能性があります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BDただ、最近のリーディングでは、明確に「島根」だと告げられました。現代の島根、すなわち出雲地方です。実は、この出雲地方も最近すごい発見があったらしく、以前考えていたよりもはるかに古くから栄えていて、交易の場所でもあり、かなりの勢力を持っていたらしいのです。 また、この出雲地方には、九州系の天孫族(今の天皇家のもととなった勢力とされています)とは別に、独自の太陽信仰をもっていたとする説があります。この太陽信仰は、朝鮮半島南部に由来するもので、そのような太陽信仰の流れを組むものとしては、出雲地方の他に今の福井県の敦賀地方にも存在していたとされています。出雲系の勢力はかなり広範囲にわたっていたみたいです。出雲だけでなく、畿内や今の敦賀あたりまでです。仮に古代の出雲族の邪馬台国が、九州から来た天孫族の大和朝廷にとってかわったとしても、いわゆる天皇の系譜は維持されていますから、人間は変わっても万世一系の霊的系譜を維持することは可能です。つまり、政権や民族が入れ替わっても、太陽信仰そのものは維持されていたと見ることができます。 そのような太陽信仰があったからこそ、卑弥呼のようなシャーマンの女帝によって国の統一が可能でしたし、のちに政権が変わったとしても、天皇家の系譜を通じて太陽信仰は維持されていたと見ることは可能です。ですから、日本全国に疫病が蔓延して総人口の半分近くが減少した時に、かつての天孫族と出雲族との争いの際の祟りが原因だとして、出雲系の神様と天孫系の神様を明確に仕分けするような政策がシャーマンの啓示に基づいてなされましたが、結果的にみれば、太陽信仰それ自体は常に維持されてきた、このように考えることができます。それが、元伊勢と呼ばれる京都や各地をアマテラスの魂が流転した後、最終的に今の伊勢の地に遷宮されるという形になりました。 今お話しているのは、最新の考古学の研究成果に基づいたものです。ですが、驚くのは、そういった知識なしに、リーディングでそれに近い流れの啓示を得ていたことです。前回お話した、万世一系の神気の系譜が、葦原中津国に天降った後、邪馬台国(畿内)を経て、最終的に伊勢(伊雑宮)にまで遷ったという点です。以上が、今回天孫降臨にまつわるリーディング結果に対して裏付けをとってみた結果です。 まとめると、入浴中に見たビジョンが正しければ、太陽信仰は超古代から続くもので、それは霊的系譜からみればムー大陸から来ており、伊雑宮の地は土着の人々によってそれを継承されていた印象があります。他方で、太陽信仰には他にも流れがあって、大陸系からの渡来人によってもたらされたものもありました。(もしかしたら、それは超古代に日本で生まれたものが大陸に伝わり、逆にそれが日本に伝わってきたものかもしれません。「カタカムナ」などにそれを思わせる記載があります)それは、古代出雲や丹波の地で伝承され、出雲系の人々によって広範囲にわたって広まっていました。そこに、九州から来た新興勢力(天孫族)によって、政権の奪取があり、出雲族から天孫族へと政権が移りました(邪馬台国から大和政権へ)。その後、両族の対立時に生まれた怨念回避のために、両族の神々を分離し、天孫系の神々(アマテラス)は伊勢の地に遷されました。つまり、伊勢(伊雑宮)の太陽信仰は、もともとあったものに加えて、新たに伝来したものが融合する形で伊勢(伊雑宮)の地に収まりました。(もし興味のある方は、下のURLを読んでみてください。上でお話してきたことが非常によくまとまっていてわかりやすいです。)http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamataikoku.html
2010.09.08
伊雑宮(いざわのみや)が元伊勢の一つだとする面白いレポートがありました。http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/51291279.html# この上のURLなんですけど、そこに、伊雑宮が元伊勢21番目の「伊蘇宮」(いそみや) だとする説を提唱してるんです。 (元伊勢については、このURLの下の方を見てください)http://kammuri.com/s1/motoise/index.htm しかも、伊雑宮の宮司さんの言い方が意味深で、 伊雑宮の神様は公には一切公表されていないらしいんですけど、 「海女(アマ)とこの神社との関係は深いんです。」などと言ったりするそうです。 レポートにもありますが、海女がこの地域で危険な海域に潜る時、六茫星のマークを付けて潜るのだとか。 六茫星は、伊雑宮の神紋であるという説があるようです。 ここでちょっと興味深いお話を。先日、卑弥呼と名乗る存在と交信した時のレポートをお話しましたが、その存在とは、倭姫命(やまとひめのみこと:ヤマトタケル命の叔母)だと感じます。実は、この人物に会ったのは卑弥呼としてだけではなく、以前にもヤマトタケル姫という形で出会っていたように思います。http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200904090000/この人物に三度(みたび)再会し、私にあるメッセージを伝えてきました。 それによれば、伊勢神宮の神気は、もともとあの場所にあったのではなく、本来の神気の流れからすれば、伊雑宮だというのです。しかし、そのことは伊勢白山道さんや他の方もおっしゃっていますから、私としては別に真新しいことではなかったのですが、とにかくそのことを私に伝えてほしいというのです。倭姫命が言うには、もともとの神気の流れは、前回調査した三輪山付近に始まるのではなく、もっと古くは、幣立神宮時代にさかのぼります。時代の断絶を経たのち、万世一系の神気は今でいう島根の地に天降り立ちました。私はこれを聞いた時、もしかして出雲大社かなと思いました。ですが、その真偽は定かではありません。しかし、倭姫命が伝えるところによれば、島根の地に降り立った神気は、シャーマンである人間の力を借りつつ、東のほうに遷られました。もともとの神気の流れは、こうして出雲地方から東へ東へと遷移していったというのです。 これに関しては、私も半信半疑というか、全く歴史的知識もありませんし、正直わかりません。というか、私には、出雲大社という存在がまだよくわかっていないのでした。ただ、出雲大社に降り立つ神気は本物だと感じました。あくまでも写真を通して感じられる印象ですが、出雲大社からも強い神気を感じます。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:IzumoTaisha-honden.JPG リーディング後に調べてみると、出雲大社の神紋に伊雑宮の神紋と伝えられる六茫星と類似点が見られました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mon-_Izumo_taisha.pngまた、出雲大社が歴史的にはアマテラスと深いかかわりがあるということもわかりました。http://www.highlight.jp/izumooyashiro/06.html それにしても、伊雑宮が昔から政策的な理由から迫害されてきたという事実には驚かされます。だからなのかもしれません。現在でも、伊雑宮の神官が、御祭神をひた隠しにしたり、倭姫命と名乗る存在が私に、本来の万世一系の神気は現在の伊勢神宮ではなく、伊雑宮の地に降り立つのだということを告げてきたのは。ただ、仮にそうだとしても、伊勢神宮(伊雑宮)と出雲大社との関係というのがいまいちよくわからなかったりします。 以前、伊勢神宮と出雲大社とは、表と裏の関係にあるのだということを言われたことがありましたが。仮にです、最古の神社といわれる幣立神宮の創建時とそれ以降との間に次元的な断裂があったとして、以前へミシンク中に言われたようにアシハラノチ(葦原中津国)に天降り、それが出雲だったとすれば、今回倭姫命と名乗る存在から言われたことと妙に整合性を帯びてきます。(葦原中津国の位置については諸説あるようです)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD その場合、天孫降臨の地は、葦原中津国(出雲)であり、それから邪馬台国(畿内)、そして伊雑宮へと神気が遷っていったという一つの流れが出来上がってきます。あくまでもimimi説です(笑)。今まで私はずっと表(伊勢)しか見ていませんでした。ですが、もしかして裏(出雲)も重要なのでは?と思い始めています。ただ、出雲には今年は行けないだろうな~(笑)でも、来年あたりに行けたら行きたいな~なんて思っています。
2010.09.07

生きとし生けるものすべてに共通すること、それは、「愛によってはぐくまれている」ということです。多次元的にみて唯一リアリティのあるものは、愛だとされています。より拡大すれば、愛だけでなく神性さの発現は皆リアリティを持つと言っていいように思います。 喜びそのものといった生命力の発現や、思いやりや優しさといった慈悲心の現れ、さらには、知性や創造性の発揮といった神的部分の発現、あらゆる直感や叡智といった万物を創造せしめる霊的働き、そういったものが、リアリティのある、死してもなお経験として積み重ねていく上で、本来の私たちの進化にとってなくてはならないものです。 かつてシルバーバーチは、愛とは宇宙最大の力をもつものだとしました。その愛の力よって、地球人類に協力すべく、神のように進化した多数の存在達をこの地球圏に接近せしめているのだといいます。本来は、もう地球圏になど接近する必要のない存在達が、同じように「すべてなるもの」の一部である地球人類のために力を貸すように気持ちを向けさせるもの、それが愛だといいます。 あるいは、こうも言えると思います。愛とは我々そのものなのだと。愛はエネルギーであり、われわれもエネルギーとしての本質を持っています。その根源力となるものはすべて、「すべてなるもの」(=創造主)に由来します。ですから、生きとし生けるものすべては愛によってはぐくまれていますし、もっと言えば、それらはすべて、愛の発現である、こうも言えると思います。人間、動物、植物、惑星、恒星、銀河、宇宙。すべて愛がカタチを伴って顕現したものです。 我々は生きていくうえで、様々な経験をします。それは、楽しいことばかりではなく、つらいことかもしれませんし、悲しいことかもしれません。でも、どんな時でも、「私たちは愛そのものである」ということを忘れないでいただきたいです。たとえ人間がどう思おうとも、その霊的真実だけは不変なのです。 そうはいっても、困難に直面しているときには、どうすればいいのか分からなくなる時があります。そんなときはどうすればいいのでしょうか? 心静かに自分自身を見つめてください。万物に対峙し、そこに自らの神性さの現れを発見するなかで、静かに自己と対話してみてください。魂の奥からのインスピレーションに従ってみてください。そこで、あなたにとっての必要な導きが必ず得られます。 上で述べた万物とは、森羅万象のすべてです。外的事象は内的精神の現れですから、自分自身と向き合うこととは、これすなわち、森羅万象の中に自らを見出すことにほかなりません。 具体的には次のようにされるといいかもしれません。普段通りの生活をしていく中で、人と人との言葉によるコミュニケーションを通したふれあいの中で、相手の中に神性さを発見するようにします。仕事や学校、家庭、あるいはプライベートでの人ととのかかわりの中において。あるいは、自然と対峙するのもいいかもしれません。自然とは、より大きな自分、地球意識の現れですから。草花、木々、土、水、風の動き、そういったものを五感を通して感じてみてください。あるいは動物と接してみてください。動物の純粋さは、人を癒します。忙しさのあまり人が忘れかけているものを思い出させてくれます。あるいは忙しくて時間がないという方。少しの間、たとえそれがほんの数分であったとしてもかまいません、実際に自然に触れられなくても、想像してリラックスしてみてください。我々には、想像力によって体験することができるという叡智も備わっています。 森羅万象に自分自身を見出せるとき、人ははじめて自分自身の神性さに気付けます。すると、その瞬間、世界を見つめる目が変わります。他人を見つめる目が変わります。それは、他人の中に自分と同じ神性な部分を見るからです。 ご自分がしてほしいことを、他人にもしてあげてください。どんな些細なことであってもかまいません。それはとりもなおさず、自分自身に対するやさしさにほかなりません。なぜなら、そういった愛の発現は、究極的には自分自身に対する行為にほかなりませんから。愛は与えれば必ず自分にも返ってきます。愛が欲しいと思われている方。まずはご自身で他人に愛を与えてみてください。 このように、分離ではなく統合の道を歩まれてみてください。そうすれば、必ず物事は好転し始めます。「思いが現実を変える」という法則は、ここにも表れています。 生きとし生けるものすべてに共通すること、それは、「愛によってはぐくまれている」ということです。ご自身が愛そのものであることを感じてみてください。 (写真はWikipediaからです)
2010.09.06
今回私が調べたのは、鳥見山周辺と、三輪山周辺です。なぜこの地を選んだかというと、前々回にお話したジョーマクモニ―グルの卑弥呼の話の中で、卑弥呼にゆかりのある近畿地方は鳥見山と三輪山だとされていたからです。なので、この2つの場所を選びました。ジョーマクモニ―グルによれば、鳥見山あたりは、卑弥呼の公的な祭祀場だったとのことです。 見えてきたのは、白装束を身にまとった集団でした。山を登っているような映像と、おそらくは、山を登りきったところの広々としたところで何かをしているような印象が感じられました。ですが、ジョーマクモニ―グルのいうような、公的な祭祀がなされていたかどうかは、よくわかりませんでした。 次に、三輪山周辺を見てみました。見えてきたのは、草原のようなところに、なんというか、質素な服を身にまとった女性が立っていて、私に一緒についてくるようにと促していました。女性は「ワカミヤ」と名乗り、このあたりは「イカルガ」と呼ばれる地域と深いかかわりがあること、「元伊勢」とも深いかかわりがあることなどと告げた後、私に「伊雑宮から参られたのですね。」などと告げました。また、別の時に、卑弥呼にゆかりのあるところへと意図してみると、神社から三輪山の奥へと入って行きました。その時見えたのは、卑弥呼と思われる女性が一人で祭祀をしている様子でした。あるいは、三輪山で多数の集団が祭祀をしていると思われる様子は、私にはわかりませんでした。 地図の上から見てみると、鳥見山と三輪山を結ぶ直線上には他にも山が連なっていて、イヤシロチの視点からみると、「タカミ」にあります。ですから、土地的には何ら問題はありませんし、古代の祭祀場だったという話も、まんざらでもないように思いました。ですが、エネルギー的にはイマイチかなという印象が少しだけありました。後ほどネット等で調べてみたところ、三輪山のふもとのあたりは、聖徳太子にゆかりのある古代の斑鳩地方にも近いですし、 また、三輪山のふもとにある大神神社の摂社には、元伊勢の一つと言われる檜原(ひばら)神社と呼ばれるところがありましたし、大神神社の摂社で「若宮社」というところもありました。また「伊雑宮から参られたのですね。」という意味も、私個人にとっては明確でした。つまり、この時期に、非物質的ではありますが鳥見山や三輪山地方を訪れる目的というのがあったように思いました。 それは、カタチとしては卑弥呼について調査するという目的でしたが、調査が目的というよりは、伊勢の神気を元伊勢に里帰りさせるという裏の目的があったのかもしれないと思いました。 なお、古代の祭祀場だったり元伊勢とされる場所がエネルギー的にはイマイチだった理由は、エネルギーもその時代とともに移り変わっていくものだからなのではないかと個人的には思っています。つまり、現代においては、伊勢神宮が名実ともに最も神気に満ちた場所であるのだということです。ただ、そうはいっても、古代の場所も役割を担っていることには変わりなく、アマテラスのエネルギーを里帰りさせることが、国土のさらなる安定につながるのではないかとも思いました。実は公開できない部分も多く残念ですが、一応、今回をもって卑弥呼についてのリーディングを締めくくりたいと思います。 最後に、今回、三輪山周辺を探るにあたり、伊勢白山道さんのブログやコメントを参考にさせていただいたんですが(禁足地の話等)、それを調べている中で、とても興味深い話があったのでご紹介したいと思います。それは、邪馬台国や卑弥呼にまつわる話なんですが、前々回から2回にわたってお話してきた邪馬台国や卑弥呼、そして以前お話したムー大陸についての私のリーディング内容と重なる部分があるのです。以下、伊勢白山道さんのブログとコメント欄から引用させていただきます。検索エンジンを利用させていただいたため、ブログの年月日が不明ですが、ご了承ください。 「この当時のヤマタイコクは、 白山の近辺に在りました。今の福井県から石川県辺りが、中心になります。山々に囲まれた大国=ヤマタイコク です。白山王朝が外国の異民族に急襲された後、異民族が北陸を拠点にして、日本人の中に混ざっていったようです。そして中国大陸からの人と文化の流れがあったようです。オロチとは、中国大陸から来た民族の呼称です。霊聴では、オルシェ族とも感じ取れます。このヤマタイコクは、後に現在の奈良県あたりに存在した邪馬台国へと変わります。」 「天照太御神が、皇女である倭姫命の背中におぶさり、初めて伊勢の地へ辿り着いた時、皇女へ伝えました。 「この神風の伊勢の国は 常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり、傍国(かたくに)の美し(うまし)国なり、この国に居らまく欲し」 (日本書紀より)・・・天照太御神が伝えたのは、「太平洋からの風が吹き付ける、この伊勢の地域は、太古に太平洋上に存在した、常世(国常立太神)の国(ムー大陸)からの残存波動の風が、繰り返し浪の様に打ち寄せる地域です。国常立太神との美しい思い出に浸れる、この地域に居たい」 ・・・と、言う事でした。天照太御神と国常立太神は、陰陽の夫婦の原点を構成させたエネルギー体でもあります。 地球創世記に白山で形成された、溶岩が冷え固まって出来る柱状摂理石の石柱の1本が、ムー大陸へ運ばれ、太陽信仰の寄り代石となり、太陽神=天照太御神が祭られていました。その時代は、国常立太神が直接に現実界へ影響して治める平和な楽園の様な時代が長く続いていたようです。ただ、何時まで経っても楽園のままで、変化成長が人類に起こらなかったのです。それから時代が経ち、ムー大陸の沈下の前に太陽神の石柱は、現在の伊勢伊雑宮の地下に埋められています。そして、伊勢神宮外宮には、国常立太神が鎮まっております。 そして近年、2千年ほど前に奈良の 三輪山から京都近辺を太古の因縁の為に、皇女の神巫女に霊線を張り巡らせて、最終的に元の居るべき場所、伊勢に天照太御神は戻り鎮まりました。」 「・・・古代の伊勢の人口の大半は、外宮の前の地域にしか居なくて、内宮の辺りは森だったのです。外宮のある山田地区には、縄文遺跡や竪穴式住居遺跡が出るはずです。山田と言う地名は、「やまだ」←「やーまだ」←「やーまたい」←「やまたいの国」の「1つ」だったのです。(邪馬台国の呼称の原型である。魏志倭人伝の指す時代の邪馬台国は、奈良 三輪山近辺を首都として、伊勢から熊野地方全域が邪馬台国であった) 天照太御神の分神(8段目)が、皇女倭姫命の背中におんぶされて現在の内宮に来られた時代から、内宮近辺が新しく造成されました。奈良から来た特権階級の氏族が中心となり、現在の宇治地区が出来たのです。氏=うじ=宇治だと感じます。 伊勢に古来から住んでいた土着の信仰を持つ山田地区と、貴族集団が住む宇治地区は、川を挟んで長い時代に渡り対立があったと感じます。ここにも、国津神と天津神の対立の転写が有ったと言えます。山田地区の古代人は、山を越えた海側の同じく白山の2本目の石柱を守る磯部地区(伊雑宮の信者)の住人とは交流していました。神霊が今の時代に明かしてくれた太古の光景を観ながら、別宮である瀧原宮へと向かいました。」 「九州との交流はありましたが、邪馬台国は奈良 三輪山のあたりです。九州の地名は、後付けです。卑弥呼は、役職階級名称であり何人も存在しました。倭姫命も、卑弥呼の一人です。」 「・・・大昔の神道系の文献や古神道の奥義書では、神様の事を「長物、ながもの」と表現する記述がかなり見られます。伊勢神宮の内宮にも、毎夜のように五十鈴川から這い上がり体を引きずりながら内宮本殿に向かう長物の記述が文献に在ります。自然界で長い物と言えば蛇です。奈良 三輪山の信仰でも蛇は古来から尊重されています。その理由は、長い物の象徴だったから、たまたま蛇も尊重されたと感じます。神霊のエナジー体が起こり移動する時、大きな蛇の様にクネり渦巻ながら移動する様を霊視して、蛇をその象徴としたとも言えます。リーデイングで読みますと、超太古の白山信仰が隠された後、次に古いのは 三輪山の信仰です。現存する中では日本で最も古い信仰の場所が 三輪山です。神官である女王、卑弥呼=日見子(ヒミコは神官の役職名です。五代ほど継続されました)も毎日の様に 三輪山に上り、日拝した様を感じます。」
2010.09.04
前回の記事は自分でも不十分と感じていましたので、もう少し卑弥呼について調べてみることにしました。着いたのは、静かな感じのする住居のある場所でした。50坪くらいの敷地に塀で囲まれた建物がたっています。建物の外観まではよくわかりません。一人の女性と思われる人物が現れてきました。卑弥呼のようです。一人で住んでいるようです。彼女は今でいうところの公務員のような仕事をしているらしいです。公務員兼占い師という感じでしょうか(笑)。当時の政治は宗教と常にセットと言った感じだったみたいです。まずは、宗教的に占い、その後、それに従い政治を行うと言った感じです。当時、地域としてもっとも勢力が盛んで栄えていたと思われる地域は、「畿内(きない)」でした。ここがいわゆる「邪馬台国」だったそうです。 当時、重要な巫女さんは全国で150~200人くらい存在していました。その多くは、ムー大陸時代の人々が転生してきていました。新たな文明が誕生したのち、魂だけこの時代に転生してきていた、そんな感じです。肉体的な先祖からのつながりはない感じでした。(そのうち、現代にも何人かが転生してきています。私もその一人なんだとか。目の前にいる女性のシャーマンがおそらく私の過去生のようです)宗教儀式として性魔術的なものを取り入れていた地域もあったそうですが、全部ではなかったようです。ちなみに、私と関わりの深い巫女さんは、今でいうところの九州北部にいたみたいです。紀元前100年くらいの話です。 当時日本に居た人は、渡来人が多く、初めに九州に上陸し、その後畿内地方へと進出していったみたいです。なお、先ほど巫女さんがムー時代から転生してきたと述べましたが、あくまでそれは意識の系譜の話です。ムー時代と現代の大陸の関係とは一応切り離して考える必要があるようです。また、アマテラスとシャーマンの関係は直接的にはなさそうです。巫女の役割はあくまで政治を補佐することにありました。アマテラスのエネルギーは当時日本には固定的な場所には降りてきていなかったという印象がありました。最初に降りてきたのは、畿内地方だそうです。九州ではなく。今から約13000年前くらいに、次元的な大きな断絶が感じられます。つまり、以前お話した弊立神宮の創建の頃とは次元的、時代的に断絶があるということです。弊立神宮の非物質的なエネルギーフィールドはアセンションしたことによってこのC1次元との間に大きな隔たりが生じたため、アマテラスのエネルギーが初めて日本に降り立ったのは、畿内地方もしくはその周辺、こういうことみたいです。高千穂の天孫降臨の伝説は、おそらくは弊立時代からの言い伝えなのかもしれませんね。余談ですが、以前、高次にいわゆる天孫降臨の地を訪ねたところ、「アシハラノチ」だと言われたことがありました。http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200904010000/ (この点、Wikipediaによると、葦原中国(あしはらのなかつくに)は吉備国(今の岡山、広島、兵庫、香川あたりである可能性があるそうです。)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%BD 話を戻すと、約13000年から後の時代に今の日本につながる文明が誕生しました。それは渡来人の流れです。つまり、万世一系システムのエネルギー的な流れにしても、弊立て神宮とは直接的なつながりはなさそうです。ちなみに、現代のエネルギー的な流れにおいて最も神聖な場所は伊勢神宮で、「伊雑宮」だと言われました。 巫女さんに儀式の様子を見せてもらいました。巫女さんが神殿に向かって祈りをささげ神示を得たのち、それを受取に来た役人に伝えています。その当時、巫女がいた場所は、前述のように公的な占い場のようなところでした。役人は巫女さんの出したその神示をもとに政治をしていました。神示を授かる建物は「高見櫓(たかみやぐら)」とでもいうような高いところで行われていたようです。それは、高いところのほうがより神の領域に近いからという観念が影響していたようでした。感じとしては、こんな建物です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:YoshinogariIseki.jpg (上の写真は、吉野ヶ里遺跡にある物見櫓です。)わりと質素な建物が、高い4本柱のよって上のほうへ引き上げられているといったような。 巫女さんは20~30代くらいで、白っぽい服装をしています。髪は結ってある感じで、長く垂れてはいません。この人物は、去年会った卑弥呼と名乗る女性のようです。髪の結い方に特徴があり、以前見た時は、頭の両脇にクルンと巻きつけるような感じだったと記憶しています。巫女さんですから多次元的感覚が発達していますから、私とおそらくはI/Tメンバーである彼女は、私が彼女に会いにいくことが事前に分かっていたのかもしれません。以上でした。 次回は、卑弥呼とゆかりのあるとされる場所にフォーカスしてさらにリーディングしてみたいと思います。具体的には、今回卑弥呼と名乗る女性から言われた、巫女の活躍が最も顕著だったとされる奈良あたりを中心に調べてみたいと思っています。
2010.09.02
今日は過去の記事で気になるものからご紹介したいと思います。2009.6.2の卑弥呼についての記事からです。以前は非公開としていた部分も合わせて公開したいと思います。「今日は、Aさんと一緒に邪馬台国に行って卑弥呼に会おうと言う計画です。ガイドのルシアさんとまるの日カフェへと向かい、Aさんに会いました。私はAさんと握手し、その後ルシアさんがAさんとハグされていたと思います。みんなでクリスタルで充電した後、卑弥呼のいる場所まで向かいました。割とこじんまりした昔風の神殿?が見えてきました。ちょっと風変わりな服装をした女性がいます。卑弥呼のようです。卑弥呼に邪馬台国はどこに合ったのかと聞くと、九州だと言われました。えっ、でもジョーマクモニーグルは確か別の場所だと言っていた気が・・・今何をしているのかと聞くと、手紙を書いていると。なんで?って感じですけど・・・手紙を書くこと自体が、何か仕事だったみたいです。外交か何かでしょうか。通信手段が発達していなかった時代ですから。彼女はやはり政治家みたいな感じで、占いのようなことをして日々様々なことを占っていたみたいです。彼女には夫が十数人(もしくは数十人?)いて、より多くの男性と交わることで霊的な能力を維持しようとしていたみたいです。特別な能力からか彼女も男性を強く求めていたし、男性は男性で卑弥呼と交わることはすごく名誉なことだったみたいです。彼女が何歳くらいまでいきたのか、ちょっと特定できませんでした。40代、あるいは50代後半まで生きた可能性があります。今日も、意識状態はあまりよくなく、以上のような感じでした。卑弥呼に会うのすごく楽しみにしていたのですが、いざ会ってみると何を聞いていいのかわからなくなったのもあります。もっと情報整理しておくべきでした。あと、歴史上、卑弥呼は何人かいたみたいですね。」 今回私は、一番古い時代の卑弥呼に会いたいと意図していましたので、九州の卑弥呼に会ったのかもしれません。最近、ニュースで卑弥呼の墓か何かが見つかったと報道されていましたが、あの卑弥呼も歴史上の卑弥呼の一人なんでしょうね。ジョーマクモ二ーグルが言っていた卑弥呼の墓も、それとは別の場所だったように思います。ジョーマクモニーグルによれば、卑弥呼には夫も子供もおらず生涯孤独だったとのことですが、私のリーディングによれば、卑弥呼は宗教儀式として男女間の交流を用いていたということでした。この点が決定的に違います。また、卑弥呼が音的に「日(の)巫女」を表しているのではないかとも思われ、ジョーマクモニーグルの卑弥呼の透視をまとめた動画では(YouTubeで検索すれば出てきます)、卑弥呼がアマテラスとの交流があったのではないかという点を示唆しています。これについては、前回は調べきれませんでした。ただ、卑弥呼の先祖が代々シャーマンだったのではないかとされており、その点からみてアマテラスのエネルギーと交信できた可能性はあるように思います。ですが、卑弥呼自身をリーディングした限りでは、アマテラスとの直接的な関連性はないように感じました。卑弥呼は一人の人間としての側面が強かったです。また近いうちに、卑弥呼をリーディングすることが許されれば、続きを見てみたいと思っています。最後に。卑弥呼が主に祭祀場としていたのは、今の奈良のあたりらしいです。いくつかの映像を見せてもらったんですが、かなり広々とした感じでした。
2010.09.02
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