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質問なのですが、自分がヘミシンクを始める少し前の話なのですが、霊視の出来る友人Kクンと自縛霊の取り付いたNクンを助けようとしていたとき、KクンがNクンに取り付いている自縛霊の後ろにやはり黒幕のような存在の呪術師の霊を見つけました。そこから、その黒幕はKクンにまで攻撃を仕掛け、Kクンの霊体や先祖達の霊を地獄のようなところへ連れて行き拷問を受けたといいます。神々の力をもってしてもどうにもならず、今は小康状態といいます。自分としては本人の思い込みか、恐れや恐怖が生み出した幻影ではないかと思っているのですが、霊視が出来るというKクンに対して見えない自分が言っても説得力がありません。そのような存在は本当にいるのでしょうか?ちなみに、Nクンに取り付いていた霊はプロの除霊師に払ってもらいましたが、その人も黒幕の呪術師については何も言わなかったそうです。不躾な質問をお許しください。 そのような存在というのは、黒幕(のような存在の呪術師)でしょうか。いわゆる二元性の世界(我々が住んでいる世界)においては、ダークサイドという存在がいることはいます。ですが、エネルギーバランスの問題であるとお考えください。性質の異なった二つのエネルギー(陽と陰)があって、一方がポジティブサイド、もう一方がネガティブサイド(ダークサイド)です。基本的には、それらに良い悪いという意味はないと考えてください。言い換えれば、役割分担の問題です。人間的な表現をすれば、天使の役を演じるか、それとも悪魔の役を演じるか、その程度に違いにすぎません。どちらも、必要性があって存在しています。 というか、分離して見えるのは、人間的な見方によるものにすぎず、本当はそのような分離は存在していません。人間的な見方ゆえに、ある存在がポジティブサイドに見えたり、ネガティブサイドに見えたりするだけです。ですが、私は普段のブログの記事では、便宜上、人間的なものの見方に基づいた表現をとっています。神仏、魔の存在といったように。ですが、今ここでお話しているのは、それらを超えたところに、別の真実があるということなんです。真実とは、我々にとってみればたった一つしか存在しませんよね?日本語的な言葉の意味からいって。ところが、非物質界においては、そうではないとされています。非物質界においては、真実とは常に相対的にしか把握できないという逆説的な意味を包含しているんです。 繰り返しますと、我々から見れば、確かにポジティブサイド、ネガティブサイドという区分が存在しています。ポジティブサイドが良い存在、ネガティブサイドが悪い存在です。ですが、我々の世界、そこでの価値観、ものの認識の仕方をはるかに超越した世界(非物質界)においては、ポジティブサイド、ネガティブサイドという区分はもはや存在せず、善、悪の価値基準もありません。ですから、ご質問が前者の立場に基づけば、ダークサイドのような黒幕が存在する可能性はゼロではありません。他方で、ご質問が後者の立場に基づけば、ダークサイドという区分自体ありませんから、そのような存在はいないということになります。 ちょっと上の議論を離れて(両方の見方がありうることはさておき)、我々の見方において割と起こりうる通常の選択で考えてみます。その場合、一般的な人の認識に近いのは、前者のほう、すなわち、世界は善と悪に二分されるという考え方だと思われます。つまり、その世界観においては、ポジティブサイドとネガティブサイドが存在します。つまり、ご質問における黒幕も存在します。ですが、この場合の黒幕(呪術師)は、その除霊にあたったKクンの潜在意識に基づいた想念が現実化したと捉えるべきではないかと思われます。というのも、あらゆる現実というのは、自分自身の想念によって生み出されたものだからです。非物質界では、それがより顕著に現れてきます。 確かに、除霊にあたったKクンが、Nクンにとりついていたとされる霊から何らかの影響を受けた可能性はあります。しかし、ここで私が言いたいのは、「Kクンがそれをどう認識しようと、それはKクンにとっての真実にすぎない。」ということです。実際に「Kクンの霊体や先祖達の霊を地獄のようなところへ連れて行き拷問を受けた」わけではないように思います。他方で、いわゆるスピリチュアル・カウンセラーと呼ばれる有料先生は、ある程度勉強していますから、地獄というところが当該人物の信念体系によって作り出された幻想にすぎないことを知っています。ですから、そういった世界観を持たないがために、Nクンを除霊した時にも、そのような黒幕の存在を知覚しなかったというだけのことにすぎません。 私がここで言いたいのは、非物質界においては、物事は常に相対的にしか把握できないということです。地獄があると思えばあるし、ないと思えばありません。ダークサイドがいると思えばいますし、いないと思えばいません。 ただし、たとえば私なんかは、現時点ではダークサイドは存在するという認識を持っていますから、ダークサイドに会おうと思えば会えますし、実際に救出活動も行ったことがかつてありました。その場合でも、神界の援助を受けているものであれば、ダークサイドにとらえられて拷問を受けるようなことはありません。たとえそれがサタンと呼ばれる強力な存在であったとしてもです。少なくとも、私の場合は一度もそういったことはありません。たとえ私が二元性(ポジティブサイド、ネガティブサイド)を認めているとしてもです。 一般的な価値観を持った方であれば、二元性を認めると思います。そのうえで、いわゆる有料先生なんかは、自分が悪霊を飛ばして自分のところに客を引き寄せておいて(ネガティブなエネルギーに感応させて)、その後いかにも自分の力で除霊したかのように見せ、高額な金銭を要求する場合もあります。いわゆる憑依は、「それを演じている」場合がほとんどなように思います。あるいは、「憑依されることを許可しているから憑依されている状態を自ら作り出している」と言っていいように思います。ですから、Nクンがプロの除霊師に頼んで払ってもらったとのことですが、それはその除霊師の力ではなく、「最終的にNクンが除霊されることを受け入れたから」なのだと思います。多次元的にみれば、現実とは、自分と自分の宇宙との関係にすぎません。自分以外の他人が自分の意識や魂に影響を及ぼすことはありえないのです。 他人に影響されるとすれば、それは、その影響される人が、影響された現実を受けいれたからなのだと思います。 ですから、ご質問へのお答えとしては、黒幕のような存在がいると思えばいるし、いないと思えばいません。また、いるとした場合であっても、神界からの援助を得ていると明確な認識を持っていれば、ダークサイドに翻弄されることはありません。ご質問にあるプロの除霊師が黒幕の存在に触れなかったのは、そのような黒幕の存在を認識・創造しなかったからであり、また、実際にNクンに除霊なる効果が及んだのも、その除霊師のパワーによるものではなく、Nクンが除霊されるという現実を受け入れたからだ、このように言えると思います。
2010.08.31

先日ご紹介した、山の中にある神社ですが(http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/201008140000/)、その御祭神の中にアマテラスがいました。私は行く前はそのことは全く知らなかったですし、あの時あの場所に行ったのも、なんとなくその必要性を感じたからなのです。今日、他の方のブログを拝見しまして、あ~そういったことは確かにあるものだなと私自身納得した次第です。 神社のもつ特有のエネルギーというのは、御祭神による影響もさることながら、「自分がどれだけその特定のエネルギーフィールドになじんだか」によっても随分と左右されてきます。たとえばですが、私の住む近くには北海道神宮というのがありますが、そこではもう何度も御柱建てをさせていただいています。(http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/201008140000/)そのためか、私が神社の境内に入った瞬間、あるいはその手前ぐらいから、自分の作ったエネルギーフィールドに強く反応し始めます。それによって、御祭神がアマテラスでなくても、アマテラスのエネルギーを強く感じますし、変性意識に入ればアマテラスをビジョンとして見ることもあります。 あとは、神社特有のエネルギー(神気)は、参拝する曜日や時間帯によっても大きく影響を受けたりします。人がいない時間帯、例えば早朝ですと、割と強い神気が感じられたりします。しかし、人の多い時間帯ですと、神社の神気は感じられにくくなってしまいます。高次のエネルギーというのは、それほど敏感なものなんですね。 場所に引き寄せられたという話に戻すと、私の場合は神社でしたが、人によっては、いわゆる魔の踏み切りのようなところに引き寄せられる場合もあるように思います。以前、救出活動で、魔の踏み切りで先に死んだ自殺者が他の人を呼び込んで自殺を促しているという場所がありました。(http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/14006) その時は、私はその場におそらくは地縛霊のような形でいた人を救出して、F27に向かいました。無事救出活動を終えた後、いつもの日課で自分のエネルギー分布をクリスタル内でチェックしていたんです。すると、背後から隠れるようにして存在していた男がにゅっと現れてきました。どうやら、その男が影の黒幕のような存在で、先に自殺したその男が、後から後からくる自殺者をその場で呼び込んでいたようでした。引き寄せられる存在からしてみれば、なぜそんなところで自殺したくなったのかわからないという感じだと思います。ですが、やはり「類は友を呼ぶ」んでしょうね。別の言い方をすれば、ネガティブな波動がさらにネガティブな波動を呼び、自殺者の道づれを増やしていた、こういうことなんだろうと思います。 人間というのは不思議なもので、本質的にはエネルギーとして存在しています。人と人との会話の中で言霊を発したり、あるいは、ただ生きて息をしているだけでも、エネルギーを出したり受け取ったりしています。誰でもです。エネルギーを与えたり与えられたりするのは、人間がエネルギーとしての本質を持っているからなのです。ですから、上でご紹介してきたように、自分がどのような波動を持っているかによって、神仏に引き寄せられたり、逆に、魔の存在に引き寄せられたりする場合があります。そういう場合もあるという話です。 よく、あの人がいると周りが明るくなるよね~などと言われたりすることもあります。また、多くは語らなくても、その人がそこにいるだけで場が心が和んだり、周りの雰囲気を和ませたりする人もいるかもしれません。そこにも、その人物が持つエネルギーの影響というものがある気がします。人間が、神仏に引き寄せられたり、逆に魔の存在に引き寄せられたりするのと同様に、自分の周りにいる人間にも、良い影響、悪い影響というのを感じさせるのが、人間なんだと思います。ただ、性格もそれぞれですから、何が良くて悪いというのは一概には言えませんから、自分らしくすごすというのがいいんでしょうね。 どんな時でも、生かされていることへの感謝の気持ちを忘れたくはないですね。その辺の、普段の日常生活でも活かせるようなごく当たり前の気づきが得られるのが、神社の参拝です。神前で、ただ感謝をしてみてください。神仏とはほかでもない、高次の自分です。神前で自分と向き合うことによって、普段忘れている謙虚さであったり、リラックスする気持ちであったり、ありがたい気持ちであったりといったことがよみがえってきます。ぜひ、神前で自分と向き合ってみてください。神仏に呼ばれるか、魔の存在に呼ばれるかは、自分で決められます。日々、内在する神我と向き合い、感謝の気持ちですごしましょう。(写真はすべてWikipediaからです。)
2010.08.30
人間というのは、長く生きれば生きるほど、純粋さというのを失っていく気がします。今日、ある亡くなられた方にお会いしたとき、その純粋さに心を打たれる思いでした。人が亡くなって向こうの世界に行くと、生前とは比べモノにならないくらいピュアになるようです。それは誰でもです。魂そのものになるからです。もっと言うと、魂の純粋さを取り戻すといったらいいんでしょうか。それは人間にとって大切なものの気がします。 先ほどお会いした方の場合、ものすごい純粋なエネルギーをもっていて、その方の意識にフォーカスしただけでハイハートセンターに強烈なエネルギーが来ました。エネルギーだけで言うと、神界のエネルギーを感じます。若くして亡くなられた方ですから、上のほうとの結び付きも強いのかもしれませんね。本当はその方にエネルギーを送りにいったのに、逆に直視できないくらいの強いエネルギーを私に投げ返してくれました。ほんのちょっとの出来事でしたが、その方は私に純粋さの大切さを教えてくださいました。 生きていると、つい忘れがちですもんね。今回のように若くして長い闘病生活の末亡くなった方の場合、意識の目覚めが早い方だと亡くなるとすぐに病気からも解放されるようです。その時のうれしさといったら、もうこの上ないという感じです。今回、縁のあった方にも、その嬉しさからくる純粋で強いエネルギーを感じました。その純粋さに、私は心を打たれたんです。年を重ねても、純粋さを失いたくないですね。その方は、それを私に教えてくれたんです。 生きることの喜び、これを多くの人は忘れてしまっています。まさにそれは、霊性そのものだと感じます。それはまさしく、ブログのトップページのセスの言葉にある、「意識の躍動」であり、「人格全体を鳴り響きわたらせて歌」っています。長い苦しみからようやく解放されて、今はもうとにかく、喜びに満ち溢れている。その喜びこそが、霊性そのものなんですね。それは、今ここに生きる上でとても大切なものです。 その原点に立ち返るためにも、生きていることへの感謝の気持ちが大切な気がします。それこそが、内在する神的部分へと意識が向かうためのきっかけとなるからです。それは、人間は愛そのものなんだということを思い出させてくれます。 どのへミシンクCDよりも強力に内在神に目を向かわせてくれるもの、それが感謝の心です。それは、本来の自分(内在神)と繋がるためのきっかけ・方法でもあります。そこに強力にセンタリングすることで、私は今まで数多くの救出活動にあたってきましたし、技術的な部分よりも、感謝の気持ちから強力に本来の自分にセンタリングしていくことのほうが、よっぽど大切なのだと私は考えています。これはおそらく、どの高額有料セミナーでもまだ教えられていないと思いますが、小手先のテクニックよりもとても重要なことなんです。 感謝の気持ちから、ハートチャクラに強力にセンタリングして、本来の自分とつながること。何よりも、「感謝の思い」が内在神とつながる上でとても大切だということです。ぜひそのことを念頭に置かれて、日々のへミシンクワーク、救出活動をされてみてください。
2010.08.29
>この世に生まれそれぞれ役割分担があるのならば、身近な例で私の妹は結婚してからいろいろとトラブルが多く、妹が仮に被害者でご主人が加害者としたら妹は過去においてこのご主人と逆に妹が加害者の立場であったかも?と考えられますが加害者の役割がいまひとつ分かりません。(加害者が以前は善人から逆になるのも・・・?)加害者(例~殺人者など)は承諾してこの世に生まれてきているのでしょうか?まず、加害者の役割がわからないということですが、例として出されている状況、すなわち、妹さんが被害者でそのご主人が加害者の場合に、過去生において妹さんが加害者でご主人が被害者だったかもしれないという状況も、他のありうる可能性のうちの一つにすぎず、絶対的なものではありません。その上で、加害者・被害者の役割ですが、これはセットとして把握されるのが通常ではないでしょうか。両方の気持ちが理解できて初めて深い理解が得られるというような。そういった意味では、加害者であろうと被害者であろうと、ある程度避けられない状況ならば、生まれる前から承諾して生まれてきている可能性はあるように思います。 ただそれも絶対的というわけではなく、我々には常に自由意思がありますから、その状況を努力次第で避けられるという可能性はあります。ですが、それもまた絶対ではなく、たとえば加害者・被害者という関係が生じうることが、どの確率的偶然の世界を考えても避けられないという場合もないとは言えません。状況次第ということなんでしょうね。ですから、一般論としてこうだとは一概に言えないわけです。 >ただこの解決方法の私の考え方は実際はなかなか出来ないですが、おそらく許すことだと。それが出来ないと来世も同じ課題が繰り返されるのではと思っています。離婚等によってその状況が避けられない場合、その状況を受け入れるという手段しかないわけですが、その場合には、おっしゃるように、許すという作業しかないように思います。この場合の許す対象は、何度か申し上げているように、相手ではなく、自分自身です。傷ついた(と自分が感じている)自分自身を体ごと許していくという作業を繰り返し行っていくことになります。以前お話したように、言霊の力を使ったり、ヒーリングをしたりですね。 >この世の悪として生まれて来ているは人はF21で何を学んでいるのでしょうか?まず、F21というのは、いわゆる三途の川と呼ばれているところでして、死者がここに長期間とどまることはないようです。幽界(F23、F24~26)あるいは、霊界(F27~35)と呼ばれる領域に移行します。この世で悪と呼ばれるような人が死後世界に帰って行った場合、基本的には自分自身で自分自身をさばくとされています。「なんて俺はひどいことをしたんだろう。」といった具合に。いわゆる地獄のようなところは存在せず、閻魔様もいません。あるのは、内在神による良心の導きだけです。自分で自分をさばくんです。自分のしてきた悪行に対してさいなまれている場合には、F23か信念体系領域(F24~26)にとどまります。それがある意味、その人にとっての地獄のようなものです。 しかし、多次元的にみれば、善、悪というのは幻想であり、それらは一種の同意に基づいた役割分担のような側面を持っていますから、良心がどれだけさばいても、最終的に自分自身を許すのも、自分以外にはいません。ある時、自分の良心が自分を許すという決断をした時、自分自身をそれまで縛り付けていた想念から解放され、初めて上の領域に進むことが許されます。状況にもよりますが、たとえばそれはF27であったり、信念体系領域にいた場合には、より振動数が上のレベルへと進む場合もあるようです。一気にF27に向かうのではなく。そのような判断というのは、最終的には広い意味での「自分」がするわけですが、パーソナリティにもより進化した「自分」がガイドとして常に付き添っていますから、より進化した「自分」との対話によって、自分自身で進化の道程を選択する余地が間接的に与えられていくように思います。 今の私に言えることは、次のことです。生前、悪と呼ばれた人が死後世界で最終的に学ぶことは、自分自身を解放へと向かう作業なのではないかということです。それらはすべて、内在神(良心)の導きによって、自分自身で決めてなされていきます。トータルセルフにはすべての事象が手に取るように見えていますが、当の犯罪等を犯したパーソナリティには見えていません。ですが、良心がありますし、死後人間は生前どんなに悪い人でも純粋な魂の面が強くなってきますから、良心の呵責にさいなまれます。その過程を一つ一つの場面においてきちんと向き合ったうえで、一つ一つ想念を解放していく作業をすると思われます。そういったプロセスが進化のためには必要なのです。同じことを、もしかしたら被害者の立場でもやるかもしれません。死後、被害者の自分が開放すべき想念について、同様に一つ一つの場面と向き合いながら解放していきます。それが、被害者の自分にとって必要だからです。それらすべてを経ることが、より大きな「自分」全体の進化を促進させることになっていきます。 以上のようなところが、現段階の私の考えです。
2010.08.28
今回は、今までブログでお話してきたヘミシンク体験を深める上での総まとめ的なお話をしたいと思います。 1.体験を深めるには一筋縄ではいかないということを知ることヘミシンク体験をする上で大切なこととして、多くのことが言われたりします。「自分の見えたものを信じなさい。」「目標を明確に。」「リラックスして。」「グループエネルギーをうまく活用できたらいいですね。」「呼び水が大事です(「フリ」をして「待つ」ことのバランス)。」などなど。ですが、どれも根本的な決め手とならない(それでも体験できない人がいる)ということの理由に、伝える側と受け取る側の認識のずれというのがあるように思います。一番典型的なものは、例えば私のブログのヘミシンク体験なんかを見ると、すごい知覚力なんだろうと思われる方がおられるかもしれません。しかし、実際にはそうではないという点において。 2.自分の特徴を把握することあとは、人それぞれ得意・不得意分野があるにもかかわらず、それを考慮に入れた説明がなされにくいということも挙げられます。例えば、非物質界を、「見えやすい」人。「聞こえやすい」人。「エネルギーの光として感じやすい」人。「インスピレーションに優れている」人、という具合に。あるいは、低次元・高次元というレベルについても考慮する必要があります。「低次元で見えやすい」人。「高次元で見えやすい」人。あるいは、生まれつき霊媒体質か、そうでないかという点も重要です。霊媒体質の人は、自分の非物質体をわりと明確に知覚できますし、体験も進みやすいです。体外離脱なんかもされるかもしれません。オーラなんかも見えやすいかもしれませんね。しかし、生まれつき霊媒体質ではない方は、自分の非物質体を明確に認識できませんし、体験が進みにくいかもしれません。体外離脱もしにくいですし、オーラも普段の生活で見えることはまずないでしょう。ちなみに、私は、今直前でお話したタイプで言うと、後者のタイプです。生まれつき霊媒体質ではありませんから、客観的にはその点でハンディキャップを背負っているといえるでしょう。 3.精神面の大切さあるいは精神面も重要なように思います。おりに触れ、私利私欲に走らずに霊性開発を行う必要性や、自分自身を見つめて神我(内在神、本来の自分)と向き合うことの大切さ、さらには、奉仕の精神の大切さなどについても、体験を深める上で重要なのだというお話をさせていただいてきました。これは、ガイドやより高次の存在の助力を得られやすくするためです。あるいは、ブログの左端にまとめてある記事の中では、雑念が多い方のために、瞑想を適宜取り入れることも場合によっては必要となるということもお話したりしました。他方で、あきらめないで、粘り強くコツコツと続けていけるというのも、その人の能力のうちなのだと思います。そうかといって、あまりストイックにならずに、マイペースで続けることが大切です。 4.様々な方法を試みることあるいは、ヘミシンクだけではなく、ヨガや気功、太極拳等のボディーワーク等も積極的に取り入れるとより効果的なのだというお話もしたことがありました。要は、これが絶対ということはありません。いろいろなやり方を試してみる中で、自分にあったやり方を様々な試行錯誤の中で見つけていく必要があります。私自身そうしてきました。私は生活習慣も変えました。ヘミシンクのためにアルコール類はほとんど口にしなくなりましたし(アルコールの摂取は体験を阻害します)、体験が進み高次の波動を浴びるにつれて体が肉類を受けつけなくなってきました。 5.体験を共有することあとは、友人と毎週共同探索を1年くらい続けたことがありました。それによって、少しずつ、妄想ではなく実際の体験なんだという自分なりの実感を積み重ねていきました。あるいは、縁があって、ブログを通した仲間ができ、一緒に共同探索をする機会に恵まれ、それをペースメーカーにして出来るだけ多くの客観的検証の機会を設けるようにしてきました。私のブログでの企画(瞑想会等)やまるの日さんやルシアさんとの共同探索が貴重な検証の機会となりました。できれば、そういった機会を積極的に利用することも必要となってくるように思います。一人だけでやっているとどうしても「妄想なのではないか?」という思いから抜けられなかったり、初心者の頃からやたらと体外離脱にこだわったり(これはゲートウェイのプログラムの構成にも一因があります)、ゲートウェイのCDのセッションの指示通りにすべて出来なければ次に進めないと誤解をされたりする可能性があるからです。 6.型に縛られ過ぎないことちなみに、ゲートウェイの特にWAVE3とWAVE4に収められているセッションは、すべて出来なくても全然かまいませんし、ぶっちゃけた話、私もあの指示通りにすべてはできないと思います(笑)。ですが、そんな私でも、今まで私のブログで公開してきた程度の体験はしています。この辺からも明らかなように、要は体験というのは人それぞれなんです。「こうでなければならない」と言ったものは一切ありません。几帳面に「いつフォーカス10の意識状態に達することができるのだろうか?」とか、「いつフォーカス12の感覚が得られるだろうか・・・」という「感覚」にこだわりすぎないことが、私はとても大切だと常々考えてきました。ヘミシンクを人に教えるような方々は、一般的に言って非物質的な体感覚に優れた方が多いですから、どうしても「感覚」というものを重視しがちです。ですが、ここで言いたいのは、感覚よりも自分のペースを重視してほしいということです。それによって体験のための突破口が得られる可能性がありますので。 7.積極的に妄想することあと、重要なのは、妄想と実際の体験というのは、非常によく似ていますから、初めは積極的に妄想してください(笑)。それは、脳内の同じ回路を共有して右脳で処理しているためです。初めから妄想する場合と、「フリ」と「待ち」によって非物質界から得られた知覚とが区別しにくい理由はそこにあります。(妄想のパターン)A「妄想」→B「妄想」→C「妄想」・・・・(非物質的体験)a「フリ」(妄想)→b「非物質的な映像」(実際の体験)→c「フリ」(妄想)・・・この場合、Aもaも妄想ですので、Bもbも妄想なのだと思ってしまうのです。 8.体験には個人差がある最後に、体験というのは、個人差があるという例として、私とルシアさんの場合を比較しつつお話したいと思います。私達はツインフレームとして、体験の初期の頃からほぼ同時期にブログを公開し、公開の場で共同探索実験を毎週1年以上にわたり積み重ねて、出来うる限り客観的検証を積み重ねてきました。その結果わかったのは、非物質界での体験というのは、ある程度の基礎的トレーニングを積んだ後は、個人差によるところが大きいのだということです。ルシアさんの場合、低次元の領域(フォーカスレベルの低い領域)は見えにくいですが、高次元の領域では極めて高い能力を発揮されます。また、人や物を形として認識することよりも、エネルギー的に感じ取る能力に秀でておられます。それに対して、私の場合、おそらくはリトリーバルを専門とする関係からか、低次元でも人や物を形として認識できますが、エネルギー的に感じ取る能力がルシアさんに比べて劣っていますが、情報取得能力は持っています。他方で、高次元においては、今までの体験を見る限りでは、ほぼルシアさんと同程度の知覚力を有しているように思われます。低次元が見えにくいという点で私とルシアさんは共通していますし、実際に知覚するものも、全く事前に打ち合わせをしないにもかかわらず、かなりの精度で一致してきました。つまり、体験に普通では考えられないほどの共通性がみられました。それはおそらく、私とルシアさんがツインフレームであることに起因するように思います。あとは、さらに比較の対象を広げて、今まで関わり合いのあった多くの方達まで対象を広げてみますと、かなり面白いことが分かってきます。それは、「もっとも深い体験をどのレベルでできるかについて、非常に個人差がある」のだということです。ある方は、わりと低次元の領域において卓越した能力を発揮されますし(たとえば非物質的にものを見る能力において)、他の方は、私やルシアさん同様、高次元において高い能力を発揮される方もおられるようです。この辺は、たとえ訓練を人並みにしたとしても、どのレベルで深い体験ができるかには個人差と言うものがあるのだという話をしています。 9.自分の力だけの体験ではないということを知ること今、まだ何も体験できないと感じておられる方がもしおられましたら、まずは、ご自分の知覚の特徴を把握されてみてください。よく見えるほうなのか、それとも見えるよりも直感的に情報をつかみ取るのが得意なのか。あるいは、エネルギーとして把握したり、非物質的体感覚が優れているタイプなのか。その上で、特に霊媒体質ではない方については、低次元で体験ができなくても、高次元で体験ができるようになる可能性があります。ですが、その場合、決して自分の力だけで体験をしているとは思わないでください。多くの高次の存在達の援助があってはじめて体験をすることが可能となるからです。そのためにも、高次の存在のほうから低次元に波動を下げるのは難しいですから、我々の方から波動を上げて高次に近づけるようにすることが必要です。 10.霊能よりも霊性を重視するそのためには、霊能よりも霊性の重視です。誤解されている方も多いように思いますが、波動(振動数)を上げるためには、霊能開発をしても効果はなく、霊性(精神性、人間性)開発をして初めて効果があります。上で述べたように、セッション中だけでも「できるだけピュアな精神状態を保てるように」様々な工夫をしつつ、日々のヘミシンクワークに取り組んでみてください。私利私欲に走らないこと。高次の存在に言わせればこれは最低条件みたいです。その上で、自分だけではなく、他の人のためにも役立つことをしたいと考えてみてください。つまり、奉仕の精神がとても大切だということです。それがまさに高次の存在達の意識状態だからです。類は友を呼びますから、必ず助力してくれる高次が現れてきます。ぜひ楽な気持ちで楽しみながら日々のヘミシンクワークに取り組んでいただければと思います。
2010.08.28
動物を飼っている方なら経験があると思いますが、動物はかわいい半面、必ず別れというのがあります。寿命による死に直面しなければならないということです。家で飼っている動物というのは、家族同然ですから、その死に直面するのはそれはつらいものがありました。それは、まだヘミシンクと出会う前のことですから、当時は、死は永遠の別れを意味するに等しいと思っていましたから、なおさらでした。 以前、こんなことがありました。家で猫を飼っていたんですが、その猫が老衰で死んだ時のことです。その猫は長生きで20年近く生きたんですが、最後は食事はおろか、水さえも飲めなくなってしまいました。その猫は実家で飼っていたんですが、偶然私が実家に戻った時、もう余命はあと少しという状況でした。おそらくは10数日も食事も水もとっていない状態で、目も見えなくなっていました。 最初、私はその異変に気づきませんでした。ですが、しばらくして猫の鳴き声がいつもと違うことに気づきました。何か絞り出すような鳴き声なのです。私を呼んでいるのがわかりました。もう目も見えませんから、私だとは目で見てわからないはずなんですが、本能的に感じたんでしょうね。その絞り出すような鳴き声で私は猫の異変に気づき近くに寄ってみて、初めて余命はあとわずかなのだという状況に気づきました。まだ息があるうちに抱き上げたんですが、もう十数日も食べ物を食べていませんでしたから、体はそれはびっくりするくらい軽くなっていました。私はその時は所用で実家に立ち寄っただけでしたから、すぐに実家を離れなければならなかったため、猫の臨終に立ち会うことはできませんでした。 両親によると、最後は眠るように息を引き取ったということでした。それから、死後49日立たないうちに、猫が夢に出てきました。その時は、まだスピリチュアルなことに深入りする前でしたが、とっさに私は、あー、猫が会いに来てくれたんだなと感じとりました。 人間だけではなく、動物でも人間と深い関わりのある動物の場合、ちゃんとパーソナリティがあって、自我というものを持っています。そして人間と同様、動物も死ぬと生きていた時以上にピュアな感情を持つようになります。死んだ猫が私のもとに会いに来た時、ものすごく懐かしい感じがしました。あー、会えてよかった、やっと会えたんだというような。それは、ハートとハートを重ね合わせているような強烈な感情でした。 その時思ったのは、人間も動物も魂を持った存在という点では一緒なのだなと思いました。夢の中で会っているときには、人間だから、動物だからという感じではなく、生命対生命の触れ合いといった純粋な感情だけでした。ただ、懐かしさで胸がいっぱいというような。その猫は結局、ある一定期間地球圏にとどまった後、フォーカス27に移行したようです。 もう今から10年近く前、今から思えばですが、かなり振動数が高いと思われる風景に溶け込むような形で、猫が気持ちよさそうに土手のような所に座って私の方を見ている夢を見たことがありました。フルカラーの夢でした。ヘミシンクを始めた後は、何度かその猫に会いに行っています。ジャカランダを見に行った時に出てきた猫も、この猫です(笑)。http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/29000猫なんですが、私にとっては守り神のような存在ですね。 出会いというのは、とても意味のあることだと思います。スピリチュアル的には、偶然の出会いはないとされています。人と人との出会いであっても、動物との出会いであっても。縁があって出会うんですね。人もそうですが、家で飼う動物なんかは、過去生で何度も出会っている可能性があります。 人との出会いなんかでも、道ですれ違うだけの人もいれば、家族のように一生に渡って付き合いのある場合もありますよね。ですが、たとえいかなる出会いだとしても、その出会い自体がとても貴重なものに感じます。出会えただけでも幸せだと感じられることがあります。いわゆる運命的な出会いというのを経験されたことがある人もいるはずです。その人との出会いがなければ、今の仕事をしている自分はなかったといったような。あるいは、生まれた時からの両親や祖父母との出会いに運命的なものを感じるかもしれません。あるいは結婚相手かもしれません。 私は、その出会いの中にとても意義深いものを感じるんです。そこに様々な喜びや悲しみといった感情を通した体験があるからです。人生というのは、そういった出会いの積み重ねによって成り立っているのかもしれません。そういったその人にとっての大きな意味を持つ出会いの中で、どれだけ人間として深い体験ができるか、それを積むために私たちは何度も何度も生まれ変わってきていると言われています。つまり、いつもお話する神性さの発揮ですね。 男性として生まれ、女性として生まれ・・・を繰り返す中で、人間としての思いやりや愛情、知性、生きる喜び、そういったものを体全体で体感して生きていく中で、この世でしか体験できない神性さを十分に発揮していきます。ですから、楽な霊界を離れ、すべての記憶をなくして、地球圏にわざわざ降りてくるんでしょうね。どこかのヘミシンクの世界で言われているように、人間としての体験に中毒になったから、ではない気がしますね(笑)。人間としての体験それ自体に深い意義があるのだということです。 それは、いかなる現実であろうとも、その人にとっての貴重な体験ですから、どんな人生を送ろうとも人がとやかくいうことではありません。ですが、大切なのは、現実から目をそらさないということだと思います。どんな体験だろうと、精一杯、楽しみましょう。そして、どんな些細なものであったとしても、出会いに感謝したいですね。出会いの中で、人は成長していけるのですから。
2010.08.27

今日は少しリトリーバルについて書きたいと思います。リトリーバル(救出活動)とは、ヘミシンクの開発者であるロバート・モンローの造語でして、一般的には「死者の救出活動」の意味で使われています。ロバート・モンローはこれを、I/Tメンバーの救出に限定して考えていたようです。『究極の旅』196頁に次のような記述があります。(I/Tとは、トータルセルフ(自分自身の総体)とほぼ同義です。トータルセルフをたんぽぽの花にたとえますと、一つ一つの小さな花びらがパーソナリティで、たんぽぽの花全体がトータルセルフというイメージです。) 「目的は主に、肉体の死というプロセスを経た人々を手助けし、救出することだった。私たちはたいてい、相手の見方に応じて、様々な者の役をした。父親や母親、他界した友人や、時には「天使」のような存在になったりもした。私と同じ「IT集合体」に属さない者は滑り落ちて、信念体系領域へと消えて行ってしまう。・・・」「『向こうの私』のいちばんの使命は、前世の人格たちを集めることだった。地球の生命系や他の信念体系の耽溺(たんでき)するあまり、人格の本質が失われてしまっていた者たちを集めるのだ。そのような人間精神が、ついに信念の鎖を断ち切り、体系の裂け目を見出すとき、我々のITメンバーが救出に行くのだった。・・・」このように、ロバートモンローの見解では明確に、いわゆる救出活動が自己のI/Tメンバーの救出に限られているのですが、私の経験では、これに限られないように思います。もっとも端的な例としては、大規模な自然災害での救出活動の例です。この場合、ターゲット(救出される人)が自分のI/Tメンバーではないことは明らかです。I/Tメンバーとは、自分の過去生・未来生の別のパーソナリティを指しますから。(モンローはI/Tメンバーに未来生の自分を含めていないふしがありますが、未来生についても含まれるように思います) そうはいっても、基本的には、救出活動は「自分自身の救出」であり、別人格としての「自分」(パーソナリティ)を救出する作業です。これは、言い方を変えれば、自分自身に対する奉仕活動と言っていいように思います。あるいは、自分自身に対する浄化活動という意味合いも含まれているように思います。過去生、未来生の自分というのは、言って見れば自分の先祖、子孫のようなものです。 ですから、救出活動も別の視点からみれば、霊的な意味合いにおける先祖・子孫の救出という言い方もできるように思います。魂の霊線の浄化と言ってもいいと思います。繰り返しますが、その目的は、自分自身に対する奉仕にあります。それが、巡り巡って自分自身にも返ってくるのです。つまり、全体の進化の促進ですね。それによってできるだけ早くメンバー全員がトータルセルフへの帰還を果たして、輪廻転生を抜け、新たな進化の旅へと出発することができるからです。 我々は、見えないところで「自分」自身の別の側面と深くつながっていて、今こうしている間にも様々な影響を与えたり、与えられたりしています。それが、多次元的に見れば、過去生、未来生にまで及んでいるのです。あらゆる出来事はすべて、同時に起こっているとされているからです。そうやって、常に私たちは、いろんなところから支援を受けていて、また、自分でも気づかぬところでお互いに助け合って生きているんですね。 リトリーバルのもっとも簡単な方法としては、感謝想起の方法があります。感謝の気持ちを持つことによって本来の自分(内在神)と向き合い、感謝の波動で自分自身を満たしていきます。それをしばらく維持することによって、「自分」(パーソナリティ)と深い関わりのある別の「自分」(パーソナリティ)が実際に癒されていきます。簡単に言えば、これもリトリーバルなんです。リラックスして、感謝の気持ちを満たして、過去生・未来生で癒しが必要と思われる「自分」に対して癒しのエネルギーを送るように意図してみる、これだけで、自分自身に対する奉仕ができます。リトリーバルと言うと一見難しい気がしますが、実はそうではなく、大切なのは「思い」です。 ぜひ、感謝の波動で自分自身を満たし、自分自身を癒してあげてください。同様に、肉体の御先祖様への奉仕をなさるのもよろしいかと思います。ご先祖様あっての今の自分なのですから。自分を癒し、周りを癒していきましょう。それによって、巡り巡ってさらに自分自身が癒されていきます。(写真はWikipediaからです)
2010.08.26
ブログのBBSのほうでご質問がありました。前回までのやり取りを含めてこちらでもご紹介したいと思います。>さて今日の質問は日本という国は世界の中でも特別な位置づけにあると考えていますが、現実に韓国とは竹島や慰安婦の問題、中国からは靖国問題などで非難を受けていることについてスピリチュアル的にはどのように考えるべきなのかお教えください。 政治的問題ですので深入りしませんが、私はこれらの問題については、特にスピリチュアルな意義を見出しません。現実世界の政治的問題だと捉えています。竹島問題や従軍慰安婦の問題は政治的要素の強いものですし、軽はずみな発言は避けたいと思います。私は、日本の役割は政治面よりも精神的なリードにある気がします。近隣諸国とは文化的交流は盛んですし、海外旅行等によって人と人との行き来や交流もさかんです。そういった、民間レベルでの交流を通して、日本の役割が発揮されていく気がします。これらを受けてさらに次のようなコメントをいただきました。>質問の趣旨は、政治問題の見解をお聞きしたのではなく、両国の関係悪化の根源にある歴史的事実が、チャネリング等で確認できるものかどうかという点です。例えば中国とは南京大虐殺という事実があったのかなかったのかあったとしても通常の戦闘行為の範囲内なのかどうか また韓国とは慰安婦の強制連行に日本軍が関与していたのかどうかなどガイドに確認することは可能でしょうか それができれば、両国との関係はもっと改善するのではないかと思うのですが・・・・これに対する私のお返事は、以下の通りです。>質問の趣旨は、政治問題の見解をお聞きしたのではなくですから、「政治的問題ですので深入りしませんが、私はこれらの問題については、特にスピリチュアルな意義を見出しません。」と申し上げたんです。「竹島問題や慰安婦問題をスピリチュアル的にどのように考えるべきか」という問いでしたので、そのように申し上げました。もっと言うと、スピリチュアル的には、「意味があると思えばあるし、ないと思えばない。」こうなります。確かに私は、あらゆる事象はその人にとって意味のある形で出現してくると申し上げました。しかし、そこには主観的側面における物事に対する認識が深くかかわってきます。セスのいう現実創造のプロセスといった細かい話を抜きにして考えても、現実とは常に「その人にとっての」意味しか持ち得ないというのがスピリチュアル的な考え方です。ですから、竹島問題や慰安婦問題にスピリチュアルな意味を見出すかどうかは、「その人次第」、こういうことになります。そういった趣旨から、「私はこれらの問題については、特にスピリチュアルな意義を見出しません。」と申し上げたんです。>両国の関係悪化の根源にある歴史的事実が、チャネリング等で確認できるものかどうかという点です。例えば中国とは南京大虐殺という事実があったのかなかったのかあったとしても通常の戦闘行為の範囲内なのかどうか また韓国とは慰安婦の強制連行に日本軍が関与していたのかどうかなどガイドに確認することは可能でしょうか チャネリングはチャネルする人とチャネルする相手との関係で成り立ちますので、その人に必要な情報であれば教えてもらえるでしょうし、アカシックレコードにアクセスすれば、人類に開示が許されているものは全て読めるように思います。基本的には。 ただしチャネルする能力とか、アカシックレコードを読む能力とかが必要ですけどね。ですから、ご質問に対するお答えとしましては、「可能ですが、それはあなた次第」、こういうことになろうかと思います。>それができれば、両国との関係はもっと改善するのではないかと思うのですが・・・・私はそんなことをしても根本的な解決にはならない気がしますね。私は、近隣諸国との関係があまりよくないという前提にそもそも同意しません。近隣諸国との関係について「もっと改善」とおっしゃいますが、「もっと改善」とはどの程度を想定しておられるのでしょうか。基準点の定め方次第では今でも十分だという見方も十分成り立つように思いますが。政治家というのはそういった問題を外交カードとして使用しますから、それ自体に深い意義を見出していない気がします。 ですから、事実関係を明確にしたからと言って解決するほど単純な問題ではない気がします。事実に対する公式見解というのは、客観的事実とは別に政府によってなされるものですから、個人的に客観的事実なるものがあると想定してヘミシンクで何かわかったと言ったところで(しかしこれ自体間違った認識です。ヘミシンクでわかるのは客観的事実ではありませんので)、それだけでは政治家は動きませんし、学校教育等でも今まで通りの認識で日本と近隣諸国との関係が外国等で説明されますから、仮に日本と近隣諸国との間で歴史認識を原因とする誤解があったとしても、それを取り除くことはできないと思われるからです。つまり、双方が誤解しているからその誤解を解くために事実関係を明確に。。。というレベルではない気がします。
2010.08.26
最近、パソコンの前に座ってコンシャス・チャネリングをしながら文章を書いています。以前は、深いトランス状態に入って情報取得し、いったん記憶して、覚醒してからパソコンに書くことが多かったです。今でもこの手法は取りますが、それはかなり高いレベルにいると思われる高次との交信に限られています。パソコンの前に座った状態でのコンシャス・チャネリングの場合、意識状態はほぼ完全に保った状態で行います。この場合、たいていの高次は、まずは私に自分自身の言葉で語らせることを重視します。今回の情報源であるリンカーンもその例外ではなく、まずはテーマだけを伝えてきました。リンカーンとは、第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハム・リンカーンです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3私のチャネリングの特徴は、高次のネットワークの全面協力を得て行われる点にあります。リンカーンは、シルバーバーチ霊団を構成する一人とされていますし、先日ご紹介したコナン・ドイルの霊界通信に助力していたのは、ホワイト・イーグルだとされています。おそらくは皆、サナンダ意識と深い関わりを持っているように思われます。コナン・ドイルの名前は先日偶然記事を書いているときに頭をよぎり、その後ネットで調べている際にあのご紹介したホームページを見つけたんですが、これらの偶然的な出来事にもすべて意味があるのだと私は考えています。あるいは、ジャーメインについても同様です。ジャーメインもキリスト意識と深い関わりがあると本人が述べているからです。(http://divasoul.blog17.fc2.com/blog-entry-642.html)あるいは、今まで私のブログで登場してきた人物のほとんどは、サナンダ意識と何らかの形で関わり合いがあります。そういったことも踏まえると、私のこのブログは私一人で成り立っているものではなく、多くの高次の援助・協力のもとで成り立っていると感じています。今回、リンカーンから提示されたテーマは、「自由と平等について」です。適宜、潜在意識下における意識の交流によって情報伝達がなされ、それをインスピレーションとして受け取った私は、随時、文章に反映していきました。文章はすべて「私の言葉」で書いています。ですが、話の流れの中に、高次からのインスピレーションが散りばめられている、そのようにお考えいただければと思います。ここ数百年間の人類の発展ぶりには目を見張るものがあります。科学面での発達、思想面での発達、文化面での発達等、多岐にわたるように思います。ですが、いいことばかりではありませんでした。例えば、差別・抑圧があります。人種差別、民族差別、男女差別・・・等々そういった様々な理不尽さを経験して、やがて新たな時代へと進み始めました。自由と平等への目覚めです。フランス革命やアメリカの独立等を契機に、様々な方面で自由と平等への機運が高まって行きました。思うに、そういった差別の根幹には、「分離」意識があるように思います。自分と他人は違うんだという意味において。そのような分離意識が時代の変遷とともに誤った方向にすすむことによって、選民思想につながり、例えばユダヤ人虐殺のような悲劇を生んだり、アフリカの奴隷のような悲劇を生んだり、女性に対する差別的扱いを生んだりしてきました。あるいは、科学技術を平和目的以外への利用によって原子爆弾が製造され、多数の罪もない人の命が奪われたりしました。これらは皆、人類全体として共有すべき問題です。一国だけ、一民族だけの問題ではなく。これらの悲劇を二度と繰り返さないために最も有効だと思われるものは、「分離」から「統合」へと進む道です。人類一人一人がかけがえのない存在であり、何にも代えがたい命を持っていることに気付くこと。それには、神我から他人を見つめる視点が有効です。自分と同じ神性さを身にまとっていると他人を見ることができれば、もはや争いようがないからです。自分が神性であるのと同様に、他人も神性なのだということに対する気付きです。これが得られるまでにあと何百年かかるかわかりませんが、不可能ではないように思います。神我に根差した視点を日常生活の中で培うことができるか、これにかかっています。他人に対する慈愛、協調性、潜在的な可能性への信念、他者への理解、破壊ではなく創造的なアプローチ、・・・これら神我に根差した行動によって、少しずつでも必ず変化していきます。学校においては、教師から生徒へと。家庭においては、親から子供へと。職場では人から人へと。そういった人と人とのつながりによって、見えない意識の上でのネットワークというのが共有されています。我々人類全体の潜在意識です。そのネットワーク上に、神我に根差した行動というのは、「人の心の琴線に触れる形で」作用していきます。人間性・精神性の育成、そういったものが、人とのかかわりを通してゆっくり培われていくのです。それが、長い年月を経る中で、ゆっくりと人類全体の思想にまで影響を与えていきます。自己の内面に目を向けることは、それを助長します。内面に神我をより多くの人が見出すことが、見えないネットワークを通して人類全体の意識に少しずつでも貢献していけるからです。常に、私達にあるのは、日々の生活です。将来考えればいいよ、ではいつまでたってもできません。「今」の積み重ねしか存在しないのですから。ですから、今、少しずつ平和・共存への道を歩み始めましょう。自己の内面を見つめ、神我への気付きを通して。日常生活の中にこそ、共存への道はあるように思います。
2010.08.25
先日、リンカーンと名乗る人物が、私のところに来て、巻物のようなものを手渡しました。それは、人類の歴史や未来についてまとめたものだそうで、私の記事を書く際に参考にしてほしいというのです。ところで人間の運命というのは決まっているのでしょうか?自分は生まれつき不幸だからと思われている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、霊的見地からすれば、そういった運命なるものは存在しないとされています。運命は自分で決められるのです。ですから、先程ご紹介したリンカーンと名乗る人物から手渡された巻物についても、多数ある人類の進んできた(あるいはこれから進むであろう)確率的偶然のうちの一つと見るべきではないかと思うのです。もっとも、彼が私にコンタクトをとってきたのは、直接的には私に記事を書く際のネタを提供するのが目的だったのかもしれません。巻物の中身について語らせるのが目的というより。 それともう一つ大事な点があります。それは、「この世に偶然はない」ということです。いかなる未来も自分で決められますが、「今」の連続として創造し続ける現実世界において、自分の目の前に現れるあらゆる事象は、「自分にとっての」意味を持つ形で出現してきます。もちろん、自分が感知する範囲内でのことですが。 楽しい現実を創造(想像)していきましょう。そこで生きるのは他でもない自分なのですから。現実世界を豊かなものにできるか否か、幸せなものにできるか否かを決めるのは、自分次第です。自分の心持でこの世を豊かに、幸せに過ごすことが実際に可能です。そのために私たちは生まれてきたのですから。決して苦しむために生まれてきたのではありません。 嵐はやがて過ぎ去ります。たとえそれがどんなにひどいものであったとしても。そして、その後には晴天がやってきます。そのような様々な自然現象を経験する中で、人間として楽しむことができたら最高ですね。苦しみではなく、楽しみにフォーカスしましょう。未来は自分で決められるのですから。神我に根ざした視点からあらゆる事象を見つめてみれば、必ず最善の策が見つかるはずです。思いやり、愛、美、創造性、喜び、そういった人間が本来持つ特性を日常生活の中で意識されてみてください。それを十分に発揮するために、我々は「今ここ」にいるのですから。
2010.08.25
ちょっと難しいご質問をミクシィの方からいただきました。>我々パーソナリティから見ると、トータルセルフは上位の意識体と感ぜられるのですが、アチラでは、パーソナリティも、トータルセルフを自分自身だと感ぜられるようになるのでしょうか? 下位のパーソナリティと上位のト-タルセルフには、意識情報のヒエラルキーから来るある種の断絶があるように思えるのです。 つまり上位意識は、いつでも下位意識を把握していますが、その逆は、上意識の裁量の範囲内でしか行えないのではないでしょうか? そのような状態に置かれたパーソナリティには、トータルセルフを上位の上司的な他者と感ぜられるのではないかとも思えます。 出来れば、そこら辺のことも、噛み砕いて解説していただけないでしょうか? まず、私もC1に生きる人間ですので、わかることとわからないことがあるという前提で読んでくださいね(死んだ後の事情は基本的にまだわかりませんから~(笑))。 >下位のパーソナリティと上位のト-タルセルフには、意識情報のヒエラルキーから来るある種の断絶があるように思えるのです。 まず、これについては、そのような断絶が仮にあるとすれば、それは他でもない、下位のパーソナリティ自身が作り出した幻想だということです。セスがそのように述べています。I/Tメンバーという枠組みが存在していること(「私」と「私」以外のI/TメンバーがI/There内に存在していること)も幻想だというのです。つまり、I/There内における自分だと認識しているパーソナリティとそれ以外の他人という区別です。そういった狭い意味での自分という境界は存在しないというのです。ですから、上のご質問へのお答えとしましては、断絶などというものは存在しない、こういうことになると思います。 >つまり上位意識は、いつでも下位意識を把握していますが、その逆は、上意識の裁量の範囲内でしか行えないのではないでしょうか? 上位・下位という区別は上の考え方からすれば存在しないように思いますが、仮にあるとしても、上位意識の裁量というより、下位意識の進化の程度によるということになるように思います。つまり、同じI/Tメンバーでも進化の程度は様々ですから、パーソナリティの中にはトータルセルフの存在に気づいているものもいるでしょうし、気づいていない者もいると思います。すでに信念体系領域から抜け出ている場合には、フォーカス27という輪廻転生の中継地点にいるとされていますから、そこで様々な活動をしたり、許された範囲で様々な情報に接することができるでしょうから、より大きな自分であるトータルセルフの存在に気づけるものもいるように思います。死後は、我々のように自在に様々な非物質的領域に行けるわけではないらしいのです。行けるのは、自分の生前の行いに応じて形成された振動数にふさわしい領域だけであるとされています。ですから、フォーカス27にいる存在程度では、まだトータルセルフの全貌までは到底わからないように思われます。まさにセスが我々に「すべてなるもの」の存在を知るには、直観的に感じ取る以外にないと言うように、死んで向こうに行ってからも、進化の程度が低ければ、トータルセルフの存在を知るためには直観力を駆使して感じ取る以外にないのではないでしょうか。 >そのような状態に置かれたパーソナリティには、トータルセルフを上位の上司的な他者と感ぜられるのではないかとも思えます。これは、我々の今の感覚にわりと近いかもしれません。すなわち、我々が高次の存在に対して感じる感覚です。私の場合、その存在にもよりますが、上司というよりは、尊敬すべき賢者という感覚に近いかもしれません。セスなんかの場合は、まずそばに近寄るだけで心の底から尊敬の念が生じてきます。サナンダなんかもそうかもしれません。そこまで行かなくても、トータルセルフは1人の自分(パーソナリティ)よりはるかに進化した存在ですから、尊敬の気持ちが生じるかもしれませんね。今の私にはそれぐらいしかわかりません。少なくとも単なる友人のような感覚ではない気がします。 >我々パーソナリティから見ると、トータルセルフは上位の意識体と感ぜられるのですが、アチラでは、パーソナリティも、トータルセルフを自分自身だと感ぜられるようになるのでしょうか?これは進化の程度によると思います。感じられるパーソナリティもいれば感じられないパーソナリティもいると思います。それぞれが独立した存在を保ちつつ独自の進化をつづけていきますから。死んでからどこかで今我々が自分だと感じている意識がなくなるわけではないんですね。死んだ後は、今の我々のようにあらゆる領域を自由には行けなくなるとされてはいますが、テレパシーなどの感覚的な能力は我々以上に発達しますから、ガイドとの連携も今まで以上に強化されていきます(死んだ後にもちゃんとガイドがいるらしいです)。そういったガイド的存在から、もっと上の事情などについても知る機会が得られるでしょうし、死んだ後に訪れるとされる学校のようなところでも、そういったより高次の自分について学ぶ機会はあるように思います。 我々の感覚でいうと、死んだあとはただのエネルギー体だけになってしまって、今のような生活はできないと考えがちですが、そうではないみたいです。死後の世界も我々の世界と同様のリアルさを持って存在するのだということは、多数の報告があります。(死んだ後に非物質界からコンタクトをとってきて報告をしている存在がいます。作家のコナン・ドイルなんかもそうですし(http://members.at.infoseek.co.jp/akyonn/konan10.htm)、他にも多数います。) 正直、ここまでの記述はなんとか書いてきましたが、偶然にも上でコナン・ドイルのことを思い出した時、コナン・ドイルの霊界通信を紹介した上記URLと出会い、しばし読みふけっていました。上でご紹介したURLを開くと、中ほどに、トータルセルフに非常に近い意識状態をパーソナリティが体感していく様子が描かれています。コナン・ドイルによれば、それはかなりの進化を待たなければならないようです。コナンドイルの説明に従えば、死後は原則として、生前の行い等によって到達した意識レベルによって明確なレベル分けがなされ、それにふさわしい世界へと移行します。ですが、死後世界でも、進化が進むに従ってより直観的洞察力が高まったり、霊的知識が高まったりして、より多くの情報がもたらされるようになるみたいです。おそらくは、ヘミシンク的にはフォーカス35まで到達してようやくパーソナリティは、自分が全体の一部であることに気づくのだと思います。それまでは、当該パーソナリティのみが自分という認識です。それほど、進化の壁に遮られているがゆえの真実の「歪み」が生じている、こういうことなんだと思います。 ですから、先日お話したマイケル・ニュートンの退行催眠で被験者が間違った「自分」のとらえ方をしていたとしても、仕方がないことですし、むしろ当然だと思います。ですがやはり、コナン・ドイルの説明からしても、セス達のいうトータルセルフとパーソナリティの説明は高次からみた霊的真実をより多く体現していると言っていいように思います。ですから、結論としましては、こうなると思います。パーソナリティにもトータルセルフが自分だと感じられるようになりますが、それはその存在の到達できた進化の程度によるのだと。
2010.08.23
弊立神宮祭へ行ってきました。もちろん、非物質的にです(笑)。弊立神宮というのは、よく知らなかったんですが、とても古い神社らしくこの祭典のために世界中から人が集まってくるらしいです。http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/soyo/kanko/heitatejingu/heitatejingu.html 今回は、ルシアさんが弊立神宮に行かれるということで、ルシアさんの光の柱立てに参加させていただきました。いつも通り柱を立てたんですが、ものすごく巨大な柱になりました。エネルギー的に見ると、ハイハートにものすごく反応してきますから、アマテラスのエネルギーを強く感じました。 印象的だったのは、数日前から弊立神宮の眷属神と思われる存在(白龍)が私のところに会いにきていたことと、当日、柱立てをしにルシアさんのところに行った時、すぐそばに白っぽい服を着た女性が立っていたことです。印象からして、弊立て神宮にゆかりのある方には間違いないように思いました。もしかしたら、あの眷属神だったのかもしれません。 柱立てが終わった後、しばらくして私はある場所に招かれていました。それは、建設当時の弊立神宮と思われる場所、もしくは、別次元に今でも存在している非物質的な弊立神宮と思われる場所でした。なんとなくですが、月とゆかりのある場所のような気がしました。というか、月面のようなだだっ広いところといった印象があります。しばらくして建物が近づいてきました。というか実際には私が近づいているんでしょうけど(笑)。鮮やかな朱色の荘厳な建物です。ぱっと見、中国風?というか、日本の神社でよくあるような朱色をふんだんに使った建築様式です。入口の門も荘厳な感じでした。中に入っていくと、一人の人物が現れてきました。先ほどの色鮮やかな朱色とは一転して、青っぽい服装をしています。服は何とも言えないのですが、なんとなく中国の昔の皇帝がこんな服着ていたんだろうなと思わせるような服装です。さきほどからこの人物とコンタクトをとっていたようなのです。 こんな感じでした。 弊立神宮ができたのは、今から約15000年前で、霊的に見ればムー大陸に直結した場所らしいです。聞き間違いでなければ、弊立神宮があったあたりは、ムー大陸の一部だったのだとか。ここに降りてきている神様も、アマテラスなんだそうです。伊勢神宮に降りてきているアマテラスのエネルギーと出所は同じなんですが、こちら(弊立神宮)のほうは男性神を表わしているのだとか。つまり、今私の目の前にいる青い服を着た中国風の皇帝のような人物が、アマテラスの象徴のようなのです(以下、「アマテラス」とします)。アマテラスに自分の名前を聞いてみると、聞き取れない言葉を言われました。それは、「太陽神」を意味しているのだとか。ムー大陸自体の神様も、太陽神「ラー」を象徴していたのだそうで、そこから直接的につながってくる系譜をこの人物は引き継いでいるのだそうです。 アマテラスが言うには、ムー大陸崩壊とほぼ重なる頃にここ弊立神宮ができたらしいんですが、アマテラスのエネルギーが今の日本に降りたのは、伊勢神宮ではなく、ここ弊立神宮らしいです。ではなぜアマテラスの象徴が弊立神宮から伊勢神宮へと移ったのかと聞いてみると、「政策的な理由による。」とのことでした。おそらく、後に政権をとった王朝が遷移した際に、アマテラスを象徴する神社も伊勢の地に移転させたのでしょう。ただ、アマテラスが言うには、アマテラスのエネルギーは国の安泰に不可欠ですから、政策的な理由により神宮が移転されても、ちゃんとアマテラスの本流のエネルギーも伊勢の地に降り立つようになったのだとか。アマテラスによれば、伊勢神宮は「表」の神社として世界の安定・平和を象徴しますが、弊立神宮は「裏」の神社として世界の安定・平和を象徴するのだそうです。では、出雲大社はどうなのかと聞いてみると、出雲大社と伊勢神宮の関係は、「陰」と「陽」なのだと言います。何か役割分担のようなものを感じました。つまり、弊立神宮・伊勢神宮のセットがもつ役割と、出雲大社・伊勢神宮のセットがもつ役割です。 人類に対するメッセージを聞いたのですが、アマテラスからくる直接的なメッセージは特にないような印象を受けました。あとからやってきたのは、アマテラスからというより私のガイドからという印象でしたので、ここでは割愛します。アマテラスに礼を述べてから弊立神宮を離れる際、巫女さんと思われる人物が二人ほど、ちょっと離れたポイントごとに立っていて私に付き添ってくれていました。今の日本の神社の巫女さんの服装とは大きく異なっている印象でした。ちょっとうまく把握しきれなかったんですが。全身白っぽい着物のようにも感じられました。 帰り際、次元を超える瞬間を知覚しました。何かのバリアというか膜を超える感じです。それを超えて地球圏に行き、帰還しました。この時感じたのは、ムー大陸に直結するという弊立神宮は、多次元的に今も存在しているという印象でした。その非物質的な弊立神宮が本来の建設当時の姿だったらしく、今現在の姿とは似ても似つかぬという印象でした。 今回初めて弊立神宮というところを非物質的に訪れましたが、つながっているところがちょっと一風変わったと言いますが、別次元(もしかして別宇宙?)の空気を感じました。しかも特徴的なのは、非物質的な弊立神宮の外観というのは、物質界のそれとは似ても似つかぬ姿をしているということでした。また、御祭神は非物質的に訪れる前は知らなかったんですが、後で調べてみてびっくりしました。すごい名前が勢ぞろいですよね。私が男性神のアマテラスと感じたのは、もっと上の根源的な神様だったのかもしれませんね。
2010.08.23
今日はジャーメインとのコンタクトを試みましたが、意識を保っているのが非常に難しく、途中からやり方を変えて、パソコンに向かった状態でのコンシャスチャネリングをしました。 人類の歴史を振り返ってみますと、常に破壊と創造の繰り返しでした。戦争をしては勝つ国と敗れる国があって、栄枯盛衰の繰り返しが世界中でなされたことでしょう。人類は常に、破壊をすることによって初めて、新たなものの創造に着手することを歴史を通じて学んできましたが、よくよく考えてみると、破壊をせずとも創造にいたる道があるように思います。 日本は「和をもって尊しとなす」国です。争い事を好みませんね。リーディングでムー大陸の時代などを見てみますと、非常にのどかな感じがします。共和制というか、ゆるやかな連合形態をとっていたようで、人々を霊的に導く指導的立場にある人物はいましたが、ほとんど干渉はなかったようです。その指導者は女性だったと感じます。天浮船に乗って各地を巡幸していた印象があります。人々の生活を見ても、争いとは無縁の生活でした。一言で言うと、自然と調和した生活をしていたようです。家族のきずなのようなものは、現代とほとんど変わらなかったように思います。以前、ムー大陸を訪れたときには、だいたいこのような印象でした。今の日本の文明とは直接的なつながりはないのだと言われた覚えがあります。当時、アマテラスを思わせる人物の印象が感じられたのを記憶しています。上でご紹介した天浮船に乗って各地を巡幸していた女性です。http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/15006 ただ、日本と直接なつながりはないにしても、霊的なつながりは深いように感じます。特に重要なのは、やはり「和の精神」です。日本人の心です。世界がどんなに変わろうとも、「和の精神」が世界をリードする時代が来るように思います。それは日本人あるいは日本の文化を通してなされます。それにはいろいろな理由があるのでしょうけれども、一番大きな理由は、日本が万世一系システムのエネルギーの象徴であることにあるように思います。そのエネルギーは、人を介して世界中に届けられます。そしてエネルギーは人を選びません。必要とされるところにあまねく届けられます。 地球はもともと太陽との関わりの深い惑星でした。物質レベルだけではなく霊的レベルにおいても。それは、原初からの地球の造山活動中からずっとです。その間、絶えず地球は太陽とエネルギー的な交換をし続けてきました。それを象徴化したのが、アマテラス(太陽意識)とスサノオ(地球意識)です。(地球意識はいつもは国常立太神を強く感じますが、今日はスサノオを強く感じます。) エネルギーの交流は絶えずマクロレベル、ミクロレベルでなされてきましたが、そのもっとも大きな要因となるのは、人間の根源神の関与です。いわゆる人類が地球上に誕生する前からずっと、根源神としての人間はエネルギー的な交流を行ってきました。その時の媒介となったのが、太陽意識(アマテラス)と地球意識(スサノオ)です。両者は、要(かなめ)として、エネルギー的交流の要所としての働きを担ってきました。それを目に見える形で象徴化したのが、現代における伊勢神宮だという印象があります。いわば、神々の象徴であり、根源神のエネルギー的な交流の象徴でもあるのです。神とは、人間そのものに他なりません。人間はいつの間にか、自分と神とを分離して生活するようになってきました。ですが、もともとは、人間すなわち神だった時期があるようです。それはもしかしたら、個別意識がまだ未分化だったときなのかもしれません。我々は、分離によって個別意識としての自我(エゴ)を獲得しました。それによって、現代文明が成り立っていて恩恵を被っている側面は確かにあります。ですが、これからは、再び根源神の導きによって分離した自我が統合へと向かい始めます。それは、現代文明での恩恵を維持したままで緩やかな進化とともに起こってきます。まずは、各人の霊的な気づきのレベルからその変化は始まります。そして、徐々にそれは地域社会へと浸透していって、やがては国家全体、地球全体へと広がっていくでしょう。ですが、根本的には何も変わりません。思いやり、愛、感謝、創造性、直観、叡智、・・・そういった神性さは、今まで同様に、これからも一層発揮されていくこととなります。日常生活における人と人との触れ合いにおいて。あるいは、土地や空気や水、森や海その他の自然との触れ合いにおいて。そしてそれは、「和の精神」によって世界規模で伝わっていきます。それは、破壊ではなく創造の道です。そのためにも、今この瞬間の生活を大切にしたいですね。
2010.08.22
以上を前提にブルースモーエン、マイケルニュートンの説を検証してみたいと思います。>ブルース・モーエンの『死後探索4』では、地獄に落ちた魂のエネルギーパターンを変えるためにその選択肢の一つとして、その魂を地上に転生させるという話が書いてありますよね。これは明らかに個の魂の転生だと思うのですが・・・というか、魂の選択肢は無限大ではないですか??まず、ブルースモーエンですが、これはヘミシンク中の体験ですから、基本的にはコンシャスチャネリング(意識を保ったままのチャネリング)ですから、必然的に情報の歪みが大きく混入しているとお考えください。また、挙げられている事例も、いわゆる難物と呼ばれるもので、信念体系の奥深くに存在するダークサイドのような存在で、極めて特殊な事例です。ですから、そういった難物としてのパーソナリティが地上に再生することがあったとしても、それは極めてまれな話であると考えるのが通常の判断ではないかと思います。つまり、ローズさんやこのブログを見ている人の話ではないということです。 >あと、マイケル・ニュートンの退行催眠にあるような中間生の記録とも矛盾します。また、マイケルニュートンの場合ですが、最大の問題は退行催眠によって集められた前世等のデータから分析されているということです。つまり、対象となっている意識がパーソナリティの分析に終始しているということです。その証拠に、集合意識と個別意識の区別は一切なされていません。http://blog.goo.ne.jp/birch99/c/b4a84bc7b2ac42c6047a42fe627bae7aつまり、現段階では、我々と同レベルの人間では、やはりパーソナリティについての情報しかもたらされないため、より進化した信頼できる高次の存在からの情報に頼らざるを得ないのです。その信頼できる高次の存在の情報というのが、上でご紹介したセスやシルバーバーチ、マイヤース、バシャールのいう個別意識と集合意識の区別です。マイケルニュートンの説の致命的な点はそこにあるように思います。 もう少しわかりやすくご説明しますと、退行催眠による情報というのは、トータルセルフという上位概念の欠如のために、すべて「自分」という形でひとくくりにされてしまっているように見受けられます。そのため、生まれ変わりの時の会議に参加する時の話のように、前世での類魂の他のパーソナリティの記憶についても「自分」というひとくくりの枠内で捉えてしまっているように思われます。同様の点は、中間生についても言えます。中間生というのは、人間的にみれば、前世と現世との間に存在する概念ですが、この中間生にいる「自分」というものも、トータルセルフなのか、パーソナリティなのかの区別が一切なされておらず、極めてあいまいな表現となっています。 ちなみに、私の中間生の記憶をご紹介しますと、中間生の時の私には、「自分」としての意識が確かに存在しています。ですが、それは、私というパーソナリティによる歪みが混入している可能性があります。つまり、トータルセルフとパーソナリティとの混同です。なぜそういうことが起きるのかというと、C1にいる私には、トータルセルフとパーソナリティの認識を明確に体感覚として持つことは意識の制限上困難だからです。ですから、私は中間性の存在を認めますが、それと自分自身の輪廻転生の考え方とは矛盾しないと考えています。 >生まれ変わる自由も生まれ変わらない自由もあると私は思っているのですが・・・もちろんあります。ですが、それを決めるのは前述したトータルセルフであってパーソナリティではありません。 >ただ、他のITメンバーの人生体験をダウンロードするだけなら、この世でレイプや詐欺などやりたい放題生きて、償いの苦しい人生を無垢な別の魂に押し付けることもできます。あまりに理不尽ではないでしょうか。あまりに理不尽なように見えるのは、ローズさんが人間的な見方にとらわれすぎていらっしゃるからです。トータルセルフの視点からは、人間的な良い、悪いはないのですから。すべてのパーソナリティは「自分」であり、平等な立場にあります。またすべて「自分」の行為であるとみなされます。セスのいうように、過去生、今生、未来生間において自分と他人と思っているのは幻想なのです。 >要点は、ブルースモーエンの本にある地獄の魂のエネルギーパターンを変えるために、物質世界に転生させるというお話は、パーソナリティレベルの生まれ変わりだと思うのです。それはそうなのですが、前述したようにブルースモーエンの情報がコンシャスチャネリングであること(フル・トランス状態ではないこと)、そして、ご指摘の部分が信念体系領域の難物の場合といった極めて例外的な場合であって直ちに我々にはあてはまらないということです。 >このようにヘミシンクでの情報に食い違いがあるのは、結局、それぞれが自分が見たい世界観を見ているということなのでしょうか?非物質界では、自分の好みにあった都合のよい情報をもたらしてくれる相手が引き寄せられるということなのでしょうか? それもありますが、コンシャスチャネリングで得られた情報とフルトランスのそれとは明らかに情報の信頼性が異なるということも考慮に入れる必要があります(ブルースモーエンと、セス等の他の高次からの情報との違い)。あとは、マイケルニュートンの場合のように得られた情報のレベルに問題がある場合もあります(情報が人間の退行催眠から得られた低次のものか、フルトランス状態によって得られた高次からの情報かという点)。(なお、コンシャスチャネリングについては、下記をご参照ください。)http://www.channeling.jp/guide/theory/types.shtml
2010.08.21
ローズさんからのご質問です。 >同一魂の転生はないという主張なのですが、 ないという主張には変わりません。理由は以下の通りです。まずその前に、これについてご説明するためには、集合意識と個別意識の違いを説明しなくてはなりません。 まずセスの考えからご紹介したいと思います。セスは、魂を「人格存在」というかたちで表現します。これを総体としての独立した個性とみなしており、セスの立場からみれば、セス、ルバート(セスのチャネラー)、ジョーゼフ(セスのチャネラーの筆記者でありチャネラーの夫)はそれぞれが「人格存在」にあたると考えているふしがあります。そして、セス曰く、輪廻転生は人格存在の進化のための道具にすぎないとしている点です。つまり、セスは集合意識と個別意識に分けた説明はしてませんが、輪廻転生をさせているより大きな「人格存在」そのものに焦点をあてているふしがあります。だからこそ、ジェーンロバーツ(セスのチャネラーのC1上の名前)をあえてルバートと呼び、かつロバートバッツ(ジェーンロバーツの夫で筆記者)をジョーゼフと呼んでいるように思われます。つまり、セスからみれば、輪廻転生というのは、「一つの人格存在」が霊的に成長するための手段にすぎないということです。つまり、個々のパーソナリティそれ自体を全く問題にしていないのです。というか、セスの言い方を変えれば、我々に各転生間の人格存在が分離しているように「見える」のは幻想だと言いきっています。 ただ、別のところでセスは、あらゆる事象がすべて同時に起こっていることを前提にして、自分(セスが自分だと感じている意識)は、もう輪廻転生の中にとどまる必要がなくなったと言い、そうではあるけれども同時に、セスが地球上で転生していた頃の「自分」というものも、それぞれ皆独自の進化を遂げているのだと言っています。つまり、セスが「自分」だと考えている「自分」というのは、我々がC1で想定している「自分」とは全く異なっているのだということです。ある意味、比喩的な表現が許されるならば、一本の木において個々の枝葉(パーソナリティ)ではなく木全体(トータルセルフ)が自分であると認識しているふしがあります。 ところで、同様のことは、セスだけではなく、シルバーバーチやフレデリック・マイヤースも述べています。シルバーバーチの見解については、以前このブログでも折に触れてご紹介してきたとおりですので、詳しいことは過去ブログをご覧いただきたいのですが、簡単に言うと、シルバーバーチは「自分」を集合意識(本体:インディビジュアリティ)と個別意識(個々の分霊:パーソナリティ)とに分けます。そして、個別意識は集合意識の部分であると考えます。この点、「フレデリックマイヤースのいう『類魂』と同じものと考えてよいでしょうか?」という問いに対し、シルバーバーチは、「まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する小意識の集団で、その全体の進化のために体験を求めて降誕してくるのです。」と述べています。(『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』ハート出版、76頁) ちなみに、マイヤースのいう類魂(これを一般には「グループソウル」と訳されています)とは次のようなものです。「類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の例を一つにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、霊的生活においても一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊からもらうのである。(中略) 一個の統括霊のなかに含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。 ただ仏教でいうところのカルマは確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私自身よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。 同様に私も、自分で送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。(中略)我々は、この死後の世界へ来て向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そしてついには個人的存在に別れを告げて類魂の中に没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。結局のところ人間の存在には二つの側面があると理解していただきたいのである。即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。」(同上、76-77頁) スピリチュアリズムにおいてはこのマイヤースの類魂説が今のところ最も有力な説だとされており、それはシルバーバーチだけではなく、マイヤースやシルバーバーチとは全く別系統のニューエイジと称されるセスにおいても共通しているのです。同様のニューエイジに分類されるバシャールのいう「オーバーソウル」(トータルセルフとほぼ同義であるとされています)とも共通性があります。このように、いわゆる人類の集合意識に深くかかわっていると思われる高次の意識存在達において、集合意識と個別意識についての見解はほぼ共通する内容となっています。これが、集合意識と個別意識の区別です。ここまで考えたうえでようやく本題に入ることができます。
2010.08.21
ビギナーさんからのご質問です。 スピ本などでは、自殺した人は、転生後、また自殺する前に似た環境に追い込まれ、その場の行動を試される。と書いているものがあります。 imimiさんは同一魂の転生は少ないというお立場なので、そもそもそんなことはないのだということになるのでしょうか? もし、同一魂の転生はあるという前提に立つと、例えば、非がなくていじめにあって自殺した人などは転生後も理不尽な苦痛を味わうことになるので、それは変ではないかな?と。あるいは、いじめをした側は、何のおとがめなく転生して普通の転生人生をおくることになるのは、それも変ではないかな?と思いまして、imimiさんにうかがう次第です。 まず、一点目についてからです(転生後、再度同じ状況に追い込まれるか否かについて)。結論から言えば、そうとも言えるし、そうでないとも言えます。「自分」次第ということになります。ここでいう「自分」というのは、我々が今「自分である」と認識している「自分」とは別の自分であるとお考えください。より広い意味での「自分」です。スピ界には、この点をまだ十分に認識されていない方もおられるように思います。ですから、ご指摘のような問題が生じるのです。 加えて、転生というのは、転生するか否か、そしてどのような転生をするかということに関して、すべて自己責任であるとされています。すなわち、自分ですべて決められるのです。ただし、それを決められる「自分」(=I/There=トータルセルフ=インディビジュアリティ)というのは、数千のパーソナリティを包含する我々からみて神のような「自分」です。ですから、非常に厳しい目を持っています。我々のようにエゴから生じる甘えを一切許さないのです。(トータルセルフを大きな1個のダイヤモンドと見た場合、パーソナリティはダイヤモンドの1つ1つの面ということになります。1つ1つの面もダイヤモンドの別側面をそれぞれが表しているということになります。ですが、ダイヤモンド全体でより広い意味での「自分」を表わしています。これが、トータルセルフとパーソナリティとの関係です。)ですから、我々の甘っちょろいエゴからすれば考えられないことですが、自らの進化・成長のために、あえてきつい課題を自らに課し、厳しい転生を選択することがあります。ですから、仮にトータルセルフの視点からみて、自殺したパーソナリティが直面した問題のうち、当時抱えていた問題に再度チャレンジする必要があると判断した場合、あらたに転生した際に、自殺したパーソナリティと同じ状況に直面させる場合が考えられます。それは、自殺した「自分」(=パーソナリティ)も、あらたに転生した「自分」(=パーソナリティ)も、より大きな「自分」(=トータルセルフ、インディビジュアリティ)からみれば同じ自分の一部であり、自分自身に他ならないからです。そうやって、我々は、今の我々の「自分」からは想像もつかないレベルにおいて切磋琢磨しています。これには一人の例外もないとされています。ですから、仮に自殺した人がいた場合、その人は転生した際に再度同じ状況下で学ぶことがあるとされるわけです。 このように、転生の問題を考える際には、「自分」とは何かをより厳密に広くとらえることが必要となります。これは、同一パーソナリティの再度の転生がないという考え(私のような考え)を考慮に入れたとしても、結論的には一緒です(「私のような考え」と言いましても、厳密には「私が最も信頼を置いている高次の考え」という意味です)。つまり、私のような考えからすれば、再度転生した際に前回の転生で自殺した状況と同じ状況に直面するのは、その当時とは別のパーソナリティということになります。つまり、「自殺したパーソナリティ」と「転生後のパーソナリティ」は別物だということです。このように考えても、トータルセルフの視点からみれば、両者は同じ「自分」の一部であり、なんら問題はありません。つまり、この問題の根底は、我々は「自分」というものが全く理解出来ていないということから生じているように思います。今自分であると感じている自分だけがすべてではないということですね。我々の認識を超えたより大きな「自分」があるということです。そのように信頼できる高次が伝えてきているわけです。 なお、ビギナーさんがおっしゃるような、同一の魂(パーソナリティ)の転生(=再生)は、通常の魂ではまず存在しないとお考えください。(シルバーバーチによれば、3~4度は例外的に再生するとしていますが、それは、トータルセルフ内の数千のパーソナリティを考慮に入れた場合、極めて例外的なものとなることは明らかです。「個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか」という質問に対し、シルバーバーチは、「それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。」と述べています。) 第2点目についてです。>例えば、非がなくていじめにあって自殺した人などは転生後も理不尽な苦痛を味わうことになるので、それは変ではないかな?と。あるいは、いじめをした側は、何のおとがめなく転生して普通の転生人生をおくることになるのは、それも変ではないかな?と思いまして 転生後にどのような人生を歩むかを大まかに決めるのは、前述したようにより広い意味での「自分」(=トータルセルフ、インディビジュアリティ)ですから、基本的にはあらゆる設定が可能であり、通常は全体の進化にとって最善となる選択肢を選ぶように思います。仮にそれが、前回自殺したパーソナリティが直面していた問題をクリアすべきであるという選択肢だった場合、新たに生まれたパーソナリティも全く同様の状況下に置かれる時がきます。ですが、これは、より広い意味での「自分自身」の選択ですので、理不尽であるということは全くありません。同様に、いじめをする側についても同じことが言えます。前世でいじめをしたからといって、現世で何もないかということそんなことはなく、逆に現世ではいじめられることによって逆の立場を学ぶ可能性があります。セスがそのことについてふれていたように思います。 ただし、それも絶対ではなく、どのような選択肢を選ぶかは、大まかには広い意味での「自分」(=トータルセルフ、インディビジュアリティ)、狭い意味では現実に直面する「自分」(=パーソナリティ)の自由意思によって選択がなされます。つまり、いじめをする側についても、前世でいじめ、現世ではのほほんと暮らせるかというと、必ずしもそういうわけではないのだということです。すべては、より広い意味での「自分」が全体の進化・成長のためにどのような判断をするかにかかっていると言えます。ですが、信頼できる高次の情報、たとえばセスの話からすると、より広い意味での「自分」(=トータルセルフ)は、非常に厳しい目を持っていて、生ぬるい人生ではもはや何の成長も期待できないと判断した場合、二度とそのような人生を選ぶことはないといいます。 ですから、仮に自殺された方が直面していた状況が、全体の進化・成長にとって克服すべき不可欠なことであった場合、より広い意味での「自分」(=トータルセルフ)は、今度の転生においても再び前回直面していた状況を選ぶ可能性は高いように思います。この辺はある意味、我々の価値観とは真逆(あるいは対照的)であると言っていいと思います。つまり、我々は小我(エゴ)からみますが、トータルセルフは大我からみるということです。要するに、我々には、何が全体の進化にとって最善か否かは、限られた視野・能力ゆえにわからないとみるのが適切であるように思います。いじめるのが悪い、いじめられるのが悪いという単純な問題を超えたところに、このような深淵な問題が潜んでいます。 もっとも、いじめに限ってみれば、いじめるほうが悪いという見方でいいのだとは思いますよ。我々は二元性の世界で生きていますから。一方的に戦争をしかけるほう(破壊者)が悪いというのと一緒ですね。一方的に戦争をしかけられるほう(被破壊者)といったら変ですけど、相手の国又はその被害者が悪いということには二元性の世界では間違ってもなりませんから。 ただ、それとは別のところに、我々が個人レベルあるいは国家レベルで同じことを何度も繰り返している事情には、いままでお話ししてきたようなより広い意味での全体にとっての進化との関係で深い問題があるのだということです。それは個人レベルではいじめかもしれませんし、国家レベルでは戦争かもしれません。する側、される側を超えたところで、全体の進化との関係でより深い問題があるということです。 あるいは、こういう見方もできるかもしれません。我々は今、地球上という舞台において、様々な役割を演じています。例えばいじめる役、いじめられる役かもしれませんし、国家レベルでは、戦争をしかける役、戦争を仕掛けられる役(戦争の被害者を演じる役)かもしれません。そういった我々の理解を超えたところに、全体の演目があり、それをより広い意味での「自分」が演じているわけです。通常は、「自分」と言えばトータルセルフを指しますから、舞台でどのような演目をするか、またどんな役を演じるかは、「自分」同士の協議によって決められるように思います。そうやって、様々な「自分」が、その時々に与えられた役を演じきることで、全体の進化に貢献していきます。ですから、時空を超えた多次元的なトータルな視点からみれば、すべて帳尻が合っており、いわゆる人間的な不公平というのは一切存在しない、こういうことになるんだろうと思います。
2010.08.21
以前、新たに亡くなられた方に対して救出活動をすることはほとんどないのだということを折に触れてご説明してきました。私のブログやヘミシンク関係の本を見ると、この辺がどうも誤解を生むようなのです。基本的に、人間が「死」を迎えると、いわゆる「お迎え」がきます。それは、その故人にゆかりのあるスピリットであることが多いとされています。ヘミシンク的に言えば「ガイド」になるんでしょうね。友人の話では、最近では死者に対する光の援助がすごいと聞きます。上のレベルからの援助が増しているというのです。ただ、自殺者については一概には言えません。自殺された方にも何度も今までお会いしてきましたが、囚われずに成仏されている方がおられる半面、囚われている方もおられました。一度、とても印象的な救出活動がありました。初めて私がケヴィンさんのもとでリトリーバルを学んだときのことです。そのセッションでは、自殺者のリトリーバルをしようということになりました。それで、ガイドの導きで自殺者のもとに行ったんですが、その方はいわゆる首をつって亡くなられた状態だったんですが、目を見開いたままこちらをじっと見ているんです。本人は何度も何度も首つりで死のうとしているようなのですが、死ねないんです。もうすでに亡くなられていますから。でも、本人はそのことに気づいていません。おかしいな~なんで死ねないんだろう、と。要するに、死んだ時の意識のまま囚われてしまっていて、自力でそこから抜け出せなくなってしまっているんでしょうね。自殺者が必ずそうなるというわけではありません。「この方は」そうだったということです。それで私は、すでに死んでいるのに死のうとしている方に対して、「あなたは自分がなぜ死ねないのか疑問なのですね?そのことについて非常に詳しい人がいるんです。」といって、ガイド(シスター)を紹介しました。その後、全員でF27へと向かいました。 他方で、自殺してもすんなりF27へと向かわれる場合もあるみたいです。私がAさんと一緒に共同探索をしていた頃、Aさんの知人の方で自殺された方に会いに行くというのをときどき二人でやっていたことがありました。当時は私も救出活動の訓練中だったわけですが、その時に、自殺しても必ずしも囚われるわけではないのだということを学びました。おそらくですが、援助の手というのは、一人の例外もなく常にさし向けられていると思うのです。ですが、自殺された方の場合、死んだ瞬間に強くフォーカスしてしまって、なかなかそういった援助が自分にさし向けられていることにすら気付けなくなっています。ただ、それに気づけた方は、すんなりとF27へと向かっていけるのだと思います。 死んだあとだけではなく、生きている間にも、人間には様々な人とのかかわり合いから、時には助けたり助けられたりして、援助の手というものがさし向けられています。そこに気付けるかどうかが、一つのポイントなのでしょうね。人生における解決策の糸口は、そうやってすぐ自分のそばまで来ていることがありますが、困難に直面しているときには、それに気付けなかったりするんですよね。ただ、それに気付きやすくする方法というのもあるように思います。それには、普段から周りに対して自分から感謝の気持ちを投げかけていることではないかと思います。それによって、ハートがグンと開いていきますから、高次の存在と接触できるエネルギーが広がるわけです。困っているときには、悩んでいるのは自分だけではありません。ガイドも共に悩んでいます。ガイドと自分は一体ですから、喜びだけでなく、悩みや苦しみも共有しています。そうやって、我々は常に様々な人間から見守られ、支えられて生活しています。まずはそのことに感謝ですね。 今この瞬間に生きるチャンスを与えられていること。これはとりもなおさず、いつでも人生をやり直せるチャンスがあることを意味します。いろんな人から見守られ、支えられつつ、常に様々なチャンスを与えられています。気付きというのは、すぐそばまで来ています。必要な気付きを得られるかは、自分がどういう波動を周りに放出しているかによって大きく変わってきます。できるだけ良い波動を出していきたいですね。自分の力で生きているのではなく、生かされていることに気付くこと。 そのためには、できるだけ自然と触れ合うのがいいかもしれません。あるいは神社ですね。休日などに家族で神社に出かけて、神気にふれてみて下さい。何も感じられなくてもかまいません。良い神社は、いるだけで心地良くなってきます。そこで静かな時を過ごしてみてください。心を落ち着かせて神社の神気を感じとろうとすることで、しだいに心が洗われていき、自然と感謝の気持ちがわき起こってきます。実際にやってみるとわかりますが、感謝の波動で満たされると、外へ向かうベクトルから、自分の内面に向かうベクトルに変わっていきます。つまり、感謝の気持ちというのは、自分自身と神我とを向き合わせる接着剤のようなものです。 ぜひ、ご自分の神我と向き合ってみてください。ご自分が愛そのものであることを感じてみてください。そうすれば、世界を見る目、人を見る目が変わっていきます。そうすれば、ヘミシンクでガイドを逆に利用してやろうなどとは間違っても思わなくなります(笑)。私利私欲に走らず、自己の神性さの開発のためにヘミシンクをしてみてください。それだけで、体験はガラッと変わるはずです。自分自身が叡智の源であることに気づくだけで、あらゆる限界の壁は越えていきます。体験を深めたい方、ぜひお試しください。自分自身の内面を見つめてください。
2010.08.20
こんなご質問がありました。以下整理したうえでご紹介し、その後私見を述べたいと思います。 >六爻占術に傾倒していて、あまりに的中するのでやめられない。占いが当たるのは、自分が信じた世界(信念領域)を占いで見ているからであって、言い換えれば占いを信じているから的中する現実を自分で作りだしている、というのは本当なのか?自分のありたい状況をイメージするというが、突発的な事件や事故で亡くなることも、集合意識や潜在意識等も含めた広い意味での「自分」が作り出しているということの意味がわかっているようでわからないし、理解できない。むしろ自分としては、運命のほとんどは決まっているのではという信念が刷り込まれていて、運命を占いで言い当てることで生活をより良いものにしていきたいと考えている。現在はヘミを体験することにより、陰の世界へアクセスしやすくなり的中率も更にUpする、という触れ込みもあり、それがヘミを続けている理由である。私(imimi)の占いに対するスタンスと意見を聞きたい。 ご質問者のrubyさんは、占いを誰かに頼むのではなく自分でされているということですので、その点を考慮したうえで以下私なりの見解を述べさせていただきたいと思います。まず、結論から申し上げるならば、私は自分では占いはしませんし、誰かに頼むつもりも一切ありません。信じるか信じないかというレベルではなく、興味がないといったほうが的を得ているような気がします。仮に100%10年後の私の未来がわかる人に、「あなたの10年後をただで教えて差し上げます。」と言われても、お断りすると思います。なんとなくですが、それではずるい気がするからというのと、それでは面白くないだろうと思ってしまうからです。ただ、人それぞれですから、占いを信じる人はやったらいいんでしょう。誰にもそれを止める権利はありませんしね。お好きなように。以上が私の占いに対するスタンスと意見です。と、これで終わってしまうとあまりにも味気なさすぎますから(笑)、ご質問者のコメントの中から引用しつつ、もうちょっと詳細にお答えしたいと思います。>占いが当たるのは自分が信じた世界(信念領域)を見る=占いを信じているから的中する現実を作りだすと言われてしまえばそれまでですが、ほんとうにそうなのでしょうか?私はご質問者が言われるような占いというものを全く知りませんから、それはご了承いただきたいのですが、上記の点が本当にそうかと言われても、正直わかりません。多次元的にみれば、「そういった現実を作っている人にはそうなる可能性はあるけれども、そうではない人には必ずしもそうとは限らない」、ぐらいの認識が妥当な気がします。言い方を変えると、種明かしのある手品で、「ほら、こうすればこうなるんだよ。」というのをやって見せてくれるのが、占いのような印象があります。つまり、最初から、答えは自分の潜在意識の可能性レベルの中にあるんです。あとは、そうなるように自分を占いの理論を用いつつ誘導していき、最終的に現実世界の事象と適合させていきます。その際、潜在意識下にあるものを現実化させるわけですから、自分の行動をコントロールしやすいですし、そういった自分の行動に関わるものについては占いが実現されやすいのではないでしょうか。ですが、自分のコントロールの及ばない北朝鮮等のことは、占いが当たりにくい。こんな感じではないですか?やったことないのでよくわからないんですけど。思うに、占いがあたるかどうかが問題ではなく、自分にとって人生を幸せに送れるかどうかが問題な気がします。何か自分にとってハッピーになれるかどうかを占うために占いをするんじゃないでしょうか。占いとは占うこと自体を研究しているわけではないですよね。それとも、占いによって世の中の出来事を思い通りにコントロールしたいから占うのでしょうか。あるいは、すべての事象が決まっているという運命論を前提とした上で、自分にとって都合のいいことをすべて占いで言い当てることで幸せになりたいのでしょうか。 現実世界を生きる中で、占いのような当たり外れのある博打(ばくち)的なものを追い求めるよりも、当たり外れのない、人間としての思いやりや、やさしさ、喜び、感動、そういったことを体験を通じて学ぶこと自体に大きな意味があるように思います。そしてそれらの神我に根差した神性さの種々の表現は、かならず巡り巡って自分自身に返ってきます。それは決して裏切りません。たとえ占いの結果には裏切られることがあったとしてもです。 そういった、裏切りのない神我に根差した人間として当たり前の体験だけが、死んだ後あの世に持ち帰ることができると言われています。喜怒哀楽を通じた体験ですね。人間関係を通じた体験を通した学びからです。ですから、短期的に見て人間に裏切られることがあったとしても(長期的にはかならず自分に良いことが返ってきます)、そういった人間同士の喜怒哀楽を体験を通じた学びのほうが、占いに裏切られるだけよりもはるかに霊的にみれば価値が高いと言わざるを得ません。というのも、我々はこの世に生れてくる前に、すでにどのような人と出会いそこでどんな学びをするのかを、大まかではありますが、あらかじめ決めてきていると言われているからです。それこそが、いわばクリアすべき課題なわけです。占いに当たる、外れるかではなく。 そういった意味においても、占いに人生を左右されるような生き方は、この世での目標課題の克服という点からすれば本末転倒というか、目的と手段が入れ替わってしまっている感じがします。なぜなら、占いは単なる余興にすぎず、そこから先に、例えば人間同士の出会いの中で何か学ぶべき課題が設定されていたりするからです。起こりうる事象にはすべて意味があるとしても、その全貌をあえて知らないほうが鮮烈な体験として記憶に残りますし、より一層神性さを発揮することにもつながるように思います。 以前ご紹介した、セスの壮絶な過去生(極貧の中で10人くらいの子供を抱えながらも歓喜に満ち溢れて生き抜いた人生)を思い起こしてみてください。むしろそのために、我々はすべての記憶をなくしてこの世に生まれてくるともいえます。そこから鮮烈な体験、感動、歓喜を得るためです。ですから、そういった見地からすれば、占いはむしろマイナスに作用する可能性のほうが大きいですし、自分自身の学ぶべき課題をまるで理解できていないということになってしまうように思います。ご質問から離れて占いをする意義にまで話が広がってしまった観がありますが、いわゆる霊的見地からすれば、占いに依存するのはナンセンスと言わざるを得ません。 ヒーリング、オーラ診断、除霊、超能力等による問題解決、前世診断・・・そういったものの根底にも、占いと同様の問題点が潜んでいるように思います。依存心です。自分の人生を何かに依存するのではなく、自分の人生は自分で決めるという前提があるからこそ、我々は「自分で決めてきた課題に真正面から精一杯取り組むことができます。」その前提を覆しかねないのです。もっとも、程度の問題もあるでしょう。どの程度そういったものに依存するのかという点です。しかし、ここで言いたいのは程度ではなく方向性の問題です。霊的見地から見て、依存に向かうのか、それとも、一歩ずつでも自立に向かうのか、という方向性です。 そういった観点からみれば、ヘミシンクも同様の依存関係を生む恐れがあります。ヘミシンクがうまくなってガイドと自由に交信できるようにし、ガイドからなんでも聞き出してやろう、とか。あるいはご質問者のように、ヘミシンクがうまくなって、占いがもっと当たるようになろう、とか。ですが、その前に、なぜそれを求めるのかを考えていただきたいです。占いの的中率を上げることで何をしたいのでしょうか。それで人間関係のすべてはうまくいくのでしょうか。占いに当たっても、人間関係で失敗する可能性もあります。占いで金もうけをしても、ドン底の人生を味わう可能性もあります。 それよりも、当たり外れのない、前述したような人間としての思いやり、心の豊かさ、愛情、魂からくる喜び、感動、人生を生き抜くことから生じる美しさ、そういったものを求めるほうが、最終的には幸福な人生を送れる気がするように私は思います。以上が私の占いに対するスタンスと意見です。
2010.08.19
今日は久しぶりにヘミシンクネタです。 私が初めてヘミシンクの基礎セミナーに行った時(2007年の11月でした)、同じ参加者の中に、「地球コアまで行きました。」という人がいました。私、当時はかなり疑り深くて(今でもそうですが(笑))、絶対うそだと思いました(笑)。初心者で、初めてヘミシンクを学びに来た人が、地球コアまで行くなんて・・・ちなみに、地球コアとは、地球の中心部分にあるとされる核の部分です。http://www.eps.s.u-tokyo.ac.jp/jp/gakubu/geoph/solid/core.html ヘミシンクの世界でいう地球コアは、非物質的なものを指していますが、もともとは地質学上の研究結果をもとに非物質的な地球の中心部分を見た結果、実際にコアのようなものが見えたので、非物質的にも地球コアというものが「あるのだろう」ということで、地球コアと呼ばれるようになったのだと思います。この非物質的な地球コアについては、ブルースモーエンさんの『死後探索』シリーズにわりと詳しく出てきます。ヘミシンクの世界では、結構こういうパターンが多いです。科学的な研究成果に基づくと、こういうものがあった。じゃあ、非物質的にはどうなんだろう・・・というので、いろいろ非物質的にも調べてみた結果、面白いものが見えてきた、みたいな感じです。普通の社会生活を送っていて、地球コアがあるなんて思いもしませんよね?大学等で専門的に学んでいるような場合は別として。 何を言いたいかというと、普通の主婦の方が初めてヘミシンクセミナーに来て、もし何の予備知識もなければ、「地球コアまで行きました。」ということ自体、ありえないことなんです(笑)。でも、そういう人がわずかですが実際にいます。それは、本なんかで事前に勉強してくるからなんでしょうけれども、体験というのは常にこういうことが伴ってくるように思います。つまり、そこにそれがあると思うと、実際にあるように「見えてくる」ということです。なぜなら、現実は自分で作り出しているからであり、非物質界ではそれが如実に現れてくるからです。もちろん、想定外のものも見えてくることはありますよ。ですが、それは潜在意識等も含めた広い意味での「自分」が作り出したものに他ならないわけです。 ここに、体験を深めるカギがあるように思います。つまり、現実とは(現実世界であろうと非物質界であろうと)広い意味での自分が作り出したものに他ならないことを知ること。そして、その上で、「想いは現実化する」を積極的に利用すること、です。つまり、体験がないという人は、体験がないという現実を作っているにすぎません。ただ待っているから何も体験できないんです。そうではなくて、自ら「想像」することで実際に「創造」されていきます。おそらく、この辺が現実世界とはえらく感覚的に違うと感じられるがために、なかなか受け入れられないところなのではないかと思います。「え~それじゃあ、単なる妄想でしょ?それは現実じゃないよ。現実とは、誰が見たってそこにすでにあるものなんだから。」こういう具合です。 今私が述べたことに強く同意された方。ヘミシンクでまだ体験をしたことがないのではありませんか?あるいは、ヘミシンク体験など所詮、空想の産物にすぎないとどこかで疑っておられませんか?繰り返しますが、現実とは、それがいかなる次元のものであったとしても、より広い意味で自分自身が作り出したものにすぎません。それが、多くの人の共有思念によってより強固に形成されているだけです。このC1という現実世界であったとしてもです。ですから、当然、非物質界においてもこれが成り立ちます。なので、「自分がどのような体験をしたいのか(どんな世界を見たいのか、どんな人と出会いたいのか)をまずは明確にして、具体的にイメージすること」がとても大切になってきます。 「え~そんなこと言ったって、イメージできないよ~。わたし、イメージするの苦手~」という方(笑)。練習してください(笑)。たとえばこんなやり方が有効です。普段、家でよく使うコーヒーカップがあるとします。なければ、湯のみでも、茶碗でも、お椀でもかまいません。とにかく毎日使うものです。それを、まずは見ないでどんな形だったか思い出してみます。思い出せますか?結構難しいと思います。と言いますのも、私達は普段、何気なくそれらを使っていますから、細部まで観察しないのです。ですが、知覚能力を高めるためには、より細部まで描きだすクセをつけることが大切になってきます。なぜなら、非物質的な情報というのは、そのような自分が望む現実世界で自らを投影することによって、また、その世界にガイド等の人物が入り込むような形で見えてくることが多いからです。 仮に顕在意識でしていなくても、よく見えるという人はそれを無意識にしていることが多いです。つまり、「想像は創造」をうまく利用できる人、なおかつ素直に見えたものを受け入れる人、こう言う人は体験が加速するタイプです。どちらも重要だと思います。「想像は創造」をうまく利用できることと、見えたもの感じたものを素直に受け入れることの二つです。そうやって、現実世界は自分自身が作り出しているというのを逆にうまく利用することで、ヘミシンク体験というのは今まで以上に深まっていくはずです。これは、誰かに会ってメッセージをもらうような場合でも一緒です。その人に会ったフリをして(実際に会っているような気持ちになってみる)、会話しているフリをします。「え~実際に会ってもいないのに、そんなの無理だよ~」ではなくて(笑)。 人間には想像力というものがあります。それをフル活用することによって、右脳の回路を働かせます。非物質的な情報というのは、左脳ではなく右脳に降りてきますから、そうやってメッセージなり体験なりを受け取るのです。つまり、1非物質的な情報 → 2右脳で変換 → 3左脳で認識という流れです。大まかに言えばですね。1から2への変換ができるのは、我々が多次元的に存在していて、複数の身体が次元に応じて存在しているからです。非物質的な体というものがちゃんとあるために、非物質的な情報を非物質的な感覚器官によって受け取ることができます。霊眼、霊耳に相当する部分です。あるいは第六感として直観的に情報等を受け取ったりもします。それは、非物質的な松果体の部分なんかがそうです。このように、非物質的な情報をいったん非物質的な感覚器官で受け取ったあと、2から3の変換によって物事を我々に理解できる形で認識します。これは物質的なものですね。右脳で見えたものを左脳で理解しないと認識できませんから。 ただ、この2から3への変換に多少のコツがあります。ブルース・モーエンさんは、「知覚者」と「解釈者」という言い方をしました。右脳で見えたものをずっと見つめていると、そのうち消えていきます。それではだめなのです。じっと見据えずに、「ちら見」します(笑)。その直後、見えたものが何を意味しているのか瞬時に左脳で認識します。これが、2から3への変換のコツです。これを素早く連続に行って情報をつかみ取っていきます。つまり、非物質界の知覚というのは、このような1から2、2から3の流れをひたすら繰り返すことで成り立っているものなのです。 私の体験というのはすべてこのような流れによって行ってきました。一見面倒なようですが、慣れてくると無意識にできるようになります。私だけではなく、ほとんどすべての方がこのような認識をされているはずです。意識されているか否かに関わらず。 もし、体験がないという方。今回ご紹介したようなやり方をまずは受け入れてみて、素直に実践してみてください。すると、今まで単なる妄想と切り捨てていたものが実は体験だったことに気づかれることと思います。 体験とは、自分で作り出しているものだということ。ですから、体験が何もないという人は、何もないという体験を自分で作り出しているというだけです。逆に言えば、「何もなくても、それが体験なのだ」ということをお忘れなく。そこに気付けるかが、体験を深められるかに直接的にかかわってきますから。
2010.08.18
以前、OWメンバーと一緒にジャカランダを非物質的に見に行った時、あまりの美しさに感動したことがありました。http://sydneysky.exblog.jp/12234770/上のようなジャカランダが森になっている場所に出くわしたのです。それは、フォーカス18と呼ばれる領域でした。このフォーカス18というのがよくわからないんですが、愛のエネルギーに関係しているように思います。 一般に、輪廻転生を抜けるのは、フォーカス27と呼ばれる領域で、その上のフォーカス35に行くと、I/Thereと呼ばれる集合意識があるとされています。スピリチュアリズム的に言えば、I/Thereは類魂あるいはトータルセルフに相当するように思います。このフォーカス35という領域に、愛のエネルギーの源もあるとされています。もちろん、根源的なエネルギーは、はるかかなたの領域、突き詰めれば「すべてなるもの」(=創造主)まで行き着きます。 ちなみに、万世一系システムの根源的なエネルギーであるアマテラスのエネルギーは、愛の源のエネルギーより上のフォーカス49が下段です。私のリーディングでは、そのエネルギーが直接伊勢神宮(おそらくは伊雑宮)まで降りてきているように感じます。これは通常ではありえないことです。一般には、地球物質界と非物質界はリンクせず、両者は別々の次元で独立した構造をなしているからです。ですが、地球物質界における伊勢神宮だけは別格なのだというリーディング結果でした。これは、数名の霊格者の話や、ホツマツタエや竹内文書などの古文書の内容において、万世一系の根源的なエネルギーが日本に降りてきているという事実からもうかがい知ることができます。そう考えますと、日本は霊的にみれば、ある意味特別な国であると言えます。根源的なエネルギーが直接降りてきている極めてまれな国だからです。 もちろん、私はどの宗教との関連性もありませんし、特に神道を重んじているわけではありません。宗教を一切度外視した、あくまで霊的見地から見た話をさせていただいています。そういった意味では、日本に生まれている私達は、非常に幸せな存在だと言えます。生まれていること自体が幸せです。日本に生まれることを希望している魂は多いと聞きます。ですが、日本で生まれ生活している当の我々は、そういった有難みをすっかり忘れてしまっています。我々は日々忙しい生活をしていますから、「俺(わたし)ってなんて幸せなんだろう。」と考えている余裕はありません(笑)。お金のこと、家族のこと、恋愛のこと、仕事・勉強のこと・・・考えると頭が痛くなってくる人もいるように思います(笑)。でも、時には休日なんかに、いったんすべての悩みをわきに置いて、「俺(わたし)って、なんて幸せなんだろう。」と噛みしめてみるのもいいかもしれません(笑)。 自分がいかに幸せなのかを実感できることは、自分自身の内面に強力に目を向けさせていきます。ご自分で幸せを実感できる時間を意図的に設けてみるのもいいと思います。美しい花を見に行く、山や海に出かけて自然に触れてみる、友人と楽しいひとときを過ごす・・・何でもいいと思います。そういった自分自身が時間を忘れるほど幸せを感じてみてください。その時、生きている喜びを感じられるかもしれません。神我への気づきは、日常生活にあるように思います。美しさ、喜び、思いやり、・・・そういったものにできるだけ多く触れてみてください。 自分自身の神聖さに気づけることで、生きる喜びが得られます。それが、明日への活力につながっていきます。それがいかなる体験であれ、加速していきます。現実世界であれ、ヘミシンク体験であれ。ありのままのご自分を受け入れてみてください。それによって、あなたらしい生き方のためのヒントが得られるように思います。
2010.08.17
>初コメントさせて戴きます、稲荷系・・・との記述に、30年前の奇妙な体験を思い出しましたので。 当時、社会人として成熟したいとの願いから、そこが 宗教団体であることを深く考えずに、ただただ人としての成長に役立つ話を聴けるのではと、或る団体の講話会に日曜毎に通っていました。 或る日、壇上で講話なさっている会の創始者(故人に なられました)の背後に、 途轍もなく 巨大な白狐が現れました。 瞳がないので、 何処を見ているのか定かでない真紅の目が印象的で した。 人の背後に立つ白狐は何を意味しているのか、今でも不審です。 自然霊は、その化身(=顕現)の一形態として、狐の姿をとったりするものでしょうか? 狐の姿で人を守護したり、指導したりすることはあるのでしょうか? 私は何となく、超巨大な白狐の能面のような顔付きに心がしっくりこなくて、パッタリと講話会通いを 止めてしまい、今日に到っております。<背後に立つ白狐の意味について>その場に私がいたわけではありませんので、正直なところはわかりませんが、お話を伺った限りでは、おそらくは、稲荷系の卷属っぽい感じがします。ただ、その創始者や周辺から来る念が強くて、あまりフォーカスしたくない感じです。 ですから、これ以上のリーディングはできません。おそらく、その教祖を導いていたのは、その背後霊なのかもしれませんね。 ただ、一つの存在ではなく、複数の存在がいたはずです。 一人の人間を導くのは通常、複数の指導霊によってなされますから。 <狐の姿で人を守護したり、指導したりすることはあるのか>自然霊の卷属が人を導くということがないとはいえませんが、非常にまれではないでしょうか。ただ、龍は別です。龍がガイドとして人間を守っているというのはあるようですから。 それは、人間と龍人との意識の上での深いかかわりに起因するみたいです。 思うに、太古の地球では、もっと今以上に様々な自然霊と人間とが協力・協調関係にあった可能性すらあります。 ところが、近代・現代になって、人間が自然霊を敬うことを忘れ、低俗な願い事の対象としか見なくなってしまった結果、人間の想念が渦巻くことによってそれ自体が意識を持ち、もともといた自然霊の高級霊とは別に、低俗な霊も出現するようになりました。 人間にはなかなかその区別がつきませんから、自然霊のしわざだというと悪さをする風にしか見ないけれど、そうじゃない気がします。 そういった状況を生み出してきたのは、ほかでもない、人間(の想念)なんですね。 ですから、自然霊が人間を補佐するということは確かにありますし、もともとはそれは悪い事ではありません。ですが、それは人によりますから、たとえば人の想念が渦巻く宗教団体なんかでは、一般論としては十分注意する必要があるように思います。ただ、これも一概にこうだとは決めつけられない部分があります。後述するように、最終的には「その人」の問題ということになるんだろうなとは思います。どの宗教に属するか否かではなく。 <自然霊が狐などの形態をとって現れたりするのか>自然霊は様々な形態をとって人の前に現れる可能性があります。一口に自然霊といっても様々なものがあり、あくまでも私が出会ったもので言えば、いわゆる形体をもたないものもいて、人間の都合に合わせて七変化して現れてくるものもあります。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E9%9C%8A))前々回くらいに一度、眷属と思われる自然霊が私のところに飛んできたというお話をしましたが、その時は、煙のようなエネルギー体をもつ霊で、ちょうど煙がすばやく渦を巻くみたいにして瞬時に人間(私)の想念を読み取った姿を作り出したりして現れてきます。私のところに来たのはかなり低俗な感じで、からかってきたりしました。それでいて、ものすごく素早く移動できますから(雲のようなつかみどころのない存在です)、いいようにからかっては逃げ去るみたいな感じでした。その時は、ガイドと二人がかりでその眷属と思われる自然霊が再度近づいてきたときにPULを放射してリトリーバルしました。要は、彼らは人間に使われていると言ったら変ですけど、波長の合う人間とのコラボレーションといった感じで、お互いが使ったり使われたりといったギブ・アンド・テイクのような関係が成り立っているようです。 あとは、よく言われるような精霊(木の精、水の精、等)などは、人の前に来ると特定の形態をとって現れたりしてきます。白い綿のように見える「こだま」や、少女やおじさんの姿をした妖精なんかがそうです。おそらくは、本来は我々の知らない形体、もしくは特定の形体をもたずに存在していると思われますが、その場に応じて、一時的に形態を伴って人間のところに現れてきたりするみたいですね。あとは、雲のような形として物質的に現れてきたりすることもあります。龍なんかがそうです。あるいは、白狐(びゃっこ)などの動物や、カラス、チョウなどの姿を借りて現れてくる可能性もあります。 私の友人なんかは、小さい頃から白狐に守られているという人がいます。その場合、おそらく自然霊でありながらガイド的存在でもあるのではないかと思います。ただ、そういった存在も、一時期ついていたとしても、人間の波動の変化によって離れたり、さらに高級な(あるいは低俗な)霊がついてきたりすることもありますので、一時期そういった自然霊の形態を見たからと言って今現在も守られているとは限らない場合もありますから注意が必要です。また、守っているわけではなく、単に姿を見せにくる場合もあります。おそらくそれは、多次元的に存在する両者(人間と精霊)が、なんらかの事情によって他の次元に投影されて現れてくる場合があり得ます。その場合、例えば、人間の目に妖精が現れて見えてくるといった現象が起こるように思われます。あるいは、多次元的なチャネルが開いている霊格者などの場合には、人間界にいながら精霊界を覗き見ることで精霊達を把握できる場合もあるでしょう。 <宗教団体に所属することについて>最後に、ご質問に間接的にかかわってきますから、宗教団体に所属することについての私見を述べさせていただきたいと思います。新興宗教にかぎらず、どの宗教でもそうだと思うんですけど、大切なのは、「自分自身」ではないでしょうか。 どの組織に所属していたとしても、また所属していなくても、人間の生き方として立派な人生を歩む人はいるように思いますからね。 そういった意味では、その時その時の出会い、与えられた環境に対して素直にまずは感謝することではないでしょうか。 ひかりさんがその宗教団体に所属していた時に、少なくともなんらかの指針は得られたはずです。 今はもう縁がなくなったわけですけれども、まずは当時そういった自己成長の場が与えられていたことに感謝ですね。 私は宗教団体に加わったことはありません。 でも大学時代の友人で入っている人がいて、一緒にその団体に連れて行かれたり、何度も勧誘されたことはありましたけどね。 人それぞれではないでしょうか~ (笑)それこそ、レイキの創始者と二代目の運命を分けた話のように。 (金儲け主義に走った創始者は魔界に落ちて、二代目は生活に最低限の金銭しかとらなかったためにそうはならなかったという話です。Kagariさんのブログに詳しいです。http://mihoh.seesaa.net/article/143111780.html)
2010.08.16
ももさんへのお返事>光の柱はどのようにすればいいでしょうか?場所はどの辺りがいいでしょうか?自分では分からなくてもちゃんと出来てるものでしょうか?光の柱の立て方についてはこちらをご参照ください。http://fukutyaippuku.web.fc2.com/OW/hasira.htm場所は、通常であれば社の前でなさるのがいいと思います。出来たかどうかわからなくても、ちゃんとできているようです。OWメンバーの方で二人で検証された方々が過去におられたように思います。以上の説明が難しければ、社の前で単に感謝の気持ちをささげるだけでもいいと思います。特にお供え物等をする必要はないように思います。供えるとしても線香くらいでいいと思います。曼荼羅については、どれでもイメージしやすいものを使われるといいと思います。私の場合は、自分で写真で撮った太陽曼荼羅をイメージしています。 それを3枚重ねて、最後に球体になるイメージをします。イメージというのはたとえどんなものであっても本質的なものではありませんから、ご自分なりにアレンジされてかまわないと思います。要は、自分のC1にいる位置と、地球意識(ルシアガーデン)と、曼荼羅(源)とを重ね合わせることによって、一体化させて、エネルギーを自分が今いる位置までおろしてくることに主眼が置かれています。それを強く意識されてみてください。あと、曼荼羅中心の次元の窓のイメージとしては、私は銀河のコア部分の黒いところ(銀河コアにはブラックホールとホワイトホールが存在するとされています) を想定しています。別にこれも決まったやり方というのがあるわけではありません。次元の窓は、「どこでもドア」と同じとお考えください。意図すればどこにでも行ける多次元への扉となっています。ヘミシンクでは、ナルポイントと呼ばれるところに相当します(ナルポイントについては、以前の記事をご参照ください。http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/201004180000/) 「F」さんへのお返事>imimiさんは最近、神社について、いろいろと書かれていますが、お寺についてはどうでしょうか?お寺でも柱建てますよ(笑)。最近も墓参りに行ったついでにその地で有名なお寺や外国人墓地等に行きました。光の柱は、神社等の神気の充満した地で最初は建てた方が、神我(エネルギーの源)とのつながりがわかりやすかったりします。ですが、私の場合は、神社だけでなく、他の場所でも建てます。自分が光の柱となってその地に立つことで、その地も癒されるからです。光の柱建てには、そういった意味もあるように思います。つまり、土地を癒すという働きです。 ただ、これは「私は」しているというだけで、他の方にもブログで勧められるかと言うと、それはしません。なぜなら、例えば場所によっては「魔の踏み切り」と呼ばれる場所のように、エネルギー的にあまりよろしくないところ(以前お話しした言い方では「ケガレチ」)で危険性が全くないとは言いきれないところもあるからです。ですから、読者の方は、そういった場所に自分からは行かないでください。お勧めはできません。行くとすれば、神社がよろしいかと思います。お寺でもかまいませんが、お寺ですと、神社のような神気に満ちているわけでは必ずしもありませんから、もしかしたらエネルギー的に感じられにくいというのがあるかもしれないからです。ですが、お寺でも問題ないように思います。すべてではないですが、私がまわった限りでは、墓地やお寺というのは、普段から僧侶によって供養されていますから、場のエネルギー的にはそれほど悪いという印象をもったことはありません。上でご紹介した外国人墓地にしてもそうです。いくつか回って見た中ではエネルギー的に何ら問題はありませんでした。私見では、たとえどんなところであっても、自分が光り輝く存在であって自分の軸さえゆるぎないものであったならば、周りのエネルギーに翻弄されることはありません。故意に恐怖心をあおるような存在にも今まで会ったことはありません。 大切なのは、前回とも重なるんですが、どこへ行こうとも、人間としての礼節を重んじて、感謝供養に徹することではないかと思います。ただし、物質界でもそうですけど、気持ちがネガティブに強く傾いているときには注意してください。生きている人間でも良からぬものが寄ってくる場合があるように(人の弱みに付け込んでくるような人間等)、死んで人でも、よからぬ存在がいないとは限りませんから。そういったネガティブな存在を避ける一番良い方法は、自分が光の存在(ポジティブ側)になって、光を放つ存在であることだと私は考えています。波長の法則から、自分がポジティブであればネガティブな存在に引き合うことはないからです。
2010.08.16
>imimiさんがお勧めする伊勢白山道さんという方は以前からこの方に非常に対抗意識を燃やしていたようで、私にはあまり良いイメージがありません。私が信頼していた他の方も例の線香三本供養についてその危険性を警告されてました。勝手な事を言うようで申し訳ありませんが一度再考されてみて下さい。線香供養自体はなんら問題ないように思います。というか、仏前に線香を立てるというのは、日本人なら誰もがやることですから、三本ならまずいという理由が私にはわかりません。その信頼されている方がなぜリーマンさんの線香供養を否定されるのか、逆に詳しく聞かれたほうがいいと思います。繰り返しますが、私自身は、線香供養に関しては全く問題ないように思います。先祖に線香を使って感謝をささげる行為は、一般的でありますし、何もまずいことはないのではないでしょうか?
2010.08.16
仏教では、人間には108の煩悩があると言われています。ただ、時代・宗派によりまちまちとも言われ、小は3にはじまり、通俗的には108、大は64000とも言われるのだそうです(Wikipediaより)。Wikipediaの解説で印象的だったのは、「人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。」という部分です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9 今までいろんな高次の存在とチャネリングしてきた中でほぼ共通しているのは、人間らしく生きなさいという視点です。あくまでも、現実世界を大切にして、そこから得られる様々な経験を積むことが一番大切なのですよ、と。我々が力を注ぐべきポイントが現在にあるということは、セスやエイブラハムも伝えているところですが、その際、自らの行動の指針となる「心地よいか否か」という感情が、いわゆる煩悩として分類される欲とは一応区別して考える必要があるように思います。どちらかというと、この感情は、魂の奥底から生じるものであって、欲とは異なると思われるからです。 我々が現実世界にフォーカスするとして、誰もが思うのは、自分なりの幸せではないでしょうか。そして、これに関連して、誰もがうらやむ成功とは何かについて、エイブラハムが興味深いことを言っています。以下引用します。トルフィーでも、お金でも、人間関係でも、物事でも、あなたが望むことが実現すれば、それは成功だ。だが、喜びを見いだすとき、あなたは自分の波動が宇宙の源と調和していることに気づくだろう。望まない何かに焦点をさだめているとき、あるいは望む何かが欠如していることに焦点を定めているとき、喜びは感じない。したがって喜びを感じていれば、波動が矛盾することはない。思考と波動が矛盾しているときにのみ、望みの実現が遠ざかるのだ。おもしろいことに、大勢の人たちが人生経験を図る物差しを探して多大の時間を費やしている。本当は自分のなかに非常に高度で正確でいつでも使えるナビゲーションシステムがあるのに、自分の外に善悪の区別を教えてくれるものを求めている。この「感情というナビゲーションシステム」に注意していれば、そして今自分がいる場所で見つかる一番心地よい思考だけを心がければ、視野が広がって、本当に望むものの方へ進みやすくなる。物質世界の時空という明暗のはっきりした素晴らしい現実のなかを進むとき、自分の感情に敏感になって心地よい方へと思考を導けば、やがては「内なる存在」という広い視野で人生を見られるようになる。そして、自分が見えない世界の視野で選んだ道を歩いているという満足感を覚えるだろう。これは、見えない世界にいて、物質世界の素晴らしい身体に宿ることを決意したときと同じ視野のことだ。見えない世界の視野が得られたとき、自分が永遠に進化していく存在であること、この明暗著しい最前線の環境には素晴らしいチャンスがあることが理解できる。さらに自分が持つすばらしいナビゲーションシステムの性質を理解し、そのシステムを使うことに慣れれば、「内なる存在」と同じ見方でこの世界を見られるようになる。すべての創造者の自由意思に応じて働く「引き寄せの法則」の力強さ、公正さ、正確さもわかってくる。見いだせる限り最も心地よい思考を心がけることで、あなたは見えない世界の視野に再び接触できる。そして生きる目的、人生への情熱、それに自分自身に再び触れて、歓喜に震えるだろう。」(『引き寄せの法則』エスター・ヒックス・ジェリー・ヒックス著、ソフトバンク・クリエイティブ社、132-133頁) つまり、エイブラハムがここで言っているのは、我々が人生を生きる上で、行動の指針となる「心地よいか否か」という感情であって、仏教でいうところの煩悩的な欲ではないわけです。もっと根源的な魂の奥底から生じる感情なんだと思います。ですが、面白いのは、仏教で言うところの煩悩の教えと、エイブラハムの教えは、どこか通じるところがあるように思えるのです。つまり、ありのままを受け入れたうえで、素直な自分自身の気持ちという羅針盤に従いなさいという点です。 もちろん、大乗仏教ではそこまでは明確には述べていないんですが、興味深いのは、以前釈迦のパーソナリティーと思われる存在と非物質的にコンタクトをとったとき、釈迦が伝えたもともとの教えは、「現実世界をいかにして実り豊かに過ごすか」といったように、セスやエイブラハムとほぼ共通する内容を述べていた点です。本来釈迦が伝えたのは、そういった内容だったというのです。セスによれば、釈迦は多次元的世界を見通す力を持っていたとされていますから、釈迦は、エイブラハムが現世において生活しながら人々に道を説いていたようなものです(笑)。ですから、両者は似ていてある意味当然なのかもしれませんね。 釈迦も当然知っていたわけです。我々のフォーカスすべきポイントが現在にあるのだということを。なぜなら、「今」しか存在しないのですから。無数にある「今」が過去、未来を形成しているわけです。ありのままを受け入れたうえで、現実世界にフォーカスする。その際重要となってくるのが「それが自分にとって心地よいと言えるかどうか」という感覚であること。これは、我々にとってとても大事なことのような気がしますね。 人間というのは、自分のため、家族のため、他の誰かのために、いつの間にか本来の自分が求めている気持を犠牲にして物事をやっていたりします。「自分はずっと、家族のために毎日毎日一生働き続けてきた。だけど、死んでみて気づいたら、あー自分は今まで何をしてきたんだろうと思う。日々の生活に追われるだけで、自分らしさというものを見失っていた。自分はいったい今まで何をしてきたんだろう。」ある霊能者の人が書いた本の中に、死者の上記のような思いがつづられていました。その言葉を目にしたのは、もう今から何年も前のことで、スピリチュアルに興味を持ち始めたばかりくらいの時だったと記憶していますが、妙に印象に残っています。おそらくそれは、私は当時から「自分らしい生き方」というものをどこかで追い求めていたからかもしれません。嫌々やっている苦しい苦しい日々ではなしに。 多くの高次の存在が口をそろえて伝えてきているのは、「現実先にありき」ではなく、「思い先にありき」ということです。思いが現実を作っているからです。与えられた環境の中で、自分らしい生き方ができたら最高ですね。
2010.08.15
>神社の記事なので便乗してお尋ねしたいのですが、昨日、我が家の猫が裏手の土手から鳴きますので、降りれないのか、怪我をしたのかと、必死で探しました。最近引っ越したので地理が分からず茂みの入り口を探し、やっと道を見つけ、猫も見つけました。すると、赤い鳥居があり、稲荷と書いてあります。近所には神社があるのでそちらには参りますが、稲荷さんには全く気が付きませんでした。お稲荷さんも神社と同じように参ればいいのでしょうか? 以下は、あくまで私個人の見解ということでお聞きいただければと思います。例えば稲荷系神社の総本社と言われる伏見稲荷神社の場合、霊視してみると自然霊系の神様という印象が強いです。自然霊でも、高級霊をまつってあるという印象があります。伏見稲荷神社の場合はですね。 以前、地元にある伏見稲荷神社を非物質的に訪れたとき、伏見稲荷神社にはある特徴があることがわかりました。それは、以前ある方とのつながりから、私の身近に自然霊系の眷属が飛んできたことがあったんですが、その時は、どちらかというとネガティブな想念を感じたんですが、その眷属に対して抵抗することなく、愛の気持ちを投げかけて逆にリトリーバルしたんです。すると、しばらくして、京都の伏見稲荷神社に司ると思われる女性神が現れてきて、私に眷属を返してくれてありがとうといった思念とともに花束を届けにきました。花束はささやかなお礼の気持ち(PULの具現化したもの)だったのでしょう。 私の場合、このような印象はすべて直観的に把握するのですが、いままでの救出活動の例からみても、かなりの確率で的中していますので、主観的事実としてすべて受け止めてきました。そのときにお礼を言いに来た女性神が、伏見稲荷に司る自然霊の親分的な存在だと感じました。稲荷系の神様は眷属を使うとされていますが、その眷属というのがどうやら自然霊の集合意識らしいのです。その時の女性神というのは、おそらくその自然霊の集合意識を代表するハイア―セルフ的な存在だったのだと思っています。あくまで伏見稲荷の場合ですが、おそらく日本全国どの神社に行っても、自然霊系の集合意識が関与していて、特定の伏見稲荷に意識をフォーカスするとその自然霊の集合意識(私には和服姿の品のある女性に見えます)が出てくるのだと思います。 ただ、稲荷系神社のすべてがすべて高級霊とは限らないと思います。 特に、願い事をしないほうがいいです。 稲荷系神社の場合、様々なご利益を期待してか、様々な願いことをする人が多く、そのような想念に同調してしまう危険性があるからです。神様でも、地球意識や太陽意識のおおもとから来ている高級霊もいれば、そうではなく、人の想念によって生み出された低俗な霊もいます。人の想念が低俗だと、そういった低俗な霊(神様)も引き寄せられてきます。一時的に簡単な願いごとが叶ったとしても、その後必ずしも良いことが起こるとは限りません。むしろ、低俗な想念がさらなる低俗な想念を呼ぶことがないとも言えません。ですから、願い事はしないほうがいいです。そうではなく、人間としての礼節を重んじて、感謝・供養をしていれば問題ないのではないでしょうか。 要するに、たとえどんな稲荷であったとしても、基本的には丁重にお参りするのが大切だと思います。 猫を使って知らせてきたのは、そこにお稲荷さんがあることに気づいてほしかったんでしょうね。できればお稲荷さんのところで光の柱を建ててあげてください。無償の御奉仕として供養をして差し上げることで、巡り巡ってそれが必ず自分にも返ってくるように思います。
2010.08.15

最近、いろんな神社に行くんですが、神社によっては、手入れが十分に行き届いていないと感じられるところがあったりします。まあ、いろんな事情がおありになるんでしょうけども、最近行った神社もそれはひどいものでした。まず驚いたのが、入口です。鳥居があるんですが、鳥居の外は駐車場になっていて入口がふさがれているんです。ですから、神社の正門から神社に入ることができなくて、参拝者は神社の裏手から入っていきます。 普通、神社の境内には、エネルギーフィールドがはられてあって、要は境内の中は一種の結界になっているわけです。それによって神気が境内に満ちるようになっています。ところが、その神社は、神気どころか、寒々とした気配が漂っています。真夏なのにです。境内に足を踏み入れた途端、ゾクゾクとした寒気が走り出したんです。これは普通じゃないと思い、すぐに光の柱立てを行いました。神社を立ち去った後でも、かなりしばらくの間私の体を伝って高次のエネルギーが流れ続けていましたから、よほどひどい状態だったのだと思います。神社というのは、神様を祀るところですよね。神様とは多次元的にみれば人間そのものですから、神様を汚すということは、それすなわち人間を汚すことにもなります。一度神様を祀ったのならば、様々な人の力でそこを守っていただきたいなと強く感じました。 あと、最近行ったのは、地元でパワースポットと言われているところでした。ですが、実際行ってみると、そうでもないんです。そこにも神社があるんですけど、通常の神社とはエネルギー的にちょっと異なった感じでした。 どちらかというと、日本神界系というより土地の守り神的な存在というのでしょうか。エネルギー的には、第3チャクラから第1チャクラにかけて反応がありました。地球意識系のエネルギーのようです。太陽意識の場合には、ハートチャクラから上に反応してきますから。実はそこは、いわゆる気功師の方がパワースポットだと紹介されていたところなんですが、私が行ってみて感じた限りでは、日本神界の高次のエネルギーではなかったです。 気功は私はやったことがないんですが、気はエネルギー的にはもしかしたら物質界に近いのかもしれませんね。人間というのは今この瞬間も多次元的に様々なレベルに同時に存在しているのですが、エネルギーがどのレベルに反応するかによって、その降りてきているエネルギーが高次か低次かがだいたいわかったりします。たぶんそれは、土地のエネルギーであってもそうなんだと思います。 土地にはイヤシロチとケガレチというのがあるとされています。(http://www.igakutogo.com/narasaki.html)つまり、良いエネルギーをもつ土地と良いエネルギーをもつとはいえない土地というのがあります。もともと神社なんかは、イヤシロチに立てられることは多いんだとは思います。ですが、その後の人の管理とかが悪かったりすると、イヤシロチであるにもかかわらず、その場の波動が下がったりします。1番目にお話しした神社なんかはそうですね。 私が住んでいる地域で最も神気に満ちた場所は、以前ご紹介した地元の神社です。(http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/201006210000/)ここは、エネルギー的に強いというより、清々した、凛とした空気が流れています。いかにも日本神界系の場所と言った感じがします。いわゆるパワースポットには、地球意識からの強いエネルギーを感じるところはたくさんありますが、ちゃんとした神社と言ったら変ですけど、その地域を代表するような神社の場合、地球意識だけではなく、太陽意識のエネルギーも強く感じたりします。たとえアマテラスがその神社の御祭神ではなくともです。もともとエネルギーには、地球意識、太陽意識といった区別は上のほうではないみたいで、そういった区別が感じられるのは、人間的な認識力のせいみたいです。区別しないと物事を認識できないという我々の限界のせいです。ですから、本来のエネルギーには区別はないんでしょうけど、いわゆる神社に行くと、確かに地球意識系と太陽意識系のエネルギーの区分を感じ、それが強く出る神社があったりします。ここは、エネルギー的に強いというより、清々した、凛とした空気が流れています。 以前、伊勢神宮を非物質的に訪れた際、伊勢神宮は地球意識と太陽意識のエネルギーが完全に融合するところだと言われたことがありました。<写真1> 伊勢神宮ほどではないにせよ、他の大きな神社でも、そういったことはあるんでしょうね。 明治神宮なんかもそうですね(写真2)。ここを参拝させていただいた時、素晴らしい神社だと感じました。 まだ歴史は浅いのにもかかわらずです。素晴らしい森に囲まれていて、あの森が一層神気を充実させているのを感じます。最近、東京を訪れる機会があって、その時いくつかの神社も参拝させていただいたんですが、その中でも印象に残っている神社の1つが明治神宮です。日枝神社にも行かせていただきましたが、ここは確か、第3チャクラから下の方に強く反応が出たところだと記憶しています(写真7)。 平将門の首塚は、エネルギーは強かったです。第3チャクラから下の地球意識のエネルギーでした(写真8)。何匹かのハトが地面に這いつくばるようにして寝ていたのにはびっくりしました。ハトが寝ている光景は、初めてみました(笑)。 動物はエネルギーを敏感に感じたりしますから、地面からくるエネルギーを感じていたのかもしれませんね。 初めて柱立てをした神社よりも、何度も訪れている地元の神社の方が、太陽意識の存在を強く感じるようになるというのも、やはりちゃんと建てた柱というのがその場に存在していて、柱を何度も建てることでそのエネルギーが強化されてくのかもしれませんね。そういった意味では、神社も、単に歴史の長さの有無ではなく、参拝するものの意識によって感じられ方が異なってくるものですし、そこに行った時に得られるエネルギーも、どれだけそこに心をこめて参拝しているかによっても異なってきるように思います。 基本的には神社はエネルギー的には良い場所です。ですが、それを一層良くするのも我々人間ですし、その逆もまた然りです。土地と人間というのは、切っても切れない関係にあるものだなと、神社の参拝を通して最近感じた次第です。良いエネルギーを土地や人に与えれば、それは巡り巡って自分に返ってきます。 できるだけ良いエネルギーを与えていきたいですね。
2010.08.14

今日は、アカシックレコードの話をしたいと思います。(画面が横に広がって見づらい場合は、「アカシックレコードについて」のタイトルをクリックして見てくださいね)アカシックレコードとは、宇宙の歴史がすべて収められている図書館のようなところです。以前、太陽系には7つのアカシックレコードがあると言われたことがありました。ちなみに、別の銀河には(たとえばアンドロメダ銀河)別のアカシックレコードが存在しています。ですが、両者は同じエネルギー系につながっている可能性もあります。基本的には人類の集合意識としてのアカシックレコードが1つ存在していると考えればいいように思います。つまり、究極の情報源は単一のエネルギー系なのではないかと私はみています。 では、アカシックレコードはいったいどこにあるのでしょうか。これについては、特定の場所、領域にあるわけではなく、「アカシックレコードというエネルギー系にアクセスする」と考えられた方がいいかもしれません。要は、「光のネットワークにアクセスする」とほぼ同義だと私個人は考えています。実際、以前はよく、フォーカス27(輪廻転生の中継地点)にあるアカシックレコードや、フォーカス49にあるアカシックレコードを訪れていました。ですが、最近では、太陽意識内部からアカシックレコードにつながったり、セントラルサンからアカシックレコードにつながったりもできることがわかってきました。 アカシックレコードの見え方ですが、当初は、F27のアカシックレコードはタージマハールのような荘厳な建物に見えることが多かったです。F49の場合は、透明なクリスタルでできた図書館のような感じでした。最近よく訪れるアカシックレコードは、ただの光の球体から入っていきます。その中に入ると、私と縁のある女性や男性の高次の存在とつながって様々な情報を聞き出すことができます。優れた芸術家は、アカシックレコードに自在にアクセスすることができます。それによってすばらしい作品を世に送り出すことができます。作家も同様です。セス流に言えば、「夢見の世界」で頻繁にアカシックレコードの情報源につながり、それを地球上に降ろしてきているとされています。 今回は、アカシックレコードにおさめられている寓話を紹介したいと思います。「うさぎとカメ」のお話です(笑)。おそらくは、寓話もアカシックレコードからのインスピレーションに着想を得ているものは多いはずです。今回お話しする、あの「うさぎとカメ」のお話のように。今回は、「うさぎとカメ」の話のもととなった情報をアカシックレコードから入手して、それを私流にアレンジした物語をご紹介したいと思います。imimi版「うさぎとカメ」のお話です(笑)。以下では、うさぎという名の人間、カメという名の人間を想定されてもかまいません。 うさぎは、非常に理知的で、物事をすばやく判断し、また好奇心も旺盛ですから、様々なところに出かけていきました。当然、地球圏では満足できず、太陽系の様々な惑星に行ったり、太陽系を超えて、プレアデスやオリオン、シリウスといった人類の起源とされる星々に行ったり、別の銀河にまで行ったりしました。その結果、うさぎはついに、宇宙意識とつながる方法を会得しました。 他方で、カメは、まだ地球にいます。のんびりしていて、何を考えているのやら・・・(笑)カメは最初から自分の本分をわきまえていました。「僕はうさぎ君のように頭もよくないし、いろんなところに行く行動力もない。だから、ここで黙って瞑想をしよう。」そうして、カメは地球上で静かに内観を始め、自分自身を見つめ始めました。他方で、うさぎはカメを「馬鹿だな~」と思って見ています(笑)。 ですが、最終的にカメは宇宙意識そのものと一体化しました。単につながるだけではなく。うさぎは驚きました。一体どうなってんの?!みたいな。カメを多次元的視点からみてみると、カメは大日如来の姿になって見えてきます。確かに大日如来として、この宇宙を超えたところで顕現しているのです。それに対して、あれほど理知的で活動的であり早くから宇宙意識とつながっていたうさぎは、まだこの宇宙の中にいます。 理性の神は、静かにその理由を答えました。なぜうさぎとカメのような違いが生じたのか。理性の神は、その違いは「発心にある」という言い方をしました。すなわち、決定的な違いを分けたのは、謙虚さにあるというのです。うさぎは慢心していました。自分の能力に対して。いち早く宇宙意識に到達できたことも悪い意味でその一助となったのかもしれません。 それに対して、カメは常に謙虚でした。自分の本分をわきまえようとしていました。それが、自分自身の内面に目を向けさせたのです。その結果、最終的にカメは自己の内面にある神性な部分の存在に気づき、それを深く見つめていったことにより、その神性な部分、すなわち宇宙意識(大日如来)と一体化するにまで至ったのです。ウサギは最後まで、外面のめまぐるしく変わる変化にとらわれていたのか、宇宙意識を深く考察するところまで至らなかった、こういうことになるんでしょうね。以上が、アカシックレコードにおさめられている、あの「うさぎとカメ」の物語の霊的な意味です。 これから学べる教訓は、次のようなものになると思います。すなわち、“霊性開発では、まずは謙虚さが必要であるということ”そして、“外面の変化にとらわれることなく、自己の内面に目を向けていくこと”です。ちなみに、謙虚さは、感謝と言い換えることもできるように思います。うさぎには謙虚さが足りなかったんでしょうね。 ぜひ皆さんもアカシックレコードに行ってみてください。それは、あなたの内面に存在しています。誰でも自由にアクセスできますので。ただし、アクセスできるか否か、できたとしてどこまで情報取得できるかは、あなた次第です。これは、前回お話したことにつながると考えられていただいて結構です。すなわち、どこまで情報取得できるかは、自分の力ではないのです。「向こうから、自然に、自動的に、チャンスはやってきます。」このような形で、霊的な正負の法則は作用しています。つまり、アクセス能力は、自分がどれだけ霊的な遺産を持っているかに直接的に関わってきます。あるいはこう言い換えてもいいかもしれません。霊性の程度に比例してアクセスすることが許されるのだと。 ですが、なにはともあれ、どの道を求めるかは人それぞれですが、(つまり、霊性を促進する道を選ぶか、それとも現世的な利益の追求に走るか。それに応じた形で正負の法則、引き寄せの法則が実際に作用してきます)前回私がお話したことを真剣に考えらた方は、遅かれ早かれ、あらゆるヘミシンク体験は加速していくはずです。もちろん、それは今回お話した内容とも関わってきます。 それでは!(写真はWkipediaからです)
2010.08.13
日航機墜落事故から今年(8/12)で25年らしいです。以前にもお話ししましたが、この事故での救出活動はとても印象に残っています。<慰霊登山の様子>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100812-00000513-san-soci.view-000 なぜかこの事件は人事(ひとごと)とは思えないのです。私の救出活動の原点はここにある気がします。「もし自分が被害者だったら」という思いです。以前、救出活動中にある高次から、「他人を助けているのではなく、自分を助けているのだと思って救出活動にあたりなさい。」と現場で言われたことがありました。その当時はさかんに救出活動を行っていた時でしたので、毎回自分の意志でやっていたこととはいえ、どこか義務的な感じで取り組んでいたのかもしれません。ですが、いつも心にあったのは、「何か人の役に立ちたい」という思いでした。今でも災害現場での救出活動は続けていますが、気持ち的には変わっていません。 救出活動をする中で驚いたのは、救出した人がわざわざ私のところまで来てお礼をしにきてくれたことでした。それは私としては全く思いもかけないことでしたので、うれしいやら気恥ずかしいやらで複雑な心境でした。自分としては全くたいしたことはしていないと感じていたからです。ある時なんかは、高次の存在に連れられて一人の小さな女の子がやってきました。外国で救出活動をした時と記憶していますから、外国人だったと思います。アフリカ系諸国の子供だったように思います。その子が高次に連れられて私のところに感謝の気持ちを伝えに来た時、その子はこう言ったんです。「今度生まれ変わったら、彼のような日本人になりたい。わたしも人助けがしたい。」と。そういう風に、C1での私の生活を見ながら、その子は高次に語っていました。私はその言葉で胸がいっぱいになりました。自分としては全くとるに足らないことをしたにすぎないと思っていたのに、確かに人の役に立てたと実感できたからです。人間というのは、どこでどんな形で逆に助けられるか分りませんから、もしかしたら私も、いつかあの女の子にどこかで助けられる日が来るのかもしれません。 自分の気持ちの中で、なんの見返りを求めない心境で心をオープンにしていると、他人のために役に立てるチャンスというのが自然に向こうからやってくるときがあります。それこそがまさに、昨日お話した神性さを発揮できるチャンスの1つなのだと思います。そしてそれが巡り巡って自分自身の進化にもつながっていきます。その意味では、神性さを発揮できる(進化のための)チャンスというのも、自分から得るものというよりは、与えられるものなのかもしれないなと思ったりもします。 ともすれば、我々は生きていることが当たり前だと思ってしまいます。いつもの習慣的な日常生活の中では、それ自体にどっぷり浸かってしまうがゆえに、自分の中に神性な部分があることさえつい忘れてしまいます。ですが、たとえどんな状況であったとしても、神性さを発揮できるチャンスというのは、心がけ次第では向こうからやってきます。それによって、たとえほんのわずかであったとしても、進化の階梯のワンステップを上がることができます。 生きていることの喜び、いろんなチャンスを与えられていることに対する喜び、これに気付けるか否かが体験をさらに加速させる鍵のように思います。普段のヘミシンクワークでも、上で述べたような意味での感謝の気持ちがあれば、きっと体験もうまくいく、私はそう信じています。自分自身の神性な部分に目がいくとき、自然に高次の存在とのネットワークができます。「類は友を呼ぶ」からです。似たもの同士の波長が自然に引き合ってきます。ですから、ヘミシンクでの深い体験というのは、そういった心境になりさえすれば自動的にやってきます。自分から求める必要はないのです。チャンスは自然に、自動的に向こうからやってきます。日々生かされていることへの感謝や、常に謙虚さをもって自分自身の可能性を素直に信じることが、体験を加速させます。そのためにも、他者への奉仕の精神というのはとても重要になってくるように思います。体験を加速させる鍵は、どうやらこの辺にありそうです。 内なる神性な部分に目を向けてみてください。
2010.08.12
>私事で申し訳ないのですが、私は何度か転職をしたことがあり、これまでの職場でも、今の職場でも、必ず上司の事で精神的に辛い思いをしています。毎回同じテーマで必ず同じような上司が登場するので、これは私が今世で克服すべきテーマであるに違いないと思っています。良く、今世でのテーマを克服しない限り、何度でも同じ状況が現れると言いますよね。でもこの克服の仕方で悩んでしまいます。『この出来事は私の人生の課題なんだ』と気付いた時点でテーマは克服されるものなのでしょうか?それとも、そうではなくてその出来事をちゃんと乗り越えて逃げ出さずに立ち向かわない限り克服されないものなんでしょうか?この部分について、教えて頂けないでしょうか。 人間関係で悩むというのは、誰にでもあることなんだと思います。悩まない人なんていないのではないでしょうか。はなこさんの場合、ご自分で上司との関係が克服すべき課題だと感じているわけですから、まずは精一杯やってみてはいかがでしょうか。はなこさんがおっしゃるように、「ちゃんと乗り越えて逃げ出さずに立ち向か」ってください。できる限りのベストを尽くすという意味において。 どのような上司とのトラブルなのかはわかりませんが、よくスピリチュアルで言われるのは、学びというのは「セットになって」訪れるということです。それは常に自分と相手との関係によって生じるものですが、「自分と相手との関係を交互に経験することで」得られる学びというものがあります。それは場合によっては今生だけにとどまらないこともあります。スピリチュアル的には、我々が今C1で出会っている人間とは、過去生、未来生においても何度も出会っている場合もあるとされています。人生というのは、非常に複雑な関係で成り立っていまして、我々が認識できる以上に深い因果律によって成立している場合があります。ですから、短期間でみればそれがどんなに理不尽に思える場合であっても、長いスパン(多次元的視点も含めて)でみれば、ちゃんと帳尻が合っています。今、直面している現実は多次元的にはすべて自分で引き寄せたものです。置かれている状況すべてに意味があるとお考えください。ただ、それを重苦しく受け止める必要はありません。日々淡々と、できれば気持ち的には少しでもポジティブに過ごされてみてください。はなこさんの場合、何度も同じ学びがやってきているというところまで気づかれていますし、それを克服すべきではないかということにも気づかれています。ですから、あとは精一杯やるだけです。まずは、自分自身を許していいってください。はなこさんは、ありのままの自分でいいのです。おかれた状況、上司との関係で生じた摩擦、その時に感じた感情、それによって生じたネガティブな感情を見つめてみてください。おそらく、何らかの形でご自身が傷ついたのではないでしょうか。その時の自分自身をいたわってあげてください。自分自身を愛してあげてください。「よく頑張ったね」と。 これはリラックスできる環境で静かに行います。その時、「許す、許す、許す、・・・」と何度も言霊を唱えます。同様に、「愛してる、愛してる、愛してる、・・・」と心の中で何度も唱えます。さらに、「ありがとう、ありがとう、ありがとう、・・・」と何度も唱えます。あとは、これに加えて、ヘミシンクで変性意識に入って、自己ヒーリングをしてもいいかもしれません。これは簡単で、自分にとって最も神聖な存在(天使や神様などご自分の宗教に合わせてイメージしてください)を思い浮かべて、その存在から愛に満ちた光を送られているようにイメージします。 まずは、あまり深く考えずに、上司との間で自分が嫌な思いをした時、すぐに上の言霊を心の中で唱えてみてください。上司との間で傷ついた自分を許していくんです。深く考えずに。まずは、これを習慣づけてみてください。 あとは、信頼できる友人に素直に打ち明けてみるのもいいかも知れません。同じ職場でもいいですし、違う交友関係でもいいですし。なんらかの解決策が浮かんでくるかもしれません。ガイドからのメッセージというのはそういった形でくることも多いです。大切なことですが、無理をせずに、ありのままの自分を受け入れてみてください。スピリチュアル的に見れば、はなこさんを責められる人なんて誰もいません。はなこさんはどんな状況であろうと、それがどんな結果になろうと、精一杯やるだけです。あとは、その場その場で、ご自分で傷ついた自分自身を許していくだけです。
2010.08.11
以前、友人と洞爺湖を訪れた時のことです。http://www.seek-hokkaido.jp/monitor/picture/0003801.jpg写真のように洞爺湖の真ん中には島があるんですが、その島を船で訪れた時、島の原生林の中で友人とヘミシンクをしてみることにしました。(ちなみに、中島はこんなところです。YouTubeの動画がありました。)http://www.youtube.com/watch?v=XlcLfe49Yfw&feature=related フォーカスレベルは覚えていないんですが、こんな感じである存在がコンタクトをとってきました。「島を荒らさないでください。」そこで私は、「いえ、違うんです。私達は観光でこの地を訪れている者です。決して荒らしに来たわけではありません。少しだけここに居させてもらえないでしょうか?」と言いました。すると、その存在は、「わかりました。」という印象を送ってきました。 その時に感じた印象では、その存在はその洞爺湖周辺に住む自然霊のような存在だと感じました。自然霊の集合意識だという感じがありました。他にもその周辺を司る神々がいたんですが、島にある神社周辺を非物質的に見たとき、その神社の管理者と思われる存在も出てきたように思います。印象的だったのは、中島は霊的には独立した一つの生命体のような集合意識としての本質をもっていて、島全体が一つの意識体であるといった印象がやってきました。その他の地域とは独立した生活を代々この地で営んでいるといった感じでした。今までいろんな存在と交信してきましたが、島が生命体であるというのは初めてのことでした。つまり、こういうことなんだろうと思います。おそらくは地球意識の一部なんでしょうけど、その土地その土地には、それぞれその場所その場所を司る神々というのがいて、その地で独立した生活を営んでいるようなのです。 ちょうどこれは、人間一人一人とI/There(類魂)との関係に似ているように思います。人間一人一人は独立した存在ですが、それとは別に、人間は皆、それぞれが自分のI/Thereという集合意識に所属しています。洞爺湖の中島を司る意識体と地球意識との関係も、それと似たようなものではないかと感じました。 このような、一部と全体との関係というのは、あらゆるレベルで存在しています。我々一人一人の肉体についても同様です。人体は約60兆個もの細胞から成り立っているとされていますが、その一つ一つにも意識が宿っています。それが、人体という集合意識としても成り立っています。その場合、集合意識を司るのは、我々の顕在意識です。つまり、我々の顕在意識は、細胞一つ一つからみればハイアーセルフのような感じです。つまり、個の意識と集合意識という関係が、我々一人一人の人間にも言えるのです。 さらには、この宇宙全体と人間との関係についても言えます。宇宙とは多次元的な構造をなしているのだという話を以前ブログでしたことがありました。我々に見える夜空の星々、すなわち宇宙は、我々人類全体の集合意識の歴史が、多次元的に射影として投影された、いわば影のようなものだということです。夜空に見える恒星は、進化した意識体の射影です。あるいは、無数にある銀河も、それ自体が一つの生命体です。我々の太陽系を超えた領域においても(太陽系の外は非物質界ではないかとされています)、実際に無数の生命体が生命活動を営んでいるわけですが、実際に夜空に見える位置で夜空に見える通りに活動しているわけではなく、実際には非物質界領域において多次元的に生命活動を営んでいます。 そういったすべての生命体は、「すべてなるもの」という創造主のもと、たった一つの集合意識に集約されます。宇宙に無数に存在する生命体の1つである人間(個としての存在)も、「すべてなるもの」との関係でみれば、個の意識と集合意識との関係で成り立っています。 人間というのは、どこまで行っても全体の一部なんですね。それは、これから私達がどんなに進化したとしても変わりません。常に私達は、全体のために存在し、全体に対して貢献するという特徴をもっています。それは、人間としての個々の経験もさることながら、「どれだけ神性を発揮できるか」という形で貢献がなされます。他人への思いやり、やさしさ、愛、創造性、歓喜、・・・そういった人間としての神性は、全体としての進化にわずかではありますが間違いなく貢献していると言えます。 「すべてなるもの」は、人間にだけ神我(神のように進化した意識)の芽を、人間すべての意識の中に宿したこと、それ自体が、人間という存在が全体の計画性の中において高い創造性を発揮できる役割を担っていることを表わしているのかもしれません。それは、何も日々の生活からかけ離れた山奥での座禅から生まれるものではなく、日常生活の中で生まれてきます。人間としてのやさしさ、思いやり、創造性、歓喜・・・そういった神性さを発揮できるチャンスはたくさんあります。そして神性は、今この瞬間に生かされていることの喜びからもひしひしと感じられてきます。 一人の人間が誕生する生物学的確率は1/230840000らしいですが(笑)、これからしても、生命として誕生し生きていること自体が奇跡に近いということにも表れているように思います。つまり、人間一人一人の神性さというのは、今ここに生きていること自体が奇跡に近いのだという事実に物質的にも現れているように思います。神我とは何かと聞かれて答えるとすれば、今ここに生きていることそれ自体が奇跡的なことであり、それこそがまさに神我の現れなんだといえるかもしれませんね。ですから、神とは神話での出来事ではなく、多次元的にみればあなた自身であり、今あなたのとなりにいる人間そのものなんだということです。もしそういった目で人間同士を見ることができる人が増えれば、少しは争い・紛争が減っていくかもしれませんね。
2010.08.11
興味深いコメントをいただきましたのでこちらでご紹介したいと思います。それは、「そもそも物事にポジティブもネガティブもないのではないか?」というご意見です。>数カ月前ポジティブ信仰マンと出会ったことがあります。物事をポジティブに考えるかネガティブに考えるかどちらかと訊かれ、物事にネガティブもポジティブもない、大事なのは真実を見る心を持っているかです、と答えた覚えがあります。二元論では何事も表裏一体。ポジティブ信仰者の心には常に不安感があり、そこにつけ込んだ商売は数多くありますね~。古今東西変わらない人間の心のクセが脈々と受け継がれているように思います。 「真実を見る心」の意味が抽象的すぎてよくわからないのですが、ただ、ポジティブもネガティブもない、すべては中庸だと言いきる人も、実は何も分かっていない可能性があります。なぜなら、二元性の枠内から逃れられないという現実を直視されておらず、ポジティブ、ネガティブという人間的な見方(人間なら誰もがしてしまう見方)そのものを否定されているからです。ポジティブな見方、ネガティブな見方というのは、人間であるかぎり確かに存在しています。なぜなら、我々は「人間をやめることはできない」からです。二元性の枠内で物事を把握するというのは、人間的なものの見方から生まれてくるものだからです。だからこそ、バシャールやセスなども、ポジティブ、ネガティブという人間的な見方が存在する前提で、「できるだけポジティブに。」と言ったり(バシャールの場合)、「善か悪かいずれかをとるかと言われれば、もちろん善をとったほうがよい。」(セスの場合)と伝えてきているわけです。彼らは少なくとも我々よりははるかに進化した存在ですが、我々の置かれた立場に合わせてそういった見方をあえてしてきているわけです。まずは、我々が二元性の枠内で生きていることを素直に認めることが必要なんだと思うんですね。すなわち、まずはポジティブ、ネガティブそのものを素直に受け入れることが大切なように思います。その上で、ポジティブな部分だけに偏らずに、ネガティブな自分自身を見つめてそれを許していきましょうと。それが、ポジティブとネガティブの統合へと向かうには必要なのではないかと思うわけです。 あと、ポジティブ信仰の人が常に不安だとおっしゃっている点も、私は疑問です。ぶっちゃけた話、私にはポジティブ信仰のバシャールが常に不安だとは思えないからですよ(笑)。バシャールは地球人ではないから同列には考えられないという批判がきそうですが、ここで言いたいのはそういうことではなく、ポジティブ信仰=常に不安であるということには、かなり論理の飛躍があるということです。というか、直接的な関連性はない気がします。なぜなら常に不安だからポジティブを意識しているわけではないからです。(ちなみに、ここでいう「不安」を別の言葉で言い換えれば「ネガティブ」になるでしょうね。つまり、これだけを見ても人間である限り二元性を完全には払しょくできないことがわかります。) しかもポジティブ信仰の人が常に不安だと言いきってしまうと、まるでポジティブを意識されている方だけが不安感を抱えているかのような誤解を与えかねないですよね。不安というものも、人間なら誰しも大なり小なりある、少なくとも今まで生きてきた中で誰しもあったはずのものなので、取り立てて問題にする必要はないように思いますけどね。つまり、ポジティブ信仰=常に不安=悪いこと、というこの図式自体ちょっとおかしい気がしますね。不安など誰にでも多少はあるものですから。人によっておかれた状況は様々ですから、困難にまさに直面されている方の場合、不安感を感じたとしてもむしろそれは当たり前です。大切なことは、不安感を感じていたら、それを見つめて、「大丈夫だよ~」と自分を許して愛していく作業のほうだと思いますけどね。ありのままにみつめるというのは、そういうことではないかと思うのです。 また、スピリチュアルな商売において、ポジティブ信仰の人を狙い撃ちにしたようなものが存在するというのも、私としては初耳です。繰り返しますが、常にポジティブであることが悪いことだとは私は思いません。ただ、それだけでは不十分だということです。すなわち、ありのままの自分をみつめてはじめて、自分自身が生み出してきた負の部分を手放し、二元性を解消する道(アセンション)に向かうことができるのではないかと思うのです。そのためにも、自分が置かれた状況というものを素直に認めることがまずは大切な気がします。すなわち、我々が今、人間として今ここに生きているという事実です。言い換えれば、我々は二元性の枠内で生きているという事実です。まずは素直にこれを認めたうえで、ポジティブ・ネガティブといった二元性の統合化を目指していくことが大切なのではないでしょうか。
2010.08.11
私が以前よく聞いたヘミシンクCDに、ゲートウェイ・エクスペリエンスのWAVE5におさめられている「上級focus12」があります。最初、私は、ゲートウェイはWAVE1と2と5しか買いませんでした。で、以前も何度か申し上げたように半年くらいはWAVE1と2だけを徹底的にやったわけです。それは、フォーカス10と12の感覚をつかむためです。(WAVE5のフォーカス15に行けるCDもたまに聞いてみたんですが、何も見えなかったので自分にはまだ早いと思い込みあまり聞きませんでした。今から思えば、何も見えないというのは大きな誤解だったんですが。肉体の目で見ようとしているから見えなかったんです(笑)。) フォーカス10と12は、その後の体験をすすめる上でとても重要です。「体感覚」というのは人によってまちまちであって(本に載っているような感覚が得られるとは限りません)、「その人にとってのフォーカス10の感覚」、「その人にとってのフォーカス12の感覚」をつかむんだという考えが当初は特に強かったです。実際、私が信頼を置いていたトレーナーの方にもそのように助言されましたので。私は、自分がとったやり方それ自体は間違っていなかったと思っています。フォーカス10と12の感覚をつかむために、何度も何度もWAVE1とWAVE2のCDを聞き続けていたことについてです。私は、朝と夜に特に時間を作って聞いていました。その際は、とにかく深いリラックス状態に入ることを第一に考えていました。繰り返しますが、ヘミシンク体験を深める上で最も重要なフォーカスレベルは、フォーカス10と12だと私は思っています。深いリラックス状態に入ること。知覚を拡大すること。この二つが基本となって、さらなる体験が進んでいくからです。その意味では、先にご紹介した「上級focus12」は、とてもいい訓練になります。フォーカス10はもちろん、フォーカス12の知覚を拡大する感覚を訓練するのにもってこいだと考えるからです。(ただ、この知覚を拡大する感覚というのは微妙で、人によって得られる感覚はかなり異なるように思います。ぶっちゃけた話、明確に知覚が拡大するという感覚は最初のうちはなくてもかまわないと思います。あくまでも訓練としてやる必要はありますが、後述のように私は全般的にみて変性意識下における体感覚をそれほど重視しません。理由は後述します。) ただ気をつけなければならないのは、「体感覚とは常に伴わなければならないのか?」という点についてです。これについては、私は常に体感覚が伴わなければならないとは考えていません。むしろ、それに固執してしまうと、先のフォーカスレベルでの体験になかなかすすめなくなる可能性があります。最初のうちは、できるだけ早くフォーカス21まで経験することが大切な気がします(ゲートウェイで行ける最高レベルがフォーカス21なのでそこまでの話になっています)。上のフォーカスレベルのほうが体験がしやすいという人もいるからです。私もどちらかというとそのタイプでした。私は、ヘミシンクを初めて1年目くらいは、フォーカス27が最もリアルに体験できました(フォーカス27は「ゴーイングホーム」というCDで行くことができます)。また私の場合、当初からリトリーバルに気持ちが向いていましたから、最も訓練したのがフォーカス27まで素早く確実に行くことだったからかもしれません。 感覚というのは、一つの目安にすぎません。人によっては、ない場合もあります。なぜなら、非物質的な感覚とは、人によって千差万別だからです。ですから、あまりにそれにこだわりすぎるのは、逆に体験を阻害する結果をもたらしかねないのです。このことは特に、体験にリアリティを求める方に申し上げたいです。体験とはリアルなものとは限らないということです。妄想にしか思えないことでも、立派な体験だということです。体験はどこまで行ってもそういう側面がつきまとう(妄想じゃないだろうか?と思う)ものだということです。というわけで、リアルさを過度に追求せずに、妄想でかまいませんから(笑)、「上級focus12」、ぜひ聞いてみてください。
2010.08.10
我々の住む世界というのは、二元性の世界などと言われたりします。ポジティブとネガティブ、天使と悪魔、善と悪、正と誤、・・・。このように、対(つい)になっていてかつ正反対の性質を持つペアによって成り立つ世界、それを称して二元性の世界と通常は言われます。スピリチュアルな世界では、上で挙げた前者(ポジティブ、天使、善、正)がどちらかというとよくて、後者(ネガティブ、悪魔、悪、誤)がどちらかというと悪いと考えられがちです。ですから、つまるところ、いろんな意味において「ポジティブになりましょう。」と主張されるわけです。場合によっては、「高いエネルギーを浴びましょう。」と主張されるかもしれません(もちろん、細かい表現は違うかもしれませんが)。発想としては、「ネガティブな部分に目を向けずにポジティブな部分にだけ注意を向けましょう。」というのに近いかもしれませんね。 ですが、これだけでは足りないのではないか?というのが、第一に申し上げたいことです。ポジティブな部分だけではなく、ネガティブな部分も見つめて、それを素直に認め、自分自身を許し(愛し)、それを手放していく作業(ポジティブとネガティブの統合作業)が必要なのではないかということなんです。残念ながら、今の日本のヘミシンクセミナー等でこれをメインに行うところはないように思います。リトリーバルやハートを開くセミナー等も、上で述べたような点をメインに据えているわけではないですからね。 加えて、今、世に出回っている本の影響というのがものすごく大きいように思います。一部の本では、セミナーの宣伝に終始しているんじゃないかと思われるような本も見受けられます。簡単に言うと、「セミナーに参加して、こんな体験をしました。」という内容を読者が読めば、「あーなるほど。そういった体験をするためには、セミナーに参加しなければならないんだ。」となるわけです。「そういった体験をするためには」の部分を、「ヘミシンクを上達するためには」に置き換えてもいいと思います。もっとひどいのになると、遠まわしにアセンションとセミナー参加との関連性を示唆するものも見受けられます。つまり、「アセンションするためには、セミナーに参加しなければならない。」といったニュアンスを遠まわしに本の記載の中に含めるわけです。つまり、高額なセミナーで高いエネルギーを浴びて、それがさもアセンションにつながるのだといったニュアンスです。 一点目について。まず、高額なセミナーに参加したからと言って必ずしもヘミシンクが上達するわけではありませんし、そもそも「ヘミシンクが上達したほうがいいよね。」という発想を商売につなげてしまっています。ぶっちゃけた話、ヘミシンクなどしてもしなくてもいいのにです。それ自体は道具にすぎないのに、いつの間にかそれ自体(の上達)を目的とすることに話がすり替わっている傾向があります。私自身の経験から言えば、高額なセミナーに参加しなくても深い体験はできますし、そもそもどの人の体験であってもそれはそれですばらしいのだと思います。もし読者の方で私の体験を読まれてすばらしい体験だと思われる方がおられましたら、それは大きな誤解です。体験自体に優劣はないからです。これはとても大事な視点であるように思います。ですから、素晴らしい体験をするために高額なセミナーに参加する必要はないのだということです。ましてや、本場のアメリカに行ったからといってヘミシンクがうまくなるということは、まずないとお考えください。 二点目について。アセンションとセミナーへの参加との関連性を示唆する団体がいるとすれば、それは大きな誤解です。私が今まで聞いてきた、あるいは世に出回っている信頼できる高次の存在からの情報とは、大きく食い違っているとしか言いようがありません。セミナーでなくても、アセンションを目的に何かの商品を買わせるような場合も同様です。“アセンション”というあいまいな言葉を利用して、それを商売につなげてしまう連中が残念ながらいるということです。ですが、いかなる場合であっても、アセンションとセミナー参加(または商品購入)とは直接的な関係はないとお考えください。当然ながら、ヘミシンクをするかしないかもそこに含まれます。アセンションのためにヘミシンクのセミナーに参加したり、ヘミシンクCDを購入する必要はありません。 要は、普通に生活していればいいわけです。ここで言う「普通」というのは、いわゆるスピリチュアルなこと(ヘミシンクをして非物質界に入り、何かを知覚したり、ガイド拝見をしたり、前世拝見をしたり、超能力を開発したり等)をしない通常の社会生活です。大多数の人がする日常生活です。もちろん、趣味でやる分には構わないわけですが、故意に、「アセンションするためには、高次のエネルギーを浴びたり、浄化(ヒーリング)しなければならない。そうかといって、独学は危険だ。だから、セミナーに参加したほうがいいだろう。」と持っていくわけです。繰り返しますが、これは大きな誤解です。普段通りの生活で十分、精神性(霊性)進化(このことを一般的にはアセンションと言います)につながっていきます。 今回は、安易にポジティブ思考のみに偏ってしまうという、いわゆる霊的真理とは異なった見解がヘミシンクの世界ではまかり通っているということ、そして、本などのメディアを通じてヘミシンクという手段にすぎないものをそれ自体(の上達)が目的であるかのように話がすり替わってしまっていること、最後に、アセンションとセミナー参加(商品購入)とを関連づけてしまっている連中が残念ながらいる可能性があること、についてお話しました。 繰り返しますが、アセンションにセミナーやCDは必ずしも必要ではないということです。自分自身を見つめること。日々の生活を通して、他者との関係の中で生じた自分自身のネガティブな部分から目をそらさずに、できるだけ自分の中でそれと向き合い、他人とのやり取りで傷ついた自分自身を許し、愛していく作業をコツコツと積み重ねていくこと。これによって、徐々にポジティブとネガティブが統合され、いわゆるアセンションの準備が整っていきます。 そのためには、生きていること、生かされていることへの素直な感謝の気持ちを忘れないでいることが大切なのだと思います。これが最も強力に自分自身に目を向けさせます。「俺(私)は悪くない。悪いのはあいつだ。」ではなく。 そういった意味では、「ポジティブになりましょう。」というよりも、「自分自身の内面をよく見つめましょう。」という表現のほうがより適切な気がします。高いレベルを求めるのではなく、むしろ、今の自分のレベルを見つめていく作業が大事なのだという風に言い換えることもできるように思います。我々は人間をやめることができないのと同様に、二元性の枠から今すぐ逃れることはできません。ですから、光も闇も両方見つめていき統合していくプロセスこそが、霊性(精神性)進化・向上のためには必要なのかもしれません。 繰り返しますが、高いレベルを求める、凄い体験を求める、知覚能力を高める、アセンションをする、そのためにセミナーに参加するのではなく、日々の生活を大事にすることの重要性をお話しています。特に、初心者で、もし上記のような能力開発のためにセミナーに参加しなければならないと思われている方。もしそういった方がおられましたら、そういった方のために申し上げたいんです。それは誤解です、と。 もちろん、セミナーに参加したいなら参加してもかまわないです。その人の自由ですからね。うまく利用すれば、霊性開発に利用できないわけではないですから。セミナーもCDも。ですが、残念ながら現状はそうなってはいないように思います。セミナー開催者も参加者も、目先の利益ばかりに目がいってしまい、肝心な部分(精神性)まで行っていないように思われます。 「うまく活用すれば・・・」というのは一見するととても都合のよい表現です。あるいは、「結局は自己責任の問題だ。」という主張もそうです。それだけではないんですよね。根底には、「良心」の問題があるように思います。「良心」の問題について真っ先に考えていいはずのスピリチュアルな業界が、逆に「良心」を平気で踏みにじっているというのは、皮肉なものだなと思います。 それでは!
2010.08.10
セスなんかの信頼できる情報によれば、我々は今この瞬間にも多次元的に存在しているとされています。例えば、過去、現在、未来といった時間は、多次元的視点からみればすべて同時に存在していて、あらゆる事象がすべて同時に起こっているとされています。ですから、時間が一本の線のように過去、現在、未来とつながっていると感じられるのは、ある意味、錯覚なのです。多次元的視点からみれば、常に「今」しか存在しません。ですから、セスは、「あなた達は瞬間瞬間に現実世界を創造しているのです。」と言いますし、シルバーバーチは、「時間とは永遠の現在なのです。」と言います。両者は同じことを別の視点から言っているにすぎません。今回お話するのも、多次元的視点という観点からの考察が不可欠なものとなります。ですが、それ自体が科学的根拠のないものですから、そのような見方をするかどうかはご自身で判断されてください。多次元的視点というものを否定される場合、以下でお話することはフィクションということになります。ですが、多次元的視点というものを受け入れられる方は、別次元に存在する「私自身の体験」としての主観的事実としてお考えください。今回の話は、我々の感覚からすれば近未来の話です(ですが、この近「未来」というのは幻想だというのは、すでに申し上げた通りです)。 ガイドにシャンバラに行きたい旨を告げると「かまわない」とのことだったので、意図を定めてシャンバラへと向かいました。シャンバラというのは、チベット仏教で伝説上の楽園とされている場所です。見えてきたのは、自然あふれる場所です。森の中で少し開けたような明るい日差しの差し込む場所に今私はいるんですが、奥の方に湖のようなものが見えています。すぐに女性の姿が見えてきました。親しげな感じで話してきます。私とその女性は、言語を介さずにコミュニケーションができるらしく、自然な感じでテレパシーを用いています。私達は意志疎通の結果、私達の家に向かうことにしました。私とこの女性は、この次元では夫婦のような関係らしく一緒に暮らしているみたいです。案内されたのは、白いドーム状の場所でした。そこがどうやら家のようです。中に入ると、外見よりもずっと広い感じでした。女性によれば、ここはいわゆる5次元世界の領域で、「アガルタ」というところらしいです。 人々は、コロニーを作って(「コロニー」という言い方をしました)、気の合う人達と集団生活をしています。家は白くて円形なのですが、それがいくつか寄り添うような形でさらに大きな円形を形成しています。それがいたるところにあるといった印象を受けました。いわゆる「国家」と呼ばれるものは存在せず、ゆるやかな連合形態をとっているようです。小さい範囲では「コロニー」、大きな範囲では「コミュニティ」(共同体)を緩やかに形成しているような印象を受けました。 衣食住はわりと我々に近い感じでした。ただ、食物はほとんどとらないらしいです(食べるときは我々の感覚に照らすと薬のような感覚だと言われたので、以前見た別のアセンションした世界に似ている気がします)。身体が半霊半物質になるために、非物質的なエネルギーを取り入れて活力源とすることができるみたいです。ですから、物質的なエネルギーに過度に依存する必要がないわけです。電気は不要ですが、それに相当するだいたいエネルギーが存在しているみたいでした。それはフリーエネルギーですかと聞いてみると、それよりも高度なものだと言います。そのエネルギーというのは、(非物質的な)太陽光と関係しているみたいでした。 さきほどの食物のかわりに取り入れるエネルギーとも共通してくるんですが、彼らは(私もそこにすでに住んでいるようなのですが、便宜上このような言い方をしておきます。)我々よりもずっと柔軟にエネルギーを様々な形で手に入れることができるような印象でした。それが、ある場合には食物の代わりになったり、ある場合には電気の代わりになったりと言った感じでした。彼女から、ドーム状の部屋の中を見せてもらっているとき、ちょっと奇妙な部屋を案内されました。そこには、まるい球体が浮かんでいるような印象のほかは特に何もありません。おそらくですが、この場所は、我々の感覚に照らして考えると、三次元ホログラムシアターとでもいうような場所かもしれません。それをもっとリアルに体感できるような感じかもしれませんね。 ちなみに、このドーム状の空間内部にも、私の記憶違いでなければ、緑がたくさんある場所もありました。予想以上に広いのです。そこでどんなスタイルで生活するのかは、我々の予想以上に柔軟に決められるといった印象がありました。つまり、自然いっぱいの空間で生活しようと思えばできますし、近代的な生活が好きであればそれもできるみたいでした。簡単にいうと、「こんな生活がしたいな」と思えば、それが実現しやすい空間世界なのです。 話を戻すと、先ほどの奇妙な部屋はわりと狭い感じだった気がしますが、次の瞬間、あるビジョンを見せられました。それは、私とその女性が瞑想道場のようなものを開いて教えているような光景でした。今いるこの「アガルタ」という世界は、我々の世界よりかなり進化している世界ではありますが、まだいわゆる内観をする必要があるそうです。というか、意識以外に身体をもち、その生活する空間をもつ存在はみな(我々はこれを当たり前だと思っていますが、そうではないみたいです)、そういった自己の内面と向き合うことが必要なのだと言います(そうではない世界については後述します)。 このアガルタという世界は、アセンションした世界なのかと聞いてみると、そうだと言います。ですが、アセンションする世界というのは一つではなくいくつかあるみたいです。このアガルタという世界は、そのうちの一つにすぎないのだとか。どの世界に移行するかは、基本的には自由意志の下で決められます。 このアガルタという世界の特徴は、物質世界以上に「思いが現実化する」世界であり、自分の思い通りの生活をすることができるそうです。その大きな特徴として、すべての物事の根底に「愛」があるということみたいです。すなわち争いを基調として成り立っているわけではなく、調和・平和を基調としてすべての物事が成立しています。ですから、いわゆる戦争なども皆無で、戦争などは「エネルギーの無駄使い」とみなされるようになります。くだけた言い方をすれば、「なんでそんな無意味でくだらないことするの?」みたいな感じでみなされるようになるのだとか。そういった心境は、一言でいうと、精神的な進化・成長によってもたらされてくるようになるみたいです。 先ほど、アガルタはアセンションする世界の1つにすぎないと言いましたが、アガルタに行かずにいきなり神界の領域まで行く人もいるみたいです。そこでは、いわゆる身体というものや建物や場所は存在せず、我々の理解を超えた生活形態・仕事に従事していくみたいです。ただ、必ずしもそれがベストの選択とはいえないそうです。アガルタのような身体や建物といった象徴を使って漸次的に進化のプロセスを歩んでいくことも必要なのだとか。ちなみに、アセンションですぐ神界に行ける人間というのは、きわめて少数みたいです。というか、誰でもそうすることは無理みたいな印象でした。他の信頼できるチャネリング情報を合わせて考えますと、通常はそういったことはないと考えられたほうがいいかもしれません。進化とは漸次的に進んでいくものですから。シルバーバーチなんかはそれに例外はないと言います。ではなぜ上のような場合があるのかということですが、一言でいうとそれにふさわしい霊格を最初から備えていた、こういうことになるんだろうと思います。今まで私がチャネリングしてきた中では、マザーテレサがそういった存在に相当するように思います。 このアガルタという場所は、先ほど5次元にあると言いましたが、いわゆる3次元的空間認識で表現すると、我々の地球の内部と考えることもできますし、そうかとって、特定の領域なるものが存在しているわけではないのだと言います。要するに我々の理解を超えた部分があるわけですが、アガルタの世界では半霊半物質であるということにそのヒントがありそうではあります。 (人類に対して)何かメッセージはありますかと再び聞いてみると、「あなたらしく生きることが最も大切なことです。自分の気持ちに素直になって、ありのままを受け入れてみてください。」みたいな感じで言われました。細かい言い回しは忘れたんですが、要は、「自分らしさ」や「受容」、「自然体」という表現で言い表せる内容だったと思います。この「自分らしさ」というのは、我々が考える以上に重要なことなのかもしれませんね。 ちなみに、今回のようなシャンバラの情報を公開する是非についてですが、公開していいんだと思います。ダメな場合は、フリーエネルギーの場合のようにダメだとはっきり言われますので。おそらく、2012年に近付いているために、アセンションする人々を啓発する意図があるのかもしれません。以上です。 あくまで私個人の見解ですが、オコツトやセスなどが伝えるようにアトランティス大陸やムー大陸が多次元的に今も存在しているのと同程度の確からしさで、シャンバラも存在していると考えています。そして、そこはいわゆるアセンションした世界で、今の我々から見てそれほどかけ離れた生活をしているわけではありませんが、自然と調和しつつ、平和的・調和的な集団生活を営みながら、個々人にとっての理想的な生活を営んでいる世界のようでした。それでは!
2010.08.09

昨日お話した立待岬の写真と、先日ご紹介した石川啄木が好んで散策したと伝えられている大森海岸の写真をご紹介しますが、まずは海について少し書きたいと思います。海と言えば、エルトゥールル号の話を思い出します。大阪の大学時代、夏休みに先生の実家にみんなで遊びに行った時のことです。先生の実家は和歌山なんですが、そこでエルトゥールル号の遭難碑が建てられている場所を見学しに行きました。エルトゥールル号の遭難事件はこちらをご覧いただきたいのですが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 簡単に概要をお話すると、明治時代のある日、和歌山県の串本沖でトルコの大型船が嵐のために沈没し、約600人が行方不明となりました。そのうち、助かったのはわずか69名。その時、地元の村民は、総出で救出された人々の介抱にあたったそうです。Wikipediaによると、「この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど献身的に生存者たちの回復に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。」のだそうです。この時のエピソードがすごくて、寒さのあまり今にも死にかけている人々を救うために、村民は人肌で、体温のあたたかみで人々を温め、その甲斐あってなんとか69名を助けることができたのだとか。(この辺のエピソードは、こちらのURLにくわしいです。http://www.locopoint.net/love_peace/ertugrul.html) この話には後日談があって、事件から約100年後のイラン・イラク戦争の時のことです。「そのエピソードとは、イラクのイラン上空の航空機に対する無差別攻撃宣言に対し、イラン国内に取り残された日本人が自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機による救援を受けられなかったうえ、日本航空の組合の反対により日本航空機による救援もできないという危機的状況での出来事で、このとき、イランの日本大使館の野村豊大使がトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えると、大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と答え、大使の要請を受けて派遣されたトルコ航空機によって215名の日本人全員が救出され、無事にトルコ経由で帰国できた」のだそうです(Wikipediaより引用)。 人間というのは、どこで助けられるかわかりませんね。それが、自分達の代ではなく、自分の子、孫、ひ孫の代に、自分達がしたことによって助けられるということもあるんですね。これは、いわゆるスピリチュアルなことにも通じてきます。善行、陰徳を積むことが、巡り巡って自分に返ってくるという霊的事実です。当然ながら、その逆もまた然りです。シルバーバーチなんかは、これは自然法則だと言っています。できることなら、善行を積んでいきたいですね。人間として。 <立待岬にて> <大森海岸にて> 遠くに見える山は、函館山で、左端が上でご紹介した立待岬です。昨日ご紹介した神社も立待岬からわりと近いところにあります。あの神社の御神体は、函館山全体なんでしょうね。
2010.08.08

先祖の墓参りに行ってきました。今回は特に念入りに行い、霊線の浄化まで行い、近隣の神社(10か所くらい)も回って光の柱建てを行ってきました。先祖の墓参りはほぼ毎年行っているのですが、柱建てをしたのは初めてかもしれません。 まずは霊線の浄化から行いました。やり方は、ルシアさんの方法に従っています。霊線とは簡単に言うと意識の系譜だと思ってください。2種類あります。一つは、肉体の霊線です。いわゆる先祖につながる系譜ですね。もうひとつは、魂の霊線です。これは、先祖とは別の、意識の系譜です。この2種類を区別して霊線を浄化します。 やり方は次の通りです。まず、変性意識に入り、ハートのあたりから光の線が無数に放射状に出ているのを想像します。それが霊線です。そして、「肉体の霊線を浄化します。」と意図します。これだけです。私の場合、霊線の浄化を意図すると、ビジョンとしては、自分の肉体の背後にずらっと先祖の方の姿が表れ、それが無数に連なっている様子が見えてきます。 次に、魂の霊線の浄化ですが、これも肉体の霊線の浄化と同様に、ハートのあたりから光の線が無数に放射状に出ているところをイメージし、「魂の霊線を浄化します。」と意図します。すると、私の場合、光り輝く珠が出現します。これは自分の神我です。その背後に、無数の光の珠が連なっているように見えます。このようなビジョンというのは、人それぞれですから、それ自体に意味はないとお考えください。いかなる認識も絶対ではないからです。このようにしてまずは霊線の浄化を行いました。 その後、セントラルサン(霊的太陽)に瞬時に共鳴して光の柱を立てました。後でできた柱を霊視してみると、7色に輝いていました。これは今までで初めてのことでした。 墓参りの後、時間が余ったので、立待岬というところに行ったりしてから(後日写真をご紹介します)、すぐ近くにある神社に行って再び光の柱を立てました。そこでの柱が、今回回った中で最大のものとなりました。おそらく、この神社にはいままで何度も行っているので、柱が強化されているんだと思います。強固な柱が立っている場合、必ずアマテラスが出現します。私の場合、それはビジョンとして見えるために間違いようがありません。私は霊的にみて太陽意識と深いかかわりがあるのですが、アマテラスはそこに自分のエネルギーフィールドが存在する象徴なのかもしれませんね。下がその神社の入り口なんですが、背後の山がご神体であると感じます。そのエネルギーは私の場合、日本神界の神々のビジョンとして見えるのですが、おそらく地球意識系列の存在であるように感じました。 下は第2鳥居です。この神社には表の参道には3つの鳥居があって、エネルギーフィールドはかなりはっきりしています。奥に進むにつれてエネルギーは徐々に強くなっていきます。 第3鳥居です。この第2鳥居と第3鳥居の付近がエネルギー的な結界がより強くなっています。どの神社でもそうなんですが、鳥居には重要な意味があって、鳥居付近のエネルギーは他の場所よりもとても強いです。それは、鳥居付近のエネルギーを強くすることによって、神社内を守る働きがあるからなのだと思います。 本殿に着きました。 写真に写っている白い剣のようなすじや、いくつかのはっきりとした光線は、強い神気が降りてきていることを示しています。カメラの撮り方や太陽の位置等の事情を考慮したとしてもです。偶然はなくすべてが必然であるという霊的見地からは、こういった写真が撮れること自体が重要だと考えられるからです。 この日は曼荼羅もきれいに撮れました。2枚目は別の神社でのものです。 次回は岬での写真等をご紹介したいと思います。 それでは!
2010.08.07
最近、ある存在にこんなことを言われました。 ありのままの自分でいい。今のあなたで完璧。何かになろうとする必要性はない。自分の心をもっと開いて素直さをとり戻してほしい。 メッセージを受け取った時は大して何とも思わなかったのですが、時間がたって改めて見てみると、すごく今の自分の心に響いてきます。高次からのメッセージ、特にガイドからのメッセージというのは、私の場合たいていこんな感じです。押しつけがなく、とても自然な感じで、心に直接響いてくる感じがします。日々の生活に追われていると気付かないこともありますが、改めて振り返ってみると、確かに自然体で生きるのが一番かもしれませんね。何に対してでしょうか?自分自身の心に対してです。最近特に、自分自身の心に偽って生きるのがつらく思うようになりました。以前なら無理をしてでもやり通すところなのですが。何が最善かは自分自身の選択次第ですから、いかなる道を選択しようとも自分のやりたいようにやってかまわないわけです。ただ、どうしても、しがらみというのが人間にはあります。本当はそんなものはないのですが、自分がしがらみだと感じている部分です。人によってそれはまちまちだと思うのですが。でも、素直が一番な気がします。そうすることで楽に生きられますし、本当の自分というのを見出せる気がします。 話は変わりますが、最近、頻繁にシャンバラというところに出入りするようになりました。私は決まってシャスタ山の下から入っていき、光のトンネルのようなところを抜けていきます。そこは、一言でいうと、自然あふれる場所です。都会ではなく、田舎ですね。すべてが光り輝いていて、振動数の高い感じです。そこには多くの友人がいるみたいです。多次元的な視点で見た場合、私の一部はそこに行く準備をしているみたいなんですが、顕在意識の私にはまったくその自覚がありません。その領域での記憶は、変性意識から目覚めるとほとんど覚えていません。これは私としては非常に珍しいのですが。そこでの変性意識が非常に深いということと、もしかしたらですが、何かまだ公開を止められている部分が多いのかもしれません。おそらくですが、一番最初にご紹介したメッセージも、シャンバラにいる誰かからもらった気がします。終わってからそれをあわててメモしたんだと思います。 自分の気持ちに素直に生きること、これからはこれをテーマにして生きたいと思っています。
2010.08.07

自然の持つ力にははかりしれないものがあります。たとえば火山の噴火などがそれです。ひとたび噴火して火山灰が降り注げば、人間にはもうなすすべがありませんね。地震やそれによる津波などもそうです。そういった意味では、人間というのは全く無力な存在です。人間が自然をコントロールするなどもってのほかで、むしろ人間は自然に生かされていることに気付く必要があるように思います。近代の科学技術や産業の発展には目を見張るものがありますが、どこか人間が自然をコンとロールしようという視点があったのかもしれません。最近ではようやく、自然環境の保護なども、国家や企業のレベルで主張されるようになってきつつあります。そういった意味では、ようやく今、人間は本来あるべき姿・方向性に戻りつつあるのかもしれません。ですが、逆に今気付かないと、それこそディセンションまっしぐらですよ(笑)。地球や太陽によって生かされている。常に人間というのはそういった側面があります。地球による自然災害という形での様々な浄化は、人間に対するシグナルなんですよね。「気付いてね。」という意味においての。 他方でヘミシンクを通じた精神世界へのアプローチには様々な可能性があります。いわゆる引き寄せの法則といった現実的側面のためもその一つです。それはそれですばらしいことですね。我々は今、現実創造のプロセスをここ地球スクールで学んでいるという側面がありますから。ただ、精神世界への取り組みにはもっと様々な可能性を秘められています。その大きなものの一つに、人間自身に対する理解が深められるというものがあります。我々はまずは自分自身のことを考えればいいわけですが、いわゆる現実世界の創造が共有思念によってもたらされるという側面を考えれば、より多くの人が精神世界に興味を持つことで他人への理解が深まり、いわゆるアセンションといったよりよい世界への移行もスムーズになされていくように思います。 学校なんかでは、他者への理解というのはかなり重要視されていますよね。誰にでも経験あるのではないでしょうか。なんか難しいことやらされているな~みたいな(笑)。 以前ご紹介した「We Are The World」にしても、最近では中学校なんかで普通に今では教えられているみたいですね。あの歌は霊的側面における真理を歌っていることはすでに申し上げた通りです。別に霊とかなんとかではなしに、人間として当たり前のこと、例えば他者への理解等に対する重要性を、いわゆるスピリチュアルなことは言っています。ですが、多くの方は霊能にばかり目がいってしまい、そういった点はまだまだ重要視されていません。でも、スピリチュアルなものの考え方はもっとより多くの人に受け入れられる可能性がありますし、これからの時代は次第にそうなっていくはずです。そう考えると、ヘミシンクやスピリチュアルなことに興味をもつというのは、我々が考える以上に大切な学びの機会を得ているのかもしれないなと思いました。 過去に人類は、原爆投下といった悲惨な出来事を経験しました。二度とこういった悲惨なことは起こしてはいけないですし、それはひとえに、我々一人一人の思いにかかっています。思いが現実を変えていくのですから。そして、思いは実際に行動となって表れてきます。ちょっと一日ずれてしまいましたが、原爆投下の日にちなみ、そんなことを考えてみました。(写真はWikipediaからの転載です。)
2010.08.06
私がヘミシンクを始めた当初の誤解の1つに、「体験とはクリアな映像が見えるに違いない。」というものがありました。そういう信念体系をもっていたからなのか、ごく初期の頃には、クリアだが何の映像かわからないといったビジョンを見たり、部分的な体外離脱というものを経験したりしました。私の場合、それは、ゲートウェイを聞き始めてすぐに起こり始めました。セミナーに行くために合わせて2週間くらい前から聞き始めていた時のことです。 もっとも、当時は、部分的な体外離脱をしているという認識はなく、どこか家の中の景色に似ているけれどもそれがどこなのかはよくわからないという認識や、あるいは家の中の特定の場所であることはわかるけれども、その風景が微妙に異なるといったものでした。それは、私の場合、フォーカス3でよく起こりました。フォーカス10ではなく。 その後、初めてのセミナーに出て、しばらく家でヘミシンクを聞き続けていたのですが、最初にあったような目新しい体験というものは全くなくなり、初期の頃頻繁に起こっていた全身が波打つような振動状態も徐々に少なくなっていきました。つまり、何も起こらなくなっていったのです。私がヘミシンクを今まで続けてこれたのは、ごく初期の頃に、それまでの人生ではありえないような体験をすることができたことと、適切なタイミング・時期に適切な指導者や本などの提供が得られたということが挙げられます。体験の停滞期におけるトレーナー等の適切なアドバイスや自分自身で得た気付きによって、私は体験とは常にリアルなものとは限らないという考えに至りました。 これを補足してくれたのが、ケヴィンさんの救出活動のセミナーだったんですが、そこでの救出活動を通じて、体験を得る際の誤解はほぼ完全に解けていきました。つまり、体験とはリアルなものに違いないという誤解です。実際、リトリーバル等で客観的な検証をしてみると、ぼんやりとしか知覚出来ていない場合であっても、ほぼ正確に情報の取得ができているということは普通に起こりました。つまり、体験のリアルさと情報取得の精度とは無関係だということがわかったんです。 同様のことは、ブルース・モーエンさんも救出活動の著書の中で述べられていた記憶があります。もし、ヘミシンクを長年しているにも関わらず体験がいまだにないという方がおられましたら、「体験」についての発想を変えてみていただきたいと思います。つまり、体験とはリアルなものであるのだという点です。必ずしもそうとは限らないのだということが言いたいわけです。 もし、上のような心の縛りから逃れられれば、「自分は体験をしている」と考えることのできる方はかなりいらっしゃるのではないでしょうか。ヘミシンクを何年もやっているのに体験できないという方。今回述べたような点についてぜひ一度考えてみてください。リアルに見えることにこだわっていませんか?
2010.08.06
北海道というところは、よい意味でも悪い意味でも自然の厳しさに触れることのできる場所な気がします。北海道は夏は涼しく、30度を超える真夏日が10日以上も続けば記録的な暑さだと言われたりします(笑)。その代わり、冬の寒さはものすごく厳しいです。内陸では、氷点下20度以上まで下がることもあります。ですが、自然というのは、人間にとってなくてはならないものです。これからは今まで以上に、自然との共存が意識される時代が来るように思います。そのためには、他との個性の違いを認め合う視点が大切である気がします。 以前もお話したんですが、非物質界の知覚というのは、人によってまちまちです。知覚の仕方については「千差万別」という表現がふさわしいのではないかと思います。究極的にはみずからの望む世界を知覚している、そのように言うことができるように思います。 もちろん、予想外の知覚というのもあるわけですけど、多次元的なより大きな自分を含めたトータルな視点から見ればと言う意味です。その人の個性が反映される世界と言い換えてもいいかもしれません。ですから、ヘミシンクを学ぶと、そこへの気付きが見いだせれば他人の個性を認め合うことができます。知覚というのは人それぞれなんだという点を通してです。 しかし、ここに、これから現実世界を生きていくうえでの重要な視点があるように思います。それは、現実世界を生きていく上でも、他人の個性を互いに認め合い、尊重し合って行くことが、ひいては人と人との関係の良好な改善や自然との共存をもたらしていくという、「争い」ではなく「共存」への視点です。 争いから生まれるのは、傷つける者、傷つけられる者、それによって生じた悲しみ、怒り、不安・・・そういったネガティブな感情です。それらの感情は決して好ましいものとはいえません。快か不快かと言われたら、ほとんどの人は不快と言うのではないでしょうか。互いの個性を認め合い、尊重し合える世の中になれば、少しずつ争いは減っていくでしょうし、地域社会でも職場でも学校でも、今まで以上に住みよい社会になるはずです。我々の住む世界というのは、我々一人一人の思いが合わさって出来た共有思念によって作られた世界なのですから。 今、2012年に向けてアセンションと言われますが、アセンションとは何も大それたことではなく、我々一人一人の心のあり方によって決まってくるような、ごく当たり前のことなのではないかという気がします。銀河系コアからの生命エネルギーの流入がどうの、3次元から5次元への次元上昇がどうのといった話の前に、もっと現実的で自然なものの見方によっても説明できるのではないかと思っています。我々一人一人の思いによって、よりよい社会を築きあげていくプロセス、それがアセンションだと言い換えることもできるように思います。そのためにも、まずは自分自身の「思い」を変えていかなくてはなりません。 マザーテレサは生前、まずは自分の家庭で出来る範囲で愛の実践をしなさいと教えたそうです。小さなことができないのに、大きなことはできないからなんでしょうね。互いの個性を認め合い、日々の生活を大事にしていく。自分自身の足元を見つめて、日常生活の中で日々できることを実践していくことの大切さ。まずは小さなことから始めていきたいですね。ヘミシンクもそのきっかけの一つになる気がします。 様々な人との体験の共有を通じて、体験での知覚の違い(個性の違い)を認め合い、シェアリングすることによって、それを日常生活にフィードバックした時に、他人の個性を認め合い、尊重し合えるような、そんな気付きが得られます。そういった意味では、物事というのはこれが絶対ということはなく、何をやるにしても、そこから日常生活への気付きは得られる気がします。もちろん、ヘミシンクを抜きにしてもです。その意味では、よく言われるように、ヘミシンクは単なる道具・手段なんだと思います。高いフォーカスレベルを求めることや、華々しい体験を求めることも大切なことかもしれませんが、別の視点からみた時、現実世界に生かせることは工夫次第で多い気がします。 体験がない(と感じている)のも、自分自身が作り出した現実であり、体験がないこと自体がある意味その人にとっての体験です。そういった現実も他ではない自分自身が作り出しているのだということにまずは気付く必要があります。体験がない(と感じている)ことも、ガイドからの導きかもしれません。ありのままに、自然体で、まずはあらゆる現実世界(での体験)を受け入れてみる。そうすることで、ヘミシンクワークにしても、現実での生活にしても、今までなかった様々な有意義な点が見えてくるのかもしれませんね。それでは!
2010.08.05
今日、ひさしぶりにヘミシンクをしました。シルバーバーチと思われる存在が出てきたのですが、愛について語りたいと言います。私にはシルバーバーチはなぜか女性の高次に見えます。なんとなくですが、聖母マリアのような感じです。きれいなドレスのようなものをまとっていますが、よくは把握できません。シルバーバーチの霊視による似顔絵はインディアンですが、あれはモンロー研の言い方ではI/Tメンバーに相当するのだということのようです。本来のシルバーバーチは、キリスト意識の本体に所属する女性的な側面を持った存在であると感じます。 1回目のチャネルは、私側の受信能力の問題からか、情報取得がうまくいきませんでした。ちょこっと覚えているのは、シルバーバーチはまず、自分の魂の遍歴なるものを語り始めました。地球に来てからもそうですが、その前も含まれていたように思います。シルバーバーチいわく、自分はイエスのもとでずっと学んでいたのだと言います。ここでいうイエスというのは、地球上でイエス・キリストと呼ばれた存在の、おおもとの魂を指しているようです。つまり、イエスが地球上で誕生するはるか以前から、シルバーバーチはイエスのもとで学んでいたのだと言いたいみたいです。 シルバーバーチが話していた中で特に印象的だったのは、自分はありとあらゆる欲について徹底的に経験したのだと言います。その欲の中には、人間の知っている欲も含まれていれば、そうでない欲もあります。とにかく、そういったありとあらゆる欲を学んだというのです。でも、シルバーバーチは考えたそうです。「欲は、どこまでいっても満足することはない。」と。そこから、気持ちが愛の方に向かうようになったのだとか。残念ながら今回はここまでしか情報が得られませんでした。つまり、シルバーバーチが私に伝えたいのは、最初から愛について学ぶよりも、遠回りなようではあるけれども、愛とはかけ離れた、たとえば欲について徹底的に学ぶことも、とても大切なのだということなのかもしれません。愛というつかみどころのないものをさぐるよりも、その外縁に位置する、たとえば愛情について深く学ぶみたいな感じなのでしょうか。 私はどうやら、はるかに進化した存在の中には、キリスト意識、もっというとサナンダ意識に所属している部分があるみたいです。今回接触したシルバーバーチも、私自身の以前のリーディングによれば、いわゆるキリスト意識を本体に持つ高次で、ある時期人類に対して霊的なメッセージをチャネリングによって伝えていた存在です。おおもとの源の部分を経由してつながりがあるために、私のような者であっても今回のような形で接触することが可能になったようでした。ただし、シルバーバーチと接触するためには、最低限でもフォーカス35まで行く必要があるのだと明確な形で印象を伝えてきました。それで、オープニングザハートの4を使ってフォーカス35まで行ったんですが、ひさしぶりにヘミシンクをしたせいなのか、意識状態が悪く、深い情報取得は無理でした。 <2回目>別のCDを使いました。ある程度まで深い変性意識に入った後、高次と同調して、高い領域へと向かいました。セントラルサンよりも上の領域のようです。フォーカスレベルはわかりません。女性の高次がいます。シルバーバーチのようです。巨大な光の中に先程の聖母マリアのような女性がうっすらと見えていると言った感じです。ですが、絵でみるような聖母マリアとは違っている感じです。何と言ったらいいのか、服装がオーラでできている豪華なドレスといった感じです。 シルバーバーチは、先程の情報の補足をする形で、まずは魂の遍歴から話し始めました。それによれば、シルバーバーチは、プレアデスに由来するらしいです。ここでいうプレアデスというのは、夜空の星のプレアデスを指しているのではなく、魂の故郷のような領域を指しています。そこで、シルバーバーチは、我々の感覚に照らすと、科学の進んだ現代的な生活をしていたと言います。その具体的内容は我々の理解を超えている部分があるようですが、とにかくそういった印象を伝えてきました。そこで、ありとあらゆる学びの段階を経たようです。それは、我々と同じです。つまり、シルバーバーチは、地球圏に来る前に我々の地球スクールに相当する学びをすでに終えていて、地球圏に来たのは、人類を援助するのが目的だったらしく、計画的に地球圏に入ってきました。 地球圏に来た時、3~4度転生しました。アトランティスの後、メソポタミア、インダスといった主要文明を押さえた他、最後の転生はアメリカ大陸でインディアンだったみたいです。その地球上での数度の転生の間に、ありとあらゆる人間的な欲について学んだのだと言います。それは、「なぜ人類が欲にまみれているのか?」を理解するためです。最終的というか、地球圏にやってきた目的が人類に愛について教授するためだったらしいのですが、その前に、人類が取り囲まれているありとあらゆる欲について学ぶ必要があったのだと言います。その意味で、シルバーバーチは最初から教師としての役割を担っていたと言えます。 そのような魂の遍歴を聞いた後で、愛について語り始めました。愛とはエネルギーだと言います。それは、確かに実体の伴ったものなのですが、人間的な感覚では正確にとらえることができないものです。ある時はあたたかみを感じるものであり、またある時には満たされる感じがします。またあるときには、好奇心を感じます。そういったような、人間的な意味で「良い」感じをもたらすもの、それが愛なのだというのです。「悪い」感じではなく。いわゆるセクシャルな感覚とは全く切り離して説明してきました。はっきり言うと、それとは無縁のものだという印象です。 シルバーバーチによれば、愛を知るには実際にそのエネルギーを体験してみる以外にないと言います。その方法としては、地球上で自然の美に触れる、非物質的に高次のエネルギーに触れる等、様々な方法を用いて幅広いやり方で学んでいくのがよいという印象を伝えてきました。ただし、地球上で愛に触れるには、たとえば自然の美に触れるような場合、それが愛の顕現であるのだという認識を持っていることが大切なのだと言います。例えば、花を見たとき、それが多次元的にみれば愛の顕現なのだという認識をもちつつその花の美しさを感じ取ればいいのです。 あと強調されたのは、人間の持つ神聖な部分にアクセスするように勧められました。いわゆる神我、内在神の部分です。そのような究極的な愛とも言える部分に、今現在の我々であっても、ヘミシンク等の力を借りることでアクセスできるからこそ、そういったメッセージを私を通して伝えてきているのではないかと思います。 シルバーバーチによれば、我々とは愛そのものなのだと言います。我々は、今のこのような肉体や現実世界を形成して、愛について学んでいるのだそうです。我々の高次は、自分が愛そのものであることを学ぶために、このような肉体や世界を作り出して、自分自身についての理解をふかめるという選択をしたみたいです。私はシルバーバーチに、でも、多くの人はこの世に誕生した瞬間にすべての事情、たとえば自分が愛そのものであることも忘れてしまいますと聞いてみると、それが、あなたがたの高次の選択なのですと言われました。いったん、愛とはかけ離れた世界、欲望に満ちた世界に身を置くことで、遠回りなようですがそこで様々な経験を積み、漸次的に愛についての理解をしている、そういった選択をどうやら私達はしたために、今この地球上に転生してきているのだそうです。そうやって、何度も何度も地球上に生まれ変わることによって、経験を積んでいき、愛とは何かを学んでいくのだそうです。 最後に、私とシルバーバーチとの関係を聞いてみると、あなたは私の中に存在しているといった印象を投げかけてきました。もしくは逆だったかもしれません。私はあなたの中に存在している、だったかも。それは、単なるパーソナリティのレベルを超えて、より大きな源付近での深いつながりのことを指しているみたいです。そういった関係から、今回このような形で会って情報を得ることができるのだとか。シルバーバーチが強調していたのは、進化というのは一足飛びには行かず、漸次的に進んでいくのだとか。我々人間は、まだ愛について学び始めたばかりですが、このような形で一歩一歩進んでいく必要があるみたいです。進化というのは、すべてが同時に進んでいるという側面が確かに存在しているのですが、個々のパーソナリティーの視点から見れば、確かに漸次的に、一歩一歩進化の道を歩んでいるし、そうする必要があるのだということなのかもしれませんね。それでは!
2010.08.05
美しさというのは、神性さの1つの表れではないかと思います。自然の美を見たとき、人は感動します。それは、ヘミシンク的にいえば強いPULがくるというのかもしれません(モンロー研はそういう表現はしませんが)。私なんかは、美しい自然の美、たとえば美しい花を見たとき、ハートチャクラやハイハートに強く反応してくることがあります。たぶんそれは、その自然の美の中に、自分自身の神性さが映し出されていることに気付いたからかもしれません。広い意味では、自然界の美はすべて、内的精神の現れなのですから。 昨日、OWブログの花の写真を見たときにもそうでした。http://ichigenka.jugem.jp/?eid=927自然が作り出した美は素晴らしいですね。何にも代えがたい美しさがあります。 人間もそうありたいものだなと思います。たった一人でもいいですから、その人の存在で救われる人がいたなら、それは素晴らしいことだなと思います。思いやりのある言葉や、行動・・・そういった人の言動の中に、神性さがあふれ出ていることがありますね。 人間はおそらく、地球上の生命の中で唯一、意図的に神性さを表現できる生命ではないでしょうか。生きている間にどれだけ神性さを表現できるか、それによってその人物の死後に赴く世界が決まってくるのかもしれません。シルバーバーチはかつて言っていました。「あなた方の今現在の行動によって、あなたがたは自動的に死後に赴く世界が決まるのです。」と。すべては自由意志のもとで自由に選択できます。ですが、そこには自己責任が伴います。人を傷つける者・・・逆に、励まし、癒し、勇気づける者・・・もしかしたら、そういった日々の思いから生じる行為の積み重ねが、自分自身を決定づけているのかもしれませんね。セスが言うように、すべての現実世界(もちろん、そこには我々自身の身体も含まれます)は我々自身が作り出しているのですから。 最近、よく高次から言われることがあります。それは、「自分自身に対して素直になりなさい。」と。私、素直じゃないんですよね~(笑)日々の思いの積み重ねが実際に現実世界となって表れてくるみたいですから、大切なのは、自分自身の気持ちに素直であること、こういうことが言いたいみたいですね。自分の気持ちに素直な生き方ができるか、それは、これからの時代にとってとても重要なことのような気がします。OWブログの花のように、純粋に、かつ意図的に神性さを出来るだけ多く表現できたらいいなと思っています。一つの基準としては、それは、創造性、歓喜、愛といったものなんでしょうね。 日々の生活の中には、本当にいろいろなところにそういった神性さが現れてくることがあります。先日も、電車に乗っているとき、車いすに乗った女性が電車に乗ってきました。その車いすを押していたのは、おそらくご主人なんだと思います。見たところ、お二人とも50代後半ぐらいでしょうか。二人の服装からして、それほど裕福とはいえない感じに見えました。それほど高齢ではないように思いましたが、女性は病気のようでした。身体に何らかの麻痺があるのかもしれません。 私が感動したのは、男性が女性のために、ペットボトルに入ったジュースの蓋をとって、女性に差し出したときでした。女性はそのジュースを美味しそうに飲んでいました。男性は男性で自分の飲み物を飲んでいました。ほんのささいなことなのですが、その男性のやさしさに私は感動して涙が出そうになりました。別の時に、家に帰る途中、偶然電車の中で見た車いすの夫婦が道を歩いているのを見ました。たぶん私の家の近所なんでしょうね。電車の中で見たように、男性が女性の車いすを押している感じでした。たぶん、女性の介護のために、男性もいろいろ大変だと思うのです。でも、そうやって互いに支えながら人は生きていくのだなと思いました。 神性さというのは、日常生活の中にあふれている、そんな体験をした日でした。 それでは!
2010.08.04
>伊勢白道山さんのこの記事なんですが、”自分を信じる者は救われる”http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/4dbbae825c710dd813bd6f79a903ee1d#comment-list特に ”霊的な感染の被害は、他人との霊的エナジーの交流を起こす、気功・瞑想伝授・ヨガ伝授” ここなんですが。やはり、気功や瞑想、ヨガみたいなものは霊的な側面が強いということなのでしょうか? 私は実際に魔界のようなところと2・3回、繋がったことがあります(若い頃のことです。自分を見失い、ほとんど寝れず、毎日浴びるようにお酒を飲んでましたので、波動が下がっていたんだと思います。しかし、これはこれで貴重な体験をしたと思ってます。いろいろなことを体得できましたから) 伊勢白道山さんのおっしゃられていることはよくわかります。 いみみさんはどう思われますか? あと、いみみさんはガイド拝見や、過去世拝見をしないと書いてありましたが、こういう理由なんですか? よろしくお願いします。 気にする必要はありません。大切なのは、他人がどう思うかではなく、自分がどう思うかです。 何事も体験してみないとわかりません。 「誰が何と言おうと、俺はヨガをやりたい!」と思えば、やったらいいわけです(笑)。 ヨガというのは、もともとは古代エジプトにおいて秘儀参入者になるための秘儀として伝えられていたものらしいです。シュタイナーが確かそのように言っていた気がします。 瞑想もそうです。ただ「瞑想」は多くの場合、「迷走」になってしまうおそれがあります。私も必要性を感じるとき以外はやりませんし、やったとしてもせいぜい10分程度です。日常生活を犠牲にしてまでやる必要はありません。ピラミッドも不要です(笑)。 ヒーリングについては、私は以前から、自己ヒーリングのみにとどめるべきであって、自分以外のだれかにエネルギーを与えてもらう必要はないという立場をとっています。 去年の暮れにOWメンバーの中でかなりもめたんですが(笑)、その根底にあったのは、ヒーリングに対する見解の相違があったように思います。 ですが、ヒーリングに関しては、様々な見解があるでしょうし、現に、私もツインソウルとの間で見解を異にしています。 でも、それでいいのではないかと思います。 大切なのは、他人がどう考えるかではなく、自分がどう考えるかです。 ご自分の考えを大切にされてください。 ご自分が正しいと考えられるのであれば、ご自分の責任でヨガやヒーリング、瞑想、気功をやってもかまわないと思います。 なぜなら、多次元的・霊的視点を突き詰めれば、すべての物事は「自分自身とその宇宙との関係でしかない」からです。 ただ、すでにご存じの方も多いとは思いますが、霊的観点について何も知らない無知の素人に対して、眷属を用いてあらかじめ憑依させたうえで、占いや除霊、ヒーリングといった目に見えない力を対価に高額な金銭を要求する悪質な人がおられるという事実があります。 霊的磁気の問題も大きいですが、何の罪もない人がそのような悪質な人の餌食にならないようにといった配慮から、伊勢白山道さんはおっしゃっているのではないかと思います。 私も先日ご紹介いただいた伊勢白山道さんの記事を読み、部分的にコメント欄も拝見しました。いつもはコメント欄までは拝見しないんですが。コメント数がとても多いですからね。 私も初めて知ったんですが、伊勢白山道さんは、ご著書を何冊も出版されていますが、印税は税金を納めたあとはすべて寄付されているそうです。 これはなかなかできることではありませんよ。 私は伊勢白山道さんは信頼できるメッセンジャーの一人だと考えています。 あと、たまたまコメント欄で目にしたんですが、イエスのヒーリングについてです。 これについては、私は伊勢白山道さんとは別の見解を持っています。 一言で言うと、人知を超えたところでの計画性というものが感じられます。 いかなる場合であっても、本人(高次も含めた)の同意なくしては高次はその者に関与できません。 高次の存在が普通の人に関与する場合、多次元的視点から見れば、かならずその関与されるもの、そしてその者のハイアーセルフの同意があって初めて関与が許されます。 そういった意味からすれば、イエスのようなものがデモンストレーションとしてヒーリングをした場合、それは、あらゆる観点から見て、事後的に霊的な埋め合わせ(それはたいてい進化の促進という形でもたらされるようです)があるように必ず取り計らってくれます。 加えて、今地球上にいる多くの人に蔓延している「死」に対する誤解も見受けられます。 前々回くらいにご紹介した、セスの語る「死」についての記事をご参照いただければと思います。 霊的見地からすれば、死は存在しないのです。 本人及びその高次の同意、ヒーリング後の埋め合わせ、そして「死」に対する誤解、これらが合わさって、イエスのヒーリングにまつわる見解の相違が生じているように思います。 なお、私がガイド拝見・過去生拝見をしない理由は、単に私個人のポリシーの問題です。 そういうことに決めているといった感じでしょうか。 これについても、ご本人がやりたければやったらいいと考えていることは、以前申し上げた通りです。 要は、好きにしたらいいわけです(笑)。 繰り返しますが、スピリチュアルな世界においては、いかなる場合においても、他人の意見が大事なのではなく、自分の意見・気持ち・方向性が最優先されるということです。 それはとりもなおさず、究極的にはすべての事象は「自分とその宇宙との関係」に突き詰められるからです。 ご自分がどのような宇宙を創造したいのか、その素直な気持ちに従われるといいかもしれません。
2010.08.04
今日は、「内なる眼を開く」ということについてお話したいと思います。内なる眼を開くこと。これは、光のネットワークにつながることと言い換えてもいいかもしれません。内なる叡智にアクセスして、必要な情報を得、それを現実世界での生活に生かしていく。それによって、より有意義な人生を送れるように思われるからです。 そのための方法として考えられるのは、ヘミシンクを用いた内観です。あるいは、ノンヘミによる瞑想もいいかもしれません(ただ、セスなんかは、瞑想をする必要はないと言います。おそらくそれは、現実世界を観察する手法を重視していることと、瞑想をしていると意識すると、そこに囚われて自分の意識を制限してしまうからかもしれません)。きちんとアファメーションを最初にしておけば、危険なことはないです。私の場合、ヘミシンクだろうと、瞑想だろうと、今まで危険な目に遭ったことはないです。ダークな香りのする方は近寄ってきたことはありましたけどね(笑)。でも、最近はそういったことはないです。仕事や勉強中に無心になっているような心境があれば、それも瞑想や内観と言っていいのではないかと思います。要は、カタチではなく中身が問題なのかもしれませんね。内なる眼を開くことで、いわゆるガイドとのつながりが強化されてきます。ガイドとは、先日もお話したように、私は非常に広い意味でとらえているのですが、最近の感覚ではほとんど、内在する神との対話=ガイドとの対話、ぐらいの感覚になりつつあります。 内なる眼を開いてガイドとのつながりを強化する方法の一つに、以前ご紹介した神社を参拝するというのがあります。これは意外なんですが、自分が住んでいる土地の、それもすぐ近所の神社に行くと、より一層深いつながりが得られることがあります。先日も神社に行きますと、神社の宮司らしき人物が出てきました。私は最初、その神社に固有の宮司か何かなのだと思っていたのですが、伝えてくるメッセージがやたらと具体的なのです。それで、あとあとよく考えてみますと、あれはガイドだったのだなと思いました。ガイドもそうやって、神社などのパワースポットを訪れた際に現れて方向性等を示唆してくる場合もありますので、もしよろしければぜひ行ってみてください。 このように、内なる眼を開くにも様々な方法があります。大切なのは、カタチではなく、心なのではないかと思います。自分自身に素直に目を向けてみること。今、生きていることに素直に喜び、それを感謝すること。そういった素直さが、何よりも大切な気がします。最近、特にそれが、高次とのつながりを強化するのだということを聞かされました。それは、OWメンバーが伊勢神宮に行かれる直前のことでした。それを伝えてきたのは、私が国常立太神と把握している地球意識です。ガイドとのつながりを強化することは、ヘミシンクワークにとっても非常に大切です。それは今まで折に触れて申し上げてきました。ぜひ意識されてみてください。 体験とは、求めるものではなく、すでにあるものに気づけるかどうかにかかっている気がします。その意味では、誰もが体験をしています。どの現実世界にフォーカスしていたとしてもです。ぜひ内なる眼を開くように意識してみてください。 それでは!
2010.08.03
>根本的な質問です。imimiさんやいろいろな方のブログで様々な体験をされているのを拝見していて、思うことがあります。それは霊的世界というものに対して疑いようもない瞬間というのがあったのかということです。スピリチュアルなことに興味をもって約5年、いろいろな知識はあるもののそういう体験は皆無で、常に半信半疑というか、まだ信じられない部分が強いように思います。みなさん最初は少なからずあったのではないでしょうか。imimiさんはヘミシンクや瞑想中、もしくはこの物質的世界でのシンクロニシティなどで、疑いようもない体験、瞬間はありますか。これは僕の想像でしかないのですが、リトリーバルでの体験の実証の積み重ねや、日常でのちょっとしたシンクロニシティぐらいでは、信じられないような気がします。こういうブロックをはずす方法はあるのでしょうか。ご質問内容を拝見いたしますと、「スピリチュアルなことには興味はあるけれども、それに対しての疑いが払しょくできない。このことが自分の体験の妨げになっていると考えている。そこでそのブロックを外したいのだがどうすればいいのか?」このようなご質問の趣旨だという前提で以下私なりの考えを述べたいと思います。私の場合、疑いようもない瞬間というのは数多くあります。ですが、人間というのは、「喉もと過ぎれば・・・」ですから、たとえば体外離脱しても数時間後には「あれって夢だったのかな」などと考えてしまいます(笑)。あるいは、共同リトリーバルで誰も知らない(情報提供者だけが知っている)故人に向こうの世界で会って、私が故人と向こうの世界で非物質的に会って情報を聞き出し、セッション終了後に検証した結果、偶然とは到底言えないような一致が得られたとします。その時点ではまさにそのような得られた証拠が死後世界のまぎれもない証拠であることが自分自身として納得できます(科学的な証明ではなく)。ですが、それも数日経って気持ちがネガティブに傾いていれば「本当だったのかな。」などと思い始めることもあります。 ぶっちゃけた話、非物質界で得られる事実というのは、基本的には主観的事実である以上、常にこういった問題が起こってきます。他方で、私個人のことで言えば、「疑いようのない体験」と言うものは確かに存在しています。それは未公開のものなんですが、時間が経っても色あせることのない驚愕するような体験です。そうかといって別にネガティブになるわけでもなく、体験した当時は驚いた程度のものなんです。ですが、いわゆる非物質的な体験であることは間違いないと考えられるものでした。 そこでこのように考えてみてください。「体験を疑う」という心境が一方にあって、その真逆に「体験をしたと確信している」という心境があります。両者は両極端に位置していますが、その間に、多くの心境がグラデーションのように存在しています。こんな感じです。 「体験を疑う」「体験を少しだけ疑う」「なんとなく体験が信じられる」「確かにそんな体験をしたと思える」「間違いなくそのような体験をした」「体験をしたと確信している」おそらく、ヘミシンクの上達者ならば、常に「体験を疑う」わけでもありませんし、常に「体験をしたと確信している」わけではありません。このようなグラデーション構造の心境の中で、そのどこかに位置し、またそれは常に変動しています。ですが、体験を重ねていけばいくほど、「体験を疑う」よりも、「体験をしたと確信している」ほうに心境が傾いていきます。たとえ心境が常に変動的であったとしても、トータルでみれば、「体験をしたと確信している」方向性の心境であることが多くなっていきます。 私見ですが、いわゆる「疑う」というのも一つのネガティブな心理状態のひとつであるように思います(それが良い悪いではなく)。人間ですから、生きていれば当然ネガティブになることもあります。でも、いつもそうであるわけではなく、ポジティブになることもあります。常にそのような両極端を行ったり来たりしているというのが、多くの人の(もちろん私も)本当のところなのではないでしょうか。 それは、前回記事でお話したような恐怖や不安といった心理状態でもそうです。生まれてから一度も恐怖や不安を感じたことがない人はいないはずです。しかし、だからといって、生まれてからずっと常に恐怖心にさらされているわけでもありません。両者は常に変動的なのものなんだと思います。 同様に、ヘミシンク体験についても、「体験を疑う」のと、「体験を確信する」と言うのは、上で述べたように常に変動的な側面をもっていて、ヘミシンク上達者であってもぶれがあって当然なものなのではないかと思います。人間ですから。ヘミシンク体験に限れば、大切なのは、「どちらにシフトしていることが多いと言えるか」なのではないかと思います。「体験を疑う」ことを体験の積み重ねによって徐々に減らし、「体験を確信する」方向に心理状態をシフトしていきます。 でも、ぶっちゃけた話、私は普段、体験を疑うなんてしたことがないです。何と言ったらいいのか、「疑うことにフォーカスしないで素通りする」といった心境に近いかもしれませんね。たぶんそれは、今までリトリーバル等で数多くの客観的検証を友人と積み重ねてきたからなんだと思います。もちろん、ブログで出会った友人も含めて。ご質問の疑いに対するブロックを外すには、体験を少しずつ積み重ねていくことと、ネガティブな心理状態にフォーカスしない(何も考えない)ことなのではないかと思います。「(数多くのヘミシンク上達者の集めた傍証からすれば)このような体験もありえないことではない」ぐらいの気持ちで。全体的な方向性としては、つぎのように考えるといいかもしれません。 1.頑張らないこと。2.疑いを捨てて、あまり深く考えずに、とにかくヘミシンクを楽しみながらやってみる。3.いろんな人の話を聞きに行ってみる。セミナーやオフ会に参加したりもしてみる。4.ヘミシンクだけではなく、ヨガや気功、太極拳といったボディーワークにも挑戦してみる。5.体験ばかり求めるのではなく、霊能と霊性のバランスに注意する。6.見えない世界に対して素直にそれを受け入れて、生かされてることに感謝する。7.日常生活を大事にする。 8.自分の力を信じること。 このような点を意識されて、日々のヘミシンクワークに取り組んでみていただければと思います。
2010.08.03
先日、人間は生きているだけでネガティブになる要素があり、その最たるものは「死」に対する恐れだと言いました。ですが、あらゆる高次が伝えてきているところによれば、今人類が抱えている様々な問題の根底には、いわゆる「死」に対する誤解から生じている。言い換えれば、「死」に対する霊的知識の不足から様々なネガティブな行動が生じているという側面があるようです。そこで、今回は少し、「死」についての誤解をできる限り取り除いていただけるよう、『セスは語る』の中からご紹介したいと思います。もっとも、スピリチュアルなことに興味を持たれておられる方の多くは、そんなことは知っていると思われるかもしれませんが、念のため、ということで(笑)。「死の瞬間には何が起きるのでしょう。この問いかけは、これにこたえるよりもずっと簡単です。そのような意味での特定の死の『瞬間』というものは、基本的には存在しません。それはたとえ突発事故による死であっても同じです。しかし、あなたがたが現実的であると考えているこの問いかけに対し、わたしは出きるだけ現実的な答えを出すよう心がけたいと思います。一般の人々にとって、この問いかけが一体どのようなことを意味しているのかと申しますと、つまりこういうことでしょう。もはや自分の肉体が息をしていなくなった時、どういうことが起きるのだろう。自分は何を感じるのだろう。まだ私のままでいるのだろうか。私を生へと駆り立てている思いは、ずっと同じようにあり続けるのか。天国や極楽や地獄はあるのだろうか。そこで私を迎えてくれるのは神様や仏様か、それとも鬼や悪魔だろうか、生前憎しみ合った人たちなのか、それとも愛し合った人たちだろうか・・・・。そうした問いの大半が意味するところは、自分は死んだ後も現在の自分のままで、自分が大切に思う人々を思い出せるのかというものです。それならば、私もそうした見地からお答えすることになりますが、その前に生と死の本質に関して、一見現実的でない見解がいくつか横行しているようですので、まずそれらに対処しておく必要があります。最初に、たったいまわたしが述べたばかりの事実を検討していきましょう。それ自体が独立して存在し、不可分で特定的な死の瞬間というものはありません。生とは「何かになろうとしている状態」で、死とはその「何かになろうとしている状態」の過程の一部なのです。あなたはいま生きておられ、意識はみずからを認識しています。あなたはその生において、死していたり死の際(きわ)にある細胞の残骸に囲まれながら、認識されしものとして光り輝いているのです。肉体の原子や分子は、死と再生を繰り返しています。つまりあなたは、極微の死に囲まれながら生きているということになります。要するに、自らの実像の部分が刻々と崩れ去り、そのたびにその部分がすげ替えられているのですが、あなた自身がそれを意識することはおそらくないと思われます。したがって、今こうしている間にも、ある程度は自分自身の死のさなかで生を営んでいると言うことができるのです。物質的見地からしますと、あなたは己の肉体で無数の死と再生が繰り返されているにもかかわらず、こうして生きています。一方から言えば、あなたの生はそうした死と再生に支えられているとも言えるのです。もしも体細胞が死んで、そのつど補填されることがなければ、あなたの物質的実像は存在し続けることができません。それで今現在はご存知の通り、あなたの意識は絶えず変化し続ける身体像のまわりで明滅しているのです。あなたの既知の意識は、多くの点において蛍(ほたる)の発光に譬(たと)えることができます。なぜなら、あなたの意識も切れまなく連続しているように見えますが、その限りではないからです。意識もまた明滅しており、これまでにも述べてきたように、完全に消え失せることはありません。それでも意識の焦点は、あなたがたが考えておられるほど不断のおものではないのです。あなたにその自覚はないにしろ、自分自身の無数の小さな死の真っ只中で生きているのであり、また己の意識がきらめく生のさなかにあってもしばしば「死んでいる」のです。わたしは、あなたがたの言葉を用いています。したがって「死んでいる」という言葉は、ここでは物質的現実から完全に焦点を外した状態を意味します。極めて単純に申し上げますと、いまあなたがたの意識は、物理的に生きて物質に適応している時間の長さときっかり同じぶんだけ、物理的に生きておらず、物質に適応していません。あなたがたを混乱させてしまう可能性もありますが、わたしたちはこの点を、願わくばできるだけ明確にしておきたいのです。意識は振動しており、よって波動を形づくります。しかしあなたがたは、このことも認識してはいないでしょう。次の比喩を考えてみてください。意識には「生きて」物質的現実に焦点を合わせている瞬間があります。そして次の瞬間には、すでに意識は完全に別の場所である別の現実体系に焦点を合わせています。あなたがたの考え方では、後者は生きていない、あるいは「死んでいる」瞬間とみなされることになります。その次に来る瞬間は、再び「生きている」状態で、あなたがたの現実に焦点が定まっています。しかしあなたがたは、生きている瞬間と瞬間のはざまに現れる「生きていない」状態には気づいていません。したがって、自分が連続的な存在であるという感覚は、すべて意識の波動のひとつおきの「うねり(パルス)」の上に成り立っているということができます。・・・これはあくまで比喩であることをお忘れにならないでください。ですから「瞬間」という言葉にしても、あまり字義通りに受け取ることのないようにしてください。意識には、意識の裏側と呼べるそうした部分があるのです。さて同様に、原子も分子も、あなたと言う体系の中で「死んでいる」あるいは不活性な状態と、生き生きとして活性化した状態とを繰り返しながら存在しています。しかし、あなたはそれがこちら側に存在しない瞬間を知覚することはできません。あなたがたの物理的宇宙全体は肉体をはじめ、みな原子や分子で構成されています。それゆえわたしは、構築体としての宇宙はその全体が同様な在り方をしていると申し上げているのです。宇宙は明滅しながら存在しています。言い換えれば、宇宙はいわば呼吸のような一定のリズムを持って、明滅を繰り返しているのです。宇宙全体にわたるリズムがあり、そのなかに個々のリズムのバリエーションが無限に存在します。――その様子は、宇宙規模の新陳代謝に近似しています。こうした角度から見ますと、あなたがたが死と呼ぶものは、その振動の振れ、または波動の「うねり」のうち、あなたの認識しない部分で単に継続期間の長いものが挿入された状態と言うことができるのです。換言すれば別の次元での長い中休みなのです。肉体組織の死は、そうです、あなたがたの体系における既知の生の過程の一部であり、「何かになろうとしている状態」の一過程にすぎないのです。そして、死した組織の只中から、ご存知のように新たな生が生まれるのです。」
2010.08.02

中国医学では、人体には経絡と言われるものがあって、その経絡上を気と呼ばれる一種のエネルギーが流れているとされています。大地にも気の流れのようなものがあるのではないか?と私は考えています。と言いますのも、北海道の各地を訪れていると、明らかに他とは違う強いエネルギーを大地から感じることがあるからです。かつて北海道の洞爺湖で光の構造物(グリッド:地球のエネルギーライン)をルシアさんと作った時、高次から洞爺湖から美瑛のあたりにかけて、龍脈が走っていると言われたことがありました。大地の気のエネルギーラインです。この気の流れである龍脈は、洞爺湖から南下し、アトランティス時代のボルテックスと言われる恐山を抜けて、日本列島を縦断しているように感じられます。ちなみに、以前、スサノオと一緒に、フォッサマグナのあたりでも光の構造物をつくりましたし、富士山のあたりでもルシアさんとともに光の構造物をつくりました。そして、富士山の霊的なエネルギーは、伊勢神宮のあたりに流れているように感じたことがありました。このあたりは、中央構造線と呼ばれるラインが伸びていますね。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%B7%9A四国でも光の構造物をルシアさんと作ったことがありました。このように、非物質的に大地のグリッドを補強したポイントは、中央構造線に沿った形に結果的になったというのは、今になって思えば興味深いものがあります。今回ご紹介するのは、そのような断層による構造線とは別のところにある、強いエネルギーを感じる場所です。以前からよくご紹介している美瑛です。今回は去年訪れた時の写真をご紹介します。ちなみに、美瑛は北海道のど真ん中にあります。 まずは、美瑛にあるピラミッドからご紹介します。このピラミッドは展望台になっていて、周りの広大な景色が一望できる絶景ポイントです。ピラミッドの下のあたりは、大地からのエネルギーがすごいです。この時撮った写真には、光の輪のようなものがいくつか写りこんでいました。また、ピラミッドの写真の右側に、縦長の青白い光が写りこんでいます。下の2枚は、ピラミッド付近の風景です。ちなみに、ピラミッド近くでは出店があって、じゃがバターやとうもろこし、いももち、ラベンダーソフトクリームが食べられます。おすすめは、ラベンダーソフトクリームです(笑)。 下の写真を左側にちょっと行くと、ピラミッドがあります。ピラミッドの付近から見た光景です。 下の写真は、ピラミッドからちょっとはなれたところの風景です。この時はそれほど暑くもなく、風が心地よかったです。下の2枚の写真、なんとなくですが、旧ルシアガーデンを彷彿とさせる光景です(笑)。もう5次元に移行しました(笑)。 下の写真には、また光の輪が写りこんでいます。実際に空にあったかどうかは覚えていません。 それにしても、美瑛は本当に美しいところです。 強い日差しです。太陽光が7色になって降り注いでいます。大地、太陽からのエネルギーが、みなさんにも届きますように・・・それでは!
2010.08.01
ミクシィのほうから、自分自身を見つめる際に許すとは具体的には何に対してなのかといった趣旨のご質問をいただきました。以下、ご質問内容をほぼ全文掲載した後で、私からのお返事をさせていただきたいと思います。ご質問の区切りごとに私のお返事をいれてあります。>今回、ジャーメインに関する記事で、ぜひお聞きしたいことがあり、メールいたしました。 記事の中で、 「自分自身のネガティブな部分を見つめると同時に自分自身を許す(愛する)」 「自分自身の内面を見つめて、それを許すという作業」 「自分自身を見つめて外的現象に対する反応を観察し許していくといった統合化作業」 という表現があったのですが、 なんとなく、理解したつもりなのですが、仕上げの「許す・愛する」の所が、 どんな意味での「許す・愛する」なのか・・・思案しています。 たとえば、「会社の上司から悪口を言われ続ける」という外的現象のときに、 「悲しむ、憎む」というネガティブな感情を保ち続けている場合、 「ああ、自分は悲しんでいる、上司を憎んでいるな」と、 自分の感情・反応のパターンを認識、観察することができると思います。 その後なのですが、「許す・愛する」というのは、このケースの場合、 「悲しんだり憎んだりしては健康に悪いから、こんなネガティブな反応はダメだけど、 でも、そんなネガティブな自分も、まあ、いいか。そんな反応をしてもいいんだ、という意味で 許そう。よし、これからも同じようなことがあれば、悲しんで憎むことを許可しよう。」 と、いう意味でしょうか?・・・・・・(笑) あるいは、 「今まで、さんざんネガティブな反応をして、自分の精神を痛めつけてきた。 ポジティブな反応(あるいは中立な反応)を選択していれば、心も体も損なうことは無かった。 でも、今までネガな反応をしてしまった自分を、責めるのはやめよう。 つまり、(責めない)という意味で、許そう。自分を責めないことは、自分を愛することと同義だ。 というわけで、今後はポジティブもしくは中立な反応をしよう。」 と、いう意味でしょうか? また、「反応の観察」後に、実際具体的にどうしたらいいのか・・・思案しています。 以前、「ありがとう・愛してる・許す」を生活する中で言い続けるというやり方がありましたように、 上記のような「回顧・思考」をアファメーションしたりするのでしょうか? まずは、言霊(ことだま)自体に力があるのだという点を思い出していただきたいです。以前もお話しましたように、言霊にはそれ自体に波動があります。非物質的なエネルギーと言い換えてもいいかと思います。その言霊の力をまずは信じてください。それがすべてのはじまりです。鼻からそれを否定してしまうと(意識的、無意識的にかかわらず)、そのような疑いが現実化します。「思いは現実化する」からです。まずは、あらゆる疑念をはらって、素直にそういった目には見えないものを認めてください。その上で、自己浄化が必要だとご自分が感じられた場面に出くわしたら、ひたすらまずは言霊を唱えてみてください。心の中でけっこうです。具体的には、「許します。ありがとうございます。愛しています。」です。何度も何度も無心になって繰り返してください。まずは、これを実行されてみてください。人によって様々だとは思いますが、1年も続ければ徐々に効果が表れてくるはずです。場合によっては2年、3年とかかるかもしれません。一足飛びに進化の過程を歩むことはできません。特に、自分自身を許す作業というのは、自分自身の内面、特にネガティブな側面と向き合う必要があります。それは正直つらいです。認めたくないですし、できれば目をそむけたいです。でも、逃げずに、相手とのやり取りで傷ついた自分自身の気持ちと向き合い、まずは言霊の力を信じて許していってください。自分自身をいたわってください。自分自身の気持ちと真正面から向き合い自分自身をそうやっていたわることのできるのは、自分以外にいません。 まずは、言霊の力を素直に認めて実行する、これが一つです。それが無意識のうちにまで実践できるようになったら、少しずつ自分自身をより深く見つめていくようにします。その時々におかれている状況に応じて。ただ、その際にも、理屈で考えようとはしないでください。理屈で自分自身を言いくるめるようにして納得させるのではないです。あくまで、言霊の持つ波動の力で癒すのが基本です。 その上で、ヘミシンクが上達してきたら、非物質的にヒーリングする方法も有効です。強い癒しが必要なほど傷ついた場合、自分だけでは癒しきれないこともあります。その場合は、ガイドやさらに上の高次(4大天使などがいいと思います)を呼んで、ヒーリングしてもらってください。きちんと最初にアファメーションしておけば、寝てしまっても構わないと思います終わってから、もう一度、静かに自分自身と向き合って、上の言霊を何度もとなえてください。その際、許す対象を明確にしようとせずに、ただ言霊の力を素直に受け入れて一心にとなえてみてください。許す対象を明確にすることにこだわると、逆に自分自身が反応してしまった不快な思いにフォーカスしてしまうこともありますから。それよりも、言霊の力、ガイドの力を信じてください。 上のヒーリングは、ノンヘミ(ヘミシンクをしない状態)でもかまいません。その場合は、静かなところでリラックスして、ガイドや高次の存在を思い浮かべます。その存在が、癒しに満ちた光を投げかけてきているように想像します。別に光でなくても何でもいいんですが、そうやって今度は具体的にイメージすることで、ガイド等により自分の意図が伝わりやすくなりますから。いわゆる非言語交信ですね。そして、高次からの光で自分が癒されているフリをします。「癒されている自分になりきって演じてみる」のです。そうすることで、本当に癒されてきます。それが今ご紹介したい第2の方法です。 繰り返しますが、「理屈で考えないで」ください。理屈抜きで、頭の中を空っぽにして、まずは言霊を何度もとなえてください。そして、余裕があれば、リラックスした状態で高次の力を借りて自分自身をヒーリングします。そして、これは私が自分の高次から直接聞かされたことなんですが、高次とのつながりは、「生きていることへの素直な喜び、素直な感謝」の気持ちによって強化されます。あるいは、ご自分が大人だということを忘れて、子供の頃の素直な気持ちに戻って、あるいは、ご自分が何か困った時にだれかに助けられた時に感じた感謝の気持ちを思い出してみるのもいいと思います。 ポイントは、「リラックスして、素直な感謝の気持ちで高次の自分に心の中で語りかけてみること」です。>最後なのですが、 引用:「自分自身のポジティブな部分とネガティブな部分との統合を図る」 という部分なのですが、「ポジとネガが統合した自分」は、どんな自分なのだろう・・・?と考えています。 「統合」という言葉を使用しているので、ネガティブな部分を消すとか、ポジティブがネガティブを覆い尽くすという意味ではなく、互いに打ち消し合って、ポジでもネガでもなくなる、つまり中立な状態を意味しているのでしょうか?あまり意識されなくてもいいかもしれません。最終的には中庸が理想であるとされています。そのことは、私自身何度も様々な高次に聞かされてきました。ただ、地球上に生きている間は、二元性にどっぷりつかっていますし、様々な理由から「生きているだけでネガティブになる」要因を数多く我々は抱えています。その最たるものが、「死に対する恐れ」です。これは理屈でいくら否定しても、それに直面したことのないものでないとわからないものです。ですから、気持ち的には、「常にポジティブであることを心がける」くらいでちょうどいいのです。他方で、上でずっとご説明させていただいたように、自分自身の闇の部分を見つめて、それによって傷ついた自分を癒し、いたわり、やさしく愛してあげることが必要です。それができるのは、自分以外にはいないのですから。それによって、徐々にネガティブな部分、傷ついた自分の心や、おそれや不安、悲しみから解放されていきます。そうすることで、自然にそういったネガティブな側面(意識)が、喜びや好奇心や愛、希望といった自分自身の本来の側面に吸収され統合されていきます。その統合される瞬間にフォーカスする必要はないように思います。人間関係で嫌なことに出会ったら、その都度、上記で述べてきたような癒しのプロセス(言霊、自己ヒーリング)をひたすら繰り返して見てください。それは、一朝一夕にできるものではなく、日々の積み重ねが必要です。ぜひ上で述べたことを実行してみていただければと思います。
2010.08.01
昨日からの一連の話からの続きです。 そうすると、いわゆるガイドとは何かが問題になってきます。個々のパーソナリティーは輪廻しないということになれば、昨日お話したようにモンロー研のように考えることができないからです。 私は、ガイドとの交流とは、「より広い意味での潜在意識下での自分自身との交流」ぐらいの意味でとらえています。そこには、今生におけるすべての確率的偶然の自己や、過去生、未来生における別のパーソナリティー、いわゆる神のように進化した自分(意識の系譜はずっと続いていますから)、さらには、自分とは異なるいわゆる他人との交流、まで広く含まれてくるように思います。それらは、たとえばC1の私が認識できていなくても、セス流に言うと「夢見の状態」で常に交流が起きています。変性意識に入って意識を拡大すると、部分的にそれらを知覚(自覚)することができます。それがガイドとの交流なのではないかと私自身は考えています。 ですから、特定の人格存在であることが分かる場合もあれば、単に直観的叡智、インスピレーションとして情報を受け取る可能性もあります。そのやり方は千差万別なんだと思います。また、すべての外的環境は自分自身が作り出しているという多次元的観点からすれば、そういったガイドからのメッセージを外的環境を通して受け取れるように自らお膳立てをする場合も往々にしてあるように思います。むしろそちらが通常なのではないでしょうか。現段階では、誰もが多次元的自己に目覚めているわけではありませんから。あるいは、虫の知らせや「なんとなくそんな気がする」といった第六感的な感覚としてガイドからのメッセージが得られることも十分考えられます。 ただ、注意しなければならないのは、そういったメッセージを受け取る能力には個人差があるということと、必ずしも正しく受け取れるかどうかわからない(受信能力の問題)があります。また、情報の送り手も、我々と同じ進化のレベルにある場合には、すべてを知っているわけではないという点もおさえたうえで当該情報の真偽や解釈、扱い方を自分自身で判断する必要があります。一つのメルクマールとしては、次のような場合は主観的歪みが混入している可能性があります。 当該メッセージが、何かに対して強制的である。否定的ニュアンスが含まれている(ネガティブである)。人間的な欲望に基づいている(金銭欲等)。そのメッセージから恐怖心や不安感を感じる。等です。逆に、自分のガイドからの自分宛てのメッセージである場合、何も強制せず、むしろ自分で解決策を導きさせる。ことが多いように思います。 ただ、これも絶対ではなく、場合によってはかなり具体的な指摘をしてくることもありえますので、その辺は、ご自分の直感に従ってみて下さい。必ずこうだとは言えない部分が常にあります。科学的検証等が不可能なことを問題にしているからです。その辺をくみ取っていただいて、普段の日常生活やヘミシンクのセッションにおいて、ガイドとのつながりを大事にされてみていただければと思います。ガイドとのつながりの強化は、ヘミシンク中だけではなく、その多くは日常生活の中からもたらされるように思います。普段の日常生活を大事になさってください。
2010.08.01
(太字部分をさらに修正しました)昨日の確率的偶然性のところでちょっと訂正します。確率的偶然性の説明自体はあれでいいんですけど、ちょっと正確性を欠いていたのは、セスがセッション中に参加者の過去生を見る際に確率的偶然性を精査したという部分です。 『セスは語る』によれば、セスには確かに、C1に現れている個人(仮にAさんという女性を想定します。)だけではなく、その人物の今までの過去生や未来生などがすべて見えるらしく、セスは常に、「今地球上において、Aさんと地球上で名乗る貴婦人のようなドレスを着ていると本人が思っている人物に対して話しかけているのだ。」と言い聞かせなければならなかったようです。そうしなければ、セスにはC1にいるAさんだけではなく、Aさんの過去生や未来生も同時にすべて見えてしまうからなのだそうです。 また、セスには、Aさんの今生における確率的偶然の世界を精査することができます。例えば、Aさんの近い将来に起こる出来事などです。ですが、それは確率的偶然の世界において現実化されているものなので、当のAさん自体はそれを体験しない可能性もあります。ですから、セスとしては、近未来のAさんに起こりうる事象のうち、どの確率的偶然の事象がAさんにとって起こりやすいかまで精査した上で、Aさん本人に伝える必要があるものは伝えなければならないそうです。この点セスはこう述べています。「わたしは、自分が早い時期に見ている確率的偶然の行為のうち、どれが遅い時期に実現化されるのかを確かめるために、あなたがたの言う『未来の歳月』に同調して、そのすべての派生結果を精査する必要があるのです。」(530-531頁)。 このように、セスにはAさんの過去生や未来生を同時に見たり、あるいは今生におけるAさんの確率的偶然の世界をつぶさに見ることができるのですが、Aさんの過去生や未来生における確率的偶然の世界については、「その限りではありません」(529頁)と述べていることからすれば、通常は見ることはできないようです。ですが、昨日お話したように、理論的にはすべての輪廻しているパーソナリティにおいて、その時代には無数の確率的偶然の世界が存在しています。それは例として、サラリーマンが多次元的に医師であるという場合もあるというお話の中で述べさせていただきました。 そうすると、たとえばリーディングなどにおいて自分の過去生や未来生を見た場合、おそらく当該過去生における確率的偶然の世界までは精査できないことになるかと思われます。未来生も同様です。また、自分以外の他人の過去生・未来生を見た場合も同様です。 では、リーディングによって過去生・未来生を見た場合、いったい何を見ているのかということが問題になります。おそらくそれは、「当該パーソナリティが顕在意識レベルで体験することを選択した人生を見ている」のだと思います。無数に存在する確率的偶然の世界においてそれぞれが同様の確からしさをもってリアルに存在しているとしても、それを顕在意識で体験できるのはただ一つの世界ですから。ただセスの言い方だと、どの確率的偶然の世界のパーソナリティであっても、それぞれが独立した個性を持ってリアルに存在していることになりますから、上の表現では説明しきれない部分があります。結局は、我々を基準として「今生の我々のパーソナリティが存在する確率的偶然の世界において、今『自分である』と感じているパーソナリティとのかかわりのもっとも深い過去生、未来性の断片を見ている」、こう言い変えた方がいいかもしれませんね。 いかなる場合、いかなる者がリーディングしようとも、それによって見えた過去生、未来性は断片的なものにすぎず、また見た者の主観が混入している点をお忘れなく。それはガイド拝見であっても同様です。ただ、私が今交流のある方達は、客観的検証を重視されている方々であるように思います。ご本人がそのことを何度か指摘されているのを読んだことがありますので。上で申し上げたことは、自分自身で過去生・未来性を見たりする場合のことだと考えてください。 セスもそれとなくほのめかしているように理論的にはやはりこう考えることになります。すなわち、「ある人格存在について、現在、過去、未来に対応するパーソナリティが独立して存在し、そのそれぞれにおいて、無数の確率的偶然の世界が存在する。ただ、個々の転生における確率的偶然の世界までは、当該パーソナリティを非物質的に呼びだして精査することになる。そうでなければ、個々の転生における個別具体的な確率的偶然の世界までは通常ではわからない。」こういうことになるかと思います。願望実現などで未来を見る場合には、確率的偶然の見地から精査することは可能であり、それをする必要があります。ところが、過去生や未来生を見る場合については、それは通常は困難であり、またそれをする必要もない。 このようにご理解いただけますでしょうか。
2010.08.01
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