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小田急線の地下化に伴い、東北沢、下北沢、世田谷代田の三駅を含む区間で、大規模な工事が進んでいる。通過するも降りること稀。工事の中味はよくわからない。一つだけ言えることは、下北沢での小田急と井の頭の乗り換えは、今まで以上に不便になるということ。より便利に、快適にを目指して行われるのが工事本来の在り方と思う。しかし、関係する範囲が非常に広い、かつ、利用できる空間に限界のあるこの工事の場合、関係者の要求全部を満たさことは出来ない。どこかにしわ寄せがいくわけで、その一つが、下北沢駅の乗り換えなのだ。何故、詳しく分かりもしないのに、乗換が不便になると断言できる?小田急のホームが、現在の地上から、地下に潜ることになるからである。当たり前じゃないか。そんなことはわかってる。と多くの方はおっしゃるであろう。ご存じない方のために説明すると、小田急は、現在梅ヶ丘まで感性している複々線が、代々木上原までつながり、従って、下北沢も複々線になる。ところが、下北沢では、複々線と、乗降のためのホームを平面に収めるだけの用地がなく、結果、地下に二階建てで(深さは20-25m程度という)線路及びホームを建設し、浅いほうが緩行線、深い方が急行線として運用される。つまり、小田急が地下化した段階で乗換客は、地下の小田急ホームと高架の井の頭線ホームの間を移動せねばならなくなり、特に小田急急行線との乗換の場合、垂直移動距離は、30mに達することになる。10階建てビルに相当する。現状の下北沢の乗換は、朝は小田急の登りから、井の頭の登りへ夕方は、井の頭の下りから、小田急の下りへの乗換客が多く小田急からしてみれば、これらの乗換客を幾分なりとも、代々木上原、或いは、新宿に誘導することにより、増収が見込める?経過を知る人は、もはやあまりないのだけれど、もともと井の頭線は小田急系列の帝都線として建設され、その後、小田急、帝都、京王ともに、東急傘下に入り、それが再分割されたときに、井の頭線(帝都線)は、小田急でなく、京王側に組み入れられた(帝都を京王と組み合わせたという言い方もできる)。このため、下北沢での乗り換えは、はほぼ80年にわたり、改札なしであった。今、小田急は小田急電鉄、井の頭は京王電鉄の別会社であり、従前通り改札なしで、両線のホームが直結するというわけにはいかない。小田急が地下化すれば、改札を設けるスペースができ、両者の間に改札が生ずるであろう。場合によっては、両者の改札が別々となる可能性もあり、今まで改札なしだったものが二か所の改札を通る必要を生ずるかもしれない。しかし、改札が一つないし二つ設けられることは、数本のエスカレーターを乗り継ぐ垂直移動に比べれば、さしたる不便ではない。京王側(井の頭線)の対応は、小田急以上に不透明。現状小田急との間に3つある連絡通路(階段)をやりくりして、エスカレーターを設けることになるだろうが、小田急地下化当初は、小田急ホームからエスカレーターで上がり、そこから階段で井の頭線ホームに出る、ということが数カ月はありそうに思う。21世紀の前半、東京は急速に高齢化が進む。就業人口も横ばい、乃至、減少傾向。郊外にスプロールした人口も、都心回帰が進む。下北沢付近の小田急線立体化工事は、郊外からの膨大な通勤者がさらに増加していくことを前提とした数十年前の計画であり、未来において、どの程度の実質的効用があるかには疑問を感じるところである。社会の一部にダウンサイジング傾向が生じている現在、高度成長を前提とした計画をそのまま実施するのは、いかがなものか?高齢化した自分が、慣れぬ下北沢駅で乗換にとまどう姿を想像し、滑稽を通り越して空怖ろしくなった。果たして、僕らも、未来世代も、そんな街に住みたいと思うのだろうか。
July 31, 2010
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春先、通勤の車中が、いつまでたってもモノトーン一色。春の色合いへ季節が移らず、まだまだ景気は上向かぬなぁと感じた。そういえば と 夏のよそおいも数年前とは様変わり。90年台終盤からローライズとやらもあって、女性連がお臍を出して街を闊歩していた。中には、後ろのほうは、見せパンとやら、下着まで見えてしまうような格好をしていた。それが、今年は見事に姿を消している。ボトムスが、レギンス、トレンカで足を覆う(踝から先の部分がなく長くても踝までのをレギンス、踝とかかとは露出するが土ふまずに引っかけて着用するのがトレンカ)、或いは、生足(なまあし)が足もとのファッションとして台頭し、或いは、トップス(上半身)のほうも柔らかな素材感覚を打ち出したものが主流である。つまりは、レディーズファッションが、男女の性差を意識しる方向に移行、お臍を出すようなユニセックス色が一変したわけだ。だから、しばらく前までのように、おじさんとしては、何やら嘆かわしいような、楽しいような、女性のよそおいを眺める楽しみは減退したと、表面的には思える。しかし、しばらく前までの、そのような視覚に訴える刺激的な女性連の装いは、煮え切らない態度を取り続けてきた我々男性をしり目の自己主張である一方、それは男を刺激するよりは、委縮させる方向に働いていたのではないだろうか?挑発から、コンサバな方向に女性が動いたことは、もしかすると、晩婚化、少子化に多少の変化を生じることになるかも?もっとも、そのような女性側の挑発は、しょせん委縮するしかない我々を見越してのものであったとも考えられる。何せ、しばらく前に読んだところでは、日本人のセックス回数は、圧倒的に世界最低だそうな。僕は、もう今さらの年代だが、それでも、世の中に一つの存在として自分をどう表現していくかを心がけねばならぬと思う。今日のルーティン化した仕事は、どう見ても我々男性よりは、女性の方が力を発揮できる。男の存在価値は(別にセックスということでなくとも)、フロンティアにどう立ち向かうか、非日常性への挑戦姿勢にある。我々個々の男性それぞれにフロンティアは存在しているのだが、それに目をそむける生活をあまりにも長く続けた私たちに、それを見つけることは容易ではない。
July 28, 2010
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最近でもそういうことを言うかどうかはわからないが、戦前から昭和40年代にかけて、経堂という街は、周りと比べ、物価が高いという評判があった。それはそうなのだが、過日、小学校同級生の留さんと経堂で食事をした際、ちょっとこれはいかんなと、深刻に感じた。高いのはまだしも(値段が高いわけではなかった)、まずいのである。さらに、いかんのは、サービスが悪いのである。夏の夕方、出されたビールが生ぬるい。文句を言って冷たいのが出てきたが、次の一本に生ぬるいのが出されたところで、堪忍袋の緒が切れて店を変えることにした。まずい上に、気配りがきかぬ。ところが、なぜか、その店、客が引きも切らぬ。駐車場があって、家族対応ができるのが、理由と思うが、飯屋ってのは、駐車場で決めるもんじゃあるまい。味とサービスと思うが、家族サービスそのものが形骸化している中、そこで行く店は味ではなくて駐車場という利便性で選ぶ時代になったのか と暗澹としてきた。経堂といえば、日本中ということは、世界中の住宅地の中でも、相当に上等の部類である。会社その他のお偉いさんも、昔から住んでいて、その方々はそれなりのものを召し上がる機会もおありに違いない。ところが、そういう方々がお住まいの場所で、このサービス、この味の体たらく。以前は、高くとも、こういうまずいものに出会うことは無かったように思う。留さんが言った「以前は、修行を積んだ調理人が店を出したものだが、チェーンの時代となると、別に料理の腕がどうということでなくとも店は出来る。時代が変わったということだろう」確かにその通り。だが、経堂でこういう状況となると、チェーン店だけしかない郊外というのは、どれほどひどいことになっているのだろう?汚い店ほどうまいというのもあった。上野の北にあったふぐの店など、猫と同居のひどい店だったが、ふぐは逸品。値段も安い。過日行った地方都市のてんぷら屋も、厨房の掃除はただの一度もやったことがあるまいという汚さだったが、出されたてんぷらは、絶品でしかも値段も安かった。料理は材料と腕である。だが、時代は変わる。駐車場で店を選ぶのは、腕が同じならば良いが、駐車場を腕に優先させては、味は退化する。日本のサービスレベルは衰退の時代に入ったのだ。
July 24, 2010
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知人からワインとお茶を頂戴した。ありがたいことである。今でこそ緑茶は、ペットボトルに入って、私たちはお金を出してそれを求めるが、つい、十数年前までの私たちにとって、緑茶は、お金を出して求めるものではなかった。個人宅であれ、会社であれ、先さまにおうかがいすれば、そこではお茶が供され、食事をすれば、多くの店で、とりあえずのお茶と、締めにお茶が出されるのが通常。それらのお茶は、「いらっしゃい」「ありがとうございました」の挨拶同様、お金を要求されるものではなかった。1990年代中盤、仕事で台湾に行ったとき、台湾の友人がお茶(凍頂、高山といった手揉みの半発酵茶、非常に高価なもの)を日本に輸出しようとしていて、「日本人はお茶を大事にしないから駄目だ」と嘆き、あきらめたことを記憶している。つまり、お茶はお金を出して飲むものではなかったのである。無論、今般頂戴したような新茶、玉露といった高級茶はあったし、お茶の点て方にしても、台湾で教えていただいた(中国古来のものであろう)もの同様、茶器の温度、点てるタイミングなど、非常に繊細なものであった(当然現代でもそうだ)が、それらは、もてなしに供されるものであって、いづれかのお店で、お金を出して注文することではなかった。それが、1990年代の後半に、突如、伊藤園あたりが、緑茶を缶、または、ペットボトルで、自動販売機で売るということを始め、それが、あっという間に普及したのには驚いた。それなりにおいしいお茶が、自動販売機で廉価に買える。それまで、お金を出して買うお茶というと、駅弁のついでに買う安っぽい煎茶ぐらいだったことを考えると、このことは、日本の飲料マーケットに劇的な変化であったのではないか?知人の英国人Adamが、先ごろ英国から帰ってきて、抹茶が入手できないかという。そんなものいくらでもあるだろうと思ったのだが、海外で抹茶を入手するのは、相当に難儀のようだ。業務用の抹茶など、100gで数百円。それほど高いものではない。しかし、それを外国から買うとなると、結構面倒くさいものの様子。昨日、昼食をご一緒した商社出身の先輩に、そのことを話してみた。「君も知ってる通り、商社でも銀行でも、貿易取引の中で、輸出は、輸入より難しい。なにせ、輸入は、待っていて商品が届いたら金を支払えば良いが、輸出は、相手に商品を渡して、金を回収しなければならない。代金回収が伴う。貿易立国日本と言うし、食品の貿易は盛んだが、良く見てみれば、日本の輸出品の大半は、工業製品で、農産物は貿易統計にも載らない程度しか輸出されていない。食品もバルクで輸入することは良くやるけれど、日本の産品を輸出するなど、ましてやお茶など聞いたことがないね。しかし、考えてみれば、食品の輸出は、文化の輸出でもある。自国の文化をきちんと説明してこなかった日本が、おそらく相当に付加価値競争力があるであろう自国の食糧品を輸出出来ていないのは、原因をたどっていくと、同じところに帰結する部分があるように思う」とご託宣。なるほどまだまだ日本には売れるものがありそうだ。
July 24, 2010
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最近は殆ど使われることもない宮廷ホームというのが、JR山手線原宿駅の北側にある。正式には原宿駅側部乗降場。天皇陛下専用のお召し列車が発着するところで、大正天皇のために建設されたと伝わる。しかし、考えてみると、原宿駅は、山手線の駅の中で、特段、皇居に近いわけではなく、皇居から、宮廷ホーム、或いは、原宿駅までの道路が良く整備されているということでもないように思える。何故、天皇陛下専用の鉄道駅が、原宿に設けられたのか?だいぶん前に疑問に思い、調べようとしてみたが、とっかかりが見つからず、そのままとなっていた。それが、ふとしたことから、考察が進んだので、後日のため、メモしておくこととする。***実際の天皇陛下がお召し列車のご乗車にあたり、皇居からいかなる経路をたどって宮廷ホームへ向かわれたか皇居からのアクセスは、どう転んでも、=距離から見ても、警備・護衛の都合から見ても東京駅に比べて、原宿駅が優れているわけがない。従って、これは、アクセスルートの問題ではなく、鉄道側の都合に違いない。お召し列車は、特別編成の車両である。機関車に曳かれ、北へ向かうか、南へ向かうかどちらへでも向かうことができなければならない従って、終着駅仕様である、東京、新橋(汐留)、上野といった駅に、常設の宮廷ホームを設けることは不向きであり、或いは、輸送量が年々増加したであろう中、常設の宮廷ホームを設けていては、これらの駅の増築は思うに任せない。従って、常設の宮廷ホームは、機関車が南北どちらの方向にも接続できる通過駅方式の駅で、かつ、日常の鉄道運行をなるべく阻害しない場所にあることが望ましい。原宿駅は、明治神宮最寄り駅である。もっとも、明治神宮のご鎮座は1920年、宮廷ホーム開設は1925年。原宿駅開業(赤羽と品川を結ぶ日本鉄道の駅として開業)が1906年であるので、駅のほうが神宮より歴史が古く、このためJRの駅名は原宿。神宮前という駅名は、現在の地下鉄表参道駅が、1939年から1972年まで名乗り、1972年以降は地下鉄千代田線(その後副都心線駅も建設)が明治神宮前という経過をたどっている。開業時の原宿駅は、現在地より代々木駅寄りにあったとあり、それが、現在地に移動した背景は、明治神宮の造営と、代々木練兵場の開設(1909年)にあったと推測する。そのような中で、宮廷ホームは、明治神宮造営から派生して建設されたわけではなく(まさか、お召し列車ご乗車の都度、明治神宮へお参りなさるわけでもあるまい)、たまたま、明治神宮最寄り駅に宮廷ホームが設けられたものと思う。むしろ、当時の軍縮を基調とする社会風潮の下、明治神宮造営そのものからして、青山練兵場(後の神宮外苑)を代々木に移転するなど、東京都心部(当時東京府)軍事施設再整備を図る陸軍の意向を反映しつつ行われていったと考えるのが妥当と思う。当時、鉄道は軍事との関連が非常に強く、軍は、鉄道省の鉄道網を使って、人員、物資の輸送を行うことができた。東京の場合、東京を南北に縦貫する鉄道は、現在の山手線で言えば、上野ー東京ー新橋ー品川側ではなく、赤羽ー池袋ー新宿ー渋谷ー大崎の側が先行して建設されてあり、現在山手線などとして利用されているこの路線は、後に山手貨物線、埼京線と充実していくが、20世紀前半の充実は、軍事的要請による部分が大きいと観る。この東京を南北に縦断する鉄道の途中に、常設の宮廷ホームを設ければ、南へ向かえば、京浜、東海道北へ向かえば、池袋から駒込を経て、東北、上越、信越へ新宿で切り替えて、中央線方面、或いは、折り返して総武線方面へと、アクセスに優れ、ホームのやりくりも不要で、ダイヤが組みやすい。このような背景があって、宮廷ホームは原宿駅北方の現在地に設けられることになったのであろう。
July 24, 2010
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しばらく前のこと。昭和2年、というから先年亡くなった母と同年の方から、ご自身の早熟な少年のある時期、「大人ってのは信用ならない」と仲間うちで語り合ったときがあったと伺った。無論、子供が大人を信用ならないと言うは、いつの時代にも共通するところ。しかし、その方の良いようは、そういう普遍的にいつの時代にもあるもののことでなく、昭和初期のあの時代に、民主主義、表現の自由、社会正義といったものが滅していく残香をするどく嗅ぎ盗った時代の証言のように感じられた。昭和5年(1930年)の統帥権干犯問題昭和7年(1932年)上海事変から五一五事件昭和8年(1933年)国際連盟脱退昭和9年(1934年)忠犬ハチ公銅像、永田鉄山惨殺昭和10年(1935年)美濃部達吉の天皇機関説批判昭和11年(1936年)二二六事件、ベルリンオリンピック昭和12年(1937年)「君が代」修身教科書に記載、日中戦争勃発、南京大虐殺、大本営設置昭和13年(1938年)南京傀儡政権樹立、国家総動員法公布、国民服制定昭和14年(1939年)軍事教練大学で必須化、ノモンハン事変.....経済が低迷する中、五族協和を謳いつつ、王道楽土と称し、満州における自国権益拡大に解決を求め、列強と対立、孤独を深める日本。民主主義を語り、表現の自由を標榜してきた人たちは、体制に対し次々と口をつぐんでいく一方、少年少女たちには、たてまえの美辞麗句を唱える。その矛盾を早熟の少年たちは察し、「大人は信用ならない」と仲間うちだけで気持ちを共有した。こういうことは二度とあってはならぬ。そうは思いつつ、わが身のやっていることが、思しきことは言わざるが腹のふくるるわざなればではあるまいかと、疑問を感じた。時代が自分の上を通りすぎていく。「もう若くないだけさ」「いつかは誰しも時代に追いつき、追い越されて行く」と自嘲してみるが、果たしてそれだけか?急速に多様性を失いつつある私たちの社会。しかも、その原因が、私たち自身が追求してきた自由とか便利、安全、健康...にある矛盾。そういうものは、安易に達成できるものでなく、私たちが手にしたものは、表面的で持続可能なものではない。砂上の楼閣が崩れていくのを感じながら、果てしない再構築へ黙々と挑戦していく。***携帯の機種変を考えている娘(au)が言う。「auはぱっとしない。なんか変えてみたい。とはいえ、Docomoは高いし、Softbankは契約体系が不明瞭。どこもかしこも政治と一緒」
July 14, 2010
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あまりの調子の悪さに、予定を繰り上げ、午前中に帰宅、飛行場から電話でカミさんに医者の予約を依頼。「だって、耳鼻咽喉科だよ」「いいんだ。なんでも大丈夫だから」「午後はいらっしゃらないから、午前中の一番最後でもいいかって?」「いいよ何時頃?」「一時には一応着ておいてくれって。でも混んでるみたい」周辺(経堂駅ではない)の多くの人々が彼を知っている。おそらく、彼はとても忙しい。朝9時を少し回ったところで、彼は母屋から移動し、診察を始める。土曜は午前中だけだが、一時を過ぎても患者は十数名。一人5分としても、あと一時間はかかる。カルテも書かなければならない。少なくとも、看護師さんが4人居る。彼を入れるとたぶん今日は6人編成だ。おそらく、駅が開業した時期からのお宅。大きく、素敵なお屋敷だった。その大きなお宅が建て替わると聞いて、皆、どことなくさびしく思ったのが、出来あがってみると、増築部分に耳鼻咽喉科が建ち、皆の寂しさは嬉しさに変わった。ちょうど花粉症という言葉が普及し始めた時期。それまで、自分は、団地前の耳鼻咽喉科にお世話になっていたのだが、引退直前、当時既に80を超えてこられたのではないか?医者へ行くというのは、信頼感である。僕は医者へ行かない。もう皆さん代替わりされているので支障ないが、地元のお医者さんたちは、医者が病気を治す努力をする人であるという信頼感を僕に与えなかった。先の耳鼻咽喉科のお医者さんもそうだが、行っても金払うだけで、治る気がしないのである。行かなくても、そのうち治る。それで、この年まで生きてきた(三回ばかり例外はある)。どころが、今回は、行こうと思った。多分、彼は名医である。だいたいの開業医は、地元で多少なりとも「やぶ」との評価をもらっている。何かと悪口を言われることもあるだろう。だが、彼については、そういうことをただの一つも聞いたことがない。彼の診察は短い。だが、必要なときは、きちんとコメント、指導をしている。さきほども、最後から五番目前ぐらいの患者さんは、まだ自分で鼻をかむことができない幼児である。お母さんに、鼻水を自分でかむことが出来ないからせき込むのであることを説明し、鼻水を吸い取って上げればいいんですよ。と指導する。しかし、お母さんは、「そんなこと」という顔をしたのであろう手許にある自分の道具を示しつつ、薬局で同じ機能の道具を売っていること、お母さんがときどきやってあげると炎症も起こさず、おだやかに過ごすことができますよとていねいに十分ばかり時間をかけて説明してあげている。新しく、このあたりにお住まいになったのであろう、若いお母さんは、彼の説明を聞き、納得して退出。次の患者が呼ばれる。「何日前ぐらいからですか」「10日ほどでしょう」「喉は痛いですか?」「痛くないです」喉と舌を確かめる。「内視鏡使いますね」てっきり喉だと思ったら、鼻腔へ。「ああ、しばらく前に炎症やってますね」「そうですか」「必要ならば、胸のレントゲンもとりますが」「いえ。結構です」僕の場合、ほとんどの病気は花粉症に関連して発生する。彼がそのことを指摘し、僕もそれに気がついた。今回、単なる喘息にしては、症状が日々悪化。癌は考えなかったが、肺炎(むろん可能性は常にある)以外に結核を疑った。20年ほど前、何かのきっかけで僕の肺に結核が自然治癒した痕跡を見つけたのは、彼である。だから、例え、それが癌なり、結核であったとしても、僕は彼で良いのである。日常の中で、僅かの変化、僅かの違いに気がつき、それに警鐘を鳴らす。それが地域医療の大きな役割である。それには、医者に対する僕らの信頼が大切である。
July 3, 2010
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軽い夏風邪で出張に出たところ、喘息に移行、苦しい旅になってしまった。慣れぬベッドと空調、夜はワールドカップ。変な格好で咳を続けたせいで脇腹、胸などが痛い。困ったもんだ。
July 1, 2010
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