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春のヒマラヤトレッキングで知り合った名前がHで始まる女性3人が水道橋のシビックセンターに集まった。名ずけてヒマラヤ3Hの会、山と音楽が共通の趣味である。 2人のHさんが私のチョー・オユー登頂を祝って企画してくれた集まりだった。芸大の奏楽堂で漆原朝子さんのバイオリンを一緒に聴いて以来だから4ヶ月ぶりの再会になる。その間二人はそれぞれロンドン、スイスを訪ねている。シビックセンター26Fの展望台で東京の夜景を見ながら、ヒマラヤの話をたくさんした。音楽の話もたくさんした。二人とも合唱団に入って意欲的に音楽活動をしている。聴くだけになっている私からみるとすごいとしか言いようがない。レストランに入って写真も見せた。二人ともとっても興味を持って聞いてくれ、いろいろ質問もでた。中国側からチョモランマBCにトレッキングなしで車で入れるという話にはとっても関心を示し、行ってみようかしらと気持ちも動いたりしていた。おいしいディナーを頂き、美酒に酔い、楽しい一夜が過ぎた。 展望台からの東京の夜景 ヒマラヤ3H
2009年10月31日
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C2では隊長、ミズキさんにシェルパたちが私たち4人を待っていてくれた。先が長いので小休憩してすぐ出発した。まだ酸素マスクを付け、ボンベを背負った。C2からの下りは急峻な雪稜で手ごわかった。ここでも目がしっかり開かないので苦戦した。フィックスは見えるが斜度が掴めない。視野が一層狭まって霞む中、おぼつかない足取りで歩いて、何度も滑った。見えないだけでなく、体力も底をついていた。滑って隊長の足に横向きにひっかかって留まっていたことすらあった。 ラルーがりんごを届けてくれた!!これを救ったのはやはり隊長だった。彼は私の目がよく開かないことを知ってまずどこまで見えるか確認してくれた。手間がかかるのにカラビナを使ってロワーダウンの態勢も作ってくれた。7000mの高度でそんなだらしない私は「しっかりせい!!」と叱られたり迷惑がられたりして当然なのに、急斜面で滑って自分の足にひっかかっている隊員に、迷惑な顔ひとつせずてきぱきとベターな対策を講じてくれたのだった。しっかり歩けずめげていた私の心に信頼という温かい灯がともった。少し元気がでた。 アイスフォールの細部 誰があのロープをかけたのだろう?何とかその急坂を下った次はアイスフォールの懸垂下降だった。6500m位だろうか、こんな高所の懸垂下降なんて初めてで、スリル満点だった。何とか懸垂下降をこなして着地したが、順番が最後だったのでみんな先に進んでいて若いシェルパのチュパ一人が私を待っていてくれた。 懸垂下降開始 着地点夕暮れが迫る中、チュパと二人で雪稜を下り、午後6時半頃、ついにC1に到着した。 雪の中のトレイルそこでやっと酸素マスクを外し、顔が解放された。高所靴も脱いでトレッキングシューズに履き替えた。自由の身になった。水分を補給し、しばし休息して午後6:45分ヘッドランプをつけて暗くなった稜線を越え、ABCへの下山を開始した。何もかも楽になった。疲れてはいたけど気持ちよく歩けた。ほのかな月明かりと星がちらほらと瞬く夜だった。あのサイドモレーンの道をミズキさんとシェルパ2人の4人で歩いた。ミズキさんは歩かせ方が巧みで彼と一緒に歩くと決して疲れない。いつの間にか目が開いて道が見えていた。巨大な山が谷に黒く迫り、モノトーン一色の景色だった。虫も鳥も居ず、生き物は私たちだけで静寂そのもの、無機質が支配する世界だった。ミズキさんと楽しい話をしながら安全第一で慎重に歩いた。ここまで安全にきたのだからもう絶対に怪我とか捻挫とかしたくなかった。4時間ほど月明かりの夜道を歩いて夜11時過ぎ、ついにABCに到着した。Sちゃんと隊長が出迎えてくれた。「遠かったよぅ、長かったよぅ」思わず二人に甘えてしまった。もうめちゃくちゃ嬉しかった。大きな感激と感謝がこみ上げてきた。生還したのだ。
2009年10月30日
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10月2日晴れ。10時ごろから下山開始。明日から天気が崩れるため今日C3からABCまで下山すると隊長から告げられていた。一晩眠ったので体力はかなり回復していたC3からC2までは比較的短く、雪稜はかなりの傾斜があったものの怖いというほどではなかった。しかし私はどこに足を置けばよいのかいつも迷い、スムーズに歩けなかった。目が次第に開かなくなっていたのだ。その原因は酸素マスクがぴったり顔に吸着し、C2からの長時間使用で顔面がかなり圧迫されてゆがんできた事、まぶた周辺がむくんでいる上に更にマスクの圧力で両目が横に引っ張られるため目が開かないのだった。自分の指でまぶたを上下に開くと目は開くが、しばらくするとまた開かない状態に戻った。自分の顔がどんなに酷く変貌しているか鏡を見ない私だけが全くわかっていなかった。あとでこの写真をみた時の驚愕!!顔全体がぼわぼわにむくんで膨張し、両頬の上は日焼けでかさぶたになってざらざら、腫れたまぶたが目の上にかぶさって目は糸のように細く、唇はかさかさになりひび割れて痛い。顔が崩壊状態だった。 ネパール人も引くと言われたこの顔、これ以上拡大する勇気はない。恐るべし8000mの紫外線と酸素マスクの圧力。エンジェルフェイスはどこへいった?!目の前は見えたので歩くトレイルはわかるが、雪面の斜度がほとんど把握できない。どこに足を置けばいいのか迷いながらおそるおそる足を出し、こわごわと下った。靴とボンベの重さが予想以上に体力を消耗させていて、下半身のバランスも悪くなっていた。あまりの不安定さを見て危険を感じたのか、プラチリが私だけをアンザイレンしてくれた。滑ったり転んだりして我ながらみじめだったが、どうにかC2にたどり着いた。
2009年10月29日
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山頂で感激の時間を過ごし、温かいので素手で写真を取り合ったりした後、下山にかかった。午後1時頃だっただろうか。青空が広がり広大な雪原に風はなかった。雪田をのどかに歩いている間は登頂の喜びでハイになっていた。しかし雪田が切れて雪壁を下るようになると体力を使い果たしていることを痛感した。足が重かった。暗闇で通過したロックバンド付近を昼間みるとすごい急傾斜の厳しい雪壁だった。よくこんな所を登ってきた!!と我ながら驚いた。登りは苦しいだけだが下りは困難で危険だった。滑落するとどこまでも滑っていって全身バラバラになるのだろうというような恐怖があった。サーダーのプラチリとアンザイレンして下った。彼は私があまりにのろのろ降りるので呆れた事だろう。とにかく消耗しきってC3にたどり着いたのは夕方6時頃だった。日没寸前だった。 C3のテント (夕方) 朝、テントの中から外を見るすぐ夕闇が迫り、暗くなった。7600mのテントを前日以上の寒さが襲った。寒かった上にとっても心細く不安だった。というのは酸素ボンベの本数の関係でその夜C3に泊まったのは隊員4名とシェルパだけで、元気なKさん、隊長、ミズキさんはC2に下っていた。私は時々隊長やミズキさんに反抗していたが、ホントは頼っていたのだ。ホッカイロの残りすべてを背中や手足に貼った。深夜2時に酸素が切れた。でもそれまで酸素を吸っていたので体幹部はその温もりが残っていて助かった。しかし呼吸はすぐ苦しくなり、深く強い呼吸をしなければならなかった。シュラフを引きあげたりちょっと動くとすごく息がきれてハアハアした。胸を圧迫するような姿勢は特に苦しかった。シュラフカバーやダウンのフードは凍ってこわばっていた。初めて生存の危機を感じた。こんな状態が永く続くとどうなるのだろう。でも朝になればまた酸素も吸えるし温かい食事もできるだろう。ちょっとの辛抱だと自分を安心させた。ずっと深い呼吸を続け、時々はうとうとした。ついに夜があけ、次第にテントに陽が射してきた。シェルパが温かい雑炊を運んできた。しっかり生きていた。
2009年10月28日
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9月30日夜11時にシェルパの「おかゆです」と言う声で目が覚める。感謝しつつおかゆを頂き、準備を整える。通称ボビーという名の若いクライミングシェルパが「私が担当になりました」とテントの前に来る。彼に手伝ってもらいながら装備を身につける。山頂アタックの時は隊員1人1人にクライミングシェルパが1人付く。クライミングシェルパは高所登山やクライミングの専門的技能を持ったより高度なシェルパである。10月1日深夜1時に彼と出発した。勿論真っ暗でヘッドランプの光が頼りである。緊張のせいか寒さはあまり感じなかった。確か星が少しと月も出ていた気がする。ゆっくり歩いたが、だんだん苦しくなってくる。3時間ほど登ったところで空が茜色に燃え始め、夜が白み始めた。壮大な夜明けの訪れだった。こんなすごい夜明けを見たことがなかった。美しかった。でもその風景を心ゆくまで愛でる余裕も時間もなく、ただひたすら登った。ところが途中で隊員の一人がちょっと歩けないという状態らしく、そちらにボビーが移動し代わりに近藤隊長がついてくれた。さすがは隊長、とても明快で登山者を元気にさせるガイドぶりが頼もしかった。でも第二の関門ロックバンドの岩場を越える辺りから、私は少しづつ疲労感を感じていた。フィックスロープでかなり腕の力を消耗したし、普通のクライミングなら足も挙がるがあの重い高所靴を履いた足を持ち上げられず、クライミング態勢がつくれない。隊長は「クライミングは得意だろ、ここまで足を挙げて・・・」とか「ここはアイゼンの爪を使って」とか具体的に教えてくれるのだが体がついていかない。それにロックバンドを通過することに集中してしまい、キャメルバッグの吹き戻しを忘れてしまった。マウスピースが凍って水が出ない!!のどがからからだった。それから数時間ルンゼ状の雪壁を登るのがものすごく苦しかった。山でこんな苦しさを感じたのは初めてで、悪戦苦闘した。渾身の力を出さねば一歩も上に上れなかった。ボンベが重い、靴が重い、お腹がすいた、喉も渇いた、もういや!!でももういやと言ったところで8000mで誰が何をしてくれる?誰も自分のことで精一杯なのだ。今が正念場、がんばれ、エンジェルフェイス。いつの間にか自分で自分を励ましていた。苦闘数時間、ついに雪壁を越え、頂上雪田に出た。海のような途方もなく広い雪原が広がっていた。まだ歩くのだ。ここからはミズキさんと歩いた。真っ白い丘のような雪原の中に一本の足跡が軌跡をなし、そこを黙って歩いて歩いて歩いた。突然、展望が開け眼前に真っ青な空とエベレストとローツェが飛び込んできた。雪原最南端にあるチョー・オユー山頂だった。平たい山頂にはタルチョーが雪に埋まっていた。時計を見ると11時35分、10時間余を要していた。 もう一度登れそうなほどタフな隊長とやっとの思いの私おめでとう。よく頑張ったね。近藤隊長やミズキさんの声が聞こえた。着いたのだ。しばし呆然自失だった。既にKさん、Nさんは着いて休息していた。この後に後続の隊員も到着し、5人全員が登頂を果たす事ができた。すばらしい!!。60歳代の私ですらこの苦しさだったのに、70歳代の男性が二人とも登頂したのだ。昭和10年代生まれの根性を感じた。尊敬に値する。 余裕のミズキ参謀 シェルパ達と 右後がボビー (マスクなし) 背中に疲れがにじむ隊員たち 広大な頂上雪田
2009年10月27日
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C2の朝 9月28日山頂めざしてABCを出発した。メンバーは70歳代の男性2人、60歳の男姓1人、50歳代の男性1人、それに60歳代の私の5名に加えて近藤隊長、ミズキ参謀にシェルパたちが同行した。1日目C1へのモレーンの道は高度馴化で二度歩いたので、すっかり慣れた風景の中、最期デポキャンプから砂だらけの急坂を耐えてC1(6200m)へ到着。テント泊。2日目9月29日C1からC2(7200m)へ。いよいよここからが未知・未経験の世界、高度が1000mも上り、距離も時間も長い。第一関門のアイスフォールの通過もある。 アイスフォールが見えてくる アイスフォールを通過する(帰りはここを懸垂下降した)サングラス、ハーネス、ユマール、ピッケル、アイゼンのフル装備でテントを出るとすぐに雪の急坂、なれない高所登山靴がつらく重く黙々と歩く。ハンギンググレイシャーを過ぎてしばらくすると前方に不気味なアイスフォールが見えてくる。でも行きはよいよいで特別な技能はいらず、苦しいのに耐えて通過すればOKだった。そこからもう写真を撮ったり時間を記録する意欲を失ったまま、フィックスロープにユマールをセットしたり、架け替えしたりしながら12時間位登ってついにC2に到着。遠く長かった!!でも無酸素で7200mまで登ることができた。やったね。そこはもう雲の上だった。 C2のテントC2は到着してしまうと特に困難な状況は無かったが、やはり寒かった。登山靴とアイゼンをシェルパにはずしてもらったら、教えられたとおり、すぐインナーブーツを取り出してシュラフの中に入れた。靴下も冷えていたのですぐ新しい温かいものに履き替え、足を保護した。私の履いているスカルパのファントム8000という高所靴はかなり重く硬く、三重になっているその一層一層の重なりが密着してとてもきつい。だから履くのも脱ぐのも一苦労、インナーを出すのにも全力で引っ張らねばならずいつもハアハアしてしまう。その夜から酸素マスクを装着した。酸素を吸うと体幹部が温まったので夜も眠れた。3日目9月30日は酸素マスクを装着し、ボンベを背負ってC2(7200m)からC3(7600m)へ更に上昇した。酸素マスクがあるので呼吸はOKだが、装備全体が一気に重苦しくなった。でも距離的に短く5,6時間位の登りでそう苦しむことなくC3に到着した。 酸素マスクをつけて C3 雲が下にあるここはものすごく寒く、シュラフカバーもおしっこも何もかもが凍った。情報によるとこの日は-25度位らしかったが、高所の-25度は体の循環が低下しているため八ヶ岳の-25度とは全く異なる状況。体感的には-50度位か?体幹部はかろうじて冷えなかったが手足は寒くてたまらず、ついにホッカイロをあちこちに貼ってシュラフに入った。それでも手足はなかなか温まらなかった。夕方から仮眠、夜11時頃起きて準備を整え、夜中の1時頃山頂めざして出発する予定だった。もう体を動かすのはおっくうになっていた。のろのろと明日の準備をした。ABC(5700m)からC3(7600m)ここまで頑張って来たんだもの、明日は明日の風が吹く、 泣いても笑っても明日一日で終わりだという気持ちになって、寒さに震えつつもいつの間にかまどろんでいた。
2009年10月26日
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是非とも見たい映画があった。「パリオペラ座のすべて」というバレエのドキュメンタリー映画である。曇り空だった24日、登山を止めて渋谷の文化村でついに観た。4:30開始の回を見るため3:20に受付に行ったが、もう満席で7:40分まで待たねばならなかった。さらに上演時間が3時間と長く、帰宅したのは日付が変わる直前だった。 映画1本観る為に7時間近くかかったことになる。疲れた。映画はフランス国王ルイ14世が権力を尽くして作り上げた世界最古のバレエ団「パリ・オペラ座」の舞台裏を記録したもので、監督はドキュメンタリー界の巨匠、フレデリック・ワイズマン。パリ・オペラ座の全面協力のもと、135日間に及ぶ密着撮影を成し遂げたという。154名のダンサー、1500名のスタッフ、350年の歴史──「エトワール」と呼ばれる最高位のダンサーたちの練習風景がすごかった。振り付け師が厳しい要求をだすのだがダンサーたちは全く息切れひとつ見せず高度な技能と身体能力を駆使して何度も試み、最期は「良くなった」「すばらしい」と言わせてしまう。 練習風景 床がとっても古く穴もあいている くるみ割り人形更にエトワールやダンサーたちを支える裏方のスタッフがほとんど全部登場した。衣装部でひと針ひと針スパンコールを縫い付けるチュチュ職人、演目を決める芸術監督と営業部のやり取り、25000ドル以上の高額寄付をするスポンサーへの配慮、振り付け師と芸術監督の駆け引き、さらに清掃人や天井のペンキ塗り人、食堂の従業員まで登場した。ダンサーたちとの待遇をめぐる交渉など、企業としての側面も出てくる。 舞台衣装を制作する 中央黒く伸びているのは彼女の足しかしやはり振りつけ師とダンサーのレッスン風景が殆どを占める。出てくる演目はパキータ、ジュネス、・・・の夢などコンテンポラリーが圧倒的に多く、クラシックはくるみ割り人形だけだった。それもヌレエフ振り付けだった。正直言ってコールドバレエはボリショイの方が完璧に揃っていると思った。でもこちらの方がやさしく美しかった。振り付けと演出は超斬新で驚くような動きや心理描写が続出した。・・・・の夢(・・・の名前が思い出せません)で子殺しの場面では主役のバレリーナは血だらけになっていて、強烈な印象だった。3時間ほとんどストーリー性や解説のない超絶的なバレエを見た。現代物が多かったため、音楽も現代音楽でかなり神経が疲れた。完全無欠のドキュメンタリーだった。
2009年10月25日
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22日の夜、代々木のミウラBCでAG社主催の無料机上講座 『高所登山と低酸素室体験会』 があったので、参加してきた。当日は用意された椅子が不足するほど参加者が多く、それにも驚いた。内容は「高峰ガイド登山の魅力と現状」というタイトルで・体力と技術・高山病・装備についての講話、スライド上映、さらに低酸素室体験という変化に富んだものだった。チョー・オユー遠征の隊長だった近藤謙司さん(高所登山のエキスパート、エベレスト登頂6回)のレクチャーは非常に興味深く、話し方も巧みで飽きさせず、高所登山について理解が深まった。(今頃理解が深まっても遅すぎる!!) やさしく隊員のハーネスを調整する隊長(後向き) この食欲が活力の素私が特に新鮮な気持ちで聞いたのは防衛体力と行動体力、更に高山病のメカニズムについてである。行動体力がいわゆる筋力、持久力などの運動能力なのに対し、防衛体力は寒さに強い、お腹を壊さない、どこでも眠れる、誰とでも協調できる、誰と一緒にいてもストレスにならない、など性格にも繋がっている面のことです。そしてこの二つの体力が50:50なのが理想てきであるということ。とても納得がいった。その通りでした。どんなに筋力や持久力があってもこれらの防衛体力が無ければ日々のテント生活が順調に過ごせないから、登頂どころではない。基本は防衛体力にあると思う。次に高山病についてです。高所では身体は今までのまま高圧なのに、高山は低圧に変化している。人間の肺と周囲の圧力が違うので酸素を取り込めない、そこで自分で圧力調整をする必要がある。圧力を抜く作業とは水分を排出することである。水分を排出するつまり身体は水分を失っていくから当然体内は水分不足になり、栄養分を運べないという障害がでてくる。水分不足になると体内のサーキュレイションが悪くなる。血液は固まってどろどろになり、さらに流れにくい状態に陥って悪循環になる。だから大量の水分が必要である。この人間自身が圧力調整をするという考えが私には実に面白く新発見だった。話を聞いていろいろなことが納得できた。5700mのABCキャンプでの隊長の指示はこの理論どおりで、指示どおりに実践した私の身体は理論の正しさを証明した。このレクチャーを聞いてチョー・オユーに出かけるべきだった。昨年もこのイベントは実施されていただろうに、クライミングに熱中していた私はアンテナが低かったのだ。次にキリマンジェロやアコンカグア、エベレストの貴重なスライドを見せて頂き、最後に低酸素室に入った。実は私はこれが楽しみだった。先日まで高所にいて高度馴化したこの身体はどう反応するだろうという好奇心(いや、探究心と言いましょう)があった。 ミウラBC低酸素室ところが富士山レベルに設定された低酸素室に入ってSPO2値を計るとどんどん低下して89とか85位になった。意外だった。馴化した体の有効期間はどれくらいか近藤さんに尋ねると3日という。えー、3日、そんなに短いの?嘘でしょ!!という気持ちだった。でも本当で次の馴化は早いという。次?私に次があるだろうか。予定時間をはるかにオーバーして会が終了した。来てよかった。
2009年10月24日
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秋晴れのすがすがしい22日、久しぶりに秋川の天王岩にクライミングに行った。自分の筋力・体力が著しく落ちていることをしっかりはっきり思い知らされた。でも高所登山の後は誰でも筋力が低下していることなど当然のことで落胆する必要はない。でも実際に岩に取り付いて思うように登れないとがっくりくる。かって楽に登れたルートを努力して登らねばならなかったし、最もショックだったのが昇己先生をビレーしていた時、支えきれず身体を前に持っていかれふらついてしまったこと。今までこんなことは一度も無かった。筋力だけでなく体力も落ちていることを実感。 クラックジョイ 中間部 露知らず 上部 でも今回はまだ良いほうだ。前回アコンカグア 登頂後に幕岩でクライミングした時はもっとだめで4~5m登るともう腕が体重を支えられず「降ります、降ろして下さい」を連発した。それが2ヶ月は続いた。でも今回も最短でも11月・12月は苦しむだろう。ま、いいや、山だのクライミングだの苦しみが楽しみだもの。午前中はクラックジョイなど上部を、午後は下部の岩場でちいせみ、露しらずなど7本くらいクライミングしたおかげで大分岩の感覚を取り戻すことができた。また最初からやり直しだ。今度は故障しないようじっくりやっていこう。
2009年10月23日
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今回のヒマラヤ遠征で自分の英語力が著しく衰えているのを痛感した。そんな折も折、こんな本を見つけたので早速読んだ。タイトルの「英語のバカヤロー」は養老 孟司さんの言葉である。 著者はクリムゾン・インタラクティヴの古谷裕子さん。日本を代表する知性12人にインタビューしたものをまとめたものある。その12人とは養老孟司、竹中平蔵、中村修二、上野千鶴子、坂東眞理子、浅野史郎、明石 康、本川達雄、酒井啓子、松沢哲郎、古川 聡、福島孝徳の諸氏で、それぞれの専門分野で英語を使って世界で卓越した業績を挙げている皆さんである。とても面白かった。これだけ優れた人たちでもそれぞれ英語の壁に突き当たり、苦労し、努力してきたのである。特に納得する一言を抜粋します。竹中 平蔵 英語の壁は毎日感じる。でも「向かっていく精神をもつしかない」。明石 康 カタコトでも、なまっていても、自分なりの英語でよい。松沢 哲郎 英語が下手でも、すばらしい研究はみんな固唾をのんで聞きますよ。福島 孝徳 「オレは日の丸英語だぞ」という流儀を貫いてきた。
2009年10月22日
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C1からABCに戻ってきた。二日間休息した後はアタックになる。酸素マスクの装着とユマールを使ったフィックスロープの登り方および通過の仕方を練習した。酸素マスクは原則的にC2(7200m)以降全員が使用することになっている。マスクは顔面ぴったりに装着しないと酸素が漏れてしまう。実際に顔に付けてみると予想以上に圧迫感があるしうっとうしい。その上にゴーグルをつけると顔のほとんどが覆われてしまう。 マスクをつけると下方はほとんど見えない。これでどうやってキャメルバックから水を飲むのだろう。困難で手間がかかるし、その度にマスクが微妙にずれるに違いない。本番での苦労が目に見える。酸素ボンベは1本5キロあるからそれを背負うのも小さい私は辛い。ユマールの使い方も何度も練習した。まずフィックスロープにユマールをセットするのだが実際にぶ厚い手袋をした雪山の現場でスムーズにできるかどうかとても心配だった。10月1日が天気が最もよいので、その日に山頂アタックすることが隊長から告げられた。そのためABCを9月28日にスタートしてC1へ。29日にC2,30日にC3、そこで仮眠し、深夜にスタートして10月1日に山頂到着と決定。27日には全隊員シャワーテントで身を清め、アタックの準備をした。この時のための勝負下着、勝負ウエアを整えた。いよいよという興奮と期待と不安で小さな胸は一杯だった。でもなるようにしかならないさとも思い、葛藤なく眠った。
2009年10月21日
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ABCキャンプの3日目に1回目の馴化活動としてC1(6200m)直下の通称デポキャンプまで往復トレッキング、その二日後には2回目としてC1まで登って宿泊し、さらに雪山をその上まで登る馴化登山を行った。いつも谷の向かい側に展開するこんなヒマラヤらしい山を見てスタートする幸せ。 1回目は延々と続くモレーンの中のあるかなきかの細道をたどって、デポキャンプまで歩いた。100呼吸ごとに1回キャメルバッグの水を飲む、深く強い呼吸をする、ゆっくり歩くの三点をつねに頭において歩く。 モレーンが続く道とチョー・オユー モレーンの中で休憩2日後の2回目はさらに本格的にデポキャンプから砂クズだらけの急坂を呼吸困難に耐えながら約3時間ほど登って稜線の反対側のC1に到着。ABCからC1は何て遠いんだ。そこで宿泊した。稜線の反対側は一面の雪で景観が様変わりした。気温が突然夏から冬に豹変する。 えー!!こんな道登るの?いやだあ。 更に上部、稜線の黄色いテントが点のように見える。 雪深く狭い斜面にかろうじて設営されたテント群 C1 暗く寒いよお!こんな空気が薄く寒いところで泊まるなんてイヤ!!なのだが他に泊まれるロッジもホテルも招待所もない。一晩のC1滞在はちょっと不安を感じたものの朝になってみると平気な私だった。翌日はC1から高所登山靴にアイゼン・ピッケルに身を固め、6400mあたりのハンギンググレイシャーまで登った。本格的高所登山の始まりである。 高所登山スタイルに身を固めてC1から上に 高所登山靴にアイゼンがものすごく重かった。はじめ慣れなくてぎくしゃくしたがそのうち雪の感覚を掴んだ。最初から急坂で苦しかった。その後またモレーンの中を歩いてABCキャンプに戻った。ABCに戻ると少し呼吸が楽なような気がしたから、この2回のC1詣では高度馴化には有効であったということになる。でも6400mの空気の薄さの洗礼を受け、フィックスロープをセットし繰り出して登るのにけっこう疲れた。生きものが生存しないモレーン歩きはもう飽きたが、アタック時にはまた同じルートを歩くのだ。
2009年10月20日
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ABCキャンプの3日目に1回目の馴化活動としてC1(6200m)直下の通称デポキャンプまで往復トレッキング、その二日後には2回目としてC1まで登って宿泊し、さらに雪山をその上まで登る馴化登山を行った。いつも谷の向かい側に展開するこんなヒマラヤらしい山を見てスタートする幸せ。 1回目は延々と続くモレーンの中のあるかなきかの細道をたどって、デポキャンプまで歩いた。100呼吸ごとに1回キャメルバッグの水を飲む、深く強い呼吸をする、ゆっくり歩くの三点をつねに頭において歩く。 モレーンが続く道とチョー・オユー モレーンの中で休憩2日後の2回目はさらに本格的にデポキャンプから砂クズだらけの急坂を呼吸困難に耐えながら約3時間ほど登って稜線の反対側のC1に到着。ABCからC1は何て遠いんだ。そこで宿泊した。稜線の反対側は一面の雪で景観が様変わりした。気温が突然夏から冬に豹変する。 えー!!こんな道登るの?いやだあ。 更に上部、稜線の黄色いテントが点のように見える。 雪深く狭い斜面にかろうじて設営されたテント群 C1 暗く寒いよお!こんな空気が薄く寒いところで泊まるなんてイヤ!!なのだが他に泊まれるロッジもホテルも招待所もない。一晩のC1滞在はちょっと不安を感じたものの朝になってみると平気な私だった。翌日はC1から高所登山靴にアイゼン・ピッケルに身を固め、6400mあたりのハンギンググレイシャーまで登った。本格的高所登山の始まりである。 高所登山スタイルに身を固めてC1から上に 高所登山靴にアイゼンがものすごく重かった。はじめ慣れなくてぎくしゃくしたがそのうち雪の感覚を掴んだ。最初から急坂で苦しかった。その後またモレーンの中を歩いてABCキャンプに戻った。ABCに戻ると少し呼吸が楽なような気がしたから、この2回のC1詣では高度馴化には有効であったということになる。でも6400mの空気の薄さの洗礼を受け、フィックスロープをセットし繰り出して登るのにけっこう疲れた。生きものが生存しないモレーン歩きはもう飽きたが、アタック時にはまた同じルートを歩くのだ。
2009年10月19日
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ABC(アドバンスベースキャンプ)は5700m、BCとしてはかなり高い。モレーンの岩がなく平らな土地を選んでシェルパたちが既にテントを設営してくれていた。一人テントで気が楽だった。食事や団欒の場であるダイニングテント、食事を作るキッチンテント、トイレテントが2個、隊員とシェルパの個人テントが人数分、その後シャワーテントもできた。 団欒と食事の場ダイニングテント 床には赤い絨毯が敷かれている マイテント私の城です コックが腕をふるう厨房・キッチンテント トイレテント シャワーテント 近藤隊長のテント シェルパ達のテントケンケンブログを発信する隊長のテントには太陽光発電のパネルが載っています。ベースキャンプではこれからのアタックに備えてまず高度馴化することが第一の課題だった。できるかぎりたくさん水分をとっておしっこも出し体のサーキュレイションをよくすること、深く強い呼吸を意識してSPO2値をあげること、適度に運動をすることの三点が隊長から指示された。私は高度には非常に敏感ですぐ反応が出るのでこれにはマジ真剣に取り組んだ。日中はもちろんいろいろな飲み物を摂取する。問題は夜間である。以前ミウラBCで睡眠時のSPO2値が33まで下がったことがあり、熟睡したときが危険と自覚してはいた。そこで夜は1リットルから1.5リットルの水分(白湯、薄めたスポーツドリンクなど)をとり、平均大体6回トイレにいった。テルモスの水分を1カップ飲んでトイレに行き、シュラフに入る前にまた一口、シュラフの中で呼吸練習と軽い体操をして眠るというサイクルを繰り返した。大体夜9時頃にシュラフに入り、朝6時半にはモーニングティーが来るので9時間に6回のトイレと水分補給、つまりほとんど深く眠る時間はない。隊長からは睡眠より馴化が大切と言われていたし、それは自分でも納得できた。日中もテントで無為にしているとぼーとしてして大脳が停止状態に陥るので、リコーダーで日本の歌を吹いたり、他のテントを偵察したりして動くように心がけた。 チョー・オユーと私達の緑色のテントと各国のテント 最初ABCに来た時は世界各国からおよそ500人くらいの登山者がテントを貼っていた。 個性的な各国のテント 顔が腫れ、目が三日月のような私最初2日間くらいは食欲が落ちたり脳が停止状態になったりして、高度障害らしき症状がでたが、その後は平気だった。でも少しづつ顔が腫れむくんで変形し、目がなくなった。登山活動を記録する、写真を撮るなど頭を使う活動が日ごとにおっくうになり、物事の手順がぱっと頭に浮かばなくなってきた。酸素濃度の重要性を身に沁みて実感した。でも馴化が比較的うまくいったので頭痛や吐き気などはほとんど無く、元気に7200mまで無酸素で登ることができた。
2009年10月19日
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秋晴れの今日は帰国後の足慣らしにホームグラウンドの高尾から陣馬を縦走しました。稲荷山コースも琵琶滝コースもきっと混雑するだろうと思い、裏高尾の蛇滝口から登りました。その時間にこのコースを登ったのは私一人、滝修行の道を通るのも好きです。このコースは稜線にでると目抜き通りで、薬王院から高尾山頂に出ます。 水業修行場 朱塗りの門と古色蒼然とした神社高尾山、城山、景信、陣馬と伸びやかな起伏が続き、何度も来た道、地図無しで目を閉じても歩けます(?)。景信山まではトレイルランナーもランニングしていたりしてかなりの人がいましたが、明王峠から陣馬山は人が少なく、静かなハイキングを満喫しました。豊かな緑、富士山、秋草、壮麗な薬王院、濃い空気と程よい湿度、木漏れ日とそよ風、何もかもそろっていてよかった。紅葉はほとんどまだ始まっていません。 山なみのかなたに富士山 薬王院 陣馬山の白馬と私 木の実も色づいて秋の風情
2009年10月18日
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チベッタンキャンプから上はトラックは使えないので膨大な荷物はヤクが運ぶことになる。ヤクは60キロくらいの荷物を背中に背負わされて、ゆっくり歩くように見えるが私たちより早い。約20頭のヤクが隊全体の荷物を運ぶ。 荷物を背負うヤク 荷物とヤクの群一日、サイドモレーンの岩クズ、砂クズの荒涼とした道を延々と果てしなく歩き続けました。登ったり下ったり、途中氷河が崩壊しつつある凄みのある風景も目にしました。高度もどんどんあがっていくので、いつも深く強い呼吸を意識して行い、5分間に1回はキャメルバッグの水を飲みながら歩きました。草木・花類はもうほとんどなくわずかに苔類があるだけなのですが、貴重な二種類の花を見つけました。 ABCキャンプに近づくにつれて風景がドラマチックに変化してゆきます。モレーンのそばに次々と氷河が姿を見せ、ついにABCキャンプに到着です。 ABCキャンプが近づいて氷河を伴ったヒマラヤらしい風景が出現する いろいろな氷河が登場するそしてついに目の前に真っ白いチョー・オユーが大きく迫ってきました。あれに登るんだ!!こう近くに見ると登れるような気もしてきました。これからこのABC(アドバンスベースキャンプ)を基地にしてしばらく生活することになります。でも標高5700mでエベレストBCより500mも高く、ここで寛ぐには空気が薄すぎる!!。着いたその日から高度障害との戦いです。
2009年10月17日
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エベレストをまじかに見た興奮を抱きながらいよいよランクルに別れ、ABCキャンプ(5700m)にむけてトレッキング開始です。草原や乾いた茶色の山々がうねる砂混じりで埃っぽい道を一日歩いて中継点のチベット人のテントサイトに着いて一泊しました。 少しづつ近づいてくるチョー・オユー 乾燥した埃っぽい道を延々と歩く 立派な標識 ああ、もうこの道には飽きた!!休憩中の隊員たち やっと着いたテントサイト一日歩いてチベット人のキャンプに到着。チベット人の女性がバター茶を作ってくれました。少し塩辛くこってりした味でした。 バター茶をつくるチベットの女性 テント場付近の丘でみつけたエーデルワイス 夕食後チベット人の家族と歌ったり踊ったりして楽しく交流する時間がもてました。なかなか開放的な雰囲気でよかった。アジア人同士のつながりのようなものを感じました。私はテント生活のつれづれにソプラノリコーダーを持参、近藤隊長はギターを持参していましたので即興で初めて1,2曲日本の歌を合奏したりしました。 驚くべきはこのチベットの男性で私のリコーダーを貸してくれと言い、受け取るとすぐに吹き始めました。けっこういい音色で民族音楽なのでしょうか、エキゾチックな旋律を演奏していました。近藤隊長のギターも弾いていました。かなりの文化人です。 私のリコーダーを演奏するチベット人男性 隊長のギターを弾くチベット人この男性もおしゃれで、頭の飾りはチベット人独特のもの、目がさめるようなブルーのトルコ石のイヤリングをしていました。この男性は結局この上のABCキャンプまで行って、登山の安全祈願をしてくれることになります。
2009年10月16日
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TBCに一泊した翌日、エベレストBCを訪ねるというこれまたない機会に恵まれました。中国側から入るので全行程ランドクルーザーで移動できるし、エベレストBCは高度5200mで高度馴化にも丁度いい高さです。隊員の中にはチョー・オユーの次はエベレストを狙っている人もいるようで、願っても無いチャンス到来です。広大な草原の道なき道を左右に揺られながら片道4時間ほどのワイルドドライブです。すぐ前方にチョー・ユーが大きな姿を現わしました。「ええっ!あんな遠くの巨大な高い山にホントに登れるの?」と内心思っていました。 放牧の羊の群のかなたにチョー・オユー(右の大きな山) まだまだ元気でさわやかな隊員たち エベレストが姿を見せてきたそして純白のエベレストが惜しみなくその全身を見せて現れました。全員声もなくしばし見とれました。エベレストがこんなに大きくこんなにはっきり目の前にある!!大感激です。その後、数年前にAG社の公募登山でエベレスト登頂後、亡くなられた女性の慰霊碑に線香をたむけ、鎮魂の祈りを捧げました。近くにはマロリーの碑もありました。 慰霊碑に祈りを捧げる隊長と隊員 マロリーの碑 帰途、エベレストBCより約8キロ下ったロンブク寺にぜひ立ち寄りたくて車と止めてもらい訪ねてきました。 ロンブク寺とエベレスト ロンブク寺中庭世界最高所(標高5000m)のロンブク寺院から見る「宇宙を支配する母なる女神」、チョモ・ラン・マ(Chomolumgma)です。ロンブク寺は中国政府によって破壊されていたらしいですが、現在は再建されています。これまで見たチベット仏教の寺院とほぼ同じ様式ですが、大変素朴で質実剛健という雰囲気を感じました。 木製の巨大なマニ車 回廊の装飾
2009年10月15日
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帰国して3日目を迎えた。3日前自宅に着くと金木犀がほのかに香っていた。翌朝庭を見たら朝顔は種になり、ホトトギスの花が咲いていた。 オレンジ色の花が香る金木犀 ほととぎす とうとう、戻ってきたんだ。このデリケートで湿度を含んだ空気、これが日本だ。日本の秋はしみじみと私を受け入れ、癒してくれる。昨日・一昨日と晴天だったのでがんばって遠征の装備の片付けと手入れを終了させた。身体のスタミナを使い尽くし、頭もぼんやりした状態だったので、ほんとにがんばったという言葉がぴったりの仕事だった。早く遠征から一区切りつけて、新しいスタートにつきたかった。今日は曇り空で午後は雨模様。ウォーキングに出かけたら60分のところが80分もかかってしまった。自覚はないけど体力が落ちているのだろう。早く歩けないもの。けだるいところにFMからブラームスの交響曲第4番ホ短調の冒頭部が聴こえてきた。ああ、なんという美しさと孤独感!!ひそやかに天に祈るようなこの旋律!!荒ぶる自然と対峙することに集中し、もう何ヶ月も耳にしなかったこの旋律とこの和声。心にしみいった。今の私の気持ちはこの旋律そのものだ。神に甘えるように甘美で切ない。神様、私のこのまとまりのつかない、まるで星の出来始めのような混沌とした気持ちを拡散させて、大空に消えさせてください。クリアになりたい。神に甘える。自分が弱いから最期はいつも神だのみになる。
2009年10月14日
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ラサに3日間ステイして寺院巡りや縦走を繰り返しておよそ4600m程度の高度馴化を図り、4日目にTBC(車で入れるベースキャンプ)に移動しました。とても長い長い距離を日本製のランドクルーザー3台に分乗し、馴化を図る為いつもペットボトルを抱えて水を飲みながらの移動です。信号が全くない国道をびゅんびゅん飛ばしました。ドライバーはものすごい腕の持ち主です。 頼もしい日本製ランドクルーザー 上海から5000kmの標識 とても暑かったのでスイカを買って食べました。けっこう美味しかった。 スイカ売りの男性と路上に寝かされたその子ども(母親はどこに?)悪い霊などが峠のこちらに入らないよう祈りをこめて付けられた莫大数のタルチョーがはためくカツォーラ峠で大きな巨人近藤隊長と小さな巨人(?)とも言われる私。うーむ、こうして写真で見ると私は隊長の肩までしかない。二人ともまだ普通の顔です。私はまだスリム(!?)です。 きれいに装飾されたギターを弾く盲目の大道芸人 ハローだけ言えるたくましい少年たち
2009年10月14日
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前後しましたが、ポタラ宮を訪ねる前に同じラマ教の寺院ガンデン寺に行きました。かなり山の上にあり、即高度馴化を兼ねています。頭痛が起きないようゆっくりゆっくり歩いてやっと到着した寺はやはりポタラ宮と似たような様式で、これも山頂にそびえる要塞です。内部もしっかり見学することができました。 山頂の要塞ガンデン寺の中心部分 寺院の内部 壮麗な装飾に満ちている 10元を払ってお坊さんと一緒に撮影 五体倒置して祈っていたおばあさんと寺の見学後は本格的におよそ4400m位の山を縦走し、高度馴化を図りました。山頂にお祈りをする男性がいました。私たちも登頂の成功と無事を祈って祈りました。 タルチョーのはためくガンデンピークと御符をまく私たち お神酒を備え香草を炊いて祈る男性 新しいタルチョーをつける。そのずっと左には太陽光発電のパネルが見えます。こちらはその方面はものすごくすすんでいて日本は相当立ち遅れていると感じました。チベットの人たちはとにかく信仰心が厚い。寺や峠にみられる膨大なタルチョーを見るだけでもその気持ちが伝わってきました。
2009年10月13日
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高所登山で酸欠状態が続いたためか、頭がぼんやりしてクリアにならず何からどう載せればいいのか系統だった思考ができません。とりあえず見た順に写真をアップします。強烈な印象を残した中国チベット自治区ラサにあるポタラ宮です。 ポタラ宮全景とラマ教の若い僧侶 ポタラ宮は巨大でまるで要塞でした。メインとなる建物のほかにもたくさんの棟(?)があり、その建築様式が独特で色や装飾は実に壮麗でした。誰がこの壮大な寺院を設計したのだろうととても不思議に思いました。 ここがすでに標高3780m、ほぼ富士山と同じ高度に飛行機から無防備に到着したので、その日は頭頂部がじくじくと痛みました。さらに翌日はポタラ宮の急な階段を登ったり降りたりしてかなりの高度馴化運動になりました。五体倒置する人が何人もいました。ラサが中国の支配下に置かれて50年、漢民族が流入して大勢を占め、街は中国風に整備され、最近事件のあった大通りにも随所に機関銃を肩にした政府軍兵士が詰めていました。政府や公安などの関係者にカメラをむけることは即撃たれることです。宗教と政治を強く考えさせられました。
2009年10月12日
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本日10月11日夕方、私ことエンジェルフィエスは無事帰宅しました。凍傷や雪盲にもならず、いたって元気です。留守中当ブログおよびケンケンブログにたくさんの励ましとお祝いのコメント有難うございました。心より感謝申し上げます。皆様の応援が何よりも私の大きな力となりました。おかげさまで10月1日11時35分、念願のチョー・オユー(8201m)登頂を果たす事が出来ました。本当に有難うございました。これまでの登山歴の中で最も過酷な登山でしたが、がんばりぬくことができ、今は充実感でいっぱいです。明日から少しづつ報告させていただきますね。とりあえず帰国報告まで。 2009.10.1 11:35 チョー・オユー 山頂にて
2009年10月11日
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アカンカグアのBCまではかなりの距離があります。そこでラバに乗って行こうということになり、私には一番小さなラバを選んでもらいました。でもとっても乗り心地が悪かったです。足が短いせいか足を入れるくつわ(?)にきちんと足が固定できない、ラバが勝手に歩く(うまく御せない)、ラバが水を飲もうと下を向くので背中から落ちそうになるなどなど。BCに着いた時は、お尻から股にたこができていて2,3日痛かったです。それに懲りて帰りは一日歩いて帰りました。
2009年10月10日
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一日歩いてBCに到着、迫力ある岩山を見ました。縞模様です。だれかクライミングした人がいるのでしょうか。 私エンジェルフェイスはただいまヒマラヤ遠征中です。現地での様子はケンケンブログでご覧下さい。
2009年10月09日
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エル・プロモはアコンカグア(6962m)への高度馴化という位置づけでした。次がいよいよ本命のアコンカグアです。まずトレッキングから開始です。広大な自然を見ながら、草原や湖を見ながら歩き続けました。
2009年10月08日
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やっとたどり着いたエル・プロモ山頂です。(隣の男性は現地ガイド)山頂を踏めたのは6名中私と40代の女性、今年エベレストに登頂した男性の3人だけでした。その他のメンバーは高度障害等で途中リタイアを余儀なくされました。標高約4150mのBCから登り9時間で山頂5430mの山頂に着きましたが、標高が高い雪山の登り9時間は試練でした。そこから3時間半でBCまで下りましたが、テントに着いた時はしばらく液体しかのどを通りませんでした。人生で一番疲労した登山です。このときの辛さを思い起こせば、ほとんどのことは出来るという気持ちです。
2009年10月07日
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エル・プロモ(5,430m)は私の登山歴の中では最もしんどかった山です。高度の高い雪の坂を登っても登っても山頂は見えず、まさに忍耐でした。南米に到着して日が浅く現地の気候に慣れていない、高度馴化が十分でないなど今思えばよく登れたという気がします。
2009年10月06日
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テント場から見る南米の山々です。果てしなく山並が続き、たくさんあってどれがどれかほとんど分かりませんでした。 私エンジェルフェイスはただいまヒマラヤ遠征中です。現地での様子はケンケンブログでご覧下さい。
2009年10月05日
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2007年12月エル・プロモ山に向かってトレッキングを続け、テントサイトに到着したところです。 乾燥した茶色の大地の奥に雪山が姿をみせ、いよいよ近いと感じたものでした。荷物の運搬は馬に頼っていました。
2009年10月04日
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*ブログ主、エンジェルフェイスがチョーオユーのABC(アタックベースキャンプ?)に無事戻ったようです。ひとまずは安全圏に脱したと言う事で家族一同安堵しております。現地での様子はケンケンブログでご覧下さい。
2009年10月03日
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ここからはヨーロッパから地域が変わって南米のエルプロモ(5430m)とアコンカグア(6962m)です。2007年の年末から2008年の年始にかけて二つの高峰に登頂しました。まず南米まで行くのに飛行機で丸二日間かかり、とっても遠かったです。チリー、アルゼンチンなど自然も人も文化もすべて珍しいものばかりで、大変刺激的でした。でも南米の皆さんは皮膚の色、髪の色、背丈など私たち日本人ととてもよく似ていて、全く違和感がなく親近感を感じました。ただ英語はほとんど通じず、わずか3つくらいのスペイン語ですべてまかないました。まずエルプロモへのトレッキングで見た花です。湖の周辺にたくさん咲いていました。
2009年10月02日
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ブログ主、エンジェルフェイスがチョーオユーの山頂に到達したようです!!どうやら天候も悪くはない?みたい?やったー!これまでの様子等はケンケンブログ様で!!わっしょいわっしょいわっしょいわっしょい ・・・無事に帰国し、家族に元気な姿を見せてこその登頂。気を抜かず、しっかりと戻ってきてくれる事を願って止みません。
2009年10月01日
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モンブラン山頂から登山道方面を俯瞰したものです。広大な雪原に人の姿が豆粒のように見えました。ここを登ってきたんだという達成感と感激で一杯でした。
2009年10月01日
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