まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2023.07.17
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カテゴリ: メディアトピック
達郎批判ではなく、やや基礎的な考察です。

という本質的な問題にもかかわる話になります。



かつて山下達郎は、
ジャニーズのエンターテイメントのことを、
宝塚歌劇団と並べて語ったことがあるのだけれど、

両者に共通するのは 「性の消滅した世界」 ということ。


男性が女形を演じる歌舞伎にもいえることですが、
もともと日本人はそういう芸能を好んできた伝統がある。

かつては、
西洋にもカストラートのような人たちがいたし、
中国の宦官の文化とか、
日本の戦国時代の男色文化にも、
そうした側面があるのかもしれません。

現在の日本のBL文化にも同様のことはいえると思う。



ジャニーズのアイドルというのは、
いわば芸能のために「虚勢された男性」じゃないかと思うのですよね。


たんに「擬似的な恋愛対象にしてるから」というだけでなく、
そもそも彼らの 「性的な部分」 を見たくないから…
という面が強いように思う。

そして、

そのような「去勢された男性アイドル」を育てるための、
ある意味で合理的なシステムだった可能性があります。

もしかすると、
ジャニー喜多川とのセックスを受け入れるかどうかで、
アイドルの資質があるかどうかを選別していたかもしれない。
(あくまで憶測ですが)

もし、そうだとすれば、
ジャニーズのアイドル文化やエンターテイメントそのものが、
ジャニー喜多川の性犯罪と切り離しがたく存在していた、
…とさえ思えてきます。



原則的にいうなら「作者」と「作品」は別です。

作者に罪があっても、作品に罪はないし、
その反対に、
どんなに作品が素晴らしいからと言って、
作者の犯行が免罪されるわけでもない。

そこは厳密に区別されなければいけません。



そもそも犯罪者の表現行為は禁じられていません。
犯罪者にも「表現の自由」が法的に保障されています。

永山則夫のように、
獄中で表現活動をすることも、
それを世間に公表することも認められています。



ただ、テレビ局などは、
犯罪者の表現を忌避する傾向が強く、それは自粛されがちです。

とくに民放の場合は、
(婚外恋愛は犯罪でないにもかかわらず!)
不倫芸能人の出演さえ控えてしまうことがあります。
視聴者やスポンサーの意向に左右されるからです。

NHKの場合は、
スポンサーの意向に左右されないこともあって、
すくなくとも民放に比べれば、
不倫芸能人の出演などには寛容です。

さらに、出版社の場合は、
何よりも「表現の自由」が優先されるので、
多くの場合は犯罪者の表現行為にさえ寛容です。



ただし、
表現行為そのものが犯罪によって成立している場合 は、
その限りではありません。

たとえばベルトリッチの「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、
(わたしがとても好きな映画のひとつなのですが…)
撮影中に強制的なセックスが行われ、
そのシーンが劇中で使われているとされています。
つまり、犯罪行為によって作品が成立している。

荒木経惟の写真や、
園子音の映画などの場合も、
モデル・女優への性的な支配が、
作品の内容に反映されているのではないか、と疑われています。

ジャニーズのアイドル文化についても、
ジャニー喜多川の性的支配がアイドルを育てたとすれば、
エンタテインメント作品そのものが、
その犯罪によって支えられていた、と言えるかもしれません。

まあ、
かりにそうだとしても、
ジャニタレの表現活動までが禁じられるわけではありませんが。



ちなみに、
昔の歌謡曲に「芸のためなら女房も泣かす」という文句があります。

わたしは、
最近の歌舞伎界を見ていて、
もともと役者ってのは、
「芸のためなら家族も殺す」 ような人たちではないのか、
と感じています。

小林麻央も死んでしまったし、
竹内結子も死んでしまったし、
猿之助の両親も死んでしまった。

歌舞伎役者というのは、
それら家族の死をも含む「業」を積み重ねることによって、
その深い「業」をこそ、自分の芸に生かしているのではないか、
と思えてくるのですよね。

日本人を含め、人間社会は、
そのような芸能を長いあいだ容認してきたのかもしれません。
しかし、いよいよ、
それが許されない時代がきたのではないか、とも感じています。



山下達郎は、
小杉理宇造やジャニー喜多川との「縁」こそが何より重要であり、
リスナーやファンとの「縁」は、それに比べれば二の次でしかない、
…という趣旨のことをラジオ番組で公言しました。

つまり、
達郎にとって何よりも大事なのは、
あくまで「音楽を作らせてくれる人間」であって、
けっして「それを聴く人間」ではないのだ、ということ。

これはある意味、
じつに芸術家らしい考え方であって、

実際のところ、
作品が世に放たれ、それが一人歩きしてしまった後のことは、
もう作者が関知できる領域ではないのだし、

音楽の場合も、
聴きたい人間が勝手に聴いているだけなのだから、
彼らがどんな気持ちで音楽を聴いて消費していようと、
もはや作者の知ったことではない、
…というのは、一定の真実だろうと思います。

したがって、
芸術家にとって何より大事なのは、
「作りたいものを作り続けられる環境」であって、
それを支えてくれる人脈さえ保全されていれば、
それ以外のものが失われても、
さしたる問題ではないのだろうと思います。



さらに、
美空ひばりが田岡一雄との「縁」を切れなかったように、
山下達郎がジャニー喜多川との「縁」を切れないように、

たとえ彼らが犯罪や犯罪組織に関与しているとしても、
やはり創作活動のためには、
その「縁」が何より優先されるのだ、ということですね。

かりに自分の作品が、
その犯罪や犯罪組織を利することになるとしても、
それはもう作者の関知できる領域ではないのだから、
そこまでの責任を負う必要はないってことかもしれません。

しかし、
そういう発想が今後も許されるかどうかは微妙です。
もちろん法的には何ら問題がないけれど、
テレビ局やスポンサーがそれを許すかどうかは難しい。







余談ですが、
最後にすこしだけ達郎批判をすると、

彼は、
松尾潔の契約終了にかんして、
「自分がその決定を促したわけではない」と言い、
ジャニーの性加害行為についても、
「1アーティストの自分に分かるわけがない」と言いました。

しかし、
すくなくともスマイルカンパニーという会社の中で、
山下達郎が「1アーティストにすぎない」というのは、
たぶん嘘だろうと思います。

噂によれば、
山下夫妻は会社の半分近い株式を保有しているらしいし、
おそらく社内における発言権や決定権は、
「前社長 > 山下夫妻 > 現社長」ぐらいの順位じゃないかと、
わたしは想像しています。 (憶測ですが)

そうでもなければ、
松尾潔はいちいち山下夫妻の「賛意」などを確認するはずがない。
実際のところ、
ヤマザキマリや鈴木おさむの「賛意」を確認したという話はないし、
あえて山下夫妻の「賛意」だけを確認したのは、
そこに大きな決定権があると考えればこそでしょう。
(もちろん松尾潔はそうした内実まではバラさないでしょうが)

そもそも「スマイル」という社名は、
ビーチボーイズの作品名 (未完) から取られているわけだし、
それを達郎が命名したことは一目瞭然なのです。
なので、実質的に、スマイルカンパニーという会社は、
小杉家と山下家の共同経営ではないかとわたしは見ています。 (憶測ですが)



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最終更新日  2024.06.17 20:36:51


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