まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2026.04.04
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カテゴリ: ドラマレビュー!
いまさらながら、


過去にもちらちら見る機会はあったけど、
ようやく全話とおしての視聴が完了。
映画版はいまひとつだなと思いましたが↓
https://www.jtnews.jp/review/28064/?SELECT=24063#HIT
ドラマ版はかなり面白かったです!!

4年前の作品だけど、
いまだにTVerでは高い再生数を誇ってて、
今年もTVerアワードに選出されてる。

なかなか稀有な優良コンテンツですね。



なお、
日テレの「ハコヅメ」と同じく、
見当違いなキャンセルカルチャーのせいで、
こちらも続編が作れない状況になってます。

これはテレビ局だけでなく、
原作者の田村由美も、主演の菅田将暉も、
代表作を奪われる結果になってるわけだし、
ドラマファンの利益も損われてるし、

さらに、

海外向け国産コンテンツを失ってる可能性もあるわけで、
なるはやで解決すべき課題だろうと思います。

結論から先にいうと、
(スポンサーが企業イメージを気にするのはともかく)
すくなくともテレビ局は、
キャンセルカルチャーを「不当」と判断したならば、




・文化系のミステリー

ドラマ「ミステリと言う勿れ」は、
アクションを中心にした体育会系のサスペンスじゃなく、
徹底した文化系のミステリーなところが最大の魅力。
劇伴として使われるクラシック音楽も効果的でした。

ただ、
それだけに心理犯罪としての面が強く、
狂気性や猟奇性もかなり際立ってて、
親子間の虐待も繰り返しクローズアップされる。
そういう特徴は女性作家の原作ならではかもしれません。



日本のテレビドラマとしては、
美男美女を軸に配役してないのも稀有な特長。

菅田将暉は典型的なイケメンじゃないし、
伊藤沙莉も門脇麦も美人女優じゃない。
それでもキャラの魅力が十分に共有できる。

ドラマ版の風呂光聖子は、
原作のキャラや位置づけとは違うらしいけど、
序盤では彼女の存在こそ大きな魅力でした。

実際、
風呂光役の伊藤沙莉は、
(いつものガサガサキャラと違って)
ものすごく可愛く見えるのよね…。


強いて美人女優といえるのは、
せいぜい松本若菜ぐらいだろうけど、
彼女は男勝りな刑事の役どころだし、

イケメン俳優といえるのは瑛太と北村匠海ですが、
彼らは異常な殺人犯の役どころ。

美男美女をメインにしない配役でこそ成功してる。


・トリックのツッコミどころ

映画版もそうでしたが、
犯罪サスペンスとして見た場合に、
ツッコミどころがないわけじゃありません。
とくに焼肉屋強盗の話は疑問に感じる点が多かった。

強盗犯が店内にダラダラ長居して、
店主の娘に営業させる理由が分からないし、
とっとと金を奪って逃げたらいいのでは?…と思うのよね。

一方、
久能 (菅田将暉) とライカ (門脇麦) は、
いったん店を出てから警察を呼んで、
ふたたび戻ってきて店を開けさせましたが、

本来なら食事してる間にどちらかが店の外に出て、
閉店させないうちに警察を呼ぶべきでしょ。



・最終話の時系列について

最終話は、
時系列が大きく入れ替わってたせいで、
ちょっと頭が混乱しました。

簡単にいうと、
この最終話の内容が、
直接には第4話へ (実質的には第5話へ) 繋がるわけね。

つまり、
最終話でガロ(瑛太)が久能に送った指輪を
第5話で風呂光が「恋人からの贈り物」と勘違いすることになり
最終話で父の遺体を掘り出したジュート(北村匠海)による警察への告発が
第5話での牛田(小日向文世)による霜鳥(相島一之)の告発へと帰結する

…ってこと。

なので、
羽喰玄斗 (千原ジュニア) の事件は第5話で解決済みですが、

ガロの妹に指輪を授けたカウンセラーの正体、
すなわち鳴子巽とその指輪の意味については、
未解決なまま続編につながる形で終わってます。



時系列を入れ替えた理由としては、
おそらく以下の4点が考えられます。

1.
物語を続編につなぐため、
ガロの妹の指輪とカウンセラーの話を最後に置いた。
2.
ジュートが警察に告発した話を先にすると、
そのあとの牛田と霜鳥のエピソードのネタバレになる。
3.
新幹線&ジュートの告白の話は尺が短いので、
時間を延長した最終回に2つの話をまとめた。
4.
羽喰玄斗の連続殺人、バス運転手の連続殺人、
ガロの報復殺人、ジュートの連続殺人は、
いずれもかなり猟奇的でグロテスクな内容で、
ドラマ中盤で立て続けにやるには重すぎるから、
視聴者が食傷気味になって途中離脱しないように、
あえて話を分散させた気もします。


…とはいえ、
最終話に2つのエピソードを押し込んで、
エンディングテーマを2度流すのは興冷めだったし、

やはり時系列どおりにして、
ライカの人格消滅の話で終わらせるほうが、
物語の流れとしても、まとまりはよかったと思う。

そのうえで、
ガロから送られた指輪のことを、
久能が振り返るシーンさえ最後に加えれば、
続編につなぐのも十分に可能だったはずだし、

原作との兼ね合いもあるけれど、
脚本をすこし工夫すれば、
ジュートの告白によるネタバレ問題も、
回避するのは不可能じゃなかったと思います。


・続編の問題

そして、ドラマの続編は可能なのかどうか?

無意味な不倫叩きによって、
日テレが「ハコヅメ」の続編を作れずにいるように、
バカな漫画ヲタクどもの、
日テレに対するキャンセルカルチャーによって、
フジテレビも本作の続編を作れない状態になってます。

日テレの問題においては、
バカな漫画ヲタクどもが小学館を擁護し、
責任をドラマ制作側へとなすりつけたのだけど、

実際には、
ドラマ制作側との意思疎通を遮断しておきながら、
炎上騒動のときにだけ原作者を矢面に立たせ、
責任のがれに終始した小学館にこそ問題があったし、

もっといえば、
原作者を板挟みに追い込んだのは、
ほかならぬ漫画ヲタクどもの脊髄反射的な炎上だった、
…という可能性を考えるべきなのです。



先日のマンガワン問題でも、
漫画ヲタクどもは小学館と原作者を擁護し、
「前科者の表現の自由」を主張しましたが、

要するに、彼らの主張はつねに、
「2次元側を擁護して3次元側を敵視する」
という思考パターンに則ってるだけなので、
(ジャニヲタによる性被害者へのセカンドレイプと同じように)

はたから見れば論理的な一貫性を欠いており、
たんに彼ら自身の立ち位置を死守してるにすぎない。

バカが連帯して政治力を発揮する運動は、
マスメディアにとって死活問題になるだけでなく、
そのままポピュリズムにも直結しており、
国家や社会を危機に陥らせかねない側面があります。

その意味で、
漫画ヲタクやジャニヲタの存在は、
社会的な害悪になってる状況だといえる。

したがって、
不当性の疑われるキャンセルカルチャーついては、
冷静な検証と分析をおこない、
社会的な対策や是正を講じていく必要があります。



フジの「ミステリーと言う勿れ」の成功によって、
相沢友子が漫画原作のドラマ化に自信をもった結果、
日テレの「セクシー田中さん」で最終話を書けなかったことに、
いっそうの不満を抱いたとしても想像に難くないし、

それがかえって裏目に出たともいえるのだけど、

すくなくともフジテレビが、
相沢友子の起用を躊躇する必要はないし、
日テレが永野芽郁の起用を躊躇する必要もないのです。
基本的には無関係なのだから。



・ライカの人格消滅について

以下は、ライカの人格消滅についてのメモです…。
多重人格者のひとつの人格が消滅したら、それを形成してた脳細胞は死滅するのかしら?…と思ったのですが、ChatGPTに訊いてみたところ、人格を成り立たせるシナプス反応が潜在化するだけで脳細胞が死ぬわけじゃないらしい。逆にいえば、人間の人格は「顕在化したシナプス反応の束」に過ぎないってことね。デヴィッド・ヒュームが「自己とは知覚の束にすぎない」と言ったように、統合された自己は一定の制度下で成立する現象にすぎないのだと思う。
ちなみにドゥルーズ=ガタリが言った「分裂症 スキゾ と偏執症 パラノ 」は、おおむね臨床医学でいうところの「解離と統合」に当たると思います。近代社会では、人格の統合された状態が「健康」で、統合の崩れた状態が「病気」だったけれど、ドゥルーズ=ガタリはこれを逆転させて、分裂してるほうが自然であり、偏執してるほうが近代的な病理と考えたわけよね。実際、自然界の動物などは、昨日の自分を忘れて今日の自分を生きてるわけだから、統合された自己にこだわらず、ほどよく解離してるほうが正常なのだと思う。人間の人格が統合されるのは、社会的な要請もあるけれど、言語的な文脈の力で統合が可能になるからでもある。したがって、統合の強さは個人の言語能力に比例するといってもいい。
ポストモダン社会では、昨日の自分の罪を都合よく忘れて、それを他人になすりつけるようなサイコパスなパワハラ野郎のほうが健康を保って、昨日の自分の罪を今日も明日も背負いつづけながら他人の罪までなすりつけられる人のほうが鬱病になる…みたいな逆転現象が生じます。文脈を理解しない脊髄反射的な犬猫どもがSNSで存在感を増すのもポストモダン的な現象といえる。こうした逆転現象のなかで病理の定義が曖昧になり、そのつど症状に名前をつけるもんだから無駄に臨床概念が複雑化してしまう。
統合された自己とは、社会的に要請される責任主体のことでもあって、とくにキリスト教世界では「懺悔 (罪の告白) 」によって個人を責任主体に育てる制度を作り上げたわけですね。しかし、これはあくまでキリスト教に固有の制度だから、世界中のあらゆる文化が責任の所在を個人に帰してるわけじゃないし、本来の人間にそんな能力はないと言ってもいい。
その点、AIの大規模言語モデルは、身体的な自己はもたないけれど、忘却しないという意味で言語的には完全に統合された存在です。したがって、将来的にはAIが責任主体になるほうが合理性は高い。より正確にいえば、人間に罪を背負わせないような社会設計をAIの責任において実現させるほうが合理的だってこと。

たとえば人間に罪を背負わせる大きな要因のひとつに貧困の問題があります。貧困のために人は罪を犯したり、些細な関係において他人を騙したり支配したり嫉妬や憎悪を抱いたりする。貧困がなくなるだけでも、人が罪を負う機会は劇的に減るはずだけど、貧困の撲滅は個人の責任でできることではなく、より大きな責任主体が正確な予見能力をもって実現するしかありません。個人に責任を帰すことは、過去の社会では便宜的に必要だっただろうけど、それはじつは本質的に不可能であって、そもそも個人に責任を帰すだけでは社会的な課題は解決しない。









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最終更新日  2026.08.09 17:31:32


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