『福島の歴史物語」

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2007.09.05
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          前   哨   戦

 その後も京都にいた田村重教から熊野神社の修験者を通じて、中央の情勢がもたらされていた。
 元弘三(一三三五)年一月には播磨と筑後、二月には伊予が、そして上野の新田義貞が後醍醐天皇側として兵を挙げた。幕府側の勢力の衰退に反比例して、後醍醐天皇側は急速にその勢力を回復していたことになる。
 しかしこの間にも、楠木正成は幕府軍を一手に引き受けて戦っていた。彼の守る千剣破城は東・西・南の三面を渓谷に囲まれ、東北のみが金剛山の主峰に通ずる要害であった。だが周囲は一里にも満たない城塞であり、守備兵も千人弱にすぎなかった。楠木正成はこの一千の城兵で、九十日の間よくこれを守った。この二月から五月までの三ケ月間は、[千剣破城未だ陥ちず]という合言葉となって後醍醐天皇再起への期待となっていた。つまり楠木正成の存在自体が、各地の武将をして後醍醐天皇側への傾斜を急がせていたのである。
 これらの状況を踏まえた後醍醐天皇は、流されていた隠岐島を抜け出すことに成功した。そして伯耆国に上陸すると船上山・大山寺に挙兵したのである。この船上山での挙兵は、出雲・伯耆・因幡、さらに四国、九州をも後醍醐天皇側としてしまったのである。
[後醍醐天皇が警備の厳しい島から逃げ出した]
 その情報が千剣破城を攻撃していた幕府軍にも及んだ。それから悪い噂が幕府軍全体に、深く潜行していった。いわく、
[隠岐島を脱出した後醍醐天皇が、西国全部を味方にしてしまった]
[西国から倒幕軍が出発したそうだ]
[東国からも攻めてくるそうだ]
そしてその噂は、[幕府も危ない]という結論となって流れていった。それらの悪い噂を聞いた幕府軍は恐慌状態になり、戦場から離脱する兵が相次いだ。このため守勢にあった楠木正成は、辛くも勝利を得た。
 それらの知らせを聞いた輝定は、人知れず唸っていた。
 ——これからは後醍醐天皇の世になるのであろうか?
 そう思うと今まで幕府側として戦ったことが、無意味にも思えた。
「うーむ」
 思わず腕を組んで、輝定は考え込んだ。
 ——どちらに味方するかが将来の田村家に影響する・・・。どちらにつくか・・・?
 輝定は、先行きの読みに苦しんでいた。 
 この動揺は、京都の田村重教も同じであった。否、京都に居たからこそ、より以上に深刻であった。
 ——前回は輝定と田村軍を呼び寄せ、幕府側として戦った。しかし今度は後醍醐天皇側が優勢だ。もしこのまま後醍醐天皇側が勝ったら、幕府側としての自分はどうなるのであろうか。
 重教は大きな不安に巻き込まれていた。再び田村軍を上京させることも考えられないことでもなかったが、前回の戦いでの恩賞を取り損ね、輝定に与えることが出来なかったという後めたさがあった。またここで輝定に、「幕府のために兵を挙げよ」と命じても果してついて来てくれるであろうか。もしついて来たとしても幕府軍は負けるのではないか。
 ——勝てば良いが負けたらどうする・・・。
 重教は己に自問していた。
 ——うーむ。ともかく今後は、後醍醐天皇側が押し返すかも知れぬ。どちらに加担すべきか? 輝定にどう命令すべきか?
 もちろんこのことについて、輝定に相談することはさすがにはばかられた。それにこれは相談すべき事柄ではなく、命令すべきことであった。重教はいたずらに右顧左眄するばかりで、なかなかその答を見つけ得なかった。そして気がついてみれば、召使いたちも家の中の財宝などを盗んで逃げ去っていた。広い屋敷に取り残されていたのは、自分と妻だけであったのである。重教はこれから先の情勢に、まるで明るさが見えなくなってしまっていた。

 一方後醍醐天皇側に転じた播磨の赤松則村は、高田城に布陣していた幕府軍との間で何度かの合戦を繰り返していた。しかしそれらの戦いで赤松軍の奇襲が成功すると、退却する幕府軍を追ってそのまま京都に攻め入った。
 この後醍醐天皇の隠岐島脱出から赤松則村の京都進出までわずか半月位という急進撃にあわてた鎌倉幕府は、足利高氏に出陣を命じた。しかし源氏の嫡流を自認して時期を窺っていた足利高氏は、幕府の弱体化を好機と捕らえた。先ず後醍醐天皇の側について征夷大将軍の座に座り、鎌倉幕府に代わって足利新幕府の開設を目指したのである。そのため鎌倉幕府から出陣の矢の催促には「近日中に上洛仕ります」とだけ返事をすると、日夜、京都での対幕府戦のための準備を急いだ。幕府はそれを、対後醍醐天皇戦の準備と思い込んでいた。
 後醍醐天皇は、白河の結城宗広にも北条高時追討の勅を発した。しかし宗広も慎重な態度を崩さなかった。
 ——どちらが勝つか? 
 彼もまた、この情勢を読み切れていなかったのである。たしかに今のところ後醍醐天皇側は優勢ではある。しかし、最終的に勝つのか? 果たして勝ったとしてどれだけの恩賞が与えられるのか? その方針が決まらないうちに、宗広は後醍醐天皇から出陣催促の綸旨を受けたのである。
 結城宗広は白河を本領としていたが、その多くは本宗・下総の結城家の所領であり、宗広の知行分は全体の三分の一程度の村々にすぎなかった。しかし白河は関東と奥羽の境であり、宗広がどう動くかで奥羽全土がどちらになるかを意味していた。後醍醐天皇側は何としても結城宗広を、つまりは奥羽全土を味方に引き入れたいと考えていた。それであるからその催促状は、丁寧な言葉で綴られていた。
 結局、結城宗広は後醍醐天皇についた。結城氏の検断下にあった田村輝定は、その結城宗広を経由して[幕府討伐]の勅を得た。
 輝定はそれでも迷っていた。最大の迷いは同じく幕府側であった安積の伊東氏や石川氏が、幕府側として動かぬのである。田村は当面の敵である西((安積)、南(石川)、北(安達)を囲まれていた。しかし石川の南にある白河の結城氏が後醍醐天皇支持に変われば、南の情勢は一変する。
 そこで輝定は、
 ││同じ鎌倉幕府の傘の下で内輪喧嘩をしているよりは、後醍醐天皇側となってそれらをむしり取るのも一法ではないか。そして心置きなく白河との間の石川へ攻め込んで領土拡大をすることも出来るのではないか。
と考えた。
 つまり後醍醐天皇側として立つことになる結城宗広が関東からの独立を考えたと同じく、田村輝定もまた後醍醐天皇につくことによって力を付け、白河からの独立の大きな夢を描いたのである。とはいえ輝定は、重教の立場も考えざるを得なかった。
 ——重教様は幕府の役付け、幕府側から逃がれられまい。
 そう思いながらも、重教を無視する訳にもいかなかった。
 ——しかし先の戦いで幕府側として大きな犠牲を払ったにも拘わらず、重教様は何もしてくれなかったではないか。
 という不満もあった。その不満と期待の間を、大きく行き来していた。そして考えた。
 ——そうか、幕府自体に力がなくなったのか。それなら重教様を幕府から田村庄に引き取ればよい。重教様とてここは父祖の地じゃ。
 そう考えると輝定の結論は早かった。各地の武将が思ったと同じように、輝定もまた少しも当てにならない鎌倉幕府より今度こそ自分にとって有利な新しい幕府が出来るかも知れないと、後醍醐天皇に期待したのである。
 すでに畿内では、後醍醐天皇側が軍事的にも優勢になっていた。しかし輝定としては、後醍醐天皇の側につく意志は固めたもののもう少し情勢の推移を見極める必要があるという思いがあった。そのため輝定自らは出陣せず、部下を派遣することでお茶を濁そうとしたのである。そこで輝定は七草木超円を將とした一隊を編制し、後醍醐天皇の勅に応じて京都へ派遣することとした。七草木超円とは、田村参川前司入道宗猷の娘が田村庄七草木村(田村郡三春町)の地頭であったが、その代官に任ぜられていた者である。
 ——七草木超円は、重教様とは義理の兄弟の臣。わしの代わりに京都に出してもおかしい者ではない。重教様とて文句はあるまい。
 輝定はそう判断した。しかしそのことを、超円には話さなかった。むしろ輝定には、七草木軍の上洛の道筋に当たる鎌倉通過の方が難題であった。
 ——こちらの本意を知られれば幕府軍と一戦を交えることは必定。これはまずい。
 そう思うと出陣の準備をしていた超円を呼びだし、「鎌倉を迂回して京都へ向かえ」と指示した。 
「いいか! 京都に入るまでは幕府側に絶対に悟られるな!」

 輝定の命令で七草木軍が鎌倉に向かって行軍はじめている間に、足利高氏は北条高家の軍とともに鎌倉を発ち京都へ出立して行った。
 その背後から鎌倉を迂回した七草木軍は、やがて東海道に入った。間もなく超円の元に、
[幕府側の足利高氏軍が上京して行った]という情報が入った。
 この時点で、足利高氏が幕府側であることを誰もが疑っていなかった。それであるから本意を隠して京都へ向かった足利高氏の軍を、これまた同じ目的を隠し持った七草木軍が、それを知らぬまま追う形となっていた。しかもこの上京の途中で、足利高氏は一緒に行動していた北条高家に内密にして使者を船上山に送り、後醍醐天皇から朝敵追討の綸旨を受け取っていたのである。
 一方、守山に残っていた輝定は、京都に向かった七草木軍が幕府側の重教と敵対関係に入るのを恐れていた。輝定にしてみれば、何とか重教を京都から離脱させられぬか、と思っていたのである。それであるから輝定は、超円にくどい程「幕府側から離脱されるように説得せよ」と念を押していた。その上、「京都に入る前に必ず重教様に届けよ」と言って京都脱出の勧告文の密書を預けていたのである。








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最終更新日  2007.11.15 16:41:07
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