『福島の歴史物語」

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2007.09.05
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 この時の足利高氏の行動に不審を抱いた者がいた。中吉十郎と奴可四郎がそれである。彼らは大井山から馬を返すと六波羅に戻り、このことを報告したのである。彼らの報告を受けた幕府の六波羅軍は、戦う前にすでに恐慌状態となってしまった。
 一方、北条高家の軍を見捨てて鎌倉幕府に叛した足利高氏は、後醍醐天皇への旗幟を鮮明にすると白河の結城宗広をはじめ全国の武士たちに、[伯耆国より勅命を蒙り候の間、参じ候。一族を相催し合力有るべく候。恐々謹言]との催促状を送った。足利高氏の下へは不満を持っていた武士たちが続々と集まってきた。期せずして七草木超円は、足利高氏の下への着到第一陣となったのである。
 後醍醐天皇側となった結城親光・千種忠顕・赤松則村・七草木超円らは、幕府の兵を八幡・山崎に破った。次いで足利高氏は、六波羅を標的として攻め立てた。
[足利様まで寝返った!] という知らせに、六波羅は絶望状態に陥った。
 重教もまた輝定からの密書を受け取り、京都脱出の要請を知って混乱していた。
 ——なつかしい超円が京都に迫って来ている。輝定の言うように幕府を離れて田村に戻るのも一法、とは思うものの自分は幕府に役職を持つ人間。今ここから逃げ出すべきか? それとも鎌倉幕府の要職に徹するべきか?
 その壮絶な選択に、重教は苦慮していた。しかしそれを決定するための時間が、余りにも切迫していた。

 この急速な情勢の変化に驚いた光厳天皇や皇后そして公家も、幕府軍の駐屯地である六波羅に逃げてきた。幕府も慌てて六波羅の堀を深くしたりして防備を固めたが、平地の小城砦では守りきれないと思われた。ついに幕府軍は光厳天皇を擁すると京都を脱出した。重教もまたものを考える時間的余裕もなく、京都にあった一族を引き連れるとこの脱出に従った。
 北条仲時の指揮で京都を逃れ出た時二千余騎だった幕府の六波羅軍も、近江の番場峠まで逃げて来た時は五百騎足らずに減っていた。後陣を固めていた筈の多くの将兵が、つぎつぎと後醍醐天皇側に寝返り消えていったからである。このため逃走の途中手薄になった六波羅軍は光厳天皇さえ守りきれず、光厳天皇自身が肱に流れ矢をうけて負傷するという事態にまで追い込まれてしまっていた。その上先行していた物見からは、「おびただしき敵の軍勢が待ちかまえておりまする」との報告があったのである。
 仲時は最後まで残っていた五百足らずの兵と公家を見ると、もはやこれまでと覚悟した。彼はこの軍勢に向かうと、今までの忠節に感涙を流した。そして、「敵は我が首に多大の恩賞をかけていよう。この首を取って足利に渡し、忠義のあかしとするように」と言うと鎧を脱ぎ刀を鍔口まで腹に突き刺した。するとそれを見た郎党の糟谷宗秋は、「しばらくお待ち下され! 黄泉時の山路のお供をつかまつる!」と叫ぶと仲時の腹に突き刺さっていたままの刀を抜いて我が腹を切り、仲時の膝に抱きついて壮絶にこと切れてしまったのである。ここに至っては残された者も逃げるもならず、番場峠の蓮華寺・一向堂前においてそれぞれの生年と姓名を記すと、一族郎党四三二名全員が自害して果ててしまったのである。壮烈な玉砕であった。
 田村中務少甫重教の消息はここで切れる。その上京都より重教に同行していた同族の田村中務入道、田村彦五郎、田村兵衛次郎の三名も、これら一党とともに自害した。これにより鎌倉幕府創草期より幕府の文官として活躍した田村刑部大輔入道仲能の一統は、鎌倉幕府の滅亡に殉じて断絶していったことになる。
 光厳天皇はじめ天皇家の一族は、この大量の自害の血の海に立ちすくむばかりであった。
 まもなく後醍醐天皇側は、光厳天皇および後伏見・花園両上皇らを捕らえると京都へ引き戻した。今度は、立場が逆になったのである。
 この頃新田義貞も反幕の兵を挙げ、鎌倉に総攻撃をかけた。事態は急転回をする。北条氏は京都と鎌倉に破れた。後醍醐天皇は隠岐島脱出から、たかだか三ケ月で京都を奪還してしまったのである。

 奇しくもこの日、守山で留守を守っていた輝定は石河光隆ら近辺の武士とともに幕府側の安積庄佐々河(笹川)城を攻撃した。輝定は七草木軍を上京させて様子を見る筈であったが、この地の状勢の変化がそれを許さなかったのである。この戦いで田村輝定の浅比軍は、御代田城から阿武隈川の対岸にある佐々河城に直接渡河攻撃の態勢をみせて主力を釘付けすると、北に迂回して横川館から下流を渡り、早水館、荒井館、成山館を破って北方から圧倒した。また一方石河光隆は、南の江持館から阿武隈川上流を渡河して柏木館、坊館、北沢館を抜き南から挟撃を加えた。戦いは峻烈を極めたが、佐々河城を陥とした。
 この時田村の軍は、浅比久盛が佐々河に、七草木超円が京都に出陣し、その各々がほとんど同時期に戦っていたことになる。そして京都の足利高氏と鎌倉の新田義貞も、あたかも連絡をとりあったかのような戦い振りをみせたのであった。しかしこの勝ち戦は、偶然の一致としか言いようがない。
「殿。御目出度うござる。京都も佐々河も勝ち戦でござった」という家臣の祝儀の言葉に、輝定も相好を崩していた。
「うむ、それに新田様が鎌倉を陥としたそうじゃ。これで全ての戦いが後醍醐天皇側の勝ち戦さということじゃ。目出たいのう」
 この佐々河城を陥としたことにより、その属城であった宇津峰城の城主・塩田陸奥禅門国時は、戦わずして逃走した。輝定は宇津峰城をはじめ多くの領地を手にいれた。
 ││後醍醐天皇側についた効果が早速に表われた、わしの考えに間違いはなかった。
そう思う輝定の顔は、自然とほころんだ。しかしこの佐々河の戦いが勝ち戦さではあったが、守山城が心配になってきた。
「佐々河城は阿武隈川と笹川という天然要害に囲まれていたにも拘らず、意外に脆かったのう」
 輝定は、そう久盛に言った。
「さようでございまする。それに引き替えこれという要害もなく平野にある我が守山城は、あまりにも無防備であるかのように思えまする」
「うーむ。やはりそう思うか? 佐々河城の例もあること。守山城の防備体勢を固めねばなるまいて」
 そう話し合うと二人は狩猟にことよせて、あちこちを見て歩いた。赤阪城での楠木正成の戦い方が頭にこびりついていた輝定は、その様子を時折久盛に話していた。
「峻険な山で水が出、周辺に部落があれば食料の確保が出来まする。そうすれば長期の篭城戦にも耐えられ、奇襲作戦の実施も可能でありましょう」という久盛の進言を受けると、手にいれたばかりの宇津峰山に白羽の矢を立てた。
 最高峰からでは無理であったが、それより少し下がった数カ所から清水が湧き出ていたし、躇立した独立峰がその要害ぶりを際立たせていたのである。輝定は久盛の「宇津峰山に防御、籠城戦に備えた城を、その麓に居住用の館を建設することとなされては・・・」という提言を受けると、久盛に「築城」の命令を下だした。もともと守山城は、居住性と領民との関連を優先させた平城であった。それは生かしたい、と思っていた。
「今は何よりも、戦闘と防衛体制の強化をしなければならぬ。そちの申すように宇津峰山なれば戦闘力は高まろう。あの中腹なれば居住にも適しておる。その上この守山城にも近く、領民との接触にも良いしのう」
 輝定は久盛に、そう説明することを忘れなかった。
 ││これからの戦いは今までとは違う、最悪の場合、守山城は捨てても宇津峰城に頼るようになろう。
 しかしその言葉は口には出さず、心の中に仕舞い込んだ。
 六月二日に七草木超円が、三日に結城宗広が、そしてそれらの警護の下に後醍醐天皇が京都に入った。後醍醐天皇はこれらの軍事力を背景にして、「朕の新儀は未来の先例たるべし」と豪語していた。この後醍醐天皇の初仕事は、全国の武士たちに恩賞を与えることであった。彼らは私利私欲を捨てて天皇に忠誠を尽くしたのではなく、恩賞を得るために戦ったからである。
 ほどなく上位クラスの論功行賞が行われた。足利高氏には後醍醐天皇の御名・『尊治』の一字『尊』と武蔵・下総・常陸の三ケ国、弟の直義にも二ケ国が与えられた。そのほか楠木正成には三ケ国が、新田義貞にも三ケ国が、名和長年には二ケ国が与えられた。ここから足利高氏は足利尊氏となったのである。
 その上で後醍醐天皇はそれ以外の各将たちの所領安堵を行い、公家たちにも多くの恩賞を与えた。しかしその他の武将たちには旧領を安堵するにとどまったのである。そのために彼らと比較して過大とも言えるこれら上位の将や公家たちに対する恩賞は、「もとはと言えば足利も新田も我々と同じ鎌倉幕府の御家人ではないか」と多くの将士の不満をかっていた。その不満を修正しようとした後醍醐天皇は、かえって各地で重複や失敗を頻発させてしまった。今度はそれを修正しようとして召返綸旨を発行したため、混乱がさらに増幅した。その上その配分も、後醍醐天皇はその妃・阿野廉子の言うがままに決めたことが知られ、不満をさらに大きくしていた。







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最終更新日  2007.11.15 16:42:34
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