『福島の歴史物語」

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2007.12.28
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「嘉門、山へ行くぞ」
 彼は二歳年上の黒岡敬忠に声をかけられた。
 敬忠は三春藩剣術師範の黒岡矢柄の子である。身分には差があったが、嘉門とはうまが合った。あれから嘉門は熊田家に奉公をしながら、明徳堂で学んでいたのである。二人が登った明徳堂の裏山からは、舞鶴城がよく見えた。ここはまた、二人のお気に入りの場所であり、議論の場所でもあった。
 敬忠はよく武士道について話した。
「武士は武士らしくあれば、その余はいらぬ」
 彼はよくそう主張していた。彼によると、弓馬の道を第一義とするのが武士道であり、主君に対する道である。それであるから、武士らしさとは主君に対する忠誠であり、家にあっては親に対する孝行である、と。
 しかし嘉門は、少し違うと考えていた。もっとも山間痩せ地の百姓の出であり、その苦しい生活の中にあった嘉門とすれば、当然であった。
 ある日、いつものように二人がその山で仰向けになり、足を投げ出して話をしていた。柔らかく萌えたつ新緑に覆われた城山の上に、舞鶴城が屹然と立っていた。
 春はまた、山国の美しい季節の一つである。
「ところで話が変わるが、今度、俺は藩の命令で江戸へ勉学に行くことになってな」
 そう言って敬忠は話題を変えた。

「えっ、江戸へ・・・? それはおめでとうございます。それにしても急な話」
 嘉門は思わず起き上がり、眩しい思いで敬忠を見つめた。大体このころ、江戸への留学など簡単に出来る時代ではない。それに藩の命令ともなればなおさらのこと。三春藩にとっても大事件である。
 敬忠も身体を起こすと嘉門を見ながら言った。
「いや、実は前から内々にあった話。俺にとっては急なことでもなんでもない。ただ俺は江戸もいいが、いずれ長崎へ行って外国の事情も学んでみたいと思っている」
「長崎・・・ですか?」 
嘉門には望むべくもない、夢のような話である。敬忠は続けた。
「お前も知っていようが、オランダ人のシーボルトという先生が長崎に鳴滝塾という学校を開かれた。ただ、何やら事件を起こして国外追放になったが、学校は残されたと聞いている。そこには、全国の諸藩から大勢の秀才が集まっているそうだ」
 当時は三春藩の明徳堂に限らず、各藩ともに現実的な政治の議論を禁止していた。幕府や藩に対する政治的な批判や反抗の芽を、伸ばさぬようにするというのがその目的であった。そのためもあって統制もなく、自由に政治論を展開できる私塾には、多くの若者たちが引き付けられてきた。これらの若者たちは、各々の藩の統制から離れたこれらの私塾を拠点にして、やがて幕末の政治的決起の計画を練っていくことになる。吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適々齋塾などは、そのよい例である。

「それは素晴らしい。江戸留学だけでも驚くのに長崎とは・・・。羨ましいようでございます」
「ありがとう。淋しくはなるが、お前も明徳堂学長の倉谷鹿山先生の覚えも良い。いずれ良い風が吹こう」
 やがて黒岡敬忠は、江戸へ旅立って行った。
三春戊辰戦争始末記
 半鐘がジャンジャン鳴ると同時に、
「火事だ火事だあ! 八幡町が火事だあ!」
 遠くから叫び声が聞こえ、周囲が急に騒がしくなってきた。
 怒鳴り声や大きな物音の合間にも、半鐘の激しい音が響いている。刻は、そろそろ寝につこうか、という時刻であった。
「様子を見て参ります」
 嘉門は自看の寝室に続く廊下で片膝をつきながら言うと、屋敷の裏山にある紫雲寺の境内に駆け登った。強い風が嘉門の頬を打った。町家の屋根が黒い波のように続く向こうに、赤いぼんやりとした明かりが確認できた。
 ──ん。あそこか。
 そう思ったとたん、そこから一瞬はじけたように火の手が上がり、火の子が飛び散った。多くの火消したちが駆けつけるのが見えた。火柱が見るみる大きくなっていく。すぐに隣の家を飲み込んだように思えた。萱ぶき屋根の町屋が建て込んでいるのである。火元は城から、一町と離れていないように見えた。
 ──これは危ない
 嘉門はそう判断すると、転がるように境内を駆け下りた。
「旦那様! 大変です! 火元はますます盛んです。強い風がお城の方に向かって吹いております! 大火になるかも知れません!」
 自看はすでに妻に手伝わせ、衣服を整えていた。
「慌てるな嘉門! わしはこれから城に詰める。後を頼むぞ」
 そう言うと、供の治助を連れて急いで出て行った。
 町は在方から手伝いに来た人を指揮し、土蔵の中に水を張った二~三個の桶を入れて大戸を下ろしたり、土戸の観音開きを閉めてその扉の隙を味噌で目張りをする商家や、大八車に家財を積んで逃げる家族とか、身一つで逃げる者などで阿鼻叫喚の騒ぎとなった。
 翌日、ようやく消し止めた大火の爪跡は大きかった。嘉門は焼失した明徳堂の横を通って、あのお城のよく見える裏山に登ってみた。黒岡敬忠がいなくなった今、その山には、嘉門が一人しかいなかった。
 舞鶴城も御殿の跡にも、黒こげになった梁や柱が塁々と折り重なっているのが見えた。町でも幾つかの土蔵は残っていたが、町家の半分が焼け落ち、所々に燃え残った煙が細々と立って火事場特有の臭いが町中に充満していた。焼け出された人たちであろうか、幾つかの塊となって佇んでいるのも淋しく見えた。
 城を失った藩主は、馬場の下屋敷に避難していった。
 この火事の責任を問われた火元の一家は、裸馬に後ろ手に縛られて引き回され、家宅を没収されて落合新田の開拓地に追放されていった。
 敬忠から大火見舞いの手紙が届いた。その中で敬忠は、諸外国の動きが江戸にも波及して不穏な空気が流れているとか、『お蔭参り』などという妙な騒ぎがあったり、鼠小僧次郎吉なる者が逮捕処刑されたとか、はたまたそれを知った町方では、『弱い者の味方、義賊を処刑するとは何事』などと言って奉行所へ押し掛けたり、といったことを知らせてきた。
 その後、御殿はどうにか復興されたが、あの壮麗な舞鶴城は無くなってしまった。天守閣は復興されたといっても、三階櫓程度で済まされてしまったからである。その上、農作物の慢性的な不作が、藩財政を圧迫していた。

 間もなく、嘉門は二本松に出た。二本松は丹羽左京大夫長国の十万石の御城下、さすがに町も大きかった。そしてこの地方で名医として名を成していた二本松藩医の小此木利弦に就いて、医術を学びはじめた。当時の二本松藩は蘭方医学の先進地であり、利弦は奥羽でも著名な蘭方医であった。奉公先の熊田自看の推薦によるものであった。ここで何年か学んで三春に戻った嘉門は、正式に自看の養子となり、名を熊田嘉膳と改められた。
「やがてはわしの後を継いで、三春藩の藩医となる身じゃ。気を張って病気と闘うのじゃぞ」
 跡継ぎを得た自看は、嬉しそうにそう諭していた。
 このように全幅の信頼を得た嘉膳は、やがて熊田家の好意で江戸に出ることになった。小此木利弦の師・坪井信道について蘭方医術を極めるためである。坪井信道は、当時江戸随一の蘭方医学の大家と尊敬されていた。
 江戸に出る前、何年か振りで岩井沢村に戻った。遠くへ行く嘉膳に、自看が里帰りをさせてくれたのである。
 トラは、医者になり江戸へ行くという息子に、ただ「ありがたいことで、ありがたいことで」と手を押し頂いて繰り返すばかりであった。
 嘉膳は父母や弟妹、そして親戚の誰れ彼れに見送られて三春に戻った。
「漢方が駄目とは言わぬが、これからは蘭学じゃ」
 自看はそう言って嘉膳を送り出してくれた。







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最終更新日  2007.12.28 10:44:15
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