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三月、羅府(ロスアンゼルス)新報は英語版の社説において、次のように主張した。
「日本との絆を断ち切れ! いまや多くの日系人は日本を見たこともないし将来も見ることはない。日本への支援と疑われるようなことは、するべきではない。われわれは心底アメリカ人であるべきだ。アメリカが故郷と思い定めるべきだ」
ところがそれに引き替え同日の日本語版社説は、日本を強く支援する論調であった。この乖離がアメリカ人の間に、日系人に対する不信をさらに広げることになった。
ホノルルでは三つある日系日曜学校の出席者はそれぞれ一〇〇人、合計で三〇〇人にも及んでいた。その上マウイ島やカウアイ島でも、日系人に対する末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道がはじめられていた。この伝道の成功を見たロバートソン伝道部長は、四月、富造ら教会関係者の見送りを受けて、龍田丸で日本へ向かった。
「日本での伝道が成功し、平和への祈りと福音が伝えられますように・・・」
そしてこの富造らの平和への祈りを無視するかのように、ノモンハン事件が発生した。しかしソ連軍に破れたこの戦争の結果は、日本で報じられることはなかった。戦争が事件にすり替えられてしまったのである。そしてこのような中での日本における強い反米感情から、末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道は長期にわたるものとはならなかった。
なんとか日本を中国から撤兵させようとしていたアメリカは、日米通商条約を破棄し、石油と鉄を供給しないと脅していた。その一方でアメリカは、ヨーロッパやアフリカでの戦いに対して中立を宣言した。それを見透かしたかのようにドイツはソ連と不可侵条約を締結し、ポーランドを占領してしまった。日独伊防共協定を結んでいた日本としては、この独ソ不可侵条約を結んだドイツの動きに混乱していた。ヨーロッパの政治情勢の変化は、凄(すざまし)いものであった。
富造はアメリカと日本の新聞とを読み比べていた。どうも報道の内容が違っていた。あの羅府新報の報道姿勢が気になっていた。
「われわれ日系移民はアメリカ人とは隣人として生活している。彼らとは普通に付き合いたい。日布時事は正確な報道姿勢に徹したい」
「確かにそうだが相賀。しかしこうなってくると、われわれ自身が人質としてアメリカに取られているようなものではないか。嫌いだけど愛する日本。この矛盾した感覚。愛憎半ばする感情・・・」
「うん、これではまるで、われわれ移民は風にそよぐ葦のようだ。風のまにまにというところかな?」
「風のまにまにか・・・。われわれの意思は、無いに等しいということか・・・」
それでも富造一家は、つかの間の平和な生活を楽しんでいた。庭では兄の丈夫が一番下の娘の淑子に小さな馬車の乗り方を教えていたし、小さな孫たちのお気に入りの遊びは大きく湾曲した家の階段の手すりを二階から滑り下りることであった。またそこでは富造の飼っていたオウムが「ポリーは、クラッカーが欲しい!」と人の口まねをして、食べ物を催促していた。世界情勢は変転していたが、勝沼家は平和の中にあった。
一九四〇(昭和十五)年、ドイツ軍は破竹の勢いでデンマーク、ノルウェーに侵入し、さらにはオランダ、ルクセンブルグ、ベルギーに侵攻した。イギリス、フランスなどがこれを阻止しようとしたが、失敗した。そしてドイツは、イギリス、フランスに真っ向から戦いを挑んだ。六月にはフランスが降伏し、イギリスの降伏も時間の問題と思える状態となった。
このころ日本は、ドイツ側につくのが有利だと計算していた。ドイツと手を結べば、今までオランダやフランス、そしてイギリスの植民地だったアジアの国々と、ボルネオやスマトラの石油資源を一挙に自分のものにすることができると考えられたからである。アメリカの経済封鎖は、域内での資源確保を至上命令としてしまった。そしてそのような考えにある人々にとってドイツは希望の光であり、ドイツと同盟さえ結べば日本が抱えている問題の一切が解決するなどと夢想していたのである。
日本は世界に対し、公然と「新たな体制を造る」との宣言を発した。日本の政界、軍部内で、にわかに東南アジアへの注目度が高まった。仏印(ベトナム・カンボジア)はフランスの植民地、蘭印(インドネシア)はオランダの植民地であった。いまそれら植民地の宗主国は、ドイツに圧倒されていた。いまのうちに、日本はそれらの植民地に手を伸ばしておく必要があった。日本は北部仏印に進駐を開始し、日独伊防共協定は日独伊三国軍事同盟となってその連携を強化した。
(「仲良し三国」1938年の日本のプロパガンダ葉書はドイツ、イタリアとの日独伊三国防共協定を宣伝している。Wikipedia より)
富造は相賀に疑問を提示した。
「私も日本は大東亜共栄圏という建て前で、フランス、オランダ、そして間もなくイギリスもドイツに降伏して空き家となる筈の東南アジアの国々を、ドイツやイタリアがやってくる前に日本が占領して既成事実を作り上げておく、そういう思惑なのではないかと思う」
「しかし、日本の思うようになるのだろうか?」
「それは分からないが、ドイツは確かに強い。だがドイツが強いことと日本が強いことは同意語ではあるまい? 日本は中国戦線では強いようだが、アメリカが相手となるとそうはいかないと思う」
ハワイはアメリカと日本との戦争を望んでいなかった。しかし太平洋艦隊を日本に近づけることで日本への強いメッセージ送れると思ったアメリカは、その艦隊を前哨基地としてのハワイ、特に真珠湾に集結させ、オアフ島防衛のための諜報網を築いていた。急速なこの基地の整備増強のため、日系人に限らず、多くの移民の労働力があてにされた。しかし反面、アメリカ側はこれら移民のストライキや特に日系人の政治的反逆を恐れていた。そのため日系二世のアメリカへの忠誠度を疑い、ナショナルガード(地方レベルの軍隊で非常時には正規軍に編入される国民軍)への入隊を禁止していた。
「ミネ、困ったな。日本は何か悪い勘違いをしているようだ」
「ハワイも戦争になるのでしょうか?」
「いや、そんなことはあるまいと思うが」
富造はそうは言ったが、自信がある訳ではなかった。
しかしこの時点で、帝国海軍の軍艦保有量が八四万トンだったのに対してアメリカは三〇〇万トンを有し、飛行機は日本が二三〇〇機保有していたのに対して一万五〇〇〇機も保有していたのである。さらに石油の自給率はわずか一割で、そのほとんどをアメリカに頼っていた。
次兄・重教の死去が知らされたのは、この頃であった。
──重ちゃん。こんな不穏な空気では、お葬式にも出席できない。ごめんね。他国の人がわれわれを変な目で見ているのではないかと思うと、怖くて家からも出られない有り様なんだよ。
重教は、八十三歳での死去であった。
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参考文献 2008.07.17
あとがきと,お世話になった方々 2008.07.16
マウナケアの雪 5 2008.07.15