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会 津 藩、ロ シ ア に 対 峙 す
唐 太 出 兵
いままで陰っていた陽が、すーっと明るくなった。身じろぎもせず立っていた高津平蔵は、思わず上目遣いに空を見上げた。濃淡まだらな雪雲が、風に流されていた。様子を窺っていると、間もなく陽は雲の濃い部分にかかるように思われた。平蔵がそのまま目線を下げてくると、そこには、鶴ヶ城の天守閣が見えた。その幾重にも重なった屋根には、この冬以来降った雪が重く積もっていた。文化五(一八〇八)年の元旦、その鶴ヶ城で、蝦夷地御固めのため御用とされた平蔵ら多くの藩士が出陣に際して殿にお目見えをし、年賀のお流れを頂戴していた。天守閣前の広場の固まった雪の上には、会津藩士おおよそ一六〇〇名がしわぶきひとつさせず、整列していた。いまや蝦夷地へ向けて出発しようとしている各隊の先頭には大筒と太鼓が置かれ、全員が完全武装し、足元は藁靴で固められていた。
当時、相次いで藩主の不幸に見舞われていた会津藩は、わずか四歳で封を継いだ容衆(かたひろ)が藩主として六歳となったばかりの年であった。
──この幼い主君を盛り立てなければならない。
これは藩全体を覆う意志となっていた。
筆頭家老・田中三郎兵衛玄宰(はるなか)の激励の辞は、終わりに近づいていた。
「昔、この会津からも、国を守るために遠く筑紫国まで防人(さきもり)として出征していった人々がいた。お前たちは 、今様の防人である。防人とは藩のためにだけ派遣されるものではない。幕府のため、ひいては国のために派遣されるものである。心して当たれ」
田中玄宰は手に持った指揮棒を掲げると、大音声で命令を発した。
「強者共(つわものども)、行けい!」
「おう、おう、おう」
一六〇〇名もの藩士の声が、大きなうねりとなって木霊していった。
その声の余韻の残る中を第一隊が先遣準備部隊として銃を担い、太鼓の音とともに行進を始めた。それはお屠蘇気分の抜けない、そしてまだ春には浅い、正月二日(いまの一月二十九日)のことであった。隊は五隊に分けられ、平蔵は荷駄隊を含む第三隊に属した。この第三隊の出発は、十一日に予定されていた。長い行程と途中での宿泊施設を考慮したとき、一六〇〇名余による一度の行軍は無理、と判断されていたためである。なお会津若松市史『会津藩政の改革』によると、蝦夷地派遣軍の人員は次の通りであった。ただしこの派遣人員については数説ある。
宗谷詰 軍将家老 内藤源助信周 以下 三七〇名
利尻島詰 番 頭 梶原平馬 以下 二五二名
松前詰 同 三宅忠良孫兵衛 以下 二六六名
小計 八八八名
北蝦夷派遣軍 陣将家老 北原采女光裕 以下 三二二名
同 番 頭 日向三郎右衛門 以下 二六七名
同 軍事奉行 丹羽織之丞
同 御目付 山寺貢 以下 八一名
同 道中奉行 横山数馬
同 普請奉行 梶原佐右衛門
同 武具奉行 遠山三太夫 以下 七五名
小計 七四五名
総合計一六三三名
正月十一日、平蔵ら第三隊も鶴ヶ城に集まり、再び田中玄宰の激励を受けた。しかしロシアとの間で戦争になるかも知れないという憶測が、晴れがましいはずの出陣に緊迫感を漂わせていたが、藩士たちはそれを見せまいと努めて明るいかお貌をしようとしていた。郭内の道の両側には、出征する藩士の家族たちが群れを成して見送っていた。しかし平蔵には、これから北蝦夷地へ行くということが、まるで信じられなかった。
一瞬、行軍する平蔵の目に、人込みの中で家族が見送ってくれているのが見えた。父母や弟、それに妻が平蔵に見せようとしたのであろう、幼子を自分より高く抱き上げているのが見えた。しかし平蔵は振り返ったり、確認しようとはしなかった。勿論したいとは思った。がそれは武士として、未練を残すよくない行為であると思えた。それはまた、他の藩士たちにとっても同じことであった。彼らは前面のみを凝視し、隊伍堂々と行軍していた。引導する太鼓の音が藩士たちの本心とは異なって、気分を高揚させるかのように強く鳴っていた。
郭内から本一之町に出ると、左折し直ぐに右折して大町通りに入った。見送りの顔ぶれは、町役人や町人のそれと変わっていた。彼らも、誇らしげな顔をして行軍を見送っていた。平蔵は、妻子と目を合わせなかったことを悔やんでいた。後ろ髪を引かれるような思いであったのである。
──ああ、この町並みも見納めになるかも知れぬ。
その思いが、家族との別れを実感させていた。それに平蔵の二人の兄お従軍していた。さらに伯父の樋口光貫は左翼軍、さらには叔父の佐藤信友も殿軍に属していた。
明日には第四隊が出発する予定である。会津藩兵による蝦夷地までの長い行軍は、ようやくその緒についたばかりであった。
会津は山国である。城下から外に出るには、必ず峠を通らなければならなかった。当時、侍でさえ海を見た者は多くなかった。これからその海を、二度も渡って行くのである。
今日、最初の目的地の猪苗代の町へは、大寺経由の二本松下(しも)街道を行軍した。二本松下街道は、磐梯山の広大な裾を遠回りする道であった。二本松上(かみ)街道は猪苗代の湖畔を通る近道ではあったが、今日のように寒く雪が多い場合は湖からの烈風が地吹雪を引き起こし、寒気と視界不良から歩行困難で動けなくなることさえある道であった。橇(そり)に載せて馬に牽かせているとは言っても、大筒をはじめ多くの物資を運びながらの行軍となると、遠回りではあってもそれは確実な選択と思えた。すでに城下を出た行軍は隊伍を崩し、多くの小さな群れとなって歩いていた。左手には、磐梯山の山頂が雪に煙って見えていた。
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