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北 の 大 地
弁才船:千石船と呼べば米千石を積載できる菱垣廻船や北前船などの「弁才船」を指したと考えて
差支えありません。(HP「海事博物館ボランティアあれこれ」より)
三月二十九日、この日たまたま風は穏やかで波は静かになり、今までの荒れた海のようではなかった。卯刻(朝五時半)、三厩の港に集合した平蔵らが船を見ていると、傍らに来た船長が言った。
「こんな穏やかな日は珍しい。この天気は北蝦夷地に着くまでもちましょう」
われわれは伝馬船に分乗して沖の元船へ向かった。
通達丸 八百石積 船頭 箱館 次左衛門
太平丸 三百五十石積 船頭 酒田 権次郎
大神丸 三百石積 船頭 多吉
渡海丸 三百石積 船頭 箱館 徳蔵
さすがに海の船は大きいと驚いたが、船に乗ってみると、そうはいかなかった。船内は一坪三~四人の振り合いで野宿同然、しかも波の動きは山国育ちの彼らには険難なことは思った以上で、ただ船に振り動き揺すられているだけで、吐き、目眩(めまい)を起こして転倒したりした。物に掴まらないで身体を保持できた者は、十八、九名しかいなかった。友吉も唸りながら言った。
「船長の嘘つきめ! これで帰りもこんなに揺られるかと思うと気が重い。二度と船には乗りたくない」
平蔵も青い顔をして言った。
「船乗りにとっては、これでも静かな方なのかも知れぬ」
夕方になって、ようやく松前に到着した。船から伝馬船に乗り移り、松前に上陸はしたものの、下りてもまだ身体が揺られ、身体がふらつくような感覚であった。
堀を巡らせてはいたが、天守閣のない松前城は、鶴ヶ城を見慣れた身にとっては、いささか侘びしいものがあった。一行は、城の北にある松前侯の菩提寺・香火院法憧寺に泊まった。この他にも龍雲院、法源寺などの寺があった。松前は渡島(おしま)の地にあり、平安京からは四百十六里、江戸からは二百九十里、東の山越(二海郡八雲町)から西の熊石(同町)の間である。この間の七十里に和人が住み、それ以外は蝦夷となる。日本最北の町である。
注*松前城の三重櫓の天守閣は、安政元(一八五四)年に落成
したもので、本邦旧式築城の最後のものである。
早速、船より荷揚げが開始されたが、松前では光善寺、法道寺、寿養寺、専念寺、龍雲寺、それに松前左膳明の屋敷に分宿した。滞在中の食事は自炊とされた。
松前は家中屋敷や町屋敷、約三千軒の町である。大松前、小松前、馬門、袋町、池妻、転知名、湯殿沢、西舘町、寺町、上泊り町、大町、駒形町、倉川、川東町、中河原町、横町、とゞめき町、神明町、荒町、小舘町、足軽町、唐津町、所泊り町、中町、枝力崎町など多くの町で賑わい、女の風俗は江戸と変わらなかった。港には江戸、大坂をはじめ、筑前、筑後、越後の大船が集まり繁忙の港である。ただし品物は高値である。
この蝦夷地では、本土とは違った緊張感があった。特に松前大館、箱館を中心に蝦夷地十二館というものがあり、古くはアイヌ人の襲撃に備えたものであったが、むしろ現在は和人の前進基地としての意味合いの方が強いという。そしてそれらは、ロシアからの防御施設として増強されていた。
四月一日、松前にもようやく春が来たのであろう、はじめて梅が咲いているのを見た。多くの通行人の中で、はじめてアイヌ人の男女を見た。アイヌ人は顔を髪で覆い髭を長くし、厚地で単衣、筒袖に奇妙な柄の着物を左前に着てこの寒いのに裸足、奇妙な感じもしたが、耳に穴を開けて銀環を通した姿は、なかなか堂々としたものであった。彼らが貴人に謁見するときには必ず数人が手をつなぎ、身を屈める。その姿は海老のようでもある。アイヌ人の目は鋭く、全身毛深く、そのため毛人とも言われる。記録に描かれている絵では両眉が続いているが、それは伝聞の誤りであろう。蝦夷地に於ける和人とアイヌ人の境界は山越内(ヤムクシュナイ-=栗の採れる沢の意=二海郡八雲町山越)と熊石(魚を干す竿のある所の意=八雲町熊石)を結ぶ線である。松前から山を越して熊石に至るが、その間七十里(約二八〇キロメートル)、この間に和人も住むがアイヌ人が多いという。
近年、このアイヌ人の上流階級の者は、交易によって得た蟒緞 (もうだん・爬虫類の皮で作られた厚手の織物)綾緞(りょうだん・厚手のあやぎぬ)厚子(あつし)など他人種の衣服を着用し、頸に大刀を懸け、金塗銀鏤(ぎんる)をもって飾り、帯には紅緑の組紐を用いている。その中でも山旦(山丹=サンタン)交易によってもたらされた蝦夷錦は、すでに江戸でも有名であった。蝦夷錦とは紺や黄の地布に金糸銀糸を用いて竜青海波それに七宝などが刺繍され、アイヌ人は重要な宗教儀礼の際、これを着た。
一般の者は獣皮を主としているが、その他にもラブリ(鳥毛衣)、アクミまたはカブリ(魚皮衣)、ケラ(草衣)を多く用いている。婦人は髪を結んで髻とし、耳に銀連鐶を下げ、唇には口草という青草汁を用いているが、それが何であるかは不明である。なんとも奇妙な風習である。
この風俗は蝦夷地ばかりでなく、国後島、ウルップ島、そしてこれから行く北蝦夷地なども同様であると言われるから、アイヌ人全般に相通ずるものなのかも知れない。これはわれわれとどちらが優れているかということではなく、寒さに対応するための服装である。平蔵はつくづく文化の違いを感じさせられた。
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