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「ところでこの蝦夷地には、三種類のアイヌ人が住んでいるそうだ」
平蔵が言った。
「と言うことは、アイヌ人とは一種類の民族ではなかったのですか?」
「それにその他の島々が碁石を並べたように散らばって数え切れないほどで、その島々にもまた別のアイヌ人がいるそうだ」
「そうですか。しかし私には、誰もが同じに見えますが」
「うむ。それにそれらの島々は数が多いので千島と総称するのだそうだ。さらにその千島の奥には、加牟左都加(カムチャツカ)、旧名では久留志伊恵伊(クルシイエイ)、またロシア名では左牟多牟(サンタン)などというところもあるそうだ」
「いやー、それにしても、蝦夷地とはとんでもなく広く、寒いところですね。しかもこういうところに人が住んでいるというのが不思議なようです」
「それにしても友吉。『蝦夷地とはとんでもなく広い』と言うが、どうも北蝦夷地は半島か島かさえ定かではないそうだ」
「そうですか。しかしもし北蝦夷地がロシアからの半島だとすると、どこまでがわが領土になるのでしょうか? これは難しい問題になりそうですね」
「それもあって今年の二月、間宮林蔵と松田伝十郎と申す者が、北蝦夷地探検を命じられたそうだ」
「二月と言えば、われらより一ケ月遅れの江戸出発ですね」
「うむ、それが今、ここ松前におるそうだ」
「えーっ、それはずいぶん到着が早い!」
「うむ、江戸での準備もあり、出立はわれらよりもっと遅かったらしいが、何せ幕府のご用船。われらより若干早く着いたらしい」
「で、北蝦夷地へは、われらと同じ船になるのでしょうか?」
「いや、明日にでも曾宇耶(ソウヤ・峰の巣の意=宗谷)に向けて出航するらしい」
「そうですか。そのお話ですと間宮様は大分、奥地に入られるようですね」
四月八日、法憧寺の僧は龍華会を設けた。藩士たちも武運の長久を祈って、それに参加した。龍華会とは、毎年四月八日に釈迦の誕生を祝う灌仏会の別称であって、釈迦が四月八日に生まれたという伝承に基づくものである。降誕会、仏生会、花会式のことであって、花祭の別名もある。
一般的な言い伝えによると、立春後八十八日には必ず暴風があると言う。そのためこの日、舟人は皆、陸地にあがって厄を避けていた。ところが今日は天気がよく青空で、海にも風や波浪もなかった。宗谷への航海が、いよいよ実行されることになった。
四月十日、平蔵の叔父の佐藤信友が来て陣将に会見した。これからの防御陣地の場所設定と、人員配置についての話し合いがあり、猪苗代城代を務めたことのある三宅忠良孫兵衛以下二六六名が最初の予定通り松前詰として残ることとなった。宗谷や北蝦夷を良く知り、地理やアイヌ語に通じている松前人の甲崎富蔵に数度交渉をし、一行の案内人として雇った。
松前から北蝦夷地へは、さらに大きな船が配されていた。自在丸(千三百石積)、日吉丸(千三百石積)、正徳丸(千六百石積)、天社丸(千四百石積)、永宝丸(千四百石積)である。
四月十三日、全員に乗船命令が下された。
「達者でな」
「や。いずれわれらも後を追いますので」
「そのときを楽しみにしているぞ」
行く者と松前に残る者とが、互いに別れの挨拶を交わした。
ようやく気温が上がって海の氷は解けていたが、海賊船が出没するという。乗船して間もなく命令が下された。
「海の氷が解けたため、海賊船がいつ出没するか予測が不明である。各自に弓、鉄砲、鎗を準備せよ!」
各自に注意が促され、弓箭、鉄砲、矛鎗など海賊に襲われた場合の戦闘準備の命が下った。五艘の千石積の船に分乗した際、敵襲には太鼓を打ち鳴らし、法螺貝を吹いて合図とすることになった。
「いやーこんなに大船が集まると、流石に壮観ですね。この船構えを見たら、海賊の方が逃げ出すでしょう」
ここに残った者や見送りに集まった人びとの歓声を聞きながら、友吉が言った。
「この様子を、故郷の皆に見せてやりたいようです」
二人は会津を出立したときとは、また違った高揚感に包まれていた。
ほどよく東南の風が到来し、海洋に乗り出すと間もなく左側に渡島小島(松前町)が見え、二つの瘤のような山が連なっていた。この辺りでは、ラッコのような海獣が密漁されているという。ラッコの毛は黒く常に横になって眠る習性があり、岩礁の上で遊んでいるのが見えた。人の声を聞けば警戒してただちに水に潜るため、これを捕獲するためには熟睡しているところに息を潜めて静かに歩いてきて、急に襲う以外に方法がないが、その肉は甚だ美味しいという。平蔵は食べてみたいものだと思った。
日暮れになって渡島大島(松前町)辺りや江差山が北に見えた。渡島大島は小島より大きく、寛保元(一七四一)年には大噴火を起こした。その際引き起こされた津波はこれから行く渡島半島の熊石から松前までの沿岸を襲い、一四六七人の犠牲者を出した。また松前藩の記録によると江差地方には火山灰が降り注ぎ、昼間でも灯りが必要なほどであった。今から十七年前の寛政三(一七九一)年まで噴火を繰り返していたが、その後は静かになった。この島の海岸にはほとんど平地がなく、山頂の江良岳から、斜面が一気に海中に滑り込むように断崖が続いている。エサシは昆布の意である。そのたワカメ採取の海女漁で季節的な居住者があるが、常には無人の島だという。
夜になると月の光で波が金色に輝き、見飽きぬようであった。平蔵は船縁でこの波を見ていて、松前で聞いた哀愁あふれる江差追分を思い出した。これより先は、昼夜を分かたず航行した。
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