『福島の歴史物語」

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2011.11.11
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   嵯峨天皇の御代であった。都に大異変がおこった。王城の
   北西の空に三尺(一メートル)もあろうという巨星が突如
   出現し、昼夜ともなく煌々と輝き、それが砕け散った。そ
   のうちの一つが丹波と播磨の国境に落ち、そこに剣と鏑矢
   を持った童子が座っていた。それを抱き上げた丹波の管領
   は都に行き、帝に奏上した。やがて星丸と名付けられた童
   子は立派に成長し、帝に田村利春の名を頂いた。

 この書き出しは、昔話に言う「むかしむかしあるところに」という常套手段と同様に考えてもよいのではあるまいか。しかしこのような書き出しにしたことは、田村麻呂の出自が関係すると思われる、

 田村麻呂の先祖は、後漢の最後の皇帝・献帝の子といわれる石秋王の子の阿知使主(あちおみ)で、応神天皇の時代に中国大陸から日本に帰化したと伝えられるがこれも伝説の域を出ない。その後坂上氏は大和高市(奈良県高取町)を本拠とし、いくつかの系統に分かれたが、後、大陸からの文化、新知識をもって渡来する人々の監督的な立場となりこれらをまとめることによりある程度の勢力に発展していったといわれている。ここに出てきた星丸、つまり田村利春は、田村麻呂の祖父の坂上犬養をモデルにしたものと思われる。犬養は聖武天皇にその武才を認められたことから、武人としての坂上氏が台頭してくる。天平宝字三(七五九)年、犬養は東大寺領政策を主導した造東大寺司の長官に任じられた。

 田村麻呂が献帝の後裔とされることについては、倭が百済の要請により派兵しながら敗れ、百済から多くの難民が渡って来たことと関係があるのかも知れない。しかも田村麻呂の娘の春子は桓武天皇の妃となり、葛井親王を産んでいることなどを考えれば、このような立派な家系からの出自をこのように星が砕けるという形にしたことが、なんとなく理解できるような気がする。つまり『やんごとなきお方』の誕生であったのである。もっともこの田村地域には、これに該当するような伝説は、残されていない。しかし奈良市東南の虚空蔵寺にある大和志料の延喜十九(九一九)年の文書には、『大同二年頃に明星が零落した地に弘法大師が伽藍を建立し』とあるという。また神亀五(728)年十月、流星が断散して一部が宮中にも落ちた事件があったから、それに関連してこのような書き出しになったのかも知れない。

      (上の巻 二段目)
 ところがあるとき、帝の逆鱗に触れた利春は、越前国の三国が
 浦に流された。配流先で枕を交わした美しい下女が懐妊、見て
 はいけないと言われた繁井が池の産屋を覗いたところ女性は大
 蛇であった。大蛇は子供を残して消えたが、その子は大蛇丸と 
 名付けられた。

      (遠藤本 二段目には)
 越前国の三国が浦、しけいが池、大蛇丸

      (鈴木本 甲初段目には)
 越前国の三国が浦、繁井が池の産屋に近づくと振動雷電、池の
 逆巻く中、産屋を覗く。

 天平勝宝九(七五七)年に反藤原仲麻呂のクーデター計画(橘奈良麻呂の変)が実行されようとした時に、クーデター派は、仲麻呂派の数名の要人・武人を飲酒に誘い、決起に邪魔が入らないようにしたが、それに誘われたなかに苅田麻呂が含まれていた。このときの苅田麻呂の行動が帝の逆鱗、という表現になったとも考えられる。また、ここに出てくる越前国の三国が浦と推定できる場所に、福井県坂井市三国町がある。

      (上の巻 三段目)
 しばらく後、都に毒蛇が出て人々を取って食うので帝は大蛇丸
 に退治するよう命じ、名を利光とされた。毒蛇を退治した後奥
 羽が乱れたので、帝は十八歳の利光に鎮守府将軍を与えた。出
 立した利光が白河の関に着いたとき、多くの大名たちが迎えに
 来て鷹巣城に入りこれを鎮圧した。

      (渡辺本 初段目には)
  駿河国乱の淵、十三頭の大蛇、三頭の大蛇・翁となり降参。

      (渡辺本 二段目には)
  三千余騎、三春田村城に入る、鬼神の住家なし。

 宝亀元(七七〇)年、道鏡追放にも功があった苅田麻呂は正四位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍に任じられて多賀城に赴任した。そして宮中武官としてエミシ征伐に二回参加し、功により正二位中納言没後正一位大納言を贈られた。

 この苅田麻呂については、大熊に乗って阿武隈川を渡り、屯田(みやけだ・郡山市田村町御代田)に行ったという伝承がある。この御代田には舘、外城、雀宮(鎮の宮)など、城館に関連する地名が残されている。なお田村町御代田の阿武隈川畔に、字御熊野という地名がある。

 また国見山という山は郡山市中田町上石にあるが、ここでは田村麻呂の父の苅田麻呂が征伐に来た話になっているので、宮城県刈田郡に近い伊達郡国見町の阿津賀志山(国見山)を指しているのかも知れない
 なお文政五(一八二二)年、新井白石の『五十四郡考』の補遺を記した白川(ママ)藩の広瀬曲の現地調査によれば、『田村郡中 三代田村(御代田)数畝之地 土俗伝称 田村麻呂降誕之所 於 今除 租税若干』(田村郡のうち三代田村の数畝の土地を、田村麻呂の誕生の地のゆえに税が免除されている)と伝えている。

  (上の巻 四段目)
 奥羽を鎮めた利光は七ッ森で御狩の触れを回すと、宮城、国府、
 名取、柴田、刈田、伊達、信夫、白河の諸大名が集まり、その
 後大酒宴が開かれた。そのとき九文屋長官の下女の悪玉を見そ
 めた利光は、酒宴が終わると、この度の礼として錦巻物を取り
 揃え、美濃上品五十疋と黄金百両を悪玉に下された。すると悪
 玉は感謝しつつも
 「綾錦はいりません。貴方様の形見を下さいませ」
 と願った。
 将軍は二本の鏑矢のうち乙矢(矢に取り付けた羽根の向きによ
 り分けられる矢の種類の一つ。筈から見て羽軸の部分が羽の右
 側にある矢。通常甲矢・ 乙矢 を一組(一手)として用い、甲
 矢を先に射る)を分けて下さると、嬉しげに頂戴して名残惜し
 そうに御前を立って九文屋さして帰っていった。二十一歳になったとき、利光は上洛した。そして上洛すると、
 日の本将軍に任ぜられた。

 なお応永元(一三九四)年、十三湊の三春秋田氏の祖と言われる安東氏は、『日之本将軍』に任ぜられている。

      (遠藤本 四段目には)
 七ッ森、三千五百余騎。勢子四万八千。九文屋水仕の悪玉、若
 菜引。

      (鈴木本 甲三段目には)
 七ッ森、諸大名武士・勢子五千余騎。

      (鈴木本 甲四段目には)
 九門屋水仕の悪玉、水菜引。

      (渡辺本 二段目には)
 三春九門屋水仕握玉、美目能きが・・・。

 ここにでてきた七ッ森という地名であるが、宮城県黒川郡大和町に、笹倉山、松倉山、撫倉山、大倉山、蜂倉山、鎌倉山、遂倉山と標高二〇〇~五〇〇メートル級の小さな山が七つ並んで美しい景観を見せている所がある。また大滝根山の麓に広がるなだらかな一帯で、滝根、大越を中心に小野、船引、三春にまで広がっていた所を七里ヶ沢と称していた。この七里ヶ沢と推定される地域の中の田村市船引町屋形、朴沢、堀越集落(旧・七郷村・七ッ森と関連する地名か?)に、お人形様という風習が残されている。身長約四メートル、刀を差し、なぎなたを持って両手を広げ、悪者の侵入を防ぐ魔除けの神である。現在はこの三ヶ所にしか見られないが、昔はもっと広い範囲で行われていたという。その身体の大きさなどから推定して、ちゃちなコソ泥に対応したものとも思えない。大悪党の大武丸に対抗した風習であったのかも知れない。
 田村麻呂の母の出身地と伝えられる所として郡山市田村町田母神がある。また田を守護する神から来た地名であるということから、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するとも説明されている。ここを七ッ森のモデルとしたものであろうか。
 ところで後に続く話から類推するに、阿口陀媛とは一夜だけの契りであったことを表しているように思える。なおここに出てくる悪玉(田村三代記)、阿口陀媛(田村地域)、飽玉(岩手県紫波町)、阿久多摩(秋田県仙北郡荒川村面日)阿久玉姫などの名は、苅田麻呂の妃・阿久和姫の名をもじった名とも推測できる。これは田村三代記において、『田村麻呂』が『田村丸』とされたのと、同義であろう。また九文屋の所在地であるが、渡辺本の二段目には、『三春九文屋の水仕(下女)・悪玉、根芹、美目能き女』とある。しかしこれに関する伝承は田村地域にはない。ただし『三春・州伝寺の本尊は丈六の阿弥陀如来座像で、阿口陀媛による信仰が篤かった』という伝承があり、これを示唆するものなのであろうか。





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最終更新日  2011.11.11 15:41:37
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