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安 積 親 王 と 葛 城 王
安 積 香 山 遠 望
福島県に安積(あさか)という郡があ
った。明治二十二(1889)年、安積郡郡山村が郡山町となり、大正十三(1924)年、小原田村を合併して郡山市となった。昭和に入ってからも周辺の村を次々と吸収、昭和四十(1965)年の大合併において全安積郡と田村郡の一部をその市域に収め、安積郡は消滅した。現在安積の地名は、旧安積郡永盛町が昭和二十九(1954)年に豊田村の一部を吸収して安積
町となり、そのまま郡山市安積町としてその名を残している。ところで安積をアサカとスムーズに読めるのは福島県出身の人たちくらいではあるまいか。安積という地名は難読地名にもなっている。人名などに使われている例も少なくないが、アツミと読まれる方が多い。
万葉集に次の歌(16/3807)が収められている。
安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き
心を
我が思はなくに
(陸奥国前采女某)
安積香山の歌は、『郡山の歴史』の中の葛城王伝説に記述されており、歌の訳が次のようになっている。
安積山の影さえ映って見えるほどの浅い山の清水、
そのように浅い心であなたを思っているのではありま
せんのに、深くお慕い申しあげていますのに・・・。
それにもかかわらずあなたは・・・。
この訳文の『あなた』については葛城王を指していると考えられるが、この歌には次の左注がある。
右の歌伝へて云はく、『葛城王、陸奥国に遣はされ
たる時に、国司の祇承の、緩怠なること異に甚だし。
ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ。
飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女
あり、風流びたる娘子なり、左手に觴を捧げ、右手に
水を持ち王の膝を撃ちて、この歌を
詠む。すなわち
王の意解け悦びて、楽飲すること終日なり』といふ。
葛城王伝説の原型は左注を忠実に引用したものと考えられ、後の世までも安積(郡山)との関連を強く意識づけることになったと考えられる。しかし考慮しなければならないのは、左注はあくまでも『右の歌伝へて云はく』、つまり伝聞であるということではあるまいか。そう考えてくると、この歌の本当の作者は誰であったのかという疑問になる。この歌の作者は『陸奥国前采女某』によるものとされているが、『某』ということは、『名を特定できない』つまり実質的には『詠み人知らず』ということになるの
ではあるまいか。するとこの歌を詠んだ人は、本当に葛城王を詠んだのかという疑問にもなってくる。なぜなら葛城王が陸奥に派遣されたという史実は、残されていない。しかも万葉集には、この歌そのもの以外、歌にも、作者名にも、そして左注にも安積という文字は勿論、それを示唆する地名は何もないのである。
近世以後、安積香山もしくは安積山が安積郡内のどこにあったかが議論の対象になってきた。比定される場所として、日和田町と片平町があったからである。これについて、天正十六(1588)年の『伊達治家記録』には、日和田の山が采女の歌に詠まれた安積山であると記されている。また元禄二(1689)年、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で安積山を訪れているが、芭蕉も随行の曾良も日和田にあると思った山ノ井清水がここから三里も離れた帷子(片平)村にあることを里人に聞いて、不思議に思ったようである。曾良は『随行日記』に、安積山の伝承地に二説あることを記録している。
・・ヒハダノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、
あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。
アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。
惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。
いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ西ノ方
三リ程間有テ、帷子ト云村ニ山ノ井清水ト云有。
古ノにや、ふしん也・・
芭蕉も見たと思われるここの
丘は、大正四年に安積山公園として整備されて歌碑が建てられ、その後には市営日和田野球場が作られている。この安積山公園のある場所は日和田町字安積山であり、隣接して字山ノ井(明治二十二年の合併以前は山ノ井村)であったことから、ここが安積山の地とする説がある。ただしここに公園や野球場を建設するため整地されているが、もともとが山と呼ばれるほどの規模ではなく、丘程度のものであったという。ここには『あさか山・・・』の碑が建っている。
もう一つは、片平町王宮にある王宮伊豆神社と采女神社(祭神葛城王)の近くにある額取山(ひたいとりやま
)が、安積山と比定されている。額取山の近くにある『山ノ井公園』には歌碑と『山の井清水』という小さな池があり、ここでも日和田町と同じ葛城王伝説が語り継がれている。ここには采女神社が祀られていることから、毎年この物語にちなんだ『郡山采女まつり』が行われるようになった。奈良市とは姉妹都市の締結をしている。なおここは逢瀬川の上流の地域であり、近所には逢瀬町がある。なお古くは青瀬(あふせ)と言われたが、逢瀬と訛ったとされる。また逢瀬とは『恋人同士が密かに逢う機会 (三省堂・大辞林)』とあるこ
とから、この伝説に関連させた美称なのかも知れない。
ところで今から約1300年前、この安積の文字を冠した皇子が生まれた。安積親王(あさかのしんのう)である。安積親王は側室との間の皇子とは言え、第四十五代・聖武天皇唯一の男児であっ
た。本来なら第四十六代の天皇になるはずであったが、藤原不比等の孫・仲麻呂に暗殺された(ような)のである。もうこれだけで一つのドラマを予感させられるのであるが、気になったのは『安積』という文字と発音であった。
国郡制が敷かれたのは大宝元(701)年の大宝律令によるものであるが、アサカを安積と表記されたのは和銅六(713)年に行われた全国的な組織変更からである。それ以前は、阿尺が使われていたとされている。それから約十年後の神亀元(724)年、陸奥の国衙・多賀城が現在の宮城県多賀城市に造られ、中央から上級役人が国司として派遣され、その下部組織としての安積郡の役所である安積郡衙が現在の郡山市清水台に置かれた。
安積親王の誕生は、この地域が安積と表記された年から十五年後、しかも多賀城の設置から、たかだか四年後のことである。それであるからこの時代、安積という地名があまねく都人(みやこび
と)に知られていたとはとても思えないにもかかわらず、この辺境の地であった安積の地名が皇子の名として付けられたのである。なぜ安積親王という名になったかは不明であるが、それでもこのように考えてくると、安積親王、安積香山、安積郡、そして『あなた(葛城王)』との間に、何か特別な関係があったのではないかと思えてならないのである。
日和田の安積山歌碑
日和田の山ノ井
片平の山ノ井
「安積親王と葛城王」あとがき 2012.12.11
資料と参考文献 2012.11.22