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2012.08.11
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カテゴリ: 安積親王と葛城王


   【塩焼王】
 祖父は天武天皇。父は天武天皇と五百重娘との長子・新田部親王であるが、祖母の五百重娘は藤原不比等の異母妹である。不破内親王の夫。

 神亀五(728)年、安積親王誕生。

 天平五(733)年三月、親王の子に対する蔭位として、無位から従四位に叙せられた。天平十二(740)年一月には従四位上に昇叙。同年十月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年十一月には 正四位下に昇叙。時期は不明であるが、この間に中務卿に任ぜられている。

 天平十四(742)年十月、女嬬四人とともに投獄されて伊豆国に配流された。いわゆる塩焼王配流事件である。真相は不明であるが、聖武天皇の皇子でありながら立太子出来ないでいた義弟・安積親王に対する同情が発端となったらしい。

 天平十六(744)年閏一月、安積親王がわずか十七歳にて薨去された。

 天平十七(745)年、塩焼王は赦免されて帰京し、翌天平十八(746)年閏九月には本位(正四位下)に復している。復帰と同時に不破内親王は親王の名を削られた。

   【藤原八束】
 藤原房前(ふささき)の第三子。母は美努王の娘・牟漏女王(むろのおおきみ)(尊卑分脉)。橘諸兄の甥にあたる。若くして才を顕し、聖武天皇には特に目をかけられ、春宮大進として官途に就いた。

 神亀五(728)年、安積親王誕生。

 天平十二(740)年、正六位上より従五位下、さらに従五位上に昇叙され、二十六歳の若さで大夫となる。

 天平十五(743)年、安積親王を自邸に招いて宴を開いた。この宴には大伴家持も出席している。

 天平十六(744)年、安積親王薨去。

 天平勝宝三(751)年十一月二十五日、橘諸兄宅の宴に聖武上皇・大伴家持らと臨席、歌を詠んだ。

  島山に 照れる橘髻華(うず)に挿し 仕へまつるは卿大夫(まへつきみ)たち
(庭園の山に輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えしているのは、大君の御前に伺候する官人たちである)                   
              (万葉集 19/4276)

 髻華は髪飾り。橘は常世から持ち来たったとの伝承をもつ目出度い木の実。この場合、『橘諸兄を主導者として仰ごう』との政治的暗喩があるとされる。藤原八束は母が諸兄の妹だったこともあり、藤原氏でありながら親諸兄派(安積派)であった。万葉集には八首あり、安積親王、橘諸兄、大伴家持、山上憶良らとの親交が窺える。古く万葉の撰者にも擬せられている。

   【僧・玄ボウ(日辺に方)】
 養老元(717)年、遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ。在唐は十八年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。

 神亀五(728)年、安積親王誕生。

 天平七(735)年、経論五千巻の一切経を携えて帰国した。

 天平九(737)年、玄ボウは僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。 聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、天平十二(740)年、藤原広嗣が玄ボウを排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。

 天平十六(744)年、安積親王薨去。

 天平十七(746)年、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年任地で没したが暗殺されたとの説もある。

    【下道真備 (後の吉備真備(きびのまきび))】
 吉備真備は日本の歴史において菅原道真と並ぶ天才と称されているが、当時の中央政権内にあっては大した身分ではなく、真備の父親である下道圀勝氏は平城京に上京して警護兵を務めていた程度であった。しかし真備は若い頃より学問の才能をもち、十五歳の頃、当時の大学とよばれる中央の学校に入学、卒業する時には既に従八位下という官位を与えられ、また大学卒業後間もなく遣唐留学生に選ばれ阿倍仲麻呂、僧の玄ボウらとともに唐へ渡航した。

 神亀五(728)年、安積親王誕生。

 天平六(734)年、多くの典籍を携えて唐より帰国した。

 天平九(737)年、橘諸兄が大納言となって政権を掌握。同時に帰国した僧玄ボウとともに重用され、 真備は右衛士督の役職を兼ねた。

 天平十二(740)年、藤原広嗣、真備 と玄ボウの排除を主張して反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。

 天平十六(744)年、安積親王薨去。

 天平十八(746)年、真備、吉備朝臣真備の姓を賜るが、天平勝宝二(750)年、筑前守、次いで肥前守へ左遷され、第十次遣唐副使として唐へ渡航(第二次)する。二度までも命がけの入唐を命じられたついては、藤原仲麻呂の陰謀説がある。

 天平勝宝五(753)年、鑑真を伴って帰国する。

 天平宝字八(764)年、藤原仲麻呂が反乱をおこし、真備らによって鎮圧された。(藤原仲麻呂の乱、恵美押勝の乱ともいう)





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最終更新日  2012.08.11 10:09:46
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