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カテゴリ: 安積親王と葛城王
          安 積 山 の 歌 1

 2008年5月23日(金)の読売新聞の一面トップで、『木簡に万葉歌』『滋賀・紫香楽宮跡で発見』と報道された。

   第四十五代・聖武天皇が造営した紫香楽宮(742~745
  年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡で、甲賀市教委が五月
  二十二日に発表したもの、今をさかのぼること千二百六十三
  年前のことである。この『安積山の歌』は、平安時代に紀貫
  之が、古今和歌集の仮名序(905年頃に成立したとされる)
  で和歌を習得する際に必ず学ぶものとして『歌の父母』と記
  していた。万葉集は、七世紀後半から八世紀後半ころにかけ
  て編纂された最古の歌集である。天皇、貴族から下級官人、
  防人など様々な身分の人間が詠んだ歌を四五〇〇首以上も集
  めたもので、成立は天平宝字三(759)年以後と見られる。
  木簡の埋まった年代は万葉集編纂以前に記された木簡とみら
  れる。

   阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎


   あさかやまかげさへみゆるやまのゐのあさきこころを
                     わがおもはなくに

 万葉集の原文はすべて漢字の一字表記である。中国大陸および朝鮮半島から輸入した漢字を日本語の音にあてて用いていたものであって、まだ「ひらがな」はなかった。それであるから万葉集に載せる以前と考えられるこの『阿佐可夜麻』の文字列から、『浅香山』か『安積山』かの確認はできない。なおこの木簡の斜文字は確認された文字で、栄原永遠男・大阪市立大大学院教授によると、天平十六(744)年末から翌年の初めに書かれたものとされる。これは安積親王薨去の年(天平十六年)に近いが、単に偶然の一致なのであろうか。

 ともあれこのニュースは、葛城王伝説を持ち、采女まつりを催す郡山で大きな反響を呼ぶことになった。しかしここに出てくる木簡の文字は、現在では使われていない形式のものである。そして万葉集には『安積山』ではなく『安積香山』と記載されている。『阿佐可夜麻』が『安積香山』になり、いつの時代から『安積山』になったのかは不明であるが、ただこの『阿佐可』に似た『阿佐鹿』の文字が、三重県津市に伝わっている。

日本武尊の伯母で、後に日本武尊に草薙の剣を与えたとされる倭姫命が、藤方片樋宮(三重県津市にある加良比乃神社とされる)に着くと、そこには阿佐鹿の悪神が阿佐加の嶺に坐していたというのである。ではこの阿佐鹿の悪神とは誰なのであろうか。成務天皇の時代に熊襲退治や日本武尊の八握脛(やつかはぎ)という悪者退治の話が出てくるが、『大和にまつろわぬ民』として熊襲や蝦夷が出てくるから、阿佐鹿の悪神とは熊襲か蝦夷を意味していたのかも知れない。

確かに三重県は福島県より都に近いから、ここの阿佐鹿つまりアサカが使われたのではないかということは、イメージとしては理解できる。しかしはたして、父である聖武天皇は『阿佐鹿の悪神』の『阿佐鹿』をわが子の名にするであろうか。その理由からも『阿佐鹿親王』ではなく、『安積親王』にした気配が濃厚になってくる。

それでも当時都から見て辺境の地と思われていたはずの安積という地名を、何故わが子につけたのかという疑問が残る。ただし日本書紀が編纂される七年前の和銅六(713)年、元明天皇が各国の国司に命じてこれの資料とした一つの『播磨国風土記』に、安積山製鉄遺跡(兵庫県宍栗市一宮町安積字丸山)があるが、これは『あづみやま』と呼ばれている。ここから考えられるのは、もともと『あづみしんのう』と呼ばれていたものが、『あさかしんのう』となったのではあるまいかという憶測である。

しかし養老四(720)年、北奥に蝦夷の大乱があった。それに対抗するために神亀元(724)年、陸奥国府が郡山(いまの仙台市太白区郡山)からさらに北方の多賀城に移され、安積は多賀城への兵站基地となった形跡がある。つまり都から見て、安積は蝦夷経営のための重要な地域であったことになる。すると蝦夷との境という重要な地域といった意味で、為政者の間では安積の名が知られていたと考えられる。

しかも安積親王はこの大乱から八年後、前述した『播磨国風土記』編纂からは十五年後に生まれているのである。その蝦夷との境界、つまり軍事的に最重要な地域から、安積という名には猛き者、強い者という情念を感じて親王の名としたのかも知れない。『あづみ』を『あさか』と変えた理由が、ここにもあるのではあるまいか。

 安積香山の歌の収められている万葉集の巻十六までは、天平十七(745)年以前の作品とされている。安積親王が亡くなったのが天平十六(744)年であるから、親王生前の作品ということになる。このこと自体が、安積香山が安積親王であったことを示唆してはいないだろうか。

 さて『陸奥国前采女某』によるとされるこの歌の原文は、『安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國(校本万葉集)』である。しかし郡山には安積香山、もしくは安積山という山は実在しない。つまり誰も見たことも、聞いたこともない山が題材とされたということはどういうことなのであろうか。この安積山の歌について、斎藤茂吉氏がその著、『万葉秀歌』で次のように述べている。

   葛城王が陸奥国(みちのくのくに)に派遣せられたとき、
  国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒っ
  て折角(せっかく)の御馳走にも手をつけない。その時、嘗
  (かつ)て采女(うねめ)をつとめたことのある女が侍して
  いて、左手に杯(さかずき)を捧げ右手に水を盛った瓶子
  (へいし)を持ち、王の膝(ひざ)をたたいて此歌を吟誦し
  たので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、とい
  う伝説ある歌である。

   葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄(たちば
  なのもろえ)が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そ
  のいずれとも不明であるが、時代からいえば(第四十代)天武天
  皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であって
  もかまわぬのである。また、「前(さき)の采女」という女も、嘗
  (かつ)て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女
  とする必要もないわけである。

   「安積 (あさか)山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡
  日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云
  われている。

   木立などが美しく写っている広く浅い山の泉の趣で、上の
  句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接
  せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、
  あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。

   そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬ
  というに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡とし
  て伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、
  遊行女婦(うかれめ)は作歌することが一つの歓待方法であ
  ったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していい
  だろうか。この一首の言伝(いいつた)えが面白いので選ん
  で置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女
  婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。

   伝説の文の、「右手持レ水、撃二之王膝一」につき、種々の疑問
  を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で
  王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。



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最終更新日  2012.10.27 09:40:39
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