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2012.09.21
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カテゴリ: 安積親王と葛城王


 前にも述べたが、葛城王の安積来訪については、神亀元(724)年、多賀城創建に際してその祝賀行事に出席、途中に寄ったとする説がある。しかし私はこの説を採りたくない。理由として、多賀城創建の祝賀行事に出席したとすれば天皇の名代であったと考えられること、そのため多くの付き人を引き連れていたであろうこと、さらに往路にしろ復路にしろ郡山に立ち寄ったとすれば、歴史上何らかの記述が残されているはず、と思えるからである。多賀城までの長い道中で、他の土地に寄ったという記録が一切なく、郡山だけなのである。この説は何とも不自然と思える。

 このようなことがあったにしても、安積山の歌自体は、長い時間をかけて、専門家によって解釈されている。しかしそれに敬意を表しながらも、あえて私見を述べてみたい。ポイントは『安積山』と『山ノ井』である。

 まず安積山であるが、『安積山は、安積親王を比喩的に表現したものではあるまいか』ということである。万葉集の編者であった葛城王か大伴家持が、安積親王を藤原氏からの目からそらすために、山という暗号を使って『安積山の歌』を詠み、作者を『陸奥国前采女某』、つまり実質的『詠み人知らず』として載せたとも考えられる。それでも万葉集に載せる時点で安積香山にしたのは、安積香山が安積親王ではないという言い逃れの余地を残そうとしたのではあるまいか

 それでは『山ノ井』とは何を表したものであろうか。大辞林によると、『井は井戸、掘井戸。泉の地下水をためた水汲み場』とあり、井戸は、『地面を深く掘り、あるいは管を地中に打ち込んで地下水を地上に汲みあげるようにしたもの(三省堂・大辞林)』とある。また郡山の葛城王伝説では『清水』、奈良新発見伝では『井戸』となっている。するとこの井戸、また場合によっては『水汲み場』のような小さな池、しかも山にある。それに『安積山』という大きな山容が写るものであろうかという疑問になる。つまり覗き込めば顔くらいの大きさなら写るであろうが、山まで写し出すのには小さすぎるし、水位も低いのではないかということである。大和物語では、娘が『山ノ井』に自分の顔を写している。そのことから、『山ノ井』とは歌の内容から言って、文字通り『山にある井戸』という一般名詞であると思いたい。もしこれらの推測を許して頂けるなら、この歌の意は次のようになると思われる。

『安積親王のお顔を写す山ノ井戸は、あまり深くはありません。しかし私(安積派・たとえば葛城王)の(安積)親王への思いはとても深いのです』

 こう考えられるもう一つの理由は、前にも述べたように日和田町の安積山は丘程度のものであったことと山ノ井の前に掲載した写真のように小さなものであったこと、そして片平町の安積山は額取山と比定されているがここの山ノ井は丘に囲まれていて直接額取山を目視できない位置にあること、にある。

 ところでこの『安積山』の歌は、『難波津』の歌とともに『古今和歌集』の『仮名序(かなじょ)』の中で『歌の父母』とされている。ところが安積山の歌が万葉集に載っているにもかかわらず、難波津の歌は、古事記、日本書紀、万葉集のいずれにもなく、文献上は平仮名で記された古今和歌集の前書きである仮名序にしか載っていないという。『古今和歌集仮名序』は、『古今和歌集』の序文で、仮名で書かれていることから『仮名序』と呼ばれている。執筆者は紀貫之である。しかし平安時代になると、難波津の歌『難波津に 咲くや この花 冬ごもり 今は 春べと 咲くや この花』と言えば『誰でも知っている歌』の代名詞とされ、それだけによく知られた歌であったという。その仮名序は次の通りである。

   なにはづのうたは
   みかどのおほむはじめなり
   あさか山のことばは
   うねめのたはぶれよりよみて
   このふたうたは、
   うたのちちははのやうにてぞ
   手ならふ人の
   はじめにもしける

   (難波津の歌は
   帝(第十六代・仁徳天皇)の御初(おほむはじ)めなり
   安積山の言葉は
   采女の戯(たはぶ)れより詠みて
   この二歌(ふたうた)は
   歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ
   手習(てなら)ふ人の初めにもしける)

 仮名序のこの部分は、あえて説明を加えなくとも、その意味が理解できると思われるが、ここに二点、不思議なことが書いてあるように思える。第一点は『なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり』であり、第二点は『あさか山のことばは うねめのたはぶれよりよみて』である。

 第一点の難波津は『歌』と書かれ天皇を称(たた)えているのに対して、第二点のあさか山は『言葉』と書かれていて『歌』ではない。しかも紫香楽宮跡で出土した木簡の後半が『安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓』(あさき心を・七文字、わがおもはなくに・八文字)つまり三十二文字の一文字余りで歌の原則に合っていない。通常、『わが思(も)はなくに』とされているが、木簡から考えられるのは『わが思(おも)はなくに』と読むのが正しいのではないかということである。さらに詠み人は陸奥国前采女某、つまり作者を特定できない人の『戯れ歌』とされていることである。確かに『難波津の歌』は天皇の弥栄を祈るという内容から言っても、『歌の父母』の一つとされたのは理解できる。




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最終更新日  2012.09.21 06:22:14
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